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2007年11月 9日 (金曜日)

旗幟

ところで、これまで他人事のように書いてきたが、オレ個人としては自公民大連立には基本的に反対である。まあ、選択肢として間違っているとは言えないだろうが、与党と大連立を組んだ民主には一個人として何も期待しないという意味である。そもそもオレは、自民は悪辣な政党だが民主は素晴らしい政党だとも考えていない。役割論的に今のタイミングにおける民主には、国政に対して肯定的な役割を果たせる可能性があると考えているだけである。

では民主に何を期待しているのかと言えば「自民を下野させること」、最低でも「新自由主義的政策路線を公的な形で撤回させること」で、これ以外には何一つ期待していない。その結果として、たとえば政権与党となった民主党政府の政策が自民党と五十歩百歩だったり、表向きは新自由主義を撤回した自民党が水面下で似たようなことを画策していたとしても、それはそれで仕方ないと考えるのである。

自民党が新自由主義を何愧るところのない政策理念として公に掲げているうちは、決して政治は良くならないし国民生活も向上しない。それは本質的にそのようであるべき理念だからである。政権与党が大多数の国民生活の零落を必然として内包する原理を表看板に掲げているうちは、決して大多数の国民が酬われるはずがない。

オレは現実において国政が文句なく素晴らしいものである必要はないと思うし、一点の曇りもない清廉潔白なものである必要もないだろうと思うし、現時点でそう在ることはかなり難しいだろうと考えている。それでも理想を目指し続ける必要はあるだろうが、現実において世の中の具体が漸進的にしか良くならないのは仕方ないと考えている。

但し、現状の自民党の国政は最悪であり、国民が受認すべき限度を遥かに超えている上に、そのような現状を自己肯定している部分が不潔であり不誠実であると思う。何処が最悪なのかと言えば、たとえば「一部特権階級だけが得をする」という形の不正義が罷り通っているだけではなく、その不正義な「得」を捻出する為に国民の大多数が犠牲にされるというさらなる不正義を要求する原理に基づく政治だからである。

財界のエスタブリッシュメントや金融分野のエリートのみが一極的に酬われ、それらの人々だけが潤う為に大勢の国民が命の瀬戸際まで収奪されるような野蛮な国家原理だけは、苟も近代国家の国民として断じて許してはならないと感じるから、わざわざ無知を晒しても政治についてコメントしているわけである。

基本的にオレは一介のノンポリヲタクであり、自分や周りの人々がそれなりに満足して暮らしていかれればそれでよいのだが、オレとオレの周囲の生活がこれほど荒廃した時代は生まれてこの方一度も経験したことがない。つまり、ポスト団塊世代が生涯で初めて出逢うほど悲惨な国情だということである。この非道さは、最早戦中とか戦後のレベルではないかと思う。

基本的にオレは社会参加意識の薄い典型的な衆愚体質だから、政策の失敗で景気が悪くなったり、その為に生活が逼迫したとしても「何やってんだよ」と毒づいてオシマイである。しかし、現状の自民党政治の許し難い点とは、このような世の中を目的的に招来したことであり、必然的にこのような世の中になるべき政治原理に則って政策を展開しているというところである。

過日の参院選で国民がノーを表明したのは、そのような理念に対してであって個別の政策や政治姿勢ではない。グランドデザインが新自由主義に則っている国家はイヤだという民意によって社民寄りの政策方針を掲げた民主の躍進があったわけで、窮めて卑俗な表現を用いれば、お金持ちのほうだけを向いているような政治は困るという途轍もなくわかりやすい民意である。

経済政策の分野で何が一番手っ取り早いかと言えば、お金持ち基準の小乗的な経済振興ほど楽な途はないのだから、新自由主義というのはただの政治の易道である。しかし、国家というのはお金持ちだけで成り立っているわけではないのだから、何処の国だろうがそんな理念を国民が納得して受け容れるはずがない。経済振興を表看板に立てるならお金持ち小乗救済ではなく、国民大乗救済を目指せというのは、当たり前の国政の義務だろう。

今の情勢ではお金持ちを救うのが手一杯、貧乏人の皆さんは我慢してください、などと言う甘ったれた政治など何処の国民が支持するというのだろうか。それが出来ないなら出来ないという前提の政治なんか国民に圧し附けずに、とっとと国政の舞台から降りて出来るという奴に任せろというのが当たり前である。普通、政治というのはこういう緊張感に基づいて行われるべきではないのか。

現在の自民党政治の何が不愉快と言って、「万年与党」の安心感からこういう甘えを逆ギレ気味に国民に強要する図々しさが途轍もなく不愉快なのである。こんな寝惚けた甘えをぶっちゃけても、国民にはどうせ自民党しか縋るものがないだろうと思っている辺りの危機感のなさが不愉快なのである。

国政選挙においては、生活保護を打ち切られて餓死する貧乏人もハイソな生活を満喫するお金持ちと平等な一票を持っているのが民主主義であり、貧乏人と金持ちの一票の重みが平等に扱われている以上、貧乏人と金持ちを平等に扱うべきだというのが民主主義の根本理念である。どんな尤もらしい理屈が附こうが、今の世の中は貧乏人と金持ちの扱いに明確で極端な差別があるのだから、原理的に間違っているのだ。

そして「コイズミ改革」というのは等号で結び得るほどのベタな新自由主義改革なのだから、自民党が「コイズミ改革」の冠に乗り続ける限りガチガチの新自由主義が政策理念だということになる。お金持ちのほうだけを向いているというのは新自由主義の本質なのだから、それが新自由主義改革である限り修正も糞もない。お金持ちのほうを手当てするついでに貧乏人にもちょっと手当てするなどという政治など、正しい国政の在り方であるはずがない。

大連立の問題に戻ると、大連立を組んだ場合、現状では衆院における連立政権サイドの議席数は自・民・公の順になるわけで、衆院における民主の立場としては、如何に小沢が豪腕で鳴らした政治家とは言え三倍近い議席数を誇る自民に対する影響力は最小限に留まるだろう。さらに最終的な政策決定の優位は衆院にあるから、自民にとって目の上の瘤である参院のねじれを連立で解消してしまったら、民主には強いカードがなくなってしまう。

連立を組むということは、個別の政策で対話協調するという以上の拘束力があるということだから、少なくとも野党として対立状態にある現状よりも民主の発言は宥和的なものとならざるを得ない。勿論これは悲観論であり、政権内部に喰い込むことで逆に発言力が上がる場合もあるだろうし、誰かが洩らしたように「尻尾に頭が振り回される」という事態も想定可能だが、それは予想不能な五分五分の可能性である。

つまり、メリットとデメリットが五分五分で拮抗しているということであり、どちらがより説得力のある予想かというのは、人それぞれによって違うというレベルの話に過ぎない。その上さらに大連立という選択肢には、国政の大政翼賛化という原理的なリスクがあって、これは原理的なリスクである以上無視することなどは出来ない。大連立を組んだ後の民主が下手を打ってグダグダになり自民の言いなりになった場合、誰もそれを阻止出来ないのである。

たとえば言い出しっぺの小沢が党を割って下野すればどうにかなるかと言えば、当たり前の話だが蟷螂の斧に過ぎない。今の小沢に影響力があるのは、現状の民主党全体の参院における勢力を背景にしているからであって、党を割って少数派に転落するのでは何の意味もない。

つまり、一旦大連立が成立してしまった上で物事が悪いほうに転べば、有効な抑止力は何処にも存在しなくなるということである。それはつまり、過日の郵政選挙で小泉一個を信用し自民に白紙委任状を渡してしまったのと事情は同じかそれ以上に危険だということである。郵政選挙以降の自民の暴政は、すべてこの郵政選挙で渡した白紙委任状が根拠となっているのだから、今更同じ愚を犯すことは許されない。

如何に魅力的なメリットの可能性があろうとも、国政の場面でフェイルセイフのない状況というのは何を差し置いても絶対的に避けるべきである。

たとえばTVを観ていて菅直人が大連立を否定する為に大政翼賛化の危惧をアピールしているのを聞くと、素直に考えるなら「それはおまいらが国民を裏切るかもしれんということかよ」「だったら裏切らなきゃいいじゃん」とか思うわけだが、それは菅直人の言う通りなのである。大連立が成立すれば、大きな確率で民主は自党に投票した国民の期待を裏切らざるを得ない局面に置かれるだろう。

選挙で躍進した対立政党であるうちなら民意を裏切る可能性は低いが、大連立が成立して政権内部に組み込まれてしまえば、政党個別の考えがどうであろうが大きな確率で連立政権全体の意志に対して肯定的に動く必要が出て来る。連立を組むということはそういうことで、「気の合う時だけのお附き合いですよ」というのなら、連立を組むメリットなどはないし、自民のほうから民主に持ち掛けるはずはない。

また、たとえば新自由主義を撤回しない自民が民主の政策に歩み寄るメリットと、反自民の民意が拠り所の民主が自民の政策に歩み寄るデメリットを比較すると、後者のほうが圧倒的に大きいとオレは考える。

そもそも自民と民主が歩み寄ることそれ自体の故に、民主党の存在意義が消失する危険性すらあるだろう。元々民主党というのは自民党に対して存在意義の部分で理念的な対立軸があるわけではない。社民主義的政策方針というのは、飽くまで自民が新自由主義を標榜しているから、そのアンチテーゼとして「選挙に勝てるマニフェスト」として社民寄りの政策を掲げているに過ぎない。実際、民主党内部にも強硬な新自由主義者がうようよいるのだし、小沢一郎自身が嘗て新自由主義の旗手であったという過去もある。

そんな民主が、新自由主義を表看板に掲げる政権与党に与した場合、党内の新自由主義者の勢力をコントロール出来る保証など何処にもない。彼らが予想以上に頑張った場合には、「党内の有力な意見」ということで新自由主義的な政策が肯定される可能性もかなり高いだろう。それが民主主義における政党政治というものである。

民主の大同目標が「政権奪取」「政策実行」であるとすれば、大連立によって擬似的に政権与党に与することが出来た場合に、自民党的なるものに対する理念的な対立軸は何処に置くのかという不信がある。生活を良くする為の政策を、というのは、自民党だって同じことを言っているのである。自民の主張では、新自由主義改革は国民生活向上の為の唯一無二の切り札ということになっているのである。

民主が自民の対立政党でなくなってしまえば、社民寄りの政策方針を掲げる絶対的な必然性は消失してしまう。民主が今それを掲げているのは、政権獲得の為に選挙で闘う以上自民と対立軸が必要だからであって、そういう理念に基づいた政党だからではない。

最悪の想定としては、選挙の為の乗り合いバスに過ぎない民主党が政権内部に取り込まれることで、自民だ民主だに拘りを持たず政権への接近のみを目的とする個別の政治家の取り込みが容易になるというリスクもある。つまり、民主党という政党が骨抜きのグダグダ、それどころか解党の危険性すらあるということである。小沢が「政策実行の為に大連立を」と言うのであれば、そのような身勝手な個別の政治家が自民党に取り込まれることを批判すべき正当性はないということにもなりかねない。

政治家というのは誰だって政策を実行する為に政治家になったのだし、たとえば自民だ民主だという個別の政党への参加はその為の方便に過ぎない。こんなことは大昔から言われていることなのだから、小沢が大連立に乗ることと、個別の政治家が自民党に鞍替えすることは理念の上では等価である。どちらも同じ「お国の為」の一言で理屈が立つのである。

その上で、民主が大連立を呑むことでもっと良い政策が実現されるかもしれないと期待するのは、小沢一郎という個人を全面的に信頼するということになる。

しかし、オレという個人は政治家という個人を一切信用しないことにしている。私人としては如何に信用に足る人物であろうが、公人としては力不足や日和見や義理しがらみの故に心ならずも背信を犯すことが幾らでもある。だから、政治家という個人は私人的な感情に基づいて信用すべきではないと考えるのである。

私人としての善良さを国政の場で貫くには政治家としての強力な手腕が必要なのであるが、それは勝ちもあれば負けもある勝負事の文脈の話である。今回の小沢一郎は、相手が何であれ総体的には「負け」を喫したわけで、その為に彼個人の私人としての善良さや無私の善意に対する信用は地に墜ちたわけである。

最終的には小沢一郎という個人が「良い政策を実現したいはずだ」という信頼しか拠り所がないとすれば、そのすべての想定の総合として大連立というアイディアにはメリットよりデメリットやリスクのほうが遥かに大きいと判断せざるを得ない。

さらに言えば、今回の辞任劇で小沢一郎は満天下に一人の人間としての弱さをさらけ出してしまった。これまでは「東北人気質」の口の重さ、説明を尽くさない強情な性格の故に豪腕伝説のベールに覆われていた小沢一郎の弱い人間性の一端が、今回の二度の会見で脆くも暴かれてしまったと言えるだろう。

豪腕小沢一郎もただの弱い人間である。民主を取り巻く圧倒的な情勢が悲観的な方向へ進む際に奇跡的な手腕を発揮出来るとは限らない。彼自身の強固な信念が揺らがないとも限らないのだし、寧ろ今回の大連立騒動というのは紛れもなく「揺らぎ」を動機とするものであることが自身の口から明かされた。今回の謀略劇の一部始終は、影で糸を引くお定まりの「悪党」がいたことは間違いないが、小沢の人間的な弱さと揺らぎがもたらした事件でもある。

政治家というのは、政治家個人の思想信条や個別の立場と民意の要求するメリットが合理的に一致した局面においてのみ信用し得るものであって、たとえば小沢だから信用出来るとか、福田だから信用出来ないということではない。小沢を信用して好い局面、信用してはいけない局面というものがあって、それは小沢個人の人間性とは無関係な次元の話であり、有権者が冷静に判断しなければならないことである。

オレは福田康夫だって私人としては比較的結構な人柄ではないかと思うし、小泉や安倍よりよっぽど上等な人間だと思っているが、たとえばそんな結構で上等な人種でも小泉政権下で北朝鮮問題の実務を取り仕切る場面では、被害者家族を頭ごなしに叱咤したりするわけで、それはそういうふうにするのが、あの場面における彼の公人としての仕事だったからであり彼はそういうやり方で自分の仕事をこなしたわけである。

誤解を招く言い方かもしれないが、あの場面で福田があのような対応をしたことは、彼の人間性の問題というより仕事の仕方の質の問題である。それ故に、たとえばオレは現時点における福田康夫という政治家は、如何に自民党に有利な形で衆院選に持っていくかという条件附けにおいては有能な人材だと思うし、大連立騒動における振る舞いを視れば、あそこで恥知らずで下司な悪党になりきれず葛藤を抱えてしまう辺りの私人としてのプライドの高さが弱点でもあると思う。

巷間では「阿吽の呼吸」「今はまだ話すべき時ではない」という福田の姿勢は批判を受けているが、小沢があれだけ悲痛な形で「一国の総理」という立場の重さを慮って発言している場面において、「あんなのは小沢さんの片口だよ」と厚顔に言い棄てられずにキョドってしまうプライドの高さというのは、一政治家としての弱さでもあるだろう。

多分、小沢の辞意表明を受けて茫然自失したというのはポーズではない。官房長官時代の愚民を見下したような言動で随分評判の悪い人だが、自分を信頼する相手を卑劣に陥れるという不愉快な立場に立たされたのはこれが初めてなのではないかと思う。おそらく今回の一件で、小沢一郎同様福田康夫という個人の心も折れてしまう可能性があるのではないかと思うのだが、少なくともこれまで持っていた実務への自信の幾許かは失せてしまったのではないかと思う。

オレは福田康夫自身も大連立構想を真に受けてその前提で動いていたのだと思うし、一時伝えられた小沢への譲歩案もたしかに語られたのだろうと思うが、おそらく大連立拒否と小沢への問責という民主の動きで、状況が大きく変わったのである。大連立という前提があったとは言え、給油活動や海外派兵の問題で民主に譲歩したという過去は、大連立が潰えた後には決定的に不利な言質となる。

自身の口から責任を持って小沢一郎という個人に確約したことを、後からなかったことにして剰えその責任を全部相手に圧し附けるというのは、おそらく福田康夫という個人にとっては耐え難いまでに屈辱的で卑劣な行為なのである。これまでは自身の調整能力で崩れかけた自民党を支えるのだという矜持があったとしても、結果的に自分がやらされたのは政敵を倒す為のなりふり構わぬ薄汚い謀略の片棒担ぎである。

福田康夫という人も一旦心が折れると結構ヤケになる人だから、個人対個人の観点で言えば、この事件で痍附いたのは小沢一郎だけではない。福田康夫という個人もまた穢れた政治の泥を被って痍附いているのではないかと思う。しかし、それは個人のドラマとしては興味深いが、国民視点では重要なことではない。

小沢一郎はおそらく福田康夫という個人の誠意を信頼して大連立に乗り気になったのだろうし、福田康夫という個人もまた最初から小沢一郎を裏切るつもりなどはなかったのだろうが、結果的に大連立は潰れ、福田は小沢の信頼を裏切らざるを得なくなった。政治の局面において個人の人柄や個人と個人の信頼は確実な力とは成り得ない。政治というのは個人のドラマではないのである。小沢が会見で見せた涙は、個人が政治を動かしていた時代の終焉に対する感慨の故ではないかと思う次第である。

だからオレは、政治家個人を絶対的に信頼しないし、そのように信頼することは酷なことだと思うのだし、たとえば福田を呼び捨てにして小沢をさん附けで呼ぶような特定の立場に立つことは心情的に出来ない。政治の世界に生きる個人は、国民からひとしなみに呼び捨てで呼ばれるべき公僕であり、私人としての感触から信頼したり攻撃したりすべき対象ではないと思う。

オレは特定の問題においてオレの生活を利する主張を訴える政治家を支持するし、オレが理念的に正しいと考えることを訴える政治家を支持する。それは個人として信頼出来るから支持するのではなく、その政治的実践がオレという個人の考えに合致する限りにおいてのみの一時的な支持であり、政治家自体は一切信頼しない。

その限りにおいては、福田も小沢も小泉も安倍も等価であり、小泉と安倍は日本という国家をオレのような一衆愚が許容出来ないほど悪質に変えてしまったから批判するという、それだけの話である。個人としての政治家や特定政党を信頼するから、政治家は先生様なのだし自民党はまだまだ安泰なのである。

皮肉なことだが、この大連立に関する一連の成り行きこそが、大連立構想が必然的に内包していた危険性を十全な形で内外に示したと言えるだろう。

自分がお膳立てを整えた大連立構想が潰えた途端に、掌を返して「大連立を持ち掛けた小沢」を叩きに掛かり会見の質疑を誘導して小沢の敗北を強調するナベツネ読売の報道姿勢を視れば、そんな構想に乗らなかったことは結果的に幸運だったと言えるだろう。

この一連の騒動における読売の小沢批判報道の基本姿勢は一貫して「大連立=卑劣な野合」というストーリーに則っているが、ナベツネには自身の構想を自身のメディアにおいて一貫して肯定的に語り抜くという最低限の誠意すらないのである。

そんな輩が背後で蠢いている「卑劣な野合の大連立」の前途に、どんな汚い奸策が待ち構えていたのか想像すら出来ない。そんな汚らしい奸計に対抗するには、福田も小沢も剰りにナイーブであったことは今回の騒動への対応で明らかである。

今回の騒動でオレは「福田も小沢も予想以上にマトモな人じゃん」と思ったのだが、それは判断の材料にすべきことではないということである。

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