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2007年9月14日 (金曜日)

この素晴らしき世界

最期くらいもう少し普通に自滅するかとも思ったのだが、各方面に迷惑を掛け捲るド派手な形で幕を引く辺り、或る意味かれもまた戦後未曾有の政治家の一人だろう。ここ数回のエントリーの繋がりもあるので、一応コメンタリーしておきたい。

言うまでもなく我等が涙目王子・安倍晋三の辞任劇についての話だが、これがたとえばその前日のことであれば、或る種の因縁を想わせて二年前の劇的な小泉劇場との変われば変わる対照を語られたことだろう。しかし、日付が一日ズレて中途半端な形になったのがこの人らしい空気の読めなさで、「奇しくも同じ九・一一に…」という魅力的な書き出しが脳裏をよぎりながら「あっ、ちっくしょ、一日ズレてんじゃん!」と地団駄を踏んだブロガーも多かろうが、それがこの人の味であり芸風である。

こういうタイミングでオレが俄仕込みの政局予想をするのも間抜けなので、そういうのは専門の政治ブログに任せたい。オレが想うのは、小泉・安倍のネオリベ+ネオコンのダブルコンボが何を破壊したのかということばかりである。政治ブログではない当ブログの観点では、それは窮めてソボクな言い方になるのだが、一言で言って一般庶民が抱く「世の中の真っ当さに対する信頼感」ではないかと思う。

たとえば、個人的な感触として小泉政権発足当時の時代の空気を顧みれば、嘗てなく企業のフェアネスに対する社会の期待感が高まっていたのではないかと思う。勿論企業というのはお金儲けをする為にあるものなのだから、企業組織それ自体に対する信頼感なんてなかっただろうが、アカラサマに汚い真似をして荒稼ぎするような企業が存続を許されるような世の中ではなくなっているという、世の中の在り方に対する基本的な信頼感があったのではないかと思う。

それとは裏腹に今に至るまで企業不祥事の報道は絶えないわけだが(笑)、企業というのは基本的にその種の失態をやらかすものである。大局的な見地に立てば、人間というのは狡いことや無責任なこと、怠慢なことを日常的にやらかす生き物であって、そんな不完全な人間の社会における営みのもといである企業活動に不正義や怠慢は附き物とさえ言えるだろう。

問題は、不正義や怠慢をさらけ出した企業に対して何が求められるのか、どうすることが社会に対して真っ当であると言えるのか、そのようなフェアネスのビジョンと、企業活動を監視しその履行を企業に迫る社会の圧力が存在するか否かである。

二〇〇一年の時点ではたしかにそんなビジョンと圧力が存在したのだと思うし、大量生産・大量消費に基づく薔薇色の拡張戦略が破綻したこの新世紀は、せめてフェアな世の中を目指すことで後世に対して進歩を主張し得るだろうとオレは考えていた。

今まで通りではやっていけないのだから、世の中は変わっていくしかない。資源もエネルギーもいずれは枯渇し、未曾有の速度で地球環境は激変していくのだし、外部への拡大を前提とする経済活動はすでに拡大しきっていて拡張すべき外部などは存在しない。遅かれ早かれ今のような世界のシステムは破綻する。

そんな現状の中では、自分さえ好ければというエゴイスティックな姿勢は永遠に保つものではない。今のうちに何とかしなければならないのだから、総力体制を要する全体的なリデザインの喫緊の問題である。資本家や政治家を一方的に悪と見做して糾弾すれば済むような単純な世の中は終わりを告げ、企業と政治が十全な役割を果たすことが新たな時代を乗り切る鍵となる。

その前段階として、新たな時代の建設へコミットしていることがインセンティブとなるような社会的価値観が醸成される必要もあるだろうし、その価値観が現実的な実効に結び附く仕組みも必要だろう。政治と経済を市民が監視し、新時代の価値観に逆行する自己中心的な利益追求には断固としてNOを突き附け、先進的なアイディアや社会的価値創出に対しては積極的な支持を与える必要があるだろう。

間に合うか間に合わないか、十分な速度で起こっているか否かはさておき、世の中全体の基調は緩やかにその方向性に向けて動いているのだと思っていた。そうでなければ、一〇〇年単位もしくは数十年単位という急激な速度で破滅的な困難が進行していくはずである。幾ら何でも未来世代に責任を持つことは誰であろうが現在の大人の世代に共通の義務であり、それをまったく無視し去ることは難しいはずである。そのような消極的な希望はあったのだと思う。

しかし、そんなのは錯覚だったのかもしれない。今の世の中は、申し分ないくらいその種のビジョンから正反対の方向に逆行している。企業が声高に叫ぶ「国際価格競争力」というお題目は、「どんどん価格を廉くしていく」ということなのだから、同じものを何度も何度も何度でも買い直させる前提の価値観であり、まさに大量生産・大量消費を前提にした経済要件である。

ハイブリッドカー「プリウス」をアピールして天晴れ「環境先進企業」のような顔をしているトヨタなども、親玉の奥田碩がはっきり「クルマは五年保てば好い」と公言しているのだから、エコも循環型社会も糞もない。最初から五年周期の買い換えを前提としてクルマをつくるということは、オーナーにそれ以外の選択肢を許さないということであり、それ以上にスペックのマージンをギリギリまで削減することでクルマ自体の安全性をゆるがせにする姿勢に繋がる。

環境先進企業というのなら、オーナーの愛着一つで一〇年、二〇年乗れるクルマづくりを目指し、それでペイする企業のシステムを再構築するのが筋だろうが、それでは現在のような世界に冠たる製造業者としてのトヨタという企業でなくなってしまうのは火を見るよりも明らかである。それなら、ペナペナの段ボールでつくったような五年しか保たない使い捨てのクルマをガンガン売って、リサイクルはちゃんとしてますよ的な顔をしたほうが儲かるわけである。

しかし、3Rの基本に則って言えばリデュース、リユース、リサイクルの順になるのだから、一度買ったクルマに出来るだけ長く乗り続け、買い換えるなら中古市場を効果的に廻して行くのが一番環境負荷が低いのは当たり前の話である。たしかに人間の生活にクルマは必須だが、クルマをつくり続けることで成り立っている企業の都合を重視するのは本末転倒であって、それは絶対的な意味で環境負荷の高い業態である。

だとすれば、真にそのような理念に基づく「環境先進企業」としてカーメーカーが在る為には、トヨタ的なクルマづくりの対極に位置する選択肢として一からそのようにデザインした企業を立ち上げるしかないのだが、そんなことにでもなればこの排他的な業界において真っ先に当のトヨタが音戸をとって潰しにかかるであろうことも火を見るよりも明らかである。トヨタがトヨタである限り、この企業もしくはこの企業が体現する理念こそが、現時点で地球環境の最大の敵であることは疑う余地はない。

しかし、それでは拡張戦略を前提とする既存の経済システムに替わる循環型の経済システムのモデルが在り得るのかと問われれば、現状では姿も形も見えていないというのが本当のところだろう。誰も本腰を入れてそんな旨味のないシステムの実現を模索していないのだから、仕方のないところである。結局のところ、現状ではやはり「どんどんつくってどんどん売る」というのが一番儲かる商売のやり方なのである。

現状の経済システムでは、企業というのはどんどん成長していかなければならないことになっている。製造業種においてこれを簡単に言えば、将来に向けてどんどん製造量を増やしていき、どんどん利益を拡大していかなければならない。

商品を多角化してどんどん売るモノを増やしていき、売り先も増やしていく。北米市場や欧州市場が飽和したら中国・アジア市場を開拓し、そこも飽和したらロシアだの南米だのといった未開拓の市場を模索してそこを開拓していく他はない。つまり、常に拡張発展する為の「外側」がないと成立しないモデルである。

然るに、循環型社会においてはモノの生産量は一定のレベルで均衡し循環しなければならないのだから、拡大生産して好いのは新たに創出された社会的価値としてのプロダクトだけであり、その開発に要する巨額の出費は循環の過程で受益者が等分に負担する流通の仕組みを構築する(これは一口に言うほど簡単なことではなく、既存の大概の循環型製造モデルというのは技術面ではなく流通面で躓いている)。

循環を基本とする以上、「外側」への拡張ではなく「内部」における循環を主眼に据えてすべてのモノが一定量で均衡して持続するのが筋なのだから、その前提では利益だけがどんどん増えていくわけがない。要するに循環型社会というのはゼロ成長型社会ということで、成長して外部に拡大していくのではなく、自律的に持続し得る規模まで供給が成長したら、トントンで均衡維持していく為に最小限に変化し維持していくだけの社会ということである。

こういう社会においては、新たにモノを創り出すには創り出されるだけの価値がなければならないということになり、モノとしての社会的価値創出の勢いは、そらもうお話にならないくらい鈍化する。軽率にモノをつくるなという絶対律に基づく社会なんだからそれは当たり前である。ゼロ成長である以上当然だが、剰り活発な勢いのある社会モデルではない。正直言って、オレだってこういう社会になるのは、ちょっとイヤだ(笑)。

たしかにこれは企業にとっても消費者にとっても魅力の薄い社会モデルだが、そうでもしない限り、人間は大昔のSFのように宇宙に進出する他はなくなる。これは地球を食い詰めて宇宙に出るということなのだから、永遠に拡張していく途を選ぶということだが、まあ現実的なことを言えば莫大な元手をかけて地球を出ても今すぐペイするようなゴールドラッシュのフロンティアが見出せる可能性などゼロに均しい。

今現在誰も真面目に循環型社会を考えていないのは、それが魅力的な未来図ではないからであり、誰も今以上に得することのないものだからである。誰だって昨日より今日、今日より明日もっと豊かになっているほうが望ましいのだし、商売人である限りは前期より当期、当期より次期の売上が拡大していくほうが望ましい。昨日と同じ今日、今日と同じ明日が出来るだけ長く持続する為に努力する社会モデルというのは、一〇〇年に満たない寿命しか持たない人間には窮めてモチベーションを抱きにくいものである。

やっぱり誰もそんなことを真面目に考えていなかったのだということは、ここ数年の国政と企業活動の動きを視ればわかることで、前述の通り「国際価格競争力」とか言い出した時点ですでに話は終わっている。今以上に価格を落とすのはもっともっとつくり続け売り続ける為なのだし、その為には性能・品質を犠牲にして、さらに人件費を削るしかないという話なのである。拡大すべき外部が頭打ちになってきた以上、モノづくりのプロセス内部でコストを削減するしか儲けを出す手段はなくなってくるからである。

しかし、性能・品質というのは日本製品の国際競争力の要となるものだし、人件費というのは従来的な意味で企業が国民の雇用の安定を保証する基本的要件である。日本製品というのは低価格だから国際競争力があるのではなく、価格対比で性能・品質が格段に優れているから「メイド・イン・ジャパン」に価値があるのである。さらに、日本という国において大企業が大きな顔をしていられたのは、大規模な安定雇用を保証していたからであり、日本国の企業が日本国民の安定雇用を保証するという仕組みがあったから日本企業は日本国民にとって価値があったわけである。

これを二つながらに手放してでも利益を追求するというとき、国際市場における日本製品の質的優位と、国内における日本企業の内政的重要性は消失する。外国人を雇ってでも安価な労働力が欲しい、その為なら多少品質面には目を瞑るというのなら、国内に日本企業が存在する内外にとっての絶対的意味などはない。

アジア諸国に生産拠点を置くのと何処が違うのか、それは結局メイド・イン・チャイナやメイド・イン・コリアと何処が違うのかという話になるわけで、結局のところ日本企業は実体としての製品の競争力を犠牲にして売り易さだけを選び、国際的には一切アドバンテージのない日本型の経営体質という代物だけを温存したことになる。

つまり、現在の世界においては、大企業というのは例外なく国家から逸脱したグローバルな実体なのであり、国益や内政や国民福祉という国家的規範とはまったく別の基準で動く無国籍的な組織体なのである。これを同じ国家規範の観点で視ていては「国民」という概念で括られる人的組織は出し抜かれ収奪されてしまうのである。

小泉改革が「企業活性」を謳いながら、その恩恵が一向に国民生活に降りてこないのはこのような現状において当たり前なのであり、国家の政策が国際市場前提の大企業側を向いている限り一部特権階級しか潤わないのは当たり前なのである。

結局大企業や資本家の本音は「マトモにやってたら金なんか儲かるか」「国がどうなろうと識ったことか」というものでしかないことが露呈されてしまったのだし、今までのやり方が通じないような困難な局面に対しては、品質や労働者を切り捨てることで経営層の利益を守るという最も低リスクで安直窮まりない対処法をするということが暴露されてしまった。

経団連の主張をまるっと纏めてしまえば「もっと安い労働力が欲しい」「国政に対する財政負担は国民に廻せ」ということに尽きるわけで、理念もへったくれもない身も蓋もないエゴイズムである。安定雇用は保証しないし法人税だって払いたくない、そんなものは国民が払えというのなら、国民の一方的犠牲において企業活動を振興すべき国民視点のメリットはまったくないのである。

国策において企業活動が振興されねばならないのは、そのメリットが国民生活に降りてくる仕組みがある前提においてのみであって、国内企業の収益の拡大それ自体が目的ではないのが筋である。「頑張って死ぬ気で働けば悪いようにはしないかもしれないよ、と思うよ」的ないい加減な約束しかしないのに、国民が血の犠牲を払ってまで企業活動を支援すべき義理などはないのである。言うなれば、それは詐欺だ。

労働市場の流動化が避けられないトレンドなのだとしたら、じゃあ企業は国策の支援なんか要求せず自助努力で頑張れよという話にしかならないのが筋道である。経団連の主張は国民福祉など一切無関係に可能な限り廉価な労働力を追求すると明言しているのだし、国庫に対する税負担は大部分国民が負うべきだという話なのだから、企業活動が活発化しても国庫は潤わず国民生活はどんどん窮乏するという話にしかなりようがない。

これもまた子供でもわかる当たり前の算数であって、企業が収益拡大しても労働者に一切還元せず、税源がその労働者に一極化されるということであれば、要するに国家の財源は一方的に労働者側の持ち出しに依存するということで、企業活動が活発化しても労働者側に何のメリットもないということである。

また、合理化によるコストダウンというのはシステム化してプロセスを合理化出来る企業組織だから可能なことであって、どんなにマネジメントに知恵を凝らしても個人である労働者は物理的に一定時間しか働けないのだから、「同等の労働内容なら安いほうがいい」という絶対基準の労働市場においては、自助努力で持続的に働き抜くことなど不可能で、算盤が合わないように出来ている。企業サイドには法定基準いっぱいまで対価を廉く叩く自由度があるのだから、完全な買い手市場である。

この前提において交渉力を持つのはワン・アンド・オンリーの類稀なスキルしかないということは過去に語った通りで、どんなに自身のスキルに自信を持っている人間でも一億人以上の人口のマッスがあるのだから九分九厘まで代替が利くものである。つまり、これは労働者視点では決して算盤の合わないシステムになっていて、やっぱり詐欺なのである。そもそも、何かを削って価格を廉くするという発想は何処かで必ず頭打ちになるのだから、プラスの価値観に転換して価額を持ち直さなければいずれ破綻するのは子供でもわかる理屈である。

トヨタのクルマやキヤノンのカメラなど、国民一般にとっては豊かな生活の一部でしかないのだから、豊かでも何でもない現在の日本人一般にとって、それらのプロダクトは必要不可欠な社会的価値でも何でもない。それでもアメリカ様が豊かなら彼らが日本製品を買ってくれるのだし、それなら企業は困らないのである。

クルマもカメラも買えない貧しい日本人が安い労働力で造ったプロダクトをアメリカ様が安く買う、こういう言い回しは何処かで聞いたことがあるはずである。つまり、日本という国は目出度く名実共に後進国の仲間入りを果たしたわけで、こんな国が国連理事国入りなんてご大層な身分を望むべきではない、恥をかくだけであるから。

財界視点で言えば対米従属政策など当たり前の話で、日本製品をどんどん買えるほど金を持っていそうなのが世界中見回してもアメリカ人くらいしかいない以上、アメリカのご機嫌をとるのは当たり前の「営業活動」である。

下手にアメリカ様のご機嫌を損ねて商売に支障が出るのはかなわない、「でもしか」で入隊した貧乏人の小倅集団である自衛隊員に無駄飯を喰わせ、国民の血税で購入した最先端兵器を基地開放日の余興にしておくのは勿体ないから、商売の為にフル活用しない手はない、多寡が無料でガソリンスタンドの真似事をさせるくらいは「接待」なんだしどうせ費用は国民持ちなんだから我々の懐が痛むわけではない、ケチ臭いコトをガタガタ言うな、まあそんなところが企業の本音ではないだろうか。

企業の論理で言えば対米従属やイラク戦争への荷担など何処も問題ではない。災害派遣や札幌雪祭りくらいしか使い道のなかった軍隊を本来の目的で使って、それで「お得意様」が喜んでくれて今後の商売がスムーズに運ぶのであれば、それの何処が悪いんだという話である。

国内資本が外国に流れても、外国を市場とする輸出企業は何処も困らないどころかそのお零れに与れる。商売人には利潤追求以外のイデオロギーなど必要ないのだから、外交に文句を言うのは商売に差し支えが出たときだけで好い。商売に差し支えない限り日本という国家が何処に売られようが識ったことではない。

繰り返しになるが、国家の問題においては大企業を国家的規範の観点で視てはいけないのであり、日本国家に対して責任感を持たない組織体の意見を国策において過剰に重視する必要などはないのである。企業の論理においては、国防も国際貢献も無関係なのであって、重要なのはそれが如何なるビジネスチャンスに結び附き、如何にビジネスの方便と成し得るのか、という観点だけである。

嘗ては腹で想っていても表向きはそんなことを口にしないのが財界人の「見識」だったわけで、商売の理屈で政を語らないのがお金持ちの見栄だったのだが、現在の財界トップは労働者の口減らしと残業代カット、法人税を値切ることしか口にしない。そういうのが「希望の国」だと堂々と仰っている。国民の大半がそれなりに豊かに暮らせるような世の中などもう金輪際来ないのだし、企業が目指すのはそんな世の中の実現ではないと正面から宣っている。

この先は国民全体に廻る金なんかないんだから、貧乏人になりたくなければ収奪者になるしかない、それが財界人の語る未来のビジョンである。嘗て日本が「飽食の国」と呼ばれていた頃は、アフリカの飢えた子供たちの犠牲の上に成り立った繁栄であることの疚しさが語られたものだが、今はこの日本国内にも貧乏人がうようよいる。豊かさを楽しむ為には貧しさの犠牲を必要とするのだという真理を実感する為に、わざわざ遠くアフリカに想いを馳せる必要などないのである。

ちょっと前に公然と「まだ餓死者や凍死者は出ていない」と嘯いたオカネモチがいたのだが、すでに餓死者も凍死者も出ているのだから文句はないだろう。「握り飯が喰いたい」としょっぱい遺言を遺し、お上を呪って飢え死にした日本国民がいる。すでにこの国で謂う「貧乏」とは、贅沢が出来ないとか余裕がないとか近所隣に体裁が悪いとか子供が学校で肩身の狭い想いをするというレベルではなく、命に関わるレベルになっているのである。

勿論、そんな今でも昔に変わらずアフリカでは人が死に続けている。昔アメリカ様が世界の敵だと指を差した赤い国が赤くなくなった今も戦争は続いているし、相変わらずアメリカ様は世界の敵を指差すのに忙しく、率先して余所の国で人を殺し続けている。そんな世界の中で儲けていく為に、自分勝手に戦争を続ける大国の幇間を演じて接待するのは何ら恥ではない、それが世界に冠たる日本企業の「思想」である。

小泉政権が「飢え死に」という他人事を日本人にリアルに実感させたとすれば、安倍政権が予感させたのは、世界の何処かで常に行われている戦争において、自分の家族や識り合いが直接殺し殺されるかもしれないという実感であり、グローバリゼーションというのはそういうことである。

そして、国民に痛みに耐えろと訴えた小泉純一郎が明日喰う飯に困っているとか余生の経済的不安を抱えているとか、小泉孝太郎が自衛隊に入隊して坊主刈りの一兵卒として戦地で子供に銃を向けるという話には金輪際ならないのが「政治」というものである。安倍晋三に至っては「お気の毒」なことに自分の子供すらいないのだから、後顧の憂いなく安心して国民の子弟に「死ね」とか「殺せ」と強要出来るわけである。

翻って、たとえば五年続いた小泉政権を支えたB層を批判することは容易いし、オレも過去に批判的なことを口にしたが、あれはあれで政治に対する期待の顕れでもあったわけである。革命的なニューリーダーが颯爽と現れて国家を救ってくれるなんてのはたしかに愚昧なお伽噺でしかないが、国民にとって不利なことしか言わない総理があれだけの人気を博したのは、それが自分たちを幸福にし世の不正義を正す為の行いであるという信用があったからである。

今ではそんな信用は裏切られ、安倍政権の不人気に伴って小泉改革の汚い襤褸が暴き立てられているわけだが、善玉の英雄を信じる民草の素朴な期待が裏切られた反動は大きいだろう。ヤフーのアンケートでは未だに次期総理候補として二〇%前後の支持があるようだが、広告屋と組んだメディア操作の実態を仄聞するに、こと小泉に関しては何も信用出来ないというのが正直なところである。

テレビメディアでは昨今の風向きを読んだのか、何処の局だか忘れたが次期総理を占う街頭アンケートの映像で何故か小泉支持者だけ「如何にもB層」と言わぬばかりの頭の軽そうなケバいギャルを登場させていたのが笑えたが(笑)、こんな現状で小泉に期待するのは小泉純一郎以外の大物政治家の名前を識らない若者か、格差社会の荒波から隔離されている団塊夫人くらいのものだろう。その夫くらいになると小泉改革でイヤな想いをさせられた人間も少なくないだろうから、現実的な影響力は極々限られると視るべきではないかと思う。

小泉自身、自分が嘗て強行した無責任な破壊政治のケツを持たされる局面でわざわざ暫定的な選管内閣を背負いに出て来たりはしないと思うが、次期総理候補として小泉の名を挙げた意見の中にはチラホラと「小泉に自分のケツを持たせろ」という論調が混ざっているのが微笑ましい。最早手放しで小泉を英雄視しているお人好しなんてのは、そんなに残っていないのである。

万一総理に祭り上げられたところで、あの小泉のことだから新自由主義的な政策に逆風の場面では案外あっさり変節するかもしれないし、従来姿勢の儘でネオリベ改革を強行しようとすれば、今度こそマスコミが掌返しで大叩きする機会を虎視眈々と狙っているだろう。

タイミング的に幾らなんでももう「痛み」はたくさんだから「成長の実感」を感じさせろという空気になっているが、何かをぶっ毀すのは簡単でも、これだけ困難な世界状況の中でネオリベ的セオリーで国民が実感出来るほどの「成長」を捻り出すのは至難の業なのだから、過去の「実績」ごと政治的に抹殺されてしまうのは明白である。

今後の国政をどうするかというところでは議論が別れても、大部分の国民が現在の世の中に不満を持っていることは明らかなのだから、マスコミこぞって「こいつのせいだ」と指を差せば恃みのB層も雪崩を打って嘗ての英雄を袋叩きにするだろう。安倍政権後半の安倍叩きも、こんな世の中を招来した戦犯探しという動機も大きいだろうし、祖父の場合と違って戦犯逃れがうまく行かなかったという落とし噺である。

勿論、小泉だろうが麻生だろうが小沢だろうが、政治が生活を何とかしてくれるなどと安易な期待は誰も抱いていないだろう。小泉改革が今の一億総貧乏時代の元凶だという認識は理解の深浅のレベルを問わず広く浸透しているようだし、誰が仕組んだ倒閣の小細工だか識らないが安倍政権は結局政治とカネの問題で潰れたわけである。

参院第一党の民主党だって、結局は合従連衡の選対政党だというのは誰でも識っているのだから、民主党という政党に対する期待感は薄い。民主党というのは国民の大部分にとっては要するに小沢一郎なのであるが、小沢自身は健康面の問題を抱えているし、あともう幾らも政治家として生きないだろうから、来るべき総選挙に勝った後に何をするかはわからない。国民に対して好い顔をしてみせる必要があるのはこれが最後だろう。

この国の国民は最早政治家なんか信用していない。自民党がこれまで万年与党でやってこられたのは、裏でどんなに汚いことをやらかしていてもそれなりに国民生活の向上を実現してきたからなのだが、お零れをバラ撒ける余裕のある時代なら識らず危機的局面においてはやっぱり金持ちの都合以外考えないとなれば、こんな薄汚い巨大政党に今更有権者にアピールする魅力などはない。

ぶっちゃけ、上層部がどれだけ汚いことをしていても自分の生活に保証を得る為にいろんなことに目を瞑るのが日本人の気質である。下は百姓から上は武家公卿に至るまで、自身の属するコミュニティの繁栄を保証する為に上層部が多少汚い真似をしていても目を瞑るというムラ的国民性が連綿と受け継がれているのである。

しかし、マッスの生活向上を保証出来ないなら、せめて身綺麗に筋を通して政治をしろという話になるのは当たり前の話で、貧乏するのがしょうがないならせめて納得して貧乏したいと願うのは貧乏人の最低限の権利である。

小泉改革が生活に影響しない人間は、どうも貧乏人一般の従順さを楽観視しすぎているのではないかと思うし、涙目王子の失敗は恐らくその辺にあるのだろう。日本人一般というのは基本的に豊かさに対して疚しさを感じる清貧思想を持ち、それ故に豊かさを得てしまった時点では、それを提供してくれる政治や企業活動の不正義を一方的に糾弾するだけの政治的な先鋭さを持てなかっただけの話である。

日本人は、自分の生活の豊かさが何処かで政治や企業活動の腐敗や利権構造と繋がっているのではないかという共犯意識を持っていたのだし、企業活動や政治の不正義を撃つことは、自身の生活の満足とその真っ当さを否定することに繋がるのではないかという懼れを持っていたのだろう。

それが貧乏に転落してしまえば、貧乏人には筋目の正しさしか縋るものがない。一寸先は闇という苦境の中で、政治の恩恵も糞もない。間違った政治は間違っているのだし、汚職は単に汚職でしかない。貧乏なのが当たり前の世の中で貧乏でないことはそれだけで悪なのである。そんな政治が自分たちの生活を切り捨てたからこそ今の苦境があるのであれば、遠慮会釈なしに他人事として政治の腐敗を糾弾し得るのである。

嘗て六〇〜七〇年代の政治の季節には、為政者と資本家は巨悪の象徴だった。

それは、政治と企業活動から一般庶民が切り離されていたからであり、民意は巨大な権力によって屈服させられ、労働者の権利は資本家の経済力で蹂躙されていた、少なくともそのように感じられていた。大部分の国民は未だ貧しく、持たざる者であるからこそ疚しさを覚えることもなく不正義に憤ることが出来たのである。かの時代においては金持ちであること、権力者であることは、それだけで悪だったのである。

そんな貧しい国民に豊かさの未来を約束することで延命してきたのが自民党である。なんでも有耶無耶にしてしまう日本人の煮え切らない国民性は、豊かさの獲得と共に培われた已むを得ない妥協である。

一度豊かさの味を識ってしまった国民を急激な貧困に追いやることは、そのようにして取り附けられた暗黙の妥協をチャラにして倫理的に先鋭化することなのだから、政治倫理の面で隙だらけの自民党にとっては自殺行為に等しいだろう。今時の民度で、一部特権階級だけが美味しい目をみてその他大勢が奴隷のようにコキ使われる現状を「お上のやることだから仕方ない」と受け容れると考えるのが甘すぎる。

これまでの戦後の日本人が政治的不正義に対して甘かったのは、そのような堕落せる政治の在り方が、廻り廻って自身の生活満足をも保証してくれていると感じる弱みがあったからである。清貧思想においては豊かな生活を楽しむことは何処かで不正義に与することであり、それでもそんな生活に満足していたから国民は中途半端なところで糾弾の手を緩めざるを得なかったのだ。日本の伝統的倫理観においては、豊かな生活を楽しむ姿勢を積極的に正当化する理念がなかったからである。

しかし、そんな国民を再び貧しさに追いやることは、富める者、強い者を理屈抜きで悪と見做す伝統的な清貧思想の大義名分を復活させ、強者の不正義を呵責抜きで断罪する姿勢に繋がるだろう。何せ今の大部分の国民は富裕層の余慶を蒙って暮らしているという感覚など持っていないのだから、完全無欠の他人事である。

労働者を切り捨て容赦ない合理化に継ぐ合理化で儲けた某企業が役員報酬だけを倍増させたという事実が象徴的だが、経済活動の活性化というネオリベのお題目は、公正な分配が行われるという信頼に基づかない限り、貧乏人には他人事なのである。どれだけ儲かろうが潤うのは富裕層の懐だけというのは、わかりやすく悪である。

為政者サイドが何をどう勘違いしたのかは識らないが、国民に今まで通りの政治的に従順な日本人でいて欲しかったのなら、実態がどうであれ自民党は「弱者切り捨て」の後ろ指だけは差されてはならなかったのである。富裕層の利益追求に国民全体をコミットさせ、国家全体を一蓮托生のムラ的共同体としてしまうことが自民党的な政治の在り方だったのだから、切り捨てられる弱者のマッスを増やすことは、ムラから外れた義理もしがらみもない敵対者を増やすことに他ならない。

他方では奥田碩にしろ御手洗冨士夫にしろ財界人も沙汰の限りの阿呆揃いで、自分たちの組織に連なる人々をも潤す為に企業組織があるのだという建前を放棄してしまった財界人の言い分など、何処のお人好しが耳を貸すと思っているのだろうか。

これまでの歴史を顧みても、実態はどうあれ自分たちが儲ける為だけに企業があるんだとまでぶっちゃけた莫迦な財界人などは存在しない。企業が儲かれば一蓮托生で従業員も儲かるのだ、それが国を豊かにするということなのだという基本的な建前だけは外してはいけなかったのだが、統合後の経団連の言い分の何処を視ても誰が視ても絶対そんな算盤勘定にはならないように出来ている。

一部特権階級が利益を独占することは正当であり、国民の大多数が窮乏することは自業自得なのだという理屈しか語っていない。何度も語ったことだが、「頑張った者は酬われる」というお題目は、逆に言えば「酬われない者は頑張っていない」という現状肯定の為の無根拠な循環論理でしかないのである。頑張りと報酬の間にフェアで明確なルールがなく、経営者サイドの胸一つの評価体系なのだから、それは当たり前の話である。

たとえば、労働者を切り捨てて役員報酬を倍増するということを「頑張った者は酬われる」式に解釈するなら、利益が出たのは従業員が働いたからではなく、経営者の経営判断が良かったからだという理屈になる。

要するに何とでも言えるわけで、現場で働いている人間の労働を評価せず「経営判断が良かったんだ」と言い張るなら、一〇〇年待っても現場の労働者が酬われる世の中になるはずがない。経営トップは、企業活動というのは経営判断とシステムで保っているものだと考えているということなのだから、労働者のスキルや貢献なんてまったく評価していないということである。

さらに言えば、偽装請負の件に関して「企業に厳しすぎる」などと寝言を言うのであれば、「有能な労働力は欲しいが金は払いたくない」ということで、直接的な利益分配の範囲までもっともっと絞りたいということなのだから、企業の組織的実体というのは要するに経営トップでしかないのだし、それ以外にはどれだけ利益に貢献しようと一円たりとも金を分配したくないという考え方がモロバレである。

こんな態度の企業が発展する為に、なんで法人税を減免してその分を労働者サイドが負担しなければならないというのか、まったく理屈が立っていない。言ってしまえば単なる欲張りな子供の我儘である。「消費税を上げるなら法人税にかぶせろ」というのが暴論だというのなら、こんなくだらない幼稚なぶっちゃけを口にする阿呆を何処かに押し込めてからにしてほしいものである。いいように収奪された上に、口と脳味噌の軽い阿呆に莫迦にされるのではたまったものではない。

ここに至って、政治も他人事なら企業活動も他人事という、ムラ的戦後日本国家において未曾有の事態が現出してしまったわけである。為政者と資本家が仲良く手を携えて国民から収奪を恣にしているという、途轍もなくわかりやすい糾弾の構図が実現してしまうわけである。こんな現状において、経済活動や政治に対して国民の信頼など欠片ほども残っているはずがない。

小泉改革が大向こう受けしたのは、不当に儲けている不正義な輩が強力なトップダウンで粛正され、富裕層を不正に潤していた金が公正に再分配されるだろうという期待感があったからであって、今の現状はまったくその逆になっている。その事実が、小泉改革とは今の苛酷な不公正の世情を現出させる為の口先だけの詐術であったという落胆と強烈な政治不信を醸し出している。

一方で、日本人は本質的に金持ちが貪欲に金を儲けることを美しい行為だとは思っていないが、絶対悪だとも思っていない。金持ちとはそういうものだと諦念を抱いているのだし、金持ちが潤わない限り末端の自分たちまでが潤うわけがないとも感じているのだが、問題は危機的状況において庶民を踏み附けにして金持ち「だけ」が得をするという不公正であり、これだけは絶対的に悪なのである。

活かさず殺さずの菜種扱いでも大人しく泣き寝入りしていた昔の百姓が一揆に趨ったのは、まさにそのような状況においてである。凶作だから、飢饉だからという危機的状況をお題目に富商がインフレを演出して肥え太り、為政者が取り分を確保する為に酷税を取り立てるという、生き死にに直結する不公正感が従順な民百姓さえも打ち壊しの暴動に追い込むのである。

小泉政権に続く安倍政権が「究極のKY」と批判されるのは、貧乏人なら肌でわかるそのような感覚を不幸にして持ち合わせていなかったからで、ネオリベ小泉が用意した貧乏人の群に対してネオコン安倍が「キミたちは貧乏人なんだから、せめて貧乏人同士美しく助け合い清く正しく従順に生きてお国の為に命を捧げたまい」と金持ちサイドから説教を垂れるという最悪の連携プレイになったからだろう。

せめて小泉改革の後始末が一渡りすべて済んで、国民生活が安定してからなら議論の余地もあったのだろうが、「儲かっているのは金持ちだけ」「貧乏人は麦すら喰えない」という不公正感がブスブスと燻ぶっている現状で、貧乏人に修身の教科書紛いの範を垂れる金持ちのお坊ちゃんの政治姿勢が「国民に清貧を強いる前におまえが率先して居住まいを正せ」という反感に直結するのは当たり前の話である。

安倍晋三が何を勘違いしたか識らないが、彼の語る清貧思想的な道徳観とは貪欲な金持ちと傲慢な為政者を憎む価値観なのである。そんな道徳を煽れば煽るほど我が身に火の粉が降り掛かってくるというのは、マトモなアタマがあれば誰でもわかることである。

そういう意味では、安倍政権の本質的な問題点ではないにせよこの内閣がついに政治とカネに纏わる政治倫理の問題で倒れたのは、情緒的機序としては自然である。国民の窮乏に有効な手が打てないくせに、その一方で貧しさに甘んじ足ることを識り身を清く保ち公に奉仕せよという綺麗事の精神論を声高に叫び国民に圧し附ける政権が、汚いカネにまみれて栄華を恣にしているというイメージは、わかりやすいダブスタである。

綺麗事を語る政治が、イメージ的に身綺麗でなければならないのは当たり前の理屈である。安倍晋三という個人がカネと無縁の清潔な姿勢を保っている人間であれば、その内閣に如何に不祥事が相次ごうが、安倍晋三というリーダーにはそれなりの支持があったかもしれないが、あの岸信介の血を引く政治家の家系に生まれた世間識らずのお坊ちゃんが汚いカネと無縁なはずがない。仄聞する限りでもかなりの数の金銭的スキャンダルがお腹を毀して寝込んでいる前総理を待ち構えているようである。

すでにして国民の間にそのような予断があるというのに、口先ばかりで修身の教科書を説く愚かさは沙汰の限りで、お金持ちのエリートが上から目線で清貧の美徳を語る胡散臭さが反撥を呼ばないはずがない。小泉純一郎が弱者の犠牲を表に立てながらも支持を得たのは、如何に世襲政治家とはいえエスタブリッシュメント階層の出自ではないということと、金銭的なスキャンダルを徹底的に抑えきったからであって、それが弱者の犠牲を要求する小泉の動機を清廉に見せかけていたのである。

個人としての安倍晋三は悪い人間ではないという意見はよく耳にするが、善良なだけで総理が務まるタイミングではなかったのだし、個人の気質として善良であるということと思想的に健全だとか金銭的に清潔だということもまた別である。最初から務まらない立場と器量の人物だったという予断を申し分なく裏書きして辞める辺り、世は総て事もなしということである。

激務と心労で元々お弱いお腹を毀されたのはお気の毒だが、明日のご飯に困っている身分でもないのだし、子供の先行きを案じなければならない立場でもないのだから、ご本人同様に世間識らずな可愛いご夫人共々、精々お身体を労って七分粥でも啜りながら平和に生きて行かれるのが分相応の身の処し方ではないかと思う。個人としてなら、何処の神社にお参りしようが何処の宗教団体に祝電を打とうが誰もどうとも言わないしな。

オレたち国民にとって用があるのは、明日のご飯と子供の先行きを何とかしてくれそうな人物だけであって、明日のご飯が食べられなくても子供の先行きに不安があっても何とか頑張って生きて行こうなどと語るのは、極々親しい友人だけでたくさんである。

…と、ここまで書いた時点で、どうやら後継レースは福田康夫が最有力で、麻生太郎の目はなくなったということだが、まあやる気はないし愚民を見下しているけれど頭は切れるしそこそこ常識もあって、小泉も私淑する恩師の倅ということで無碍には扱えない福田なら、選管内閣の暫定総理でいいんじゃないかという気がする(笑)。

小泉が完全に出馬を拒否した為にチルドレンが担ぎ出して、内々麻生を不満視していた党内与論も「福田なら」ということで一気にそちらへ傾いたということだが、小泉も剰り心安い間柄とは言えないし恩を売ってもいない福田康夫が相手では高圧的にリモコンするというわけにもいかないだろう。アカラサマに迷惑そうな顔をしていたから、担いだチルドレンを厚遇するとも限らないのにご苦労なことである。

福田的にも、今のタイミングならあんまり長くやって泥を被らなくてもよさそうだから出馬を諒承したんだろうが、なんだかよくモチベーションの在処が掴めない政治家ではある。まあ、小泉の後始末は世直しの大変な汚れ仕事だからイヤだけど、安倍の後始末なら安倍個人の尻拭いでそんなに大変じゃないしすぐ済むから引き受ける、ということなら、この人らしくて納得出来る判断だが、お腹を毀して辞めた人の尻ぬぐいなんだから汚れ仕事であることに変わりはない(笑)。

政治的な執着よりも個人の名誉のほうが大事そうな人だから、小泉のような気違い沙汰はやらかさないとは思うが、率先して世の中を動かそうとか莫迦が相手でも噛んで含めるようにわからせて自説を納得させようなんて情熱もなさそうな人物なので、小沢民主党と雌雄を決し国民の審判を仰ぐ時期にちょうどいい人選ではないかと思う。

ウィキで履歴を視ると、政治家になったのも自民党員になったのも何らかの義理やしがらみによるものではないか(というか、ないわけがない)と思わせるところがあって、剰り政治的情熱や欲望のある人ではないという気がする。だからと言って別段この人が総理になれば政治が良くなるというわけでもない能吏的人材なのだが、自民党政治を見限るにもせよ、これまでのような人間の言葉が通じない理不尽な愚物ではなく、せめてマトモな対話や腹芸の出来る人物が総理になってくれたほうが政局らしくなるのではないかと思う。

一方麻生がしくじったのは、安倍の辞意を二日も前に識らされていながら何喰わぬ顔でほっぽっといたのを責められたからだということで、陰謀説だのクーデター説だのいろいろ出ていて本当のところはどうなんだか今はよくわからない。

今更バラさずに総裁選が終わるまでしらばっくれてりゃよかったのに、と思わないでもないんだが、だとすれば麻生太郎はまたしても口が軽くて詰めを誤ったということになる。こうまで同じ類型の失敗を繰り返すようでは、所詮麻生太郎は総理総裁の器ではなかったという話になるんだろう。

どうも麻生太郎という人は、満更莫迦な一方でもないんだろうけれど、人間がわかりやすく軽薄だしサービス精神旺盛で必ずやりすぎる。ウケを狙いに行って墓穴を掘るという行動パターンのある人だから、この余裕のない時期に総理の座を襲って国民に夢と笑いを振りまくのを生温く見物するというタイミングでもない。

まあ、ぶっちゃけて言えば、今のような平穏無事に乗り切ってほしい局面では、自身の言動で墓穴を掘る懼れが少ない福田が出るんなら地雷原のようなローゼン麻生で我慢する必要はないというのが党内の本音だろう(笑)。

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