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2007年9月17日 (月曜日)

lovers

剰り長々と政治ネタにかまけていても旧来のお馴染みさんには退屈だろうから、そろそろ通常営業に戻ろうかと思う。昨年もそうだが、夏場はTV番組がダレるせいか個人的に画面の外の問題に目が行きがちなのかもしれない。

今回語るのは珍しくゲキレンジャーの話題である。「珍しく」というのは、オレ的にはこの番組は一回くらい触れておけば十分かな程度の視聴モチベーションしか持っていないからで、ハッキリ言って電王までの繋ぎ程度に横目で観ているレベルである。

この際だからテキトーに一回くらいは番組に対する感想を総括しておくと、オレはこの番組は戦隊サイドに纏わる物語としては視ていない。そこそこ面白いのは臨獣殿サイドの物語だけで、主人公の側にお話が振られると覿面につまらなくなる。

それは多分、主役であるゲキレンジャーたちには「戦隊ヒーロー」という枠組みの縛りがあるからであって、その故に武侠物を下敷きにしている割にはメインテーマであるはずの「修行」の在り方や、それを核に据えたエピソード構造が中途半端な絵空事になっているからだろう。

武侠物と一口に言ってもいろいろだが、中華文化圏で最もポピュラーな金庸の作品で言えば、主人公の修行時代というのは読者にとってはダレ場である。一方の雄である古龍の主人公のように、最初から出来上がったアダルトなヒーローとしてふらりと登場するというパターンではなく、主人公誕生以前のそもそもの前史から語り起こさないと気が済まない金庸の「一代記」的な物語作法の必然上当然修行時代が出て来るというだけの話で、ヒーローのヒーロー以前を描く関係で大概その辺りはつまらない。

さらに、ここは文芸的伝統の問題なのかもしれないが、大概の主人公が強くなるのは地道で真っ当な修行をコツコツ積んで人格的に成熟するからではなく、ぶっちゃけ偶然の賜物でいきなり強くなるのである。

偶々江湖随一の秘剣を編み出した大先達とひょんなことから識り合って秘奥を授けられるとか、いざこざに巻き込まれて何処ぞの洞窟に鎖じ込められたら其処に中原の英雄豪傑が血眼になって探し求める喪われた絶技の要諦が五言絶句で書き記されていたとか、内功の鍛錬に失敗した上に変な金丹を喰ったら偶々相乗効果で物凄く強くなったとか、在り得ないほどいい加減な偶然でちゃちゃっと強くなるのである。

この辺は、たとえば西遊記の孫悟空がなんであんなに出鱈目に強いのかということを考えれば納得が行くだろう。孫悟空は元々天地五行の精を受けて石から生まれるという異常出生で世に出たワケのわからない化け物であって、美猴王の時代からそもそも強い。

その強い化け物が世の無常を儚んで仙術の習得を思い立ち、何故か師父に気に入られて七二通りの変化の秘術ときん斗雲を授かり、斉天大聖を名乗ってからは竜宮の珍宝の如意棒を強奪するは地獄の閻魔帳から名を削るは長寿を授ける蟠桃園の桃は喰うは太上老君の金丹を喰い八卦炉で焼かれて不死身の肉体になるはで、神仙たちも手を焼くほどに無闇矢鱈と強くなる。

これを簡単に言うなら、元々無根拠に強い奴が神通力と武器とパワーアップアイテムを不必要なまでに大量にゲットして青天井で強くなったということで、修行らしい修行をしたのは、振り出しの時点で西午賀洲の須菩提祖師に弟子入りした時代だけである。

この時代も修行自体が役に立ったわけではなく、何故か師父に気に入られたから仙術の秘奥を授けられただけであって、須菩提祖師はこれから悟空を襲う最悪の難を逃れられるように自分の仙術の中から適当なところを見繕って口授してやったのである。しかも何があっても師である自分の名は明かすなと口止めまでしているところを視れば、先々悟空がろくなことをしでかさないのはちゃんとわかっていたのである。

そういう意味では、孫悟空の強さは修行や人格的成熟とはまったく無関係である。元から強い妖怪だったのが、即物的にテクニックを習得したりアイテムをゲットして無敵の大妖怪になったのである。これは武侠物語の主人公も同じことで、元々才能のある人間がまったくの偶然で最強の秘術を習得したり、稀少なパワーアップアイテムを入手して即物的に強くなるのであって、修行というのはその土台を用意する為に必要な条件附けにしかすぎない。

金庸作品中最も有名な「射雕英雄伝」の主人公などは、史上稀に視るボンクラで性格が好いというだけが取り柄の才能の欠片もない莫迦餓鬼だったのが、偶然によって次から次に最強の秘術を伝授されて江湖随一の英雄になったという棚牡丹式ヒーローだし、その続編である「神雕侠侶」の主人公は才能こそ恵まれていたが修行がイヤで常にトラブルを起こして脱走し、逃れ逃れた果てに偶々識り合った武術家のお姉さんが絶世の美女だったから嫌々我慢して修行したというしょーもないエロ餓鬼である。

要するに、武侠物語のヒーローが古今無双の大達人になるのに辛気くさい修行による成熟や倫理は必要ないのである。心技体円満具足に成熟してこそ強くなるなんてのは日本の神ながらの国技である相撲の建前であって中華英雄のロジックではない。相撲というのは格闘技である以前に神事だから正しく在らねばならないのであって、心技体円満に成熟することが強いからそう在らねばならないのではない。武侠は戦闘テクニックやパワーアップアイテムによって即物的に強くなるものであり、強くなることと人格的成長の間に殆ど相関関係などはない。

心が汚くてねじくれていても、習得した戦闘技術が優れていれば強くなれるのだし、パワーアップアイテムをゲットすれば誰でも強くなれる。そこには何の理屈もなく、最強の秘術とは格闘という概念の神秘的な精髄に迫った究極のセオリーであるから、まったくのド素人でも秘術の通りに動けば古今無双の達人になることも可能である。また、パワーアップアイテムというのは武侠世界で万能の原理である内功を爆発的に高めるものであるから、常識外れの内功が得られることで格闘のド素人でもちょっと武術の手ほどきを受ければ無敵の武芸者になることが可能である。

その意味で武侠物における戦闘力というのは物凄く即物的且つ記号的な概念であり、必要な条件を満たせばいきなり非常識なまでに強くなる。それ故に、多くの武侠物語はその最強の秘術やパワーアップアイテムを巡る達人同士の争奪戦を巡るものであって、多くの場合まったく無関係で無欲な主人公が非意図的にそれらをゲットすることで劇中最強の存在になり、争奪戦の行方を制していく。

こういう原理を念頭に置いておけば、ゲキレンジャーの物語構造を修行と成長を媒介とする正義と悪の二項対立の枠組みで描くことの困難さがわかるだろう。要するに武侠物語的な原理をベースにする限り、激獣拳と臨獣拳の間に倫理を基準とした優劣を設けることが困難なのである。正しいから強いのでないことは格闘物一般において当然の原理だが、就中武侠物語をベースに置くのであれば、正邪の概念と強さの間には何の原理的な因果関係もないのである。

武侠物的物語原理で言うなら、正しい人間である以上は悪に勝たなければならない、その為には強くなければならないというだけなのであって、人格的成熟によって真の正しさを勝ち取ることが強さをもたらすわけではない。人格的成熟と正邪の対立を合理的且つ有機的に絡めて描くことは出来ないのである。

本来の武侠物語の原理に則っているのは臨獣殿サイドのパワーアップのプロセスだけであって、ゲキレンサイドのそれは武侠物的な原理の観点では無理筋なのである。そもそも道教的世界観に基づく武侠物においては、人格的成熟すら善悪正邪の概念と直接的関係性があるわけではない。人格的に成熟すれば正義の味方になって、未熟な人間が悪に墜ちると決まったものでもない。人格的に成熟した人間だって悪を為すことはあるのだし、未熟な人間だって善を為すことがある、その辺は如何にも大陸思想的である。

それ故に、人格的成長→真の正しさを識る→秘技習得でパワーアップという戦隊的な原理の流れは元々武侠物的なロジックとは相容れない。但し「正義の激獣拳」「悪の臨獣拳」という建前を物語の方便として取っ払って言えば、戦隊という枠組みそのものの中に「テクニック主義」「アイテム主義」という即物的なパワーアップ概念が内在しているのだから、本質的にはあながち矛盾しているわけでもない。

現にこれまでのシリーズの流れを視ても、主人公たちが修行によってパワーアップし劣勢を挽回するのは、最終的には七拳聖の授ける激獣拳の奥義を獲得するからで、その物語的表現としての新アイテムや新たなゲキビーストやスーパーゲキレンジャーという新形態への変身をゲットするからである。修行というのはその新ワザや新アイテムをゲットする為の物語的障害や口実とドライに割り切れば結局は同じことである。

その限りでは戦隊物も武侠物も変わりはないのだし、もっと言えばヒーロー物語はおしなべてこのような即物的な原理に則っていて、ぶっちゃけているか勿体ぶっているかの違いでしかないとさえ言えるだろう。

問題なのは、物語の具体としてこれを視た場合、「正義の激獣拳」と「悪の臨獣拳」という正邪の構造的対照が設けられていて、それに基づく修行法の対照が勝敗を分けるという不合理で矛盾した原理が採用されていることである。

OPナレーションの「闘う宿命の戦士たちは、高みを目指して、学び、変わる!」という語りで言われる「戦士たち」とは、この場合繋がり上で解釈しても激獣拳サイドと臨獣拳サイドの両者であると捉えるべきだろう。ゲキレンサイドも臨獣殿サイドも高みを目指して学び変わっているのは同じで、両者が互いに切磋琢磨して強さの鎬を削るのがこの番組のコンセプトだが、この両者には便宜上正義と悪の対照が設けられている。

修行して強くなるという共通コンセプトにおいて、正義の味方ゲキレンジャーの修行プロセスは正しいが、悪の臨獣殿首領である理央のそれは邪悪で間違っているという対照を設けているわけである。たしかに、理央は己の強さを窮める為に無辜の人々を殺傷し破壊の限りを尽くしているわけだから悪であることは間違いないし、それを阻止して闘うゲキレンジャーが正義の味方であることに疑いの余地はない。

そしてこの番組が幼児向けヒーロー番組である以上、最終的にゲキレンジャーが勝利するのは激獣拳が正義で臨獣拳が悪であるからという原理に則っている。同じように強くなる為に修行していても、ジャンたちの修行は正しいが理央の修行は邪悪だから最終的に正義の味方であるジャンたちのほうが勝つというロジックになっている。

これが武侠物のロジックとは別物であることは最前指摘したが、別段「獣拳戦隊ゲキレンジャー」という物語は武侠片そのものではないのだから、そんなロジックに縛られなければならない理由はないだろう。正義の味方は正しいから勝つ、正義は力であるというテーマそれ自体は、幼児向け番組である限りは何処も間違っていない。

しかし問題なのは、大人の視聴者が視ていてもゲキレンサイドの修行法にはちっともパワーアップの説得力がない上に、物語的な面白みがないということである。この番組のコンセプトそれ自体が「修行して強くなる」なのだが、ゲキレンの修行は人格的成長に直結したそれであり、人格的に成長することで強くなるというロジックに則っていて、いわば修行とは主人公たちの人格的成長のたまさかの方便でしかない。

対するに、臨獣殿サイドのパワーアップの為の修行はまさに修行でなければならない絶対的因果関係があるわけで、それは臨獣殿が人格的成長=正義=強さという因果関係を否定する立場にあるのだから当たり前の話である。人格的成長や正義は修行でなくても勝ち取り得るが、即物的な格闘の強さは修行でなければ得られない。普通に考えればリアルなのは臨獣殿サイドの思想であって、本来正邪と強さの間に因果関係などないのだから、これは当たり前である。

大人視点における番組コンセプトの問題点とは、この番組が武侠物のロジックに則っていないことというより、幼児向けヒーロー番組の闘いのロジックより武侠物のそれのほうが現実的な説得力と理があり、劇中でその二種類のロジックが正邪と絡めて対置されているということである。

正義だから強いのではないし正義だから勝つのではない、正義には正しく在って尚かつ強く在るべき義務や勝つべき義務が課されているのである。それはこの番組のように修行によって強くなる自己鍛錬的な側面を強調した物語においては意識せざるを得ない理念的なリアリティである。

たとえば、激獣拳サイドの修行法が「正しい」プロセスであるとした場合、それは悪に対する勝利を約束するものではなく、悪に対するハンディとして捉えられなければならないだろう。どんな汚い手段をとっても好いのであれば、おそらく現実にはそちらのほうが強くなれるのである。だから「禁断の邪剣」的なアイディアがあるのであり、邪悪な手段で強くなるのを正義の味方が拒むのは、正しいほうが勝てるからという結果主義のロジックではなくそれが倫理的な要請だからである。

たとえどんなに強くなれるとしても、正義の味方は邪悪な易道に拠ってはならないのであり、だから回り道でも「正しい」修行法に拘るのでなければならない。それは正義の味方が「最終的に勝てばいい」という結果主義ではなく「正しく勝つ」ことを賞揚する倫理を体現する者だからである。邪悪な修行によって強くなって、それで勝っても「意味がない」というのが本来的な正義の味方のロジックであるべきで、その意味で正義の味方の修行法にはイデオロギーに基づくハンディがあるのである。

それをハンディとして捉えなければ、たとえば理央が自身の心性のさまざまな部分を犠牲にしながら血の滲むような苛酷な修行によって強くなっているのに、ゲキレンサイドは仲間と仲良くするとか他人を信用して附き合うとかいう「楽しいこと」だけして強くなっているような不合理感が出てしまう。要するに、主人公サイドは大事なものを何も犠牲にしておらず、一見辛そうでも最終的に酬われる出来レースの綺麗事の振る舞いだけで強くなっているという、何とも釣り合いのとれないものを感じるわけである。

ゲキレンと臨獣殿を比べた場合、後者の在り方が倫理的に正しくないのは歴然としているが、強くなる為に犠牲を払い己を鍛えるという一点においては理央のほうが真っ当に見えるという矛盾があるのである。ゲキレンサイドのエピソードを視ていると、本来修行っていうのはそんなモンじゃねーだろ的な生温い割り切れなさを感じるのである。

理央の修行法が邪悪な易道であるとすれば、たとえば他者に対する信頼を棄てて己のみを恃むことで強くなるというのであれば、他者を信頼して闘うことがそれよりも強いと意味附ける場合には、他者信頼が他者不信よりももっと辛いこととして描かれていなければ説得力がない。不信によって他者を切り捨てて強くなることは、修行の正邪の観点から言えば「易道」だからである。

それが「易道」であるという意味は、つまりそっちのほうが手っ取り早く強くなれるというリアリティがあるということである。そっちのほうがよっぽど簡単で合理的に見えるけれど、人間として正しくない行いによって強くなっちゃいけないよ、という思想こそが「易道」の意味である。

それ故に、他者不信よりも他者信頼のほうが強いというのであれば、他者を信頼して闘うことのほうが他者を切り捨てる闘いよりもよっぽど困難でなければ意味がないのである。困難ではあるが、それが成し遂げられた場合のリターンは邪悪な易道よりもよほど大きい、そういうハイリスク・ハイリターン型のロジックになるはずである。

どうもこの番組は、そこの部分の原理がわかっていないのがおかしいのである。

たとえば最前の例で言えば、他者不信の闘いよりも他者信頼の闘いのほうが合理的でメリットがあるから勝つ、強い、という落とし所にするのがパターンなのだが、それだとつまり他者不信の闘いを選択した奴は頭が悪かったという話にしかならないのである。

本来ならば「人は正しく在るべきである」という思想を抱える分だけ正義の味方にはハンディがあるが、そのハンディを敢えて負い、易道に走った邪悪な敵に打ち克つからその闘いには意味があるのである。そういう意味では、ゲキレンと理央の修行の対照を視るに、どう考えてもゲキレンサイドのほうが楽で安易なことをしているようにしか見えないというのが根本的な問題と言えるだろう。

ゲキレンのような優れた師父と気の置けない仲間に恵まれて楽しく日々を過ごしているお目出度い連中に毎度毎度敗れる宿命にあるというのに、ストイックで苛酷な修行に打ち込みすべてを犠牲にしている理央が何とも気の毒に見えてしまうのである。

たしかに人間の生き方において真っ当なのはゲキレンサイドのほうであるし、我独りを恃む苛烈な人生よりも師や仲間に恵まれた人生のほうが断然有意義だということは言えるだろうが、じゃあ正義の為に悪と闘うというのはそういう「何も犠牲にしない楽しく真っ当な暮らし」と両立するのかよという割り切れなさを感じるのである。

悪の総帥がすべてを犠牲にして強くなる為に励んでいる傍ら、正義の味方が日常的な価値観において恵まれた暮らしぶりを楽しんでいる、そちらのほうが最終的には勝利するというのは、まあ普通の大人から視れば何か間違っているような気がするわけである。悪の側が捨て身で己を鍛えているのなら、正義の側がそれに対抗するにはそれ以上の犠牲と苛酷な修行を強いられるはずだというのが大人の視聴者の直観である。

如何に幼児向けのヒーロー番組とはいえ、「自己鍛錬」「自己超克」というストイックなテーマを語っている以上、日常人として健全であることが最も強いという考え方はどうにも受け容れがたいものがある。じゃあ、日々鍛錬に励んでいる刺々しい格闘家よりも横町で幸福そうに暮らしている温厚篤実な老夫婦のほうが強いのかという話になる。

己を鍛える求道者の姿勢としては、どう考えても理央のほうが真っ当でゲキレンサイドは不徹底に見え、勢い仲間同士の信頼とか友情とか協力関係という戦隊的お題目も安易な馴れ合いにしか見えない。要するに、「強者だけが勝利する」「勝者こそが強者である」というドライで冷酷な武術の世界を舞台にしながら、それを戦隊的な穏健なテーマ性に摺り合わせる為の物語性の詰めが甘いということである。

邪悪で間違っていなければならない理央のほうが、自己鍛錬のロジックにおいてはどう考えても真摯で真っ当、正しくあるべきゲキレンサイドの修行がどう視てもいい加減で安直なものであるのが、大人の視聴者視点で最も苛立つ矛盾であって、幼児向け番組という事情を考えても、こういうものを視て育つ子供が自己鍛錬を安易に考えるのはどうなんだろうと要らぬ心配をしてしまう(笑)。

堅苦しいことを言えば、幼児番組として視た場合の戦隊的な物語構造というのは、まず幼児に正邪善悪の対照を印象附け、倫理のもといとなる正義感を涵養するという意味において教育的な価値があるものである。しかし、それはその半面子供の自己成長の具体の文脈においては剰り好ましい影響を与えるものではなく、安易な新アイテムゲットや新ワザ開発によるパワーアップや強さのインフレというのは、まあお堅いことを言えば易道であり、子供にズルの楽さを教えることである。

つまり、戦隊物という容れ物は強くなる為の地道な自己鍛錬というテーマとは元々折り合いの悪いものであり、「強い者こそが勝つ」という現実の身も蓋もなさを一旦捨象することで成り立っている絵空事の物語形式なのであって、ゲキレン的な「修行」というリアルなテーマとは最初から相性が悪いのである。

マトモに考えれば、理央が現状のようにストイックで苛酷な修行に励んでいる以上、ゲキレンの側はそれに倍する苛酷で陰惨な修行に没頭し、日常生活のすべてを犠牲にした闘争を闘う以外はない。悪を倒す為の自己超克の苛烈さや、たとえば宮本武蔵のような修羅の葛藤を通じた成長の物語を描く必要があるのだが、今時のご時世の幼児番組でそれをやったら、何とも暗くて後味の悪い物語になってしまう。

ゲキレンサイドのエピソードがライトでコミカルなものになっているのは時代性というものなのだろうが、年寄りとしてはどうにもそれが勘に障って仕方がない。こいつらみたいにノホホンと普通に暮らしている連中がストイックな求道者に勝てるというのが、どう考えても世の中をナメてるように見えて仕方がないのである(笑)。

別段修行というテーマさえなければ、元々正義の味方だから強いんだ、理央が幾ら修行しても強い奴には勝てないんだということで寧ろドライに納得が行くわけだが、なまじいにデフォルトでは理央より遥かに弱い出発点の人物が修行して強くなるというテーマを設けている為に、その部分の矛盾が強調されて感じられるわけである。

つまり、理央もゲキレンも日々修行を積んでいるという条件は同じなのだから、元々理央のほうが圧倒的に強いのであればいつまで経っても勝てるわけがない。勝てるとすれば理央よりもっと激しい修行を積むか、もっと強いワザを習得するしかないのだが、現状では理央のほうが激しい修行を積んでいるし強いワザを習得し続けていて、ジャンたちは割と普通に美味いモンを野放図に喰ったり見ず知らずの女の子と楽しく遊んでいたり修行と称して楽しくキャンプしていたりするわけである。

それなのに、何となく毎回「激獣拳の修行のほうが正しいから勝てました」的な見え方のルーティンになっているから釈然としないのである。それはつまり、人間の努力とか汗の量とか根性とか情熱とか剰え持って生まれた天稟とかという現実的な要件をすべて無視した絵空事の「修行」にしか見えないわけである。

それ故にこの番組はゲキレンサイドのエピソードを観ていても面白くないわけで、寧ろ修行物や武芸者物としてはオーセンティックに正しい臨獣殿サイドのエピソードを観ていたほうが楽しめる。理央のやり方が正義であるか悪であるかなどは関係ない。物語を演じるキャラクターとして理央の在り方のほうが格段に正しいのだから、劇中世界の正邪と物語性の面白さには直接的な関係などはないわけである。

要するにオレ個人の見方では、ゲキレンサイドのキャラが存在するのはそれが戦隊物である以上仕方のない装置だからという理由でしかない。理央が悪の武芸者である以上はいずれ倒される必要があるのだし、滅ぶにせよ改心するにせよ、その敗北や改心をもたらす正義を体現する劇中存在がなければならない、それだけの話である。

元々塚田プロデューサーの作品は悪の組織に過剰に肩入れする傾向があるが、メインの理央やメレは勿論、三拳魔やロンなど臨獣殿側のキャラクターは総じて活き活きと描かれておりバックボーンも深耕されていて物語的に面白い存在である。薄っぺらなゲキレンサイドのキャラ描写よりも、正義の味方の看板を背負ってないだけ臨獣殿サイドの人物のほうが物語的に旨味があるのは仕方がないだろう。

さらにこれも塚田作品の特色だが、高寺譲りの同人誌紛いの過剰なエロを盛り込む傾向もあって、たとえばラゲクの「あふれちゃう〜〜〜」とか、朝っぱらから子供の前で何を口走っとるんだキミはと世のお父さん方を赤面させちゃうわけだが(笑)、就中理央に対するメレの献身愛の妙にアダルトで淫靡な雰囲気は棄てがたい。

献身愛と言えば聞こえは良いが、自らを滅しても愛する人に尽くしたいというのはやはり戦隊的な倫理性で判断すれば不健全で病的な関係性であることは間違いない。それが肯定され得るのは、他人の愛のかたちを軽々に断罪しないという大人の愛欲観においてのみであり、そういう意味ではメレの想いを好意的に描く描き方は大人の視聴者に目配せした物語性と言えるだろう。

他者に一方的に想い入れて尽くす愛というのは、最大公約数的な人生観の観点で言えば不毛な他者依存の関係性という言い方も出来るわけで、子供に向かってそんな病的な愛のかたちを賞揚するのはやっぱり問題があるからである(笑)。

また、メレを含むリンシーたちは、元々理央によって甦らせられた死者であるというグロテスクな出自があるわけだが、メレの理央への愛の縁起を語る一連のエピソードはそのようなグロテスクの上にネクロフィリア的なエロティシズムを加えている部分が、幼児向け番組にはそぐわないような伝奇的で淫靡な猟奇性を醸し出している。

つまりこの番組の映像表現上、リンシーというのは「もうこの世にいない人」という意味での霊的な存在が復活したものではなく、地中に眠る「屍」がその儘生き返った忌まわしい穢れた存在なのである。そういう「死穢」を直接連想させるようなグロテスクな存在でありながら、肌も露わなエロい身なりの若い女性の見かけをとるというギャップが戦隊らしくない奇妙な猟奇性を現出させているわけである。

ああエロいなぁと思っても、設定上あのキャラの正体は「屍体」なのであり、ネーミングからわかる通りリンシーの元ネタはキョンシーであって、キョンシーというのはつまり原義的には「腐らない屍体」とか「客死した屍体」という意味で、映像文芸的な文脈ではゾンビのような「使役される屍体」である。だから、設定面で考えるとメレと理央の関係というのは元々本質的に歪んだ猟奇的なものだということになる。

平田裕香の芝居も、ミーハーでコミカルな演技と設定面のグロテスク性を受けたシリアスな演技が好いバランスで演じ分けられていて、メレを主役に据えたキャラ廻しのエピソードではシリアスなトミノ的悲愴感が漲っていて仲々見せる。とくに三拳魔復活に真毒を残らず使おうとする冷酷な理央に、それと識りながら一方的忠誠を尽くす第九話の話はメレというキャラの情念の物語を強烈に印象附けたと思う。

これまで平田裕香はカラダがエロい割には顔立ちが徹底的に地味なせいで「ヒロインの友人其の三」くらいのポジションが指定席だったのだが、地味顔のナイスバディ女が派手でエロいコスプレをしているというのは倒錯的で仲々オレ好みである(笑)。無駄に芸歴が長いということもあってセリフ廻しも相応に達者だし、少しアダルトな雰囲気のあるOVAの悪女的な線のキャラが成立している。まあ、ぶっちゃけメレがいなかったらオレはこの番組は観てないと思う(笑)。

スリットは深いがかなり裾長のチャイナだから一見そんなにエロく見えないが、アップで視るとけっこうな数のでかい鳩目が打たれていて素肌が露出しているのが通好みのエロさである。また、先日のエピソードで実況中のバエを尻で圧し潰す場面では、普通なら尻の端から苦しがるバエの顔がちょっと見える程度に片方の尻たぶで圧し潰すのが常識的な絵面のセオリーなのだが、尻のド真ん中で捉える迷いのない豪快なフルスイングが2ちゃんの実況スレに「おでもバエになりてえ〜〜〜!!」という悲鳴にも似たどよめきを呼んだそうな。

ただ、力んで笑うと何となくアバレキラー仲代壬琴みたいな顔になるのがちょっと萎えるところではあるが(笑)。

このメレの献身愛をはじめ、意外にゲキレンは大人のメロドラマ要素がふんだんに盛り込まれていて、永井一郎が声をアテているオッサン臭い猫の着ぐるみとラゲクの間にストーカー愛(ただし、獣獣全身変以前の話らしい)があったかと思ったら、今回は何と七拳聖随一の二枚目(声だけ)のバット・リーと石井苗子演じる婆さんの間に秘めた純愛があったという話で、今回ゲキレンの話をしようと思い立ったのは、このエピソードが珍しく武侠物の骨法に正しく則ったものだったからである。

元々武侠物というのはメロドラマ的な要素も大きいので、今回のように大侠と呼ばれるような大武芸者に過去の恋愛話があってどうしたこうしたというエピソードは、どんな作品にも出て来る定番のお約束である。今回のエピソードもそうだったが、大抵の場合は過去に愛し合った男女がつまらない誤解で憎み合っているとか不仲だったのが、お宝争奪戦の最中に主人公の活躍によって和解を果たすというのが常套パターンで、先日までCS某局で放映していた金庸武侠ドラマを観ていれば、ゲップが出るほどそういうパターンのメロドラマが頻出する。

世界的に武侠映画の面白さを知らしめたアン・リーの「グリーン・デスティニー」もその種のメロドラマが物語の中心軸に据えられていて、中国人は時代劇に対してこういう類型のラブロマンスを求めるもののようである。

この場合「こういう」とは「どういう」ことかと言えば、たとえばふとしたきっかけでわりない仲になった男女が、男の側の武芸者の意地や江湖のしがらみの故に別れてしまうという話なら日本の時代劇にもよくある話だが、日本の時代劇の場合はたいがい数年のスパンで片が附いて、若いうちにどちらかもしくは双方が死んでしまうとか目出度く結ばれるというのが常である。

武侠物の場合には、仲違いとか生き別れになった後の時間が半端なく長いというのが特徴で、互いに憎み合ったまま三〇年とか四〇年とか平気で経ってしまう。で、江湖の事情通が「誰それと誰かれは昔愛し合っていたが今は憎み合っていて、顔を会わせれば殺し合いになる」とか吹聴していて、大昔の伝説みたいになっていたりする。そらもう、そんな時代の三〇年四〇年なのだから、十分伝説を醸成するだけの長年月ではある。

そういう年甲斐もなくいがみ合っている元気な爺さん婆さんが、たとえば婆さんのほうが主人公の探しているお宝を持っているとか探し人を匿っているとかいう話になって、主人公が爺さんの識り合いだと識った婆さんが意地悪したり難題を吹っ掛けたりするんだが、何とか主人公が頑張って誤解や反目の根を断って二人の間を取り持ち、感謝のしるしとしてお宝や探し人をゲットして一段落という成り行きになる。

つまり、武侠物に特徴的なラブロマンスのパターンの一つとは、人生の大半をかけて反目し合った宿縁の男女が、最晩年の共白髪の時期に至って漸く和解するという気の長い話なのである。これは日本人にはちょっとピンと来ないセンスで、時代劇の年齢感覚だと恋愛の現役というのは男なら精々四〇代、女の場合なら三〇代半ばというのが関の山で、それ以上の年齢だと夫婦間の情愛の話になる。爺さん婆さんの「恋愛」の話というと、ちょっと勘弁してくださいというのが日本の時代劇の感覚だろう。

これは大陸の人間と本邦の人間の寿命や体格の違いが大きいと思うのだが、人生五〇年の江戸時代の感覚で言えば六〇代といえばもうヨボヨボの人間の干物である。乳幼児死亡率が高いこともあって平均寿命が三〇代とかそんなモンだから、四〇代になったらもうボチボチ人生終わりなのである。五〇で必ず死ぬと限ったモンではないから何もなければ七〇くらいまでは生きられるだろうが、まあ五〇になったら明日死んでもおかしくないので人生の手仕舞いを始めなさいということである。

そうすると恋愛適齢期というのは男女ともに精々三〇代くらいまでで、時代劇でよっぽど年寄りみたいに書かれている人物でも設定年齢は四〇代だったりするのが、もうすでに四十路半ばになったオレなんかは愕然としちゃうんだが(笑)、昔の四〇代というのはもう子供が成人して結婚もしている頃合いなので、人生の役割を終えて滅んでいくべき世代なのである。

そういう明日死ぬかもしれない世代の人間が、事新しく今更惚れた腫れたとかやってるのは命根性が汚くてみっともないというのが常識的な江戸時代人の人生観なのだから、武侠物のように共白髪まで続くすれ違いの純愛とか、そういう気の長い話にはなりそうもないわけである。

しかし中華文化圏のほうでは、やっぱり喰い物が違うからなのか人口のマッスが桁違いだからなのかは識らないが、年寄りはひっそり滅んでいくべきだみたいな感覚は薄いようで、ヨボヨボで死んでいく年寄りがいる一方で、元気な老人は八〇になっても九〇になっても元気なまんまで何によらず生涯現役ですみたいな顔をしているのが常である。

そういうこともあるのだろうが、武侠ドラマなんかを観ていると、三〇代くらいの役者が平気で附け髯にヅラを被って老人の役をやっていたりするわけで、見慣れないと精悍な青年の面附きをしているのに頭や髯だけ真っ白なのが何とも変梃子な感じなのだが、武侠の世界に馴染んでくると案外こういうものかと思わないでもない。

武侠物の世界観においては、肉体的に白髪になったり皺だらけになったりするのは年寄りだから仕方がないけれど、或る程度の内功を積んだ達人は幾つになっても無闇に元気溌剌で並の若者より達者なものである。というか、爺さんだろうが婆さんだろうが江湖の武侠渡世の身分で出て来る輩は、みんな若者に伍して飛んだり跳ねたり剣尖に立ったり降龍十八掌だの如来掌だのを繰り出したりしなければならないのだから、元気でない年寄りというのはそもそも存在しないわけである。

してまた、最前陳べたように婆さんキャラの老女侠も爺さん同様生涯現役ですみたいな顔をして平気で白髪頭の老侠客とメロドラマをおっ始めたりするから、老婢とか乳母やみたいなドメスティックな一般人の役柄でない限り、精々四〇代くらいの割合若い女優さんが演じていたりするもので、石井苗子が一〇〇歳以上の老婆の役というのはそういう文脈のキャスティングだと思う。

OP早々「石井苗子かよ」とツッコミを入れたのだが、そういう意味では割合武侠ドラマのセオリーに則ったキャスティングで、脂っ気が失せたのか残っているのか微妙なお年頃というのがナイスである(笑)。まあ、ヒロインの福井未菜ですらミニスカの下にはスパッツを装着しているこの番組で石井苗子の生パンチラだけ堂々と映っているのはどうかと思ったが(笑)、そういうバランスにおける婆さんキャストだということである。

今回の脚本の荒川稔久が武侠物のファンだという話も聞かないが、挿話構造的にはよく武侠物の骨法を守っていると言えるだろう。もう、オッサン臭い猫の着ぐるみとクラゲオバサンのストーカー愛がアリなら、キクガシラコウモリの顔をして李連杰の声で喋る怪人とチャイナ服のお嬢さんの一〇〇年越しのすれ違い愛もアリだろう。

また、挿話構造それ自体もさりながら、武侠映画やドラマには映像手法上の約束事というものがあって、男女が恋に落ちるときは「必ず」三六〇度回り込みのカメラワークになるのが常である。表面的な状況設定やセリフがどうであろうが、男女が見つめ合ってカメラが回り込んだら、それは「恋に落ちた」という映像手法上の記号なのである。

今回のエピソードでは、劇中で含韻とバット・リーが抱き合う二度のシーンは二度とも回り込みのカメラワークになっているが、これが武侠ドラマの約束事を意識したものであることはマニアなら誰でもピンと来ることで、多分当ブログに度々コメントしてくださる604さんなどはこの場面を観て爆笑したのではないだろうか(笑)。

オレ自身はさほどの華流通でもないので、たまに香港映画などを観ると随分違和感のある奇妙な構成になっていると感じるのだが、詳しい人に聞くと中華映画には中華文化圏で共有されている暗黙裡の約束事というのがかなりあるらしく、語り口の構成にもその種の約束事があって、いわばローカルな文化コードである。そのローカル要件が中華映画のグローバルマーケット進出の障害にもなっているのだそうだが、「男女が恋に落ちたらカメラが回り込む」というのもその種の文化コードの一つであるということだ。

これは脚本で指定しているとも思えないので、スタッフの間でも中華映画や武侠ドラマの研究が進んでいるということなのだろうが、細かい部分で謂うと今回幽玄洞店内で含韻が化けたバット・リーとレツが闘う場面で、床几を使ったアクションがあったのが面白かった。ジャッキー・チェンの映画などでも床几を使ったアクションがあるが、元々中国武術には床几を使う武術の型があるらしく、ジャッキー・チェンのアクションもそれを踏まえたものである。

そういう意味では、最初の頃は剰りのなんちゃってカンフーぶりに不快感を覚えた番組ではあるが、いろいろ研究してマシにはなってきているように思う。武術指導で参加している喜多川務も、そろそろどの辺までマニアックなことをしても好いのか勘が掴めてきたということなのだろう。

そうは言っても、女優萌えを主要な視聴モチベーションに据えている戦隊で、悪の女幹部しか目当てがないというのもかなり辛いことには変わりなく、後は伊藤かずえの娘役のなつめタソが人物設定とは不釣り合いに凶悪な萌えキャラなのがたまに楽しいから見続けているというのが現状で、戦隊サイドの配役には依然として不満が残る。

この夏参入した四人目と五人目については、当然パスである。就中、五人目の中の人に至っては、なんであんなロンゲのムーディー勝山みたいな拵えでヤクザの下っ端舎弟みたいな白ジャージ上下の人物が戦隊に出ているのかという疑問が拭えない。役者本人的にはそういうメンタリティの人でもなさそうなのに、なぜキャラの拵えがあれだけわかりやすく直球勝負のヤンキーなのか理解に苦しむ。

どうもあの人を見ていると、「シャコタン竹槍出っ歯」とか「車内土禁で雪駄履き」とか「リアウィンドウはぬいぐるみだらけ」みたいな古色蒼然としたヤンキーイメージが脳裏に浮かんで仕方がない。少なくとも髯ぐらい剃れよ。キャラ造形的には涼村暁とかGの獅子丸みたいな線を狙っているのだろうが、そういうろくでなしキャラは最低限見かけだけはオサレでなければならないのではないかと思う。

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コメント

ただいま参上致しました、師父。
まさかご指名頂いていたとは、恐縮至極にございます。

今回のゲキレンでは終始ゲラゲラ笑っておりましたので、件のシーンも引き続き笑っていたような気が致します。なるほど余りにもベタな「二人のため世界はあるの」的カメラワークはそういう約束事でしたか(ちなみに私、マニアには程遠く、少々嗜む程度でございますです)。理央様メレ様がゲキレン側より段違いに魅力的な理由も得心いたしました。
番組はもうこのまま、武侠パロディとしての完成度を上げることに集中した方が、きっと面白いに違いありません。

今後何を目当てに見るかと言えばメレ様以外にはおらず。ボンデージチャイナからガーターベルトを覗かせ「理央様に隅々まで照らされたい」とは、もうどれだけ淫靡な日曜朝になることやら。

ここのところ甄子丹にうつつを抜かし、お邪魔するのが遅くなりまして大変失礼致しました。
またの武侠物の記事、楽しみにしております。

投稿: 604 | 2007年9月17日 (月曜日) 午後 10時25分

自分がなぜ戦隊側に感情移入できずに、アクガタに入れ込んでしまうのか、理由がよく分かりました。いやメレに眼を奪われる理由は説明されずとも自覚しておりましたが。
でも、うちに幼稚園児がいますけど、いまの幼稚園って、たとえばおゆうぎの時間中、運動会の競争にそなえて自主トレする子がいると、「そんなふうに、みんなが遊んでる間に自分だけ練習して勝っても、楽しくないでしょう」とか指導して、結局、みんな仲良くゴールしてバンザイするのが正しい、という方向にもっていきますからね。理央はダメで、ゲキレンジャーが正義というロジックがちゃんと通用しているから、けっこう困ったもんです。

投稿: Leo16 | 2007年9月17日 (月曜日) 午後 11時34分

>604さん

いやどうも、突然引き合いに出してすいません。元々ゲキレンの話題で縁が出来たわけですから、この際お呼び立てしてしまおうと思いまして(笑)。オレ自身一時武侠小説や古装片にハマったくらいで剰り濃い華流ファンではなく、604さんほど中華映画は観ていないんですが、識り合いに熱狂的なマニアがいるもので、ほぼ伝聞の情報です。
それでも、男女が恋に落ちる=回り込みのカメラワークという約束事は、少なくともオレが見た中央電視台の金庸武侠ドラマでは「一〇〇%」徹底されていましたね。そらもう、主人公とヒロインだけでなく、爺さん婆さんだろうが何だろうが、そういうシーンでは必ずカメラがクルクル回り込むんですよ(木亥火暴!!)。「射雕英雄伝」なんかでは、女が汚いナリしてかっぱらった饅頭くわえてようが、男が女の沓を強奪して匂いかんでたりしようが何しようがおかまいなしにクルクル廻るのでギャグにしか見えません(木亥火暴!!)。
これは多分クルクル撮影専用の回転台みたいのがあるんだと思いますが、いつ頃からどの程度の範囲でそういう決め事が成立したのかまではわかりません。昔のショウブラ映画ではそんな場面を見た記憶がないので最近のことだとは思うんですが。

>Leo16さん

セラムンや電王ではお附き合い戴いていますが、まさかゲキレンの記事でコメントが戴けるとは思いませんでした(笑)。しかし、「みんなで仲良くゴールイン」ってかなり前から批判されていますけど、未だに健在なんですね。一方ではお上が「競争社会」とか煽っているというのに、そんな生温い教育で社会に出てから大丈夫なんでしょうか。まあ、お上の言う競争社会というのも胡散臭いのでそんな世の中が真っ当だとも思いませんが(笑)。早い内に自身の肉体的な可能性や限界を識っておいたほうが先々面倒がないし、勝利や敗北の味を識っておくのが当たり前の社会行動のモチベーションになると思うんですけどね。
それから、論旨が混乱するんで本文中では触れていませんが、ビーストアーツのほうの本拠地がスクラッチというスポーツ会社だという話もちょっとしたかったですね。ある種理央のほうの修行は昔ながらの苛酷な武者修行的自己研鑽、ゲキレンのほうの修行はスポーツ科学に基づいて遊技的要素も採り入れた楽しく出来そうなトレーニング、という対照もあるんでしょうか。
そういう話を始めると、人格的成長を表看板に掲げているゲキレンサイドと実践的な戦闘力向上を追求する臨獣殿サイドの修行スタンスの対照として、手法と目的の間にやっぱり矛盾というかねじれがあるという話にもなるんですが、もうそこまで絡めて論じるのが面倒臭かったんで一切触れないことにしました(木亥火暴!!)。「詰めが甘い」の一言でケリの附く話ですから。

投稿: 黒猫亭 | 2007年9月18日 (火曜日) 午前 05時47分

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