« love love is blind | トップページ | legendary »

2007年7月20日 (金曜日)

fireflies glow slightly

前回のエントリーではとくに関心を示さなかった日テレ水一〇の「ホタルノヒカリ」であるが、第二話までを視る限りは悪くはなかった…つか、昨今流行りのコミックス原作のオフィスラブコメとしては、かなり面白い出来と言えるんじゃないだろうか。

正直、第一話は時折クスリとする程度でそれほど笑えるドラマでもないのかと思ったのだが、第二話に関しては久々に屈託なく笑わされた。今季はシリアスドラマに視るべきものがないということもあって、パパムスとホタルの二本の満足度が突出して高いというのが滑り出しにおける印象である。

日テレ水一〇枠的には「『anego』『ハケンの品格』の日テレがお贈りするはたらく女子のリアルストーリー第3弾」ということらしいのだが、まあスタッフと放映枠と大まかなジャンルが共通しているというだけのコジツケなのはバレバレである。篠原涼子が演じる姐御肌キャラの連作オリジナルドラマという位置附けの二作の後継と視るには、大分イメージが懸け離れていることは否めない。

要するに、従来は低視聴率の死に枠で視聴層をさまざまに模索してきた水一〇枠が、正面切ってF1層にアピール出来るカテゴリーのコンテンツとして、前二作と同一線上に位置附けているドラマというほどの意味だろう。

ほぼ興味がなかったので事前に情報を得ることもしていなかったが、何うやらこの番組もコミックス原作物らしく、講談社Kiss誌というから「のだめカンタービレ」の掲載誌である。のだめ以外にも、「きみはペット」や「アンナさんのおまめ」、最近では「グッジョブ」などそこそこドラマに原作を提供しているようで、版元の講談社全体で考えると、今季は火曜から土曜までに五本ものドラマに原作を提供しているそうだ。

事前に予告映像やTV誌の番組紹介記事を視た限りでは、「会社では、テキパキ仕事をするフツーのOL。でも、ひとたび家に帰れば、『恋愛するより家で寝ていたい』と、ジャージにチョンマゲ姿のぐうたらな女に変貌する」というのが、あんまり素の綾瀬はるかそのまんまなので、役者のパブリックイメージに載っかった際物だろうと思ったのだが、脚本が変に生真面目な北陸人の水橋文美江だけに、普通にコメディドラマしている印象である。

原作者はそれまで割合真っ当な恋愛マンガを描いてきた人らしいが、本人的にはそうではなくても年齢的にバブル期を通過してきた世代なので、バブル期的なエネルギッシュな恋愛志向を女の子の普遍的な体質と視てきたところ、何うも最近、近年の若い女性の感覚とのズレを感じたらしい。

原作者の周囲のイマドキの二〇代後半の女性は、漠然と「彼氏が欲しい」とは思っていてもそれほど恋愛に対するテンションは高くないし、上昇志向はないけれど今の自分を卑下するわけでもなく、現在の生活をそれなりに楽しんでいる。そのような認識から、従来のように恋愛を至上命題として努力して変わっていって意中の彼氏をゲットするというような主人公の物語ではなく、今のだらしない自分のままに恋愛していく主人公のお話を思い附いたということである。

オレのような物臭で自宅志向の人間からすれば、そっちのほうが当たり前の人間の本然だと思うのだが(笑)、女性だって仕事をして疲れ切って自宅に帰ってきたら何もしたくなくなるだろうし、外の世界で一人前の女性として視られる為には男性に比べて何倍もコストや労力、緊張を強いられているだろうから、私生活上でも恋愛を至上命題としてテンションを高める生き方は疲れるはずである。

つまり、バブル期から続くような女性像というのは、ハイコスト・ハイリターン型のセンセーション追求型の生活モデルに則っているわけで、若い女性らしい生き方はかなりのコストや労力を強いられるけれど、それに見合うだけの高いリターンが得られて当然だし、女に生まれた以上はそういう楽しみを積極的に享受しなければ損だという意識が主流的だったわけである。

一面では、景気の好かった当時でも社会的には女性であることのデメリットというのは厳然としてあったわけだし、必ずしも女性にとって薔薇色なばかりの世の中だったわけではないが、社会の活発な消費動向を受けて女性の楽しみには高いリターンが望めるようになったわけで、経済的な自由度さえ確保出来れば今までにない楽しみを享受出来るという希望が、エネルギッシュな生活モデルを支えてきたわけである。

オレと同世代か少し下くらいの世代の女性は、上り調子だった世相を受けて外の世界にはたくさん面白いことがあると認識しているわけで、家の中でゴロゴロしているのは損だという感覚なのだろうが、イマドキの二〇代後半の女性は世の中そんなに面白いことばっかりではないという実直な感じ方が増えているのだろう。

オレ個人としては、どちらかというとそういう感じ方のほうが真っ当だと思うし、歴史的に視れば女性の生活意識の傾向というのは概ねそういうコージー志向のもので、ここ二〇年くらいのアグレッシブで外向的な感覚のほうが特異なわけだし、この先は外の世の中がどんどんつまらなくなってくるだろうから、個人の情緒生活を豊かにするという姿勢も必要になってくると思うのだが、現状の世間の感覚としては外の世界や成長努力を軽視する女性像を負け組として描くのが相応だということなのだろう。

実際、アカラサマに流行らせる気マソマソの「干物女」というネーミングや「あなたの干物度チェック!」的なステロタイプの設定は、殆どメタボリックシンドローム的な扱いで、「こうなったら女としてヤヴァい」的な危機意識を煽る側面もあるわけだが、それを逆に言えば、オレのようなオッサンは「メールの返事は短い&遅い」とか「休日はノーメイク&ノーブラ」なのがそれほどまずいのかという疑問を覚える。

原作者自身のコメントを視る限り、「それはそれでいいじゃん」的な意識でお話を描いているわけだが、トレンドの仕掛けとしては「職場以外で男性の視線を意識しないのはかなり女性として危険」的な意識で煽っているわけで、男性がイメージするようなお洒落な女性の生活スタイルとの対比上「だらしない」「汚い」というネガティブイメージを付与しているわけである。

まあ原作コミックスを読んでいるわけではないので、そんな出発点から何ういうお話が展開されているのかという話は出来ないが、社会的・自己認識的な性差を取っ払って考えれば、面倒なことはしたくないとか、センセーションよりもコージーさが欲しいという感覚は、老若男女を問わず普遍的に共感可能なベースの生理だということである。

雨宮蛍やそれにヒントを与えた実在の女性たちは、恋愛至上主義的で女性誌が提唱するような観念的女性像を自明視しているような女性よりは、生き物としてぶっちゃけた本音で生きていると言えるだろうし、そういう生活スタイルに対してあれをしろだのこう考えろだのと批判的に言及する権利など誰にもないだろうと思う。

ドラマの話に戻ると、やはりオレと同世代か少し下くらいの世代の女性の感覚では蛍のような生活スタイルにリアリティを感じないらしく、話は面白いがちょっと違和感があるというような意見が多いようである。しかし、面白いことにオレのようなオッサンの立場から視ると、蛍のキャラクターがそれほど矛盾して見えないところがあって、それは要するに女性的な自明性の埒外の生理だからということだろう。

F1層向けのTVドラマとして視た場合、蛍のようなキャラクターの感じ方をそうではない女性視聴者にスムーズに伝える手際の面でちょっと弱いと感じるのは、何故蛍がそのようなキャラクターなのかということを第一話で説明していない(最初からそういう人物として提示されている)ということと、そんな蛍がマコトに惹かれる特例性をわかりやすく提示出来ていないということがあると思う。

リンク先のインタビューにあるように、原作者と同世代の女性の感じ方として「恋愛に対してテンションが低い」ということは不自然なことなのであり、「恋愛にトラウマがあるんじゃない?」という解釈になるわけである。つまり、昔非道い目に遭ったからこんな愉しいことを嫌がっているんでしょ、という理解である。

何かのネガティブ素因があったからではなく、自身の価値観の中で恋愛というのは自然とプライオリティが低いのだという感じ方は、そうではない女性にとってスムーズに受け容れられる感じ方ではないわけである。そこをまず視聴者に納得させてからでなければ、F1・F2層の女性視聴者には、蛍のような生活スタイルのベースが何処にあるのかが自然に見えてこないわけである。

この番組を観ている女性視聴者の大半は、若い女性は「女」というジェンダーイメージを演じるべきであるという観念を自明視しているわけで、それはたとえば劇中の三枝優華が語るように「恋愛は自分を輝かせてくれる」というお題目があるからで、男性の好む一方的なジェンダーイメージに奉仕するというわけではなく、充実した恋愛を経験することが女性自身の自己実現や成長に直結しているという理論附けが、まあ女性誌などを中心にして一般に流布されているからである。

男性の目にステキに映る女性として振る舞うことは、男性相手の駆け引きである恋愛の局面では最重要な要件なのだが、それはともすれば男の目に快い自己イメージを引き受けるという負の性格もあるわけだが、「恋愛は自分を輝かせてくれる」→「自分にとっても魅力的な自分になれる」という理論附けがパッチされることで、「オトコの都合に振り回されてるわけじゃない」「自分の為にオトコを利用しているだけ」という面目が保たれるわけである。

こういう理論附けがあることで、たとえばオッサンが「ぶっちゃけ、男の目ぇ気にしてお洒落してるんだろ?」とか無粋なこと(笑)を言うと「自分を輝かせる為よ」とか切り返せるわけだが、ホントにそうかと言えばそうでもないしちょっと釈然としていないという感じ方も当然在り得るわけで、なんで女ばっかりハイコストな生活スタイルを強いられねばならないのか、という不満は、女性の意識の片隅に普遍的に潜在する感じ方なのではないかと思う。

男性のほうは最近では剰り喧しく「男らしくしろ」と言われなくなった半面、女性のほうは世の中がどれだけ変わっても「女らしさ」というジェンダーイメージが幅を利かせているわけで、「恋愛が女性を輝かせる」などというお題目というのは、結局女性にはいつまでも好ましいジェンダーイメージを演じ続けてほしいという、両性の間で社会的利害の一致した暗黙の動機に基づく社会圧の側面があるわけである。

その間の事情に関しては、劇中でも高野誠一のファーストアピアランスで「ラカンによれば、この世に女というものは存在しない」というセリフで唐突に仄めかされていて、世間一般の「女とはこうしたもの」という決め附けには根拠がないという程度の割合俗化した意味で語られている。ボーヴォワールの「第二の性」でも引用するのならともかく、その後描かれる高野像から考えると、ラカンを引いて構造主義的に女性性を論じるようなインテリキャラには思えないのだが、まあそこはそれとして(笑)。

そういう圧し附けを迷惑に感じる感じ方というのは、やはり女性の中でも無視出来ない割合で在るはずなのだが、ぶっちゃけその通りにしていたほうが得なように世の中は出来ている。身綺麗で隙のないスタイルのステキ女子のほうが男にチヤホヤされるのは当然だし、社会生活の中でまだまだ女性の力が弱いことを考えると、男にチヤホヤされることは何かとお得なことは否めない。それに逆らってみたところで何ら得になることはないのである。

そして、男性にチヤホヤされるのは若いうちだけなのだし、外の世界の愉しい娯楽を味わうのも若い女性として視られるうちが華、そして恋愛のセンセーションを得る為にも若いほうが有利である。このようなプラスのモチベーションがあることで、若い女性という存在はジェンダーイメージの圧し附けという社会圧がそこそこ公平に引き合うものと考えて面倒臭い女性としての身振りを演じているわけである。

しかし、これらのプラスのモチベーションに魅力を感じない感じ方というのは在って然るべきだし、そういう感じ方の女性には、何故私生活上でも社会圧に随ってジェンダーイメージを演じなければならないのかがわからないし、簡単に言えばそれに随うことは公平に引き合うことではないのである。

劇中の雨宮蛍にとっては、若い女というジェンダーイメージは社会人・雨宮蛍が強いられる社会的ペルソナの一部にすぎないのだし、極々のプライベートにおいて誰しもが社会的ペルソナを脱ぎ捨てるように、それに付随するジェンダーイメージも脱ぎ捨ててしまうだけの話と言えるだろう。

先ほどのセンセーションとコージーの対比で言えば、若い女のジェンダーイメージというのは私生活上のセンセーションを見返りとして提示しているわけだが、私生活に皮膚感覚的なコージーさを求めるような感じ方にとっては、そんな堅苦しい拘束を私生活上でも受けねばならない必要性はないわけである。

本来的には社会的ペルソナと女性としてのジェンダーイメージというのは同じものではないので、当然ジェンダーイメージには公的生活におけるものと私的生活におけるものの両面があるはずなのだが、雨宮蛍のような感じ方の人物にとっては社会的な場面においてしかジェンダーイメージは必要ではない。それ故に、ワードローブは仕事着と部屋着しかないわけで、女性のジェンダーイメージ上の私生活において必要とされるような衣類の持ち合わせはないわけである。

個人的な昔話をするなら、オレ自身も小中高と飛びきりのド田舎で生い育った為、個人の衣類としては学生服とジャージしか持っていなかった(笑)。色気附いた子供が遊びに行くような繁華街へ出る為には交通機関を何種類か乗り継がねばならないようなド田舎だったから、それが億劫な子供にとって、その辺のご町内に出られるだけの最低限の衣服さえあれば大概の用が足りたし、子供らしい消費行動というのは学校からの行き帰りで済ませることが出来たのである。

しかもそれが戦後が漸く終わったばかりの昭和中期の大昔であってみれば、外の世界にそれほど愉しい娯楽があるわけでもなし、自室で自堕落に転がっていることがこの上なくコージーに感じられたわけだから、自分自身でも繁華街に出られるような外出着の必要性をまったく感じていなかった。上京後は流石にそうも行かず、貧乏生活の中で一からそれらの衣類を揃える苦労は並大抵ではなかったが(笑)。

そこで最前指摘した第二の問題点が出て来るのだが、まず蛍の生活においては恋愛のもたらすセンセーションというのはプライオリなものではなかったわけで、社会的拘束から解放された皮膚感覚的に心地よい状態を第一義に置いていたわけで、これが出発点としてのキャラの位置附けである。

しかし、どんな感じ方の人間であろうが、恋愛というのは等しく襲い掛かってくる呪いのようなもので、オレは、あたしは、一人でいいんだ、恋なんかしなくてもいいんだと思っていても、恋愛という災厄はいきなり唐突に降り掛かってくるものである。

たとえば山田姉さんや三枝優華のような女性にとっては、どんな恋愛も通過点にすぎないと言えるだろう。この種の女性誌的ライフスタイルを自明視する女性は「いつでもステキな恋をしていたい」と宣うのがまずは常道で、恋愛というのは女性の生活の自然な一部だと考えているわけである。まあキタナイ言い方をすればオトコに途切れのないタイプと言えるだろうが(笑)、雨宮蛍にとって恋愛というのは不意に勃発した私生活上の非日常的な一大イベントのはずである。

だとすれば、劇中の手嶋マコト(ステキ男子なのにこの役名、何うにかならんか)は蛍にとって「ステキ男子」という一般項としてではなく、不意に惹かれてしまった個別の異性として位置附けられねばならないはずで、マコトへのアプローチは「ステキな恋の経験」という一般項ではなく、手嶋マコトという個別の男性と関係性を結ぶ為の一回的なプロセスでなければならない。

しかし、やっぱり加藤和樹のようなわかりやすいイケメン王子様から不意にチューされるというのは、干物女が初めて逃れ難く恋に落ちる状況設定としては弱いと思う。一般的な女性視聴者から視て、それは剰りにもロマンティックな「ステキな恋の始まり」に見えるからであり、「なんだ、恋愛に興味ないとか言ってたのは負け惜しみでやっぱりステキな恋がしたかったんじゃん」というふうに映るからである。

これがたとえば、普通の一般女子の共感を絶するような変なシチュエーションだったのであれば、変な女の感じる変なツボという意味で、マコト個人対蛍個人の関係性の問題であることがわかりやすくなったかもしれない。それが女の子なら誰でも憧れるようなお伽噺のシチュエーションだったからこそ、恋愛を生活の一部と感じるような普通の女性の生活への未練として映ってしまうのである。

調べた限りではマコト自身もかなり恋愛には疎い鈍物というキャラらしいので、本来は蛍の気苦労は単なる無駄手間でしかないのだが(笑)、恋愛を生活の一部と感じるような普通一般の女性から視れば、山田姉さんが語るような経験知からの洗練されたセオリーやテクニックという約束事があるわけで、そういう約束事は、小便臭い小娘の頃から自身のジェンダーを意識しながらちょっとずつ獲得していかないと、かなり面倒臭いものである。

蛍がジタバタするのは、そういうふうに若い女性が普通に身に着けているような面倒臭い約束事に則らないと恋愛は出来ないという一般則に対する戸惑いの故なのだし、自身とは異質な存在である異性の感じ方に対する無知からの畏怖心の故である。

恋愛には慣れが必要な側面があるし、自分が恋愛という勝負の土俵に乗っている存在だという自己認識がなければ怖いものである。意中の異性の目から視たら「おまえなんかお呼びじゃねーよ」という場合のほうが多いわけだが(笑)、相手の思惑などわからないとしても、自分のつもりでは少なくとも成るか成らぬか五分くらいの意識でなければ誰も思い切って告白なんてしないだろう。

その場合、「五分」と思えるか否かというのは実際の経験として五分の確率だったという経験知があれば申し分ないわけだが、何ら実績のない状態では、よほどの自信家でもない限りとても成算ありとは思えないだろう。そういう意味では、当たって砕けろ式の無謀なチャレンジは玉砕してもダメージの少ない若い頃に経験しておいて、そこから経験値を上げていって大人の恋を学ぶのが無難なセオリーである。

たとえば劇中の三枝優華や山田姉さんは経験も豊富なわけだから、実際には五分以上くらいに考えているだろう。三枝優華のように、直球勝負で行って正面突破すべし的な生真面目なスタンスでも好いし、山田姉さん的に洗練されたセオリーやテクニックを身に着けるのも好いだろう。要するにそれは、自分の潜在的な経験可能性として在る未来の恋愛の質を高める為の努力である。

ところが蛍のような女性にとっては、恋愛というのは窮めて一回性の強い何ら成算も実績もない無謀な投企である。経験上の信念もなければセオリーもないわけで、自分は恋愛という勝負の土俵を降りた存在であると考えていたわけである。殆ど経験というものがないわけだから、山田姉さんのような女性に「恋愛とはこういうものだ」と確信タップリにセオリーを語られると、男子とはそういうものなのだし、恋愛とはそうでなければならないと思い込む。これは当たり前である。

第一話では「暫く恋愛から遠ざかっていた」というセリフがあるから、まるっきり恋愛と縁がなかったわけではないだろうが、学生時代のことらしいので、大人の男女の間の都会の恋愛の複雑な約束事や駆け引きとは無縁のものだったということだろう。

さらに第一話において高野部長が、他意もなくマコトのことを実像から懸け離れた遊び人のように蛍に思い込ませてしまい、その上さらに蛍とは格の違うステキ女子と視られる三枝優華がマコトに片想いを募らせているということを識らされ、蛍は完全にマコトという存在を恋愛ハイスキルなステキ女子でなければ手の届かぬ高嶺の花と思い込む。

さらに酔った三枝優華に呼び出されて駆け附けたオサレなバーで、せうゆ染みの附いた丸首シャツに膝の抜けたジャージという姿を店員に失笑混じりで注意され、プライベート上でも隙のないファッションに身を固めた三枝優華の姿と対比させられることで、蛍は自分が優華と同じ土俵には決していないことを過剰に意識させられるわけである。

最初の最初から予定調和の両想いの関係にある恋愛下手な二人なのに、周囲の思惑の輻輳やちょっとした行き違いから、在りもしない虚構の壁が二人の間に立ちふさがるわけである(まあ、マコトが蛍の真の姿を識った上で尚も想ってくれるか何うかは未知数ではあるのだが)。

それ故にこのドラマは、「白馬の王子様のキス」という飛びきり少女マンガ的な事件がきっかけで感じたセンセーションによって、コージー志向という常態の生活スタイルに大きな波紋が起こり、自分には関係ないと考えていたから今まで無関心だった世間一般のセオリーを一から学ばされ、普通なら思春期のうちに済ませておくべき玉砕覚悟の無謀なチャレンジに挑む羽目になる二〇代後半女性の悪戦苦闘のコメディ、コンセプト的にはこのようなものと言えるだろう。

まず生活に求めるプライオリティをコージーに置く感じ方にとっても、恋愛感情のもたらすセンセーションは不快なものではない、というか、生身の人間である以上、やはりその激しい波立ちには否定出来ない快感があるわけで、断絶的な二分法ではないのである。ここで対置されているのは、「女を棄てているか否か」という身振りの問題ではなくコージーとセンセーションという二つの快感の在り方の対置なのである。

そのような視座において視れば、このドラマの蛍のキャラ描写は、勿論コメディドラマならではの誇張はあるが、さほど間違っていないものなのだが、そのようなロジックの提示がそれほど強調されていない為に、雨宮蛍の感じ方を自然に受け容れられない女性にとって、その人物像や言動が不可解に映る部分があるのではないかと思う。

普通一般の女性視聴者にとっては、彼女がマコトへアプローチする為に悪戦苦闘するのは、マコトと関係性を結びたいからというより、マコトの出現をきっかけにして、遅蒔きながらステキな恋で自分を輝かせる三枝優華のような女性らしい生き方をしたくなったから、というふうに見えるだろうと思う。

そこを脚本上でも明確に強調して描いていないということもあるだろうが、ドラマという形式においてそのデリカシーを説明するのはけっこう難しいと思う。第一話を子細に視ていくとそれなりに四隅を押さえてあるのだが、伝わるか伝わらないかの部分でかなり微妙なバランスではあるだろう。

たとえば第一話のラストでも、蛍は「恋をする」「恋をした」「恋に落ちた」と現在形から完了形までの時制の連続で語っていて、「恋がしたくなった」とは一言も言っていない。ここで「恋」という多義的で曖昧なタームが使われているからわかりにくいのだが、蛍が言っているのは「傍目には干物に見える女でも、心まで枯れてるわけじゃないんだから、人を好きになることくらいあるんだ」ということである。

なまじいに「恋」というタームで語られているから、山田姉さんや三枝優華のそれのような、ステキ女子の生活の一部としての恋愛経験をしてみたい、そういう女性になりたいという欲求と紛らわしいが、この場合、蛍はすでに恋に「落ちた」と完了形で語っているので、恋はもうしているのである。つまり、ライフスタイルや性自認の問題を語っているのではなく事実として人を好きになってしまったという話をしているのである。

ライフスタイルの問題としての意味附けにおける「恋愛」ということなら、男を好きになっただけでは始まったことにはならないだろう。好きだという気持ちから具体的な交渉に入った段階で漸く「恋愛」は始まるのであって、そういう意味合いにおいては蛍の現状は「恋愛以前」の問題である。それを完了形で語るということは、「恋」という言葉の意味合いが根本的に違うということである。

好きになってしまった人が、自分とは棲む世界の違う相手だからこそ、その相手への想いを満たす為には今までもこれからも関心のない身振りを演じなければならない羽目に陥った、そういう女の悲喜劇という性格の仮面劇のコメディなのである。

そこがちょっと細かすぎて視聴者に伝わっていないと思う。

一般的なF1層の視聴者は、雨宮蛍が干物女になる「きっかけ」的な「過去の恋愛トラウマ」が前史として明かされることを期待しているだろうし、トラウマでもない限り若い女性が恋愛なんか何うでも好いと考えるわけがないと自然に考えているはずである。

原作者の言を視る限り、雨宮蛍は過去に何か辛いことがあった為に恋愛から身を引いているわけではないのだろうから、恋愛トラウマが語られることはそのようなコンセプトと矛盾するので、この先そのような展開にはならないだろう。過去の恋バナが語られるとすれば、それはコージーを上回るほどのセンセーションではなかったという程度の話になるはずである。

しかし、そうだとすれば、最初からこのようなものとして提示された雨宮蛍の感じ方をどのように視聴者に受け容れさせるか、納得させるか、そこの一手間に余程の工夫がなければ、やはり普通一般のF1層の視聴者にとって雨宮蛍は珍獣的な絵空事の存在でしかないのかもしれない。

たとえば第二話で、深夜のマコトの訪問に慌てふためいた蛍が、舞い上がった挙げ句に珍妙なメイクとファッションに成り果ててしまう様が、会社でテキパキと仕事をこなす有能な姿と整合して見えないという意見も目にしたが、オレ的には別段違和感を感じなかった。流石にあの在り得ない服装はギャグだとは思うが(笑)、「どんなナリをして出迎えて好いかわからない」という混乱自体は理解出来るという意味である。

最前触れたワードローブの二極化ということもあるし、雨宮蛍の認識として仕事=社会性、私生活=個人性として割り切っている為に私生活上での二者関係(これもまた社会性の文脈の事柄である)に戸惑いを感じるのが自然ということもあるが、こういう女性でも仕事の場面ではこれまでの失敗や成功の積み重ねの中で実績としての経験知があるわけで、何をすれば何うなるということがわかっているが、恋愛に関しては何を何うすべきなのか、何をしてはいけないのか、皆目経験知がないわけで、そこはまったく欠落したデッドゾーンなのである。

悪い言い方をすれば、仕事というのはある程度失敗が許されるわけで、失敗しても後のフォローが肝心なものであり、寧ろ仕事には必ず失敗が伴うのだからそのフォローが上手く出来るか何うかで手腕が問われる部分がある。しかし、恋愛というのは失敗したらそこでオシマイであるし、オシマイだとしか思えないものである。そのくせ、失敗したダメージは仕事と同じかそれ以上なのだから、ある程度プレイヤーとしての技倆や状況をコントロール出来るという自信がないと参加出来ないゲームである。

山田姉さんは仕事にも恋愛にも自分なりのセオリーがあって、どちらの分野でも自分をそれなりの技倆のプレイヤーだと自負しているし、三枝優華も自身の女性としての来し方や生き方に自信があるわけだから、それを在りの儘にぶつければ好いと考えているわけで、今更意中の男性の前でオタ附いたりしないだろうが、女性としての私的なジェンダーイメージを他人事として考えていた雨宮蛍にとっては、私生活上で女性として振る舞わざるを得ない場面にはまったく自信がないわけである。

だからまあ、仕事の上でマコトと接する分には内心はともあれ表面的には問題ないわけだが、私生活上でマコトと接する場合には、女性としての自分が何うあるべきなのか、何う振る舞うべきなのかという自己イメージが一切ないわけである。

たとえば、徹夜でつくった失敗事例ファイルを渡せなかった場面を考えても、「マコトと口を利くことが出来なかった」という表現にはなっていないわけで、その前のマコトのリノベーション提案を後押しした態度を視ても、たしかに男性として意識しているとは言え、仕事の上で業務上の動機で接することにはそれほど大きな抵抗は感じていないわけである。

しかし、マコトへの好意を動機として作成した資料を渡すことが私的な感情の表現であるという過剰な意識があるからこそ、資料ファイルを渡すというただそれだけのことが出来ないわけである。それは、たとえば仕事上の伝達事項を伝えることや業務上必要な資料の授受とは全然違う性格の問題なのである。

たしかに仕事が媒介になってはいるが、それは蛍にとっては私的な感情の表現に直結しているのであり、本質的には業務行為の一環ではないからこそ資料ファイルを渡せないのである。それは社会的ペルソナと一体化したジェンダーイメージの中に私的な性格の自己イメージを織り込むという、これまで一度として経験のないことをやらねばならないことから生じるハードルなのである。

今後、マコトに対する意識の私的な側面が拡大していくに連れ、公的な場面において私的側面の突出する特異点として蛍の態度が変化していくことは考えられるが、行動律としては一貫しているわけで、自宅でどんなに珍妙な振る舞いを演じても矛盾はないと思うのだが、雨宮蛍のように感じない女性から視れば、仕事が出来る有能な女性なら私生活上の問題に対しても冷静に対処出来るはずというふうに見えてしまう。

そこが一般的な女性にはわかりにくいという認識の下に意識的な表現として強調されていないから、何となくわかりにくくなっているのだろうと思う。というか、最前触れたような原作のコンセプトに即して言うなら、そこは従来のオフィスラブコメドラマの話法では説明の困難な部分で、普通なら説明不要なオトメ心の自明性の部分に欠落を抱えたキャラの物語であるが故に、そもそものキャラの成り立ちから説明する必要があるからである。

おそらくその部分に関しては多くの女性視聴者に理解されておらず、寧ろ引き籠もり系の男性のほうがよくわかる部分ではないかと思うのだが、原作者のリサーチが何某かの実相に触れているのであれば、オレが想像するよりも多くの女性視聴者に通じている可能性もあるだろう。

そういうわけで、基本コンセプトやキャラの成り立ちの解析だけでえらく手間取ってしまったので、ここらでざっくり各論に入りたいと思うが、このお話の面白いところというのは、干物女という新カテゴリーの珍獣女の生態を面白可笑しく誇張して語る「あるあるリポート」的側面だけではなく、少女マンガ的なラブコメとして視ても作劇にサービスがあって全方位で楽しめる娯楽作品となっているところである。

職場の上司とOLという在りそうでなかったカテゴリーのカップリングの男女が偶然同居生活を始めるという設定に基づく「秘密の共有」「二重生活」のドキドキ感、また恋愛に参戦する男女が複雑にお互い同士の実像を誤解していることから、演技や偶然の勘違いに基づく仮面劇の側面がそれに併置され、さらにマコトという王子様を巡る高野誠一・雨宮蛍組VS神宮寺要・三枝優華組の恋の集団抗争劇の面白み、恋愛抗争の勃発を契機とした職業人としての成長物語など、盛りだくさんな物語構造の仕掛けがある。

就中仮面劇の側面について言えば、たとえばマコトが誰を好きなのかを蛍は識っているが優華は識らず、干物女の実像をマコトも優華も識らず高野誠一だけが識っていて陰日向に応援し、マコトが恋愛下手な鈍くさい男であることを周囲は識らないが優華だけが識っていること等々、識っていることと識らないことの複雑な錯綜が非常に入り組んだスラップスティックを現出させていて、それがこのラブコメドラマのメインの面白みを担っている。

また、憧れの王子様であるマコトよりも、原作者のサイトのファン投票ではぶっちぎりの人気キャラである高野誠一のキャラがフィーチャーされているのは、蛍とマコトの関係よりも蛍と高野誠一の関係を主軸に据えて描いていくということだろうし、滑り出しの雰囲気や初期条件から考えれば蛍と高野が結ばれるという結末は考えにくいから、互いが互いを想い遣ることで互いの人間回復がもたらされ、蛍×マコト、高野×別居中の夫人というカップリングの関係性を深めていく一種の疑似家族物やバディ物としての性格もあるということだろう。

こういう複雑で盛りだくさんな物語を捌いていく水橋文美江の脚本も冴えていて、小ネタの扱いもテンポが好いし、たとえば第二話中盤で立ち聞きの連鎖で登場人物の出し入れを行う芝居場の段取りも垢抜けていて、さらに「誰が○○だって?」と問われて一旦惚けさせておいて「○○のことだろ?」と落とす天丼ネタで繋ぐ辺りのオサレなダイアログのセンスは、全盛期のトレンディドラマを思わせる。

それから、オレは個人的に「すかし」の笑いは嫌いなので、第一話のラストで高野が蛍に同居を持ち掛け、盛り上がりかけた呼吸で劇伴がストップして「何もそこまで言わんでも」と思うほど執拗に蛍の干物ぶりを論うオチの附け方はすかしにしてもイケズすぎて何うかと思ったのだが、第二話でもそのオチのフォーマットが踏襲されていて、剰り器用な役者ではない藤木直人がこれでもかとばかり憎々しげにしつこく言い募るのが、高野誠一のキャラ附けの一環として視ればこれも一つのベタなギャグとして面白い。

このくだりはとにかく言い回しが諄くてしつこくてネチネチしていて、同じことを表現を変えて何度も何度も飽きるまで繰り返す辺りの執拗さが身につまされる(笑)のだが、たとえばマンガの文法でフキダシをたくさん作ってコマを埋めるような手法ならカラッとした笑いになるが、実写の芝居として視ると異様に突出して見える。

第一話だけで視ると、芝居の流れ上のセリフに見えるからちょっと過剰にキツく見えてしまうが、繰り返しのオチとして視ると「こういう人なんだからしょうがないな」で済まされてしまい、今回はどんだけしつこく言い募るんだろうという期待に繋がるわけである。

そしてここで重要なのは、高野に言い募られる蛍のほうでは、自分が干物女であることそれ自体については納得していることが押さえられているということである。だらしない生活ぶりや女として潤いのない行動律については、自分が好きでやっていることなのだから、幾ら高野にこっぴどく言い募られてもそれほど深刻な自己否定の侮辱とは受け取っていないわけである。

蛍が高野のイケズなツッコミにヘコむのは、そんな在りの儘の自分が自身の幻想中のマコトの棲む世界とは隔絶した存在であることを思い知らされるからで、それは一面では反論のしようがない事実であるが、恋愛下手な天然ボケというマコトの実相を高野も蛍も識らないことで、その半面では事実誤認でもあるのである。

こういう段取りを踏まえれば、ラストのお約束としての高野の厳しい言葉は、我知らず蛍の恋愛を応援するスタンスに立つ高野から蛍へ向けられた叱責の言葉という性格が出て来るわけで、「そんなこっちゃ甲子園には行けんぞ!」「ぶちょお〜!」的なスポ根の性格も立ち上がってくるわけである。

こういうところが几帳面で神経の細かい北陸人の良さで(笑)、ともすれば絵面のインパクト重視に走り勝ちなオフィスクレッシェンド作品に丁寧なドラマ的内実のアリバイを用意している。おそらく連続TVドラマで質が良いというのはこういうことなのだろうし、近年の連続ドラマは視聴者に不快感やストレスを与えるような作劇が忌避される傾向がある(つまり、民心が疲弊していてアグレッシブなインパクトが敬遠されている)ようなので、誰も痍附けない優しいコメディが安定した強みを見せるのではないかと予想している。

このような視聴者の嗜好についてはCXドラマでも敏感に察知しているようで、今季肩の凝らない莫迦ドラマを揃えてみせたのも、疲れ切っている大人の視聴層に喧嘩を売るような作劇で当たりがとれる世の中ではないし、ガキにアピールするならバラエティ的な莫迦騒ぎとイケメン攻勢が効果的、と読んだものだろうが、月九の脚本に起用した井上由美子はどちらかと言えば視聴者に喧嘩を売る姿勢の書き手なので、それが結果的に吉と出るか凶と出るかは微妙なところである。

さらに逸脱を許されるなら、今季の日テレのドラマ編成戦略にはちょっと面白いところがあって、従来的な土九のラインの劇画ドラマを新設の火一〇枠に振って宵っ張りのガキの取り込みを狙い、水一〇枠はシノリョウ路線のお仕事物でF1層を確保、そして土九枠では敢えてこの枠生え抜きのヒット作である「女王の教室」を直接連想させる題材で汎年齢層的に勝負をかけているのが、目先の視聴率動向で動く乱暴な日テレの編成戦略にしては長期展望的でリーズナブルな枠の性格堅めである。

閑話休題、たっ恋を外して以来、少々落ち目に視られていた綾瀬はるかの主演というだけで期待薄だった作品だが、役者の柄を上手く活かした造形で面白みのあるキャラに描けていると思うし、最前触れたようにそれほど起用ではない藤木直人も使い所が難しい役者だが、堅物で神経質なだけではなく公平なところもあり、朴念仁ではあってもそれなりに人情家肌でちゃっかりした幼児的なところもあるという高野誠一の変人キャラは藤木直人の柄には好適だろうと思う。

キャスティングでちょっとアレだなと思ったのは、山田姉さん役の板谷由夏とこんな役ばっかりの浅見れいなの柄が被っているところくらいで、「芝居の諄い小男」というパブリックイメージが定着していて藤木直人以上に使い所の難しい飛び道具役者の武田真治も、ちゃんと原作で「身長一六二センチ」と設定されている小男殿様キャラというのが笑った。たしかにまあ、こんなキャラは武田真治以外には演じられないだろう(笑)。

そういう次第で全体的に満足度の高いドラマではあるのだが、第二話がこれほど面白いと後はそんなにテンションが続かないのではという気もするが、最近の水一〇枠は割合最後まであざといテコ入れもなく歩留まり良くシリーズが展開するので、それなりに楽しませてくれるのではないかと思う。

|

« love love is blind | トップページ | legendary »

コメント

先生。トンボの役名は手嶋マコトです(笑。

私が見て蛍の造形にピンとこないのは、彼女が社会生活のペルソナをちゃんとつけられてい過ぎる点ですけどね。彼女がおたついているのは女の子なら小学校レベルの恋愛で対処できる部分で、いっそ彼女が田舎の中学校でアニメヲタクな青春を送った彼氏いない暦=年齢みたいなキャラならそれなり納得いくんですけど、むしろ1話の蛍のいないシーンで「家に男がいる」じゃなく、「雨宮さんはなにか浮いてる」と言っててくれた方が抵抗なかったですね。どう見られるかという見られ方を意識できるというのは女の子なら持ってて当たり前のスキルなわけで、そこをクリアできない蛍みたいなキャラなら会社でもなにかの拍子にボロは出してたよ、と見えるんです。

まあ期待がなかったわりには楽しめている番組なんで特に文句はないから余談にコメしますけど、火曜10時に探偵学院Qというのははずしている気がしますけどね。今は子供の部屋にも普通にテレビがあるのかも知れませんけど、中学生がしたり顔で事件を解決するのを喜んで見られるのは中学生までなんじゃないかなあと思うので、あれはやはり土曜日9時が妥当な線だと思います。

投稿: quon | 2007年7月21日 (土曜日) 午前 04時26分

>quonさん

ああしまった、そのまんまではなかったですよね(笑)。あんまり「手塚真」に激似の役名なのでうつかりそのまま書いてしまいました(笑)。早速直しておきましたが、手嶋マコトだけじゃなくて高野誠一という役名も「喰いタン」の高野聖也と紛らわしいですね。コミックス原作と知らないうちは、てっきり喰いタンから戴いた役名だと思ってました。

蛍のキャラに関しては、マンガだから誇張して極端化している部分はあると思いますが、都会の子のメンタリティでないことはたしかですね。第一話の冒頭では田舎の生活が描かれていますけど、何となく都会の子が田舎に行ったときのようなニュアンスもありますし、都会の子だとすると、キャラの在り方よりも成り立ちにリアリティがないという言い方が出来るかもしれません。

都会で女性として育つということは、大量のモノや情報やヒトに囲まれて育つということで、有形無形の社会圧も田舎よりは強いと思うんですね。そういう環境においてそうした社会圧を無視して無事に生きてこられるとはちょっと思えないし、当たり前に言うなら女子の目から視て附き合いの悪い変人なわけだから、いじめという問題もあるでしょう。そういう意味でアクチュアルに考証すれば、今現在このような蛍が無事に存在するアリバイがないという言い方は出来るでしょうね。

それと、公式サイトの干物度チェックを視ると、蛍の仕事着は女性誌の一週間コーディネートをそのまんま拝借したものらしいんですが、女性誌を購読するくらいだったら、もうちょっと女子としての世間知があってもよかろうというふうにも思えますね。そうでないとすれば、ハイセンスな職場ファッションを自前でコーディネート出来るということになるので、やっぱりちょっと不自然になるわけです。

さらにquonさんが仰る通り、リアルに考えたら蛍のようなキャラは普通の女性に比べて自己イメージに欠落がある変わり者なわけですし、職場というのは必ずしも公的な性格一辺倒の場所ではない、私的な側面も勿論あるわけです。ならば、蛍のような一般性に欠ける人物像が職場の同僚の女子にバレないというのも不自然なわけで、寧ろこの物語世界で一番大きな嘘事というのは、普通ならアッサリボロが出るはずのことが何故かバレないという約束事なのではないかと思います。

そういう意味で、やはりコミックス的な誇張された世界律に則って動いている世界であることは議論の余地がないのであって、極端化の為の手続としていろいろ不自然な約束事はあるし、それをリアリティがないと表現することは出来ると思います。

その半面、それを嘘事の世界律として捨象するなら、たとえば小学生の頃から恋愛にプライオリティを感じない女子の心性というのも十分在り得るのではないかと思うんですよ。まあオレも田舎育ちなんで説得力がないですが(笑)、クラスでどの男子が好いかという話題に全然興味を感じない女子というのも、少ないながらいるわけですから、女の子は須く小さい頃からマセていて異性に関心があるという決め附けも大した根拠があるわけではないと思います。

たとえば川原泉の作品の主人公もかなりそういう部分があるわけで、惚れた腫れたという女子なら当たり前に持っているモチベーションで動かない部分があるわけですが、これは作者の川原泉自身が相当干物度の高い人だったということも反映しているでしょう。作風が確立されてくるに随って、主人公の少女は女性性からどんどん遠くなっていって、性的な属性が欠落した一人の「子供」として描かれる傾向が強くなったと思うんですよ。

考証的なリアリティがあるかと言えば勿論このドラマの虚構度はもっと高いので、アクチュアルな人物というよりマンガ的なキャラとして造形されている側面は否定出来ません。要するに、干物女的な傾向のある女性は存在しても、蛍のような極端な二重性を抱える人物は現実には存在しないわけです。

ですから、今回語ったようなことというのは、虚構度の高いマンガ的な世界律の下で極端化されて造形された人物に一貫した行動律が成立しているかどうか、そしてそこで描かれたキャラの心情が普遍的な何某かの心性を言い表しているかどうかについての問題なんですね。

そのようなキャラ造形に対してオレが好意的なのは、やっぱり男だからということもあるだろうし、女性性という自明なジェンダーイメージを一度疑ってみようよというのが、フィクションの試みとして面白いということもありますね。

男性と女性ではかなり感じ方の違う部分というのは厳然としてあるわけですが、普遍的に共有している部分も必ずあるわけです。男ならこう考えるはず、感じるはず、女ならこう考える、感じるはず、というのはたしかにあるんですが、そうと決め附けたもんでもねーだろうという部分も一方ではあるわけで、そういうマイノリティを否定せずに拾ってみようという視点が好きなんですね。

男性というのは一般的に女性の目を気にして生きているだけではないわけで、寧ろそういうのは柔弱だと誹られる環境で育つわけですが、女性というのはいろんな意味で男性の視線を気にするように躾けられて育つわけです。

今は多様性の時代ですから、女性の目を気にしないヲタクや引き籠もり傾向のある若い男性だって眦を吊り上げて批判されたりしないですし、ぶっちゃけナンパだろうがヲタクだろうがモテない奴はモテないし、モテる奴はモテるわけですが、女性の場合は若いうちから干物生活を送っていると、間違いなく寄って集って「女として終わってる」「女として如何なものか」と決め附けられてしまう。男性のオレから視ても、そういうのって公平じゃないんじゃないかなと思うわけです。

「若い女がそんなことでは」なんてのはまさに大きなお世話なんであって、恋愛なんてそんなに重要度の高いことではないよ、という感じ方も尊重されて然るべきなんじゃないかと思うし、そういう女性でも好きな男性との出会いがあれば普通に恋が出来るというのが真っ当なんじゃないかと思うわけです。

そういうローテンションな生き方を充実していないと評価する価値観一辺倒というのも何か違うんじゃないかと思いますし、充実した恋愛をする為には積極的に自分を磨いて恋愛テクニックを身に着けて勝負すべしというのは、偏った価値観だと思うんですね。

そういう意味で、干物女がさしたる努力もせずにイケメン王子様を予定調和的にゲトするという物語は、一見して甘い御伽噺に見えますし、そんな甘いもんじゃねーだろという感じ方もあると思いますが、努力して自分を磨いて意中の男性をゲトするというのも、やっぱり絵空事ではあるんですよ。現実の恋愛というのは努力や自己成長とは無縁の論理で成立している事柄だろうし、そういう意味では「恋愛かくあるべし」的な論理は悉く絵空事のよけいなお世話様なんですね。

そういう意味で、最初の最初から恋愛という関心事を相対化しているお話なのが面白いと思ったのと、恋愛が女性の最大の関心事であるはずだとか気の利いた女子なら恋愛巧者を目指すべきというような決め附けの前提に異論を唱えているのが面白いと思いました。そんなことは誰かが決め附けるべきことじゃないと思うんですよ。

今回触れたような「生活の一部としての恋愛」とは別の恋愛のとらえ方があってもいいんじゃないか、誰だって誰かを好きにはなるけれど、それが生活のプライオリティであるとか、スキルを高めて対処すべしというのは違うんではないか、そういう意味で「干物女だって恋をする」と語られているのが真っ当だなと感じたのが好感度が高かったんですね。

勿論オレだって男性ですから、ステキ女子がステキなことは否定しませんし、常日頃からエビちゃんだの山田優だの押切もえだの、一般女子の憧れの的のステキ女子に萌えを表明しているわけですから、干物女で何処が悪い的に言うのは無責任に見えるかもしれませんが(笑)、この年になるとそういうのだけが現実の恋愛の価値観ではないと思います。

女性というのは、常に経験可能性としての未来の恋愛の為に全方位で構えていなければならないのか、そこまで恋愛というのは女性にとって一義的に重要なのかというのは、やはり問われて好い疑問だと思います。

それから余談の件ですが、まあ飽くまでこれは日テレの「つもり」についての推測です(笑)。多分、日テレ的にはCXの火九・一〇の連続で押さえられているF1層をこの時間帯で狙いに行っても限られたパイが割れて共倒れになるだけだから、昨今のお子供が宵っ張りなことに賭けて年少層を狙いに行ったんでしょうね。元々それなりに視聴率を稼いでいた二時間ドラマの後枠なので、ドラマで勝負したい色気はあるんでしょう。

ただ、大人がTVを視ていないゴールデンなら子供にチャンネル権があるのでそれなりに数字が稼げるだろうけれど、九時以降となると大人の意見が強くなる、そうなると世帯単位で採取している視聴率として明確に顕れてくる可能性は低いわけで、そこが考えどころだろうとは思いますね。前季のセクシーボイスの低迷も、案外こういうところに原因があるのかな、と。決して誰も見ていないわけではないんだろうけれど、今の視聴率採取の仕組み上、高視聴率が稼げない状況なのではないかと思います。

その一方で、F1層狙いは裏に同一視聴層狙いのドラマ枠がない水一〇に振って、最も実績のある土九の枠はフラッグシップ的に位置附けて汎視聴層的な展開が出来ないものか、そういう「つもり」があるんじゃないか、それにはそこそこロジックが通っているんじゃないかという話です。

投稿: 黒猫亭 | 2007年7月21日 (土曜日) 午後 02時29分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: fireflies glow slightly:

« love love is blind | トップページ | legendary »