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2007年7月12日 (木曜日)

Decline and Fall

滑り込みというか完全に出し遅れの証文で前季のドラマを浚ったが、春来たりなば夏がすぐ来ちゃったりする、夏と言えば連ドラの世界では冬…ということで、連ドラの世界は実は南半球にあるのだなぁ。

前季の総括でも悲観的な意見を陳べたが、何うも今年は連続ドラマ不作の年である。内容面の問題もさりながら、全般的に低い水準で視聴率が推移していて、しかもそれが固定的な傾向となっている。

試みに今年一月季からの各局の代表的な連ドラ枠の流れを挙げてみよう。

●日テレ
ハケンの品格→バンビ〜ノ!→
ホタルノヒカリ
演歌の女王→喰いタン2→
受験の神様
(新)セクシーボイスアンドロボ→
探偵学園Q
※土曜深夜「黄金の舌」一時間枠に三〇分ドラマ

●TBS
渡る世間は鬼ばかり→夫婦道→
地獄の沙汰もヨメ次第
きらきら研修医→孤独の賭け〜愛しき人よ〜→
肩ごしの恋人
花より男子2→特急田中3号→
山田太郎ものがたり
華麗なる一族→冗談じゃない!→
パパとムスメの7日間

●CX
東京タワー→プロポーズ大作戦→
ファーストキス
今週、妻が浮気します→花嫁とパパ→
花ざかりの君たちへ
ヒミツの花園→鬼嫁日記 いい湯だな→
牛に願いを
拝啓、父上様→わたしたちの教科書→
山おんな壁おんな
(新)ライアーゲーム→
ライフ

●テレ朝
わるいやつら→生徒諸君!→
女帝
エラいところに嫁いでしまった!→ホテリアー→
菊次郎とさき
特命係長・只野仁→帰ってきた時効警察→
スシ王子

●テレ東
しにがみのバラッド。→のぞき屋→(バラエティ枠?)
Xenos→エリートヤンキー三郎→
BOYSエステ
※但し、四月季より臨時で月・火夕方にドラマ枠

勿論TBSとテレ朝については時代劇や刑事ドラマ、長寿シリーズ枠などがもう少しあるが、この際割愛する。また、連続ドラマに限るので二時間単発ドラマ枠も無視した。NHKについても、民放とは視聴率に対する考え方や体質が違うので…つか、基本的にオレが観てないということもあるので、今回はオミットすることにする。

まず、日テレとCXで四月季から一枠増えているのが目を惹くが、ライアーゲームの中ヒットとセクシーボイスの低迷で明暗が分かれる結果となった。曜日が違うとは言え、前者がノンプライムで後者がプライムタイムと一時間強の時間帯差があるにも関わらず平均視聴率では前者の一一%台に比べて後者は七%台という惨敗に終わった。

ノンプライムということではテレ朝の時効警察も相変わらず好調で、平均視聴率では第一シリーズを超える一二%台を記録して、前季ドベの金九生徒諸君の倍近い好成績を挙げている。まあこの喩えでは、時効警察が強かったのか生徒諸君が弱すぎたのかがイマイチわかりにくいが(笑)。

ドラマの視聴率は全般に下落傾向で、平均二〇%を超えたのは花男、華麗、ハケンの三本で少ないとは言えないだろうが、これは一月季に集中していて、四月季は二〇%どころかトップのプロ大が一七%台というしょっぱい結果に終わった。その三本で考えてみても、TBSの二本はフロックと総力体制の賜物で、純粋に企画や内容で数字が穫れたのは実質ハケンの一本だけだろう。

本来一月季より数字が穫れてもおかしくない四月季にこの低迷ぶりというのは、かなり悲観的な傾向と言えるだろう。二〇年くらいの長期スパンで視てみれば、数年おきに連ドラ全般で大外しするハズレ年が来るのはマクロな傾向ではあるのだが、ここ数年のスパンで視ると、ドラマに限らず全ジャンルの番組で少しずつ視聴率のレベルが下がってきているようで、国民全体のTV(地上波ということだが)離れがかなり進んでいるのではないかと思う。

これにはさまざまな原因が複雑に絡み合っていて、剰り大雑把なことも言えないだろうが、庶民の娯楽生活におけるTV視聴の重要性が薄れてきたこと、BSやCS、ワンセグなどの選択肢が増えたことに加え、地デジが歓迎されない儘にアナログ放送がそろそろ終了を迎えるということで、TV放送自体に対する無関心が無視出来ない割合で醸成されてきているのではないかと思う。

殊に地デジに関しては、貧困世帯の増加や地域格差の拡大という大きな流れの中で大掛かりな初期投資を必要とする需要喚起の強要が庶民の反感を買うことも考えられ、TV受像器の普及率は微減すると視る向きもある。最早東京オリンピックや皇太子のご成婚がカラーTV受像器の普及を促したときのような上り調子の世の中ではない。

生きて行くだけで手一杯、この先苦しくなることはあっても楽になることはないという悲観的なムードの時代に、TVを観るだけの為に二桁台の投資を強いられるのは割に合わないというのが素直な感想だろう。

また、視聴者の視聴形態が多様化している現状で、ビデオリサーチ社的な視聴率という尺度の信用性自体を考え直すべき時期に来ているということもあるだろう。まったく無効な尺度であるとは言えないが、今現在の国民とTV受像器の関わり方の全体をカバーしてディスクライブする指標とは成り得ていないし、潜在的な意味ではTV局のビジネスにとってアクチュアルな必要性を具える情報の多くを取り零しているはずである。

言い方を変えれば、昔は全体だったものが今は部分にしか過ぎないということで、その全体も縮小傾向にある。簡単に言えば、この先視聴率のベースはどんどん下がり続けるということである。まあ、元々TV局の広告費の算定基準にすぎない指標なのだから、視聴者が過剰に気にすることでもない。単に、視聴率の全体ベースが低い場合には過剰に番組の出来と関連附けて解釈出来ない場合があるというだけの話である。

そんなところで前置きを切り上げて、今季の新番組の話題に移るが、夏場だから仕方がないとは言え、かなり何うでも好い企画が多いというのが全体的な印象である。前掲の一覧で言っても、オレの視聴計画に入っているのは以下の通りこの半分くらいで後は様子見の予定すらない。

ホタルノヒカリ
受験の神様
山田太郎ものがたり
パパとムスメの7日間
ファーストキス
花ざかりの君たちへ
牛に願いを
山おんな壁おんな
ライフ
スシ王子

CXは一応全番組をチェックするが、日テレは劣化した神木隆之介や志田未来を観るほど余裕がないので、残念ながら火一〇枠を切った。TBSはまあキャストが悪くないので枠単位で継続移行、テレ朝は木曜ドラマもABC金九も企画キャスト共に魅力を感じないので時効の流れでスシ王子を摘む程度だが、これも堤演出だから脱落必至だろう。

このエントリーの作成時点では日テレの二番組がまだ放映を開始していないが、どちらかと言えば他局の開始が早かったという印象である。七月初旬で大半の新番組がスタートというのも少し早いような気がするしCXなど前季一二話あった月九と木一〇の枠が間を空けずに放映を開始している。

まあ日テレの二番組に関しては完全に惰性視聴なので、放映が始まって面白ければ触れるという程度にして、TBSの二番組のほうから話を進めると、何と言っても「パパとムスメの7日間」のガキーが可愛いということに尽きる(笑)。


●パパとムスメの7日間

前季の「冗談じゃない!」ではキャスティングの方向性を微妙に外した為に穫れて然るべき数字が穫れなかった日曜劇場だが、今季は新垣結衣に館ひろしを持ってきただけでも上出来である。企画そのものはこの上なくありふれているのでキャスティングがキモになる番組だが、可愛い女子高生と入れ替わるウザい父親役に館ひろしというのは悪くないセンスだと思う。

設定年齢四七歳で娘から嫌われているウザい父親ということなら、他に好適な役者はたくさんいるだろうが、あんまりリアルにキモい中年男ではちょっと生々しすぎるということがある。そもそも入れ替わり物というのは、まず以て現実には在り得ない飛びきりの絵空事で、SFですらない完全なファンタジーなのだから、その虚構度の範疇で映像のイメージを決定する必要がある。

まずこの種の男女入れ替わり物というのは、シモの都合はあんまりリアルに考えてはいけないという約束事がある。この場合は七日間の入れ替わりだから本腰を入れた生活実態を考えなくてもいいだろうが、トイレや入浴に限って言っても、目を瞑ってさえいればヲトメのジュンケツが守られるかというとそんなわけがないのは大人なら誰でもわかるだろう。

リアルに考証すればいろいろとエロい妄想のフキダシがモヤモヤと頭上に立ち上ってくるのはわかりきっているのだから、日曜日の宵の口から放映して好いコンテンツではなくなってしまう。

それ故に、敢えて深夜ドラマや劇場映画でそっちの生臭いリアリティを狙うのでもない限り、そういう具体的な生活実態を連想させない生活感のない俳優でないと、加齢臭漂う中年男と女子高生の入れ替わりなどという元々生臭い設定の話をジェントルなファンタジーの虚構度で語ることは出来ない。

その意味で、娘役のガキーは一頃はスレたギャル役が多かったが、マイボスのヒット以来一種今時珍しい清潔なアイドルイメージで売っているわけだし、父親役の館ひろしは実年齢としては設定年齢よりも一〇歳も上だが、別の意味で生活感を匂わせない役者であり、バランス的には丁度好いと言えるだろう。

従来のTBSのセンスだと、ウザい父親のポジションにそのイメージ通りの柄の大地康夫や武田鉄矢を持ってきて視聴者を辟易させるのが常だったわけで、新垣結衣の中に大地康夫が入っていたらホントにキモいという感覚がなかったのが問題だったわけだが、今回に限っては館ひろしというのが悪くない目の附け所である。

また、脚本・演出もノーマークの人材で、調べてみてもさほど目立った作歴のある人たちではないが、意外に入れ替わり物の定石を手堅く押さえていて悪くない。TBSドラマというと、セオリーが確立されている既存のジャンルを一切研究せずに何でもかんでも機械的にTBS流にドラマ化してしまうという通弊があったわけだが、このパパムスに関しては意外に「わかってる感」があって安心して楽しめる。

わかってる人はわかってると思うが、この番組の脚本・演出が基本的にお手本にしているのが、CXボクたちのドラマシリーズの第一弾として放映された「放課後」であることにはほぼ疑いの余地はない。

これはまだフレッシュな頃の観月ありさといしだ壱成のコンビで山中恒の「おれがあいつであいつがおれで」をドラマ化した作品だが、主演コンビの魅力と星護のダイナミックな演出で新枠のスタートに弾みを附けた記念碑的なドラマである。常々語っていることだが、この当時のオレはトレンディドラマ一般のつまらなさに馴染めずドラマから遠ざかっていたのだが、このボクドラ辺りからの流れで連続ドラマに戻ってきたという経緯がある。

このドラマの放映が一九九二年で、原作者の五十嵐貴久もオレと同年代(つまり作中の父親と同年代)だから、このドラマの印象が原作に盛り込まれている可能性もあるだろうが、まず映像作品としての見た目や話の運びに既視感がある。

入れ替わり物の定石だからということもあるだろうが、娘の部屋で二人が互いの成り済まし演技をチェックし合うくだりとか、目隠ししたガキーの背中を館ひろしが洗ってやる場面など、まったく同じではないが放課後からのエコーがある。これは放課後が先行例としてベースに置いた大林宣彦の「転校生」にはないイメージなので、直接放課後を参考にしていることは間違いないだろう。

ちょっとややこしいので、中身がパパの小梅をP小梅、中身が娘の恭一郎をM恭一郎として(頭文字はどちらもKなので区別が附かない(笑))、たとえば第二話でP小梅と大杉先輩のデートを尾行していたM恭一郎が、大杉先輩が告白しそうな雰囲気を読んで間に割って入る辺りの見た目は、陸橋上にM恭一郎を置いてP小梅と先輩の間に高低差を設けて配置する構図のセンスが、放課後の星護演出にオマージュを捧げている。

シチュエーション的にも、放課後の中盤でかねてよりいしだ壱成に好意を持っていた諸岡菜穂子が中身が観月ありさのいしだ壱成に告白する場面があり、そこに中身がいしだ壱成の観月ありさが鉢合わせして喫驚するという場面とイメージが似ている。

さらにデートの尾行という意味では、男女の立場は逆だが中身が観月ありさのいしだ壱成が以前の親友の諸岡菜穂子との交際を再開し、それが傍目には男女のデートにしか見えないというエピソードにおいて、中身がいしだ壱成の観月ありさが心配してそれを尾行するというくだりがあり、その尾行中の観月ありさの服装がデート中の新垣結衣の服装と何となくセンスが似ている。

実際のところは何うかはわからないが、こういう映像の具体を視ると、脚本・演出共に放課後のイメージは共有されていて、隠し味程度に意図的なオマージュが捧げられているのではないかと考える次第である。

この番組個別のドラマ性に話題を転じると、入れ替わった二人が夫々に宛われた慣れない状況においてついつい自身の価値観で行動し、結果的にトラブルを解決するというのが毎回の挿話構造になっているわけだが、第一話のストーリーではP小梅の真摯な説教が友人カップルの関係を深めるという好結果を生み、他方ではM恭一郎の直言が得意先の伊藤の旧態然としたセクハラ体質を改めさせるという対称があるわけで、どちらも善意に基づく直言という共通点があることで挿話構造がわかりやすかった。

しかし、第二話に関しては、前半のデートのくだりは恭一郎自身の思惑では大杉に嫌われるように仕向けたかったわけで、純粋な善意に基づく行動ではない。結果的に大杉の好意が得られたのは、単に恭一郎が目的を忘れて趣味の会話に没頭した為で、それ以前に大杉先輩のほうに小梅に対する積極的な好意があり、加えて女性の扱いに慣れていないことからの惚れた欲目という要素が無視出来ない。

一方、椎名のミスで起こったトラブルが小梅によって解決されたのは、小梅の女子高生としてのコネクションをまさに問題解決の為に用いたからで、それ以前に小梅が多くの友人に好かれる好人物だったからという理由附けが為されている。ラストの会話で小梅の機転に感謝する恭一郎に対して「パパがデートを頑張ってくれたから」と言わせて、ここでも第一話と同じように夫々が置かれたポジションで夫々が頑張った結果トラブルが解決出来たという挿話的対称として意味附けたかったのだろうが、それは微妙に成立していない。

寧ろ恭一郎がそれなりに小梅の思い通り大杉に好かれるように振る舞おうとしながらもオヤジ臭い言動に終始し、それを見守る小梅がもうダメだと諦めた瞬間に大杉が小梅に対する好意を表明するという成り行きで意外性を出したほうが、挿話構造はわかりやすかったと思う。

つまり、第二話で「パパがデートを頑張ってくれたから」というセリフが噛み合っていないのは、パパは小梅の期待通りに頑張ってなどいなかったからである(笑)。欲を言えば、最初から恭一郎が確信犯でデートをぶち壊そうとするのではなく、それなりに小梅の期待に沿おうとしながらも娘を渡したくないという気持ちと葛藤するとか、ちゃんとやってるつもりでいても傍目にはオヤジの地金が出ていて小梅をハラハラさせるという方向性で笑わせたほうが辻褄が合ったのではないかと思う。

それでも、たとえば小梅のトラブル打開策が女子高生のケータイ連絡網を駆使したものであったのと同様に、恭一郎の言動が大杉を惹き附けたのは映画マニアという第一話から伏線のある設定だったり渋い読書傾向だったりしたわけで、「男同士」であることで奥手な大杉が女性相手のように構えたところのないスムーズな会話が楽しめたから、と理由附けたのは対称を設ける工夫としては上出来だろう。

たしかにこのドラマの設定は至極ありふれていて新味はないが、新味のないありふれた話は語りようが物を言うのだから、そういう細かい部分できちんと考えて工夫しているのは好感が持てる。

惜しむらくは、タイトルですでに仄めかされているように、この番組は全七話構成という「セーラー服と機関銃」方式の編成らしいのだが、下手に一一話引っ張るよりも短期集中で語り終えるほうが向いている作品かもしれないとは思う。


●山田太郎ものがたり

TBSはもう一本「山田太郎ものがたり」も多部未華子目当てで観ているが、こっちはまあそこそこというところで、ノリは悪くないのだが話が面白くない。セレブな王子様と勘違いされ妄想癖のある危ない女に惚れられる貧乏人の話と、一言で言えばそれだけの話なのだが、この種の物語世界に二宮と櫻井のキャスティングはミスマッチだろう。

今日び王子様と言えばやはりのだめの玉木に代表されるような非ジャニ的なイメージの役者の領分だろうし、二宮のキャリア的に女性からのミーハー人気がある二枚目役というのはピンと来ない。勿論アイドルなんだから女性人気はあるのだろうが、役者としては寧ろリアルな日常人を得意としてきたのだから、現実の「嵐の二宮和也」とイメージを重ねるような人気者役というのはかなり違和感がある。

櫻井翔も舞台などの癖のある役で活躍が目立つ人材だから、クールな本物の王子様と言われてもちょっと俄には信じがたい(笑)。総じてこの種の役柄というのは、同性の男から視てもそれとわかるくらい綺麗だったり上流イメージがあるような役者を配するのが当然だろう。二宮にせよ櫻井にせよ、どちらかと言えばドラマのリアリティではとくに周囲に注目されることのない平凡な生徒役相応の柄である。

まあオレ的には多部未華子がかなりアタマの温かい貧乏人の娘役をノリノリで演じているだけで満足だから、男連中が何うだろうとあんまり関心がないのだが(笑)、ブス恋でそれなりに面白い話を書いたマギーの脚本でもこれだけ話がつまらないとちょっと辛いものがある。思ったよりも極貧に喘ぐ山田家の描写がイタくないとか、泣かせの盛り上げは悪くないと思うのだが、メインの学園パートがそれほど面白くない。

おそらく企画上の対抗馬はCXの「花ざかりの君たちへ」ということになるのだろうと思うが、第一話を視た限りではイケメン大量投入の人海戦術で絵空事の莫迦話に徹している分、イケパラのほうがまだマシなような気がする。精々忍成修吾がまたこんな役を演じているというのが笑える程度である。

余談だが、第一話のエピソードでフィーチャーされた山田の妹役のバタ臭い顔立ちの子役に見覚えがあると思ったら、テレ東「しにがみのバラッド。」で仕え魔ダニエル役を演じていた吉田里琴だった。このときは変な髪型に半ズボン姿の男装だったので気附かなかったのだが、なかなか味のある面白い子役である。調べてみるとこの役柄は後にアラブの王子様に惚れられるらしいが、そのせいでこんなバタ臭い顔の子役をキャスティングしたのだろうか(笑)。

まあ基本的にオレ的な見どころの少ない番組だが、切るまでには未だ至らずという微妙なラインである。

そんな辺りでCXに移ろうと思うが、今季は企画面で目を惹く番組が一本もない状態で完全にキャスティングだけで判断するしかない。個人的に好みのキャスティングというと「牛に願いを」の三人娘は全員好きだし、「山おんな壁おんな」の二人も嫌いではないし、「ライフ」の二人も割合可愛いと思うが、何うも決定的に好きな番組がないというのが現状である。


●ファーストキス

一方月九の「ファーストキス」は、井上真央に伊藤英明という「何処の局だよ」的な顔ぶれで、伊藤英明と阿倍サダヲと劇団ひとりが一つ屋根の下に同居しているというのはどんだけ好感度の低い集団だよと思っちゃうのだが、そこに突如乱入するのが強気で根性曲がりで大嘘吐きな上に心臓病持ちの妹というのだから、設定だけ視ると不愉快な人間しか出てこないドラマである(笑)。

CXの全日番宣を視た限りではチームワークの好い現場であるとは到底思えず、笑って周囲に合わせるだけで前に出ない井上真央、表面的には腰が低いが失礼で空気読めないキノコ、相変わらず影の薄い平岡裕太、気の毒なくらい脇役の分際を弁えて控えめな酒井若菜、盛り上げようと空回りする劇団ひとりの取り合わせが、得も言われぬ絶妙の間を醸し出していた(笑)。

いいともの事前の段取りでは、専業俳優陣が劇団ひとりをハブるという設定でトークを進行する予定だったようだが、当意即妙な受け答えが得意な面子が一人もいないというハンディの故に段取りがグダグダでトークが弾まず、傍目にかなりイタいムードに終始した(笑)。

面子も面子だし道具立ても古臭くて、普通なら絶対面白くなるはずがないドラマなのだが、脚本が「14歳の母」の井上由美子ということで、実際に第一話を視る分には流石に上手いと言う外はない。そうした役者の素のイメージを活かしながらそれなりに好感の持てる役柄に造形している辺りが腕というもので、14歳の母に関してはその姿勢面において「心のない脚本家」と批判したが、ホン書きとして技術的に上手いことだけは否定しようもないことである。

心臓病を抱え余命が危ぶまれる妹に生の喜びを与えてやりたいと奔走する兄、という筋立てを聞いて面白くなるとはちっとも思えないわけだが、井上真央のキャラ造形が面白いし、コミカルとシリアスのバランスも好い、ラストの盛り上がりに持っていく段取りが手慣れている上に、局面局面でちょっとした意外性や伏線を仕込む手際がやはり鮮やかである。

アバンのファーストシーンなど、ベタベタではあるのだがちょっと最近のアメリカ映画のような語り口で、プロローグとしては垢抜けている。こういう語り口はテンポの緩急が命だが「のだめ」で評価された武内英樹の演出はその辺の呼吸が小気味好い。

まあこんなふざけたプロローグで印象附けられたイケしぶといキャラが最後に死ぬわけはないので(笑)、難病物的なサスペンスは大分薄れるとは思うのだが、難治病というカテゴリーではなく五分の手術リスクという形で提示されている以上、「心臓病の手術は難しい」という過剰な印象を与えない配慮が為されてはいるだろう。

この辺は白倉伸一郎の所謂「踏まれた足の痛み原則」に照らして考えれば、大体結末の読める部分ではある。「成功率五〇%」という確率設定がミソで、五分の可能性なら成功すると考えるのがプラグマティックな意味で最も妥当なポリティカルコレクトネスである。五分なのに失敗するという悲観的な結末を描いてしまったら、それよりさらに可能性の低い手術に賭けようとする現実の難治病者を萎縮させる虞れがある。

真っ当な良識のある語り手ならその部分に関して結末に揺るぎはないと視るべきなのだが、まあ14歳の母を書いて単なる避妊知識の欠如や軽率なセックスのツケを正当化した井上由美子だから、イマイチ良識面で信用出来ない部分はあるのだが(笑)。

また相変わらず心がないなぁと思うのは、心臓病の妹が持病をネタに周囲をからかったり泣き落としの駆け引きを企む辺りで、根性悪にも程度があるという印象だが、根性悪な人物の根性がどれだけ悪くても文句を言う筋合いはないだろう(笑)。別段難病人なら須くしおらしい良い子でなければならないというわけでもないし、長期的な持病や慢性疾患を抱える人などには、このドラマの福永美緒のように新米医師にダメ出しする「プロ病人」的な人も現実にたくさんいるわけで、その意味でリアルな人物設定である。

そのような傍若無人な言動で視聴者にインパクトを与えておいて、後半の兄妹間の会話で早々にそれに言及させ、周囲にとって都合の好い綺麗事の病人ではないという真情を明かして視聴者の反感を回収する。外面的な面憎さの表現と真情吐露の使い分けが淀みなくキャラクター提示の段取りが上手い。それをキャラクターの魅力に持っていけるか何うかは井上真央の演技次第の部分で、まあとくに井上真央という女優に反感を持っていなければ五分五分のところだろう。

井上真央というのは子役上がりの若手女優の中では芝居の上手い部類の女優だと思うのだが、男性視点ではジャニやイケメンの芝居を上手く受ける相手役という以上の華がなく、素のトークで面白いことを言わないのが難だと思うが、それでも子役卒業以来ヒット作に恵まれ続け、一般的な認知度や同性からの好感度は高いようで、単独主演ドラマが大コケしてピンの人気はさほどでもないと思われる伊藤英明よりも番組人気に貢献するのではないかと思う。実際、ビリングから考えるとこのドラマは井上真央の単独主演作ということになり、伊藤英明は相手役の扱いである。

初回視聴率が一九・七%というのはこの道具立てにしては上出来だろうし、ご祝儀視聴率のパイからの引き算になるのが常の連続ドラマでは、道具立てに興味を感じて視聴した人間を上手く取り込んで試聴習慣を根付かせることが課題だが、「試しに観てみようか」という程度のモチベーションを持っている視聴者なら、そこそこ面白く観られた出来ではないかと思う。


●花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜

一方、ドラマ枠が連続する火曜日のほうはどちらもピンと来なかった。まず、イケメンパラダイスのほうは花ゆめ原作ということもあって完全に女性視聴者向けで、女性キャストに華がない。最近何うも堀北真希がハリセンボンのはるかに見えて仕方がないということもあるが(笑)、幾ら少女マンガ原作とは言え語り口が粗雑にすぎて、正直言ってCXの番組というよりテレ朝の深夜ドラマかテレ東のマーベラスエンタテイメント枠のように見える。

こちらのほうが関テレ枠ということなら、コミックス原作物でそれほど実績がないからわからないでもないのだが、共同テレビの火九枠でこれほどダサいコミックス原作物というのは解せないところで、まあ考えられるのは、剰りに男性読者を拒絶する原作のキモいBL世界観が男臭い現場のモチベーションを激しく低下させているのではないかということである。

実際、F1層狙いと思われる火九枠でイタい腐女子とガキにしか人気のない原作を採り上げるというのは狙いとしては微妙に外しているわけで、立ち回り先の大人の女性ブロガーも、トクサツ関係者大量出演の美味しいキャスティングとは言え「こんな話でさえなければ…」とイタさを堪えてご贔屓俳優をヲチしている有様である。

基本的に女性作家の個人作業であるコミックスとは違って、BL的な(つか、主人公の肉体的性別が女性であることが免罪符なだけでアカラサマにホモオンパレードな世界観なんだが)男の園を実写化する場合は男性主体の現場になるわけで、まあ変な趣味でもない限り男性から視てやる気の出る作品ではないだろう。

先ほど山田太郎ものがたりの話の中でこちらのほうがマシと表現したものの、ドラマという観点で視ればどっちもどっちで、マシかマシでないかというのは単純に出演しているイケメンの頭数の問題でしかない。


●牛に願いを

それでは関テレ火一〇枠の「牛に願いを」は何うかと言うと、これもキャスティングの割には全然好きになれない番組で、ネタ的に視れば季節柄爽やかな北海道の大自然を背景にした青春群像劇で新しい方向性の夏ドラマを探る試みなのだろうが、金子ありさの脚本がかなり外しているのではないかという印象である。

先ほど月九の井上脚本について語ったこととは逆に、それなりに魅力的で好感度の高い役者を揃えて学生集団を構成しているにも関わらず、誰一人として好感の持てる人物がいないというのはちょっと問題だろう。

リーダー格の小出恵介やコメディリリーフの中田敦彦はファーストアピアランスの悪印象のまんまで、積極的なキャラの魅力は一切描かれていないし、相武紗季を中核にした女性三人のキャラの書き分けが剰り上手く行っていない上に、第二話まで視ても女性陣のキャラの魅力がちっとも立ち上がってこない。

相武紗季のミーハーぶりは視ていてイライラするくらい薄っぺらく描かれているし、戸田恵梨香の真面目学生というキャラは前季の「ライアーゲーム」の流れを汲むキャライメージだが、失敗のパターンが「やるなと注意されたことを必ずやる」という辺りが、人の話を真面目に聞いてないという矛盾した印象を醸し出し、やはり薄っぺらな感は免れない。

そこそこ力を入れて描かれているのは第二話で玉鉄と急接近した香里奈くらいで、それも玉鉄と比較的対等の相手役(恋愛のとは限らないが)という意味でしかない。要するに、番宣などでは恰も若い男女の一夏の群像劇のように見せているが、この番組で魅力的に描こうとしているのは主役である玉山鉄二だけなのである。

彼以外の五人の男女は玉鉄の魅力を引き立てる脇役にすぎず、それ単体で視れば世の中を拗ねて斜に構えた甘ちゃんでしかない玉鉄の役どころを、悩める若きウェルテルとしてマンセーする為の道具立てとして配置されているだけである。

要するに、書き手が特定のキャラに肩入れして依怙贔屓しているというキャラ物の作劇パターンで最もマズい傾向があるわけで、玉鉄と比べて外の五人の学生が能無しの莫迦にしか見えない描き方になっている。その玉鉄の役どころだって、ただのいい加減なろくでなしでしかないのだが、何故か郷里の人々も東京組もこの世の中心に玉鉄がいるかのように玉鉄のことばかり考え、語り、行動している(笑)。

つまり、当初イメージしたような「六人の男女の中心にイケメンがいる」という集団構造ではなくて「イケメンの引き立て役に五人の男女がいる」という集団構造になっているわけである。幾ら何でもこの先の展開は各人にスポットを当てたキャラ廻しになっていくのだとは思うが、二話も費やして玉鉄が格好良いということしか語っていないのでは、この先が思い遣られるだろう。

まあキャラ描写には書き手毎のペースというものがあるだろうが、この手の集団物で初回および第二話までの時点で各人の問題点と魅力の部分がきちんと提示されていないというのは大いに問題で、主要キャラの人数が多いから単純な比較は出来ないが、ファーストキスの鮮やかなキャラ提示の手際と比べると何うしても見劣りする。

たとえば、前述の通り戸田恵梨香の役どころはライアーゲームの神崎直の系統の素直で真面目なキャラなのだが、その属性が鬱陶しい圧し附けがましさとして意味附けられていて、ちっとも可愛く見えない。神崎直の場合も誇張された良い子キャラで、その愚鈍なまでのアタマの悪さと融通の利かなさが視聴者をイライラさせるわけだが、置かれた状況が過酷すぎることとの対比上、最初から視聴者が好感を持って視られるような位置附けにはなっていた。

要するに、たしかにイライラするような部分はあるが、基本的に世の中の男はこういう毒のない天然の良い子キャラに一定の魅力を感じるわけで、作劇上の構造的役割とは別次元でそこを殺さないようなキャラ描写が為されていたわけである。

しかし、このドラマの役どころでは、一見して三人の中では一番素直で真面目で可愛げのある人物に見えながら、「空回り」の描き方が剰りに自己中心的なので段々不快感を感じるようになっている。

人の話をちゃんと聞いていないという欠点の自業自得でちょっと叱られると、泣いて引き籠もったり誰にも断らずに牛舎脇で徹夜して周囲を心配させたり、言動がイタすぎて不愉快な人物にしか見えないのである。「周囲が見えてない」と叱られた直後の行動がそれなのでは、結局人の話をちゃんと聞いていないし相変わらず周囲がまったく見えていないということである。

第二話で子牛の容態が悪くなった際に、小出恵介の話をちっとも聞かずに玉鉄を呼べの一点張りだった辺りも小出恵介ならずとも腹の立つところで、たしかに牛一頭の命がかかっているのだから、同じ意見を言うのでも経験上の知識であるか座学の知識であるかの差は大きいだろうが、戸田恵梨香視点では結局自分では何うにも出来ないから確実な意見を持っていることが明らかな第三者を頼っただけの話である。つまり、プロである玉鉄の親父が助けてくれなかったから、その倅の玉鉄を頼ったというだけのことなのである。

筋合いから言えば、プロの生産者に「自分たちで何とかしろ」と言われて学校で学んだ自分の知識を活用しようとした小出恵介の姿勢のほうが一〇〇倍マシである。戸田恵梨香は素人のくせに生産者の都合を無視して子牛の世話を買って出ておきながら、いざ困難が出来するや自分たちが世話している動物が死ぬかもしれないという可能性に逆上して、結局何も努力せずに安易にプロに頼ったというだけの話になっている。

素人なりに出来る範囲のことをしようとした(つか牧場実習なんだからそうするのが当たり前だ)小出恵介の話を全然聞かずヒステリックに玉鉄に縋り附くのも無責任なら、それでちょっと厭味を言われたからと言って牛舎の脇で泊まり込むというのも、本人の気が済むという以外に何の役にも立たないわけで、この第二話の戸田恵梨香の言動のイタさ加減は犯罪的なレベルである。

…つか、正直言って「シネ」とか思いました。

牧場経営が夢だか何だか識らないが、こんな奴には猫の子一匹育てられないだろうと誰でも思うのではないだろうか。散々身勝手で不愉快な言動で視聴者をイライラさせておきながら、身の上話の浪花節で落とそうとする作劇は安直の一語に尽きる。それは結局戸田恵梨香個人の心情的都合という以上のものではないからで、自己中心的な言動の動機が個人の心情的都合というのは、つまり正真正銘の自己中心性だという意味にしかならないだろう。

「牛はペットじゃなくてただの経済動物」という生産者側のシビアな視点と、それでも飼育している動物に対して否応なく愛着を抱いてしまう人間の自然な感情を対比させて提示しておきながら、その落とし所がこれなのでは、要するに戸田恵梨香にとって牧場経営というのは可愛いペットと家族の想い出に囲まれた愉しい夢の暮らしという意味にしかならず、お話にも何にもなってません

一方、女子三人の中では相武紗季が一番普通の女子大生っぽく描かれ、東京の彼氏に宛てて現状を報告するというフォーマットになっているから、何うやら緩い意味での視点人物として位置附けられているように見えるが、この「普通の女子大生」像の空疎さ加減やアタマの悪さ加減が視ていてイライラする。

一般的な意味では物語の前面でドラマを演じるような柄のキャラの描き方ではなく、たとえば「冗談じゃない!」の立川絵理のようなウェイトであり、「めぞん一刻」で岡田惠和がいじってみせた「いかにも『予備校の友だちの坂本』って感じのキャラ」の扱い方なのである。

視点人物を最も中庸なスタンスに設定して視聴者の視点を代替させるというのはたしかに基本的な作劇セオリーだが、現状の相武紗季の役柄には視聴者が共感出来るような部分が剰りなく、ぶっちゃけて言えば世の中の大半の男女が「ウザい女子大生」と辟易しているようなステロタイプの軽薄女として描かれていて、画面に映っている分量は多いのにまったく存在感というものを感じない不思議なキャラになっている。

脚本を書いている金子ありさに、「おまえはホントにこういう女に自分を投影して共感出来るのか」と小一時間問い詰めてみたいくらいである。何というか、F1層に向けて書いているドラマでありながら、F1層一般のディスクライブが侮蔑的ですらあるということだろう。

頼みの香里奈も、外の二人のように裏も表もないツルンとした来し方のノンポリ女ではなく、多少は何かワケアリなのだろうというレベルの話で、大したことのない感情的な理由で世を拗ねて斜に構えているという意味で玉鉄のポジションと似ているというだけの、やっぱり薄っぺらい描き方になっている。

元々キツめで体温の低そうな美貌のお陰で十代の頃から攻撃的な役柄や冷淡な役柄を振られることが多かった香里奈だが、キツそうな態度の割には実は心根は優しい、つまりツンデレ的な描き方が多かったわけである。前季「バンビ〜ノ!」の日々野あすか役などもその系統の役柄で、冷たくバンビを突き放し邪魔者扱いする厨房の面々の中で真っ先にバンビに力添えしヒントを与えるポジションの役どころだった。

その意味では今回の役柄もその延長上の描き方なのだが、この手の集団ドラマにおけるツンデレというのは、その他の女子が素直で可愛いという対比がないと活きてこないのであるが、このドラマの場合は他の二人がそこはかとなく不快感を醸し出すキャラなので、ツンデレが一番マシな子に見えるという辺りがかなり集団構造として外している。

要するに、オレ的にはこの三人の女優が好きだから我慢して観ているが、女優個人に対する好悪を離れて純粋にキャラ描写として視るなら、不愉快なだけの描き方になっているということである。

また男性陣に目を向けても、自信過剰な優等生で集団のまとめ役の小出恵介も、第一話ではヒステリックに怒っているだけだし、第二話ではその優等生ぶりが伊達ではないことも描かれているが、にも関わらず周囲が玉鉄ばかり頼ることに反撥を抱くという流れになっていて、結局玉鉄の噛ませ犬であることがアカラサマである。

中田敦彦に至っては、登場時点では妙に思わせぶりな芝居になっていて何か仕掛けのある人物なのかと思ったら、単に無口で散漫な人物だというだけで、演技素人の中田敦彦個人の柄的に腹に一物ありそうな胡乱な顔に見えるというだけの話だった(笑)。現時点で何の為にいるのか一番わからない人物である。

結局このドラマのフロントメンバーの集団構造は、玉鉄が好きな視聴者にしか受け容れられないようなもので、玉鉄が何うでも好い視聴者にとってはとことん魅力に欠けるものになっている。書き手自ら玉鉄の役柄にしか魅力を感じていないことは明らかで、他の人物にも好感を感じるならこういう書き方にはならないだろう。

現地の人々などはもう論外の外で、玉鉄の噂をしたり実習生を鬱陶しがったりする為のその他大勢の廊下雀という扱いで、便利なガヤとして使われているだけである。第一話の玉鉄の演説を聞いて降って湧いたようにいきなり出て来て泣き落としのセリフを語り出す子役の扱いなど、「ああもうこの書き手は玉鉄さえ格好良く書ければ他は何うでも好いんだな」とつくづく思った(笑)。

前回のエントリーで、こういうドラマこそ橋本裕志に書かせれば好かったのにとコメントしたのは、たとえば「ウォーターボーイズ」や「特急田中3号」を視ればわかるように、橋本の資質として主役から脇に至るまで一人ひとりの登場人物の好いところを積極的に拾っていこうとする善意のモチベーションがあるからである。この種の群像劇においては、そのような隅々の人物にまで視線を配るような優しい資質がやはり必須なのではないかと思う。

玉鉄が主役中の主役であるのは一向に構わないが、それは田中3号の田中一郎が他の登場人物と等価で何うしようもないろくでなしでありながら、それでも心根の優しさや他人に対する善意の行動力で主人公性が立ち上がってくるような、そういう優しい性格の作劇であったほうが好かったと思う。

だって、何う考えてもこのドラマの玉鉄って、ただのろくでなしだろう(笑)。ただのろくでなしなのに、語りの視点が過剰に格好良い重要人物として視ているのが受け手に透けて見えるのが、作劇姿勢として冷静さを欠いていてイタいのである。

作劇の狙いとして意図的に玉鉄をマンセーしたいのかもしれないが、書き手が依怙贔屓するヒーローを演じる役者以外の役者陣にもちゃんとファンがいる(中田敦彦にすら少しはいるだろう(笑))のであり、そういう視聴者から視れば玉鉄以外は全部引き立て役のその他大勢のような作劇のドラマを観ていて気持ちいいはずがない。

一言で言って、主人公萌えの腐女子臭い作劇のドラマだということである。

また、このドラマの背景には深刻な酪農不況や地域格差という社会問題も強調されているのだが、まあこれはこんなモンかなと思わないでもない。ドラマで何を語ったところで現実の北海道経済に何らかの益があるわけではないし、深刻ぶってみたところで主人公マンセーのキャラドラマなのだから、ミーハーな学生がぶち当たる現実としての社会背景という以上の扱いではないだろう。

ドラマで描かれた当事者である零細酪農家の視点で視れば、かなり痛がゆい描写に見えると思うのだが、それはどんなドラマでもそのようなものである。前季の「わたしたちの教科書」についてはアクチュアルな問題性の扱いを巡って批判的なことも語ったが、少しは好意的に視るとすれば、教育現場の抱える問題性をモザイク的に鏤めて視聴者に提示しただけでも、ドラマが語る取材的事実として十分という言い方も出来るだろう。

ただまあ、オレたち一般視聴者が酪農家や北海道経済の現状を識ったからって何うなるという言い方も出来るわけで(笑)、寧ろ夏場の北海道の爽やかな大自然に対する憧憬を煽り、牧場生活の表面的な牧歌的情緒を前面に立てたほうがプラグマティックな意味では北海道経済にプラスなのではないかという見方も出来る。

前回のエントリーで触れたじゃじゃグルなども、正面から酪農家は辛くて大変なんだという窮状を前面に立ててはいないわけで、まあ大変は大変なんだけどそういう大変な状況の中で大らかに逞しく生きていく現地の人々の生き様や経済動物に対する接し方が普遍的な憧憬を誘うわけで、典型的な東京人である主人公の久世駿平が異郷の生活に身を投じてみようかと思うだけの魅力が描かれていたわけである。

そういう意味でこのドラマを腐すなら(笑)、北海道の酪農家を視る目線がやっぱり東京人的であるという言い方も出来るだろう。イヤな言い方をすれば、変に真面目ぶって描いている割には「ああ、地方の人は大変なんだな」というような、他人事のよそよそしさが感じられる。現地の人々の感じ方からすれば、余所の人間にそこまで同情されるような謂われはないというのが偽らざるところではないだろうか。

最終的な結論を言えば、書き手の資質としてすっきりした爽やかな性格がなく、何とはなしに妙な濁りがあるのが引っ懸かるのだろうと思う。


●山おんな壁おんな

莫迦ドラマ揃いの今季のドラマ群の中でも、一頭地を抜く莫迦ドラマが「山おんな壁おんな」である。前述の通り伊藤美咲も深田恭子も嫌いではないので、肩の凝らない莫迦ドラマを演じる分にはいいかと思って視聴しているが、かなり辛い出来なのは否めないだろう。

ハッキリ言って巨乳女が異動してきただけで色めき立つ職場ってダメすぎだろう。

今時の大手一般企業では、職場で女性社員の身体的特徴を論っただけでもセクハラに相当するのだから、オッパイというエッチなアイテムの大小でキャラの対照を設けるような作劇のお仕事物というのはそれだけで前近代的である。

たとえばオレが当ブログで遠慮会釈なしに芸能人の容貌や体型を論うのは、それが芸能人という「大勢の人に視られる商売」だからであって、一般人より容貌が優れているとか体型に恵まれている(もしくは逆に一般人より滑稽である)という理由で、不特定多数に視られることで収入を得るというのが芸能人の職業なのだから、例外的に容貌差別が許されている職種である。

一種、容貌評価が職能評価と直結しているという特殊な職種だから、容貌差別そのものの基準で採否を決定するのだし、サービスを受ける側も特例的に個人の容貌を論うことが許されているわけである。

しかしその種の人気商売以外では、容貌体型などに基づいて職業上特別な扱いをしては一切罷りならない、という建前になっているわけだし、職場において他者を評価して好いのは職業的な要件のみなのだから、それとは無関係な容貌体型に関する評言によって当人が不快感を感じさせられることは不当であるということになっている。

たとえばドラマの描写で言えば、客がまりえの巨乳を有り難がって高価なバッグを買うのは客の勝手だから、職場の裁量で何うこう言うような話ではない。もしもまりえがそれを不快に思ったとしても、職業上の問題を離れて社会人同士の間でどの程度の性的言辞によるからかい行為が性的傷害に該当するかという話になる。つまり、まりえ当人の親告によって犯罪的性格が生起するような性質の話だから、まりえが気にしなければ何の問題もない。

しかし、職場の同僚が「オッパイを見せてバッグを売った」と罵るのは、これは同性間であってもセクハラだろう。オッパイがでかいのは別にまりえの責任でも何でもないのであって、単に持って生まれた身体的特徴にすぎない。職場で共に働く人間は、そういう身体的特徴に対して性的な言及をして相手を不快にしてはいけないということになっているのだから、まりえが意図的に胸を見せたことが明確でない現状でそのように決め附けて不快にさせるのは完全にセクハラである。

如何にセクハラに寛容なTV局とは言え、流石に巨乳社員を特別扱いする物語がセクハラに該当するという知識くらいはあるだろうから、無理矢理ドラマのテーマを「コンプレックス」にこじつけて、巨乳貧乳の差別をコンプレックスの一つとして相対化したいようだが、現状出来上がっている作品が何う視ても下品な艶笑コメディにしか見えないのだから、牽強付会にも程があるというものだろう。

原作物だということで調べてみたら、何のことはないこの原作者は「ハゲしいな!桜井くん」を描いた人なので、元々ハラスメントネタで売れた人である。男のハゲに相当するような女性のコンプレックスはバストサイズだろうということで単純な発想なのだろうが、まあ現実にはバストサイズに対する男性の嗜好というのはそれほど巨乳一辺倒ではないので、主に女性の側の主観的なコンプレックスであることは間違いないだろう。

一応公式サイトの人物設定を視ると、壁おんな青柳恵美が貧乳にコンプレックスを感じているように、山おんな毬谷まりえもまた巨乳にコンプレックスを感じているという設定になっていて、誰でもみんなコンプレックスを抱えているんだよ、という予定調和的な落とし所になっているようだが、劇中でアカラサマに周囲の男性が巨乳の故にまりえをチヤホヤしているのだから、説得力に欠ける理屈だろう(笑)。

巨乳云々の問題を離れて言っても、ミッチー演じる奥園雅之専務が自社の女性社員を手当たり次第に喰いまくっているという描写は、これは完全にセクハラで、恨みを抱く社員が社外にリークしたら間違いなく大騒動で、懲罰動議だ何だと経営問題にまで発展するはずである。

玉の輿狙いの女性社員が我から望んで喰われに行っていることになっているが、専務の側から働きかけがある以上、それは客観的に視て職権を嵩に着た交際の強要ととられても仕方のない状況(専務が口に出して脅したわけでなくても、一般的に役員クラスの上司から何某かの要求があった場合、一社員がそれを拒絶するのはかなり難しいと視るのが自然である)なのだから、大手百貨店という一流企業にとっては重大な経営リスクのはずで親父もヘラヘラ笑って見物している場合ではないだろう。

まあ、そんな杓子定規なことを云々するようなリアリティのドラマではないが、職場の上司から交際を強要されたり、男性社員からいやらしい目で視られたり性的なからかい行為で不快を感じている女性労働者というのはかなり多いだろうから、基本的にそのような人々に対して配慮に欠ける性格のドラマであることは間違いない。

その一方、何ういうわけか女性というのは自分が常日頃感じているような不満や鬱憤をTVが描いてくれるとそれだけで気が済んでしまうという傾向があるようで、たとえばCXの「こたえてちょーだい」などを視ていると、身につまされるような不愉快な日常的トラブルを誇張して再現ドラマで描いたりしていて、普通身に覚えがあれば視るのが不快だと思うのだが、身に覚えのある人ほどわざわざそんなイヤなものを好んで視て気を晴らす傾向があるようである。

一月季の「ハケンの品格」がウケたのは、派遣労働者が置かれている現状についての取材的事実を誇張して描いていたからという部分もあるようで、オレが派遣労働者ならわざわざドラマでまでそんなものを視たいとは思わないのだが、ある程度女性派遣労働者から「よくぞ言ってくれました」的な好評を得たらしい。

そういう意味では、女性一般には自らの置かれた窮状や不満を大勢の人に識って欲しいという欲求があるようで、識られないことや無関心によって自分が不当に扱われているという潜在的な意識があるのではないかと思う。また、苦しんでいるのが自分だけではない、みんな同じような目に遭っているのだという具体的な実感が得られて、それだけで満足するという面もあるだろう。

そういう意味では、ドラマがこの種の女性固有の問題性に切り込む場合、男性視聴者から視ると「何の提言もない」「ただ単に取材的事実を羅列しただけ」的な不満を覚えるような描写でも、ある程度の女性視聴者は満足する傾向があるようである。

たしかに旧時代の女性的な問題性というのは、社会の無関心や黙殺によって問題化する以前に圧殺されていたわけだが、今の時代性で言うなら問題性のベースとなる要件は概ね問題化の俎上に乗っているのではないかと思うので、ハッキリ言って社会的に実態が周知されただけではまったく解決に益しない。

それでも、多寡がTVドラマの使命としては、そういう取材的事実を具体的な物語の形で紹介するだけで十分という言い方も出来るわけで、飽くまで社会的背景というのはリアリティの道具立てにすぎないという面もある。ドラマが社会的課題に対して何らかの提言をしなければならない筋合いはないわけで、そのようなアクチュアルな現実を背景にして普遍的な人間性を描けばそれで好い。

随分脇道に逸れたが(笑)、この番組のような莫迦ドラマを視ると、笑って視ていて好いものか何うか戸惑う部分はあって、セクハラの取り扱い一つとっても大都市圏と地方ではまったく温度が異なる部分がある。さして田舎へ行かなくても、未だに女性社員のお尻を触ったり夜の生活をネタにするようなコミュニケーションの形が生き残っていたりするわけで、大企業の御曹司が自社の女性社員を次々に喰いまくっていても不自然に感じないような感じ方はあるだろう。

そういう感じ方が生きている場所では、こういう内容のドラマでも「あるある」的な関心で観られるのかもしれないが、まあ趣味の悪いドラマではあるだろう。丸越百貨店のモデルとなった銀座三越百貨店が撮影に協力しているようだが、エロオヤジの妄想の中ではシモの生活が乱脈を窮めているデパガの世界を、そんな妄想と幾らも違わない下世話な関心で描く莫迦ドラマに本物が協力するのは何うなんだろうと思わないでもないのだが、まあ百貨店には百貨店の事情というものがあるんだろう(笑)。

第二話では一応保険的にセクハラの話題にも触れるようだが(笑)、ドラマの世界でセクハラの問題が真面目に採り上げられたのを観たことがない。というか、真面目に取り合うとオフィスラブコメが成立しない。職場で男が女に不意にハグしたりチューするなんてのは現実には下手をすれば懲戒免職を賭けた大博打で、ビンタで許してくれるような優しい女性ばかりの世の中ではない(笑)。

どうせお莫迦な絵空事のドラマなのだからあんまりそっちに関心が行く題材は選ばないほうが好いと思うのだが、まあこういう不謹慎な題材を、何ういうふうに取り繕うかというのが見どころと言えるだろう。


●ライフ

ライアーゲームの後番組ということで、同じような虚構度と娯楽性の高い作品が来るかと予想していたら、壮絶ないじめと闘う女子中学生の話ということで、事前の予想としてはかなりゲンナリしたことは事実である。

調べてみるとこれも原作附き作品のようで、当然こんな原作は識らないが別冊フレンドの作品であると聞いて妙に納得した(笑)。元々少女フレンドというのは、いじめやレイプや妊娠などを題材にした泥臭い実録物がお得意で、その上優等生的に説教臭いという特徴があるわけだが、少女マンガ誌が一様にレディコミ予備軍的なエロに傾斜した現在も、そのようなフレンド的体質は変わっていないという話である。

勿論ご多分に洩れず実録体験シリーズとして生々しいエロの世界にも踏み込んでいるようだが、その一方でいじめをテーマにした実録物の企画も好んで展開されているようでこの作品もその方向性の一環だろう。ちょっと調べてみたら、原作の今後は大映テレビもかくやのダイナミックな展開を辿るようで(笑)、その辺の誇張された外連味や過剰性が一種のバトル物としてライアーゲームと通底する部分だろう。

その意味では「いじめ問題の核心に迫る」的な大上段に構えたドラマではなく、学園を舞台にした一種の壮絶なバトル物というのが本質で、寧ろ「女王の教室」に近い性格のドラマだろう。そのように考えるなら、意外にライアーゲームと同一線上の企画であることがわかる。

まあハッキリ言って「わたしたちの教科書」以上に拒絶反応を覚える人が多い番組だとは思うし、オレも中学生の陰湿ないじめを好んで観たいというわけではないが、単に番宣で視た北野きいと福田沙紀の制服姿が可愛かったから視聴している(笑)。

基本的にオレは、最近の女子中高生のミニスカ制服姿を視ても記号化されて見え、フトモモが大胆に露出していてもあんまりエロいとは感じないのだが、北野きいの五頭身半くらいのプロポーションだとアニメ的に可愛いと思う。以前語ったように、オレは基本的に小柄で小作りでアニメ的な体型の少女には弱いので、特段北野きいのファンというわけではないしそんなに器量が好いとも思わないのだが、ちょっと興味を惹かれたというところである。

まあそういう下世話な興味で観ている番組だし、第二話で北野きいが変態細田に緊縛される場面など、深夜枠とは言えよくまあ実年齢一五歳の少女を変態性欲の餌食にする話が罷り通ったものだと感心した(笑)。細田が福田沙紀に気附かれないように机の下で北野きいのフトモモを箸で刺すという描写も、妙にエロくて剛速球の変態描写である。

原作の展開では今後レイプシーンもあるようだが、「いじめ」という表の名目があるからと言って中学生のレイプというのはちょっとギリギリである。まあそれを言うなら、プライムタイムの「白夜行」でも女子高生のレイプが堂々と扱われていたわけだから、ドラマのストーリー上の必要性ということでは許されるのだろうが、それを演じる北野きいが本物の女子中学生というのがちょっとヤバめである。

嘗て実写版セラムンでも、ミニスカの裾からレオタードがチラチラ覗くコスチュームを論って「少女の性を売り物にするなんて!」といった過剰反応があったそうだが、ライフの場合は確信犯の扇情性であり、正真正銘「少女の性を売り物に」しているわけだから、世間の煩型から何ういうふうに受け取られるか見物である。

まあオレ的には、最初っから外連味のある学園バトルのつもりで作っている番組なのだから過剰に批判しても仕方あるまいと思うし、深夜枠というのもTPOを心得ているわけだから、個人的には道義的な意味で反感は覚えていない。そもそも北野きいが未成年であることを問題にするなら、未成年が芸能活動すること自体がある種の危険性や人権面での問題を抱えているわけだから、現状の社会性の範疇ではギリギリセーフだろう。

いやまあ、単にそれを否定してしまったら、独身男性には可愛い少女を観る機会が一切なくなってしまうからだというのは更めて言うまでもないが(笑)、基本的に年齢の如何に関わらず芸能人というのは特殊な生き方であって、一概に世間一般の尺度で量るものでもないと考えているからでもある。

因みに、いじめる側の福田沙紀といじめられる側の北野きいの顔立ちが妙に被っているのは狙いなのか単なる配役の好みなのか迷うところで(笑)、おまけに後々重要な役割を演じる瀬戸朝香も微妙に同系統の顔である。ふと気が附くと、このドラマの主要キャストは丸顔でドングリ眼の女優ばっかりなのである(笑)。

とりとめのない話に終始したが、現時点では一応最後まで視聴する予定である。



そいうわけで、今季はかなり従来枠を切ったので本数が少ない関係上、各番組を少々厚めに語ってみたが、毎週楽しみに観るというほどのモチベーションなのはパパとムスメの7日間くらいで、他はさほどの興味は覚えていない。そのパパムスも予定通りなら二カ月でアッサリ終了してしまうわけで、全体的に剰り面白みのないクールだと言えるだろう。

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