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2007年6月 1日 (金曜日)

pork,pig,hog

このところさしてツッコミ甲斐のないネタが続いた白倉Pのブログだが、久々に面白いエントリーがアップされた。「面白い」というのはつまり、久しぶりに「ヒーローと正義」方式のツッコミどころ満載の強弁が視られるからである。

まあ流石にヒーローと正義の頃よりはトンデモ度は低いが(笑)、論理構造が如何にも白倉Pらしいのが、今やすでに懐かしい感覚すら覚える。さして長いエントリーでもないので以下の話は原文を一読してから読んで戴きたい。

まず、「孫引き」と断っている以上これを指摘するのも無粋ではあるのだが、

「豚肉に、生薑(しょうが)・蕎麦(そば)・胡萎(こすい)・炒豆(いりまめ)・梅・牛肉・鹿肉・すっぽん・鶴・鶉(うずら)がいけない」(松田道雄訳——孫引き)

ここで「豚肉」とあるのは原文を調べると「猪肉」である。「猪」の字解が漢字圏ではブタという意味であるというのは、今年の干支が亥ということで正月に少し話題になったし、貝原益軒も「猪」という字をブタという意味で遣っているようだが、本邦においてはブタの原種のイノシシも「猪」であり、ブタと同様にイノシシだって「山鯨」と称して喰われていた。

ここで貝原益軒が本当に「猪」という字をブタという意味で遣っているのか、また本当にブタとイノシシを区別して喰い合わせを論じているのか、つまりこの喰い合わせの禁忌はブタ肉の場合に限るのであってイノシシ肉の場合はそうではないのかは、浅学にして識らない。

とりあえずそれはそれとして措いておいて、次に気になるのは生薑や蕎麦に次いで挙げられている「胡萎」である。これは何かというと、要するに中華料理で謂うシャンツァイ、タイ料理で謂うパクチー、西洋料理で謂うコリアンダーのことで、和名はコエンドロでありこれはポルトガル語のコエントロの転訛であるそうな。

つまり、ここで言われているのは「豚肉とコリアンダーを一緒に喰うな」という禁忌である。そうすると、豚肉が江戸時代に喰われていたのか何うかを問うのであれば、江戸時代にコリアンダーが喰われていたのかという疑問も覚えなければならない。

そこでコリアンダーを調べてみると、「胡萎」の名が史料に初めて表れるのは一〇世紀の「延喜式」ということで中国から本邦にもたらされたらしいが、日本では栽培が一般化しなかったということである。現在の日本人もシャンツァイやパクチーが苦手な人は多いが、シャンツァイやパクチーは葉や茎、つまりコリアンダーリーフを生食する場合の香味野菜としての名称で、普通一般にコリアンダーと謂われているのはインド料理や西洋料理で使う乾燥スパイスのコリアンダーシード、つまり種もしくは果実のことで、独特の爽やかな柑橘臭がある。

今現在の和名が何故ポルトガル語起源なのかと言えば、大陸からもたらされた葉や茎を生食する習慣が根付かなかった、つまりそのような用途で用いる食物としての名前がなかった為に、西洋料理の伝来と共に再輸入されたからではないかと思うのだが、では貝原益軒が「胡萎」と表現しているのは、食物として考えるならシャンツァイ的な生食のイメージということなのだろうか。

一方、中華料理でシャンツァイが好まれている以上、コリアンダーシードも無駄に棄てられていたわけではなく、要するに漢方薬の一種である。健胃駆風効果があるとされ漢方薬に用いられているわけで、本草学者であった貝原益軒は寧ろ生薬の一種として胡萎の存在を認識していたと視るのが自然ではないかと思う。

元々胡萎は「葉や茎は生食に用いられ果実は生薬として用いられる植物」として大陸からもたらされたものだろうが、一〇世紀以降に胡萎が栽培され続けていたとしたら生薬用途のみだろう。だから、貝原益軒が一種の漢方処方の禁忌として豚肉と胡萎の取り合わせを禁じているのであれば話はわかるのだが、「喰い合わせ」の問題として豚肉と胡萎を挙げているのがかなり不思議なのである。

この場合、コリアンダーシードをスパイスとしたカレーやシチューのような豚肉料理かシャンツァイと豚肉を炒め合わせたような料理が想定されるわけで、印欧料理か中華料理でもない限り、和食の味附けで食用にコリアンダーを用いるとは思えない。だから、貝原益軒が本気でこのような「喰い合わせ」を戒めたのであれば、それはインド料理か西洋料理か中華料理かタイ料理のレシピなのであって、日本料理ではまず在り得ない。

貝原益軒が生きた江戸時代中葉にはすでに食習慣が廃れていたと思われる胡萎と、奈良時代以降食用飼育が廃れていた豚肉の取り合わせが指摘されている時点で、かなり不自然な印象を覚えるわけだが、これも今はこれとして措いておく。

白倉Pはこれらの前提に基づいて「本当にそうであれば、1713年成立の『養生訓』で豚肉が筆頭にあげられるはずがない」と陳べ、「奈良時代に仏教が国教化したことによって、豚の飼育も途絶えてしまった」というウィキの記述を疑い、以下のような驚くべき仮説を展開する。

そもそも「ブタ」という和名があるほど、ブタは古来日本でもメジャーな食用家畜だった(食用家畜として飼育される以外にブタが棲息しつづけるとは考えにくい)。江戸中期に至っても、ブタは引きつづきメジャーな家畜として飼われつづけ、食用に供されていたと考えるのが自然だろう。

本当にそのように考えるのが「自然」なのか、というのは誰でも感じる疑問だろう。

たしかに、その当時でもブタが喰われていたからこそ喰い合わせの事例として挙げられているのだという考え方はそれほどおかしくはないが、カタログの筆頭に挙げられているから一般的な食物だったという論理がすでにおかしい。

だとすれば、何う考えても獣肉より絶対消費量が多かったはずの魚肉に関する喰い合わせの例示が獣肉の場合よりも多くなければならないし、豚肉などより真っ先に挙げられるべき筈だが、原文を視ると獣肉に関する言及が圧倒的に多く、魚肉の場合の記述と比べて奇妙に詳細である。

これを「自然に」解釈するなら、何うやら貝原益軒という人は、人間は獣肉など喰わなくても生きられるんだから、わざわざ薬喰いなどせんでも好い、と考えていたということではないかと思う。

ここでもっと踏み込んで言うならば、豚肉が喰い合わせの例示の筆頭に挙げられているのは、貝原益軒にとって豚肉は最も喰い合わせに用心を要する不健康な喰い物だったということではないかとも思う。喰い方によっては死ぬとまで脅かしているのだから、剰り健康的な喰い物として視ていないことはたしかである。

また一方、貝原益軒は同段の別の個所でこのようにも陳べている。

中華、朝鮮の人は、脾胃つよし。飯多く食し、六蓄の肉を多く食つても害なし。日本の人は是にことなり、多く穀肉を食すれば、やぶられやすし。是日本人の異国の人より体気(たいき)よはき故也。

平たく言えば、大陸や半島の人は消化器や内臓が頑強だから、たらふく飯を喰ってガンガン肉を喰っても平気だが、日本人は虚弱だから外国人の真似をしても身体を損なうだけだと言っているわけである。これはつまり、中国人のように大量に豚肉を喰ったり朝鮮人のように大量に牛肉を喰うのは日本人の体質に合わないという主張で、薬喰いの強壮効果を否定して、何事もほどほどに節制するのが一番だと言っているわけである。

後述するように、日本人の食肉習慣というのは一種の「外国かぶれ」と共に流行する弊があり、貝原益軒はそのような浅薄な舶来主義的食思想に釘を刺したわけである。これも後述するが、貝原益軒は博多在の九州文化圏の知識人ということで、西欧や中華の文化と距離が近かったわけである。

喰い合わせの禁忌と称して豚肉を挙げるのは、このような貝原益軒個人の置かれた文化的状況と切り離しては考えられないのではないかと思う。

さらに、ブタが「メジャーな家畜として飼われつづけ、食用に供されていた」と考える以上は養豚業が農業の分野でメジャーな産業だったという想定になるわけだが、それほどの規模で一般化していた産業なら何某かの史料が残っているのが「自然」だろうし、農政について触れた文書でなくても「何某村の豚飼いの何某が然々」というような形で頻繁に言及されるはずで、近代に至ってそのような一般的習俗を「なかったこと」に出来るというのはかなり不自然な想定である。

そうは言っても、そのような不自然な想定が後年の検証によって確認された例も多々あるわけだから、常識を疑ってみるのも無駄ではないだろう。しかし、この問題は白倉Pが斥けているウィキの記述の後段を視れば、かなり「自然」な解釈が可能なのである。

琉球王国の琉球人は弥生時代から中国同様ブタ(1385年に渡来したという黒豚のアーグ(アグーとも。島豚、シマウヮー)が有名)を日常的に飼育してハレの日に食べていた。このため沖縄県では豚肉料理が発達している。また、薩摩地方でも豚を飼って食べており、佐藤信淵著『経済要録』(1827年)には薩摩藩江戸邸で豚を飼って豚肉を売っていたと記録されている。

日本の文化圏の中では琉球王国のみ豚食の習慣が持続していたというのは現在常識的な歴史認識であるが、それは琉球王国が一大豚食文化圏の中国と朝貢関係にあったからである。さらに薩摩藩はその琉球王国からさまざまな収奪を恣にしており、中国→琉球→薩摩という影響関係で養豚の習慣が例外的に保持されたというわけである。

翻って貝原益軒の履歴を調べると、この人は現在の福岡辺りの住人だということで、同じ江戸時代といっても九州文化圏の人であるから、彼の属する文化圏で豚を喰うことが一般的だったとしても、それが日本中で一般的な食習慣であったと断定する根拠にはならないだろうし、白倉Pの脳裏に浮かんだ日本養豚文化の壮大な幻想は幻想という儘に過ぎないだろう(笑)。

それは要するに、江戸の街における豚食というものは、如何に広壮な敷地があったとはいえ一藩の江戸屋敷で飼育可能な程度の絶対量で、一種の「薩摩名物」の珍物として認識されていたということである。この場合「売っていた」というのが味噌で、要するに大名の内証を潤すコマい内職だったわけである。

この程度の供給量で、日本でも豚食が一般的だったと主張するのは、幾ら何でも強弁が過ぎるだろう。

そもそも奈良時代までは日本でも養豚の習慣はあったわけだが、厳密に言うと今現在イメージするような養豚というのとはちょっと違う。冒頭でも少し触れたが、今年の正月頃によく言われた説としては「『猪』という漢字が渡来したときには日本にはブタがいなかったので、その原種であるイノシシを指すようになった」ということなのだが、少なくとも奈良時代まではブタもしくはイノシシを飼う習慣自体はあったのである。

さらに、「古事記」にも豚飼いという意味で猪飼や猪養という言葉が出ているし、貝原益軒も「猪肉」という言葉を遣っているのだから、猪という字が家畜化されたイノシシを指すことが識られていなかったとは思えない。養生訓ではイノシシとブタを何う区別して表記しているのかと言えば、流石に漢籍が拠り所の学者だけあって、本場中国と同様に「猪」と「野猪」と区別している。

で、そもそもブタとイノシシは何う違うのかと言えば、家畜一般の常で生物学的には原種と家畜は同一種であるからややこしい。イエネコの歴史を視た場合と違って単純な話にはならないわけである。無理矢理定義するならば、家畜化されたイノシシがブタということでしかないわけだが、ヨーロッパ中世頃のブタというのは殆どイノシシと変わらない毛むくじゃらで獰猛な代物だったらしい。

イノシシという生物はユーラシア大陸全域に棲息していて、ブタというのは世界各地で個別に家畜化された生き物である。だとすれば、熱心に品種改良した地域では現在のブタに非常に近い生き物になっただろうし、そうでもなければイノシシとそれほど違う生き物ではなかっただろう。東洋の小国である日本で細々と伝統的にイノシシの飼育が行われていたとすれば、原種と家畜がそれほど隔たっていたとは思えない。

つまり、日本に「猪」という漢字が入ってきた頃には、無理矢理イノシシとブタを存在論的に区別する必要がなかったということではないだろうか。中国のほうではすでにかなり洗練された品種改良が行われていただろうから、猪と野猪は存在論的にかなり隔たりのある生物だったのかもしれないが、日本では柵で囲い込まれて肥育されているか何うかの違いしかなかったのではないだろうか。

だとすれば、干支の亥を「ブタ」の意であると言われて日本人が驚くのは、元々の漢字の原義が家畜と原種のどちらにウェイトがかかっていたのか区別する必要もない儘に歴史を積み重ねてきた故のギャップということになる。

柵で囲われて世話されていた生き物を最早飼育しなくなったからこそ、「猪」と同定される生物は山にしかいないことになり、山にいる野生のブタであるイノシシが猪であるということになったのではないのか。そこへ外国で品種改良を受け原種からかなり形態趨異のある所謂「ブタ」が輸入され、あえて存在論的に区別する必要が生じてきた。

おそらく、「猪」の語義が取り違えられたのだとすれば、そのようなタイミングだったのだろうし、養豚が一度杜絶しなければ、ブタとイノシシを混同するというような誤解は発生しなかったのではないだろうか。

それが証拠に、日本でブタを指す「豚」という字は「小ブタ」もしくは「生け贄」の意味の漢字であり、ブタという階層の一段下の階層の言葉である。「豕(いのこ)」という象形に基づく部首がブタという生物を意味するわけだが、「月(にくづき)」が附くことで神に献上する豚(多くは小ブタ)の肉という意味になったらしい。

一方「猪」というのは「犬」と「煮」の会意らしく、喰い物として代表的な動物というような意味である。だとすれば、「猪」に野生動物であるイノシシを指す意味など元々ないわけで「われわれが日常的に喰っている生き物の原種もしくは野生の状態がこれだよ」というほどの意味で猪に野を冠してイノシシを野猪と呼ぶわけである。

日本の場合は、「猪」と同種の生き物はイノシシしかいなかったから猪がイノシシの意となり、猪がイノシシである以上、本来猪と呼ばれて然るべき生き物であるブタにはサブカテゴリーである豚という字を充てる必要が出て来たのだろう。

「豚」という用字や「ぶた」という言葉の発生が、歴史的にいつ頃であるのかはわからなかったが、「太い」の「フト」と鳴き声の「ブー」が合わさり「ブタ」になったという説も目にしたが、「ぶうぶう啼くからぶぅた」というのなら近世の地口の感覚と言えるだろうし、少なくとも「豚」の字の使用は江戸時代以降のことではないかと思う。

また、検索の過程で出て来た「日本における食肉の歴史」というページを視ると、基本的に日本の食肉習慣には「異国文化との交流期に流行する」「使役動物・害獣の死体や狩猟の獲物(ジビエ)がメイン」という特徴がある。つまり、奈良時代以降に養豚という食肉用の家畜飼育の習慣が廃れたという定説を覆す根拠は何処にもない。

稗や粟などの雑穀や畦の害虫を喰って、持続的に無精卵という有り難い蛋白源を産み続ける軍鶏や家鴨等の家禽の類を除いて、大動物を食用に飼育する習慣は日本にはなかった、例外的に黙許されていた害獣駆除の副産物や山間部における狩猟によって食用肉はもたらされていたということである。

さらに「キリシタンの日本に入りし頃は京衆牛肉をワカと号してもてはやせリ」というのは、ワカという語がポルトガル語である以上、つまりそれは一種の異国趣味であり、日常的な食習慣というよりブルジョワ層の贅沢食であり、富貴で気障な通人ぶりだったということである。牛ほどの駆動力を持つ使役動物を殺して喰うのだから、老病死したもの以外は大名への献上品とされるほどの贅沢品であったことは想像に難くない。

たとえば京極夏彦の「巷説百物語」には「塩の長司」という説話に想を籍りたものがあるが、これは馬飼いが馬を殺して死体を喰うことを戒めた話で、馬も牛も喰ってしまえばその場で美味いと感じるだけだが、活かして養えば人力では及ばないような働きを為すわけで、日本の経済動物観においては基本的に「喰ってオシマイ」というのは罰当たりな贅沢食だったわけである。

このサイトの書きぶりとは逆に、昔の日本人だって獣の肉が魚肉に負けないほど美味いことを十分に識っていたし、美味いと識っているものをこっそり喰うのは何処の文化圏でも口の賤しい本音の人情だという極当たり前の話を陳べているにすぎない。

また同サイトには、

岡山市教育委員が行った岡山城の発掘調査によると、二の丸から出土したほ乳類には、イノシシ、ブタ、ウシ、ノウサギ、タヌキ、イヌ、オオカミ、アナクマなどで、人の食用になった可能性が高い。

という記述もあるのだが、これなども岡山辺りまではブタという食用飼育前提でなければ存在しない生き物が流通していたということを示しているわけだが、それと同列にオオカミやタヌキやアナグマなど、現在普通一般に食用とは見做されていない野生動物も喰われていたということである。苟も大藩の大名ともあろうが、戦国時代の兵糧備蓄でもあるまいに、これらの野生動物を食用目的で城内で飼育していたと考えるのはかなり無理がある。

ブタを除くこれらの野生動物は、普通に考えて害獣として駆除されたものか軍事訓練の一環として狩猟されたものか山の民の交易品であり、ブタのほうは西国から買ったものか西国関係の贈答品だと考えるのが自然だろう。

つまり日本文化には仏教伝来以降根強い殺生戒と肉食の禁忌が存在したが、地上の楽園ではない以上、他方で動物を殺すという行為も他種多様な理由から存続し続けた。肉食の禁忌が殺生戒に基づくものである以上、そして已むなく殺した動物の死体という蛋白源が目の前にある以上、さらにそれが美味いと識っている以上、獣肉を喰うという習慣もまた連綿と存続し続けたのは当たり前である。

ここで白倉Pのエントリーに話題を戻すと、この話で重要なのは「ブタ」の存在なのである。イノシシを喰う、ウサギを喰う、タヌキを喰う、それは日本における食習慣史を考えるうえでさして重要ではないのである。誰だって江戸時代のももんじぃ屋の存在など識っているのだし、そこで庶民が薬喰いを楽しんだことくらい識っている。禁忌があれば一方で侵犯もあるし抜け道もある。何もおかしなことではない。

昔話にだって「タヌキ汁」などというものが登場するのだし、何らかの目的で殺した動物の死体を喰う習慣が日本にもあったことは、薄々誰でも識っているのである。

しかし、イノシシとは別の「ブタ」という食用家畜は人間の飼育環境においてしか存在し得ないのだし、ブタを養う以上何れそれを殺して喰うというプロセスが前提視されているということになるのである。野生原種のイノシシなら食害や治安上の理由で駆除されることもあるから、結果的に生じた副産物をこっそり喰っていた、というストーリーになるが、白倉Pも言う通りブタを飼うのは殺して喰う為という以外では在り得ない。

つまり、江戸時代にも豚食が一般的に存在した以上、当時も肉食は実質的に禁忌視されていたわけではないという話になる。白倉Pの壮大な日本養豚文化幻想は、それが存在しないと話が始まらないからそういう話になっているのである。

さらに結末部分で白倉Pは、

実際にウサギがどれほど食べられていたかどうかは別として、(食タブーにもかかわらず)獣肉を日常的に食べている一般庶民が、“そうでないはずの敬虔な仏教徒さえ、ウサギを鳥と偽って食っている”という諧謔を覚えなければ、その通説は通説たりえないと思われる。

仮に日本において、(食タブーを意識しつつも)肉食がずっと普通に行なわれていたとする。
それがなぜ「明治以来」と修正された形で、私たちに伝えられているのか?

と疑問を呈するのだが、この部分を読むと恰も近代史上に肉食の習俗を隠蔽するような歴史改竄が行われたかのように思わされるが、白倉Pが「『明治以来』と修正された」と表現するのは「肉食」一般ではなく養豚に限局した話の筈であるから、ここは明らかに論旨がすり替わっている。

ウサギだのタヌキだのイノシシだのといった山の民や百姓が殺したジビエを、一般庶民や武家階級が割と普通に喰っていたという事実は隠蔽されてなどいないし、少し日本史を囓っていれば誰でも識っていることである。そして西国の雄藩では中華文明の間接的な影響下に例外的事例として養豚の習慣があったということも、彼自身がリンクした先の文中で明快に言及されている。

その一方、日本でも養豚業が明治以前から博く一般的に行われていたなどという珍説を真に受ける歴史通は何処にもいないし、白倉Pのこのエントリーの何処にもそれに疑問を抱かせるだけの根拠は示されていない。

机上のロジックの上でもそのような根拠がないのだから、無視出来ない明確な史料でもない限り、そんな一大奇説を前提に話を展開されてもすべて嘘になる。

この仮説は、早い話が「作り話」なのである。

それが本当にそうであるか何うかということに筆者の興味はなく、自分の言い分に便利な前提だからそういうストーリーを採用しているというだけなのである。普通に言えばこういう手法は意図的な詭弁と視られても仕方ないだろう。

白倉Pが企画畑の人材である以上、日常的に慣れ親しんだロジックがこのように合目的的なコジツケ臭いものであるのも仕方ないかもしれないし、この人の理屈が毎度こんな調子であることを識っている人間なら、それを芸として楽しめるのかもしれないが、オレ個人としてはこういう牽強付会を視る度に「この人って、世界がどんなものであるのか本当のことを識りたいとは思わないのかしら」と窮めて微妙な気分になってしまう。

何度も繰り返していることではあるが、オレは個人的に自分の言い分を通す為だけのその場限りのロジックというのは嫌いなのである。まして真面目ぶった食文化を論じるエントリーで、その出発点がコジツケの作り話というのでは、随分読者を莫迦にした話だろうと思えてならない。

ぶっちゃけて言えば、白倉Pが挙げている養生訓の喰い合わせの禁忌自体、貝原益軒が身を以て確かめた経験則というより本草学者のペダントリーかもしれないし、そうでなければ、何処かで中華料理の「豚肉のシャンツァイ炒め」を喰ってみたら覿面に具合が悪くなったという話をしているに過ぎないだろう。

実際、この喰い合わせリストで、一部の人間が間違いなく具合悪くなりそうなのはこの組み合わせで、オレの識り合いにはシャンツァイのアレルギーでうっかり喰うと例外なく中毒する人がいるくらいだから、おそらく貝原先生は何処かで中華料理を振る舞われた機会があってそのときアルカロイドに中たったのだろうし、本草学者だから一般庶民が喰うか何うかとは別に網羅的に記述したまでだろう。

そういう想像も出来るくらいなのだから、豚肉が真っ先に挙げられているからと言って白倉Pの主張するような意味はないだろうし、そう考えねばならないという根拠には成り得ない。

断っておくが、本エントリーで陳べた知見は、オレが白倉Pのエントリーを読んでからちょこちょこっと調べただけで出て来たもので、要するにちょっと調べりゃわかることなのである。一私人として気随気儘に書き綴っているブログについて剰り堅苦しいコトを言われるのもイヤだろうが、歴史や文化を論じる以上は調べりゃわかることくらい調べろよと思うのも当たり前ではないかと思う。

それが自身の言う「知的に誠実」というコトなんではないですかと思うから、この手の話を視る度にツッコミを入れたくなるのである(笑)。

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