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2007年7月25日 (水曜日)

The world according to Tamatetsu

もう毎週目が離せないのが今季最大のネタドラマ「牛に願いを」で、何というかすでに気持ち悪いのを通り越して限界突破ーGENKAITOPPAーを果たした気分である。

前回この番組に触れた際にはかなり強い調子で不快感を表明したが、あの時点でも何処かでまだ、どうせ物語の進行に連れて当たり前の展開に落ち着いていくんだろう、幾ら何でもそこまでアタマのおかしな作劇が物理的に成立するはずがないと軽く視ていたところがあるのだが、今週の第四話を視て、最後までこの異常な物理法則で突っ走るのだということを確信した。

今回のお話の何がおかしいと言って、挫折した小出恵介の立ち直りの話になっているのがまずおかしい。たしかに前回のエピソードでは、小出恵介が抱える家族関係の問題やコンプレックスについて触れられてはいたが、牛が怪我をしたのは小出恵介の個人事情やコンプレックスとはまったく関係のない理由の故である。

兄に対するコンプレックスと玉鉄に対する対抗意識には何ら関連がなく、牛に怪我をさせた理由は彼の個人事情とはまったく関係がないし、そもそもこの一件については玉鉄にも大きな責任があるということは前回語った通りである。それは現地における個別事情の故に起こった過失であって、小出恵介個人がどのような問題を抱えているのかとは無関係な事柄である。家庭事情やコンプレックスの問題は、研修を放棄して帰京した後に更めて直面させられた別の問題であるに過ぎず、つまり、前回のお話と今回のお話は筋道的に何処も繋がっていないのである。

今回のお話は、牧場で失敗して東京に逃げ帰ってはみたものの、東京にも逃げたくなるような別の問題があって、最終的に海外へ逃亡しようとしたところを、仲間たちに「みんなで楽しくやろうぜ」と慰められて戻ってきたという話にしかなっていない。

何ですか、これ? 大人向けドラマのつもり?

前回描かれた牛の怪我という事件が「小出恵介の失敗」と位置附けられているのがすでに違うのではないだろうか。前回語ったような具体的責任関係の問題を捨象するとしても、普通に考えて作劇上あれは「小出恵介の失敗」ではなく「小出恵介と玉鉄の衝突」という二者関係のイベントとして視るのが当たり前ではないのか。

普通に考えれば、玉鉄の「牛を戻してみろ」発言やそこに至るまでの「オレが面倒みてやってるんだ」的な傲慢な態度は褒められたものではないわけで、玉鉄と小出恵介の衝突を導き出す為のお膳立てであり、普通の作劇の感覚ではそのような玉鉄の描き方は成長を前提とした過てる現状として意味附けられるはずである。

その意味で「牛を戻してみろ」発言というのは、痛いところを衝かれた剰りの暴言なのだから、小出恵介が片意地を張ったことが悪いとしても、それを導き出したのは玉鉄の暴言であり、作劇上この場面における玉鉄と小出恵介の態度は間違っていることに関してはイーブンの意味附けのはずである。若者同士が未熟さ故に互いを痍附け合う対等なぶつかり合いとして意味附けられているはずである。

普通の作劇感覚では、感情的な暴言とその結果としての片意地というイーブンの過失というバランスになり、片意地を張った酬い故に小出恵介が自信を喪失し帰京してしまったのであれば、その挿話的課題の解決としては、玉鉄が自身の暴言を反省し小出恵介に翻意を働き掛けるという「相身互い」「喧嘩両成敗」の形に落とし込まなければ、視聴者は公正な形で事態が収拾されたとは感じないはずである。

常々語っているように、娯楽作品において一般視聴者に向けて物語を語る場合に大切なのはこのような公正性の感覚であって、敢えてそのような常識的な感覚を疑い挑発するのでもない限りは、無意味な倫理的不快感を与えない為に最低限の公正性が確保されねばならないだろう。

客観的に視て双方に責任があるような問題に関して、一方だけが断罪されるような片手落ちの筋立てを見せられた場合、視聴者は著しい倫理的不快感を感じる。敢えてそのような不快感の醸成を狙いアクチュアルな問題提起を目論むのでもない限り、無意味な不快感を与えることを避けるのは娯楽の提供者として当たり前の弁えである。

その意味で、物語というのはどのように語っても好いという無制限の自由度があるわけではなく、ある程度語り手を縛る約束事というものがある。それは、ジュンブンガクや高尚なゲージツでもない限り、物語という娯楽は受け手を楽しませる目的で語られているものなのだから、プロの語り手に課された職業倫理上の義務でもある。何ら正当な理由もなく得手勝手な気紛れで受け手を不快にする無神経な娯楽提供者の作品など、誰が相手にするだろうか。

前回触れた際にオレは「玉鉄が小出恵介を見直すという落とし所にするのは筋が違うだろう」と陳べたのだが、それはやはりこのような筋道に則った考え方をしていたからであって、玉鉄と小出恵介の衝突というイベントの結末においては、片方が片方を勘弁してやるという形にするのでは、本当の意味で対立が解消されたことにはならない、双方が自身の非を認めて反省するという形でないと公平な結末ではなかろう、というほどの意味でそう言ったのだが、何度も繰り返す通り、このドラマは凡百のドラマとは一味も二味も違う。まだまだオレは甘かったのである。

今回物凄い荒技だと思ったのは、いきなり冒頭で戸田恵梨香以外の全員が小出恵介を見限っているということで、玉鉄は小出恵介を呼び戻そうとする戸田恵梨香に対して至極冷静に反対している。「使い物にならない」「またあんなことが起こったら何うする」と嘯く玉鉄に誰もツッコミを入れない以上、前回の事件は小出恵介一人の責任で玉鉄はちっとも悪くないというダメが捺されているわけである。

というか、玉鉄がそれに反対するのは、小出恵介が牛を怪我させ淘汰の危機に晒すという、彼にとって許し難い過失を犯した故の自然な反撥であるかのようにも見せていて、戸田恵梨香以外の全員は、それを尤もだと思っているように描かれているわけである。普通こういう状況で孤立するのは玉鉄のはずなのだが、何故かその場の全員が玉鉄の意志に逆らうことが疚しいことであるかの如く振る舞っているのである。

しかも戸田恵梨香が小出恵介を擁護する言い分も、これまで自分に優しくしてくれたからとか、この研修に必要な人間だからということで、過失それ自体が小出恵介の責任であることに異を唱えるものではない。このドラマの語りの視点では、玉鉄の意見は反論の余地なく正しいけれど、それはちょっと仲間として冷たいんじゃない?くらいの温度で描かれているわけである。

仲間たちが戸田恵梨香の擁護に冷淡なのは、要するに小出恵介の失敗を許していないからであって、内心彼の所行に対する反撥があるからである。誰も玉鉄のほうにも責任があるとは思っていないわけで、ひょっとしたら玉鉄が口汚く煽ったせいで小出恵介が片意地を張ったという事情を誰も識らない可能性すらある。

だとすれば玉鉄の態度も随分なもので、普通なら自分の言動の影響で重大な過失が出来した場合はそれを周囲に説明するのがフェアだし、説明しないのだとすれば小出恵介を庇うような態度に廻るのが当たり前である。ある重大な過失に関して、自分も関与していることを説明せずに直接当事者を率先して非難するというのは、卑劣な悪漢が責任感の強い善人を陥れる為にやることである。

それ故に、玉鉄が小出恵介を煽ったことを他の連中が識っているか否かというのは筋道上割合重要な事柄で、常識的に考えれば幾ら何でも主人公がそんな卑劣なことをするわけがないから、説明したのだろうという前提で考える。だから省略して差し支えない事柄であるという言い方も出来るが、その場合、この一件の筋道では煽った側の責任もあるという当たり前の前提で話が進まなければならないのだが、誰もそうは考えていないのが剰りにも不自然だから、「ひょっとして説明してないんじゃね?」という本来なら何うでも好いことが過剰に意識されてくるわけである。

この辺を何となくスルーして、牛の怪我と淘汰の危機に痍附いた被害者のような顔をさせるというのも大概な依怙贔屓だが、さらにその結果として小出恵介が失意の裡に帰京したことに関してもまったく責任関係がないというふうに描くというのは、どんだけ依怙贔屓すれば気が済むのか地球上の常識では計り知れない

前回の繋がりで言うなら、牛が怪我をしたこともさりながら、その為に小出恵介が帰京してしまったこともまた玉鉄に大きな責任のあることで、多寡が行きがかり上の感情的な衝突で人一人が挫折を味わい失意を感じるというのは、人間ドラマの上では大いに大した問題のはずである。これを小出恵介の自業自得のように意味附けるのでは玉鉄が剰りにも無責任な人間に見えてしまう。

自分の暴言が原因で起こった失敗を悔やんでヘコんでしまった人間を「どうせ挫折した秀才なんて使い物にならないだろう」と突き放すというのは、自分のちゃらんぽらんで無責任な言動で誰が痍附こうが識ったことではない、そのくらいでヘコむような奴なら元々物の役には立たないんだということで、これはもう完全に憎々しい悪役の言い分である。

玉鉄が至極有能で冷酷なまでにスクエアな人間として描かれていたのであれば、それも彼の人生観・人間観としてわからないでもないが、こいつは多寡が牧場で育ったから他の連中よりも作業の要領を呑み込んでいるというだけの、いい加減な半端野郎のはずなのであって、真面目に学校に通うという当たり前のことも出来なかった奴がどの面を提げてそんな鬼教官のような厳しいセリフが吐けるのかと呆れてしまう。

普通なら、戸田恵梨香が真っ先に喰ってかかるべきなのは積極的に反対した玉鉄のはずなのだが、何故かそこで香里奈が要らん憎まれ口を利いて、怒りの矛先は香里奈のほうに向いてしまう。それどころか戸田恵梨香は、何故か小出恵介を呼び戻すことが玉鉄に対して疚しいことででもあるかのようにコソコソと振る舞うのである。

もしも周囲の人間があの一件に至るまでの細かい経緯を識らないのであれば、他人から被害者と視られて気遣われていてもだんまりを決め込んで小出恵介一人の過失にしている玉鉄の神経は相当なもので、芯から底からの卑劣漢である。また、細かい事情を識っていながら誰も玉鉄に責任があるとは考えていないのだとすれば、このドラマの劇中世界では、オレたちが生きている現実とは違う条理が働いているのだとしか思えない。

そして当然、語りの視点においては玉鉄の態度が卑劣だという意識もなければ、この劇中世界の条理がかなりおかしいという意識もない。

東京における小出恵介サイドの筋立ての進行と併行して、玉鉄が小出恵介の真情や人柄を徐々に認めていくという流れになるわけだが、それは至極軽いウェイトで描かれていて、「何うでも好い」と言ったら言い過ぎかとも思ったのだが…いや、やはり何うでも好かったのだろう。

前回視てきたような筋道があるのだから、今回のお話においては最終的に玉鉄が小出恵介に「戻って来い」と言わなければオチが附かないのは当たり前なのだが、今回描かれているのは嘘も隠しもなく玉鉄が小出恵介を「勘弁してやる」までの流れで、玉鉄のほうから小出恵介に対して何の働きかけも行っていない。

極普通に考えれば、玉鉄が相武紗季を誘って海を見せて慰める場面では、仲間に対して素直に小出恵介の人柄を認めているのだから、小出恵介の去就一本に絞った流れとして描くべきところだと思うのだが、「あいつを少しは見習って…」とまで譲歩してみせた玉鉄に対して、あろうことか相武紗季は「そんなことは何うでも好いから」と言わぬばかりに間髪を入れず「それだけ?」と反問して玉鉄と見つめ合い、そこにイケ好かないガキが「チューしろ」と陰で囃し立てるわけだから、小出恵介の話なんかハナから何うでも好いことがバレバレの呼吸になっている。

さらにそこへ戸田恵梨香のお節介な通報で勘違いした小出恵介が直接玉鉄のケータイに電話をかけてくることで雰囲気がブチ毀しになるわけだから、ハッキリ言ってラブコメ的文脈におけるお邪魔虫の勘違い野郎として扱われているわけである。

ここまで心のない作劇だといっそ清々しいのだが、普通なら幾ら何でもここで漸く玉鉄と小出恵介の間に直接対話の機会が設けられたのだから、玉鉄から小出恵介への何らかの働きかけが描かれると考えるのが当然である。しかし、このドラマでは地球上とは異なる奇怪な物理法則が働いているのだから、小出恵介は留学の意志を一方的に捲し立てて玉鉄の返事も待たずに電話を切ってしまい、玉鉄はモゴモゴ口ごもって聞いているだけで何もしようとはしない。

この場面に至る直前に、戸田恵梨香のアイディアで田中圭が地元民代表として上京し小出恵介を連れ戻すという計画が描かれ、さらに彼の母親が倒れるというハプニングでその計画が一旦サスペンドになっている。こういうお膳立てが整っている以上、やはり玉鉄から小出恵介に対して直接働き掛ける以外に事態を収拾する方図はなくなっているのだが、その好機はあっさり潰えてしまい、では誰が何うやってどのようなロジックで説得して小出恵介を連れ戻すのかと思ったら、その後の場面でやっぱり田中圭が上京しているのでちょっと唖然とさせられた。

要するに母親が倒れて「上京どころではない」状態になったのは、母親と玉鉄の演説で口下手な田舎者に説得の知恵を仕込む段取りであって、玉鉄と相武紗季の会話やそこにかかってきた電話という流れは、単に玉鉄と相武紗季のラブコメの小ネタと意味附けられ、小出恵介を巡る筋立てにおいては何うでも好い描写要素になってしまっている。

つまり、小出恵介の電話は現地の仲間たちに留学の意志を伝えるというだけの意味機能しかなく、相手が玉鉄当人である必要などまったくないわけで、このように描かれた作劇上の意味とは、裏も表もなく相武紗季と玉鉄のチューを邪魔する為ということでしかなくなってしまっているわけである。

さらに、上京した田中圭がどのようなロジックで小出恵介を説得するのかと思えば、何と自分の母ちゃんを引き合いに出すのである。先の長くない自分の母ちゃんがみんな仲良くしていてほしいと望んでいるから帰ってきてくれと言ってるわけだが、

識らねーよ、おまえの母ちゃんの都合なんか。

これはたとえば第二話で戸田恵梨香が自分の責任を放棄して他人を頼り、それを詰られると何の役にも立たない泊まり込みで周囲を心配させ、散々周囲を振り回した挙げ句に自分の個人的な家庭事情を滔々と語り出したのと同様な筋道で、何うもこの書き手はこういう場面で自分の都合を語っても相手にとって意味なんかないし、正味な話が迷惑なだけだという理屈が呑み込めていないらしい。

自分にこういう都合があるとか気持ちがあるというロジックで他人を説得するというのは、要するに相手に対してそんな自分の都合や気持ちを斟酌してくれと強要しているわけであって、一言で言えば自己中心的な甘えである。そんなことは説得する相手にとって一番何うでも好いことであって、戸田恵梨香の場合ならそもそもそのような甘えや自己中心性に対して周囲が苛立っているのだし、小出恵介の場合なら自分のことしか考えられないほどに精神的に追い詰められていたりするわけで、そんな自分勝手なロジックの説得で相手の心に響くわけがない。

ここで小出恵介が折れてしまうのでは、人の生き死にというシャレにならない大事を楯にとって脅迫もしくは泣き落としたようなニュアンスになってしまい、感動どころの話ではないだろう。ネタにしても剰りに心のない荒技でちょっと笑えなかった。

こういう場合に相手を説得するロジックというのは、基本的に相手の側の都合や感情に沿ったものでなければ本当に相手の為を想った言葉ではなくなるわけだが、こういう場面で必ず自分個人の都合や想いを語るルーティンになっているというのは、書き手自身が物事の道理を弁えていない自己中心的な考え方の持ち主ではないのかと思わせてしまうだろう。

そこにまた玉鉄が「二〇歳の春」とかピントのズレた理屈を乗っけるわけで、話を要約すると「年取ったらもっと大変になるんだから若いうちは楽しくやっていたい」という身も蓋もないロジックで、莫迦じゃねーのかと大変呆れました

つまり小出恵介は挫折やコンプレックスから逃げ回っていたけれど、「若いうちはエンジョイしようよ」「他人の母ちゃんがそれを視たがっているから」というワケのわからない理屈で吹っ切れたという話になっているわけで、こんなことで吹っ切れるような大したことのない悩みだったのかといっそ拍子抜けするくらいである。

結局脱落した小出恵介に対して玉鉄は積極的なアクションとして何も働き掛けなかったわけで、死にかけている他人の母ちゃんを視て「若いうちに楽しくやっておかないといけん」「あいつに辛く当たるんじゃなかった」と後悔しただけなのである。

小出恵介と一緒に人生の春を楽しく過ごしたいと思ったのだとしたら、それを小出恵介に伝えるのは玉鉄自身の役割でなければならないはずだが、田中圭が「玉鉄様がこのように仰っておられますた」的に間接的に伝える形にすることで「お父ちゃんもう怒ってへんから帰ってきてもええんよ」という尼崎のオカン的なニュアンスが漂ってしまっている。

つまり、クライマックスで小出恵介が嬉しそうな顔をして走っているのは、田中圭の母ちゃんの生き死にを楯にとられて泣き落としをされたからであり、玉鉄様という怖いお父ちゃんがもう怒ってへんからであるということになる。

何故こんな妙竹林な話になっているのか。それはつまり、今回のお話は玉鉄が小出恵介の人柄を認めて赦す、仲間として認めるという構造の話になっているからである。そこがそもそも筋道がおかしいのであって、そういう話にしたいのであれば、小出恵介が自身の責任において玉鉄に対して許し難い過失を犯すという形にしなければならないわけだが、そもそもそういう話になっていない。

諄いようだが、元を糾せばすべては玉鉄の自業自得であって、寧ろ小出恵介は玉鉄の身勝手の割を喰って非道い目に遭っているわけである。さらに、牛の生き死にということについてはそれを赦したり赦さなかったりする筋目は玉鉄にはない。それはひとえに牛の所有者であるオヤジが決めることであって、それに対して玉鉄が憤る筋合いがあるとしても、牛の怪我に関して玉鉄にはいっさい非がないという付帯条件が必須である。

その上さらに、玉鉄が小出恵介を仲間として認めることで小出恵介の帰参が叶うというのも関係性の力学においてはおかしな話で、六人の学生集団の中で本来的にアウトサイダーなのは、誰に対しても心を開いていない玉鉄のほうである。

それは前回のエピソードで学生たちを「坊ちゃん、嬢ちゃん」呼ばわりして見下していることでも明らかで、普通ならこういう傲慢で自己中心的な人物が集団の中で孤立していなければならないのだが、何故か玉鉄はいつの間にか集団の中心人物になっていて、体制側の中核的存在となっている。

それ故に、今回のお話で小出恵介呼び戻しの現地サイドの障害になっているのは玉鉄が小出恵介を赦していないからということになっていて、仲間たちは玉鉄に隠れて田中圭を上京させようと目論むわけで、それが玉鉄にバレたことで何故か戸田恵梨香は謝っているのであるが、なんで玉鉄に謝る必要があるのかサッパリわからない。

これまでは何うあれ、今回の戸田恵梨香の行動だけは至極真っ当で、勝手に突っ走って空回りしたわけではない。集団研修で脱落者が出たというのに、誰一人呼び戻そうと努力しない、たった一人の人物の顔色を伺って遠慮するということのほうがよっぽど異常な話なんであって、玉鉄の反対にだって何らかの合理的な理由があるわけではない。

挫折した秀才が役に立つか立たないかなど玉鉄が決め附ける筋合いの事柄ではないわけで、役に立たないということではその他大勢の実習生だって同じことで、学びに来ている素人が作業の助けになるわけなどハナからない。たしかに大学生である以上は本人の自発的学習意志に基づいて研修に参加しているわけで、学ぶ意志がないならこの場を去れということにも一見して相応に理があるように見えるが、それは担当教官が判断すべきことで、学生の分際で玉鉄が判断することではない。

さらに、集団研修である意味を考えれば、過酷な牧場作業を素人の学生が助け合って乗り切るという狙いもあるわけで、作業の過酷さや生き物を扱う業務の厳格さを考えれば発作的な脱落というのは冷静な判断とは言えない。そこで仲間同士が助け合い励まし合うこともまた研修目的に織り込まれていることだろう。その中でたまたま牧場作業に習熟していたり研修場の血縁者だからと言って、同じ学生が他人の去就に対して決定的な意見を言う権利があるわけではない。言うのは本人の勝手だが、周りがそんな独善的な戯言に耳を貸し大勢が決するというのが不自然なのである。

また、前回小出恵介が失敗したとしても、それは玉鉄のオヤジが所有する牛に怪我をさせてしまったということであって、玉鉄個人に辛い思いをさせたことなどではいっさいないのである。たしかに玉鉄は牧場主の倅だから直接の係累ではあるが、牧場を継ぐとも継がないとも言っていないのだから、怪我をした牛に対する立場としては他の学生と同じである。つまり玉鉄は、一般論として動物が殺されるかもしれないという事実に痍附いただけの話で、他の学生だって同様に痍附いているのだから、特別視されねばならない立場にあるわけではないのである。

淘汰の可能性を聞かされて辛い思いをしようがすまいが、それは玉鉄の勝手な想い込みであって、筋目の上での問題ではない。仲間たちが小出恵介を呼び戻したいと望んだとしても、牛の所有者であるオヤジがそれを許可している以上、玉鉄に対して疚しがる筋合いはいっさいないのだが、誰もが過剰なくらい玉鉄を気遣ってコソコソ動いている。

しかし、牧場経営においてはこの種の不幸な事故は附き物なのであり、その都度一々当事者を断罪して切り捨てていたらこんな稼業は続けていけないわけで、その挫折や辛さを肝に銘じて業務の厳格な本質を理解し細心の注意を払う、やれるだけのことはやるという以外に、この仕事を続けていくことは出来ない。たしかに金銭的な損失に直結してはいるが、それはこの仕事に附き纏う何うしようもないリスクである。

人間である以上、失敗は必ずある。生き物を養う仕事である以上、失敗は生き物の死に直結しているが、それを絶対的に根絶することは人間には不可能である。しかし、何うしようもないからと言って諦めてしまうのでは生き物を飼う資格はないわけで、無理だとしても限りなくゼロに近附ける為に努力し続けるのが生き物を養う人間に課された誠意や覚悟というものである。

失敗に伴う罰とは、他者からの断罪という形で降り掛かるのではなく、失敗を犯した当人の癒えざる心の痛みや消えない痍という形でしっかり受け止められねばならないのである。牧畜業の厳格さというのは、このようなバランスに基づいたデリカシーとして描かれる必要があるだろう。

それに対して「牛殺すようなことは絶対に許されない」と言い張って頑なに当事者を断罪する玉鉄の態度は、じゃあ自分が当事者だったら何うなんだという話になって、現に今回の一件だって語り手が依怙贔屓しているから小出恵介一人の責任ということで皆が納得しているだけで、客観的には玉鉄にも責任のあることなのである。

このドラマの何とも言えない不快感というのはこの辺に原因があって、玉鉄が「牛殺すようなことは」と他人を断罪する立場に立つ為には小出恵介一人のせいでなければならないからそのようにされているという、不公正なご都合主義があるわけである。

玉鉄は不完全で失敗もする人間が生き物を飼育するというこの仕事のリスクを絶対的に拒絶しているということになるから、玉鉄論理に則れば人間が事業として生き物を飼育する行為全般がいっさい成立しない。玉鉄が語る過去のトラウマは、前述のようなプロセスを経て牧畜業者一般が克服しなければならない心情的な課題であり、玉鉄はその最初のステップで脱落した落ちこぼれでしかないのである。この辺が牧場経営者候補として未熟な点であるという認識なら話はわかるのだが、「牧場経営者がスルーしているような命の尊厳に悩む玉鉄様って、ナイーブでステキぃ!」的に描かれているのが気持ち悪いわけである。

これをオレの悪意的な曲解ととる向きもあるかもしれないが、普通の語り口なら前回のエピソードで牛の淘汰の可能性を聞かされた玉鉄が「牛殺すようなことは…」と悩んでいる場面で、必ず伏線となるツッコミが入らねば玉鉄の成長物語は成立しない。成長物語ではないのだとしたら、要するに玉鉄は最後までこういう人間であり続けるということで、そうだとすれば牧場経営なんかに関わるべきではない。

そのような悩みが過渡的な成長課題として意味附けられる為には、オヤジ辺りが玉鉄の甘さを一喝するようなくだりが挿入され、牧畜業には過失に伴う事故死や安楽死という不可避的リスクがあることを受け容れなければならないという筋目が、今後の展開の予告として押さえられていなければならないはずだが、そのような伏線はまったく描かれず、悩む玉鉄を香里奈が心配そうに見守るという形で、ドラマの語りがその悩みを肯定し労っているような形になってしまっている。

当たり前の地球上の物理法則に照らして考えるなら、実際に牧畜業者に取材してドラマを語っているのであれば、玉鉄がその過去のトラウマを克服し、生き物の生死が日常的リスクとしてあるような厳しい業務の中で命の尊厳をどのように捉えるのかという牧場経営の心得を会得し、寡黙なオヤジの真情を理解することで牧場経営者候補として成長するという落とし所でなければ物語は成立しないはずなのだが、果たして金子宇宙の玉鉄物理学ではどのような展開になるのか予断は許さない。

それは、現時点ではそのような着地点を睨んだ伏線が一切描かれていないからで、最後の最後にそのような展開を辿ったとしても、視聴者には取って附けたお題目にしか見えないからである。だったら、そんな過渡的な心情的課題に基づいて小出恵介を頑なに断罪した今回のような筋立てにおける玉鉄の立場は何うなるの?という疑問は払拭出来ないわけで、そんな当たり前の着地点を睨んでいるのだとしたら、こんな妙竹林な筋道の話にはなりようがない。

このような独特の玉鉄物理学に対する心理的抵抗を超越して限界突破を果たしたオレとしては、主人公萌えが高じて乱心した物書きが何処まで生き恥を晒して薄気味の悪い萌え物理学を貫けるのかを見届けるという、ゲテモノ的な興味が生じてきた。

もうね、ご贔屓女優の香里奈も相武紗季も戸田恵梨香もひとまず何うでもいいです。直視するとこの人たちが嫌いになりそうだから話半分に横目で視るだけに留め、ひたすら金子ありさと共に玉鉄様だけを見つめ続けていく所存にございますれば、率爾ながら皆様方にあらせられましては諸事万端宜敷くお引き回しのほどを願います。

ああ、因みにネットでこの番組の感想を漁っていたら、第一話で戸田恵梨香が病気の牛を搾乳したのは相武紗季の連絡ミスだという指摘があって、たしかに細かく事情を視てみると、戸田恵梨香は足を挫いた相武紗季の代理を買って出たわけだから、当番だった相武紗季が伝えない限り病気の牛に関する注意は識らないわけである。

そういう意味では、劇中の戸田恵梨香に対しては大変申し訳ない不当な批判を加えてしまったわけで、ひたすら頭を低くしてごめんなさいするしかないのだが、さて形を更めて高いところから鳥瞰すれば、戸田恵梨香の憎々しさだと思っていたことが相武紗季の憎々しさだったというだけの違いにしか過ぎないことに、今更ながら唖然としたりするわけである。

多分この人たちが剰りにも憎々しく薄っぺらに描かれているのは、玉鉄様の周りでうろうろしたり、うっとり横顔を見つめながらお話をしたり、キスシーンを演じたり出来る羨ましい立場に伴う当然のリスクなのだろうから、女優陣に対してはお気の毒だがそういうお仕事なのだから諦めてくださいとしか言い様がない。

つか、そういう「入れ込んでテレビ小説を観ている田舎のオバチャン」みたいな心性の人が物語のキャスティングボードを握っているという信じ難い実例だからこそ、このドラマはゲテモノ的に面白いわけであるが(笑)。

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