« 人の口に入るもの | トップページ | HDDレコその後 »

2007年11月17日 (土曜日)

Fatal

生まれ附き勝負事全般不器用で弱いくせに熱くなる気質なのと、PC歴の出発点においてマカーであったというハンディもあって、常日頃ゲームの類は一切やらないオレなのだが、肌も露わなゲーキャラお姉ちゃんのフィギュアだけは無闇に買うという感心出来ない悪癖がある(笑)。

何うにか生活が落ち着いて金回りが良くなり始めた頃に、禄様オモチャを買って貰えなかった幼少期の鬱憤を晴らすかのようにフィギュアの収集に趨ったという長田真里の事情があり、怪獣と美少女という二大ジャンルの造形物を、働き者のハムスターのようにせっせと蒐めるようになった(笑)。

美少女フィギュアの世界では、アニメと並んでゲームのキャラが大きなシェアを占めているので、何ういう世界観の何ういうストーリーにおいてどんな役割を務めるのかよく識りもしないキャラのフィギュアを、見た目と造形物としての出来だけで判断して買うということになる。

ゲームそれ自体にはまったくと言っていいほど興味がなく、ウチにはゲーム機の類が一台もないし、ゲームと名の附くものは大昔にフライトシミュレータシムシティを少しやっただけ(マカーだったのでな(笑))で、これまでゲーム一般とは没交渉な人生を歩んできた。そういうゲーム音痴なオレであるが、夏場の数カ月間どっぷり首まで漬かってやり込んだゲームがあって、今回はその話をしてみようと思う。

タイトルですでにバレバレだとは思うのだが、それは「Fate/stay night 」という作品で、カテゴリー的にはエロゲである。例によって結論から先に言えば、この作品は白倉ライダーに関心を持つ者ならプレイして損はないと思うが、まあ、ウィンドウズマシンかPS2を持っていて、ちょこっとだけ出て来るエロシーンを笑ってやり過ごせて、攻略に要する平均プレイタイム六〇時間を非生産的な作業に費やしても構わないという奇特な方にしかお奨めしない(笑)。

エロゲのレビューとは言っても、本文中でエロ描写の内容を具体的に紹介するつもりもないのだが(笑)、当ブログの性格上、以下の本文にはストーリーのネタバレが多分に含まれているので、続きを読まれる場合は相応の注意が必要である。また、Fate単独の論評ではなくそれと関連する他ジャンルの作品との比較検証を行っているので、中には何うでも好い部分が出て来るかもしれない。それと、これは肝心なことだが、今回のエントリーは当社比で言ってもかなり長い

試しにワードカウントしてみたら、五六〇〇〇字くらいあった。

以上の但し書きを踏まえた上で、あなたは…

1.ネタバレ上等! 続きを読む
2.まず、プレイしてからだよな
3.まあ、掻い摘んで説明してよ


●四十の手習い —正義の味方たち—

…因みに、古いOSの人は3を選んでも正常に表示されないのでご容赦を(笑)。

本作はエロゲとしては破格の実績である一四万本超の売上を誇る人気ゲームで、昨年アニメ化もされており、フィギュアジャンルではかなりメジャーな作品である。そういうこともあって某ヒロインのフィギュアを二体ほど買ってしまったのだが、流石にどんなお話のどんなキャラだか識らないのも義理が悪い(笑)と思い、ウィキや公式サイトで内容を調べてみた。

ホビーショップのサイトでは別段一八禁とも何とも断っていなかったし、どちらかというとキャラの見た目的には一般向けの伝奇ファンタジーアニメ風だったので、アダルトゲームにカテゴライズされる作品だと識った時は軽く驚かされた(笑)。

ウィキの記述によると大まかなストーリーは以下の通りである。

物語の舞台となる海と山に囲まれた日本のとある都市「冬木市」に数十年に一度現れるとされる「聖杯」がある。その「聖杯」は持ち主のあらゆる願いを叶えるという。7人の魔術師(マスター)は7騎の使い魔(サーヴァント)と契約し、聖杯を巡る抗争、通称「聖杯戦争」に臨むことになる。聖杯を手にできるのはただ一組、ゆえに彼らは最後の一組となるまで互いに殺し合う。魔術を習うもその才能を見いだせず、半人前の魔術師として生きていた主人公・衛宮士郎。彼は偶然にもサーヴァントの一人・セイバーと契約したことから、「聖杯戦争」に巻き込まれてゆく……。ちなみに背景に神戸市内の実際の街並みが随所使用されている。

エロゲというのはエロの方便としてお話があるものだと認識していたオレは、以下に続く紹介文にあるような妙に要素がぎっちり詰まった濃いお話の何処にエロを差し挟む余地があるのか、その必要があるのか、理解に苦しんだ(笑)。

また、フィギュアの造形的にも、普通このようなSFファンタジー的な意匠を纏ったエロゲのキャラというのは、大概一目見ればどんなジャンルかわかるようになっているもので、アニメのようなコスの美少女がそのものズバリなポーズをとって淫靡な表情を浮かべていたり、胸やスカートがキャストオフ出来るようになっていたりするのだが、この作品のフィギュアに関してはエロ要素のある商品というのは一度も見たことがない。

そもそもキャラ絵の画風が、皮膚感の生々しい劇画調の巨乳系でもなければマンガ的にデフォルメされたロリペド系でもないし、さほど露出度の高いコスチュームデザインでもないのだから、エロ描写を目的としたキャラデともちょっと思えない。

なので、詳しく調べてみるまではおそらくRPG的な一般ゲームなのだろうと思っていたのだが、正確にはビジュアルノベルと謂ってアドベンチャーゲームのサブカテゴリーとなるようである。

まあ簡単に謂えば、ゲーム的なインタラクティブ性や多義的展開を設けながら、テクストを読ませることに特化してマルチメディア的な演出を附けたデジタルノベル、という辺りになるだろうか。ウィキの解説によると、莫大な開発費を掛けなくても良質なゲームとして成立可能な形式ということで、零細業者が主体で同人サークルの作品も多いエロゲ界では主流となっているスタイルということらしい。

本作のリリース元のTYPE-MOON も元々は同人サークルで、「月姫」や「空の境界」等の作品で一定の評価を得ていて、これが商業デビュー作品ということになるそうだ。同人時代の作品とは言え月姫はアニメ化やコミカライズまでされていて、同人時代からコアな支持層を掴んでいた準メジャー級のサークルだったと言えるだろう。

TYPE-MOON の中核的な人材としては、シナリオ担当の奈須きのこ、グラフィックの武内崇が主に作品の個性を決定附けている。基本的に同社のすべての作品は共通の世界設定に基づいており、同一世界内の事件とされていて、そのプライオリティとなる基本原理は魔法・魔術である。虚構の魔術原理を措定して今在る世界の裏面史を騙るという意味では、たしかに伝奇ロマンの範疇の物語性と言えるだろう。

この作品世界における第一原理となる魔術原理の、設定マニア的なガチガチの考証具合が正しく欧米SFファンダムにおけるファンタジーロマンのロジックに則っているわけだが、若干ジャンプ寄りの後附け設定で物語的課題を切り抜ける部分がちょっと狡くないかという気もしないでもない(笑)。

とまれ、自分が購入したフィギュアのキャラの来歴を調べるという意味ではウィキの記述でお腹一杯なので、それだけだったら納得してオシマイということになっただろう。しかし、ウィキの紹介文で一個所オレの関心を強烈に惹くくだりがあって、それは主人公である衛宮士郎に関する以下の記述である。

純粋かつ正直な性格で、人助けが生き甲斐であり、他人から頼まれたことに対して基本的に嫌と言わない(言えないのではなく)ため、都合よく利用されることも多い。それ故の自己犠牲はものともしないが、内面的に理想に対する執着心が強いため、自己中心的な判断や短直な行動をとるなど、端から見れば警戒心が薄いに他ならない(ママ)

なんだこれ、白倉ヒーローじゃん(笑)。

ギャルゲやエロゲにおいてプレイヤーの視点を代替する主人公は、優しいだけが取り柄のくせに据え膳だけはちゃっかり喰っちゃう優柔不断なヘタレ野郎か、脳味噌が下半身に附いているような鬼畜野郎ばかりだという偏見を持っていたオレは、軽く瞠目し俄然興味を掻き立てられた。オレ的に、白倉ヒーローと聞いちゃあ黙って見過ごしにも出来んだろう(笑)。

そういう目で視るなら「7人の魔術師(マスター)は7騎の使い魔(サーヴァント)と契約し、聖杯を巡る抗争、通称「聖杯戦争」に臨むことになる。聖杯を手にできるのはただ一組、ゆえに彼らは最後の一組となるまで互いに殺し合う」という設定は、そのまんま「仮面ライダー龍騎である。

さらに謂えば、龍騎自体が後半で導入されたオーディンのタイムベントの故にパラレル展開の多義性を世界原理に据えた作品で、アナザーエンディングとなった劇場版はもとより、TVスペシャルでも二種類の結末をテレゴングの一般投票で決定するなど結果的にはゲーム的なインタラクティブ要素が採り入れられており、Fateの龍騎との類似性は偶然で済ませるべきではないレベルと言えるだろう。

まあ、幾ら何でも、主人公・衛宮士郎のネーミングが神崎士郎から戴いたものだなどと牽強付会するほどオレのアタマは白倉っぽくないけどな(笑)。早々にネタを割るなら、衛宮士郎に直接的な先行作品上のヒントが存在すると仮定すれば、それはブギーポップシリーズの「歪曲王」に登場する田中志郎だろう。奈須きのこ自身がどう言っているかは勿論識らないが(笑)。

直接龍騎の影響の下につくられた物語であるか何うかというのは実態的検証の余地のあることではあるが、ゲームの発売日が二〇〇四年一月三〇日というのは意味深である。龍騎の放映期間は二〇〇二年二月三日から二〇〇三年一月一九日であるから、この手のゲームの製作期間がどの程度なのかにもよるが、少なくとも本作の発売日の二年前に放映を開始して一年前に放映が終了したわけだから、企画の出発点に影響関係があるかはともかく、シナリオ作成の過程で影響があった可能性は否定出来ない。

ウィキで順繰りに同社の同人時代の作物を調べてみると、世界観こそ共通しているものの、白倉ヒーロー的な主人公像やテーマ性というのはこれ以前の作品には視られない要素で、本作でいきなりポッと出てきたテーマのように見える。勿論基本的なキャラ描写の生理や肌合いというのは連続性があるようなのだが、衛宮士郎のような無私の利他心を正面に据えて「正義の味方」の可能性を探るというのは、本作固有のテーマ性であるように見受けられた。

だとすれば、実態における影響関係はさておき、白倉的関心において本作の具体を視るという試みは、満更見当外れのものではないという勘働きがするわけである。そんな次第で白倉に関するトピックスが三度の飯より好きなオレとしては、俄然このゲームに興味を惹かれたのだが、長年没交渉だったゲームの世界にこの歳になって一気に足を踏み入れるのはやはり抵抗があった。

そこで、労力と出費を最小限度に抑える為に、昨年製作されたアニメ版を観て手っ取り早く済ませようと目論み、近所のレンビで全巻レンタルして観たのだが、一応近来のアニメにしては楽しめたとは言え、何だかピンと来なかったことも事実である。

細かい話をすると、そもそも原作のゲームは一種のギャルゲーだから、複数のヒロインとの恋愛(つかエロゲだから、ぶっちゃけエッチだが)を夫々楽しむことを眼目としたゲームである。つまり、原則的にはヒロインの数だけ異なるストーリーラインが存在するのだが、アニメ化されたのはまずプレイヤーが共通して攻略せねばならない大本のストーリーラインに適宜他のルートの要素をミックスしたもので、ウィキの記述から嗅ぎ取った白倉的問題性に類する要素の配分が薄かったということがある。

加えて、これは実地にプレイしてみて初めてわかったことだが、士郎とルートごとのヒロインの関係性というのは、直接的なエッチを通過したか何うかで微妙なニュアンスが変わってくる為、そこをTV向けにソフトにアレンジしたアニメ版だと心情面の繋がりが不自然に感じられるという弊もあったようである。

ゲームをプレイしている最中だと、物語の本筋を中断する邪魔臭いサービスシーンにしか感じられないエロ描写だが、劇中における扱いとしては現実的な意味合いにおける肉体関係の成立として扱われているので、エッチはやっぱりエッチとして表現しないと恋愛ドラマの意味が通じないのである。

各ルートごとに二度ずつエロシーンがあるのだが、テクストの書き方は完全にエロ描写を楽しむ為のエロが目的化された品のない文体でありながら、それ以外の場面における扱いは男女間の切ない恋愛感情の帰結としての肉体関係として扱われていて、全体的には描写の具体の品のなさと劇中における扱いのシリアスさがアンバランスで、何ともちぐはぐな印象を覚える。この辺、エロゲという枠組みを物語の方便とする転倒した本質を抱えるこの種のノベルゲーム全体の構造的な問題だろう(笑)。

とまれ、主要な関心である白倉的問題性の具体を視る為には、何うでも実地にゲームをプレイしてみる必要性があると結論せざるを得なくなった。正直申し上げて、迷いましたとも。一昨年知人の厚意で中古のウィンドウズ機を導入したから、ソフトさえ入手すれば今直ぐプレイ可能な環境ではあるのだが、平均攻略時間が六〇時間超と聞いては怖じ気づくのも当然である(笑)。

それまでのオレの感じ方では、ゲーム=非生産的な時間のロスであるから、ほぼ丸々三昼夜相当の時間を無駄に費やすというのはかなり抵抗があった。しかし。よく考えてみれば、ゲームとは言ってもテクストを読むことが主体なのだから、電子ブックを読むのとそんなに変わらないわけで、加えるに、すでにアニメ版を全話視聴する為に延べ一二時間以上の時間を費やしているのである。

そこまでしておいて本来の興味が満たされないというのは、かえってこれまで費やした時間がまるっきり無駄になるということなのだから、この際毒喰わば皿までという気になった。つまり、アニメ版を視聴した時点で、すでに後戻り出来ない地点に踏み込んでいたわけである(笑)。

未練たらしいオレは、公式サイトから体験版をDLして一応どんなものなのかを試してみることにした。これがまあ、プロローグに過ぎないというのに長い長い(笑)。如何にテクストを読ませるジャンルとは言えかなりテクスト量が多い作品らしく、延々クリックやスクロールを繰り返した挙げ句、漸く主要登場人物が出揃ったところで体験版のプロローグが終わった。これだけで何時間も掛かったのだが、そこからさらに本格的に事件が起こりエンディングまで一五日間の劇中時間を過ごすわけだから、先行きどれだけの時間が掛かるかわからない。

正直ちょっと引いたのだが(笑)、武内崇のキャラ絵は好きでも嫌いでもなくこんなモンかと大して興味を引かれなかったものの、神戸市内の実際の街並みが使用されているという背景は割合好みに合った。アニメ版で観た際には作画や明度の関係でさほど良いとは思わなかったのだが、ゲームの背景画としてモニターで視ると、実景特有の地方都市としての空気感が妙に懐かしくて快い。多分、このゲームでオレが一番好きなのはこの背景画だろうと思う。

PC画面でテクストを読みながら送るのも慣れてくるとそんなに苦にならなくなり、そうなると積極的に忌避する理由がないような気もしてきた(笑)。ゲームというと、いろいろキーボードやコントローラのボタンを忙しなく操作して、アレしたりコレしたりするというのが面倒くさいと思っていたのだが、まあこれなら単純にマウスをクリックして段落を送ったり選択肢のボタンを押すだけである。

だったら、この際実地にやってみるしかないだろうと腹を固め、ウィンドウズ版の本編とファンディスクの「Fate/hollow ataraxia」を入手して、殆ど一〇年ぶりにゲームと名の附くものに手を初めた次第である。まあ丁度夏場は仕事が枯れていて暇だったという事情もあったが(笑)。


●復讐されるプレイヤー
 —正義の味方の不可能性—

そうは言っても、何分ゲームの世界は不案内なので、ゲーム好きの友人に相談してみたところ、一足先にプレイしていろいろ教えてくれた。ゲームのジャンル自体がそういうものだということもあるのだが、テクスト量に比べて選択肢の数もそう多いほうではないし、途中でデッドエンドに終わっても直前の選択肢に戻るだけでいいから、初心者でも別段ストレスなくプレイ出来るのではないかということだった。

さらに、メジャーなゲームだけに攻略サイトもたくさんあって、そういうサイトを参考にすれば、あっさり無駄なくルートが辿れるということである。それでちょっと安心したとは言え、指定された順番通り選択肢を辿ってデッドエンドやバッドエンドをすべて回避しても、テクストを読む為の実時間だけは必ず必要である。空き時間を全部費やして没頭しても、第一のルートを攻略するのに一週間くらいかかった

最初に批判的な意見から言っておくと、これだけ大量のテクストを読ませる物語にしては文章が荒すぎるという批判は在り得るだろうというのが第一印象であった。独特の味や魅力はあるものの、基本的に意余って力足らずの日本語になっていない表現が無闇に頻出するのには、一応小説読みの端くれとしてかなり辟易させられた。

たとえば、「呟く」という意味で「ごちる」という表現が多用されているのだが、これは多分「ひとりごちる」という慣用句を「一人・ごちる」に分解し「一人呟く」という意味に解して「呟く」という意味の語幹は「ごちる」という部分なのだろうと解したのかもしれないが、本来の語の成り立ちとしては、「独語(ひとりご)」という名詞に動詞化する「つ」が附いたもので、元々「ひとりご・つ」という構造を持つ言葉である。

それ故に、そもそも「独語(ひとりご)」という音素のつながりから「ひとり」という別の成語を差し引いても語幹は出てこないのであり、「ごちる」などという日本語は正規表現では存在し得ない。多分これに一番似ているのは「キョドる」「ファビョる」というカジュアルな造語だろう。

また、たとえば「度し難い」という言い回しも頻出するが、本来これは「縁なき衆生は度し難し」という言葉があるように、仏教的なニュアンスで「済度出来ない」という意味である。「縁なき」というのは「仏縁がない」という意味で、仏の広大無辺な慈悲によっても、仏縁に欠けるカルマの故に救い得ない愚人がいるというほどの意味である。

だから仏絡みの表現でしか使うなと言うわけではないが(笑)、このような元々の語源がある故に、一種「度し難い」という言い回しは「度し難い莫迦」というように「明知に昏い」「真智に達し得ない」というニュアンスが核心にある。それ故に「度し難い」という言葉は一般に愚かさを修飾する場面で遣われるわけだが、だからと言って直接「間抜けな」「馬鹿げた」という意味と解して遣うと、ニュアンス的には大いに違和感があるのである。

このテクストでよく遣われるのは「度し難い隙となる」というような形で、単に「間抜けな」とか「愚かしい」そこから転じて「救いがたい致命的なミス」という意味の言葉として遣われているようなのだが、「度し難い隙」というような表現は日本語のオーセンティックな文脈では成立しない。それは本来「度し難い」という言葉は一義的に「莫迦さ加減を修飾する形容」であって、それ自体に直接「莫迦」という意味を指向する意味性はないからである。

「済度し難い」というのは仏視点の表現で、仏が衆生を済度するには救われる者に救済に応じ得る基本的な知の可能性が不可欠だが、その程度の知もないくらいの窮め附けの莫迦は仏でも救えないという意味になる。だから、「度し難い」と「莫迦」の間には直接的な意味的相関はない。つまり「度し難い隙となる」という言い回しは、修飾すべき対象と形容が混同されているということになる。そうでなければ、「仏でも救えないくらいの隙」という直喩的な意味ということになるのだが、おそらくそういう意味を顕わしている表現でもないだろう(笑)。

シナリオの奈須きのこは言葉遊びが好きらしいので、最初はこれも確信犯で日本語を異化しているのかと思ったのだが、どうも慣用表現全般のニュアンスの正統的な意味性を一般と共有出来ていないのだと思うようになった。つまり、厨房が背伸びして書いたような文体特有の尻こそばゆさがあるわけである。

国語辞典で調べてもイメージしにくい微妙なニュアンスや用法の具体が間違っていることが多いのだが、この場合、「ニュアンス」と表現すると曖昧なフィーリング次第のように聞こえるが、先程述べたように一般的な言葉の成り立ちや背景に基づく合理的な根拠というものが存在する。それを説明すると、先程のようにくだくだしい表現になるからあんまり説明されていないだけで、普通はそれを「ニュアンス」という直観的な把握によって習得していくものなのである。

そうかと思えば、やけに難しい漢語や歴史的慣用句などがいやに正確に引用されていたりするのだが、これを総合すると、たとえばラノベ的な砕けたカジュアルな文体のサブカル文芸よりも、オーセンティックで主流的な文芸に関心を持つ人間が、すべて独学で文章を学んだような危うさを感じるわけである。

つまり「常夏の楽園」を「ココナツの楽園」とか、「身支度」を「しんしど」とか思い込んで育った人のようなイタさがあるわけで、文章だけで言うなら素人丸出しと言えるだろう。自分の独力でハイエンドの文芸を読み解いていくと、どうしてもこの種の勘違いや読み違いを犯してしまうもので、文章修行において優れた師に就いて学ぶとか見識の高い先達と交わることが重要なのは、独学の限界を超えて直観的に自身の知を妥当なものに近付けていく為である。

つまり、師や先達が特定のタームや表現について共有している意味性を、彼らとの対話を通じて「ニュアンス」として直観的に把握し、自身の勘違いや思い込みを一般に共有されている意味性へと微修正していくプロセスの積み重ねが必要なのである。

たとえば「独語ちる」とか「呟く」とか「救いがたい間抜けな隙」とか無難に書いていれば誰も引っ懸からないが、「ごちる」とか「度し難い隙」とか書かれると、普通に文章を読み慣れている読み手は、これは単なる間違いなのか意図的にそう書いているのかという基準で文章を検証する。

その検証の結果一定の条理が立っていれば、これはわかった上での言葉遊びとして書いているんだなと判断して安心するのだが、何の条理も見出せなければ、単にわかっていないのに背伸びして書いているんだなと判断する、そういうことである。

スクエアな衣裳を格好良く着崩したり、ユニークなコーディネートを高度な自己表現の域に高めるには、それ以前にファッションの決まり事に高度に習熟している必要があるのであり、基礎的知識がなく天然のセンスだけで勝負するなら、あんまりハイエンドなことをしてはいけないということである。

素人臭い文章というのはそういう意味なのであって、それは、変哲もなく「呟く」と書かれていた場合よりも、プロの売文屋として読み手に無用でイヤなストレスを与える未熟な文章だということになる。

その文章を読む限り、気の毒だが奈須きのこという人は文章修行の過程において師と仰ぐべき人がいなかったとか、周囲で一番書物を読み込んでいるのが自分しかいないような不十分な環境で文章の書き方を覚えてしまった人だとしか思えない。

これは、一つ二つの例を挙げて為にする揚げ足取りをしているわけではなく、文章全般にこの種の明白な誤謬が頻繁に視られるということで、その気になれば一〇や二〇の例は簡単に挙げられるのだが、そんな厭味な行為に意味はないだろう。

そういう意味では、小説としてはまず最初からお話にならない文体で、非業界人の一般人がブログや趣味のウェブ小説を書いているのなら微笑ましいが、プロの物書きとしてはまず通用しない文章力である。テクニック云々以前に日本語として間違った我流の手癖を身に着けているのだから、まずそこから矯正する必要があるだろう。日本語の異化表現というような高踏な課題に挑むのはそれからの話である。

実相寺に関するエントリーでも似たような話をしたが、コードに習熟していながら敢えて崩している表現と、理解していないのに最初から崩れている表現というのは、視れば客観的に判別可能なものなのである。

この作品に関しては熱狂的なファンが「Fateは文学だ」と主張しているようだが、まあその言葉通りに文学の基準で判断するとなれば、当然そういう厳しい批判も在り得るということである。

しかし、そういう気持の悪い未熟さに目を瞑れば、ストーリーテラーとしての才能は間違いなくあるだろうし、ヴィヴィッドなダイアログの勘も良い。元々同人サークルの人材なのだから、誰も上位者として叩いて教育する人間がいなかったわけで、素人臭いところがあるのもしょうがない。これまでに挙げたような難点はちゃんとしたプロの編集者や校正マンが附いて仕込めばあっさり解決する問題でしかないだろう。

プロの文芸編集者なら、文章が上手くてつまらない作品より、文章が下手でも読ませる作品を選ぶ。勿論、文章が上手くて面白ければ言うことなしであるが(笑)。

少し時間はかかったが、「これはこういうモンなんだ」と割り切ってしまえば、後はストレスなく楽しめた。日本語の正規表現は仕込めば幾らでも教えられるが、ストーリーの面白さというのは仕込んで身に附くものではないから、紛れもなく才能の範疇の事柄である。ファンダメンタルな文章力が何うであろうが、たしかにエロゲという狭いジャンルで一四万本売り上げるだけの、物語としての面白みや魅力はあると言えるだろう。

その長大なボリュームの故か、業界固有の大人の事情の故なのかは識らないが(笑)、本来四ルート想定されていたストーリーが三ルートに切り詰められたらしいが、それらすべてを攻略してマルチエンディングをすべて見るまでには半月以上、ほぼ三週間近くかかっただろう。もう、最後の桜ルートの頃になると半ばこの物語世界にはウンザリという感なきにしもだったのだが(笑)、設定されたすべてのサブストーリーを視る為には最後までクリアしなければならない。

これら三つのルートは同一の設定に基づいてまったく別の展開を辿るのだが、互いに相補的な関係性になっていて、辿れる順番が予め決まっている。主人公とのカップリングに遵ってセイバールート→凛ルート→桜ルートという三つのストーリーラインを順番に体験する構成になっている。セイバールートが大本の設定提示編に当たるオーソドックスなストーリーラインだけに最も長く時間がかかり、これをすべて辿れば次の凛ルートからはスキップ出来る共通部分が出て来て、シナリオ上でも説明の省略が出来るから、若干プレイ時間を短縮することが出来るようになる。

劇中時間の三日目くらいまでが共通部分となっているわけだが、条件分岐のポイントを最初にセーブしておけばそこまではすべてスキップ可能で、そこからどのヒロインを中心に据えるかで展開が変わってくる。のみならず、前のルートで提示された情報を深耕するように相補的な情報が開示され、ルートをクリアするごとに物語世界や人物の内面に対する理解が深まる仕掛けになっている。

ファンの間では最後の桜ルートが最も評判が悪いらしいのだが、これはヤンデレのヨゴレキャラ(要するに三ヒロイン中で一人だけ非処女の淫婦な辺りが、可憐な少女に処女性を求めるゲヲタに不評なのである)が演じる鬱展開のストーリーラインというストレスフルな性格もさりながら、このストーリーラインが提起されることによって前の二つのルート個別のストーリーの情動の完結が破れるというやりきれなさも原因だろう。

三つ目のルートのヒロインである間桐桜という人物は、前の二つのルートでは主人公の衛宮士郎をかなりアカラサマに慕いながらも前半早々に表舞台から姿を消し、ラストに至っても出て来ないのだが、三つ目のルートで彼女がヒロインとなるストーリーが語られると、実は以前の二つのルートの裏面では、彼女が世にも陰惨な宿命に弄ばれていたことが判明する。

二人のヒロインとの恋愛を楽しんで、それぞれ目出度し目出度しの泣けるエンディングを堪能して三つ目のルートに踏み込むと、その二つのルートにおける主人公の活躍の陰で、相変わらず間桐桜は陰惨な虐待に苛まれていたという衝撃的な事実が識らされる。

或る程度の揺らぎの幅はあるが、この三つのルートはすべて同一の設定に基づいた可能世界の一つなのだから、桜ルートでいきなりそんな設定が降って湧いたわけではなく、どのルートにおいても桜という人物はこのような悲惨な宿業を抱え、救われずに放置された人物として設定されていたことが突如として明示されるのである。

これはキタナイ(笑)。前の二つのルートは、単に士郎がどの女性を選ぶのかという決定論の範疇の事柄で、士郎と恋愛関係に発展することだけが劇中のヒロインの存在意義ではないのだから、どの相手を選ぼうとも選ばれなかったヒロインもそれなりに充実した物語的決着に辿り着くことが出来るのだが、桜の場合だけは前の二つのルートではまったく救われず、陵辱と暴力の陰惨な無限地獄に放置されていたことになるのである。

この台無し感は凄まじい。

このゲームが単なる鬼畜系のエロゲだったらそんなモンだろうが、三つのルートすべてを貫く主題とは、主人公・衛宮士郎が「正義の味方」を自己目的化して利他の闘いを敢然と闘い抜き、人々を救うというストーリーである。

セイバールートにおいても凛ルートにおいても、士郎が冒す自己犠牲の闘いは峻烈を窮めるもので、魔術の加護の故に滅多に死なないとは言え、陰惨な肉体的苦痛とトラウマの疼きに耐えて自己を超克し世界を救済する苛烈な物語が語られている。

その闘争は、常に絞りきった雑巾から後一滴を無理矢理絞り出すような苛酷なものであり、その意味で衛宮士郎は凡人ではなく一種の努力の天才であり超人的な英雄である。事実、すべてのルートをプレイすれば、衛宮士郎自身がサーバントと呼ばれる伝説の英雄たちと同等以上の超人的英雄と成り得る可能性を秘めた存在であることが判明する。

そんな英雄の苛酷な闘争によっても救いきれない誰かがいる。英雄の救済は必ず誰かを取り零し、誰かの替わりに誰かを殺すというものでしかない。それこそがこの物語を貫流する冷酷な主題であり、最後のルートで肝心要の身近な人物を救い得なかった主人公の悔恨と挫折が語られるのは、剰りに念が入りすぎていると言えるだろう。

すべての人々を洩れなく救いたいという偏執的な理想に憑かれた主人公は劇中で紛れもなく病者として位置附けられていて、利他にしか関心のない空っぽの人間として描かれている。シナリオを担当した奈須きのこは、士郎を「一生懸命人間のふりをしているロボット」と形容したわけだが、大災厄からのサバイバー症候群とでも謂うべきトラウマの故に、士郎は自分自身の為の安逸な生を生きることを自らに許すことが出来ない。

その理想の不可能性と士郎が辿るべき不吉な未来の予兆がこれでもかと語られるのがこの物語なのだが、前の二つのルートでは、その行為としての不可能性と理想としての美しさを両様に肯定する形で美しい物語的結末が描かれている。

兎にも角にも衛宮士郎の闘争は劇中世界に秩序を回復するのだし、或る種望み得る最善の形でエピソードが完結するのは、衛宮士郎が「犠牲なき完璧な救済」という不可能事の妄執に取り憑かれ、無限に献身出来る病者だからである。理想に憑かれた者がたとえ異常な病者に過ぎないとしても、叶わぬ理想を追い求めて常に自身を超克し利他の闘いを闘うことには美しい意味があるとして肯定されているのである。

しかし、そんな彼も三つ目のルートでは遂に挫折する。何故なら護るべき対象であるヒロインが世界の脅威そのものだからであり、ヒロインがそのような存在となったことにはまったく本人に責任がなく、寧ろ状況の犠牲者の立場だからであり、士郎がそれに一切気附かなかったことで彼女を無限地獄に放置してしまったからである。さらに言えばヒロインはすでにストーリー半ばにして自身の責任において罪業を犯し、最早後戻り出来ない地点まで悲劇は進行してしまう。

つまり、この時点において前の二つのルートは三つ目のルートによって断罪されてしまうのであり、セイバーや遠坂凛とのハッピーエンドの物語は批判的に意味附けられてしまうのである。すべての結末は、間桐桜の不幸を黙殺するという無辜の一少女の犠牲の上に成り立った幸福であると意味附けられてしまうのである。

何故なら、桜の置かれている悲惨な現状を士郎が識ってしまったら、他の女性との恋愛などは成立し得ないからである。最低でも、他のヒロインへの恋愛感情と桜の救済との間で引き裂かれ、正義の味方として身動きがとれなくなってしまう。

ギャルゲ固有のシステムとして、士郎とセイバーや凛の関係性においては、相手の好感度は士郎の行動如何で上下するわけで、出発点においてヒロインの側に士郎に対する恋愛感情は存在しない。つまり劇中の士郎ではなく士郎の視点に代替されるプレイヤーの動機において、相手の好意を勝ち取る必要性がある。しかし、三つの物語すべてに共通の大前提として、桜だけは士郎の挙動の如何によらず最初っから士郎を慕っている。

その彼女の魂を救済するということは、彼女の好意に応えることと同義になってしまうのだから、セイバーとの恋愛、遠坂凛との恋愛は、士郎が桜の真実を識らないという前提においてしか成立し得ない。だからこそ前の二つのルートでは、聖杯戦争が本格化した瞬間に意図的に桜が表舞台から退場させられてしまうのである。

ならば、セイバーや凛との恋愛シミュレーションを核としたストーリーは、本質的に間桐桜の救済を犠牲としなければ決して成立しないということである。

いわば桜ルートはそのような他者の幸福の為に不条理な犠牲に供された桜が世界に対して復讐する物語であり、この復讐に対しては、如何に不死身の超人である衛宮士郎と雖も対抗する術を持たず、魂の病ですらあった信念を堅持することすら叶わない。

当たり前に言えば、主人公が無辜の人々を救済する正義の味方である為には、ヒロインを自らの手で殺すしかないのであるが、それは多くの人々の為に本質的には自身の責任ではない罪の名の下に大切な人を犠牲にするということである。つまり、一人の零れもなく完璧に人々を救いたいという士郎の理想は、完膚無きまでに論理矛盾を起こしてしまうのである。

冷酷にその二者択一を迫られた士郎は、遂に心が折れてしまう。この士郎の挫折を描く場面の重苦しい悲痛さは先鋭に突出しており、士郎は遂にすべての人々を一人の零れもなく救済し得る正義の味方になるという理想を諦め、桜一人の庇護者として絶望的な闘争を闘う決意を固めるのである。前二ルートでは、原理的な不可能事に果敢に挑み遂に針の穴を通すような奇跡を成し遂げる超人として描かれた衛宮士郎も、最後のルートでは打ちのめされた矮小な一人の恋人に成り下がる。

このルートの陰鬱な展開は、たしかに劇中の人々を愛して物語に附き合ってきた普通のプレイヤーには耐え難いものである。正味な話、セイバーや凛のキャラが好きで血沸き肉躍るアクションの最中に求め合う恋愛シミュレーションをスカッと堪能したいプレイヤーは、なんで桜「なんか」の為にこれほど厭な気分にさせられねばならないのかわからない。しかし、もう少し心あるプレイヤーなら、自身がセイバーや凛を愛する気持ちを満足させる為に、衛宮士郎の闘争が無意味と化すことにも耐えられないはずである。

セイバーや凛との恋愛シミュレーションを楽しむ上では、プレイヤーが彼女の真実を識らない段階においても間桐桜というキャラはお邪魔虫でしかない。間桐桜が別のヒロインのルートにおいてさっさと退場させられるのは、メタ的な意味においてはお邪魔虫だからである。その意味で、桜ルートに至った段階においては、嘗てお邪魔虫の桜の退場を喜んだプレイヤー自身も断罪を受けると表現出来るだろう。衛宮士郎の理想に共感するプレイヤーなら、桜「なんか」の為に厭な気分を味わうべき義務があるのである。

それ故に、間桐桜が背負う復讐原理は強力無比なものであり、最善の選択肢を辿ったとしても全体的なストーリーは襤褸負けエンド寸前まで行き着いてしまう。桜の狂気と士郎の苦悩はギリギリまで続き、最初のルートで士郎と固い絆を結んだはずの第一のヒロインであるセイバーとは望まざる殺し合いにまで発展し、魔術の師であり盟友であり憧れの美少女である遠坂凛とは桜の処遇を巡って決裂寸前にまで至る。

その流れにおいて最小限の救済をもたらし得るハッピーエンドの選択肢はデリケートな迂路を辿った複雑怪奇なもので、三ルートの最終決戦場面中で最もデッドエンドやバッドエンドの罠が稠密に入り組んでいて、攻略サイトのヒントがなければストレートにエンディングに辿り着くことは不可能である。この絶望的な状況下において、最低限に可能なハッピーエンドとは、それほど入り組んだ迷路を通過した後の小さな奇跡としてしか成し遂げられないということである。

苛酷な苦痛や苦悩をこれでもかと描くこのゲームでも、この三つ目のルートの陰惨さや救いのなさは飛び抜けている。すでに最終局面では桜個人を救済することに世界を危機に曝すだけの如何なる意味があるのかすら見失われている。

主人公の士郎には、途中で遭遇した或るイベントの為に魔術を遣うごとに強烈に消耗し魂が磨り減ってしまうというハンディが設けられ、前二ルートでは自身の無限の可能性に気附けば天をも動かす超越力を揮えるとされた超人・衛宮士郎は、理想を棄て恋人の桜一人を救済するという矮小で利己的な目的の為に刻一刻と磨り減っていく。

この複雑膨大なストーリーラインをすべて追うことに意味はないから実地にプレイしてみることをお奨めするが、おそらく作者はこの陰惨な物語に見合う着地点がどのようなものであるべきなのか、明確にイメージ出来なかったのだと思う。三つの物語すべてに決着を附けるべき桜ルートのエンディングは二通りあるのだが、そのどちらもこの悲劇的展開に見合うだけの解法であるようには見えない。

嘘臭いまでの大ハッピーエンドと嫋々たる余韻を残す切ないエンディングの二通りが用意されていて、どちらを採択するかはプレイヤー次第であるが、どちらも完全にはオチていない。つまり、この物語は苛酷な闘争を戦い抜いて不可能を可能にする英雄像を一種の病者として魅力的に提示し得ているのだが、彼を論理的に追い詰めすぎて物語的に回復不能な地点にまで踏み込んでしまったのである。

辛くも成し遂げられたのはヒロインの救済のみで、その救済を通じて己自身を救う救済者とは遂に成り得なかった、もしくはその救済をリアリティを以て描き抜くことが出来なかったと言えるだろう。

或いは、その課題には物語という虚構の装置を介した安易な解決を与えるべきではないと考えたのか、そこまではわからない。何れにせよ、そこまで踏み込んでしまったことだけは間違いないのである。


●部分と総体
 —正義の味方の自己目的化—

ここまで語れば誰でもピンと来るだろうが、この物語は設定面で類似しているのみならず、物語性やテーマ性の観点においても龍騎に酷似しているのである。勿論、だからと謂ってパクリだの何だのとつまらない因縁を附けるつもりなど毛頭ないことは更めて強調するまでもないだろう。

そもそもフィクションの世界でアイディアそれ自体のオリジナリティを問うことは空しいわけで、それをどのように独自の意味附けにおいて展開しているのかが問われるものである。龍騎の世界設定自体、メジャー作品では「金色のガッシュ!!」という直前の先行作品の影響は否定出来ないだろう。この連載が二〇〇一年の六号からで、ご丁寧なことにカードゲームという玩具展開まで踏襲しているのだから、偶然の一致では決してない

Fateに関して言えば、世界原理としての魔法・魔術の存在や契約によって魔術師の従者となる強力な魔術的戦士という意味ではガッシュのほうに近いわけで、このジャンルに明るくないからそれほど遡った話は出来ないのだが、このアイディア自体ロー・ファンタジーの世界では手垢の附いたパブリックドメインである。

ただまあ、オリジンの在処を探る試みは空しくても、リアルタイムの製作上の影響関係としては、ガッシュ→龍騎→Fateという単純な経路を描くことは可能だろう。何より本作で扱われているテーマ性が選れて白倉的だという特徴があるのだから、直接的な影響を蒙っていると視ることには一定の説得力があるだろう。

ただし、この「白倉的テーマ性」なるものがすでにオリジンでは在り得ない。嘗てオレは「失はれた週末」のレビューにおいて、白倉的な問題意識とセカイ系の接点を指摘したのだが、この考察それ自体は白倉的テーマ性とラノベ的セカイ系の関係の論述として十分なものではない。まあ、言ってみれば著書の論旨と実作の間の矛盾に附け込んだ悪意的な揚げ足取りである(笑)。

ここで白倉に寄り道すると、実は白倉的ヒーロー物語とセカイ系の間には、もっと直截的な関係性があるというのが現在のオレの持論である。

白倉ライダーが白倉個人のヒーローに対する拘りから生まれた「正義の味方」に関するメタ的な言及であるという認識は、現在では割合一般的なものだと思うのだが、すでにセカイ系の分野で明確且つ意図的に「正義の味方」というタームを用いてメタ的言及に拘った作品が先行的に存在する。

それはラノベおよびセカイ系の分野ではメジャーな先駆者と視られる上遠野浩平の手になる「ブギーポップシリーズ」である。ウィキの記述にも視られるように、上遠野浩平の存在は所謂セカイ系の成立に関して、エヴァやサイカノと並列的に語られるような位置附けとなる。さらに同シリーズの第一作は「電撃ゲーム小説大賞」と呼ばれていた頃の電撃小説大賞を一九九七年に受賞しており、翌一九九八年に同作で作家デビューという運びになっている。

では、一九九八年当時の白倉伸一郎はと言えば、これは誰でも識っている通りシャンゼのおイタが過ぎたツケでテレ朝に出向させられて一般ドラマを手掛けている。このシャンゼ自体がオーセンティックなヒーロー特撮に対するアンチテーゼ的な変化球であった為に、白倉伸一郎個人の問題意識は一貫してそこに特化しているかに視られているわけだが、考えるまでもなくシャンゼと白倉ライダーの問題意識の間には大きな断絶が視られるわけである。

それはつまり、シャンゼの時点の白倉の認識としては、ヒーローは虚構的観念として無前提で成立するものであって、その既存の在り様に対して白倉個人のマニア的視点からツッコミを入れるというスタンスに立っているが、後の白倉ライダー一般においては、ヒーローの存在を一旦方法的に懐疑するという手続を経なければ、シリアスな虚構としてのヒーローに存在の余地はないという、強迫観念のような認識が視られるということである。

オレの認識では、アギトが白倉流のクウガの語り直しであり、後の問題意識が見え隠れしているとは言え文体的には井上敏樹の個性に依存しているとすれば、現在一般的に認知されている白倉イズムが最初に顕在化したのは龍騎が嚆矢であると視ている。この間の事情に関しては前掲の失はれた週末でも触れているが、そのような白倉的問題性がいつ生まれたのかと言えば、おそらくテレ朝出向後の雌伏期ではないかと踏んでいる。

白倉はテレ朝出向時を一種の充電期間として位置附けているのだろうし、そこで一般ドラマのノウハウを吸収したり多彩な人脈を培ったことは夙に識られているが、前掲のリンク先で論じているように、当時のテレ朝は空前の深夜特撮全盛期で、トクサツジャンル一般の観点から視ても、この時期から二〇〇〇年代の黎明にかけて最も活発な状況を呈していたと言えるだろう。この雌伏期に白倉はじっと堪えて他人の手掛けたジャンル作品を積極的に研究し、熱心にいろいろな要素を吸収していたのだろうとオレは思う。

おそらくそうした状況の中で白倉と上遠野作品の接点が生まれたものだろう。これは憶測に過ぎないが、実際にブギーポップシリーズを読んでいるのではないかと思う。たとえばそれは、アギトというライダーが、アンノウンの出現に際して「自動的に」反応して顕現するヒーローであり、アンノウンが進化した人類を淘汰する存在であるという設定にも影響関係を視ることが出来るわけだが、白倉個人に対するより本質的な影響としては、シリーズの影の主人公である霧間凪の以下のような設定に大きなヒントがあるだろう。

「炎の魔女」と呼ばれる女子高校生。いわゆる“正義の味方”を目指し、それに伴った活動をしている。

この記述にある「正義の味方」というタームは、解説の為にこの場で用いられた一般的な単語ではなく原作中に頻出する引用符附きのキーワードである。つまり、霧間凪の劇中における活躍が一般的な意味合いにおいて「正義の味方」と表現されているわけではなく、劇中の彼女が意志的に「正義の味方」というタームで括られる存在であるべく、そのように活動しているのであり、「正義の味方」というタームをゴロリと直接的に提示する方法論はFateにもその儘受け継がれている。

それはつまり、タイトルロールのブギーポップが一種の自然現象であり「自動的に」出現する世界原理の顕在化した「不気味な泡」でしかない以上、「正義の味方」では在り得ないからである。さらには、ブギーポップという存在は、その肉体的実体である宮下藤花とはそもそも別人であり、この二者の間には連絡がない。一応劇中世界で設定されている「表面的な」出現原理としては、幼時に他者の死に触れたトラウマから発生した一種の多重人格「ではないか」的に片附けられているのだが、劇中事実のレベルでもそれはただの口実に過ぎない。

それはつまり、この物語世界のリアリティにおいては、「所謂『多重人格』なるものの少なくとも大半は、詐病か妄想である」というレベルの現実性が採用されているからであって、「幼少期のトラウマで多重人格が生まれました」ですんなり誰しも納得するようなリアリティの世界ではないからである。これはこの小説の生み出された九七年という時代性においては、数年前にビリー・ミリガンのブームを通過しているからで、大昔の作品のように「多重人格」をソボクに扱うことが出来ないという事情もあるだろう。

ブギーポップが何であるかは、ブギーポップ自身の語る言葉によって規定するしかないことで、それが偶々人間の間で通りの良い説明として「多重人格」というタームを借りているというニュアンスで表現されている。つまり、宮下藤花という人物は劇中世界では奇妙な記憶の空白とその欠落を顕在意識上において自動的に回避する精神メカニズムを持つ変わった「病者」と視られている。

宮下藤花はブギーポップとして活動する間の記憶はないが、その活動の為に宮下藤花としてとらねばならない何らかのアクション、たとえば「世界の敵」の許に急行する為に衣裳一式を抱えて移動するというような場面では、何らそれを疑問視しない上に他人にその真意を問われると無意識に胡麻化そうとさえする。

また、ブギーポップの人格として遭遇した事柄の記憶を踏まえた行動をとることもあるが、それは意識的にそうしているわけではない。顕在意識上では常にブギーポップに関する事柄を迂回し、宮下藤花の人格からは決してブギーポップが見えないというメカニズムが存在するわけである。

そのブギーポップという存在の外見は、そのまんま宮下藤花が学校の制服の上に変な帽子とマントを被っただけの「コスプレ」で、武器となるのも人間離れした肉体能力と強靱な針金のみ、決して何たら光線だの何とかビームだのを発射する神懸かりな存在ではない。つまり、通常の人間の肉体の現実性の連続上にある存在と設定されていて、これが彼の存在の曖昧さ(病人の譫言なのか本当に超越的な存在なのか)を醸し出しているわけである。

さらには、ご丁寧なことにその衣裳一式をスポルディングのスポーツバッグに詰め込んでいつも抱えて歩いているのだから、紛れもなく「変装」である。しかし、宮下藤花自身は自分が何故そんなものを後生大事に抱えているのか、その中身が何であるかを気に懸けることは一切ない。

それが外見上の肉体変化を伴わない帽子とマントだけの「コスプレ」にすぎないとすれば、誰でも気になるのは、顔すら隠していないのだから「そんなんで正体がバレないのかしら」ということだと思うのだが、ご安心あれ、ちゃんとバレている(笑)。そもそもの最初からバレている。このシリーズを一種の「変身ヒーロー物」として視た場合の特殊性というのは、宮下藤花を識っている者がブギーポップと遭遇すれば、その正体がハナからバレているというところにある。

のみならず、ブギーポップが最初に出現した頃には、彼女の母親がそれを多重人格の病気と解して病院に連れて行っているのだから、親にもバレている。これだけ本人周辺で正体が周知されている「変身ヒーロー」というのは、クウガの五代雄介くらいだろう。

但し、五代雄介の場合なら、本人が意志的に変身してクウガの超越力を得るだけなのだから話は簡単で、正体を識っている周辺人物は五代を「クウガの力を持った五代雄介」として扱えば済むのだが、ブギーポップは宮下藤花の肉体を籍りて「自動的に」出現するのだからその間の事情はややこしくなる。

決して藤花からはブギーポップが見えないというメカニズムが存在するのだから、周辺人物は「ブギーポップである宮下藤花」として藤花と接するわけにはいかない。当然本人に問い質しても徹底してとぼけるわけだが、それは単にそのようなメカニズムになっているからであって、「自動的な」反応にすぎないのである。その意味では、劇中で表面的な口実として語られる設定を鵜呑みにするのでもない限りブギーポップは多くの先例のある「多重人格ヒーロー」ではないということになる。

前述の通り、白倉がブギーポップシリーズの存在を識っていたとすれば、この「自動的な存在」という設定のエコーはアギトの津上翔一に響いており、「正義の味方」という自己目的化されたタームはヒーローと正義を巡る思想性の上に響いていることになる。

さらに、その自己目的化されたタームがFateの主人公像にも響いていることはこれまで視てきた通りであり、奈須きのこ自身が上遠野浩平からの直接的影響を証言している。つまり、ブギーポップからFateを繋ぐ線上には、上遠野浩平から直接繋がるラインと、白倉ライダーを通過したラインの二系統があるということである。

無邪気な一人の特ヲタに過ぎなかった白倉伸一郎は、シャンゼという融通無碍な玩具でヒーローに対するヲタク的な拘りを満足させた後に、ブギーポップに触れて「正義の味方」というタームの自己目的化に直面することによって、無意識的に受容していたヒーローという存在を意識化して捉えざるを得なくなった、というのがオレの推論である。

何故なら、多くの特ヲタがそうであるように無意識裡にヒーローという虚構を前提視しているのであれば、自身の潜在意識にプールされているヒーロー像を模索すれば済むのだから、敢えてヒーローという存在や正義の味方という存在を客観的に規定し定義する必要はないが、「正義の味方」というタームで異化して自己目的化する以上、それが何であってどのように在るべきなのか、という客観的な定義が必須となるからである。

ブギーポップシリーズでは、意志的な「正義の味方」と超越的な「ヒーロー(仮にこの場では超人的英雄というようなニュアンスと規定する)」は、霧間凪とブギーポップの二者に分裂している。宮下藤花というのは、キャラ的には溌剌系の美少女であり作劇的な次元ではミステリアスなヒロインであって、ヒーローでも正義の味方でもないし物語を動かしたりヒーローに護られる対象でもなく、ブギーポップが現実世界に顕現する為の実体的根拠として存在するキャラであり、それ以外の何の意味もなく何もしない「主人公」である。

藤花自身は単なる「多重人格と視られる病気」を持った少女にすぎないし、宮下藤花としては何ら超越的な能力を行使することもないので、現人類よりも進化した異能力者の出現に常に警戒し抹殺している統和機構にもマークされることはなく、宮下藤花自身が主体的に事件に関与したり巻き込まれたりすることはまったくない。宮下藤花は、この異常で暴力的な物語世界の主人公でありながら、異常なくらい日常の次元に留まり続けるヒロインである。

それはつまり、このシリーズでは「正義の味方」と「ヒーロー」と「主人公」が完全に分裂しているからである。

この三人の人物、正確に言えば二人の人物を生み出す契機となったのは、同じ一人の人物である。その人物は本来「悪の組織」側に属する立場でありながら、その社会的な仮面である探偵稼業において日常的に「ちょっとした善行」を積み重ねており、基本的には善人である。その任務の過程において出逢った霧間凪という赤の他人を救う為に、己の一命を賭けた英雄的な選択を選び、その結果として組織に粛正される。

彼は「正義の味方」になりたいと望む私立探偵であり、望んだものになることと引き替えに、望み通りの存在になった瞬間に、呆気なく死を迎える。彼はこの限りにおいて或る一編の物語の主人公であり、正義の味方であり、ヒーローである。その死に際して、彼の望みが霧間凪に受け継がれ、その成就がブギーポップを生み出し、それらを差し引いた剰りとしての空虚な役割である主人公の立場に宮下藤花が残された。

彼を主人公とする物語がその望みの成就の瞬間に終わりを告げることで、主人公と正義の味方とヒーローの役割は別々の三人の人物に分裂して受け継がれたのである。

その意味で宮下藤花というキャラの独自性というのは、物語構造の観点から視れば彼女は「完全な脇役」にすぎないのだが、ブギーポップの存在の実体的根拠となっているという部分で紛れもなく「主人公」でもあるというところである。

ブギーポップという存在自体は完全に「自動的な」存在であり主体的な意志を持たないのだから、宮下藤花を出現の場として選んだのはブギーポップ自身ではない。しかし、それは偶然宮下藤花が選ばれたということとイコールではなく、裏面に何らかの必然を抱えているという示唆があるのだが、その必然の原理が劇中で明かされることはない。

それ故に、ブギーポップがヒーローでありその実体的根拠が宮下藤花であることに暗黙の領域の必然が想定されているのであれば、彼女には何処まで行ってもブギーポップを生み出し得るような「主人公性の尻尾」が附いているということになる。「正義の味方のヒーロー物語の主人公」が、正義の味方とヒーローという役割を剥奪された結果、物語構造の側面では何の実効的存在意義もない空疎な主人公としての役割だけが残るという異様な事態が現出するのである。

ブギーポップシリーズの作劇手法を特徴附けているのは、このように「何でも部分にバラす」という偏執的な傾向である。何かを突き詰める場合に他のことを考える余地がなくなる狭量さと表現しても好いだろうが、上遠野作品のプロットの特徴として必ず挙げられる多義的視点というのは、オレの鑑定では普通に三人称多視点の語り口で包括的に物語を語りきれない作家的不器用さの副産物ではないかと睨んでいる。

一般的な小説で普通に多用されている、多様な人物の間を視点が往還して全体的な事件をパノラミックに語るという手法を上手くこなせなかった、その副産物として劇中の人物が夫々特定の視点に縛られて事件の総体の極一部分にしか関わり得ないという特徴が生まれ、さらにはそれが手法上目的化されて追究されるようになったのではないかということである。

或る特定の事件を巡って別々の人物の視点で語られる短編群は、本来器用な作家なら一本の長編として縦横無尽に視点を往還させて語っているはずの物語が分裂したものだということである。総体としての長い物語の部分としての人物の視点の物語を、省略せずに余さず語りたがるという傾向があるわけである。

普通の三人称多視点の物語作法では、総体としての物語を語る為に複数の人物夫々の限定された視点の物語の中から適宜必要な部分が切り出され組み合わされることで、マルチな視点の全体の流れが構成されるわけだが、おそらく作家の関心が、その限定された単独の主観から見える物語がどのようなものであるのかに固定されているのである。

その意味で、作家としての上遠野浩平を特徴附ける資質とは、不器用さと極端に一極化した偏執的な思考様式だと言えるだろう。別段、それだから作家としてダメだということにはならないだろうし、オレも一時期このシリーズを当時の最新刊まで全部通読したから、読ませる魅力を具えた作家であることに異論はない。

同じように技倆的未熟さが或る種のポジティブな文芸的突出として作品上に顕れた作家同様、経験の積み重ねによる技倆の向上の故に、出発点における突出した独自性が薄れて行き、「普通にちょっと面白い小説を書く作家」として安定してしまう可能性を抱えているのかもしれないとは思う。

寄り道はこれくらいにして正義の味方を巡る問題に戻るが、シリーズを通読すると、作者の価値観においては決してブギーポップの闘争対象である「世界の敵」は「悪」とイコールではないかに見える。世界に影響を与え得る力としての自身の可能性を認めたとき、その全能感の故に何うしても邪悪に魅入られてしまう者がいる。可能性を認めて前に進むことそれ自体は正しいが、その人物の在り様の故に世界に容れられない邪悪な方向へ進まざるを得ない者もいる。

それは何うしようもないことなのだという哀惜の念すら伺われるわけで、ブギーポップは決して「世界の敵」を唾棄すべき悪として憎み切り捨てることはない。単に、自身が世界原理を体現する者であるが故に、誤った途に進み破滅をもたらす者を冷酷に排除するのみである。

この「世界の敵」とは、ウィキの記述によると、

この世界の持つ可能性を閉ざしてしまう危険を秘めた存在だと言われている。敵となる条件は、その対象の「意思」と「能力」の方向性で決定されている。

というふうに解説されているが、条件が曖昧な上に敵となった瞬間に抹殺されるわけだから、放置しておいたら何ういう危険があるのか具体的にはよくわからない。個々の物語において危機的状況をもたらす人物がそうなのかと謂えばそうでもなく、敵であったりなかったりする分岐点が窮めて抽象的でわかりにくい。

少なくとも、人をたくさん殺すとか弱い者を騙して利用するとか、倫理的な観点における悪事を為すことが条件でないことは間違いない。ならば、それは「悪」とは呼べないだろう。そして、抹殺の対象が悪では在り得ず、悪を懲らす為に闘うのではない以上、ブギーポップというヒーローは「正義の味方」では在り得ないのである。

ならば、この物語世界で「悪」の位置附けを担うのは、統和機構の体現する異質性排除の原理ということになるのだろうか。個別の構成員それ自体は、たとえそれが人造人間であろうとも個々の立場なりの人間性を具えており決して悪ではないが、それらの個人が遵わされている理念こそが悪であると考えることも出来るだろう。

一方で、奇妙なことに、統和機構がマークする対象とブギーポップが「世界の敵」と名指す対象は寧ろ重なり合う部分が多分にある。主に強大な力を持つ異能力者を排除するという意味では、ブギーポップと統和機構はほぼ同じ対象を相手取っているように見えるのである。それなら、ブギーポップと統和機構の違いとは何かと謂えば、たとえば再度ウィキを引くなら統和機構に関する以下の記述がヒントになるだろう。

作中で存在意義を表す際に「未来に抵抗する現在」とされた。

未来とはすなわち可能性であるとするなら、その可能性の護り手がブギーポップでそれに抵抗する存在が統和機構ということになるだろう。そして「世界の敵」とは、個の可能性がインフレーションした結果、世界全体の可能性を閉ざす危険を秘めた存在ということになるのだろうが、そうすると統和機構は新たに生まれ出るすべての可能性の芽を摘むことに特化し、ブギーポップは世界の可能性を閉ざす危険性を持つ個としての可能性の芽を摘むということで、ブギーポップと統和機構の対立軸というのは抽象的な次元にしか存在しないということになる。

では、何故すべての可能性の芽を摘む統和機構はブギーポップにとって「世界の敵」ではないのかというのも微妙な話になるが、循環論理的に謂えば、世界の可能性を閉ざす危険を持つ存在を正確に感知して自動的に抹殺するブギーポップが「世界の敵」として認めていないのだから、統和機構はそのような存在ではないということになるとしか言い様がない。

徹底して抽象的なこの物語世界において、統和機構という「悪の秘密結社」は、既存の人間社会にとって脅威と成り得る異質な子供たちの出現に警戒し容赦なく排除する冷酷な負の淘汰圧の象徴であるが、その実、既存の人間社会の護り手でもない。不可解な目的を達成する為なら手段を選ばず、人間性を踏みにじり殺人や洗脳を常套的手段とする悪逆非道な組織もしくはシステムである。

それは、全体的な世界のサブカテゴリーにはこのような一義的に均質を指向する排除の原理が存在するという世界観の抽象的比喩のように見えるが、異能者を怖れているようでありながら積極的に実験を繰り返してわざわざ異質な存在を創り出してもいるような矛盾した存在であり、何か身勝手で高圧的で不可解な力として描かれている。

それでは、霧間凪という「正義の味方」はそんな不可解な「悪の秘密結社」である統和機構と専ら闘っているのかと謂えば、厳密にはそうではない。彼女の父親は統和機構に殺害されているのだが、父親は稚ない娘を刺客から護る為に、死の間際までそのような勢力の存在を彼女に報せなかった。現時点で凪が統和機構の存在や父の死の真相を識っているか何うかは失念したが、たとえばライダーや戦隊のように特定の組織の対立項として動いている存在ではない。

さらに、彼女に正義の味方の理想を受け渡した人物がそうであったように、彼女の父親を殺した者もまた、自らの内なる人間性の故に、他ならぬ凪を庇おうとして命を落としている。つまり殺害の復仇は、殺害者個人の人間性に纏わる物語の裡にすでに完結しているのであり、旧時代のライダーがそうであったような、私的な復讐を出発点とする正義の闘争という構図は最初から放棄されているのである。

霧間凪は、何か憎むべき敵と闘っているのではなく、我々が無意識の裡に共有している虚構的なイメージとしての「正義の味方」であろうとしている存在である。それ故に彼女と接した者は直観的に彼女がそのような存在、すなわち引用符附きの「正義の味方」であることを認識する。

彼女は「正義の味方」であることが自己目的化した存在であり、それ以外の何ものでもない存在である。つまり、小は木から降りられなくなった子猫を救ったり轢かれかけた幼児を救うことから、大は連続殺人事件を解決したり「悪の秘密結社」と闘って世界を救うことまで、およそ正義の味方が為すべきすべての行為を専門的に行う存在であるということである。統和機構は、その大きな部分であるとは謂え、彼女の闘争対象そのものではない。

つまり、この物語世界においては、ヒーローと正義の味方と悪の秘密結社はすべて直接的に向き合っている存在ではない。悪の秘密結社の幹部が「おのれ○○○!」と歯ぎしりしてヒーローや正義の味方を倒すべく怪人を差し向けるという構造の物語では決してないし、正義の味方が日常の些細なことから事件の予感を感じて「これはもしや○○○の仕業では?」と行動を起こすという構造の物語でもない。

ヒーローはヒーローで勝手に自身の目的性に則って抹殺対象を処理しているし、正義の味方は正義の味方で休む暇もなく次から次へと「悪」一般と闘っている。悪の秘密結社もまた、自身の目的性において不可解な実験を繰り返し危険分子を抹殺し続けているという、ヒーロー物語を構成する各要素が夫々の事情で動いていて、他の要素と有機的な関係性によって直結されてはいない。その意味でも、本来一体的な構造の裡に語られるべき要素群が、すべて部分にバラされているわけである。

物語の作者は、このてんでバラバラに独立した要素群に対して接点となる事件を設けるという形でメインストーリーを構築している。それでいて、各自の目的性の位相が完全にズレているという印象は覆いようもなく明白である。

型通りに考えれば、目的性の位相が完全にズレているのだから、ヒーローと正義の味方が対立するという局面があってもよさそうなものだが、不思議なことにそういう事態はまず起こらない。「自動的な」存在であり主体のない殺し屋と自称しながら、何故か基本的にブギーポップは誰にでも見境なく親切であり、必要な助言や助力を惜しみなく与え、他人の望みと自分の目的に可能な限り折り合いを附けようとする。

その親切さは当然自分の実体的根拠である宮下藤花にも及び、彼女の肉体を痍附けないように勝てる勝負しか闘わず成算のある策しか用いない。これまでの作中でブギーポップが痍附いたのはただ一度だけである。自分の活動の故に彼女が受験に失敗した際には心底すまながってもいた。要するに、その本然が冷酷な殺し屋でありながら過剰に親切な存在であり、ブギーポップを恨んだり憎んだりしている人間は劇中に存在しない。

そもそものファーストアピアランスが、「街角で泣いている男を慰める」という或る意味異様な行動だったのだから、ブギーポップという存在は割合に積極的に人間に干渉して気前よく好意的に手助けをする存在である。つまり、ブギーポップが体現する世界原理というのは、人間を前提としたものであり、世界は人間に対して冷酷なばかりではなく基本的に好意的で親切なものでもあるという作者の世界観が背景にあるわけである。

先程はこの物語世界の特徴を、正義の味方とヒーローと主人公の分裂と表現したが、作者の世界の捉え方がこのようなものである故に、行動原理や闘争対象の位相がズレていながら、結果的にブギーポップというヒーローは、正義の味方や敵に対してさえ積極的にヒントを与え手助けする存在でもあるわけである。

そして、この場合に謂われる「世界」というのは、たとえばガメラ2のような地球の生態系という具体的な概念だったり政治経済的な実体ではなく、それらをすべて包括したもっと抽象的でわかりにくくて誰も全体を一望出来ない総体的な「何か」であり基本的に作家自身がそれが如何なるものであるのかを把握出来ていない。

初期作品における統和機構もそのような包括的なシステムであったのだが、シリーズが進むに連れ、たとえば対抗組織や第三勢力が設定されたり「中枢」と呼ばれるラスボス的存在が登場したりと、語りそれ自体の運動によってその「部分性」が確定していくことで曖昧で多義的な包括性を喪失していく。「部分」として具体的に語り得るものは世界に近似のものではないのである。

上遠野作品では決して総体を知り得ない包括的な「何か」だという認識で世界が捉えられているのであり、そのような包括的な「何か」を何だかわからない抽象的な破滅に導くのがブギーポップが排除すべき「世界の敵」であり、そのブギーポップは世界という何だかわからないものの原理がかりそめに人間という具体の形をとった何だかわからない超人として位置附けられている。

この窮め附けの曖昧な抽象性がブギーポップ世界の特徴で、具体的には何だかよくわからない意味附けを放棄された対象によって演じられ、物事はおしなべて抽象的で観念的な表現によって提示され、論理の連なりは開放端になっていて閉じていない。

曖昧で多義的で包括的な世界を、語りの運動によって確定していくことで部分として切り取り、それを積み重ねていくことで漸く具体性が獲得されるわけで、そこに前述のプロット作法がリンクすることで、上遠野浩平という作家固有の作風が成立しているわけである。

つまり、語りの積み重ねによって具体性が獲得されていくごとに作風の個別性は薄れていくわけで、論理の開放端を四方八方に伸ばしていく以外に語り続ける運動性を保ち得ないということになる。現在の上遠野作品が無秩序なまでのスピンオフシリーズの体系として展開されているのは、そのような原理に基づくものだろう。

最初に述べたように、多視点の物語を個別の視点における個別に完結した部分としての物語にバラしていくのが上遠野浩平の作家的関心だというのであれば、それは必然として膨大なスピンオフシリーズを生み出していく運動性でもあるだろう。

一九九七年に不気味な泡として作家の裡に顕れたブギーポップ世界を、無限に部分へとバラしていく試みは、現在に至るも拡大再生産で進行中ということである。

とまれ、サブカル批評の文脈においては、その作家的特徴によって所謂「キミ・ボクの極小の次元から、社会という中間項を超越して、いきなり世界の破滅という極大に直結する」というセカイ系のジャンルが拓かれたというのが、このジャンルの歴史として規定されているわけである。


●生存者の原罪 —正義の味方の存在証明—

しかし、実を言えばセカイ系なんて実効的な括りは存在しないというのがオレの考えなのだが、その話を始めると長くなるので別の機会に譲ることにする。今回重要なのは、白倉が白倉ライダー的な問題性に逢着する契機として、おそらく上遠野浩平の作品との出逢いがあったのではないかという「憶測」である。

実態的検証を要するその憶測に説得力がないとすれば、少なくとも上遠野浩平の登場を通過した後の時代性において白倉的「正義の味方」観が語り得るし、また上遠野浩平を通過した白倉的「正義の味方」観を批評的に踏まえた上で、直接的に上遠野浩平から影響を受けた作家による「正義の味方」像である衛宮士郎のキャラクターが成立するというストーリーになるだろう。

龍騎については過去に散々語ったが、何故格別の愛着もない番組についてこれだけ語らねばならないのか、かなり不条理に感じていることは事実である(笑)。これも白倉ヲッチャーの宿命ということで諦めるしかないのだが、まあ兎に角龍騎については過去のエントリーを参照してくださいということでこの際詳述は避ける。

今回更めて指摘すべきなのは、龍騎の主人公像とは正義の味方の不可能性に挫折する無力な主人公であるということである。自己目的化された正義の味方像を模索しながら、白倉は執拗なまでにその不可能性を追究する。目の前で不正義が行われており、それを止めるべきだということは確信していながらも、その不正義を行わざるを得ない人間の宿業に対して、同じだけの重みをついに持ち得なかった主人公が敗北する物語である。

永遠に繰り返す一年間の物語の中で、その繰り返しを生み出した一組の兄妹の悪因縁に対して、主人公たちの闘争はまったく力を持たない。関係すら持つことはない。この無限に続く繰り返しが終わるのは、単にその無限の繰り返しの果てに兄が妹の懇願を聞き入れたからであって、その諦念は主人公たちの闘争とはまったく無関係な次元でもたらされるのである。

セラムンと同じ白倉・小林コンビの作物とは言え、オレはこの作品は嫌いである。

それはつまり、この頃の白倉はまだ頭でっかちなTVマンとして斜に構えてスカしているからである。何故13ライダーズの闘争が一年間続くのか、一年間で終わるのかと言えば、それはこの番組の放映期間が一年間だからである。

白倉は無根拠な一年間という区切りを無根拠な儘に提示したわけで、龍騎の物語が終わるのは終わるべき期日が来たからに過ぎないという事情を、堂々と物語の正面にさらけ出している。それまで語られた一年間の物語とはまったく無関係に、時間が来たから物語は終わったのである。

今となってみれば、それが白倉の真に望んだものではないことは明らかである。白倉は正義の味方が実在することを信じたかったのだし、物語が一年間で終わることには物語それ自体の要請としての意味があるべきであることを信じたがっている。いわば龍騎のニヒルな空虚感というのは、そのような本心を隠した白倉の気取りである。当時は本気で物語というものはそういうものなのだと思っていたのかもしれない。

オレは白倉を語る場面で何百回も「文芸の勘がない」と批判してきたわけだが、それは求めて得られないものを最初から求めない気取りでもあったわけである。白倉の言動を識るに連れて、その心性がかなり甘めのものであることを識るに至ったのだが、そのような甘い心性の人間が、龍騎のようなニヒルな物語を求めているはずがないというふうに考えるようになった。

繰り返しの愚を犯すのも労力の無駄なので、白倉と龍騎に関しては簡単に触れるに留めるが、オレがFateのゲームをやり込んでみて、白倉ライダーを批評的に通過した作物だと感じるのは、白倉が敗北として否定してみせたテーマ性を、勝利として肯定することを目指した物語に感じられるからである。

各時点における夫々の作家たちの心理を忖度するなら、白倉が気取って距離をとってみせた、つまり求めても得られないとして最初から求めなかった目的性に対して「求めるべきである」とする確信はFateの作者のほうが強かったのだと思う。

Fateの主人公である衛宮士郎は、すなわち勝利する城戸真司なのである。

龍騎の城戸真司が、ナイーブな正義感を残酷な現実やダブルバインドによって揺さぶられるように、衛宮士郎もまた常に正義の味方の不可能性によって挑戦を受ける。そもそも真司も士郎も、個人的な妄執に憑かれたマスターと怪物のコンビによるバトルロワイヤルを止め、無辜の一般人に被害が及ぶことを阻止する為に闘いに参加していくのであり、自分自身に叶えるべき望みがないことは共通している。

真司と士郎の違いとは、その無私の正義に個人史上の根拠があるかないかである。城戸真司は、多くの小林ヒーロー同様個人史上の根拠を持たない現在の時制における正義感を拠り所とする主人公である。それ故に、秋山蓮や北岡秀一のように確固とした個人史上の根拠に支えられた強烈な闘いの動機を持つ相手に対して、そのナイーブな正義感を貫き通すだけの重い根拠を持つことが出来なかったわけである。

その正義が実行されるべきであるという強い確信がありながら、その確信に他者の個人史上の根拠に克ち得るだけの重い意味を見出せずに葛藤するのであって、それは城戸真司という人物の無私の優しさであり、致命的な弱さでもある。それ故に最終的に城戸真司という主人公は、利他の動機の故に死ぬ。勝てる勝負で勝たず、最終決戦を前にして通りすがりの赤の他人を庇って名もない雑兵に呆気なく殺されるのである。

正義の味方としての城戸真司が為し得たのは、本来役割論的には正義の味方たり得ない脱落したヒーローである秋山蓮に想いを託すことでしかなかった。その蓮が最終的なライダーバトルの勝者となることが、ミラーワールドを巡る悲劇の連鎖を救済し得る決定力となるわけでもなく、最初からの予定通り個人の切ない望みを果たすのみでこのターンにおけるライダーバトルが終息するという結末は、では真司がその死に際して蓮に託した想いとは何なのかという疑問すら呈するわけで、正義の味方の敗北を完膚無きまでに成就してしまうのである。

対するに、衛宮士郎は他の六人のマスターと或る意味同様の強烈な個人史上の闘いの根拠を持たされている。たしかに彼は、聖杯を獲得し望みを叶えるべき積極的な利己の動機は何一つないのだが、「誰一人取り零さずに救う正義の味方になる」という究極の難事を自身に課す根拠を揺るぎなく負わされている。

この物語世界においては、魔術師というのは徹底した利己主義者として位置附けられている。魔術というテクノロジーは自身の利己的な望みを叶える為の手段であり、そこに正義に代表されるような倫理の理念はない。そもそも聖杯戦争というのは「その闘いに正義はない」種類の闘争である。

意図せざるきっかけによって闘いに身を投じて行く衛宮士郎に対して、他者の痍口を抉る技術に長けた或る人物は、「これで望みが叶ったな」と皮肉をぶつけるが、彼にとっては利他の闘いを闘うことそれ自体が自己目的化しているのであり、聖杯を獲得するまでもなく聖杯戦争への参加それ自体によって望みが叶っているのである。その皮肉が指摘するのは、利他の闘争それ自体に内在する強烈な利己性である。

その「望み」の根拠は、衛宮士郎が過去の大災厄から一人だけ生き残ったという個人史に基づく罪悪感とそこで自身を救った人物の理想を受け継いだものとされている。ここにブギーポップの霧間凪を想起させるニュアンスがあるわけだが、霧間凪の場合は本来淘汰さるべき出来損ないがたまさか生き延びた結果、与えられた生の中で何を目指すべきなのかという観点において、命の恩人が掲げた「正義の味方」という理想が受け継がれるという意味附けになっているわけだが、衛宮士郎の場合はより徹底してその理想に縋らざるを得ない論理的な必然性を付与されている。

つまり、霧間凪の場合、死ぬはずだった命とは自分一個のものであり、本来無意味に潰えるはずだった命の可能性が他者の理想と犠牲によってもたらされた為に、与えられた命の限りその理想を受け継いでゆくという意味になるが、衛宮士郎の場合は天秤の片方に自分一個の命、もう片方に数百人の命が乗っているという、退っ引きならない強迫的な事情が設けられている。霧間凪は自身の自由意志においてその理想を受け継いだわけだが、衛宮士郎の場合はその理想から逃げも隠れも出来ないのだし、それを意志することでしか衛宮士郎という人格に存続の余地はないのである。

それは世間で所謂ところのサバイバーズ・ギルトもしくはサバイバー症候群と呼ばれるものであるが、調べてみると、本邦においてこの心的病理が博く認知されるようになったのは二〇〇五年四月のJR福知山線脱線事故がきっかけだそうだから二〇〇四年一月に発売されたゲームの構想段階で安直に「流行り物に乗った」わけではない。

サバイバーズ・ギルトそれ自体がそういうものだが、数百人、数千人の人々が非業の死を遂げる場面において、自分一人が生き残ることの意味、その後の生の意味というのは個人にとって重すぎるのである。割り切って言えば、それには何の意味もない、単なる偶然に過ぎないのであることは勿論である。しかし、大災厄から生き延びた人間は、自分が運命に選ばれてしまった以上、死んでしまった大勢の人々の在り得べき生をも負って生きるべきではないのか、自身の罪業に対して何かを購う責任があるのではないかという強迫観念に苛まれる。

それは生き延びた人の個人性においてしか実感出来ない感覚だろう。そもそも一人だけが生き延びるという結果について、生き延びた当人には何の責任もない。それに対して罪悪感や重い責任を感じるのは、理屈から言えば莫迦げている。

しかし、これをもっと踏み込んで考えれば、すべての人間はすべての人間に対して多かれ少なかれ責任を持っているのだし、大量死の場面において生き残るべき人間が一人だけであることにも、ましてやその一人が自分であるべきことにも何ら根拠がないのであれば、その生き残りには、たとえばもう一人、二人かもしれないし、三人かもしれないが、自分以外の他者を救い得る可能性があったと考えられるのである。

客観的に考えれば、そんな可能性などはないのであって、何を何う頑張っても結果がすべてなのであり、その結果を受け容れるしかないのである。生き延びた一人が他の大勢の人々の死に対して無為だったからと言って、その結果を遡って覆すことなどは出来ないのであるし、人間は最適な場面で最適な行動をとれるほど完璧な存在ではない。そこで誰かが救えたかもしれないと考えるのは、神の領域の責任を引き受けることである。

何故人はこのような場面で罪悪感を覚え、謂われなき責任を引き受けるのか。それはつまり、酷たらしく大量に死んだ人々の生が、死が、自身の生の無意味さによって無意味に堕すことに耐えられないからだろう。人は、生に意味があるべきだと考えるように死にも意味があるべきだと考えるが、大量死に遭遇することはそのように漠然と抱いている観念が圧倒的な現実によって嘲笑われる瞬間である。

自分が生き延びたことを肯定するなら、自分だけが生き延びたという事実は単なる偶然で何の意味もないのだと考えるしかない。それはつまり、大量に死んだ人々の死もまた偶然であり何の意味もないと考えることである。

しかし、たとえば目の前で死んだのが一人か二人ならまだしも納得出来るだろうが、数百人、数千人の人々の圧倒的な死を目の当たりにした時、自分一個の生を肯定する為に大量の死を無意味と規定することは、一人の人間には耐え難く重いのである。

その無意味さの空虚に耐え得ぬ故に、人は他者の死の意味や在り得べき生の可能性をも引き受けざるを得なくなる。生き延びた自分の生に、それと対置される大量の死と釣り合うだけの意味を持たせなければ生きて行けないと感じてしまう。しかし、これもまた原理的に不可能なことであり、それほど大量の人々の異常で不条理な死のマッスに引き合うほどに大きな個人の生の意味など存在し得ないのである。つまり、サバイバーズ・ギルトというのは観念の罠であり、そもそも不可能性に根差したダブルバインドなのである。

衛宮士郎の魂の病理とはこのようなものである。彼は異常で不条理な大量の死のマッスを自分の生によって意味附けるという不可能事に対して、災害現場から自身を救い出した恩人の理想、すなわち「誰一人取り零すことなく救済する正義の味方になる」という夢を継承することで立ち向かおうと考え、この理想に取り憑かれることで自身の利己的な生の可能性を放棄する。それは、自身の利己性の一切を利他性に極性転換することだと表現することも出来るだろう。

つまり、幸福になるとか悦楽を味わうという人並みの欲望をすべて自身に禁じ、徹底的に他者を救済するという目的のみに自身の生を純化させる途を選ぶのである。奈須きのこが「懸命に人間のふりをしているロボット」と表現するのはそのような士郎の在り方を指したもので、利己の欲求を持たない人間など生き物としての人間ではないのだし、利他の動機にしか生の意味を見出せない人間の生など機械のようなものでしかない。

一方、龍騎の13ライダーズ同様、他の六人のマスターにも闘争に参加するだけの個人史上の強力な利己の動機がある。ライダーズと違って、元々魔術師というのはそのように自身の欲望を満たす為に魔術を使い、他者の幸福や命など屁とも思わないような人種である。この原則は、士郎に近いマスターほど利己性に根差した欲望の生々しさが薄くなるが、魔術師とは本来そのようなものであるべきだという理念の縛りがあり、非情の闘争においては非情に徹すべきであるという戦術上の要請がある。

何れにせよ七人のマスターには、闘争に勝利すべき退っ引きならない動機があり、それは士郎とて例外ではない。表面上は巻き込まれ型のヒーローではあるのだが、本質的にはこの闘争を誰よりも必要としているのは主人公の士郎なのである。最前の皮肉は、正義の味方と成る為に、闘争対象としての悪や救済対象としての犠牲者の存在を望むのは正義で在り得るのか、という根元的な矛盾への問いかけでもある。

このような状況設定において、正義の確信に対して何ら個人史上の根拠を持たなかったのが城戸真司だが、衛宮士郎の場合、或る意味では他の六人のマスター以上に重い根拠を背負っているわけで、それはつまり、他のマスターは自分一個の欲望や事情に基づいて勝利とその見返りを求めているが、士郎は過去の災厄で不条理に奪われた数百の人々の生と死の意味を背負って、その闘争自体を目的化して闘っているからである。その為ならどんな苦痛や葛藤や矛盾をも受け容れられる、正義の味方であるべき非人間的なまでの強力な根拠があるわけである。

そして、たとえば一人二人と数百人の間には無視出来ないギャップがあるが、数百人というオーダーの個人が受け止めきれないほどに圧倒的な大量の死は、人間の感じ方の上では無数と同義語であり、数百人の生と死の意味は世界全体の人々のそれと容易く重なり合ってしまう。衛宮士郎という個人に、利己的でしか在り得ない人としての自然な在り様が完全に欠落しているのであれば、それは現実的な次元においても成立する条件附けなのであって、全人類の為に闘う士郎の理想は逆説的に真正なものとなるのである。

本作が龍騎を通過した経路上にある正義の味方の物語であるとすれば、白倉の感覚的な捉え方に対して、本作の主人公像の煮詰め方は偏執的なまでに理詰めである。おそらく衛宮士郎という主人公像に魅力があるのは、その偏執的に理詰めに追い込まれていく存在論的必然性の故であって、正義の味方が物語の中に実在すべきであるとする確信とパラノイアは龍騎の城戸真司と比較して格段に強い。

白倉が身振りの上でつれなく背を向けて見せた目的性に対して、飽くまでそれを求め続ける常軌を逸した執着が視られるわけである。

しかし、同時に衛宮士郎の正義の味方としての異常性というのはこの理詰めの根拠を持つ部分でもあり、たとえば彼は幼時に遭遇した災厄と同等な状況に今置かれたら、昔より上手くやってみせると考えているのではなく、数百人の人間を一人残らず救ってみせると考えて肉体を鍛え、非才な魔術の研鑽を積んでいるのである。あの時に喪われた数百の命を自身の命と引き替えにしてでも護ってみせると、原理的に不可能なことを我が身に誓った正義の味方なのである。

それはつまり、一人の命と引き替えに数百人の命が奪われることが不条理なら、数百人の命の為に一人の命が喪われることも等価で不条理だからである。大量死の経験は人がその不条理に魅入られる契機にすぎないのであって、これを解消する為にはたしかに士郎が信じる通り「誰一人取り零すことなくすべての人々を救済する」以外に途はない。

その為に命懸けで闘うこともまた、結果的に数百人の命の為に一人の命が犠牲になるということでしかないのだが、その場面にあって、自身の営為において自分以外のすべての人々を残らず救済し、唯一人の犠牲となるリスクを進んで引き受ける者こそが衛宮士郎にとっての「正義の味方」なのである。そして、そのような強烈な動機の故に、士郎は極近い未来において、新たな不可能性へと続く宿業に永遠に囚われる運命にある。

この条件附けにおいては、たとえ数百人の人々の大半が救われたとしても、自分以外に唯一人でも犠牲が出るのであれば、正義の味方としての衛宮士郎は敗北する。前述した桜ルートの鬱展開は、このような根拠を持つ正義の味方としての士郎が抱える原理的な最終課題を問うものであり、これも前述の通り、作者はその最終的な課題に対して有効な解答を提示し得なかったのである。

龍騎に満足し得なかったオレが、同様に正義の味方の実質的な敗北で終わるこの物語に一定の満足を得るのは、龍騎が正義の味方の不可能性を一種の言い訳として目的的に描いているのに比べ、本作は正義の味方の存在可能性を肯定すべく、敢えて退路を断って不可能性を飛越し得るパラノイアックな論理を積み重ねて行くからである。

また、この衛宮士郎のヒーローとしての超越性というのは、劇中の或る存在を通じて自身の未来像が先取りされており、その限りにおいては予定調和ではあるのだが、これはつまり、成れるという信念の下に限界のその先に踏み込んだ凡人が血の滲むような超絶的な努力の末に意志的に獲得した超越力として意味附けられている。前述の通り、その意味では衛宮士郎は努力の天才という類型のキャラではあるのだが、少なくとも非才や不可能性は挫折の言い訳にはならないという強烈な信念の表明でもある。

強烈な意志を貫く力さえあれば、正義の味方は論理的に実在し得るのだという、非常に若々しい信念が語られた物語として、オレは好意的に視た。


●或る対話
 —正義の味方の不在証明—

ここまで語れば、桜ルートにおける問題性とダブルバインド、つまり「護るべきヒロイン自身が世界の災厄である」という課題が、実写版セーラームーンのクライマックスのそれと類似しているということに気附くわけだが、たとえば奈須きのこや彼の仲間たちがメジャーなトクサツ番組である龍騎を通過しているという想定は自然でも、白倉伸一郎がFateを通過しているという想定はちょっと考えにくい部分がある。

少なくとも、龍騎に続くファイズという作品は龍騎の問題性が直截発展したようにしか見えないわけで、時系列的にもそうとしか考えられないわけだが、セラムン辺りになると何うかというのは微妙な話になってくる。筋金入りのマカーでゲーマーだという話も聞かない白倉が、忙しい業務の合間に攻略に六〇時間以上かかるヴィジュアルノベルを最後までやり込んでいると想定するのはかなり不自然である。

ブログの記事を視る限り、高価なハードウェアや情報家電を大根でも買うようにホイホイ買っているから、一般のリーマンと比べてかなりお金持ちであることは間違いないのだが、自分の作物の影響があるかもしれないというだけの理由で、ハード環境を整え寝食を忘れてエロゲに没頭する白倉伸一郎の姿はちょっと想像出来ない(笑)。

つまり、上遠野作品から白倉作品、白倉作品から同人サークルへ、という方向性のベクトルなら想定可能だが、エロゲの次元までサブカル方向に分化すると、白倉にもう一度環流するベクトルを想定することは困難になる。本来ならFateの試みがさらに白倉に環流することで如何なる発展があったのか、という視座の考察は大変魅力的なのだが、それは具体的にそのような証言でもない限り、現時点では考えるだけ無駄な試みである。

勿論オレの関心は寧ろ白倉伸一郎にあり実写版セラムンにあるわけだから、肝心要のその論点を捨象してしまうのは惜しいと感じるのだが、それを考察することはまったくの想像に基づくフィクションになってしまう。

では、ブギーポップから龍騎を経由したFateへの流れを視てきた後に、何を考察すべきかと言えば、昨年発売されたファンディスクの「Fate/hollow ataraxia」だろう。

非ゲヲタであるオレは「ファンディスクとは何ぞや」というところから識らなかったわけだが(笑)、調べてみたところ、元々エロゲのジャンルで作品やメーカーのファンが作成していたCG壁紙集のようなものを指していたタームらしいが、メーカーが自ら作るようになってからは若干ニュアンスが変わったらしい。

つまり、先行する本編や自社の作品群に対して愛着を持つ特定ファン層をターゲティングして、本編よりもキャラの魅力や世界観に深く突っ込んだディープなサービスを提供するという目的で製作される番外編のゲーム、というようなところだろう。つまり、元は「ファンが作った」的なニュアンスでファンディスクと呼んでいたものなのだが、作り手がメーカーに移った段階で「ファンに向けた」的なニュアンスに変わったらしい。

用語調べはこのくらいにして、ならばFateのファンディスクであるhollowはどのようなものかと言えば、他の作品のそれがどんなものか識らないので比較論は控えるが、たしかにキャラの魅力を誇張したミニコント的なシーン群で構成された、ディープなファン向けのサービス編と言えるだろうが、そのようなバラバラのエピソード群を繋ぐ一貫したストーリーと状況設定があって、このストーリー自体がパラレルな形とは言え本編の続編となっている。

そもそも本編の続編と一口に言っても、媒体の特性として三種類の別々のストーリーが存在するわけだから、続編全体を一本のストーリーで繋げる場面でどのような要素を受けるのかという問題がある。さらに、聖杯戦争という設定の性格上、大半の魅力的な登場人物は本編終了時点で存在しなくなっているわけで、つまり、聖杯戦争が終結した前提で物語を語るというのなら、すべての登場人物が生き延びているという可能性だけは存在し得ないわけである。聖杯戦争後の時制で続編を語るのであれば、本編のラストで生き延びた主要登場人物以外のキャラは、新たな登場人物で補填するしかない。

もしくは、本編の正規のストーリーをまるっきり無視したパラレルなメタ的世界を想定し、そこでご町内物のようなノリで単発のコントをマップ上に配置するというやり方も考えられるわけで、調べてみるとすでに実際にカプコンからそのような設定のパロディゲームが発売されているらしい。

それ故、本編の続編ではないパラレルなセルフパロディであるほうが、すべてのキャラを平然と再登場させられるわけだからファンディスクとして自由度があるわけだが、そこを敢えて続編的な位置附けで語った辺りが異常であるということになる。

たしかにhollowの世界は異常な世界である。聖杯戦争から半年後という時制で始まる物語は、当たり前のような顔をしてすべてのマスターとサーバントが存在する日常を描き出すわけで、劇中人物の言動から本編の三ルートのどれとも違う別の成り行きでこの現状がもたらされたことは伺えるわけだが、何が何うあれ聖杯戦争が終わっているのだからマスターとサーバントが全員生き延びているという想定は不自然である。

どのような可能世界においても必ず死んでいるとされる或る人物を除き、聖杯戦争で誰一人として死ななかった世界、さらに戦後もすべてのサーバントが現界し続ける世界としてhollowの物語世界は提示される。

さらに、開始早々物語全体を貫く別視点のストーリーとして、士郎たちが闘った聖杯戦争に間に合わなかった或るマスターとサーバントを巡るシーケンスが語られ、そこで語られる物語と今在る冬木市の現状とは微妙な齟齬を抱えている。士郎たちの昼の日常とこの人物たちが演じる夜の聖杯戦争は、当たり前の意味では整合しない。

そのような違和感と不条理を掻き立てるように、プレイヤーがこのゲームを四日目までプレイすると、何ら選択肢上の自由度もないのに、いきなり主人公の士郎はワケもわからぬうちに殺されてデッドエンドになってしまう。そこからプレイ開始時のトップ画面に強制的に戻されて、最初からやり直す羽目になるのだが、表面的にはマップ上を気儘に徘徊してそこで起こるイベントを楽しむ緩い体裁のゲームでありながら、四日目の夜になると、如何なる選択肢を選んでも必ず開始時点の画面に強制的に戻されてしまう。

その繰り返しに適宜夜の聖杯戦争のシーケンスが挟み込まれ、一見して昼の世界と決してリンクしない不可解なストーリーが語られる。このシーケンスは特定のフラグが立つごとに自動的に進行するので、四日間を繰り返してどんどんイベントを覗いていくごとに夜のシーケンスが進行して、どうやらこのゲームの世界は一本のストーリー上にあって、この不可解な繰り返しの謎を解明し解決することがプレイヤーに課された最終目的であることが判明していく。

但し、プレイヤーの視点を代替する劇中の衛宮士郎は、微妙に本編の士郎とは違和感のあるキャラとして描かれ、プレイヤーにも確たる意味のとれない何処となく胡散臭い行動をとる。本編の場合とは違って、このゲームの衛宮士郎はプレイヤーの視点を代替する信頼出来る登場人物とは限らないわけで、プレイヤーにも何かを隠しているような胡乱な言動が頻出する。

それは、一面ではこの世界の矛盾した設定に対して劇中世界の人物たちの感じ方が微妙にズレているという描き方の故もあって、誰も死ななかった聖杯戦争、今も現界し続けるサーバントという不条理に、次第に劇中の人物たちも気附いていく。しかし、この場合「次第に」というのはおかしな話で、「次第に」も何もこの世界では同じ四日間が脈絡なく繰り返しているだけなのだから、それがゲームという媒体の都合ではなく劇中の異常事態をもたらした世界律なのだとしても、プレイヤーが経験した過去のターンの情報を劇中人物が識り得るはずなどはない。

これについては、本作における雷電役の遠坂凛が後ほど推論を交えて解説しているのだが、この繰り返しは主人公の士郎を中心としたものにすぎず、他の人物は繰り返しを意識することはないというねじくれた理屈が語られる。士郎だけが繰り返しの四日間を生きているのだから、士郎には他の可能世界の別の士郎の記憶が隣り合わせで見えるのだという、成立しているんだかいないんだかわからない理屈に則っているわけである。

士郎だけが繰り返しの四日間を生きていることも不条理なら、本編を踏まえれば決して在り得ないこの冬木市の現状も不条理であり、この不条理な世界のもたらすねじれを、この世界の中に在りながら解決することは可能なのか。大半のイベントを消化して選択肢が少なくなっていくに連れ、ストーリーの焦点はこの課題に収斂していく。

まあ、こういう流れで解説しているのだから、オレの言わんとするところは明白だと思うのだが(笑)、龍騎と設定面で酷似している本編の後を受けた続編の物語がこのようなものであるということは、これもまたオーディンのタイムベントという能力に基づく龍騎後半のパラレル展開や問題性を踏襲したものと視ることが出来るだろう。

hollowのシリアスなドラマ的側面を体現するのは、新登場のキャラであるバセットというマスターとアヴェンジャーというサーバントの対話である。全体的に不吉な対話と回顧で構成されるこのシーケンスは、こちら側のドラマにこそ繰り返しの四日間を解決する鍵があることをプレイヤーに予感させる。

龍騎との類似で言えば、この夜のシーケンスはまさしく神崎士郎と神崎優衣の対話に相当するわけで、事実、相当ねじくれた捻りが加えられてはいるが、この二人物の対話のシーケンスの真相は、神崎兄妹の一連の悪因縁のアレンジである。龍騎の一年間の物語が四日間の物語に凝縮され、龍騎同様にその四日間が無限に繰り返されすべての可能世界が実現した結果として、漸く物語は終わることを許される。

つまり、hollowの物語的課題を解決するのは、闘争ではなく特定人物の納得であるということである。その納得に至る過程に本来のサービスとしてキャラのイベントが設けられているわけだが、昼のシーケンスにおける士郎の探索と夜のシーケンスにおける二人の対話が正しい順序を経て出逢うことによって、最終的な納得が購われる。

その為このhollowの物語においては、本編のウリであった燃え燃えのバトルは剰り描かれない。元々ファンディスクなのだからキャラの魅力やシチュエーションコメディを堪能するのが主眼で、聖杯戦争が終わっている以上はバトルで繋ぐような設定の筋立てでもないわけである。夜のシーケンスでは未だに聖杯戦争が続いているのだからそちらのほうでバトル要素はあるわけだが、士郎やセイバーや凛たちのパーティーが積極的に敵と闘って問題を解決するような構造のストーリーではないわけである。

嘗て血みどろの死闘を闘った仇敵同士は、過去の激闘の記憶を保ちながら旧怨をサラリと水に流し、まったりとした地方都市・冬木市の日常に溶け込んでいる。その全体的にコミカルに誇張されたキャラが織りなすコントのようなエピソード群は、まさしく同人パロディ四コママンガのノリで展開するわけで、そのような長閑な同人パロの日常が永遠に繰り返す謎を解決するのが最終的な課題である以上、バトルはサービスの範疇でしか描かれない。

このストーリーの本質には神崎兄妹の悪因縁をFateの道具立てにおいて語り直したような性格が視られるわけで、元々地味な対話劇である。最終的に強敵とのラストバトルで決着するわけではないから、本編の売りであった燃えバトルに関しては、中盤の山場としてストーリーを大きく進展させる或るイベントで、士郎とセイバーの黄金コンビが熾烈な総力戦を闘うくだりを用意することで手当てされている。

このイベントの敵は或る意味でこのコンビにとって「最強の敵」であり、このイベントに至るまではどうしても超えられない障害として立ちはだかり、繰り返しの四日間の中で数限りなく士郎は殺され続けるわけだが、或る条件が整うことによって漸くこの難敵に勝利することを得る。

物語の謎を提示するヒントとしてしかバトルが描かれないこのストーリーにおいて、唯一本編の熱いバトルを想起させる燃える描写でこの対決は描かれ、強大な飛び道具の撃ち合いという一撃必殺の緊迫した状況設定で、劇伴も「約束された勝利の剣→エミヤ」という必勝パターン、セイバーが最強の宝具をハンディ抜きで完全解放し士郎が切り札の超絶的な投影魔術でこれに連携、文句なしの完勝を納めるという、本編ですら完全な形では実現されなかった最強戦術の爽快な見せ場になっている。

士郎が問題の核心に接近することを阻む障害だった難敵が倒されることによって、物語は加速度的に真相に肉薄し、「この物語における衛宮士郎」の在り方の謎も徐々にプレイヤーの前に開示される。つまり、この場面の闘争は障害の為の障害、見せ場の為の見せ場として設けられたもので、その闘争理由もまた徹底してサービスの範疇の事柄でしかない。士郎とセイバーの最強能力の連携による完全勝利という、嘘臭いまでに爽快な大向こう受けする状況設定がその間の事情を物語っている。

事実このコンビは謎の本体に肉薄した段階で呆気なく敗れ、敵の宝具の紹介の為の噛ませ犬の立場に置かれるわけで、これ以後彼らが主役的なポジションでリベンジの為のバトルを闘うことはない。聖杯戦争のロジックで言えば、主人公のパーティーが負けっ放しの儘で話が進むのであり、これはつまりバトル自体は物語的課題解決の為の主要な要素ではないということである。

本来この物語は、アヴェンジャーがバセットと対話を重ね納得させることでしか終わりようのない性格の物語なのであり、そこに士郎が絡ませられるのは、士郎がこの物語世界の主人公だからである。士郎自身が何かを積極的に行うことで最終局面に影響があるというよりも、衛宮士郎が衛宮士郎であることによって物語を終わらせる力を持つと位置附けられている。

そこから遡って、表面上は本編の人気キャラを使った他愛ないご町内コントにしか見えないこのゲームのすべてのイベントが、最終局面において大きな意味を持ち物語を終わらせる力を持つわけで、メタ的にはプレイヤーを堂々巡りさせた四日間の繰り返しが大きな充実として感じられるわけである。

ウィキでネタバレ記述まで読まれた方なら、その対話と納得がどういうものであるのか識ってはいても、具体的にどういうことなのかサッパリ理解出来ないだろう(笑)。実際オレが実地にプレイしてみようと思い立った動機の大きな部分がその理解不能な複雑性だったわけだが、プレイしてみてハッキリわかったのは、やはりこの物語は正義の味方の物語にニヒルな身振りで背を向けてみせた龍騎の白倉に対する、本編とは別のアスペクトからの異議申し立てという性格があるということである。

hollowの物語においては、すでに正義の味方の不可能性という課題は中心的なテーマではない。後半の龍騎が、パラレルワールドの導入によって限りなくこの種のゲーム分野のインタラクティブ性に接近したとすれば、hollowの物語はその挑戦に対する他ならぬゲーム分野からの直截のアンサーであるように感じられた。

はっきり言って、龍騎の落とし所が物語の総体から切り離された神崎兄妹の対話とそれによって購われた納得もしくは諦念によって締め括られるのであれば、極端なことを言えば一年間の物語はすべて相対化され無意味である。hollowの四日間のように無限に繰り返された一年間のライダーバトルという前提で言えば、実際に映像として表現された龍騎という物語はその在り方のほんの一例示にすぎない。

劇場版のような形も在り得たのだし、TVスペシャルの二通りの結末もまた在り得るのであって、そこから「合わせ鏡のような」無限の可能世界で繰り広げられる無数の龍騎の物語が在り得るわけで、だからこそ最後の神崎兄妹の対話と本編のライダーバトルは一切意味的関連を持たないのである。

無限の可能世界の中の一つに過ぎない物語が語られ、最終的にはその無限の繰り返しを支えていた人物が無根拠に諦めたから物語が終わるという形で枠物語が語られているわけだが、hollowの物語は、この物語の無根拠性と空虚に対して意味を付与するという目的性において成立している。

前述の通り、このゲームの縦糸となっている物語は、ファンディスク的なサービス要素のすべてをドラマとして意味附ける枠物語となっており、エンディングにおいてその積み重ねが物語的感動を裏附ける具体として感じられる仕掛けになっている。物語において意味性をニヒルに放棄するよりも、積極的に意味性を語ることのほうが遥かに穣りが大きいという雄弁な実証と成り得ているだろう。

hollowの劇中に登場する敵対的なモンスターは、「無限の残骸」という文字通り無限に増殖する雑魚の雑兵だが、これが龍騎のラストで主人公を殺したレイドラグーンの群に近似していることは言うまでもない。hollowの劇中では、この無限に主人公を殺し続ける雑兵の群は、主人公自身の挫折の過去の残骸であると意味附けられていて、物語のクライマックスにおいては、この無限に繰り返された主人公の挫折の残骸に対して劇中のすべての人々が持てる力の限りを尽くして闘い、物語の終結をもたらす最後の対話の時間を稼ぐという成り行きとなり、例によって論理的な突き詰めは偏執的な域にまで達している。

この四日間が無限に繰り返されている以上、主人公の挫折の残骸もまた無限に存在するわけで、在り得べきエンディングをその目で視るまで必ずデッドエンドやバッドエンドで開始画面に戻るプレイヤーの姿がメタ的な比喩として重ねられているわけである。

劇中のすべての人々にとって、この四日間の繰り返しは束の間のモラトリアムを永遠に約束する幸福な日々であるが、四日目に必ず衛宮士郎を殺すことで繰り返しを支える無限の挫折の累積に対して、それらの人々が一致して闘いを挑むということは、彼らすべてがその永遠のモラトリアムに対して訣別し、まだ見ぬ未来へと踏み出すことを肯定するということである。

本来アヴェンジャーは、すべての人々の為に己一個を犠牲にする「正義の味方」衛宮士郎の陰画である。そのような存在であるべく意志する士郎と比較して、彼は否応もなくそのような立場に祭り上げられ「この世すべての悪」を担わされた一廃人として永遠に続く苦痛と挫折に満ちた生を圧し附けられた世界の犠牲者である。

そのような出自を持つ人類への復讐者=アヴェンジャーが、衛宮士郎としての日常を無限に繰り返して生きることで、哀しい過去に囚われ不確定な未来へ踏み出すことに強固な逡巡を覚えるバセットの背中を押し、未来と過去に別れて走り出すという結末は感動的なフィナーレとなっている。

出発点においては相似た魂を持つ者同士であるバセットとアヴェンジャーだが、衛宮士郎が衛宮士郎であるが故に、アヴェンジャーは己の出自に纏わる不条理を肯定的に昇華し得るわけで、これもまた一種理詰めの納得である。

個人としてのすべての可能性を奪われすべての悪の汚名を着せられ唯一人の犠牲として世界の前に供されたアヴェンジャー=アンリ・マユだが、それは実は衛宮士郎とて同様である。衛宮士郎には個人としての生の可能性をすべて抛った「正義の味方」としての生き方しか残されてはいないのだし、抽象的な次元においてはアヴェンジャーと何ら変わりのない世界の前に捧げられた犠牲である。

その士郎が苛酷な聖杯戦争を経た後に束の間得られた幸福としての四日間が無限に繰り返され、それを衛宮士郎として生きることで、アヴェンジャーもまた世界が人に許した優しい可能性を識ることが許されるのであり、自身がどのようなものの為に犠牲とされたのかを識り得るのであり、それによってアヴェンジャーはアヴェンジャーではなくなるのである。

その彼が停滞した現在の中に閉じこもるヒロインを救済するということは、彼もまた一個の正義の味方として他者に救済をもたらし得る存在となるということであり、そこに本編でも語られた美しい理想の継承というテーマのエコーがある。

元々この枠物語のロジックは破綻していて、プレイヤー視点のメタ的次元と劇中人物視点の劇中事実の次元の観点を綯い交ぜにした一種のインチキではあるのだが、媒体固有の強みを最大限に活かした物語であると言えるだろう。何よりビジュアルノヴェルという形式のゲームでなければ、「四日間の繰り返し」という「比喩」を実地に読み手が経験するという非常識な仕掛けは不可能なのだから、龍騎がクロスメディアで仕掛けた多義的展開やインタラクティブ性のコンセプトを、本歌であるゲームの世界で徹底的に追究してみせたという面白みがある。

まあ、このゲームを単純に龍騎との比較のみで語るのも語弊があるだろうし、たとえばこの種の繰り返しの時制の物語という要素と文化祭を数日後に控えた状況設定は、言わずと知れた「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」のエコーもあるだろうし、実際ゲーム中に「劇場版パトレイバー」のセリフのパロディもあるから、ビューティフルドリーマーからインスパイアされた部分もあるだろう。

しかし、物語の本質的なテーマが、龍騎の物語構造に対する批評的語り直しであることは間違いないのではないかと思う。それが白倉の本意ではないにも関わらず、龍騎は結果的に「ヒーロー物語」の枠組みにおいて「ヒーロー」も「物語」も否定してしまったのだが、Fateの二つの物語は龍騎が否定したものを同じ物語構造を用いて夫々に肯定する試みと視ることが出来るだろう。

龍騎において「ヒーロー」が否定されたのは「正義の味方」の不可能性の故であることを過去に視てきたわけだが、Fate本編の物語は、理想と不可能性の狭間で葛藤する主人公を描くことで、そのように葛藤しつつ理想から逃れられずに闘う者こそがヒーローであることを示し、ヒーローという存在を肯定してみせた。

また龍騎の「物語」が解体されたのは、ゲーム的な多義的展開やインタラクティブ性の仕掛けを足掛かりにした無限の可能世界の提示によって、語りの運動それ自体が確定する一義的な意味性を無効化したからだが、hollowの物語はまさにその土俵上に上りながら一義的な意味性を指向する強力な物語を語り果せた。

白倉と同じ問題性の視座に立っても、強力な「ヒーロー物語」は可能なのである。不要なものを求めないことなら誰も批判したりはしないが、必要とするものが得られないことを証明しようとする試みは空しい。

おそらく龍騎がそのような作品として生み出されるに至った動機とは、何故白倉伸一郎という個人が、嘗ては大好きだった「ヒーロー物語」を今は信じなくなったのかを語る背教の告白なのだろう。

龍騎という「ヒーロー物語」否定の実践を踏まえて、白倉は自らの心性に嘘を吐かずに実現可能なヒーロー像を模索する試みとしてファイズを語ったのだし、このゲームの作者はこれまで視てきたような複雑怪奇な構造を持つ二つの物語を語った。そういう流れになるのだろう。

そして、これらの人々がこれほど苦労して「ヒーロー物語」の不可能性を克服する羽目に陥ったのは、虚構的イメージである「正義の味方」として現実に生きようとする個人を描いた或る物語の影響である、そのようにオレは視ているということである。


●燃え上がる巨塔 —正義の味方の力—

しかし、いつから「正義の味方」であることはそれほど困難な目標になったのか。

たしかに、遥か大昔から大半の巨悪は「正義」の名の下に行われてきたわけだが、戦後民主主義的な文脈で言えば、正義が頽落するのは、それがイデオロギーとなった瞬間である。たとえば右派なら「亜細亜の盟主」とか「八紘一宇」とか言い出した瞬間に正義は頽落するのだし、左派なら「造反有理」とか「革命・反革命」とか言い出した途端に正義は正義でなくなるのである。

何故なら、世界というのは決着するところ個人が視ているものでしかないわけで、個人の次元から国家や体制という全体性の次元に進むなら、個々人の世界の見方を統一する為の規範としてイデオロギーが必要なのだが、世界は在るように在るものでしかないのだから、正しいとか正しくないということはそれほどカッチリ切り分け得るものではないだろう。どんな物差しを何処に置くかで正しさは幾らでも変わり得る。

しかし、イデオロギーというのは意思統一の規範なのだから、物差しとそれを置く位置を客観的に特定する言葉であるということである。それ故に、そのイデオロギーを受け容れているどんな個人にとっても、それは少しだけ自身の個人的な感じ方としての正しさからズレているわけで、そのズレの幅は人によって夫々違う。

たとえば一億人も国民がいる国家なら、それほど大きなマッスの意志を統一して何処からも不満の出ない正しさの規範など在り得ない。民主主義というのは、その全体性の枠組みにおいて、概ね大半の人が納得するような決定を下す為に存在するわけで、絶対的な正しさに依拠したシステムではない。

つまり、それが民主主義である限り、その原理において採用された決定は必ず部分的に正しいし、部分的に間違っているということになる。たとえば本邦においては、敗戦によって屈辱的な印象を蒙った戦前戦中の全体主義のシステムに関する国民的な苦い記憶が、戦勝国から天下りにもたらされた民主主義を歓迎させたわけで、何かを一義的に正しいと決定するシステム一般に対する強固な忌避感情がある。

そのような歴史的経緯から、現時点で人間が採用し得る最も真っ当な正しさとは、部分的に間違ってもいる曖昧且つ不完全なものでしかないという認識があるわけで、それが闘争によって勝ち取られたものではなく天下りにもたらされたものだから、たとえばアメちゃんのように、個人と個人が強烈な自己主張を行って激しい論戦を経た結果、そこで採用された決定には不満があっても合意するという、闘争的な調停の手続としては視られていない。

多くの人々のてんでバラバラな意見を大勢でガラガラポンして、その場の力関係に基づいて夫々の要望をキメラ的に合体した結論を採用するという、欧米的な正面対決の論戦を避けるような独自のプロセスがあるわけである。

その文脈で言えば、ソボクな「ヒーロー物語」が無理なく成立していた時代の感覚においては、ヒーローの正義は「アリ」だったのである。国家や共同体が「正義」を掲げることは、個人の自由な感じ方におけるデリケートな正しさを圧殺する絶対規範となるわけだから胡散臭いけれど、個人が「正義」を訴え実践する分には構わないわけである。

国家や共同体のイデオロギーとしての「正義」は最早信ずるに値しないが、個人の掲げる正義なら、その個人の感じ方に則った自由意志に基づく正しさなのだから、それは戦後民主主義的文脈においてはアリだったのである。

それはつまり、多くの人々が意思統一する規範としての正義は実在しないが、正義そのもののイデアはこの世に存在するのだし、それは個人の自由意志に基づく曖昧な感じ方の範疇においてしか掴み得ないのだということがソボクに信じられていたわけである。

或る種、そのようなイデアへの信頼、個人の自由意志や清潔な倫理観への信頼というのは、たとえばブギーポップの霧間凪にも視られる、伝統的な「正義の味方」観であり、同シリーズでは「正義の味方」の自己目的化という方向性は視られるが、正義の味方を懐疑する動機は視られない。

元々「正義の味方である私立探偵」という洋画的なキャラクター観念を、私立探偵と正義の味方という二つの部分にバラし、「正義の味方を夢みる私立探偵」という人物を想定して、唯の私立探偵が正義の味方に成るプロセスを語った物語を契機に、「正義の味方である私立探偵」という観念を支えている「正義の味方のヒーローを主人公にした物語」という構造を三人の人物に分解した、という話はすでに語った。

それ故に霧間凪が「正義の味方」であることを、読者は疎か劇中人物の誰一人として疑うことはないのだし、そのような者として霧間凪は描かれているわけだから、ここにその虚構存在の物語における実在を懐疑する動機はない。

翻って、白倉作品の流れを視てみても、アギトの津上翔一の人物造形に正義の味方を懐疑する動機があるかと問われれば、「ない」と答えざるを得ないだろう。以前失はれた週末においてもそのような話をしたが、津上翔一という人物像は、白倉と井上のコンビが信じられる形に語り直した五代雄介なのであり、文芸的なタームとしてのアンチヒーローである。

では、アギトと龍騎の間に何があったのかと言えば、あんまりベタなので信じられないことだが、二〇〇一年に起こった九・一一である。

白倉は二〇〇四年六月二〇日刊の自著「ヒーローと正義」でもこの事件やイラク戦争に触れているが、その開戦が二〇〇三年三月一九日だから、この著書の執筆時のリアルタイムで進行中の事件だったと考えて好いだろう。

民間航空機をハイジャックして、偶々乗り合わせた多くの人々を道連れに世界貿易センタービルやペンタゴンに激突して膨大な死傷者を出したのは、「正義」を標榜する聖戦の戦士であったわけである。この「正義の闘い」に対して当事国の元首は「これはもう戦争だ」「現代の十字軍を送るしかない」と世界を煽り立て、キリスト教的正義を強調して中世の暗黒時代に逆戻りした血腥い戦争に踏み込んだわけである。

おそらくここまで凄まじいテロ行為が行われなかったら、アルカイーダは一方的に非難される立場ではなかっただろう。元々同組織はアメリカのアフガン政策の一環として育成されたゲリラ組織という説もあるが、アメリカの軍事的な中東政策に対する反撥を動機とする組織であり、要するにアメリカの敵である。

アメリカが中東で行ってきたことが一方的に正しいわけではない以上、それへの反撥を動機としてテロで対抗することには彼らなりの正義があるわけである。圧倒的な軍事力を持つ相手には低緊張度戦争で有効に対抗可能だというのが冷戦崩壊後の世界のシステムなのだから、アメリカが弱小勢力を強大な軍事力で圧迫する限り、テロを行う側にも彼ら側の正義は存在するのである。

無論、これはテロ行為一般を擁護しているわけでも何でもないが、その種の組織の本質においては、たとえば国家に匹敵する犯罪的私兵集団のそれとは違って、彼らなりの正義に則って暴力を行っているわけである。たしかに多くの人命を奪うテロ行為は許し難い悪である。しかしそれなら強大な軍事力を擁する大国のエゴに基づく軍事行動に、何を以て対抗することが出来るのか、そういうデリケートな問題があるわけである。

中東問題の難しさの一つとは、血で血を洗う闘争がリアルタイムで継続しており、中東世界の中では特定の共同体同士の間で忘れ難い血の恩讐の積み重ねがあるということもあるだろう。たとえば兄弟喧嘩を仲裁するように、何処と何処の闘争においてどちらが悪いのかを判断すればそれで済むということではない。何処の共同体も他の共同体に対して決して水に流せない血を流して闘争しているのであり、そこにアメリカだのソ連だのの大国が自国のエゴで介入して複雑怪奇な歴史を形成している。

九・一一の非道を非難するなら、クリントン政権による巡航ミサイル攻撃は非難されないのかという話になるし、アメリカが自国の都合で一方的に肩入れする国家群が身綺麗なことしかしていないのかという話にもなる。そもそもキリスト者の軍隊が何でムスリムの聖地に常駐しているのかという話にもなるし、それを招来した湾岸戦争でアメリカは何も悪いことをしていないのかという話にもなる。

それが過去の介入戦争に根を持つ以上、九・一一が「戦争だ」というのは比喩としてまさに正しいだろう。建国以来大半の年月、独立戦争や南北戦争以外は外国に派遣された兵卒の犠牲としてしか戦争を識らなかったアメリカが、初めて国内に犠牲を出した事件だというだけで、その派遣された軍隊は派遣先の国々で同じようなことを繰り返してきたわけである。

ならば、自らが招来したテロによる犠牲は已むを得ないのかと言えば、そんなことは決してないわけで、アメリカ国内における二九七三名の犠牲者が決して忘れられてはならないのであれば、中東の国々における墓碑銘もない無数の犠牲者もまた忘れられてはならないということである。

とまれ、政治の話はこれくらいにすると、白倉伸一郎という個人が九・一一を目の当たりにして衝撃を受けたというのは紛れもなく事実だろう。元々気の優しい人間なのだから、あれだけ血腥い大規模な災厄を目撃して平然と受け流せるはずがない。

当時の彼が中東情勢に明るかったか何うかは識らないが、とくに詳しいというわけでもなかったというのが妥当なところだろうと思う。発生当初は多大な人命の犠牲をもたらした「悪」に対する義憤を覚えていたかもしれないが、その「悪」が「正義」を掲げるテロ集団ということで、戦後民主主義的な感覚で大義としての欺瞞的「正義」に対する反撥を覚えたことだろう。

さらに時を移さず同年一〇月には対テロ戦争の一環としてアフガニスタン空爆から侵攻に至り、「無限の正義作戦」なるものが発動した。弱小勢力のテロの正義に対して強大な大国の世界秩序維持の正義が看板に掲げられたわけで、自国の敵に過ぎない国を「悪の枢軸」とトクサツ紛いに悪し様に名指す図々しい大国のエゴが剥き出しにされた。それ以降現在に至るまで、世界はこの小世界内の区々たる国家紛争とそれに介入する大国の国家エゴに端を発した「正義と正義の闘争」に巻き込まれていく。

しかし、そんな闘争で死んでいった人々をソボクに悼む視点で言えば、そんな正義の闘争こそが無辜の人々の血を流す巨大な悪としか見えない。この国家レベルで争われている欺瞞的な正義に対して、個人としてのヒーローに何が為し得るのか。

普通に考えれば、たとえば仮面ライダーがこの闘争に終結をもたらすことが出来るかと言えば、そんなわけはない

白倉をはじめとするソボクな特ヲタ(オレもその一人であるわけだが)が無前提に受け容れている虚構的イメージであるスーパーヒーローは、目の前で崩落したビルに圧し潰されて死んでいく人々という圧倒的現実に対して剰りに無力である。

たとえば特ヲタは、現実に許し難い暴力が行われた際に、「こんな時にライダーが、ウルトラマンがいてくれたら」と自嘲気味に考える。しかし、九・一一の衝撃が教えたのは、たとえライダーやウルトラマンが実在しても、激突する旅客機や崩落炎上するビルの中で圧し潰され炎に灼かれて酷たらしく死んで行く人々を救うことなど出来ないのだし、アメリカと中東諸国、中東国家間の血で血を洗う闘争を止めることなど決して出来ないという現実である。

どのようにシミュレーションしても、万能の魔法でも使わない限り、このような巨大な暴力の連鎖と血の犠牲を世界から一掃することなど、スーパーヒーローには不可能なのである。

このような危機を救うのは、たとえばランボーやジョン・マクレーンなどの不死身のアクションヒーローだが、ランボーシリーズにはアメリカの介入戦争の傷跡を個人の正義が回復するというコンセプトの物語で、湾岸戦争開戦と同年の「ダイ・ハード」では、金目当てのテロ組織を個人のヒーローが潰滅するというお伽噺である。ダイ・ハードのヒット以降類似作品が多数製作されたが、現実的な政治への言及を避けるという意味でそれらの敵組織はすべて金目当ての犯罪集団と意味附けられることになってしまった。

それは当然の作劇的手当てで、相手側にも「正義」があるなんて話を始めたら、悪の組織を一個のヒーローが打倒する爽快なアクション映画など成立しない。しかし、堅苦しいことを言えば、テロ組織側の「正義」を一切語らず犯罪的な悪と決め附ける構造の物語は、アメリカ国民の復仇感情に対する迎合でもあるわけで、マクレーンに類似のヒーローはテロ組織という存在の「本質」に対抗し解決に導く力は一切ないわけである。

アメリカ人は史上ほぼ初めて正面から他国の平手打ちを喰らったわけで、殴られたら殴り返せという心理機序に対応するのがこの種のアクション映画なのだから、それでは本質的な課題は何一つ解決しない。アメリカが強いのは、今更繰り返すまでもなく当たり前の話で、だからこそテロ戦争が起こるのである。

スーパーヒーローは、強大な武力で侵攻してくる悪に対してより強大な武力で迎撃する存在である。それ故に世界に溢れる悲惨な暴力に対して、何ら力を持ち得ない。

おそらく白倉伸一郎は、この衝撃に打ちのめされたことで、赫奕たる勝利を得て世界を救う個人としてのヒーローを描くことが出来なくなってしまったのだろう。それはつまり、九・一一で喪われた二九七三名もの夥しい人命をちっぽけな子供騙しの嘘事で救済することが出来るのか、という辛い自問と常に裏腹の心理なのだろう。

以前に何度も「ヒーローと正義」で語られた白倉の思想が古臭い戦後民主主義的な臭みを帯びていると揶揄したことがあるが、白倉の視点において「ヒーローの正義」とは個人の曖昧な感じ方にしか在り得ないことは大前提であり、その意味でたしかに戦後民主主義がもたらした正義観を堅持しているわけである。しかし、九・一一を通過することで、そんな白倉が唯一信じられる個人の正義の無力さが圧倒的な不可能性として立ちはだかってくるわけである。

アギトの津上翔一は、神にも均しい超越存在を跳び蹴り一発で蹴り殺して世界を救済したわけだが、龍騎の時点では、もうそんな暢気な嘘事を語る余裕がなくなっていたのではないかと思う。得手勝手な理由を並べて殺し合う一三騎のライダーに対して、個人の感じ方に基づく正義感に燃える主人公が決して闘争を制し得ず、無意味に犬死にしてしまうのは、当時の白倉の胸にあった「燃えながら崩壊する巨大なビル」という心象風景の故ではないかと思う。

正義の味方は暴力の連鎖に対して何かを為し得るのか、それは予想以上に大きな龍騎の裏テーマだったわけである。そして、この作品に仮託されているのは、当時の白倉が強烈に感じていた、圧倒的な現実に対する挫折感の反映だろう。

それ故に、Fateの主人公が大量死の経験をその背景に持っているというのは辻褄が合うわけで、つまり衛宮士郎は正義の味方には九・一一で喪われた二九七三名もの人命を救う力があるのだしそうすべき義務があると頑なに信じ込んでいるわけである。

白倉伸一郎が炎上する巨大な二つの搭の映像に打ちのめされ、ヒーローの敗北を描く物語を語ることがこの現在において誠実なことだと感じたとすれば、その炎上する搭の中から生還した少年が、身も心も痍附きながらヒーローとなって一人の犠牲もない世界の救済を夢みることが人間の力と希望だと感じたのが、この作品の作者だろう。

龍騎という敗北の物語を通過することで、Fateの作者がこのような提言を行ったとするなら、当の白倉伸一郎は何を語ったのか。オレの個人的な感じ方では、ファイズというのは剰り十分なヒーロー物語ではない。

ヒーローは世界全体を救済する存在では在り得ないという認識は動かないし、白倉作品を語る場面で欠かせない「ライブ感」の部分で単純な構造的分析を許さないわけだが、個人としてのヒーローは個人としての関係性の埒内で利他の闘いを闘うのみであり、それがやがて世界を動かしていくのだろう、という消極的な希望は語られていたと思う。

そういう意味では、ファイズの世界観が目の前数メートルの矮小な視界でしか語られていないことや、徹底して個人の感情を行動原理として物語が推移することも、更めてポジティブな意味附けを要するだろう。そういう物語としてしかスーパーヒーローが世界を救う物語を誠意を持って描けなかったということである。

それ故に、ファイズを通過した後に白倉が「もうライダーを続投するのはしんどい」と言ったのは本音だろう。毎年毎年衝撃を受けたりそれに応えたりするのはかなりしんどい作業であることは間違いない。

そんな疲弊した白倉伸一郎が、Sh15uyaやセラムンを通過して、響鬼騒動を経た後にライダーに復帰して、カブト、電王と手掛けてきた経緯をさらに後附けることも興味深い試みだし、たとえば衛宮士郎も乾巧も純粋な利他心を抱えた存在であるが故に中身が空っぽで空虚な人間と位置附けられていたわけだが、俺様ヒーローのカブトや子供ライダーの電王など、ヒーローの強烈な利己性を強調した物語をその文脈で読み解くことも面白いだろう。しかし、それはすでにFateという他ジャンルの作品を切り口に白倉イズムを語ることから剰りに遠く離れるので、まあひとまず今回はこの辺で。

つか、オレもいい加減疲れたよ(笑)

|

« 人の口に入るもの | トップページ | HDDレコその後 »

コメント

これだけ「エロ」だの「エッチ」だのと言った「特定ワード」が頻出するエントリーを書いたお陰で、アップした直後から怒濤のようなエロTBが続々と送り込まれていて、現在削除に大わらわである(木亥火暴!!)。まあ覚悟の上とは言え、ちょっとだけ後悔していることも事実である(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2007年11月17日 (土曜日) 午後 05時16分

お疲れ様でした。黒猫亭さんのエントリには馴れているつもりの私でも、次の小見出しが出てきて「まだあんのかよ!」と3回くらい突っ込みました。どうもご苦労様です(笑。

Fateに関してはずいぶん前から某所特板で龍騎がパクリであるというスレが立っているのを見ていたので(時系列であり得ないだろうという知識くらいはありましたが)どういうふうに似ているのかくらいの知識はありましたが、なるほどこういうはなしだったのですね。
というかどんなレアタイトルが来るのかとドキドキしていたので、思ったより有名作品でやや拍子抜けしました。しかし「これは買えませんぜ、旦那」と言いたくなるような赤面もののタイトルがくればひとつのお題と流したものの、これだけの有名作品の内容がこういうものだと知ってしまっては、PS2と一緒に買いにいくべーかと思ってしまいますよ(笑。

しかし9・11以降の正義の有り様を模索する伸ちゃんもそれはそれで萌えるんですが、何千人死んだって世界が終わるわけじゃないんだから目先のことから片付ければ良いのに、と思ってしまうのは、私が杜撰な女だからでしょうか……w。

投稿: quon | 2007年11月17日 (土曜日) 午後 07時07分

>quonさん

毎度長いものをご精読いただきまして、大変ありがとうございます。オレも最初は龍騎とFateとブギーポップの三題話で一本に纏めてもうちょっと簡単に納めるつもりではあったんですが(笑)、それぞれ突っ込んで語らないとただのコジツケみたいに見えるよなぁと思ったのが運の尽きで、最終的にこんなに長いモノになりました。こういうのって、手が掛かる割には殆ど誰も読まないから報われないんですよねぇ(木亥火暴!!)。

まあ、たしかに有名な作品だし龍騎との影響関係も取り沙汰されていますから、御存じだろうとは思っていたんですが、やっぱりエロゲはエロゲでエロ描写なんかは割と即物的に下品なんで、女性に勧めるのはどうかという躊躇いがありまして、結果的に気を持たせるような言い方になってしまいました(笑)。

オレがプレイしたのはウィンドウズ版なんですが、聞くところによるとPS2版のほうはフルボイスなので、テクスト版よりプレイに時間がかかるらしいです。また、ボイス附きというのはどうしても声優の好き嫌いがありますから難しいところですが、ウィキを視ると年寄りキャラのキャスティングは割と豪華ですね。アニメ版と基本的に同一の配役みたいですが、オレの感覚では遠坂凛役の声優がちょっと、今にも「あんたバカァ?」と言いそうなくらい剰りにもアカラサマに「アニメのツンデレ」っぽい声質なのが抵抗があったくらいで、他はそんなに気になりませんでした。

それから、PS2版はコンシューマ向けということでエロシーンがなくなったそうですから、こっちなら女性にも奨めやすいですね。ただ、尼で感想を読むと、やっぱりエッチシーンがなくなったことで恋愛関係の情感が繋がらなくなって、不自然な印象は出ているようです。まあ、ウィンドウズ版をプレイした人間から視れば、ということなのかもしれませんが、本文中で語ったように、アニメ版のほうでも繋がっていない印象がありましたから、善し悪しの部分ですね。もしPS2版をプレイされるようでしたら、何かそれらしい不自然なシーンがあったら、それはエッチの「婉曲表現」だと解釈していただければよろしいかと(木亥火暴!!)。

とりあえず、五分五分で乗り気ならプレイしてみることをお薦めしますよ、白倉イズムとの関係を抜きに視ても面白いお話ですから。ヒロインとの恋愛関係を楽しむ部分では女性は蚊帳の外って感じでしょうが、まあ、格好良いひねこびた兄ちゃんとかもそれなりに出て来ますし、quonさんだとワガママな金ぴか王辺りが香ばしくねじくれていてお好みに合うんじゃないでしょうか(笑)。

>>何千人死んだって世界が終わるわけじゃないんだから目先のことから片付ければ良いのに

現実にはそれしかないんですが、多分ファイズというのはそういうことを不承不承語った物語なんでしょうね。普通は年喰ったら「身近なところからコツコツと」とか、何事もいっぺんに良くなるわけねーよなとか思うんですが、その辺で性急に苛立ってしまう辺りが、白倉伸一郎特有の「気の若さ」なんじゃないでしょうか。

投稿: 黒猫亭 | 2007年11月17日 (土曜日) 午後 07時40分

今頃昔の記事にコッソリレスを書いてみたり。
とむざう氏の長文には慣れているのでさくさく通読。Fate/stay nightについて普通にググって見る。私はゲーマーではないのであらすじを把握してよしとする…ついでにリンクをいくつか踏んでみて気になるPCゲームタイトルにぶつかる。
「吸血殲鬼 ヴェドゴニア」

ちょっと検索すると…吸血鬼+仮面ライダー?なんじゃそら。しかし吸血鬼物は内容を確かめることにしているので更に調べる

あらすじやレビューを読んでこれはストライクの予感。しかし、自分はマカーなので取りあえずノベライズを購入。

いわゆる「虚淵節」の存在を知る。同作者の他ゲームのノベライズも購入して完読。「鬼哭街」のサントラCDを買ったのは擬武侠小説として良くできていたから。

「鬼哭街」ドラマCDを購入。井上ボイスと家弓ボイスをいたく気に入る。良く見たら「鬼哭街」ってデュアルCD-ROMだからマカーでも読めるじゃないですかw

一応○ロゲーなのが気になったが「鬼哭街」ソフト購入。スーパーバッドエンドにほくそ笑む。真・マッドサイエンティストな謝博士が良いw
ついでにメーカーサイトから「吸血殲鬼ヴェドゴニア 鬼哭街パーフェクトグラフィックス」なんかも買ってみたり。

Mac OS X Leopard+WinXPにして更にPCソフトを買うかどうか思案中←今ココ

将来なんかあってウチの本棚の中身を取りざたされたら、「黒猫亭とむざうにそそのかされました」って言うことにしようw
なお、奈須きのこ氏よりは虚淵センセの方が日本語としては普通だと思うw

投稿: shof | 2008年4月 8日 (火曜日) 午前 11時06分

>shofさん

われわれは何処から来て何処へ行くのか、そんなことは誰にもわかりませんが、ときにあなたは何処へ行こうとしているのですか?(木亥火暴!!)

いや、無鉄砲で凝り性なshofさんのことですから、大いに在り得ることではありましたが、遂にエロゲに進出してしまいましたか。オレもFate/Zero からの流れで虚淵玄やニトロプラスの存在は識っておりましたから、shofさんもいつかは出会うのではないかと予想しないでもなかったのですが、意外と早かったな(笑)。

公式サイトで作品紹介を一通り見ていたので、鬼哭街辺りは中華迷にアピールするのではないかと思っていましたが、ウィキで詳しく調べてみると、ショウブラ映画や古龍原作物の雰囲気にジョン・ウーを足して割らなかったようなテイストですから、そちらの趣味にピッタリですね。

まあ、如何に「萌えより燃え」のニトロプラス作品とは言え、エロゲはエロゲですからご婦人にはなおのこと敷居が高かったと思いますが、オレが本文で書いたように、周辺から掻い撫でて行くやり方だと、結局最終的には本編をプレイすることになった挙げ句さらなるリソースを費やす羽目になるのですよ(笑)。

まあ、オレ的には「shofさんがエロゲにハマっているとき、私はゲーマーではなかったので、玉子丼を食べて寝た」とでも言っておきましょうか。

というわけで、流石にFateを味がしなくなるまでプレイしまくった後ですので、ニトロプラスまで手を出す覇気はないと思ったのですが、引越後に荷解きして大粛清を生き延びたフィギュアを書斎にディスプレイしていたら、こんなモンが出てきました。

http://www.goodsmile.info/products/others/solidtheater/solid0704-01.html

エロゲの呪いは深く静かに浸透していたようです。勿論、例によってこれを買った当時は、ニトロプラスの存在も識らなければ原作ゲームの情報などカケラも識らなかったわけですが(木亥火暴!!)。

>>なお、奈須きのこ氏よりは虚淵センセの方が日本語としては普通だと思うw

まあ、アレよりひどいのはあんまり想像が附きませんからねぇ(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月10日 (木曜日) 午前 02時21分

どこへ行くかはさておき、私は一度興味を持つと周辺情報まで残らず潰さないと気がすまないので、ソフトを先に買ったとしても他の物も結局買っていた公算が大です。

「鬼哭街」については古龍風味もあれども、マトモにショウブラの、しかも張徹監督の残酷ラインを踏襲してますね。イメージソースとしては「ヴェンジェンス 報仇」の若き復讐鬼・姜大衛に呉宇森の徴である「外套(ロングコートと読めらしいw)」を着せた感じです。張徹監督のお約束、斬り刻まれて血塗れになる主人公もきっちり描写されてますし。しかし、動かない絵で見せるノベルソフトの癖に、ハイテクビルを強襲する大戦闘シーンに一番力が入っているのはどういうことかと。決してメジャー作品じゃないので、アニメ化は無理だろうけど、動く絵で見たかったとw

一枚絵のCGで最も気に入ったのが、右手に倭刀、左手に生首を持ち、ビル風に外套の裾を靡かせながら悪魔のように嗤う主人公、ってなもんです。どうです、靡くコートマニアのとむざうさんの好みですよw
Fateもそうかもしれませんが、エロは一応話の要素としても必要だけど、エロの口実に話があるんじゃなくて、こんな話を18禁ソフトとして出すためにエロがあるという捩れが変ですな。

…と、何故「吸血殲鬼」にピッと来たかというと、今年の仮面ライダーが類似モチーフだからですね(と無理やり話を繋げてみる)。龍騎とFateの関係ほど明らか(なのか本当にw)ではなくても、クウガの影響下に製作された「吸血殲鬼 ヴェドゴニア」が「仮面ライダーキバ」にも若干エコーしていると想像するのも、また楽しです。

ヴェドゴニアにおける「主人公が徐々に吸血鬼化していく」という設定は、実は吸血鬼モノとしては割合と珍しいです。で、これはもうクウガにおける「戦うだけの生体兵器」に瓜双子、まあ、そのままと断言してもいいでしょうw 人間に戻りたいばかりに非日常的な戦闘に踏み込んだ主人公が、徐々に違う目的を得ていくあたりはヒーロー物語の王道で、更に最後の選択肢に至るまで、昨今の吸血鬼モノを残らず踏まえたマニアックさがぐっと来ます。

それに比べると、ねえw

いや無理なのは分かるんですよ。朝から放映する子供向きのテレビ番組では限界が違いすぎるのはw しかしっ…主人公はダンピール、人間でもなく吸血鬼でもなく、双方の生存を賭けた争いに巻き込まれる運命の持ち主で、おまけに人狼や半魚人、フランケンシュタインの怪物を従えているとなれば、ちょっと期待してもバチはあたらないでしょうに。

井上敏樹の四文字で全てを諦めなければならないなんてw
クウガのような到達点は、絶対に無理と最初から分かっているなんてwと言ったら失礼すぎますかね?ちなみに、個人的には「シャンゼリオン」は大好きなんですよ。手を尽くしてDVDボックスも買いましたし。

…と言う訳で、「あったかもしれない響鬼30話以降」こと、「鹿男あをによし」のお話もお待ちしておりますw
(追伸)塵骸魔京かあ…吸血鬼出てくるしなあ…

投稿: shof | 2008年4月10日 (木曜日) 午後 12時36分

>shofさん

「物言えばプチブル寒し」と謂う通り、お金持ちのヒトが道楽にハマると半端なくのめり込むものですね(笑)。オレは金遣いに締まりがない割には貧乏性が染みついていますので、コンプリ癖というのはあんまりないですね。かなり入れ込んでいても何処かでコンプリを諦めてしまうところがありますから、何処までを必要にして十分と見極めるかという話になります。

まあそういう貧乏人の情報発信ですから、このブログで書いたこともすべての情報に網羅的に当たった上での考察ではないという限定が附きます。可能な限り、という不確定性の部分はあるんだろうと思います。

>>「鬼哭街」については古龍風味もあれども、マトモにショウブラの、しかも張徹監督の残酷ラインを踏襲してますね。

ウィキにあった「手には一刀、斃すは五人・・・・・・」というコピーを視ると、小李飛刀が五毒と戦うようなイメージを抱いてしまうんですが(笑)。オレはそこまでの中華迷ではないので、チャン・ツェーの映画というのは五毒拳くらいしか観ていないのですが、例の武侠ウィキでいろいろチャン・ツェー作品の解説は読んでいます。

残酷描写ということでは、普通にB級ホラーのゴア描写くらい安くて痛そうな描写が多いそうですねぇ(笑)。ただ一本観た五毒拳もうんざりするくらいしつこく拷問シーンが続いていましたし。仄聞したところ、チャン・ツェー監督はいろいろ変態らしいので多趣味で素晴らしいと思います(木亥火暴!!)。

>>一枚絵のCGで最も気に入ったのが、右手に倭刀、左手に生首を持ち、ビル風に外套の裾を靡かせながら悪魔のように嗤う主人公、ってなもんです。どうです、靡くコートマニアのとむざうさんの好みですよw

なんかそれだけ聞くと、オレの脳裏にはジョン・ウーとかチョウ・ユンファというよりもクリストファー・ランバートの姿が浮かぶのですが(木亥火暴!!)。あれもクライマックスが活劇というより怪獣映画になっていて大変味わい深い作品でした。何にでも出るショーン・コネリーが如何にもやっつけ臭く出演していて、そのくせ律儀に続編にも出演している辺りがナイスです。

コートが靡く吸血鬼映画と謂えば、ヴァン・ヘルシングとかブレイド辺りもカコイイですねぇ。ああいうコートが何処かに売っていないものかと血眼になって探したものですが、まだまだ温和しいものしか入手していないので、コートマニアの探求に終わりはありません(笑)。ちなみにオレが次に狙っているのは、古式ゆかしいインヴァネスコートなのですが、これも着て行く先に困りそうでゾクゾクします(笑)。

しかし、世の中は広いもので、こちらへの引っ越し前後の話になりますが、所もあろうに東上線の車中でインヴァネスコートを着ている人を見かけたことがあります。その時オレは荷造り作業の最中に所用があって旧居から新居へ移動中で、「作業着屋の安売りで買った黒のツナギにドカジャン」という見窄らしい身なりだったので、何がなし負けた気分になってしまいました。

>>いや無理なのは分かるんですよ。朝から放映する子供向きのテレビ番組では限界が違いすぎるのはw

ああ、アレのことですか(笑)。

アレはまあ、題材と設定からshofさんが期待されるのはわかるんですが、決して何かを望んではいけません(笑)。オレなどはあの番組には小池里奈のフトモモしか期待していませんが(笑)、現代編のヒロインはどうやらフトモモ担当という申し合わせらしいのでちょっとだけ儲けたような気分です。まあ、どう見ても中の人の柄的にヒロインの器ではないし、何処からどう見てもトップモデルに見えないのが難ですが、井上脚本のヒロイン描写にリアリティや品性を求めても無意味ですし(笑)。

さらに謂うなら、一応オレは小池里奈目当てであの番組を観ているわけですが、近年のパターンからして、いきなり小池里奈が夏場以降何の理由もなくいなくなったとしても驚きはしませんし、まあその時は多分視聴をリタイアするんじゃないかという気がしますね(笑)。

たとえオレ一人くらい観なくなったとしても、どうという意味もないことで、多分今年のライダーは大外しはしないんじゃないですかね。歴代平成ライダーの美味しいとこ取りに加えてライダーのデザインやギミックもカコイイので、もしも数字が低くても、ビジネスとしてはそんなに外さないんじゃないかと思いますよ。まあ、井上敏樹はジャリ番で喰ってる家系ですから、子供の関心を惹くノウハウは自家薬籠中のものでしょう。

道具立てだけ視れば牙狼みたいに突き抜けたフィジカルなアクションに出来そうだから多くを望んでしまいそうですけど、まあ今年は商売として外さないことが最大の眼目なんですし、井上敏樹がメインライターという時点ですでに本当に大人の視聴者なんて相手にしていないというところでしょう。

武部Pにも井上敏樹にも何の思い入れもない人間からすれば、まあライダー枠は他人事の気分ですね。一方の戦隊も、「戴いたギャラ以上の仕事は鐚一文しない」武上純希の武上純希たる所以が炸裂している大変素晴らしい番組で、ヒロインが可愛いという以外はどうでも好いですから、今年のSHTはスルーの方向「だぜ」(笑)。

>>…と言う訳で、「あったかもしれない響鬼30話以降」こと、「鹿男あをによし」のお話もお待ちしておりますw

時期的にもう書き時を逸してしまいましたので、何かの折があれば間接的に触れるという感じですかね。あのドラマには結構楽しませて貰いましたし、機会があれば是非語らせて戴きたいとは思っています。

>>(追伸)塵骸魔京かあ…吸血鬼出てくるしなあ…

それはもう「一本道」だということですね(笑)。いつになるかわかりませんが、もしもプレイするようなことがあれば、何故あのフィギュアが尻をめくっているポーズなのか教えて戴けると大変助かります(笑)。まあ一応エロゲなんで、ヒロインの一人がエロいポーズで造形されていても不思議じゃないんですが、月型のフィギュアはそういう「如何にもエロゲ」な造形物が一切なかったものですから。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月11日 (金曜日) 午後 07時14分

休日出勤中につき絶賛現実逃避モードの今日この頃、お元気ですか?w
せうゆについては言いたいことがあるんですが、既に美味しいレスもついていると思うんであえてこっちに。
(BGM:平成仮面ライダー Song Best/本部長が出勤してきてるんで歌えないのがツライw)

>>チャン・ツェー監督はいろいろ変態らしいので多趣味で素晴らしいと思います(木亥火暴!!)。
いえいえ、断袖なだけですよ(言い過ぎか)。あと、脱ぎ担当と決して衣装を脱がせない俳優を決めていたと言うのは事実ですが。

>>クリストファー・ランバート
そこまで戻るかw なお、最近のコートの靡き具合で言うと、「アンダーワールド」におけるケイト・ベッキンセールの登場シーンが秀逸でした。街を睥睨する女吸血鬼にして人狼ハンターのセリーンが、黒のレザースーツの上にロングコートという。監督の妄想の具現化と賞賛されておりましたね。
あ、「ハイランダー」はリメイクされるらしいっすよ。

>>古式ゆかしいインヴァネスコート
仕立てるしかないと思われ。和装用の「二重回し」は売ってなくもないけれど。

ああ、今年の戦隊は私はリタイアです。あの黒が駄目でw マシなのは青くらいかという近年にないハズレで、この感触は丁度「ガオ」と一緒ですな。おお、武上だやっぱり。今年は敵側が着ぐるみさんなのでどうにもならんですし。
去年は敵役が良かったし、着ぐるみとはいえサモ・ハンとジャッキーとジェットとドニーとユン・ピョウとついでにミシェル姐さんまで来たという「遊び心」は良かったんですけどねw ちなみに、戦隊側の5人にはぜんぜん燃えませんでした、はい。

さて、仕事しよ。
「Break the Chain」はほぼマスター。

投稿: shof | 2008年4月12日 (土曜日) 午後 06時05分

>shofさん

>>休日出勤中につき絶賛現実逃避モードの今日この頃、お元気ですか?w

オレはそこそこ元気ですが、そちらこそ大丈夫なんですか?(笑)

ちなみに当ブログでも先日可愛い生き物を仕込んだのですが、これがマウスオーバーするだけでにゃーにゃー媚びを売る構ってちゃんなので、会社で閲覧する場合は消音をお奨め致しますにゃ(笑)。

>>いえいえ、断袖なだけですよ(言い過ぎか)。

そうですか、昨今のポリティカルコレクトネスにおいては、単なる同性愛を変態扱いしてはいけなかったのですね、勉強になります(笑)。そもそも、相手の同意さえあれば犯罪を構成することなく欲望を満たすことが出来る時点で、同性愛なんて性的嗜好はロリペドに比べて格段に恵まれていますよね(笑)。まあ、中国ではどういう扱いになっているのかは存じませんが、未成年に手を出して国外逃亡した某映画監督に比べれば、男が好きなくらいはどうということでもないでしょう。

>>あ、「ハイランダー」はリメイクされるらしいっすよ。

そうなんですか、二本の続編とTVシリーズ化だけでは飽きたらずにさらにリメイクするというのは、よっぽど美味しいネタだったのですね。まあ、オレ的には「ロングコートでチャンバラ」のイメージ的な原点ではありますが、オープニングシーンがプロレス会場という非常に素晴らしい映画でもありますね(笑)。

>>仕立てるしかないと思われ。

それがあるんでございますのよ、奥様(木亥火暴!!)。

http://store.shopping.yahoo.co.jp/samue/1155.html

作務衣の専門店がつくっている辺り、二重回しの延長上ではありますが、角袖とかとんびではありませんね。テーラーメイドだとこういうところもありまして、厳密に言うとやはりインヴァネスコートは仕立てるしかないようですね。

http://www.csskk.co.jp/tailor_sankei/05_page1.html

ウィキの記述で視ると、「インヴァネス」と「二重回し」と「とんび」の間の定義には若干混乱があるようですが、似たような形で三タイプのものがあるということは間違いないようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88

オレの認識では、「インヴァネス」と「二重回し」はおそらく同一のもので、袖の有無と名称とは一対一の対応関係にはないと視ています。つまり、「インヴァネス」と「二重回し」は元々同じものを指す言葉で、その同じ形のコートに袖のあるものとないものがあるという階層構造ではないかという認識です。というのは、仮に袖の附いているものが本来のインヴァネスコートだとして、日本に渡来した後に和装用に袖が取り払われたという想定はちょっと考えにくいと思えるからです。

まあさしたる根拠でもないんですが、この種の構造の外套が渡来した場合、和装の上に羽織るのに袖が邪魔だからと謂って袖を省くような改変が在り得るだろうか、と考えた場合、ちょっと不自然ではないかと思うからです。普通なら、和装の上に洋装の外套を羽織るということ自体考え付かないと思いますので、元々袖がなくて和服の袖が出せるタイプのものが存在して、それ故に和装の上に羽織るという折衷式の習慣が根付いたと視たほうが自然なように感じるわけです。

それに比べて「とんび」というのはケープの背部が一体化しているということで簡略化が激しいですし、背部が一体化している以上「二重回し」ではなくなっていますので本邦渡来後の改変になるものでしょうし、「角袖」というのはさらにケープが大きめの袖に変形して、単なるゆったりした和装コートになっていますから、さらに後の改変ではないかと推測しています。

>>ああ、今年の戦隊は私はリタイアです。あの黒が駄目でw

「上から目線のキャラは芝居が巧くなければならん」の法則ですか(笑)。まあ何にせよキャストがハズレではしょうがないですね。オレ的には黄色いヒトがギリOKなので、まあ漫然視聴ですね。ちょっと細くてボリュームに欠けますが、ハイキックとか勿体振ってなくて元気なのがいいです(笑)。戦隊ヒロインはそのくらい割り切ってないと、つまんないですね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月13日 (日曜日) 午前 06時56分

ああところで、先週と今週のキバがバンドネタなのは、小池里奈が出演映画「青空ポンチ」に絡んでドラムの演奏を覚えたからなんだろうなぁ。そうだとすれば、小池里奈オリエンテッドのネタのはずだけど、演奏シーン以外は不思議なほど目立たなかったのが残念である。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月13日 (日曜日) 午前 08時35分

GW明けに当局査察が待ち構えているので連休ナニソレ状態の中、地味にPCゲームに嵌りつつありますw
(今までのあらすじ)
ある日ふと眼にした長文ゲームレビューが全ての始まりだった。ギャルゲーでありながら、ヒロインキャラ萌えには目もくれず、そのヒーロー物語としての構造を解き明かす話の向こう側に陥穽が待っていたのである。

Mac OS X Leopard+WinXPにして更にPCソフトを買うかどうか思案中

電気屋が開いている時間に職場から帰れなくても、物が買えてしまうのが通販の恐ろしさ。と言う訳で無事にBootcampを導入しMacBooKをWinXP機に変換終了。最初に入れたのが「吸血殲鬼」というのはどうよとセルフツッコミ。

とても○ロゲーとは思えぬハードボイルドさに満足。ライターは「俺ライダー」属性と確定。

店頭では買いにくいものも買えてしまう(以下略)
ソフトハウスのデビュー作「ファントム オブ インフェルノ」とクトゥルー物らしい「沙耶の唄」も手元にw

絵柄は兎も角、果てしなくキレる台詞が面白い。信奉者を得る人ってのは違うなあと思う。

昨年「仮面ライダー電王」で如何なく実力を発揮した小林靖子の新作の情報を得る。
『BLASSREITER』
製作はニトロプラスとGONZO。やっこちゃんはメインライターで、シリーズ構成は…虚淵玄。
これ、何かの罠としか思えない←今ココ

深夜枠のtvk製作アニメで、ネタが「悪魔憑き」。
ある時突然人間からそのような異形の者に変貌し、機械(バイクとかですw)と融合できるようになった者達の過酷で凄惨なバトルが…(以下略)
エート、キャラクター見るとバラのお姐さんは出てくるわ、将来を嘱望されていたのにその希望を根こそぎ奪われたバイクライダーが出てくるわ、変身者同士のバトルロワイヤルがあるらしいわ、それ何の「クウガ+アギト+龍騎」というw
ちょっと読んだだけでもう「これは「表」に喧嘩売ってるなあ」と。

どこまで行っても出てくるこんな話、きっと誰かの陰謀ですw

投稿: shof | 2008年5月 2日 (金曜日) 午前 10時51分

>shofさん

ども、御無沙汰しております、ゲームに詳しい友人ですw
ブラスレイターの監督が「板野一郎」ってのは知ってましたが、メインライターやらシリーズ構成がそんな事になってるとは知りませんでしたw

>どこまで行っても出てくるこんな話、きっと誰かの陰謀ですw

陰謀と言うか因果と言うか、まぁ楽しいから良いんですがw
願わくばブラスレイター本編も楽しいと良いなぁ(地方故、未見なものでw)

投稿: うに | 2008年5月 3日 (土曜日) 午前 09時46分

>shofさん

いいですか、落ち着いて、よく聞いてください。実は、今まであなたには黙っていましたが、オレはエロゲの国からエロゲを広めに来た潜入エロゲ工作員だったのです。あなたと識り合ってすでに一〇年以上の長い月日が流れましたが、その間オレは一言も「エロゲ」などとは口にせず、エロゲに対する関心など気振りほども見せず、一人の無邪気な特ヲタのように振る舞ってきました。

しかし、それは隣接ジャンルであるトクサツの世界をエロゲ一色に染め上げてしまう為にエロゲの組織が企んだ、気の遠くなるような長い年月を視野に入れた陰湿な謀略だったのです。本当のオレはトクサツファンでも何でもなくて、トクサツなんかちっとも興味のない生粋のエロゲマニアであり、エロゲの振興に身も心も捧げ血盟を誓った上でトクサツの世界に潜入した血も涙もない秘密工作員だったのです。

どうです、驚きましたか? あなたを欺き続けたオレを蔑みますか?

しかしこんなオレでも、これまで長い間特ヲタを装い続けてトクサツの世界に触れるうちに、冷たく非情なエロゲの世界にはついぞなかったその温かさや純粋な情熱にいつしか快さを覚え、憧れを感じ、心が揺れ動くのを感じました。この素晴らしいトクサツの世界を心から楽しむことが出来たら、こんなオレでも少しは変わることが出来るのかもしれない。

天涯孤独な身の上を組織に拾われ、エロゲを絶対真理と教え込まれて以来、厳しい訓練の日々を当然のものと感じて非情な使命一筋に生きてきた機械人形のようなこのオレにも、人間らしい潤いが少しでも戻ってくるのかもしれない。このまま一生組織から指令がこなければ、せめて一人の人として穏やかに死ぬことが出来るのかもしれない。そんなふうに思ったことがオレにもありました。

しかし、そんな虫の好い話があるはずもありませんでした。或る日突然、忘れかけた頃にもたらされた指令が、オレの甘い夢を粉微塵に打ち砕いたのです。

「エロゲとしては破格の売上を誇るこの作品なら、平成ライダーとの関係も深いことだし、トクサツとエロゲのパワーバランスを覆すに十分である。これを可能な限り特ヲタの間に広め、一人でも多く洗脳せよ」

これが長い長い年月を経てオレに与えられた非情な指令でした。そのときのオレの苦悩が如何ばかりであったかは、想像してくれとは申しません。肝心なのは、最終的にオレがこの指令を受け容れて、プロパガンダ工作を実行してしまったという「事実」です。

オレはそれが罪深いことであることを十分に識りながら、恐ろしいことをしてしまいました。その結果、shofさんのような極健全な特ヲタだった方がここまでエロゲにハマってしまうとは、思いも寄りませんでした。オレは自分の罪深さに畏れ戦いています。

この上は、最早以前の通りにはあなたと言葉を交わすことは出来ません。卑劣な裏切り者として素晴らしいトクサツの世界から歩み去ることにします。そして、エロゲの国に戻ってこの非情な論理が支配する世界と差し違え、自分の罪深い行いの落とし前を附ける覚悟です。今までお世話になりましたが、そういう次第ですのでオレのことは探さないでください、忘れてください…


…えーっと、皆さんさぞかし呆れておられることと思いますが、たまにこういう悪い病気の発作が出ますので、気にしないで無視してください(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月 3日 (土曜日) 午前 11時33分

>うにさん

どうもです。その節はいろいろお世話になりました(笑)。これまでゲームとは没交渉に生きてきたオレが、攻略にこんな長時間を要するコアなエロゲに踏み込めたのは、うにちゃんの助言のお陰ですから、間接的に謂えばshofさんのエロゲどハマりにはうにちゃんの責任もあるということだねぇ、うんうん←ひどいなぁ(木亥火暴!!)

ブラスレイターに関しては、埼玉の田舎でCATVのケーブルも来てないから、CSの放映で間に合わせるしかないなぁ。公式サイトを見たら先月末からATXでもやってるらしいし、番組表を見たら録れそうな時間帯なので、まあ一度観てみるっすよ。同局ではデモンベインもやってるからニトロ好きは忙しいですなぁ。あっ、ついでにlainなんかもやっているではありませんか(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月 3日 (土曜日) 午前 11時34分

>エロゲどハマリ
失礼なw
私は「人外もの」にしか興味がないので、そのジャンルをかなり緩い規制で実現できる分野に近付いた、だけですなw

18禁というのはまあアレなシーンだけでなく、暴力表現にも掛かってくるのだと思います。ホラージャンルに付き物のキツいバイオレンス表現も、この規制枠なら何とかなるんですね。深夜ドラマやアニメにも通じる部分でありましょう。

>うにさん
お久しぶりです。回り回ってこんなことになってます。ブラスレイターのPVを見てみたんですが、なんかもう板野サーカス全開ですねw
おまけに熱々のヒーロー表現が得意のやっこちゃんを呼んでアピールポイントとしているあたり、何かが間違っていますw 間違った同士でウロブチセンセが出てくるのもいとおかし。

まあ「表」には色々と柵がありますから、お前ら勝手なこと言ってんじゃねーよというのがI先生あたりの言い分でしょうが、そこをかいくぐる気概のねーヤツには(以下略)。

なお、私は特ヲタではなく、ふつーの一般人です。
そんな人間の本棚にもあるものが、有害図書指定されると困るなあw

投稿: shof | 2008年5月 3日 (土曜日) 午後 10時05分

(追記)
「Phantom Integration」は人外ものじゃありませんが、その気になればあるヒロインルートは一切ソレなしで到達できるという、何を考えているのか計り知れないソフトですw

どうしてもメインヒロインのトゥルーエンドに辿り着かなくて頭をひねっていたら、どうもお話の冒頭部分で「銃器を全て選択し、解説を見ておく」のが鍵である、と。それによってバッドエンド回避になるってどんな○ロゲーかとw コルガバじゃなくてSIGを選ぶ分岐点が何故そんなところに…(以下略)

ニトロって面白いなあ…と今頃言っているのはトーシロですとも、ええ。
そんなトーシロ一人落とせないようでは、諜報員としては失格ですなw

投稿: shof | 2008年5月 4日 (日曜日) 午前 04時23分

>shofさん

>>コルガバじゃなくてSIGを選ぶ分岐点が何故そんなところに…(以下略)

調べてみたら、何かすでにエロゲとは思えないことになっていますね(笑)。

http://mgdb.himitsukichi.com/pukiwiki/?%A5%D5%A5%A1%A5%F3%A5%C8%A5%E0%20%A5%AA%A5%D6%20%A5%A4%A5%F3%A5%D5%A5%A7%A5%EB%A5%CE

何だろうね、この長いテーブル?(木亥火暴!!)まあ、ガバメントとP226の違いが効いてくる条件附けといえば、大体限られてきますが。オレも男の子だった時代がありますから(男の子とオッサンはやっぱり違う生き物のような希ガス(笑))、銃器や兵器に対するマニア心というのはわかるんですが、なんか年取ってくると昔みたいに無邪気なフェチ心を抱くのが難しくなってきて困りますねぇ。

堅苦しいことを謂えば、たとえば日本刀なんてのはすでに現役のハンドウェポンというより、美術品だったり工芸品だったり骨董品だったりするわけですが、銃器というのは現役バリバリの対人殺傷兵器以外の何ものでもないので、ちょっと生々しいですよね。

勿論スポーツシューティングなんてジャンルもあるわけですが、アメリカでも一般人の愛好家も多いとは言え、やっぱりメインのマッスは警察官だったり軍人だったりその道の玄人の訓練の一環という性格があったりするわけで、対人殺傷兵器としての意味合いが薄れていない。人を殺さないとしても、趣味のハンティングとかで野生動物を殺しているわけですから、まあ、命を取る道具としての生々しさは刃物の比ではないですね。

戦場における実戦の場面を想定すると、ハンドガンというのはすでにメインアームではなく、非常事態におけるセルフディフェンスの為のサブアームであって、攻撃用の兵器はアサルトライフルとかマシンガンになるわけで、銃社会のアメリカなんかだとハンドガンなどは普通にお店で売っている州が多いので、趣味性のほうが強く感じられるんでしょうが、やはりセルフディフェンスという本来的な目的もまた強く意識されているわけですね。

日本人というのは、かなり昔から普通の一般人が武器を持たない文化が当たり前だったし、銃器というのも一時期を除いて厳しく管理されているのであんまり馴染みがないわけで、そういう意味では現物を手にすることが出来ないから憧れがあるという言い方も出来ますね。

若い頃までは、オレにもそういう憧れのようなものがあったし、銃器の精緻なメカニズムや破壊力・殺傷力に対する単純な興味があったわけで、そういう男の子のホビー分野としての関心を否定するわけではないですが、この歳になると、鉄砲の類を見ると反射的に「ああこれで毎日世界の何処かで人が殺され続けているわけだよなぁ」とか連想してしまうわけで、その一方ではまだまだテッポーに対するホビー的な関心があるわけですが、微妙に後ろめたい気分を感じてしまいます。

>>そんなトーシロ一人落とせないようでは、諜報員としては失格ですなw

内心の葛藤が長年月に亘る血の滲むような訓練をすべて無駄にしてしまいました、という「設定」で一つご了承願います(木亥火暴!!)。それから、実はこの口から出任せは微妙にFateネタと言えないこともないのです(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月 4日 (日曜日) 午後 06時37分

まあ「Phantom」における銃器はそれこそ非日常の象徴であって、何の罪科もない日本人の高校生が魂まで蹂躙されて暗殺者に堕ちるための仕掛けだったりするわけです。

その辺が「暗くてハードボイルド」とこのゲームが評される所以でありましょう。先のコメントの「分岐点」も結局それで相手を殺すか自分が死ぬかという救いようの無い選択を迫られる訳ですから、やあ良かったねえカッコよくてとは行かないのですな。さればこそ、銃フェチでも何でもない婦女子でも、結構このゲームのファンは存在するのですよ。

まあ犯罪組織を舞台としたノワール映画の世界ですから…返す返すもどこが18禁かというと、エロじゃなくて、そんなどうしようもない世界観の方がポイントとしてはでかいかと。既にそういう「物語」を知っていないと、矛盾と暴虐の嵐に翻弄されるキャラクターたちに思い入れなど出来ないでしょう。

>妙にFateネタと言えないこともないのです
…そうやってFateに引っ張ろうとしても…む、無駄なんだからねw

投稿: shof | 2008年5月 5日 (月曜日) 午後 02時19分

>shofさん

ニトロプラスのゲームは大概お話が陰鬱だという話は聞いているのですが、なんせ一本もやったことがないので、突っ込んだ話だとちょっとお返事のしようがないです。まあそれで歯がゆいようでしたら、ナニをソレするということもアレですが、とりあえず頑張ってくださいとしか(笑)。

>>エロじゃなくて、そんなどうしようもない世界観の方がポイントとしてはでかいかと。

まあ、中身についてはサッパリわからないので、こちらも勝手に思い附いたことを語らせて戴きますと(笑)、子供への影響を配慮する必要がないという条件附けの故に得られる自由度は、クリエイターのほうにも魅力なんでしょうね。なんかエロはガキ除けのオマジナイのような気がしてきました(笑)。

一般的に謂って、今時の若者が好むものというのは、基本的にガキが好むものと地続きになっていて、パイの大きなメディア商売ではガキも巻き込んでいかないとペイしないという事情もあるのかな、と。一方、エロゲは概ねゲーム業界の基準では極端な零細企業で商売のパイが小さいということもあって、元々出発点においてガキの懐を狙うわけにはいかないという縛りがありますから、逆に言うとガキを排除出来る数少ない若者向けのビジネスなのかもしれませんね。

アメリカなんかもそうですが、表現物に関してはユニヴァーサルな基準に基づいてそれにそぐわないものを排除するよりも、レイティングによって対象を切り分けていくほうが現実的なんじゃないかと思います。

自分がすでに子供ではないから言うわけでもないんですが…いや、そうなのかもしれませんが(笑)、子供に何でもかんでも与える必要はないわけで、極論を言えば子供に与えてもいいもののほうを囲い込んでしまって、少しでも悪影響のありそうなものは大人になってから与えるというのも一つの便法かもしれませんね。

人間がガキである時間なんて精々二〇年足らずなんですから、法的責任を負える年齢までは、多少理不尽でも不自由すぎるくらいで丁度いいんじゃないですかね。ネットなんかも閲覧までならともかく、ガキに参入させる必要なんかないですよ(笑)。きちんと責任をとれる年齢になったら、自己責任で大概のことはしてもいい、その代わり社会常識に悖る振る舞いがあれば一切の呵責なく責任を問うというのであれば、そんなに不公平な世の中でもないですし。

ゲーム脳みたいな出鱈目がここまで幅を利かせているのは、(ニセ科学批判的文脈を離れて言えば、ですが)結局教育問題と変にリンクしているからではないかと思うんですよ。責任能力や判断力の未熟な子供が悪影響を及ぼすものに耽溺して人格を損なうという理屈が普遍的にアピールするからじゃないかと思うので、大人になったら大概のことは許すが、子供のうちは厳しく制限するということでいいんじゃないかと思いますね。

そもそも先日の土浦死傷事件の問題だって、幾ら日常的にゲームばかりしていたからと言って、いい歳した大人がゲームの影響のせいで人を殺したという理屈なんて普通なら成立しないわけで、「こういう奴はガキの頃からゲーム浸けだったんだろ」「そのせいで変な大人になっちゃったんだろ」的な偏見があるからゲームの影響みたいな愚昧な理屈が通用するわけですね。

たとえば、立派な大人が暴力的な表現物を見て現実に暴力を働いたのであれば、それは表現物の暴力性が悪いのではなく、飽くまで暴力を働いた大人の自制心の問題であるというのは、かなり当たり前の事実だと思うのですね。

はっきり言って、文芸の表現というのは簡単に影響を蒙る未成年に対する配慮でかなり無駄な制限を蒙っているわけで、未成年が接し得る表現物をきちんと管理出来るのであれば、表現内容を神経質にコントロールする必要はそれほどなくなるのではないかと思います。

エロであれ暴力表現であれ、本来ガキが見て好いものと大人が見て好いものはキチンと分けておくべきで、分けられないからガキ向けの基準が幅を利かせるわけです。それが出来ないのは、要するにガキを巻き込んでいかないとペイしない市場システムの問題なのであり、子供がゲームに耽溺することを止められない親の問題なのであり、そのしわ寄せをゲームそのものにぶつけているだけですよね。

>>…そうやってFateに引っ張ろうとしても…む、無駄なんだからねw

ツンデレか! とお約束のツッコミを(笑)。まあ、虚淵先生の作品を一通り消化してしまって、どうしても濃ゆい物語世界に飢餓感があるというのであれば、一度試してみても好いのではないかと思います。たしかにやり込むのに膨大な実時間が掛かりますが、まあこの手のゲームというのは終わらせるのが目的ではなく持続すること自体が目的なので、逆に考えれば長持ちするゲームという言い方が出来ますよ(笑)。

オレも、Fate本編とFDのおかげで昨年の夏から秋に掛けて結構楽しめましたし、その経験を元にして一本長いテクストも書けましたから、損はしませんでした。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月 6日 (火曜日) 午前 02時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/17097125

この記事へのトラックバック一覧です: Fatal:

« 人の口に入るもの | トップページ | HDDレコその後 »