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2007年8月 9日 (木曜日)

散切り頭が刈り上がるまで

過日の参院選では自民が歴史的大敗を喫したが、まあこんなのは当たり前の成り行きなので、遅きに失した感なきにしもというところである。基本的に政治には疎い人間なので常日頃剰り識った風な口は利かないように心懸けてはいたのだが、ちょっとここ数年の国政にはもそっと何とかならんのかと隔靴掻痒の不満を覚えているので、今回はこの一件から受けた印象について乱暴な床屋政談を語ってみたいと思う。

諄いようだが政治向きにはとことん疎い人間なので、肩肘張った時事評論のつもりなどは無論なく、最底辺の貧乏人の恨み言、負け組の逆ギレとして笑殺して戴ければ幸いである。正味な話が一種のガス抜きの放言なので、コメントは一切受け附けないことにさせて戴く。ご異論があるようなら、物識らずが変なことを言ってるなあというふうに、右から左へ上から下へ軽く受け流して戴きたい。

また、かなり鬱憤が溜まっていたらしく、予想よりも全然長くなったので、よほどお暇な折りにでも。


●正義の味方=正義なのか?

さて、この自民大敗を受けて漸く格差問題や弱者切り捨ての問題が小泉政権時代に端を発したものであるという認識を織り込んだ時事解説をいろいろなところで目にするようになり、遅蒔きながら小泉政治に対する批判的見解も目にするようになってきたが、小泉総理自身がそういう内容の改革を断行していくと最初から言っていたのに、当時の国民があれほどまでに熱狂的歓迎ムード一色だったことが今でもちょっと信じられない。

これにはメディアの責任も大きいと思うのだが、アメリカマンセーな新自由主義ベースの小泉改革には今日を予測させる不安要素が最初の最初から山積したわけで、たとえば小泉政権が従来は政治に無関心だったB層と呼ばれる浮動層を巻き込むことで支持基盤を獲得したのであれば、そのような、言ってみれば政治素人に対して小泉改革構想の望ましからざる側面を積極的に開示するのが、マスメディアに課せられた大きな責任だったのではないだろうか。

一端の政治通を気取り常日頃から政局に目を配っているような層に対しては「好悪両面の情報を収集して判断するのが有権者の責任」と言えるだろうが、そもそも政治に無関心だった層が小泉純一郎という個人のキャラクターに魅せられて言うなり次第に騒いでいたわけだから、そのような層に向けて情報収集の自己責任を問うても意味はない。

常日頃そういうことをやらないから浮動層なのであって、まずその現実ありきで対処するのがメディアの側の社会的責任だろう。ぶっちゃけ、細かい政治の実情など識らない人々がおもろいオッサンのパフォーマンスに乗せられて煽動されているという危うい現状なのである。メディアに社会の木鐸としての使命感があるのなら、それらの人々に向けて積極的にネガティブ情報を開示していくのが筋だっただろうし、具体的に言えば最も大きな責任があるのはTVメディアだっただろうと思う。

オレのようなTVっ子世代もそうだが、B層一般が主にTVメディアによって時事問題に関する情報を収集するのだし、取り分け忙しい主婦層はTVメディアから提供された情報をトバ口にしてネットでさらに情報を精査するという習慣もなく、TVが唯一の情報供給源なのである。さらには、小泉純一郎という宰相はまさしく映像時代の政治家でTVメディアの影響力を最大限に利用していたわけだから、TVメディアには政権支持層に対する情報提供の大きな責任があったはずである。

さらにぶっちゃけて言えば、あの当時「痛みを伴う改革」という殺し文句に痺れて小泉政治に熱い声援を送ったB層の大半が、宰相の語る「痛み」というのが現在のような殺伐とした夢も希望もない世の中であることを、具体的に想像し得ていなかったのではないだろうか。それを彼ら自身の自己責任だったと言うのであれば、世の中の在り方に対してメディアの果たす役割を心得ない無責任ではないかと思う。

そもそも政策議論ではなく一人の政治家の強烈なキャラクター性によって喚起された政治への関心というのは、常にポピュリズムへの頽落の危険が伴うわけで、「木鐸」とは警世の鳴り物の謂いであるのだから、その危険性に対する有効な抑止力としてのプレゼンスを自ら積極的に示すべき「自己責任」があったはずである。

しかし、TVメディアは小泉時代を通じてこの新たに登場したスター宰相を好意的に採り上げ続け、抵抗勢力というわかりやすいワルモンの鬼退治に邁進する小泉桃太郎の姿勢を暗に全肯定してみせたわけで、小泉改革政策のデメリットをそのような退治される側のワルモンが語る引かれ者の小唄として冷淡に演出することで、視聴者の判断に大きな情緒的影響を与えたはずである。

このような「演出」があったことは否定出来ない事実だろうし、その事実ある限り決してTVメディアは小泉政治に対して「中立公正」だったとは言えないはずである。

たしかに、政治の細かい実情を識らない浮動層には、このようなわかりやすい物語性が強力にアピールするものだし、それが人々の関心を強烈に集める大スターを欲するTVメディアの都合に好適だったのだろうが、小泉政権の思惑の地平上にあるようなベタな勧善懲悪物語「だけ」を語ることが、不偏不党のメディアに課された責任を果たす姿勢だったと言えるだろうか。

小泉純一郎のパフォーマンス政治に奉仕せざるを得ないのがTVメディアの実情だったとしても、苟も情報産業のトップフロントとしての矜持があるのであれば、その一方で桃太郎のお伽噺のベタなわかりやすさと同程度に、小泉政治が国民を何処に連れて行こうとしているのかという「もう一つの物語」をわかりやすく、わかるように、わかるまで視聴者に語ってみせる絶対的な開示責任があったのではないだろうか。

小泉政治の即効性の致死毒が廻って「そらみたことか」と予測通りの殺伐たる世情の今になってから、現在の政権担当者である安倍晋三をワルモノ扱いで袋叩きにするメディアの無責任な姿勢には、「どの面提げての公器気取りだ」「本当の危機的局面において鳴らなかった木鐸を誰が信じるか」という不快感を禁じ得ない。

これだけ安倍政権を叩けるメディアが小泉政権を叩けなかったのは不可抗力だったなどとは言い抜け出来ないはずである。何処ぞの強者に強制されたわけでもなく、外圧が存在したわけでもなく、TVメディアは喜んで自分から絵空事と識りつつ小泉政治のまやかしに荷担したのである。

小泉純一郎が最大限に活用した社会原理とは、「TVメディアは人気者に甘い」というものであり、「数字が穫れる限り人気者の人気を維持しようと努める」という原理との相乗効果である。さらに彼は、メディアが人気者をチヤホヤするムードから一転して苛烈な叩きに廻る転回点の呼吸に対して抜群の勘があった。

嫌な言い方をすれば、小泉純一郎が形成不利と視るや離れ技の北朝鮮外交で大衆人気を挽回したのは、北朝鮮問題がTVメディアで採り上げられれば誰も不謹慎なツッコミを入れられない拉致被害者家族の浪花節が語られるからである。問題の進展に接して喜びの涙を流す被害者家族に対しては、やはり人情として「よかったね」という姿勢で大きく扱うことが視聴者の望む物語なのだし、その国民感情自体は何ら批判の対象ではない純粋な共感の情だろう。しかし、その浪花節を語るとすれば、何を差し置いてもそれを成し遂げた小泉の手柄をまず一旦は顕彰せぬわけに行かなくなる。

つまり拉致被害者問題には国民感情的な特権性が伴う為に、誰も「そんな関係ないことで胡麻化すな」とツッコミを入れにくい…というか「そんな関係ないこと」扱いをするのが非常に困難な映像メディアにおける錦旗の一つなのである。拉致被害者問題に劇的な進展があれば、何を差し置いてもこれを大きく扱い報せて欲しい、これが視聴者である国民一般の一致した期待だからである。

右からも左からもリベラルからも一致して喫緊の外交上の課題として認められ、政治姿勢毎の極端な意見の齟齬や振れ幅のないテーマがこれだからである。「拉致被害者を一人残らず取り戻し、北朝鮮にその責任を認めさせる」という大同目的に関して、イデオロギーの如何によらず誰一人異論はないのだから「正義」の在処は一致しているのであり、それを実現した小泉純一郎は即ち「正義の味方」なのである。

そして、映像メディアの特性上、一旦顕彰した人物を同時に悪し様にこき下ろすという流れにはなりにくい。映像メディアとは、潜在的にイイモンとワルモンを印象として設定して、その前提で物語を語るものだからである。その場合、「まず一旦顕彰させる」というのはその後のメディアの態度を決定附けてしまうわけで、そのように振る舞わざるを得ないテーマとして拉致被害者問題は有無を言わさぬ特権性があったわけである。

視聴者一般の期待としてもまた、政治家に関するメディアの報道においてまず第一に求めているのは、「その人物がイイモンであるかワルモンであるか」についてのわかりやすい弁別である。汚職を犯した穢れた政治家は言うまでもなくワルモンであり、失政や舌禍を犯した暗愚な政治家もまたワルモンである。政治家としての日常的な本業でどのような働きぶりなのか、政治の人的・時系列的な連続性の中でどのような有効な役割を果たしているのか、という地道な詳細は、物語的にわかりにくい。

活字メディアよりも具体的な詳細を説明しづらく精緻な留保を設けにくいTVメディアにおいては、このイイモンとワルモンのわかりやすい弁別がまず第一に重要な要素となるのである。それ故に、TVメディアはまず予めその人物がイイモンであるかワルモンであるかという前提を設け、それに則って物語を語る必要があるのである。

本来的には、確信犯の犯罪者でもない限り普通に社会で仕事をしている人間がわかりやすいイイモンであったりワルモンであったりするわけはないが、TVメディアを通すことでどちらかに豁然と振り分けられてしまうのであり、それでなくては他ならぬ視聴者自身が「結局それってどうなのよ」「いいの、悪いの、どっちなの」と焦れてしまうのである。小泉パフォーマンス政治は、この両論併記を許さぬTVメディアの特性に乗じて、自身を絶対正義のイイモンと位置附ける道筋を常に用意し続けたわけである。

小泉改革はそれ自体が正しいからそれを行う小泉純一郎が正しいのではなく、正義の味方である小泉純一郎が行う改革だから正しいのであり、小泉純一郎がメディアを通じて訴え続けたのは改革の正義ではなく、それを実行する自身が正義の味方だという印象であり、正義の味方が行う改革だから正義だという循環論理の物語だった。

小泉純一郎の政治基盤とは、自身が正義の味方であるという空疎な「印象」に全面的に依拠していたわけで、因循な政局をストレスフルな物語として受け取る大衆自身が爽快な正義の味方を欲していたのだし、そのような期待に迎合するTVメディアもまた積極的に小泉純一郎が正義の味方であるという印象を補強し続けた。

小泉純一郎は常に一貫して大衆ウケする小屋芝居のドラマツルギーに則って行動していたわけで、映像物語のシステム上「イイモン」として扱わざるを得ないような役割を演じ続けたわけである。これはつまり、現実の事物を物語化して理解しようとする人間の現実認識システムの一面に対して強力な勘があったということで、一種対人的な関係性に纏わるパフォーマンス能力だということである。

その意味で、小泉パフォーマンスを報じるメディアがまんまと彼の目論む口当たりの好いヒーロー物語を語らせられてしまったことには同情の余地があるが、各局漏れなく社会の木鐸を気取るご意見番の識者を何人も雇っておきながら、それらの人物ですら小泉人気に水を差すことを畏れるかのように口を濁していた以上、TVメディアの責任は依然として重大なものである。

では、TVメディアが語らなかった小泉改革のデメリットとは何か。それは、フェアネスを担保する仕組みのない、七〇年代の社会派ドラマで描かれたようなベタな資本主義社会の悪しき通弊である。


●頑張れば酬われるのか?

小泉改革が実現すれば、自助努力で何うにもならない弱者はどんどん切り捨てられていく世の中になるわけで、それは要するに国民の大多数ということである。あの当時でも多くの国民が「オレは違う」「どうせ他人事」と勘違いしていたのかもしれないが、国民の大半というのは相対的な弱者であり、強者と弱者という相対が生じる場面においては強者に有利な世の中になっていくと予告されていたはずである。

強者と弱者の相対というのは無限階層になっていて、相対的強者は別の相対的局面においては必ず弱者でもあるわけだから、最終的に得をするのは絶対的強者のみだということで、煎じ詰めれば絶対的強者以外は誰も得をしない世の中になるということである。

この「絶対的強者」とは、口にするのもベタ糞で恥ずかしいことながら、資本主義社会の世の中においては、資本家と為政者だということになる。

本当に「頑張った者が酬われる社会」を実現するのであれば、強者の自由を拡大し競争を活発化させる方策と必ずセットで、社会のフェアネスと弱者の権利を担保する仕組みがなければならないはずである。「頑張りが酬われる」というお題目は、「頑張れ」という強制と「酬われる」という保証がセットでなければ意味がない、つまり公正な世の中でなければならないのだが、世の中というのは残念ながら頑張ればほっといても酬われるようには出来ていないのであり、頑張りが酬われるというフェアネスは精緻できめ細かいシステムの強制によって担保されなければ成立しない。

現状の世の中で個人が頑張って、その頑張りを自身の希望に沿う形で組織に認めさせるにはそれ自体に多大な労力が要されるということは、企業社会で働いている大人なら誰でも痛感していることだろう。組織サイドから視れば、個人の頑張りを低く見積もって値切るほうが絶対的に得なのだから、個人の頑張りをフェアに見積もり妥当に酬いるシステムの強制がなければ、組織内部の絶対的トップとその一部周辺しか酬われない世の中になるのは当たり前の話である。

本来システムによって担保さるべきフェアネスまでもが、「自己責任」という曖昧で都合の好いタームで個人の裁量に一任されているから、誰もが数字という目に見える形の実績を示せる立場に立とうと狂奔し、手柄を奪い合い、リスクを圧し附け合い、その論功行賞すら組織の都合で言いなり次第に値切られるという醜い世の中になる。

以前「ハケンの品格」に絡めて同じような話をさせて戴いたことがあるが、それは単に労働の評価システムの不備というだけの限局的な各論ではない。「頑張った者が酬われる社会」というイケイケどんどんの調子の好いお題目は、経済活動の活発化や社会の勢いだけでは成立しないという構造的な問題である。

ハケンの話でも名を挙げたザ・アールの奥谷禮子と小泉純一郎は個人的にも親しいようだが、奥谷の主張する「格差論は甘え」式の穴だらけの労政観は基本的に性善説的な社会観に基づいていて、お天道様は見てますよ式のお目出度い暴論になっている。勿論企業を経営する側に立つ奥谷個人が、性善説を信奉するようなお目出度い人間だとは到底思えないから、早い話が格差固定や弱者切り捨てを正当化する為の欺瞞若しくは労働者向けのダブルスタンダードである。

企業経営のロジックから言えば、労働コストを可能な限り低減することは疑問の余地なく「正しい」経営努力であって、そのロジックの何処にも「個人の頑張りに正当に酬いるべし」などという綺麗事のお題目は組み込まれていない。そのように努めることが企業利益にとってプラスである限りにおいてのみ、戦略ではなく戦術レベルで已むを得ないコストとして肯定され得るというだけの話で、寧ろ経営のロジックでは労働対価を巧みに値切ることこそが推奨されている正しい選択肢なのである。

本来相容れない経営層と労働者層の利害を調停し、可能な限り摺り合わせるべしというのは、一種のコーズ=大義という異質な範疇のロジックの問題であって、企業経営のロジックにおける必然などではない。「万人に支持される強力な大義に則った経営が尊敬に値するブランド力を醸成し競争力に結び附く」という経営思想を持たない企業にとっては、それは魅力あるお題目ではないし、積極的に履行すべき理由などないのである。

CSR経営の分野では国内のトップランナー企業の一つと目されるキヤノン代表者の御手洗冨士夫が、経団連のトップとして財界を代表し安倍政権の経済政策ブレーンとなってからは、新自由主義の積極的推進者としての顔が強調され、労働者の失望を招くような発言に終始していることから視ても、企業組織に自発的なフェアネスを期待することなど鰐の空涙を信用するよりも愚かなことである。

普通一般の企業にとって、法の許す限り労働者搾取を追求することは、当たり前の経営努力だということである。小泉改革の中核にあるのは、このような企業のロジックに対して最大限の自由度を与え、企業の手足を社会的公正性の厭わしい桎梏から解放することで企業活動を活性化するという原理であって、それはつまり、社会的公正性の仕組みによって保護されていた労働者の利益を制限して自助努力に任せるということである。

これを物凄く単純化して言えば、経営層対労働者層の利害対立の局面において最大限に経営層に味方する社会原理だということである。企業の側に労働者を公正に扱うべしと強制するのではなく、公正に振る舞うべき理念的義務のない企業から公正に扱われるように努力しろと労働者の側に強制する原理だということである。

これはつまり、経営層と労働者層の関係性では、自然状態においては前者が圧倒的な強者であり、本来法の強制とはキャスティングボードを握る側に課されるべきものだという重要な論点を蔑ろにしているということである。これは窮めて当たり前のことを言っているのであって、弱い者、力のない者にああしろこうしろと強制したところで強者に対しては徹底的に無力なのだから一ミリたりとも世の中は動かないわけで、当たり前すぎていっそ馬鹿馬鹿しいくらいの理屈である。

弱者に対して「酬われるように努力しろ」と叱咤激励する馬鹿馬鹿しさはちょっと考えれば誰にでもわかることで、強者がその頑張りに酬いる気がなければそこでオシマイの話であり、強者に対して弱者の努力に酬いるよう強制する仕組みがない以上、弱者切り捨ての空証文でしかない。

奥谷禮子式の暴論が馬鹿馬鹿しいのは、「個人が頑張れば企業はそれに酬いる」という制度的に保証されてもいない前提に立脚しているからである。そこでさらに「能力があれば企業はそれに酬いざるを得ない、それだけの実力を持つべきだ」と強弁するのであれば、企業利益を左右するだけの強力な実力を具えた個人しか正当に酬いられないということだが、「企業利益を左右するだけの実力を持つ個人」とは、一労働者でありながら企業経営の局面で経営層と同等の影響力を持つ一握りの選良ということである。

そのくらいの実力でもなければ、ちょっと有能な人間などこの世の中には掃いて棄てるほどいるのであり、地元じゃ負け識らずのエースが社会に出たら十人並みになる程度には世間は広いのだから、企業組織にとっては程々に有能な人材など皆ひとしなみに代替えの効くエクスペンダブルな手駒だということになる。

エクスペンダブルでない人材、企業と交渉力のある人材というのは、たとえば一時のエイベックスにおける浜崎あゆみくらいのポジションの人材を謂うのである。彼女を育てた松浦勝人のほうはアッサリ斬られそうになったのだから、あの程度の実績やポジションですらまだまだ企業組織との有効な交渉力はないということだ。

つまり、オレやあなたやあなたの友人のような凡人の話では一切ないのである。さらには、もしそんな選良が存在するとしたら労働者として働くよりも自ら経営に参画するほうが話が早いのだから、何れ経営の中核に喰い込むか独立起業するのは目に見えているわけで、つまり「他人様に使われる立場にいる限りは一生酬われない」「どうせ働くなら搾取する側に廻らなければ損」という実も蓋もない結論になる。一生人に使われる立場にある者は無能な敗者だ、じゃによって不遇な搾取を受けても我慢せいという理屈になるわけである。

これはつまり、社会全体の圧倒的多数者である平凡人の勤め人を、皆ひとしなみに無能な敗者と見做して冷遇し、一部選良のみが優遇される不均等を選良サイドが肯定する自己正当化の論理でしかない。「頑張れば酬われる世の中」というお題目など、今現在事実として酬われている人間がその現状を「これまで頑張った正当な報酬」として根拠附けるアリバイを用意する意味しかない空論で、社会一般にとって意味のある主張ではさらさらない。

企業利益を左右するだけの強力な実力を持たない大多数の凡人は、少しでも企業組織から優遇されるように自己顕示し同僚の脚を引っ張り考課を向上させる為に上司に阿る以外には浮かび上がる手段がない。それは結局、昔ながらのサラリーマン社会の処世術が強力に物を言う世の中になったというだけのことではないだろうか。

ここで横道に逸れると、たとえば「パパとムスメの7日間」の職場描写が、コミカルにカリカチュアライズされていながら基本認識がアクチュアルだと思うのは、現今の企業社会においてはベンチャー的に手柄を挙げるより失点を犯さないほうが得だという認識が根底にあって、それをベースに空想的なお伽噺を語っているからである。

つまり、劇中の小梅のように正論の啖呵を切って積極的に売れる商品を開発すべきとする姿勢は、社会に新たな価値を生み出して市場を開拓するプロジェクトX的な企業活動においては有効だが、デフレスパイラルの世の中で安くて程々に良いものを提供していく企業活動においては有効ではないということである。つまり、現実の世の中では単価五〇〇円のちんまい商品をヒットさせる為にリスクを犯すより、給料泥棒の中間管理職の馘を斬ることのほうに企業の関心があるということである。

この儘恭一郎が定年まで会社に居座り続けたとしたら、会社側は数千万から一億に近いコストを強いられるわけで、その間に無能な恭一郎がコストに見合う利益を上げる可能性は低いわけである。ならば、早い裡に恭一郎の馘を斬ってしまえば確実にその含み損だけは回収出来るわけだから、会社側が小口の商品のヒットよりも恭一郎のリストラのほうに関心があるのは当たり前だというわけである。

積極的な価値創造よりもコスト削減で堅調な利益を出すというムードにおいては、手柄を挙げた社員に酬いることより失点を犯した社員を切ることのほうに企業の関心が特化しているわけで、果断にリスクを犯して業績を向上させても、上司に手柄を奪われたり対価を値切られたりして公正に酬われる保証はないが、失点を犯せば満場一致で確実に切られるわけだから、個々の労働者にとってはリスクを犯すだけのコスト対効果比のバランスが破れているわけである。

小泉改革ベースの原理においては、この不均衡と閉塞に対して「利益を上げない社員も切る」というムチに拍車を追加するような苛烈な人事手法も肯定されるわけで、その結果として企業の人的組織は萎縮し加速度的に空洞化する。固定的な人材は確実に利益を生み出す人間に限定されるわけだが、そのような優秀な人材がやがては経営中核層への組み入れや独立起業によって労働の一線から退いていき、現場の空洞は流動的労働力で補填されるというシナリオは最前指摘した通りである。

かくして企業組織における人材の空洞化と空疎化は急激に進行し、企業内部で労働者が生き残る為の最重要スキルとは処世と保身ということになっていく。

建設なき破壊の混沌に伴って現出するのは、このようなアモラルな意味での弱肉強食の世の中であって、強者が弱者を搾取し、強者の横暴を逃れる為に弱者同士が騙し合い、裏切り合い、奪い合うという意味での後ろ向きな競争社会である。確固たるフェアネスを担保する秩序の仕組みがない以上、狡いことをしたほうが勝つのは当たり前で効率的だからであり、このような苛烈な社会において自助努力で自己救済するということは、つまり他人を陥れたり裏切って打ち負かすということである。

このような意味での競争社会というのは、最早秩序国家の体を成していない。

自助努力や個人の自己責任を言うのであれば、モラルに則った形でどのように頑張ればどのように酬われるのか、それをどのように保証するのか、他人を陥れ打ち負かすという血腥い意味ではない健全な社会競争とはどのようなものなのか、そのような建設的ビジョンを国民に提示し約束し実現し、国民の大多数がこの国の国民であることに満足して生きていけるような社会秩序を樹立することが国家の責務だろう。

「生き残る為に隣人を殺せ」と強制する国家など、最早国家である意味がない。詐欺師と喧嘩屋と佞人だけに有利な醜い乱世など、そんな醜い人間以外は誰一人望んでいないはずである。それは普通、「頑張った者が酬われる世の中」ではなく「正直者が莫迦をみる世の中」と呼ぶのである。


●改革成りて成長は成ったか?

さらには、小泉純一郎が提唱した新自由主義的な競争社会が「弱者切り捨て」「格差固定」というネガティブなものでないとすれば、最底辺の人間に最底辺の生活を保証し得るだけの飛躍的な経済成長が必須であり、これが「改革なくして成長なし」という小泉改革の最大のお題目であり国民との約束であったはずである。

何故なら、最底辺の人間が最底辺の生活すら営めないということなら、無能で弱い人間は死ぬしかないからである。現今の厳しい時代背景を考えれば、社会的価値の低い者や頑張れない者は大して面白くもない生活しか享受出来ないという理屈なら最低限受け容れ得るが、無能な人間や頑張れない人間は死ねという理屈は到底受け容れ得るものではない。それは、自領内の身体障害者や無産者を追放・虐殺した里見忠義やブラド・ツェペシュの血も涙もない苛政と同列で、近代国家の在るべき姿では断じてないだろう。

国民全体がフェアに酬われる為の豊かな社会基盤を支えるべき飛躍的な経済成長を最大の目標として約束したからこそ、国民は「一時の痛み」を受け容れたはずなのに、コスト削減の名目の下に労働者の大半を踏みつけにして痛みが恒久化する社会を実現し、その結果得られた形ばかりの経済成長などは羊頭狗肉の欺瞞でしかない。

国際コスト競争力をお題目に掲げて大多数の労働者を切り捨てて、その結果として得られた微々たる成長を一部経営層が寡占するというのは、つまり非常に原始的な搾取の構造が復活しただけである。輝ける新しい未来を創るべき構造改革が戦国乱世の時代のような血腥い社会不安を招き、旧態然たる労働者搾取の社会構造を復活させるというのは嗤うべき皮肉だろう。

戦後の横須賀で格好良い米兵さんが持ち込んだアメリカ文化に憧れ続けて大人になったアメリカ大統領のケツの穴まで舐めそうなメリケンかぶれのミーハーおやじが、日本をレーガノミックス時代のアメリカにしようと目論んで揮った改革の大鉈は、見事にこの国をちんけなアメリカのデッドコピーにしてしまったわけである。

そして、小泉政治の功罪を問う場面では、他にどんな卓見があったとしても打ち壊し中心の改革を経た後の長期的展望「だけ」はなかったことは明らかである。今現在の「好況」で得をしているのが大企業の一部経営層だけであることは、このような性格の改革の結果として当たり前なのであって、このような世の中の実現に関して後先を考えないお調子者にフリーハンドを与えた以上、予想されて然るべき結果だろう。

歴史的な経済のねじれのツケが廻ってきた閉塞的な社会情勢に呼応して、「弱いモン基準の世の中では、強い者が存分に力を発揮出来ないよ」「それじゃあ世の中全体が先細りになっちゃうよ」ということで強者に対する制限を緩和したわけだが、無思慮に制限を取り払ってしまえば元々力の強い者が弱い者をどうしようと思いの儘なのだから、弱い者が一方的に泣きをみる原始的な世の中になるのは当たり前の話である。

本当の意味において旧体制を改革するということは、それが間違っているから徹底的に打ち壊すというのではなく、それに代わり得る新たなシステムを建設することが主眼となるべきだろう。その過渡的プロセスとして破壊が必要だというのであれば、それこそそれにどんな「痛み」が伴うとしても国民は甘受すべきだろうし、たしかに改革なくして成長なしというスローガン自体は正しいだろう。

しかし、小泉改革には既存構造の代替となるべき新システムのビジョンやその緻密な検証、担保する手当てが決定的に欠けていたわけで、新たな世の中への移行期に「痛みが伴う」のではなく、「痛みに満ちた世の中」になっただけではなかったか。

すべての改革は「やりっぱなし」で放置され、「改革の手を着けた」という名目こそ立つが前より悪くなっただけであり、確固たる新時代のビジョンに基づいてリデザインするという改革本来の意味とは程遠い結果に終わったのだが、元々具体的ビジョンがないのだから、その改革とは破壊の代名詞でしかない。建設を次代に一任した破壊だけの改革など究極の「問題の先送り」である。

安倍政権の政策に批判を加えるなら、現今の社会問題を招来した直接の元凶である小泉政治批判やその政権を絶対的に支持した反省とセットでないとおかしいはずだが、何故かマスコミの報道からは、小泉純一郎は大した宰相だったが安倍晋三はダメな宰相であるかのような印象を受けるし、剰えこの期に及んでまで小泉待望論すらあるかに聞く。

しかし、安倍晋三がダメな宰相であることに格別の異論はないが、小泉純一郎はダメなくせに力があっただけもっと迷惑な宰相だったわけで、個人的には小泉流のお調子者政治には常々神経を逆撫でされていた。

就中郵政民営化の問題は不愉快の一語に尽きる。冒頭で白状した通りオレは政治には疎い人間なので、いろいろな報道や識者の意見とやらを漁ってみたが、何故あのタイミングで郵政民営化法案が最優先事項として断行されねばならなかったのか、マトモな政治の論理できちんと説明出来ている意見は見附からなかった。

部分的な問題点の指摘に関してはそれなりに理解出来たが、やるメリットとデメリットが拮抗し寧ろ不安要素のほうが多い、つまり「やってもやらなくてもさしたる違いはない」程度の改革案であって、郵政民営化だけが「最大の優先度」で他の諸法案を差し置いて断行されねばならなかった理由に関しては、誰一人として納得の行く説明をしてくれなかった。まして衆院解散総選挙で国政に空白を設けてまで断行する意義など一切なかったとしか思えない。

たしかに郵政民営化法案に固執する小泉純一郎の姿勢には、従来的な意味での政治的汚濁は視られなかったし、郵政民営化それ自体もまたそれなりの意義を期待された施策であるという言い方も出来るだろうが、理屈と膏薬は何にでも附くもので、それが現実的実態に即応した理屈とは思えなかったし、合理的根拠のない個人的執着という政治的合理性以前の問題という印象しか得られなかった。早い話が、「他に幾らでもやるべきことがあるだろう」ということである。

更めて詳しく調べてみたが、単純に謂えば小泉純一郎にそのアイディアが胚胎した時期においては実現可能性が乏しい理想論で、実現可能性が高まった時点においては実現するだけの実効的意義が消失していたという印象があり、要するに出し遅れの証文に添えられた黴の生えた画餅というつまらないものでしかなかったわけである。

「民営化」というお題目が万能のアブラカダブラであるという幻想が木っ端微塵に砕け散った後で(つか、その幻想を毀したのは小泉純一郎自身なわけだが)、わざわざすべての国政を中断し多くの怪我人を出してまで断行するだけの実効的意義などまったくなかったわけである。アメリカ側からの外圧という側面もあったわけだが、外圧に屈したというわけではなく寧ろ喜んで従ったというところではないか。

つまり、「小泉純一郎がやると言ったから」という以上の理由は見附からなかったわけで、小泉純一郎がどのような合理的根拠に基づいてそれを最優先課題と位置附けていたのかということは説明不能であり、一般的国民は疎か政治評論家や事情通の誰一人としてそれを理解していなかったということである。

これを非常にブンガク的に捉えるなら、為政者と国民の双方に対して「最早改革路線を後戻りすることは誰にも許されない」と強烈に印象附ける為のパフォーマンス、つまり一種の象徴というか、ぶっちゃけ「見せしめ」の狙いということになる。郵政民営化が対象であったのはそれが政治家小泉純一郎の年来の持論だったからで、「聖域なき構造改革」を推進する場合、小泉純一郎個人が郵政三事業を「聖域」の象徴に擬して国民に訴えて続けてきたという歴史的経緯があったからだという話になる。

現実的な意味において郵政三事業が民営化さるべき意義などとうの昔に消失していたが政治的パフォーマンスとしてそれが果たされる必要があったということである。ここに小泉政治の特徴が顕著に顕れていると思うのだが、政策通との評価もある小泉純一郎にとっては、個別の政策の具体論や現実的妥当性よりもブンガク的なストーリー性のほうが重要だということである。

つまり小泉純一郎にとって郵政三事業とは象徴的カルタゴなのであり、すべての演説の末尾に「よってカルタゴは滅ぶべきである」と附け加えた大カトーに自らを準えていたのだろう。小泉純一郎の心性にとって重要なのは、個々の改革案の現実的意義ではなくそれが構造的な悪弊を打破して新しい世をもたらすというストーリー性そのものであって、成算や実効の有無などは重要な問題ではないのである。それはつまり、政治の具体論としては獲らぬ狸の皮算用の空想的楽観主義ということである。

目先の痛みに囚われずに希望を持て、未来を楽観して改革に邁進せよとは小泉純一郎が常々訴えてきたことだが、それは単に小泉自身の政治姿勢であって、具体的な根拠などなかったのである。「オレに任せてくれればすべて上手く行く」と思わせてくれるか否かは政治家として重要な資質ではあるだろうが、どんな政治家であれ無制限のフリーハンドを与えるのは例外なく危険である。

歴史的に視て、無制限のフリーハンドを与えられた強力な為政者が致命的な失政を犯さなかったためしはない。民主主義政治というのは、議会制政治というのは、ある程度中途半端で不徹底な部分もあるからこそ、それなりに健全に機能するのである。

有権者視点で視れば、郵政民営化法案に対する旗幟を明らかにすることが争点となる選挙などポピュリズムの極地であって、煎じ詰めれば「小泉純一郎の言うことを聞くか聞かないか」が争点だという話で、小泉純一郎に対する個人崇拝や絶対服従を問うだけの選挙である。そして郵政選挙で小泉陣営の圧勝をもたらしたのは、文字通り小泉純一郎という個人を無根拠に崇拝する有権者の浮動票だったわけである。

その無根拠な楽観は、この現状によって粉微塵に打ち砕かれているはずである。

小泉改革は基本的なベースを「べき論」の楽観的理想主義に置いていたわけだが、改革構想の具体的側面において堕落と後退を抑止する手を打つだけの知恵と政策に対する誠意はなかった。つまり個別の改革案の予測されたデメリットに対しては一切無策で、改革ありきの前提で世直しの具体論を考えていくことを余儀なくされているわけである。

小泉純一郎が自身の改革政策の心情的根拠と見做していたのは、どうやら彼の大好きな憧れの超大国アメリカが新自由主義政策を果断に推進し、深刻な不況から劇的に財政を立て直したという心躍るサクセスストーリーだったとしか思えない。

そのアメリカが、日本にもアメリカのようになってくれ、同盟国としてグローバル資本主義の一翼を担ってくれと頼んでいるのだから、それは彼にとって絶対的に正しい選択なのである。小泉政治は最初から国民のほうなど向いてはいなかったのだし、敢えて言えば自身の裡にある政治的ロマンチシズムにのみ純粋に忠実な政治家だったのだろう。

その無定見な政策が実現した後、いつまでどの程度続くのか皆目保証のない甚大な混乱をして「改革に伴う痛み」と小泉純一郎は表現したのであり、この「痛み」があなたやあなたの大事な人の命を奪わないという保証など誰もしてくれなかったのだし、それが問われる場面では常に「人生いろいろ」式のワンフレーズのギャグで笑い事にして議論を拒絶してきたのが小泉純一郎という独裁者である。

宮部みゆきの「模倣犯」には「笑っちゃったらエッチは出来ない」という意味の一節があったが、それと同様に笑っちゃったら最期で和やかな空気になってしまい、真剣な議論にはならないものだ。小泉純一郎という宰相は、常に気の利いたギャグを飛ばすことでシャレにならない重要な問題に関する真剣な議論を笑い飛ばし続けてきた政治家なのであって、国民の大多数はこのギャグに素直に笑ったお人好しということになる。

あの時、このおもろいオッサンのギャグに笑っていて本当に好かったのかというのは問われて然るべき疑問だろう。どんな危機的局面であれ、どんな強力なリーダーシップが要求される場面であれ、議会政治をギャグと強弁で乗り切る為政者を笑って見過ごしていて好かったのだろうか。

小泉純一郎と同様に、すべての議論をギャグと恫喝の強弁で押し通してきた森喜朗はその対応姿勢とでっぷり超えた越後屋体型の故にワルモンと視られ遂には退陣を余儀なくされたのだが、同じ遣り口でも格好良い正義の味方がやれば大向こうから喝采を送られるというのは、ある意味セクハラと同様の情緒的力学であることよ(笑)。


●誰の為に国家はあるのか?

また、国家は国民生活の安定を保証する代償として一定の義務の履行を求めるものであるとか、国家威信や民族的プライドとは国民がまず安定した生活を享受した上でその生活に対して正当な誇りを持つ為に必要な理念である、という健全な考え方が欠落していることにおいて、小泉政治も現在の安倍政治も同断である。

小泉改革を総括すれば、自己目的的なお祭り改革で、破壊と再建という政治の具体の場では一体不可分なプロセスを二分して破壊だけに特化した改革であり、破壊に続く再建については一方的に後任者に圧し附けた無責任政治である。

一面では、他に幾らでもやりようがあるのに既存の旧弊な構造が障害となっていた問題というものもたしかに存在したわけだから、無差別に毀して廻ればそれなりの成果が顕れることは事実だが、社会システムがこれだけ複雑膨大化した現在においては、毀すだけで何とかなる問題のほうが圧倒的に少ないことも事実である。

毀すのは比較的簡単だが、一旦更地にしてしまったからには、そんな複雑膨大なシステムを一から作り直しデバッグするのは容易ではない。それには相応の膨大なリスクとコストと時間が要されるわけで、既存構造においてメリットとデメリットが拮抗していたような事柄に関しては、一般論で言って安定したシステムが走り出すまではデメリットのほうが圧倒的に多いのは当たり前である。

これを小泉純一郎は「改革に伴う痛み」という魔法のアブラカダブラで有耶無耶に胡麻化し国民の想像力に目眩ましをかけたわけで、八方円満な安定したシステムが走り出すまでにどのくらいの時間がかかるとかどのくらいの犠牲があるとかどの程度の成算があるかなどについては、何一つ保証していなかったわけである。

とりあえず打ち壊しだけは見事にやるが、その後の再建の部分が思わしくなくても他人事のような顔をして「改革を断行するのが私の役割」と繰り返す無責任内閣だったわけだが、こんな政権が最後まで異常な支持率を保持した儘に任期を終えたことは、後世において理性的な議会政治の暗黒時代と誹られても仕方ないだろう。

小泉純一郎という人物は、若造議員の頃にその目でまざと視た政治的汚濁の死屍累々と驕れる巨大な牙城の廃墟が視たかっただけのロマンティックな変人なのであって、その結果誰がどの程度困ろうが識ったことではなかったのである。院政を布かずに一線を退いた姿勢を潔いと評する向きもあるかもしれないが、単に彼は廃墟からの再生になど興味がないから自身の個人生活を豊かにすることに関心を向けただけで、今後世の中が何う変わろうと、小泉純一郎という個人の生活にさほどの影響はない。謂ってみれば究極の勝ち逃げ組である。

普通に考えてみれば、特定の政権が体制を毀すことにだけ特化した権力であるなどという屁理屈が通用するものではない。後継内閣を誰が担うにしろ、小泉内閣も安倍内閣も一続きの連続した戦後民主主義政府であって、個人の手柄や功績など国民の斟酌すべき事柄ではない。歴史に連なる政府の一員であるという真っ当な政治家としての認識があれば、自分という個人が毀すだけで再建に責任は持たないという身勝手な戯れ言など通用するものではないだろう。

スクラップアンドビルドのスクラップしかやりませんなどというのが、マトモな政府の言い種と言えるだろうか。「結果がどうなるかなんて識ったことではないけれど、とりあえず毀してみます」「後は自己責任で頑張ってください」としか言わない政治家など料簡がおかしいとしか言い様がない。ましてや、普通の個人なら責任関係を斟酌されるような未然の結果に対しても、責任感を持って行動するのが政治家という商売なのではないのか。

たしかに時勢によっては体制打破や構造改革に特化した政局があっても好いが、それは破壊そのものに重要性があるのではなく、確固とした計算とビジョンに基づく建設を目的としたプロセスでなければ何の意味もないのであって、基本的にすべての政治家は、国家の安定的経営と建設的発展という政治の究極目的に無責任であることなど許されないはずである。毀すのが自分の課題だからその課題だけはやり遂げました、それが上手く行っていないのは後を担った人間が下手を打ったからでオレの責任じゃありあませんというのは、ダメなサラリーマンの自己弁護のセリフである。

この理屈は安倍政権の年金問題への対応にも通底する事柄であって、この問題に関しては国民の誰もが「あんた個人がヘマしたわけでなくても、お上の不始末にケツを持つのが総理大臣の立場だろう」とツッコミを入れているわけだが、小泉無責任改革の姿勢とは極性が未来に向いているか過去に向いているかの違いしかない。

その意味では、安倍政権の施策というのは小泉政権の陰画であって、小泉政権の政治をアタマのおかしな道化者以外の人間がやったらこうなるというだけの話で、アタマのおかしな道化者であることが政治的に意味のあることでないのであれば、小泉政治はただの無定見な失政の連続でしかない。今回の参院選の大敗は、寧ろ「郵政民営化選挙」の際に実現していて然るべき事態なのであって、安倍政権へのツッコミどころはすべてその雛形である小泉政権にも当てはまることなのである。

小泉内閣の後を襲った安倍内閣は、本来なら識者からの同情の対象となるのが自然なはずで、既存構造を破壊するよりそこから再建を果たしていくほうがよっぽど大変で上手く行かないのが当たり前である。何せ、再建を考えずにとりあえず無責任に毀しただけなのだから、後継内閣にその破壊のしわ寄せが行くのは当たり前で、華々しいスタンドプレイでその原因を作った人間よりも、その結果として今現在顕在化している困難に直面し、尻拭いに奔走する人間のほうが世間から責められ割を喰うのは世の常である。

事実、滑り出しにおいては小泉改革で切り捨てられた弱者や地方行政に対する手当てを考えていた節があるし、個人的に割合同情的に視ていたのだが、何うもこの人物は根本的に人間が愚かに出来ているらしく、そろそろ無定見な破壊行為のしわ寄せが深刻な社会問題として顕在化しているというのに、教育基本法や憲法の改正など明後日の方角の問題に意欲マソマソで手を着け始めたのでガックリと失望した。

小泉内閣の後継者に求められる急務とは、改革なくして在り得ないとされた成長を実現し健全化する為の、価値創造を主眼に据えた産業構造の樹立と社会的なフェアネスの回復ではなかったのか。

コスト削減という名の労働者切り捨てに依存する豚小間一〇〇グラム方式のしょっぱいお内証の切り詰めで得られた経済成長ではなく、社会的な財を拡大する形の価値創造型の産業構造なくしては、国民全体に成長の恩恵が還元されるはずなどはないのである。

そして、そんな大変なベンチャー努力を敢行するより、既存のパイの中から労働者に廻るはずのお金を搾って寡占したほうが楽で確実だというアンフェアを是正する仕組みを創り、新時代のパラダイムへの移行を否応なく企業に迫る圧力を用意することこそが、ポスト小泉に求められる国政の急務ではなかったのか。新たなビジョンの下に強制されなければ誰しも楽でリスクの少ないほうに流れるのが当たり前なのだから、それは政治がリードすべき管掌分野のはずである。

「痛みを伴う」「聖域なき」構造改革というのなら、一方的に得をする者があってはならないはずであり、単なる企業優遇の新自由主義政策の日本版というのなら、それは財界だけが聖域で痛みなんか伴わないということである。企業に甘い顔をして成長機会を与えるばかりではなく、パラダイムシフトへ向けた果断な努力を強いることこそが、小泉改革路線の画竜点睛ということではなかったのか。

教育基本法改正も憲法改正も、所詮は国民一般に公を意識する感覚を涵養する為の大枠の決め事であり、その行き着く先に見える具体的な結末とは、軍事協力や核武装という国民生活の向上とは無関係な国家威信や国際ステータスの問題でしかない。安倍晋三が提唱する地域の助け合いや人と人との堅い絆という国民像は、さらにそこから折り返して漸くじんわり民草の間に降りてくる問題であって、国民が直面する喫緊の困難に比して剰りに遠い未来の精神論でしかない。

これ自体は改革の聖域であるとは言えないだろうし、政治の課題としての重要性もあるだろうし議論の余地もあるだろうが、郵政民営化以上に「その前に今やるべきことがあるだろう」的なズレたタイミングの論議である。つまり、国家百年の計を論じるならせめてお腹が膨れて落ち着いてからにすべきであって、国家の未来を空きっ腹で考えるのは剰りに危ないというのが当たり前の国民感情である。

小泉改革は経済の為に国民生活に一時的な犠牲を強いる政策であり、一旦国民は小泉の掲げる大義と約束を信じて譲歩しているのである。さらにそこへ加えて国民の公に対する意識を喚起し、国家への奉仕を期待する政策を連打するというのは、「やりすぎ」の誹りを免れない。国家がどれだけ一方的に国民に自己犠牲や自助努力を要求すれば気が済むんだという話になるのも当たり前である。

普通の政治感覚の持ち主なら、小泉政治の急激な破壊政策の影響で自身の時代には壊滅的な影響が出始めること、それが表面的には自身の失政として批判の対象となるだろうこと、国民には更なる「痛み」を乗り切る体力など残っていないことを察して然るべきであり、小泉政治の廃墟から新たな何ものかを創り出し、破壊に伴う困難から国民を救済することこそが「小泉改革路線の継承」であることを察して然るべきである。それが普通の意味で現実を見据えた政治姿勢だろう。

つまり「小泉改革路線の継承」というのは、ぶっちゃけ小泉破壊政治の建設的尻拭いであり、小泉政治が国民に要求した犠牲のツケを払い太っ腹に約束した見返りを用意することと解するのが常識的な感覚だと思うのだが、そのまんま「小泉みたいに破壊を推し進めていくこと」だと思っているのが、ちょっと普通の感覚ではない。その時点でこの人物には妥当な政治感覚や現実認識がないというのがバレバレである。喩えは悪いけれど、詐欺に遭った人を莫迦なカモと侮ってその直後にまったく同じ手口で詐欺を仕掛けるようなもので、前任者の分まで割りを喰うのが当たり前である。


●二一世紀のこぶとり爺さん

それをこぶとり爺さんのお伽噺に喩えれば、小泉純一郎というのは戦後稀に視るほど踊りの上手いお調子者だったわけで、鬼の国民も大ウケのスタンディングオベーションを送り、後先を考えずに虎の子の宝物を分け与えてしまったわけだが、そもそも隣のいじわる爺さんである安倍晋三は、小泉純一郎というこぶとり爺さんがお宝を得られたのは踊りが天才的に上手かったからであって、踊ることとお宝ゲットの間に必然的因果関係があったからではないという弁えがなかったわけである。

こぶとり爺さんは、普通なら鬼に喰い殺されても仕方のない危険な状況でも我慢出来ずに踊り出たお調子者に過ぎないわけで、その行為自体は非常識な愚行でしかない。剰りに踊りが上手かったので結果的に大ウケして吉と出ただけの話なのだが、隣のいじわる爺さんは鬼の前で踊りさえすれば大ウケして宝物が貰えるものと、原因と結果を取り違えてしまったのである。その結果、お宝を貰うどころかこぶとり爺さんのこぶまで附けられて這う這うの体で泣いて帰ったのだから世話はない。

しかも、その踊りの下手糞さ加減たるや戦後稀に視るもので、そもそも野次が附き物の国会で逐一野次に噛み附いて見せる辺り、無様に釣られ放題というところで、国家元首としての見え方を全然考えていない。個人の名誉や権利を犠牲にしてでも国家の利益を図るのが建前の公人中の公人である総理総裁が、国政一般を論じている公の場において自分個人に対する非礼咎めの動機で野次に噛み附くというのは、何処まで人間が小さく出来ている小物ぶりですかと我が目を疑った。

お坊ちゃん育ちだから何うこうという以前に、そんなつまらない野次を咎め立てする為にも相応の時間がとられ議論が中断するわけだから、この人は国政に関する議論よりも一個人としての名誉やプライドのほうが大事なのだという印象を、世人の目に強烈に植え附けてしまったことになる。

一般的な国民にとっては、国政に関する議論で安倍晋三という個人の名誉やプライドが痍附けられることになど何の関心もないわけで、国会というのは国民の関心事について論じる公の場であり議会というのは有限の機会なのだから、そんな個人的な事柄で時間を潰され議論が脇道へ逸れるのは腹立たしい逸脱でしかない。

そもそも野次られるのが商売の与党総裁が、公務の遂行中に対抗勢力からどれだけ失礼な言葉を投げられたからと言って、安倍晋三という私人の名誉がどれだけ痍附くと言うのだろうか。そこでヒステリックにキャンキャン吠えてみせることで、一般論としての公人の自覚や公私の弁えは疎か、成熟した大人の社会人としての世間知や辛抱我慢すらないということがバレバレになってしまう。

安倍晋三個人のペルソナに対して国民一般が抱いている「幼稚なお坊ちゃん」というイメージは、要するにこのような個人としての無自覚な振る舞いの与える好ましからざる印象の集積であって、遠くケネディ・ニクソンの昔にまで遡る映像メディア時代に生きる政治家の一人として剰りに迂闊で無自覚だとしか言い様がない。TVメディアを手玉に取って存分に踊り廻った小泉純一郎と決定的に違うのはそこである。

数々の閣僚の不祥事や任命責任の問題などは散々論じられているから此処でオレが更めて指摘するまでもないことだが、要するにこの人は政治家に相応しくないほど極端に自己愛の強い幼児的な人物で、自分との個人的な関係性においてしか物事を考えられないということだろう。そんな人物が国家百年の計である教育基本法や憲法の改正に短兵急に取り組み強行採決を繰り返すというのは危険の一語に尽きる。やってもいいけど、安倍にだけはやらせるなという空気になるのは当然である。

今回の参院選についても、莫迦じゃないのかと思ったのは、事前にこれほどの逆風を予見することは困難だったとしても、苦戦必至の選挙の開票に先立って「私と小沢さんのどちらが総理に相応しいかを問う選挙」とか言っちゃうセンスで、現時点で総理でもなければ将来なるつもりもない小沢一郎の側がそう言い出したのなら話はわかるが、圧倒的なリスクを負う側の現職総理である安倍晋三がそんな寝言を語るというのだから、頼まれもしないのに自分から選挙結果に馘を賭けていたわけである。

多分、まさかあの悪人面の政局屋である小沢一郎より清潔イメージのある自分のほうが総理に相応しいと誰もが思うだろうと踏んで、小沢一郎の陰湿な謀略体質を皮肉ったつもりなのかもしれないが、争点を政治家個人のイメージ論にすり替えようという辺りが剰りに不潔だし、そこで無根拠に自信を持っている辺りがもっと不潔な勘違いである。

さらに言えば、前述の通り映像メディア時代における自身の見え方に対して決定的に勘が鈍いわけだから、そこで馘を賭けること自体が噴飯物の幼稚な誤算であって、こういうロジカルで冷静な判断力の欠如が数々の不祥事や政局に対する判断ミスのバックボーンなのだろうと誰もが納得してしまう。

頼まれもしないのに自分から馘を賭けておいて、負けたら負けたで「責任を取る為にも辞めません」とか言っちゃうから莫迦だと思われるのである。最初から敗戦という最悪の想定をも視野に入れて「敗れても辞めないことが自分なりの責任の取り方だ」と主張していたら、それなりに国民から不退転の覚悟を認めて貰えたのかもしれないが、軽々に「あたしと小沢さんのどっちを取るのよ?」「小沢さんを選んだら舌噛んで死んでやるぅ!」的な修羅場のヒステリー女みたいな阿呆な戯言を言うから「どうした、死ぬんじゃなかったのか?」と嘲笑されるのである。

閣僚人事の問題でも、この人のやり方は周囲の要求に対して散々突っ張った挙げ句に最終的には外圧に屈して言うなり次第にベタ降りするというパターンで、政治的な観点から視れば一番拙いやり方を貫いているわけである。普通の政治家なら、周囲が期待することを言われる前に先手を打って自分が思い附いたような顔で言い出すか、周囲の期待に背くなら最後まで完遂する勝算を持って断行すべきだが、何うやらこのパターンを視る限り、最初から無理だとわかっていて最後には折れるつもりのことを、とりあえず言い張ってみているだけらしい。

国民や周囲の期待は常に裏切り、その一方で最終的にはその要望に沿うわけだから、最初に意固地に突っ張って周囲を敵に廻したり国民の失望を買う挙動に、政治的に実効のある意味は一切ない。それでも頑なにそのような対応パターンを堅持するのは、要するに罷免・更迭されるのが筋の当人に対して安倍晋三という個人が出来る限り味方してあげたという情緒的なアリバイになるという意味しかないだろう。

つまり、周囲の外圧と安倍晋三の庇い立てはセットになっているわけである。これだけ世間が辞めろと言っているのに、敵は幾万ありとてもオレはキミを信じて庇ってあげたんだよ、その為にこれだけ沢山の火の粉も被ったんだよ、という話になるわけである。

常々「オトモダチ内閣」「なかよし内閣」と揶揄される安倍内閣だが、その意味で安倍晋三の行動律は一貫しているというわけである。オトモダチに対して義理を欠くのが嫌で「友を信じ抜き苛酷な犠牲に耐える義人」という自己イメージが大好きだからこういう不合理な態度を貫いているということになるのだが、それが結果的に大事なオトモダチを殺したり政治生命を抹殺したりしているわけで、政治の場面で個人の情を動機として動いてろくなことがあった試しはない。

まあ国民の大半が貧困に喘いでいる花より団子の現状で、政治テーマを「美しい国」とか言っちゃうズレたセンスの人だから仕方ないとは言え、出来レースのメロス気取りで肝心のセリヌンティウスを殺してしまったらシャレにならない大莫迦者だろう。「美しくなくてもいいから喰える国にしてくれ、話はまずそれからだ」という空気も読まない世間識らずな宰相には、目先の庇い立てより再起の目がある形で雌伏させてやるほうがよっぽどオトモダチの為になるという世間知もないのだろう。

そうでないとすれば、自分の腹心や側近を次々に潰している大した謀略家だという話になるわけだが(笑)、勿論そんな回り諄い謀略が在り得るとして、それに何ういう政治的打算があるのかについては到底オレなどの匹夫野人の与り識るところではない。

多分、安倍晋三という人は首を縊るほど貧乏で困っている友人の見舞いに「オレが最後まで応援するから頑張れ!」と瑞々しい流麗な筆致で書いたカードを添えて高価な蘭の一鉢を贈るようなタイプのオトモダチなのであって、同じ金を遣うなら黙って米の一俵か味噌の一樽でも贈ったほうがよほど有り難いという当たり前の知恵がなく、友人の窮状よりも窮する友を思い遣る自分の気持ちが一番大事なのである。

最後の足掻きの内閣改造で、目玉のサプライズ人事として少子化担当の特命大臣にアグネス・チャンが登用されたらオレは爆笑するだろうが、いろんな意味で笑い事でないことは勿論であるし、何となく五分で本当にやりそうな気がする辺り、安倍政権の先行きは真っ暗である。

敢えてどぎつい表現を遣えば、暴力的な狂人の直後に世間識らずの阿呆が国政のトップに座ったわけで、その狂人と阿呆のロマンティックな連携プレイで、街には垢まみれの貧民が溢れ、田舎では百姓が稗や粟や犬猫の死骸を喰って露命を繋いでいるような、こんな野蛮で惨めったらしい国が一〇〇年待っても美しくなるわけがない。

しかし、忘れてはならないのは、こんな世間識らずの阿呆の政治を冷静に批判出来るだけの知恵があるのであれば、「小泉はよかったが安倍はダメだ」なんて言っちゃダメということである。安倍晋三が政治家として失敗したとすれば、それは小泉政治の出鱈目さや尻拭いの必要を一切理解せずに小泉二号になろうとしたことであって、安倍晋三の無能が小泉純一郎の「偉業」を台無しにしたわけではない。

安倍政権が直面した課題は、世間識らずな阿呆でなくても手に負えないほどに困難なものであって、言ってしまえば、もう少しマシなやりようが幾らでもあったはずのイケイケどんどんのお祭り政治の後始末の泥にまみれたゴミ拾いだったのである。安倍晋三の政治が拙かったとしても、それは困難な後始末を諦めて前任者の轍を踏んで困難を振りまく側に廻ろうとしたことが拙かったのである。

小泉改革路線そのものが面白半分の出鱈目政治であって、小泉純一郎というスター政治家はハタから見物している分には面白いキャラだというだけの話で、彼が斬って棄てたワルモノどもと比べて幾らもマシな政治家ではない。というか、日本という国を未曾有の国難に導いた元凶という意味ではもっと傍迷惑な存在で、日本がこの儘冴えない三等国に転落したまんまなら、後世において東条英機と似たようなポジションの独裁者に位置附けられるのではないかと思う。

小泉純一郎が政権を担った一九八〇日間が、三谷幸喜が脚本を書いた冴えないTVドラマのフィクションだったらどんなにか好かっただろうとつくづく思う。つか、TVドラマよりもいい加減でテキトーな政治が国民の圧倒的支持の下に罷り通る世の中ってどうなのよ。

そろそろあんなお調子者に送った喝采が間違いだったことを認めませんか、あんな政治を国民が望んでいるのだと思われた儘では、いつまで経っても世の中良くなるはずがありませんよ、としみじみ思う今日この頃である。

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