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2007年7月23日 (月曜日)

legendary

継続視聴している番組としては、これまで唯一触れていないのが日テレ土九の「受験の神様」だが、正味なところ剰り積極的な興味を感じていない。元々のコンセプトにそれほど魅力を感じなかったということもあるが、実際に視聴してみてもいろいろ物足りないものを感じたというのが正直なところである。

まあ、コンセプト的には「女王の教室」+「ドラゴン桜」といったところで、土九枠生え抜きの女優・成海璃子を主演に据え、さらにその成海璃子が「演歌の女王」で女王の教室の阿久津真矢を演じた天海祐季の弟子になった経緯を踏まえて、阿久津真矢との類縁性を感じさせる謎めいた教育者の役柄を演じているということになり、コンセプトとしては捻りが効いていてそんなに悪くないというところだろう。

しかし、実際に視聴してみた感じでは、大コケした演歌の女王ほども面白くないという印象で、成海璃子に興味がなかったらやっぱり継続視聴は断念していただろう。コンセプト的には土九枠向けに見える題材だが、実際に出来上がったドラマを視ると土九的なポップさや過剰な物語性が欠けて見えるのである。

演出はいつもの岩本仁志だから大体想像通りだが、脚本の福間正浩というのは聞いたことのない名前である。例によって作歴を調べてみると、一枚看板の連ドラはこれが初めてで、これまでは主に中園ミホがメインを務める作品の脚本補か中盤で数本書いている程度で、中園ミホとは無関係な連ドラの作歴が一本もないから、早い話が中園ミホの弟子筋に当たる人材のようである。

とはいえ、中園ミホに他人を指導出来るような独自の脚本作法があるというわけでもないし、本人も引きやコネや偶然で脚本家になったようなところがあるので、まあ師匠として仕込んだというよりは、仕事を仲介してやっている程度なんではないかと想像するので、特段に中園ミホの作風との関連を視野に入れて語る必要はないだろうと思う。

中園ミホと縁が出来たのは二〇〇四年頃のことらしく、テレ朝の深キョン版「南くんの恋人」で一本書いていて、同年および翌年の日テレ「恋のから騒ぎドラマスペシャル」でも一本ずつ書いて、「金田一少年の事件簿 吸血鬼伝説殺人事件」を書いたのが最初の大きな仕事という経歴となる。

一方、恋からスペシャルの頃から中園ミホと日テレの縁が出来ていて、それまでCXを中心にTBSとテレ朝が混ざるという順当なバランスだったのが、恋からスペシャル以降は「anego」「プリマダム」「ハケンの品格」と日テレ水一〇枠が続いている。

土九に廻された「ごくせん」以降一桁台の低視聴率に泣かされ続け、死に枠とまで言われた水一〇枠が盛り返したのは、実質的には中園作品のアネゴとハケンのお陰なのだから、バーターで土九に弟子を突っ込んだという形になるのだろう。生臭い脚本家の世界ではよくある話であるが、こういう世界では実績のある実力者が責任を持って推薦するのでもない限り、未知の人材を登用するのはリスクが高すぎるから、一概に批判したものでもないとは思う。

つまり、斡旋した人間が思わしい成績を上げられなかった場合は、後ろ盾になっている人間が借りを背負って挽回の為に好い仕事をしますよ、という一種の身元保証を行うわけである。ちょっと気の利いた脚本が書けるからと言って、それがコンスタントな実力なのか、期待されている成果を上げられる可能性があるのか、ワンクールの番組の脚本執筆作業を責任を持って完遂出来るのか、こういうリスク要素を師匠筋に当たる人間が保証するシステムになっているわけである。

そういう意味では、身元保証人のいないノーマークの新人を一から発掘して人材を開発する場合には相応のリスクが伴うわけで、たとえばCXのヤングシナリオ大賞受賞者の金子茂樹の作品で屡々「脚本協力」のクレジットが無闇に増えるのはその種のトラブルの存在を匂わせるのだが(笑)、著名な師匠の斡旋であればそれを通じて圧力を掛けコントロール出来るし、最悪モノにならなかったり逃げられたりした場合には、師匠自らケツを持ってくれる保証があるわけである。

前述の通り中園ミホ自身が他人の仕込みや力添えをステップに天晴れ一流脚本家面をしていられるということがあるのだから、そういう意味では後進の斡旋に一臂を貸すというのは業界なりの伝統に則ったものと言えるだろう。

そんなところで身元調べを切り上げて実作を視てみると、まあ悪くはないが良くもないというところで、多少語り口にぎこちないところもあり、取り立てて手柄のある脚本でもないという印象である。

まずこの作品はそもそもの設定にかなり無理があって、中学生が小学生の受験を指導するという辺り、話を聞いただけでも相当嘘臭い設定である。さらには視点人物の山口達也とその息子の父子家庭の家族関係上の課題に対しても、謎の美少女が刺激と示唆を与えて解決に寄与するという構造になっているわけだから、成海璃子の演じる菅原道子というのはまず現実には存在しない虚構的な超人である。

このようなハナから嘘臭いお話をリアリティを持って語るには、語り口に相応の工夫が必要なわけで、作劇リアリティを奈辺に設定するか、それを具体的にどのような語り方で提示するか、というデリケートな問題があるのだが、第二話までを視る限りそこが上手く行っていないという印象である。

詳細なキャラ設定を視ると、「『受験の神様』と呼ばれる天性の才能を持った中学3年生。中学受験時、難関17校全てにトップ合格。御三家と呼ばれる有名中学のうちの一校の特待生となり、授業・学校行事に出なくて良いという権限を持つ」というのがまず嘘である。

無粋を承知でツッコミを入れれば、本人が超人的な秀才であることと、凄腕の家庭教師であることは別の事柄である。「中学受験時、難関17校全てにトップ合格」という秀才としての実績があったとしても、そんな秀才にウチの子を教えて欲しいと考えるような親はいないだろう。何故なら、その時点では単に本人のアタマが非常識に良いというだけで、他人を教える技術が凄いという話でも何でもないからである。

何処かの莫迦親が酔狂を起こしたか、道子が自分でアルバイトを始めたという設定なのかは識らないが、何かのきっかけで一年生の時点で道子が家庭教師を始め、かなり問題外の成績の劣等生の実力がめきめき上がり(成績の良い子だったら本人の手柄と見做されるのが当然なので)、難関中学に合格出来たという非常識な実績があって初めて「受験の神様」の最低要件が整うわけだから、必ず一度は受験シーズンを経験していなければならない。つまり、その時点で道子は最低でも二年生になっているはずである。

劣等生だった子供の成績が劇的に向上した時点で口コミで「ウチの子も」と考える親が出て来ることは考えられるが、この時点ではただの優秀な家庭教師であって、一年目に道子に教わった子供が一〇〇%難関中学に合格したという実績があればこそ百発百中の家庭教師として拝み倒される存在になり得るのだから、それは二年生になってからの一年間の話である。さらに、その評判が確定するのは二度目の受験シーズンにおいて一〇〇%の教え子が合格し、フロックではないことが裏打ちされて以降のことでなければならないから、要するについこの間の三月以降のことである。

中学時代は高々三年間しかないのだから受験シーズンも三回しかないわけで、三回目以降は道子自身が中学生ではなくなってしまうわけだから、つまり菅原道子の「受験の神様」としての伝説は二度の受験を巡るスパンの話であり、その伝説が定着したのはほんのここ四カ月くらいの話でなければならないわけである。これはまあ、伝説は伝説でも近所の噂話くらいのリアルタイムのニュアンスの話になる。

普通、この種の「伝説上のプロ」を設定する場合、最低でも一〇年くらいのコンスタントな実績を背景にしたプロフェッショナルを想像するわけで、それが一種の記号となって視聴者の思考停止を誘うわけだが、二年くらいのスパンの話では精々が一種の流行り神というところである。

これはまあ、今在る超人の成り立ちを語る経緯としてはギリギリ「不可能ではない」というレベルのアリバイで、視聴者が積極的に嘘事に乗りたくなるような説得力はこの設定単体には欠片もない。ついこの間自身も受験を経験したばかりの中学生が受験対策のプロフェッショナルとして幾らも年の違わない小学生を教えるという設定そのものが嘘臭いのだから、デフォルトの要件として視聴者はその根拠附けを求める動機があるわけだが、そのような自然な不審を宥め得るほどに説得力のある根拠ではないということである。

つまり、そもそも小便臭い中坊の小娘が受験に対して百発百中のノウハウと指導力を持つという事実自体が嘘臭いわけで、その事実自体が客観的状況設定によって補強を要求しているのだが、「不可能ではない」というレベルの根拠附けでは元々嘘臭い設定を自明の前提として受け容れて物語を楽しむ気分にはなれないわけで、まずそこをクリアしなければこの物語は始められないのである。

主人公の設定が客観的な考証の観点では不審を払拭出来ない以上、具体的な物語の語りによって説得力を補強してやる必要が出て来るわけだが、そこに何の知恵もないからそのまんま嘘臭い話として見えてしまう。

大の男が女子中学生に土下座するというインパクトで説得力を醸し出そうとしているのかもしれないが、それは今在る現状の説明であって、どうして大人が土下座してまで道子に縋るのか、道子の何処にそのような凄みがあるのか、という部分で描写を積み重ねる必要があっただろう。

しかし、第一話の時点における道子の描写は、小石を投げて缶カラに当てたとか、試験で満点を獲ったとか、弓の腕前が百発百中だとか、肝心要の嘘臭い部分の核心に迫るものではなかった。これは道子がちょっと凄い中学生だという描写にはなっていても、神と崇められるほどの凄い家庭教師だという描写にはなっていない。

順序としては、凄い中学生→凄い家庭教師と段階を踏んで描写を重ねていくべきなのだが、ドラマの嘘事として比較的受け容れやすい凄い中学生としての部分しか描いていないのだから、このドラマ個別の嘘臭さとして描写による補強を要求している凄い家庭教師の部分は相変わらず放置された儘なのである。

その具体を後の楽しみとしてとっておくのであれば、伝説それ自体を重層的に強調しておくという手続が必要だっただろう。つまり、劇中世界の人々がその伝説を堅く信じているという間接的なリアリティを補強する作業である。その為には、視聴者が感じる自然な不審を、噂話によって先回りして段階的に潰していくという語りの手続が必要だったはずなのだが、段取り的に道子の存在を説明しているだけで、リアリティ獲得の手続として伝説を利用している節がない。

もっと言えば、そこまで描写を積み重ねないのだとしたら、道子のような誇張された超人が存在可能な虚構度の高い語り口が必要だったはずなのだが、このドラマの語り口は妙にアクチュアルなリアリティに基づいていて、変に現実的な語り口になっている。そこがすでに整合していないわけで、現実的な語り口の中で嘘事に説得力を持たせる工夫や実直な積み重ねもないから、道子の嘘臭さが無粋に際立って感じられてしまう。

要するに、そういう無粋なツッコミを入れるのは野暮だろうと視聴者が納得するような虚構的な雰囲気の醸成に失敗しているわけで、この語り口のアクチュアリティは寧ろそういう無粋な現実的側面の考証に目が向いてしまうような作りになっているのである。

何う考えても、現実の女子中学生が大の大人の人生に示唆を与えられるほど超越的な存在では在り得ないのだから、本質的に菅原道子というのは現実の女子中学生ではなく神や悪魔に類似の虚構的な超人でなければならないのだが、そもそもそういうリアリティや虚構度に対する勘がないのが問題なのではないかとすら感じられる。

普通の現実と地続きのリアリティの語り口で凄い中学生、凄い家庭教師として描こうとしているのだから、普通の視聴者が普通の現実の常識に照らして「そんなの嘘だろう」としか感じないのは当たり前の話である。

まあこの辺の勘働きについては、この作品が下敷きにしている「女王の教室」においても、超越的な謎の存在で在り続けるべき阿久津真矢について終盤の展開やスペシャルドラマで現実的な人間としての来し方や動機面を掘り下げて描いた日テレだから、剰り期待は出来ないだろうと思うのだが(笑)。

脚本以外の問題点としては、やはり視点人物である父親役に山口達也を宛てたのは失敗ではないかと思う。この演者はジャニーズのアイドルではあるが、主にTBSの現実的な語り口のホームドラマでキャリアを積んできた人材だから、この人が出て来るだけで妙に生々しいリアリティの話に見えてしまう。

たしかに設定を視ると、ラグビー莫迦の体育会系のサラリーマンという窮めて現実的な人物なのだが、この役柄に山口達也を持ってくるのはやはり違うだろう。第二話までの筋立てを視る限り、梅沢勇というキャラクターはステロタイプの平凡人というより、ラグビーに純粋に打ち込んできた体育会系の学生がその儘大人になったような何処か毀れた社会人であり、息子とのすれ違いはそうした勇の個別的な人格面の問題性に遠因があるというふうに描かれているわけで、何処にでもいそうなサラリーマンが誰でも経験しそうな一般論の家庭劇を描いているのではなく、一種個性的な人物によるキャラクタードラマとしての性格があるのだと思う。

この道具立てにおいては「体育会系のサラリーマン」という記号的なキャラ設定を異化して語ることにキモがあるのだと思うが、山口達也では剰りにもそのまんまステロタイプで等身大の平凡人に見えるし、そういうリアリティのドラマでキャリアを積んできたのだから、そもそも山口達也を宛てること自体がミスキャストなのである。これは、山口の芝居が悪いというより、そういう芝居の人材を持ってきたセンスが悪いのである。

こういう役柄ならば、たとえば同じTOKIOで言うなら長瀬智也を持ってくるくらいのカッ飛んだキャスティングセンスが欲しかったところで、ステロタイプの設定の人物のステロタイプではないキャラクター性を強調出来るような人材が好適だったのではないかと思う。それが翻ってこのドラマ独自の劇画的な虚構度を確保し、無説明でも道子の存在が成立したかもしれないと思う。

現状では、山口達也のキャスティングと脚本の語り口の相乗効果で、TBS日曜劇場的なホームドラマの世界に、日テレ土九的な嘘臭い劇画調のヒロインが屹立しているような印象で、何うにも中途半端な居心地の悪さを感じてしまう。

女王の教室を踏まえた作品として、最初の最初から道子が普通なら識り得ないはずの事柄を識っていたり、神出鬼没に梅沢父子の前に現れて、不可解な動機で彼らを中核に据えたドラマに一方的に関わってくるわけだが、その一方では道子の学生生活についても若干の筋立てが描かれ、彼女を中核に据えたドラマを語る色気も見せているわけで、その辺も少し狙いが分裂しているのではないかと思う。

また、ドラゴン桜がヒットしたのはドラマ性の部分もさりながら、劇中で触れられる受験ティップスがまことしやかで、ハウツー的なものとは別種(まさかあれを視てその通りにやれば東大に合格出来ると考えるお目出度い視聴者はいないだろう)ではあるが視聴者の興味を惹いた側面もあると思うのだが、このドラマでは道子の受験指導は一種の隠喩的なものに留まるだろうから、その面でも剰り援護は期待出来ないだろう。

さらに言い募るようで恐縮だが、そもそも成海璃子でこの手の謎めいたキャラというのもちょっと外しているのではないかと思う。誰も言わないことではあるが、元々成海璃子というのはちょっと田舎臭い顔立ちの子で、普通に綺麗なイメージの子役ではなかったのだが、その辺の垢抜けなさが真っ黒に日灼けして飛び回るような「瑠璃の島」のヒロインに好適だったわけである。

ドラマ自体はそれほど面白くなかったが、演歌の女王の貞子役も成海璃子の垢抜けない柄をズルズルした陰気なストーカーキャラに活かした辺りが面白く、こういう不潔感のあるキャラを厭味なく演じられるのが面白い柄だと思ったのだが、今回の菅原道子はもう少し明晰感のある都会的な柄の子が演じたほうが好いのではないかと思う。剰りセリフ廻しの上手い女優ではないから、合わない柄で訥々と傲慢なセリフを語っているのがちっとも賢そうに見えない。

元々成海璃子のキャスティングありきの企画なのだろうから無理は重々承知で言っているのだが(笑)、つまりキャスティングと企画が合っていなかったという話になるだろうと思う。

そういう意味で、何うにもガツンと面白さを感じる要素が稀薄で、何となくながら視聴をするのも辛いような感じなのだが、まあオレ的には小学校が舞台のドラマは必ず観るというポリシーがあるので一応最後まで観る予定である(笑)。

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