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2007年11月15日 (木曜日)

人の口に入るもの

今朝のニュースで「白い恋人」の販売再開を識った。最近、この種の賞味期限の改竄だの原材料の不当表示だのと謂った事件が連日報じられているが、一般の人はこういう事件を耳にすると何ういうふうに感じるものだろうか。やはり食に関する安心・安全という文脈で、許し難い不正だと思うのだろう。

まあ、口から身体の中に入るものの安心や安全というのは、たしかに消費者にとって重要なテーマである。改竄だの偽装だのというのは、やっぱり許すべからざる重大な不正だとは思う。天の邪鬼なオレでも、別段そういう企業不正を擁護するほど臍曲がりではないつもりではあるが、こういう報道を聞くと、「あー、要するにオレらそういうものをこれまでずっと喰ってきたわけね」とか思っちゃうわけである。

賞味期限改竄の問題に絞って謂えば、それで集団食中毒が出たとかそういう話でもないわけで、勿論そんなことがあったら「ごめんなさい」と土下座しても済まない大問題であるが、オレらはこれまでそんな乱暴に作られている喰い物をこういうモンだと思って平気で喰って、腹も毀さずそれなりに美味いと思ってきたわけである。

石屋製菓の問題に関しては、他の菓子類から大腸菌だの黄色ブドウ球菌だのが検出されたのだから、集団食中毒一歩手前のヤバい状態だったわけだが、随分長い間喰い物というのはその程度の管理レベルで生産されていたわけである。そういう世の中の在り方を多くの人に知らしめたのが二〇〇〇年に起こった雪印の集団食中毒事件で、これは国内最大の乳業メーカーの解体にまで繋がった大事件である。

この件が明るみに出たことで、オレたちは自分がこれまで大量生産の喰い物を喰って腹を毀したり死んだりしなかったのは、単に運が悪くなかったからだということを思い知らされたわけである。食中毒で亡くなった方にはお気の毒な言い方だが、これまでオレたちが喰っていたのは、死なないのは運が良いと言えるレベルではないが、運が悪ければ死ぬようなバランスの安全レベルだったわけである。

都市伝説の部分もあるだろうが、たとえば近所に大メーカーのでっかい食品工場がある町では、学生生徒のポピュラーなバイト先がそこであったりして、そこで働いた経験のある者は口を揃えて「そこの製品が喰えなくなった」と言うものである。

食品工場では大量に食材を扱うのだから、やっぱり作る工程を目の当たりにしたら気持ち悪くて喰えなくなるようなぞんざいな扱いというのはあるわけで、よく聞くのは雪印の件でも言われたような「工場内をハエがぶんぶん飛んでいて釜に飛び込んだりする」という類の話だが、高温で煮沸して濾過したりするわけだから、消費者の口に入る段階では殆ど実害はないだろう。

イヤガラセを言うようだが、喰い物を大量に製造する場面では、多かれ少なかれ消費者が実態を識ったら嘔吐を催すような杜撰なことをしているものだろう。そういう意味では現場の感じ方と消費者の感じ方には大きなズレがあると言えるだろう。

賞味期限や消費期限というのは、割合に安全マージンの余裕を持って決められているものだが、そのマージンの分だけ食品会社側は損をするのだから、必ず不満はあるものだろう。確実な安全性の為にそれだけマージンをとりなさいということなのだが、どうも精査してみるとその安全マージンには具体的な根拠があまりないらしいし、企業視点で言えば具体的にお金に関係してくることなのだから「ちょっとくらいならいいじゃねぇか」というのは何処の会社にもある本音ではないだろうか。

何度も言うようだが、だからと言って食品会社の不正を擁護するつもりなどは更々ないが、今の世の中になって、これだけ続々とこれらの企業不祥事が報道されているということは、大量生産の喰い物というのは元々そういうふうに作られていたし、オレたちはそういうものを喰っていたんではないかということである。

お上のほうも、建前上は安全マージンを義務附けているわけだが、企業サイドはグレイゾーンのところでちょこちょこズルをしていたんではないか、と無責任に憶測してしまうわけである。それで事件が起これば厳しく処罰するが、何も起こらなければそれほどお堅いことは言わない、そういうバランスでこれまでやって来たんではないだろうか。

それでも大昔の公害時代ではないから、森永砒素ミルクカネミ油症のような深刻な事件は起きていないわけだが、「ちょっとくらいならいいじゃねえか」という本音が許されるのなら、常にその種の危険性へと繋がる可能性があるわけで、可能性の範疇においては「食の安心・安全」の問題と言えるだろう。

食品の問題に限らず、昨今は企業不祥事が明るみに出ることが多いわけだが、これはおそらく最近になっていきなり不祥事が増えたわけではなくて、それが露見しやすい世の中になってきたということだろう。大きな不祥事の発生と景気の変動はあまり相関していないわけだから、まあ昔からそういうものだと考えたほうが妥当ではないだろうか。

わかりやすい言い方をすれば、企業不祥事の報道が相次ぐということは、悪いことをする奴が増えたのではなく、識らぬが仏で済んでいた世の中だが、渡る世間は鬼ばっかりだったということが更めて暴露され、旧時代の膿が出されているということだろう。オレたちは、随分昔からそういう油断も隙もない世の中を生きてきたというわけである。

実際には一罰百戒の意味もあるだろうから、赤福餅だの比内鶏だのという比較的影響力が少ないところが摘発を受けているわけだが、他のメジャーな食品会社が似たようなことをしていないとは言い切れないわけで、まあこういう世の中だから今までよりちゃんとやりなさいという見せしめということだろう。

正味な話を言えば、たとえば赤福餅なんかは「昔より味が落ちた」という評判はあったようだが、それで雪印のような集団食中毒が発生したわけではないし、比内鶏だって調味加工の工夫でそれなりに喰える代物だったわけだから、これらの問題に限って言えば現時点では消費者を騙す詐欺的商法のほうが大きな問題で、食の安心・安全の問題からはまだ少しだけ距離がある。

この二例の実害を特定すれば、赤福なら「新鮮な製品より日持ちがしなくて不味い」ものを同価格で売っていたことが問題なのだし、比内鶏なら「二束三文の屑肉を羊頭狗肉で値を吊り上げた」ことが問題なのである。勿論そこから集団食中毒やBSE絡みの肉骨粉のような問題までは同一線上にあるのだし、ミートホープの一件などは論外の外で完全にアウツである。

オレ個人としては、長らく貧乏な独身生活を謳歌している都合上(笑)、散々傷みかけた古い喰い物を喰った経験があるので、まあ人間何を喰ってもそうそう腹毀したりしないよなとか思っちゃうのだが、近年はアレルゲンの問題なんかも周知されているので喰い物の安心・安全には殊の外市民の関心が高くなっている。

体質も個々人夫々でちょっと古いものを喰っただけで死にかける人もいるわけだし、魚介類の場合にはヒスタミン中毒などもあるわけで、運悪く中たっちゃった人のところに札束を抱えて謝りに行けば済むような世の中でもなくなっている。

決められている基準をちゃんと守らない企業は、最終的には衛生管理が杜撰だということになるわけだから、ちょっと味が落ちて日持ちのしない古い菓子がまだ喰えるからといって売っちゃう企業は、そのうち生産設備に大腸菌や黄色ブドウ球菌が湧いて出たりするし、蛆だのハエだのが混入しても害はないからいいだろ的な企業は、食品添加物にヤバい代物が混入する危険があるわけで、目の前のアンコがまだ喰えるから売ってもいいだろうという考えは最終的にそこまで繋がっているわけである。

何というか、昔はそういうのは食品メーカーが本質的に抱えているリスクだったわけだが、大半の人間というのはそうそう簡単に腹を毀すものではないし、一口喰えば傷んでいるかどうか判るものだから、企業経営の上でそれなりに許容可能なリスクだと考えられていたわけである。

年間の食中毒件数は大体数万人というところだから国民の数千人に一人の割合で、その中で死者は一割未満、そのうち企業の安全管理に責任のあるものというのは極僅かな割合に留まるだろうから、まあ企業視点では無視出来る許容可能な範囲と言えるだろう。許容可能なリスクを根絶する為に常態としてコストをかけると利益率に大きく影響するから、そこら辺をアレしてコレしてナニしていたわけである。

おそらく、その種の企業不祥事が喧しく報じられるようになった頃から、それでは成り立って行かなくなってきたのだろう。企業経営の透明化や説明責任ということが煩瑣く言われるようになってきて、食の安心・安全に対する市民の関心も高くなってきた、さらには消費者団体も一定の社会的圧力を獲得するようになってきた、内部告発なども活発化してきた、インターネットの普及がそれに拍車をかけるわけで、「どうぞして、これで内々に」とか「残念ですがこれ以上の要求にはお応え出来かねます」が通用する世の中ではなくなってきたわけである。

それが通じる世の中だったということは、企業の側も生活人の側も喰い物一般に関してそのようなリスクを織り込んで生きていたということになるのだが、そもそもそれは大量生産で喰い物を作る企業の側の都合を黙って圧し附けていたわけだから、今のような企業と生活者が対等の関係を求められている世の中で通用するものではないだろう。

これまでの経営の常識では、その辺のグレイゾーンでナニすることが織り込まれて算盤を弾いていたとしても、これからは絶対ダメだということで、そこをちゃんとやって利益を出すにはどうするのか、という問題である。

まあ、それがパラダイムシフトの問題である以上、陰気な話だがマネーフローがいっぱいいっぱいで、自転車操業しているような中小企業から打撃を受けていくのは間違いないだろう。そういう背景があるから、喰って死なないものはアレをナニして売ってしまえという杜撰な経営姿勢がいつまで経っても改まらないのだろう。

結局この手の問題が後を絶たないのは、売れ残りを馬鹿正直に全部廃棄していたら保たないような脆弱な経営基盤の会社が多いからである。何がどれだけ売れるからこれだけ作ろうというような無駄のない商売など不可能だし、そのウェスト分を織り込んでも存続が可能なのは、経営基盤が大きな一部の大メーカーくらいだろう。

そんな大メーカーにしたところで不祥事が後を絶たないのだが、たとえば雪印の件では道政にも絡むような相当大きな経済的影響が出たわけだから、監督官庁としても、不良企業をいきなり摘発して潰してしまえば済む問題ではないということはわかっているわけで、摘発に至る前の段階で指導や圧力によってどのように経営の実態を安全な方向に持っていくかという問題になるだろう。

言ってみれば、石屋だの赤福餅だのの小口の商いが土下座している間に何とかしておけということなのだと思うのだが、オレが過去の仕事で食品メーカーと附き合った経験で言うと、何うも食品メーカーというのは、元々利幅の小さい国内需要向けの業態であるから、一般に体質が保守的で事勿れで腰の重いところがあって、危機感がかなり身近に迫ってくるまでは無為無策で同じようなことが暫く続くのではないかという気がする。

「食の安心・安全」を積極的にウリにしているのは殆ど大手金融資本がバックに附いた外資系の外食産業ばかりで、国内企業としては「ウチはきちんとやってるから大丈夫」とか、無根拠に思い込んでいるのが実情ではないだろうか。おそらくは雪印だって、ああいうやり方でまさかあれだけの大規模な食中毒が発生すると思って手を抜いていたわけではあるまい。何となくこれまで大丈夫だったから、これからも大丈夫なんだと思い込んでいただけだろう。

しかし、たとえば雪印は二〇〇〇年の事件の四五年前の一九五五年にも同様の事件を起こしていたわけで、

雪印乳業は、食中毒の発生後しばらくの間、新入社員に対し事件を戒める教育を施していたが、やがて風化した。

災害というのは起こらないに越したことはないのだし、起こらないように日々の管理を徹底するわけだが、久しく起こらないと容易く忘れられてしまうものである。忘れたものの為に管理を徹底するというのは結構空しいもので、起こらないのが当たり前であると思い込んでしまう。四五年というのはほぼ半世紀であるが、半世紀起こらなかったリスクに対処する為に、半世紀の間管理手順を継続的に厳守するのは難しい。

何故なら、たとえばあなたが製造業に従事しておられる方なら実感としておわかり戴けると思うのだが、この種の管理マネジメントの手順というのは、端的に言って大変面倒臭いからである。わかりやすい攻めの実績は何らもたらさないのに、それと同じくらいの労力を要求するからである。それを遵守することによって目に見える成果が顕れるというのであればモチベーションは持続出来るが、何かが起こらないようにする為の手順の重要性は、その何かが起こってみないと実感出来ないものである。

その結果、忘れられたリスクは被害規模が一〇倍にも達するような大災害としていつの日か必ず目の前に再び顕れるわけである。

喩えて言えば、「龍神様をお鎮めするのじゃ」とか言う名目で脈々と受け継がれている村の掟がとんでもなく面倒臭いモンだったりすると、龍神様なんて視たこともないし怖くもない若者は無駄な迷信だとしか思わないわけで、面倒臭いばかりだから誰も積極的に遵守しようとはしないが、いざ掟を破って龍神様が大暴れしたりすると覿面に大事になってしまって誰を責めてみても無意味になるわけである。

まあそれ以前に、たとえば雪印の問題でいえば、大昔の龍神様が暴れた時代に決められた対処法を、半世紀後に同様な事態に至ったとしても直ちに実行出来るかと言えばそんなわけはなくて、古文書を引っ繰り返したりしているうちに原材料乳はアッサリ雑菌に汚染されたりするわけだが、そうなると、ではその原材料乳を廃棄するか何うか、もっと言えばそれを上長に報告するか何うかという場面で適切な対処をとれる可能性はかなり低いわけである。

システムや現場の慣習の不備であっても、暗黙の慣行である以上何の根拠にもならないわけで、剰え原材料を廃棄するとなると金銭的な損失が生じるのだから、その責任を誰かが具体的にとらねばならない。まあ簡単に言えば、この世知辛いご時世においては、誰かの馘がポンと呆気なく飛ぶわけである。

それらの事情を総合するなら、たとえば予期せざる停電によって生産設備が停止したとすると、適切な対処によって原材料の品質を保護するには間に合わないわけだし、その結果原材料が雑菌に汚染された可能性がある場合、現場から上長への報告にも逡巡が生じるだろうし、さらに上長の判断においても原材料の廃棄を決断するには抵抗がある。つまり、すべてが後手に廻るわけである。

その場合に一番楽なのは、みんな黙っていて運を天に任せることである。それで何も起こらなければ誰一人困らず、単にこのロットの製品に当たった消費者が多少品質に問題のある製品を手にするという「だけ」で終わる可能性があり、食中毒に至らなければ識らぬが仏の話である。

つまり、誰か英雄的に勇気ある人間でも居合わせない限り、このような事故が起こった場合には、生産設備内の人的組織の自律によっては決して大災害を回避出来ないということである。

一旦原材料が汚染の可能性を蒙ってしまえば、必ず現場の責任問題になる。こうした事故の際に誰も処罰しないということは、そのような事故を回避すべき組織内の圧力が存在しないということなのだから、責任者の処罰は必要なのである。そこで我が身の処遇を顧みず適切な行動をとる「英雄的に勇気のある一個人」を期待するのは、最早リスクマネジメントでは在り得ない。ならば、たとえば不測の事態で原材料の安全性を確保する生産設備が停止した場合には、是が非でも原材料の品質を確保するということが唯一の有効なリスクマネジメントである。

徹底した人材教育を定期的に施すか、生産ライン上に機械的なフェイルセイフを設けるか、何れにせよそれにはそれなりのカネがかかる。半世紀前の教訓が現在只今のリスクに何の益もなかった雪印の例を視るなら、半世紀に一度起きるか何うかわからない致命的なリスクを回避する為には、それを目的化した緻密な努力が必須である。

それ故に、食の安心・安全を企業に求めるのは簡単なことではない。なまじこれまで何十年も何とかやってこれだだけに、経営の根本的な改革を求めることは難しい。叩かれている時だけ頭を低く垂れてやり過ごせば、今まで通りやっていけるのではないかという空しい期待が常にあるだろう。

まあ、オレの口に入るものが何の疑いもなく安全なものとなるまでには、まだ暫く時間がかかるのではないかと踏んでいるのだが、それもまあ、偶々そういう時代に生まれた者の限界なのだから仕方がない。オレより若い世代の人々がオレの死んだ後にそういうものを当たり前に喰えるようになれば、それで御の字というところだろう。

ひょっとしたら、そんな時代においては「昔は癌みたいなつまんない病気で人が死んでたんだってねぇ、嘘みたい」とか言われているのかもしれないが(笑)。

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