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2007年11月25日 (日曜日)

mono

随分以前から力を入れて番宣を展開していたCXの「しゃばけ」だが、いきなりタイトルで「しゃばけシリーズ第1弾」と謳っているのには参った。もう、反響が何うあろうと続編作る気マソマソではありませんか(笑)。こういうふうに、二時間ドラマで第一作からシリーズ化を謳っている作品というのは、最近あんまり例をみない。

テレ朝の「めぞん一刻」なんか、シリーズ前提でないと成立しない話なのにその後うんだとも腫れたとも言ってないくらいである(笑)。

まあ原作の知名度やキャスティングの力を考えると、連休半ばの土曜の夜に二時間附き合うには格好の題材で、数字が悪いとは思えないから、その皮算用にも満更根拠がないわけではないだろう。裏のドラマ枠の土九も苦戦しているようだから、それなりの数字が稼げるのではないだろうか。

実際オレも今季の土九は棄てていることもあり、谷原章介と高杉亘のコンビが手越祐也の病弱な若旦那を護るという萌え萌えのシチュエーションということもあり、旁々この作品には期待を寄せていた。以前語ったように、手越祐也は見た目的には垣内彩未クリソツで小柄な女顔だが、インタビュー等で素の喋りを視ると自意識の強いはっきりした負けず嫌いな性格らしく、電王の佐藤健と同じ人種ではないかと思う。

ジャニタレ王道の小柄で可愛いタイプのルックスなので、内面は何うあれ二〇代以降は進む道に苦労するタイプだと思うのだが、しゃばけの若旦那というキャスティングは意外にナイスだと思った。何より、原作の挿し絵にリアルで似ているのが笑う。脇を固める谷原と高杉がでかいというのも対比が効いているし、この何となく人間離れした二人の役者が準主役の人外役で活躍する作品なら期待しないわけにはいかない。

まあ実際に作品を視るとそれほど活躍してはいなかったのだが(笑)、素顔で「あたしらはあやかしです」とサラリと言ってこれほど違和感のない役者はいないだろう。谷原章介とか、普通のドラマでも人外にしか見えないからなぁ。モップガールの役なんて人外の外人マニアってのは回文ですかというくらいのものである(笑)。

例によって最近本を読まないから原作は未読なのだが、谷原が司会を務める王様のブランチのブックコーナーでもこの原作シリーズは紹介されていて、当然タニタニは予め読んでいたりするわけだが(笑)、例の嘘臭い口調で流暢に激賞していたこの原作の他局におけるドラマ化で、準主役級のキャラを演じることになるということを、当時は識っていたのだろうか。

いや、当然識ってたんだろう、大人の世界っていろいろ微妙だなぁ。

まあそんなヨゴレた邪推はさておき、玄人筋の間でも評判の好いこの人気原作のドラマ化ということでCXの力瘤がぐんと入るというのもわかるが、出来としては結構好い部類に入るだろう。このラインでは、CXには「怪談 KWAIDAN」シリーズという先行作品があって、まさに絵面的にはその連続上のイメージである。

病弱な美少年の若旦那を、綺麗なのとごついのと二人の青年が蔭に日向に護り育てて行くというシチュエーションには、「腐」の附くお姉さん方の大向こう受けを狙う色気が垣間見えるわけで(笑)、一太郎攻めの仁吉誘い受けとかいろいろウザい妄想を逞しくしている向きもあるかに思うが、この主役トリオの雰囲気はやっぱり好い。

種が割れてみると、一太郎の祖母から続く大妖怪の血脈に対する制度的忠誠心や個人的な思慕が動機となっていたわけだが、一〇〇〇年生きた妖怪が純粋な好意からいつ死ぬかわからない病弱な少年を思い遣るという設定はやっぱり優しく感じられる。

おぎんに対して感じる仁吉の思慕や佐助の恩義が、その孫である一太郎に降りていく過程がもう少し描かれていればよかったのだが、そこは役者たちの演技が辻褄を合わせていたと思う。この筋書きだけを視ると、後半で真相が開示されるとあやかしたちの気持ちの中心にいるのがおぎんになってしまうので、少し艶消しに感じられた。もう少し一太郎本人に収斂していくような気持ちのセリフが欲しかったところである。

生後三日で呆気なく潰えた命を反魂の呪法で現世に呼び戻した、その故に弱く揺らぎがちで儚いものとなった少年の命に対するあやかしたちの気持ちを表す言葉がもう少しあれば、この三者の関係性がもっと強く表現されていたのではないかと思う。しかし、実際の脚本上では、あやかしたちの一太郎に対する気持ちは具体的なセリフでは表現されず、全面的に役者の芝居に委ねられている部分がある。それはそれでいいのかも知れないが、少し物足りなくも感じるということである。

幼少時、死線を彷徨った床から離れた一太郎の前に仁吉と佐助が光に包まれて現れるくだりは、その芝居に優しさと嘘のなさが見て取れて、蚊帳越しに親戚一同が自分を邪魔扱いする会話を聞いてしまった幼児が、優しく頼もしい家来の出現に感じた嬉しさと相俟って、とても好い芝居場とは言えるだろう。

後述するように、事件性の筋立ての部分には若干不満の残るところはあるが、親子主従の気持ちのドラマとしては節度が効いていて好い出来だった、それでも抑制の効いた脚本の部分で善し悪しの好みはあるだろうということである。

では、事件性の筋立てで不満な部分とは何かと言えば、墨壺に取り憑かれた人々の扱いを投げっぱなしで放置したのはちょっと拙いのではないかという部分である。こういう肌合いの人情噺なのだから、付喪神に成り損ねた墨壺の怨念という地味な種でも構わないのだが、取り憑かれた人々の大半が一種の濡れ衣で呻吟するというのは、時代劇として手当ての悪い部分だろう。

ならば、墨壺の怨念のとばっちりで殺された人々は何うなるのか、クライマックスの火事で焼け出された人々もそれなりに苦労するというのは何うなんだと言えば、これは時代劇としてはアリである。墨壺が盲目的な妄執を動機として次々と無辜の人々を殺害するというのは、現代の感覚で言えば不条理であって、墨壺の霊が何ら罰されることもなく昇天するというのは片手落ちに感じられるが、これはそのように視るべきではない。

鈴彦姫が劇中で言うように、この種の妖怪物語ではあやかしの条理の世界と人間の条理の世界が二重写しになっているわけで、あやかしが人間を殺害することを、人間の条理で裁いてはいけないのである。あやかしが人外であるということは、人間の条理に基づいて生きている存在ではないという次元の話である。

中世西欧の動物裁判ではないのだから、江戸時代の世界観においては、この世界は人間の世界とそうではない世界が重なり合って存在している。その境界線上で事件が起こり誰かが命を落としたとしても、それは一種不条理ではないのである。

劇中の被害者が何故殺されたのかと言えば、モノを介して一太郎と繋がりが出来たからである。人外の存在が跋扈するとされるこの物語世界においては、それだけの理由で人外に殺されるというのはアリである。人外の存在は人間の条理によって裁かれる存在ではないのだから、殺された人々は運が悪かったという「だけ」である。

時代劇が語る世界とは、「運が悪ければ簡単に死ぬ」という世界である。現代の感覚と違うのは、たとえば現代人は風邪をこじらせたからと言って死ぬ可能性は低いし、偉い人に粗相をしたというだけの理由で死ぬこともまずないだろう。普通、人間は簡単に死んだりしないから、さして必然性のない理由で簡単に死ぬことは不条理なのである。現代においては、昔より簡単に人が死ぬことはないというのは概ね平等な条件附けだからこそ、人の命の値打ちは昔よりも高いのである。

対するに江戸時代の日本人は、ちょっと体調を崩しただけでも運が悪ければ死ぬ。偉い人に粗相をすれば、場合によっては簡単に死ぬ。病気、怪我、事故、社会的制裁、名誉回復の示威、経済的困窮等々、人が簡単に死ぬような理由には事欠かなかった。その時代の人々はすべて平等に現代よりも簡単に死んだのだから、つまらない理由で死ぬことそれ自体は不条理ではなかったのである。

では、そのように死が今よりも身近に隣り合わせていた時代における不条理とは何かと言えば、身に覚えのない罪で投獄されるとか、犯罪被害によって困窮するとか、つまり何の必然もなく生きて苦しめられることはやはり不条理だったのである。人間の条理は生きている限りにおいて納得の行くものでなければならないが、死ぬことそれ自体は何人にも止めることが出来ない偶然の産物であるに過ぎなかったのである。

つまらない理由で大事な人が死んでしまうのは、哀しくやりきれない現実ではあっても憤ろしい不条理ではなかったのであり、正義による条理の回復を求めるような事柄ではなかったのである。

それ故に、この物語の筋立てで言えば、たまたま一太郎と関わったばかりに命を落とした人々は、周囲の人々から視て気の毒ではあっても不条理ではない。危ない人間が外をうろうろしているとすれば、偶々何某かの偶然によって殺されてしまうというのは「仕方のないこと」なのである。ましてそれがあやかしの仕業であるのなら、あやかしという条理の外に住む存在を裁くという概念は最初から成立しない。人が裁かなくて済む存在を規定する概念こそが「あやかし」だったのである。

その意味で、自身もまた人外の血を引く一太郎が、自身の意図せざるところで罪もない人々の死を招いたことや、一〇〇年の命を多寡が人間の争い事でふいにした墨壺がその怨念から人々を殺して廻ること自体は、裁きの範疇の事柄ではない。問題となるのは、墨壺に取り憑かれた為に、まったく当人の意志とは無関係な罪で裁かれる人間で、これはやはり不条理なのである。

この人々が災難を背負う羽目になったのは、毀れた墨壺の細工を愛でたからだということになっているが、それが冤罪に見合うだけの咎なのかというのは、人間の条理で考慮すべき事柄である。何故なら、人を殺した人を裁くのは人の世界の条理だからであり、本来人外の世界と人間の世界の境界線上で起こった事件において、真実の原因とは無縁な人物が裁かれるというのは文政の時代においても不条理だからである。

たとえばこれが京極夏彦巷説シリーズなら、人間の世界において原理的に裁き得ない人間同士の間で為された罪を処理する為に妖怪の仕業に見せかけるわけである。妖怪を持ち出すことで、人間の条理は裁きの原理として失効する。人間性の極限で行われた裁くべきではない罪と現実世界の条理を調停する為に、裁きの原理を停止させる口実として妖怪という人外の概念が存在するわけである。

対するにこの物語においては、本来人外の条理で視るべき事件が、表向きは人間同士の条理によって裁かれた儘放置されているわけで、そこが何とも言えない違和感を残してしまうのである。原作小説では何うなっているか識らないが、少なくともドラマ版ではそこを手当てする必要があるという認識が視られないのが、時代劇としてかなり不満の残る部分である。

つまり、表面的には人が人を殺す不条理な連続犯罪事件として解釈可能な形で事件を構成したのがそのような作劇上の問題を招来するわけで、これが犯人不明の通り魔的な犯行であればその儘迷宮入りしても構わなかった筈である。おそらく、江戸時代の感性においてはその事件の解釈としてやはり人外の存在が真犯人として想定され、一種の妖怪伝説として合理化されたはずである。

たとえば耳袋の筆者のような識者と雖も、その不可解な事件の伝説に関しては何ら現実的な推理の手懸かりがないのだから「不思議なことである」としか論評の下しようがないだろう。

この事件の場合、憑依という形で紛れもなく人間の下手人が出てしまうというのが面倒な部分で、まったく関連性のない複数の人がまったく関係のない人を殺す事件が続発したというのはたしかに不可解で解釈不能な成り行きではあるが、誰が誰を殺したのかということだけはハッキリしている。そこはこの時代性の物語においても、最終的に救済しなければ物語作法として不親切な部分だと思う。

救済しないのであれば、操られて人を殺す人間にもどうせ殺人と同列の後ろ暗いところがあるというふうに設定する必要があったわけで、クライマックスで悪人ほど取り憑き易いと言っているのだから、悪人ばかり選んで取り憑いたとしても不自然ではないわけである。しかし、最初の棒手振りはそもそも事件の発端となった人物だし自分の過ちで人一人殺しているわけだから仕方ないとは言え、その後操られた人々は人殺しの下手人として裁かれるに足るほどの悪人ではない。

真相から逆算して言えば、別に襲われた人々が殺されたということにしなくても怪我をしたくらいのほうが問題なかったわけで、文政の頃の時代性で言えば、死にさえしなければ当人同士の話し合いで内済にするという選択肢も在り得たわけである。その上で連続する事件を「狐憑きの仕業」とでもしてしまえば、人間の世界においてはそれで納まるわけである。

この辺、時代劇においては「偶然殺された」人は救済する必要はないが「偶然冤罪を着せられた」人は必ず救済する必要があるという弁えがないということだろう。

まあその部分には大いに不満が残るものの、達者な俳優陣によって演じられる妖怪時代劇ということで、人情劇の部分ではかなり楽しませてもらった。元々構造的には百鬼夜行抄と同工異曲の物語だが、時代劇である分だけドラマティックな話が書けるのが強みだろう。事前のダイジェストで不安視していた手越祐也の芝居も、まあ初めて髷を載せた割には頑張っていた部類だろう。

ただまあ、男ばかりが出て来る世界観ということで、主要な女性キャラが母親と祖母しか出てこないというのはちょっと残念だが(笑)、その萌え分の不足を早乙女太一が演じる鈴彦姫がちゃんと補っているのが好かった(笑)。

最初は大衆演劇の少年女形が演じると聞いて、たとえば玉三郎の映画版「夜叉ヶ池」とか想像するとかなり微妙じゃないかと思っていて、大衆演劇の女形って舞踊ショーだけで芝居しないんじゃないのかとかいろいろ不安に思っていたのだが、実際に視ると悪くはなかった。

本人の言によると、やっぱり女形として芝居しているわけではないので発声には苦労したそうだが、所謂女形の発声ではなく普通に中性的な声色を遣っていて、これが結構悪くなかった。まだ少年の体型なのが白塗りで少女妖怪を演じているわけだが、そもそも女形というのは女性美を抽象した観念を演じる男性俳優なのだから、この世に実在しないお化けのような存在である。そういうこともあって、実写ドラマの映像のリアリティで白塗りの女形が少女妖怪を演じても、それほど違和感はなかった。

そういう意味では夜叉ヶ池の玉三郎も白雪姫ならいいのだが、二役で加藤剛のかみさんも演じているのが微妙だったわけで(笑)、篠田正浩にそんな劇的リアリティの調整が出来ないというのがイタかったわけである。

オバチャン文化には疎いので識らなかったが、この早乙女太一は「流し目王子」の通称で人気を博しているそうで、おそらくこのキャスティング中の呼び物の一人でもあるのだろう。

冒頭早々から夜道を急ぐ一太郎をエスコートするという形で印象的に登場し、偶然目撃した殺人の下手人に追われる一太郎の手を引いて空を飛ぶのが妙に萌える(笑)。また土蔵の集会での会話を視るに、何うやら二枚目の仁吉に想いを寄せているふうなのが見た目的に倒錯的で美味しい役どころである。

白沢という神獣が出自で一〇〇〇年生きた妖怪という仁吉と、お稲荷さんの鈴の付喪神ということだから一〇〇年かそこらの若い妖怪である鈴彦姫の取り合わせだと大分歳の差があるわけだが、その仁吉は三〇〇〇年生きた大妖怪で陀枳尼天に仕えるおぎんに想いを寄せているわけで、こっちのほうも二〇〇〇年くらい歳の差があるから、妖怪同士のカップリングでは歳の差が半端ではない(笑)。

それから、佐助と仁吉に次ぐ位置にある主要なキャラの屏風のぞきがまたぞろ宮迫博之というのは何うにかならんかと思ったのだが(笑)、笑ってしまうのは関西芸人のくせに妙に江戸弁が達者になってしまったことである。元々役者の世界に色気のある人間だったようだが、たとえば「姑獲鳥の夏」で片意地な東京人の典型である木場修を宮迫が演じるというのはやっぱり何うなんだろうと思ったのだが、関西芸人の割には江戸弁の習熟に忌避感がないというのは珍しい。

関西芸人というのは、ドラマや映画に出演しても関西人の役を演じるのが不文律のようで、どの途身に染みついた関西弁のイントネーションは端々に出るもので、それは多分関西弁以外で話すことに抵抗があるからではないかと思うのだが、宮迫のように全然拘りなく関西弁を棄てるタイプの芸人も珍しいような気がする。

関西出身の俳優など掃いて棄てるほどいるが、大概の俳優はちゃんと標準語の発音に矯正しているわけで、当たり前のことだが、関西人一般が関西弁以外に話せないわけでは決してない。しかし、関西芸人の場合は関西弁の喋くりが表看板の芸だから、標準語で喋ることに忌避感情があるのではないかと思う。そういう拘りを持っていないというのは、役者的なスタンスで自分を考えているということなのだろうから、宮迫博之という人間も大概上昇志向が強い(笑)。

まあ、確実に作られる筈の続編では、多分こっそり宮迫と遠藤憲司が入れ替わっているような気がするが(笑)、あの程度の出番ならあんまり不愉快でもなかった。

そういうわけで、結構楽しめた作品で原作のストックもかなりあるようだから続編も楽しみにさせていただくが、CXの二時間ドラマシリーズでは結構配役がちょこちょこ変わることがあるので、少なくとも谷原章介と高杉亘は変えないでほしいものである。

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