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2007年11月24日 (土曜日)

physics

HDDレコの不調もあって今季の連ドラは剰り熱心に追い掛けていなかったのだが、観ている範囲で言えば、「モップガール」と「SP」がダントツで面白い。SPは最初から面白いに違いないと思っていたので意外でもないのだが、モップガールには全然期待していなかったので完全に大穴であった。これらの番組については、そのうちその気になったら更めて語らせて戴こうかなということで、今回は詳述しない。

どちらの番組も、脚本や演出にトレンドに乗った華やフロック的に飛び抜けた一発ネタがあるから面白いというわけではなく、新味のない題材ながらきちんと隅々まで細部を詰め目の行き届いた仕事をしているところが面白さに結び附いていて、オレ的には何の抵抗もなく褒めやすい。

上記の二番組以外で面白いと思うのは、CX月九の「ガリレオ」も或る意味チャレンジングな企画だと思う。何故かと言えば、この原作は剰り一般受けしないハウダニットをメインに据えて、変人学者が科学トリックを解明するという地味なコンセプトの作品だからである。

ハウダニットというのは直訳すると「どのようにやったのか」ということで、奇想天外な殺害方法や不可能状況構築のアイディアが主眼となるジャンルである。新本格以降の普通のミステリなら、緻密な論理の積み重ねや作者が読者に仕掛ける叙述の頭脳戦が面白いわけだが、ハウダニットというのはネタが命の部分がある。

他のジャンルなら、メインの謎は真犯人とか事件の時系列的な真相となるが、それらの要素をひとまず脇に除けておいて、どんな思いも寄らぬ手段で殺人が行われたか、一見不可能にしか見えない状況がどのように構築されたのか、という奇想が呼び物となる。

つまり、ハナから探偵と読者のフェアな推理合戦の興味はメインに据えられていないわけで、そもそも探偵と読者は公平な出発点には置かれていない。ガリレオで言えば炭酸ガスレーザーの特性とか光の屈折現象とか超音波による衝撃波とか、SFファンや理系に強い人なら常識の範疇の知識かもしれないが、理系のジャンルに明るくない読者一般がそんな奇想を思い附くはずがない。

一般的にフェアを重んずるミステリにおいては、このように読者ごとの基礎的知識レベルの偏差が大きい事柄でトリックを仕掛けるのはアンフェアだとされている。極々常識レベルの一般則に基づいて、常識的な読者なら識っているような事柄に限ってトリックが考えられねばならないことが十戒や二十則にも明記されているわけだが、このジャンルでは奇想の出来を堪能するのが眼目だから必ずしもその限りではないわけで、一般的な読者が思い附くはずがないようなトリックでも許される。

まあ、そのアイディアが飛び抜けて奇想天外なら普通の読み手でも面白いかもしれないし、たとえば現在なら子供でも識っている「寝室にドライアイスを仕掛けておいて睡眠中の被害者を窒息死させる」というトリックも、六〇年以上前の発表当時は殆どの読者がドライアイスの特性などよく識らなかったのだから、誰でも公平に推理の材料を持っているとは限らない理系トリックであり奇想の類でもあったわけである。また、密室トリック物の傑作とされる横溝正史或るマスターピースも、読者が絶対思い当たるはずがないトリックを仕掛けている辺り、奇想を堪能する部分というのはあるわけである。

ガリレオの道具立てで言えば、名探偵が超常現象の謎を解明するというのは、それこそ横溝の金田一物やディクスン・カーの諸作にも通じるような意匠ではあるし、この種の科学対オカルトという対照の構図は、ブラックウッドのジョン・サイレンス物などにも源流を辿れるわけである。天才科学者の名探偵というのも思考機械の昔から存在するわけだが、専ら理系トリックによる超常現象を理系のロジックで解明するという戒律破りの部分がこのシリーズの新味と言えるだろう。

変な言い方になるが(笑)、この作品の本当の見所というのは、実はその理系トリックが奇想として優れているか何うかという部分にあるのではなく、そのようなコンセプトの名探偵ミステリが、水準レベルのミステリとして成立しているか否かにあるわけで、どちらかと言えば渋い小説的関心において評価されるシリーズである。

たとえば第一話で子供が「赤い糸が見えた」と証言するのは、読者の為のヒントではなくガリレオ先生=湯川学の為のヒントである。天才科学者と雖も何の手懸かりもないのにトリックを解明したらただの叙述の装置にすぎないのだから、それが名探偵ミステリとして成立する為には、劇中の湯川学の超絶的知力において真相を解明し得るだけの具体的な手懸かりが提示されているというアリバイが必要になる。

普通の読者が思い附かないような科学トリックを解明するガリレオ先生が、どのような糸口から真相に逢着したのか、というプロセスのアリバイが押さえられていることで、読者は「なるほどねぇ」と感心するわけである。

また、たとえば「レーザー光線で人を殺しました」では子供騙しの嘘事だが、それが現在の科学に照らして何処にも嘘がないという但し書きが附くことで、要するに湯川学とまったく同じ結論に辿り着かねば真相を看破したとは言えなくなるわけである。機械工場の工員が犯人だというのはすでに配役でバレバレなのだし、そこで炭酸レーザーが切削工具として使われている以上、これで殺したということは誰でも見当が附く。しかし具体的には何うしたのかということを正確に解明するのがガリレオ先生の役割である。

たとえば第五話の密室トリックなども、密室状況の成立条件が予期せざる偶然でしかなく、人為的に正確にコントロールすることが不可能な以上、ミステリ通ならあの真相以外在り得ないことはその時点で察しが附く。いわばメタミステリ的な観点においては、読者の関心を絞り込む為の大前提である。

それ故に、以降のミステリ的興味はそのような不可能状況がどのようにして構成されたのかというハウダニット的関心に集中するわけである。トリック自体も科学の素人が思い附いたものだから、奇想としては弱いものでしかないが、湯川学がその真相を解明するに至るプロセスは割合丁寧に押さえられているわけで、その限りでは名探偵ミステリとして水準の出来になっている。そういう劇中のロジックがちゃんと成立しているのか何うかというのがこのシリーズのミステリ的な見所で、要するによく出来た工芸品を堪能するような文芸的興味において評価されるわけである。

たとえば超能力やタイムスリップなどを盛り込んだ西澤保彦のSFミステリも、科学トリックに挑んだ本シリーズ同様十戒や二十則の禁じ手への挑戦と言えるだろうが、禁じ手が禁じ手であることにはそれなりに理由があるわけである。その根拠を回避して如何にミステリとして成立させるか、という部分にミステリ的な新味があるわけだが、新本格一般にそのような性格があるとは言え、メタミステリ的な課題となるテーマだから、正直言って、あんまりミステリファン以外に一般受けする挑戦テーマではないだろう。

オレも嘗てほどのミステリファンではないから原作は未読ながらミステリ自体は今も好きで、そういう意味ではガリレオも作品やコンセプトに対して事前に知識はあったのだが、そういう渋い代物を月九でドラマ化というのは何うなんだろうとは危惧していた。

そのコンセプト面の渋い地味さに対する手当てとして、原作では佐野史郎がモデルの奇人変人の主人公を福山雅治という「偉そうな二枚目をやらせたら日本一」のスターに演じさせ、相方に柴咲コウを宛ってロマンスの要素を振りかけるというのは、納得出来る実写化の手当てではあるだろう。

ただ、ちょっと計算が間違っているんじゃないかと思うのは、基本的にこの枠組みは高度な知性を持つ天才的な犯罪者と天才的な名探偵の頭脳戦という性格の物語ではないのだから、毎回のゲストに主役級のスター俳優を持ってくるのは違うのではないかという部分である。

これがたとえば古畑任三郎なら、最初から犯人と古畑の一対一の心理戦がメインなのだからそれでも好いのだが、ガリレオの場合は偶然超常現象のように見える不可能状況が構成されただけというパターンも多いので、ゲストが演じるのは必ずしも知的な好敵手としての犯人役ばかりではない。エピソードの構図としても、福山・柴咲の主役組がゲスト俳優とがっぷり四つの演技合戦を競うという形にもなりにくい。

初回のゲストの唐沢寿明からして、あの高慢そうなルックスで町工場の平工員を演じるというのが違和感バリバリだったのだが、このエピソードのドラマ的な焦点が、この犯人の裏面に潜む歪んだ人間性の開示にあったので、まだしも理解出来ないということはなかった。倦むことのない実験の繰り返しで証明されたのが、犯人の積極的犯意の有無という地味な心理の陰翳であるのも、この物語のテーマ性を強調していて悪くない。

真相開示の瞬間に豹変する犯人の凶暴さや回り諄い悪意の歪み方が、地味ではあるが一種の名犯人像としてギリギリ成立していたから、唐沢という浮いた配役でもこれはこれでアリかと思わないでもなかった。

第二話は小市漫太郎という比較的相応な配役だったので、唐沢の出演は初回のご祝儀というところかと思ったのだが、第三話ではさほど重要ではない役柄で広末涼子、第四話に至っては主演級の大スター香取慎吾という派手なキャスティングで、ここまで来るとかなり浮いて感じられることは否めない。

第五話では大後寿々花と水野美紀という、それだけで地味な母娘物の二時間ドラマが一本撮れるキャスティング、第六話に至っては一応主役級ということになっているアイドル女優の堀北真希がほんのチョイ役出演というのは、ちょっとセンスを疑うキャスティングである。つまりこのドラマ世界に出て来る主役以外の人々の「人種」の位相が合っていなくてちぐはぐに感じるということである。

このキャスティングの方向性では、各々のゲストが得意とするドラマジャンル固有のリアリティの物語性が立ち上がってくるので、「ガリレオ」という名探偵ミステリ固有の物語性のリアリティが相対的に弱いのである。

たとえば「唐沢寿明が演じる町工場の工員」という成り立ちのキャラが本来住んでいる物語性のドラマというのは、おそらく名探偵ミステリの世界ではない。NHKとか山田太一とか、多分その辺りの世界に住んでいる人物だろう(笑)。

たとえば嘗てのカリスマアイドルの広末涼子がイケ好かない我儘女として登場し、そのファーストアピアランスの悪印象から柴咲コウとの遣り取りを通じて婚約者への一途な想いが開示されることで、もうちょっとだけ可愛い女性として見えてくるようなドラマ性は、名探偵ミステリとは別のジャンルのそれである。さらに、全体の構成としてそこが焦点になるエピソードの構造でもない。いわば名探偵ミステリのリーダビリティのベクトルを停滞させる余計な逸脱としての芝居場である。

たとえば、たとえばと畳み掛けて行けばキリがないが、これらのゲスト俳優が演じる芝居が本来存在するのは名探偵ミステリの世界ではないし、美男美女コンビが演じるピントのズレたラブコメディの世界でもない。主役級のゲスト俳優をさしたる必然性もなく招聘することで、その都度本来この物語が持つべきリアリティの位相が、それらの俳優の存在感のもたらすそれと噛み合わなくなってくるのである。

名探偵ミステリにおいてキャラが立っているべきなのは、名探偵とワトソン役と名犯人だけなのであって、その他の人物はすべて「脇役」なのである。そのようであるべき枠組みの劇的世界において、主役の顔をしている役者が本質的に脇役でしかない人物を演じているという無意味な気持ち悪さが、何うにも違和感を感じさせる。

つまり、このドラマにおいては、少なくともキャスティングを担当している人間は、名探偵ミステリという枠組みの物語の実写化がどのようであるべきなのかという確固たるビジョンを持っていない。普通に人気俳優の足し算の華でキャスティングを考えているのだが、それではダメなのである。

おそらくこの番組は、月九ミステリの先駆である「HERO」のヒットに追随する意図を持った企画なのだろうが、HEROはその辺の枠組みのグランドデザインがキチンと計算されていたから、一種の名探偵ミステリとして成立していたのである。

勿論、月九の主要な視聴層はディープなミステリ通でも何でもないのだから、ミステリかくあるべし的なジャンル論は重要な論点ではない。しかし、名探偵ミステリという枠組みは、実はミステリという個別のジャンル性を超えて強力な魅力を持つキャラクタードラマの枠組みなのである。ミステリとしての端正な骨格などとは無関係に、優れた知能のみを武器に犯罪者を追い詰める名探偵というキャラクターは、古今東西で最も普遍性を持つヒーロー類型なのである。

悪を狩るヒーローと謂えば一般に武闘派が主流だが、知的ヒーローという存在が在り得ても好いだろうという観念が科学的思考法の勃興期に成立したわけで、その時代における新タイプのヒーロー像こそがホームズやソーンダイクだったわけである。勿論それ以前からミステリ的な物語類型は大衆に好まれてきたわけだが、それは一種、事件物的な興味と歴史的なタームとしての「探偵物」的な興味が主流であり、知的ヒーローとしての名探偵像というのは、やはりホームズや彼のライバルたちの登場を俟って確立されたと視るのが妥当だろう。

それ故に、悪と闘う知的ヒーローという大普遍の視座に立てば、名探偵ミステリの枠組みというのは単にジャンル固有のローカリティに留まらない力を持っている。ミステリとしてはお粗末窮まる構造の物語であっても、名探偵というキャラクター像や物語性に魅力があれば、知的ヒーロー物語としては及第と言えるのである。

外画の名探偵や刑事を主役とするドラマは大概さしたるトリックもない通俗犯罪サスペンスだが、それでも一種の知的ヒーロー物として成立している作品の例はたくさんあるだろう。つまり、オレがガリレオの難点だと感じているキャスティングの問題性とは、この知的ヒーロー物語という強力なキャラクタードラマの枠組みとしてのグランドデザインが拙いということである。

月九的なキャスティングの華が欲しいのであれば、現在は脇役を専門とする俳優でも十分華のある俳優がゴロゴロいるだろう。さしたる芝居場もない「犯人の娘役」という窮め附けの脇役に、何を考えて主演作が何本もあるアイドル女優を起用するのか。父母の愛情の圧し附けに反撥する喘息の少女の役に、何を考えてついこの間連ドラ主演を果たしたばかりの演技派と目されている子役女優を起用するのか。

相対的に名探偵のチームよりは重要性の薄い役柄に、主役の華を持つ俳優を起用してしまうことで、その芝居場の主役は彼らになってしまう。それがたとえば香取慎吾の役柄のように、悪魔的な知性を持つ名犯人であれば、名探偵と一対一の存在感を示しても好いだろう。しかし、単に名探偵が解決する事件の一関係者にすぎない人物が、名探偵と同等の存在感を示すというのは、何う考えてもデザインが間違っている。

視聴者は、たとえば堀北真希が画面に映れば、彼女を主役とする個別の青春物語のドラマ性を想起するのだし、まさか寝て起きて学校に行くだけしか出番がないとは思わないだろう。同様に、大後寿々花と水野美紀の母子が画面に映れば、彼女たちを主役とする個別の親子ドラマを想起するが、そんなドラマ性などは本来知的ヒーロー物語においてはヒーローたちを中心とする物語世界の辺縁にある背景でしかない。

だがまあ、こんなことを今更喋々するのは野暮な話ではあるだろう。この顔ぶれのスケジューリングを考えれば、企画の出発点は「探偵ガリレオ」という原作小説などではなく「福山雅治と柴咲コウのコンビに主役級の豪華なゲストが絡む連続ドラマ」というものでしかなかっただろう。そのコンセプトに、ハウダニットの地味な名探偵ミステリという容れ物がミスマッチだったというだけの話ではないかと思う。まあ、そのような事情を考慮しても、ゲスト俳優の人選に「主役級」という以外の一貫性がないのは連続ドラマとして致命的なセンスの欠如だとは思うが。

一方、ウィキで視るとこのドラマの演出はさるミステリ外画の影響が濃厚だそうではあるが、元々の原作に潜んでいる「怪奇大作戦」との類似性が絵面の雰囲気に表れている部分は好ましい。CXやNHKが製作した正統的続編の方向性もあるが、そもそも怪奇大作戦のコンセプトは「怪奇な不可能犯罪を科学で解明する」というものなのだから、リアルにやれば探偵ガリレオになるわけである。

時代性ということもあるが、現代の目で怪奇大作戦を視れば「何処が科学やねん」というツッコミを入れたくて裏拳がうずうずするわけで、たとえば絵画から女神が抜け出して人を殺すという不可能犯罪の原理は、絵画の裏に何だかよくわからん機械がありましたというだけで何の説明もなく放置されている。因みに「何だかよくわからん機械」というのは思い遣りの範疇の表現で、物語中では「CRTディスプレイ」というふうに説明されている。

表看板の「怪奇な不可能犯罪を科学で解明する」というコンセプトは所詮円谷の特撮技術を表現する容れ物に過ぎないわけだから野暮は言いっこなしなのだが(笑)、この思考機械やジョン・サイレンスにまで遡るような大普遍のコンセプトを、実直にガチガチのミステリでやったら何うなるだろう、という興味でもガリレオは成立するわけである。

その辺の意図が原作にもあったのではないかと思うのは、第一話「燃える」の事件が一見スポンティニアスコンバスチョンという超常現象を構成する光線銃による殺人という辺りがまさに怪奇大作戦好みのアイディアであり、また町工場の工員による非人間的な犯行というのが怪奇大作戦第一六話「かまいたち」に類似のイメージだからである。

これまでのエピソードでは一番派手なトリックだが、原作の湯川学のモデルが佐野史郎ということもあって、円谷濃度は高いと言えるだろう。勿論佐野史郎と言えば「特命リサーチ200X」の松岡役があるわけだが、時系列的には放映開始直前に第一作が書かれていたわけだから直接のヒントになったわけではない。

原作の第一作もドラマ版同様怪奇大作戦テイスト溢れる「燃える」である以上は、怪奇大作戦に対するリスペクトが、原イメージにあった可能性は高いだろう。だとすれば、ガリレオ先生は同じ史郎でも佐野史郎ではなく牧史郎の役どころということになるのだが、そこまで牽強付会すると話がややこしくなるのでいい加減にしておく。

先週の第六話はとくに物理法則が絡む事件ではなく、安い手品紛いのインチキ心霊術がトリックで、純粋な演繹推理で考えてもあの真相以外在り得ないというシリーズ物の箸休め的なイレギュラー編だったわけで、特定の趣向を持つシリーズの目先を変える小ネタ編と言えるだろう。この辺で主役コンビの恋愛感情を進めておこうという計算もあったのだろうから、ネタ的にしょっぱかったのはしょうがないだろうが、その直前の第五話がかなり雑なつくりだったのは何ういう事情があったものだろう。

何度視ても冒頭からの最初のシーケンスがまったく繋がっていない。尺調で切ったのだろうとは思うが、切り方が雑なので何が何うなっているのかサッパリわからない。

湯川と女子学生が押し問答しているところへ内海が入ってくる場面から殺人現場に向かうまでが一繋がりの話になっているのだが、一度視ただけだと、どの時点で内海が女子学生に湯川の説得を頼まれたのかまったくわからない。前後の脈絡を考えて、湯川が外出を届け出る為に一旦戻った隙に女子学生が内海に声をかけたと判断するしかないのだが、そこがバッサリ切られて回想で説得の懇願が語られるのみなのだから、いつの話なのだかわからないのである。

普通、こういうふうに回想で処理するのであれば、湯川がハケて内海が一人残されたタイミングで女子学生が現れ、「さっきはどうも」的に軽く会釈を交わすという絵を押さえてからカットするのが筋だが、そういう絵が押さえられていないので、いつの時点の回想なのかがサッパリわからないのである。

湯川との道行きの車中でその回想が長々と挿入されているのだからその程度の尺の余裕はある筈だし、撮影の実態としても内海の前に女子学生が現れるという、繋がり上在るのが当たり前の絵を撮っていないとはまず考えられないのだが、普通なら在って然るべき絵がないのでとても変梃な繋がりになっている。

また、殺害現場から内海が署内に戻って城ノ内と会話する場面でも、「あれがガリレオ先生?」というセリフがあるが、湯川と城ノ内が何処で会ったのかまったく説明されていないので物凄く違和感がある。こちらのほうは前後の脈絡を考えても湯川が城ノ内と会う必然性が思い附かないのでまったく理解出来ない。ワンシーン丸ごとカットされたのでもない限り、こういう繋がりにならないのではないだろうか。

不可解ではあるが、まあ月九だけにいろいろ事情があるんだろう(笑)。

何かと不満もないわけではないが、原作がミステリとしてそれなりにきっちりしているということもあって、名探偵ミステリのドラマ化としてはまずます楽しめていることは事実である。毎週録画して残してはいるが、何度も観るかと言えばそんなことはないだろうと思う(笑)。先日のHDDクラッシュで何話かデータが消えてしまったのだが、そんなに痛痒は感じていない。

とはいえ、第四話に関しては蒼井そらの変にエロい水着姿が視られなくなったのが残念なのと、香取慎吾がゲスト扱いで出演しているエピソードだと再放送が微妙なのが気になると言えば気になるところである。

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