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2007年12月23日 (日曜日)

at full thlottle

予告通り北川景子主演の深夜ドラマ「モップガール」のレビューである。手許に録画がすべて揃っていない状態でドラマレビューを始めるのも当ブログでは前例がなく、記憶頼みの欠落があるのは心許ないこと夥しいのだが、先日報告したような次第で特定期間の録画データがすべてパーになってしまったのだから致し方ない。

このドラマに関しては、事前にまったく期待していなかったということはすでに何度か語ったが、それはハッキリ言って女優としての北川景子を一切評価していなかったからである。そういう次第で、今回はまず「女優・北川景子」に関する考察から話を始めたいと思う。


●或いは一つの北川景子論

彼女が初めて演じた連続ドラマである実写版セーラームーンにおける演技に関してはすでに「失はれた週末」で何度も論じているが、パフォーマンス能力としての演技力はさておき役柄解釈が決定的に間違っている、つまり脚本がまったく読めておらず通り一遍の解釈で演じる為に、ドラマの意味性が変わってくるという弊害が多々あったと思う。

少なくとも「失はれた週末」における基本認識はそのようなものである。その意味では一種の北川景子戦犯説でもあるわけだが(笑)、このモップガールを経由することで若干オレの北川景子観が修整されたことは事実である。それは別段一演技者としての北川景子を見直したとかそういうことではなくて、個人としての北川景子のメンタリティに対する認識が若干変わったということである。

結論から先に言うなら、この人は見た目ほど自分というものをしっかり持っている人物ではないのではないか、そのように考えるようになった。つまり、周囲に影響されやすい人なのではないか、ということである。

実写版セラムンにおける役者個人のメンタリティについては、オレよりもLeo16 さんたちのほうが緻密に考察しているのではないかと思うので、是非ご意見を伺いたいところであるが、公式サイトの記述やその後の言動などを視ると、北川景子という人は実力以上に女優としての自意識が突出した人物のように見えるのだが、もしかしたらそれは彼女本人のメンタリティというより、周囲の影響だったのかもしれない。

思えば、セラムンキャストの中で最も監督の言うことを聞かない女優と言えば、誰が視ても梨華こと浜千咲にトドメを刺すわけで(笑)、Act.14の舞台裏のエピソードだったかと思うが、舞原監督はもっと地味目な衣裳を考えていたのに、ハマチのおねだり光線に撃たれて当初の思惑よりも可愛い衣裳にOKを出したという話がある。これなどは冗談事の範疇だが、ハマチの普段の演技スタイルを考えると、監督の言う通りに演じているとはちょっと思えないところがある。

DVD特典の「セーラームーンにおしおきよっ!」の座談会で視ても、何というか素直に監督の言うことを聞いて真面目に頑張りますというようなメンタリティの人にはとても見えないわけで、妙にマイペースで誰も視てないところでこっそりズルをするような人の悪そうな部分がある。しかし、劇中における水野亜美というキャラの深みというのは、そういう本人の柄と密接に関係しているような気がするわけで、ハマチの演技には常に視聴者の意表を衝くような意外性と妙な説得力がある。これはつまり演技の型が子役っぽいということである。

片や主役のうさぎを演じる沢井美優はまさに子役の出で、そこから一般的な俳優としての演技スタイルへ脱皮する過渡期にこの実写版セラムンがあったというのがオレの認識なのだが、シリーズ前半のエピソードでうさぎと亜美ちゃんを巡る芝居が重視されたことから、この両極端な演技スタイルの二人の「女優」の影響で、素人に毛が生えた程度の役者・北川景子に変な突っ張りが生じたのかもしれない。

失はれた週末のレビューでは、沢井美優と浜千咲の演技に対して終始高評価を与えているわけだが、厳密に言えばこの二人は全然芝居の性質が違う。沢井美優はきちんと脚本を読み込んで非常に的確で迫力のある芝居を演じるわけだが、浜千咲は脚本を読み込むというより勘で演じている部分があり、おそらくその演技は各話の演出者が当初予想したものとはまったく違うはずである。

ハマチの演技が面白いのは、演出者が意図したらこういう意想外な芝居にはならないだろうという部分で、誰かが附けた演技というふうには見えない。この人はそれまで演技経験などなかったのだから、女優としての勘があるという言い方も出来るし素の柄が面白いという言い方も出来るわけで、それは子役が人気を博する演技のパターンである。

つまり、実写版セラムンの主演陣を演技者の観点で視るなら、まともに職業俳優として評価出来るのは沢井美優だけで、ハマチはたまたま勘が良くて面白い柄だったということになり、後の三人はスキル面では女優以前の問題である。この三人のうち、小松彩夏と安座間美優に関しては分際を弁えて素人なりに謙虚な自己認識で頑張っていたわけだが、どういうわけか北川景子だけが実力以上に女優的な扱いを受けるようになったということになるだろう。

たとえば、スタートから暫く措いて登板した鈴村展弘監督に対して彼女が「レイちゃんのことは自分のほうがわかっているから」と突っ張ったのは、見た目が若くて当たりの柔らかい鈴村監督がナメられたということもあるだろうが(笑)、途中から入ってきたよく識らない監督よりも自分のほうが役柄を掴んでいるという自負で、これは役柄を的確に読み込んでいる沢井美優や動物的な勘で自分に引き寄せてモノにしている浜千咲から刺激された部分もあったんではないかと思う。

そういう女優的なエゴの突出したエピソードは、どうも放映前の番宣スペシャルのインタビューで垣間見せた、何処か自信なさげで常識的な彼女のイメージと整合しないものがあり、あれは猫を被っていたのかと訝ったものだが(笑)、連続ドラマの現場において非常にプロっぽい沢井の物腰と、主演の重圧をまったく意に介さないような天然なハマチを視ていて、変なふうに女優としての自意識が肥大したのかなと思わないでもない。

移籍した先がスターダストというのもそういう傾向に拍車をかけたと思うのだが、これはどちらが原因でどちらが結果なのかわからない。本人サイドに女優としてやっていこうという強い希望があったものか、たまたま移籍した先が俳優業に力を入れている事務所だったのかは定かではないが、この事務所の出世頭と言えば常盤貴子や竹内結子で、この二人は自ら仕事を選ぶことで有名な女優である。事務所自体、メディアへの影響力を背景に所属俳優の仕事を選び安売りしない傾向がある。

まあ、常盤貴子の場合はデビュー作の「悪魔のKISS」でティクビまで出してヨゴレ役を演じた苦労人だし、それなりに下積みから這い上がって視聴率女王になった経緯があるのだから、今現在仕事を選ぶのも仕方がないだろうが、竹内結子などは実績と扱いがまったく整合していない。

精々実績と言えるのは「ランチの女王」や「不機嫌なジーン」、映画では「いま、会いにいきます」くらいのもので、実は大した仕事はしていない。ランチは豪華な男性出演陣の人気に後押しされているし、ジーンは単に脚本の大森美香が向田賞を受賞したから評価されているだけで視聴率的には惨敗しているし、有り体に言えばそれほど面白いドラマでもなかったし、竹内結子でなくても成立した役柄である。

世間的には実力以上に優遇されている女優の代表格は伊東美咲だと視られているようだが、オレは伊東美咲はそれなりに下積みも長いし視聴率の実績もある上に、電車男以来周囲からチヤホヤされるマドンナ役という得意ジャンルもあるし、その使い勝手相応の下世話な扱い方をされていると思うから、寧ろ竹内結子のほうが実力や実績以上に大女優として過大評価されていると思う。

…いや、今重要なのは竹内結子の悪口ではなくて(笑)、スターダストという事務所のプロモーション傾向である。何となくここの所属女優は、沢尻エリカなどに顕著な傾向だが実力や実績の割には誰も彼も無闇に大女優を気取るイメージがあって、事務所全体の戦略としても女優としてのパブリックイメージを羊頭狗肉に煽りつつ実績を作らせるという本末転倒した傾向があるように思う。

大女優、大名優というのは、とにもかくにも数をこなしてからの話である。最初から大女優や名優を目指して出演作を絞り込むというのは、裏を返せば単に俳優を出し惜しみして売り時を長持ちさせようというだけの話である。たしかに人気商売において無闇矢鱈に露出を増やすことはそれだけ大衆に飽きられやすいということだが、大女優だの名優だのという評価は一旦大衆に飽きられたその先にあるものであって、売り惜しみやイメージ戦略で得られた大女優の名声など空しい虚構でしかない。

北川景子の場合も、実写版セラムンにおける演技を視るに、まだまだこれから吸収することや勉強することが多々あるという程度の実力なのに、いきなりアメちゃんのB級映画に無理矢理ちょい役でねじ込んで「ハリウッドデビュー」をド派手に謳うという、どう考えても本人の為にならないようなパチモン臭い売り方をしていた。

DOCOMOやカネボウのCMでもバーターでねじ込んでもらってはいるが、どう考えても世間の視る目では他の出演女優とは格が違うわけで、そこまで無謀にプッシュされると傍目に視ていて痛々しいくらいである。

そういう芳しくない流れがあったものだから、オレの中で北川景子という存在は「大手事務所の営業力でプッシュされているパチモン女優」という線ですっかり固まっていたわけで、演技に大芝居の臭みがあり脚本の読解も怪しい素人レベルの実力の儘に周囲の扱いと本人の自意識ばかりが肥大していくという「なんちゃって女優」の道をひたすら歩んでいくのだろうと思っていた。

こういうイメージがあったものだから、モップガールにおける役柄も従来の出演作の連続上にあるシリアスなものだろうと踏んでいて、お得意の勘違いした大芝居が炸裂するイタい芸風の作品になるのだろうと予想していたのだが、蓋を開けてみると寧ろこの枠のヒット作である「時効警察」のテイストに通じるギャグ路線で、北川景子の役どころも「女優様でござい」という気取りをかなぐり棄てた変顔満載の莫迦演技であった。

ただしそれは、このドラマを境に北川景子の演技傾向が劇的に変化したというわけではなくて、たしかにギャグコメディを演じるという意識は本人にもあっただろうが、基本的な演技の傾向は変わっていない。変わった部分があるとすれば、おそらく本人の女優としての自意識の在り方なのではないかと思う。

この番組の成功要因の第一に挙げられるべきは、北川景子の使い方がかなり考えられているという点で、常日頃から言っていることだが、映像作品における俳優の演技というのは本人の体技のスキル云々というより使いようのものなのであり、その意味では観客の目の前に俳優の肉体が現前し同じ連続的な時間を共有している演劇におけるそれとは異質なものである。

この番組の作品世界のハイテンションなギャグテイストは、北川景子の臭い大芝居をメタ的に相対化してしまうわけで、つまりこの作品に北川景子の演技スタイルがマッチしているということは、従来の彼女の演技がメタ的な観点においてはギャグでしかないという批評的言及にもなっているわけである。

北川景子の代名詞ともなっている大袈裟な泣きの演技は、作品のシリアスな基調を前提にして視るなら、観客をうんざりさせる泥臭い小屋芝居でしかないが、引いた視点で視れば誇張された滑稽な所作事でもある。つまり、周りの空気を読まずに大きなアクションで烈しい感情を炸裂させるという行為は、本質においてギャグでしかないのである。

普通に実力のある俳優なら、個々の作品のリアリティが要求する所作事のレベルを推し計って、それがギャグにならないギリギリのラインで強い肉体表現を演じるものであるが、そこの計算が出来ない駆け出しのなんちゃって女優に過ぎない北川景子は感情の振幅が極端に大きいアクションを常にフルスロットルで演じるわけで、そこが一口で言って臭かったわけだが、それならそれでそのようなフルスロットルの所作事にマッチするだけのリアリティを用意してやれば有効に使えるということになる。

そして、現代の映像作品においてそこまで極端な振幅を持つフルスロットルの大きなアクションを容れ得るリアリティの器とは、そのものズバリのギャグドラマでしかないというのがこのドラマが提示した一つの解答である。

その意味では、今平作品で注目を浴び世間的には天晴れ一個の映画女優様と目されていた麻生久美子が、冷静に視たらただの大柄で猿顔の変なキャラに過ぎないという位置附けの下に、時効警察で散々ヨゴレキャラとしていじられたのと事情は似ているだろう。

まあ、俳優というのは貶められれば貶められるほど燃えるという本質的に変態的なメンタリティの持ち主らしいので、俳優稼業の面白さに目覚めた者は好んで私人としてのプライドの限界を突破するような恥ずかしい汚れ役を演じたがるわけだが(笑)、麻生久美子辺りは別段自分のことを綺麗綺麗な美形女優だとは思っていないだろうし、変なキャラを演じるのが純粋に楽しかったのだと思うが、駆け出し女優の北川景子にとっては、女優の仕事がシリアスで綺麗な美形を演じるだけのものではなく、人から嗤われることも仕事のうちだということを知らしめる意味で今回の経験は意味があっただろう。

これを機会に癖のある変人の役柄で暴走する脇役女優として売り出したら、それなりの存在感を示せるのではないかと思うのだが、具体的に言うとそれは要するにこのドラマで共演した曲者女優たちの仲間入りをするということで、若くて顔立ちが整っているというだけで基本的な芸風がギャグなのだからそれも仕方がない。

このドラマの観客は、北川景子の演じる長谷川桃子が洟垂らして大泣きしている様を目にしてもシリアスドラマのように辟易したりはしないし、寧ろ滑稽な所作事として笑い飛ばしても構わないという諒解が彼我の間に成立している辺りが安心出来るわけだが、ギャグとシリアスが渾然一体となったこのドラマのテイストに導かれ、子供のように手放しで大泣きしている桃子の姿を嗤いながらも一種の感動を覚えることが可能となる。

これまでに北川景子が演じたキャラの中でも長谷川桃子という主人公は出色の造形なのだが、それはこれまでの北川景子の女優歴を「若くて整った美形女優が、シリアスなドラマでハイテンションなギャグを演じている」と解釈する視座の賜物である。

これはまあ、当たり前の意味では北川景子当人にとっては不名誉な視られ方ではあるだろうが(笑)、寧ろオレはこんな扱いを受けているのに腐ることなくノリノリで演じている辺りの姿勢に驚かされた。こういう方向性もまた、女優が辿るべき道の一つではあるのだが、一線級の花形女優はこういう汚れ方を剰り好まない。

スターダスト所属の先輩女優たちもコメディを演じることはあるが、それは飽くまで女優としての抽出にコメディ演技も入っていますのよオホホのホ的な位置附けのもので、このドラマの北川景子のように演出に言われた通り糞真面目に剛速球の莫迦演技を演じるというタイプのものではない…つか、なんでスターダスト所属の女優にこんなに敵愾心があるんだオレは(笑)。

どうもこの作品における北川景子の意識としては、意図的に観客を嗤わせるコメディ演技を披露しているというより、自分が嗤われる立場の役どころだと識りながらシリアスドラマと同じようなテンションで真面目に演じているようにしか見えない。それがどうもこれまでのオレの北川景子観と違和感があるわけである。

たとえば北川景子は、たしか映画初出演の頃にはセラムンの出演歴はおろかSTモの過去にも言及しなくなったわけで、「ハリウッドデビュー」や主演映画の頃には初出演映画のことさえ経歴上では言及されないという、常に過去を黒歴史化する姿勢がイケ好かなかった(笑)。それは一線級女優への上昇志向の文脈で考えるからそうなるわけだが、ハッキリ言って今回のモップガールは一種の下降である。

これが連ドラ初主演ということになるのだから、その意味ではキャリア上昇のステップを一段昇ったことになるが、それが時効警察の連続上のギャグドラマというのは、女優の格としては下降のベクトルということになるだろう。たとえば上野樹里が連ドラ主演デビュー作として「のだめカンタービレ」のタイトルロールを演じたのとは事情が違うわけで、元々上野樹里は美人度もそこそこレベルということもあって、映画の分野で癖のある変人役ばかり好んで演じてきたわけだし、苟も月九主演ということなのだから名実共にステップアップと言えるだろう。

しかし、北川景子の場合は当初の路線から考えればもう少し正統派の美人女優として売る流れだったわけで、それが深夜枠のギャグテイストのドラマを初主演の舞台に選ぶことで、いきなり上野樹里方向へ大きく舵を切ったような見え方になる。こういう言い方も何だが、上野樹里はデカくてファニーな顔ということもあって正面切っての美人女優としては通用しないから曲者路線を選んだわけで、その点北川景子は二の線でイケると目されたから正統派として過剰にプッシュされてきたという流れになるはずである。

近年の北川景子の売り方から考えれば、二の線で通用するだけの人気がないから変な方向を試してみたということでもないはずで、映画がヒットしなかったとしてもTVドラマの分野で人気が出るかどうかはこれからの話ということになるだろう。その意味では映画の世界でコンスタントに存在感を示してキャリアを積んだ麻生久美子の場合とは事情が異なるわけで、寧ろ売り方としては本来TVドラマのジャンルの手駒として考えていたはずである。

その最初の一手が何故深夜枠のギャグドラマなのかが解せないわけだが、それで別段腐ることもなく真面目に演じている辺り、実はこの人は見た目ほど自分というものが確固として在るのではなく、意外に周囲に流されやすいのかなと思った次第である。

つまり、セラムン直前の番宣の自信なさげな常識人の顔も本当なら、セラムンで駆け出し監督の鈴村をナメてかかった顔も本当だし、STモやセラムンの過去を忘れて映画女優として飛躍しようと考えた顔も本当、モップガールでそれまでの演技スタイルをコケにされても真面目に頑張る顔も本当というわけで、これという確固たる本性というほどのものはないのではないかと思うようになった。

つまり、この人は俳優としてはこれ以上本人の自発による伸びしろはないが、飽くまで使いようで活きる人材だということである。その時々の位置附けによっては変な方向に行くこともあるが、それがこの人の本然というほどのものではないということである。

基本的にこの人は、少女向け雑誌モデル出身の美少女で声も好いが、芝居をさせるとフルスロットルで愚直に演じる以外の抽出はない。それをどう使うかの話であって、そもそも実写版セラムンのようなデリケートな人物解釈や精度の高い芝居が要求される容れ物向きの資質ではなかったのだし、本人が何を望みどのような自己イメージを抱きどんなメンタリティの持ち主なのかという、その時々の情勢次第のあやふやなことはどうでも好いということである。

モップガールの長谷川桃子というキャラのおかしみというのは、モデルのような正統派の美少女が何のタメも衒いもなく飛びきりの莫迦女をノーブレーキで糞真面目に演じている辺りにあるわけで、こういう条件附けは北川景子においてしか成立しない。

北川景子程度の造作の女優には当然美形としての自意識があるわけで、そのような美形がこれだけ極端に剛速球の莫迦演技を衒いなく演じるには、たとえば中谷美紀のように紆余曲折の人生の挫折を経験し泥水を呑む必要があるわけだが、何の色も附いておらず人生の真の辛さも経験していない時点で、ここまで愚直に莫迦を貫けるというのは一種天与の資質と言えるだろう。

まあ、褒めているようで莫迦にもしているわけだが(笑)。


●さらに一つの正義の味方論

当ブログが集中的な言及の対象としているのは、勿論白倉伸一郎という東映特撮のプロデューサーである。今回論じているモップガールの主演女優・北川景子が初めて出演した連続ドラマのプロデューサーでもあるのだから、今回のエントリーとも満更無関係な人物ではない。

これもすでに失はれた週末で散々論じたことだが、実写版セラムンで北川景子が演じたセーラーマーズは、本質的に正義の味方ではない。マーズのみならず本来セーラー戦士団とは、自身の前世の宿命を闘争原理として闘う私兵集団であって、利他の正義の為に闘うヒーロー集団ではない。

その間の事情に関しては、実写版セラムンとは潜在的な姉妹作品としての位置附けになる「千年王国III銃士 ヴァニーナイツ」をも絡めて論じたことがあるが、彼女たちが闘うのはそれが前世から課せられている使命だからであって、正義の義憤に駆られて眼前の人々を悪の手から救う為ではない。正義は前世の使命を正当化する為の拠り所であって、直接的に彼女たちの闘争動機になっていたわけではないのである。

ヴァニーナイツの場合はその部分を強調して描いていて、前世の使命を優先した為に無辜の一般人を見殺しにするというハードな展開も描かれたわけだが、基本的に子ども向けのヒーロー特撮であるセラムンの場合は、意図的にその部分の乖離を曖昧に糊塗していたわけである。基本的に、亜美ちゃんにせよレイちゃんにせよまこちゃんにせよその本質は善良であり、友人や周囲の人々の不幸を見過ごしには出来ない利他的な資質の持ち主であることで、彼女たちのプライオリな闘争動機が前世の使命であることが過剰に意識されないような仕掛けがあったわけである。

しかし、前世の使命が重要な物語的課題となってくるシリーズ後半のエピソードにおいては、戦士団中で最も使命を重視するセーラーヴィーナスが核になって物語を動かすことで、彼女たちが元々正義の為に闘っていたわけではないという事情が表面化してくるわけである。

ヴァニーナイツにせよセラムンにせよ、正義を体現するのは主人公である和幸やうさぎであって、個人性の範疇において前世の使命に囚われざるを得ない他の戦士たちと比較して、主人公たちは個人の感覚としての利他心を自然に体現する存在と位置附けられているのだが、奇しくも両作品共に最終的に主人公は正邪の極性が反転し、世界を滅ぼす存在となってしまう。「奇しくも」とは言ったものの、この類似が意図的な本歌取りであるということはすでに論じた通りである。

話をセラムンに絞って言えば、この物語においては最初から正義は相対化されているわけで、唯一の拠り所は主人公のうさぎの善良な資質が過たずに善なるものを嗅ぎ分ける感覚と、その善なる目的を実現し得るだけのヒーロー性のみである。そのうさぎですらが、地場衛との個人的な関係性における宿命悲劇の故に動きを封じられてヒーロー性を剥奪され、最終的に破壊神へと反転して世界を滅ぼすのだから、基本的にこの物語世界において正義というのは信頼に足る規範では在り得ない。

オレのセラムン後半批判の核心もそこにあるわけだが、この種のテーマ性がこの時期における白倉プロデューサーの主要な関心事であり思想上の到達点であった以上、ある種このような結論に至るのは必然であったとも言えるわけである。オレがこの種のテーマ性に対して不快感を覚えるのは、「不可能性の証明」という不毛な動機に基づく言説だからである。

人間の営みにおいて、疑い得ない必要性を持つ行為の不可能性を証明しようとする試みほど不毛な行為はない。下世話な喩えで言えば、仕事の場面で失敗した部下を叱りつけると、自分は一切悪くないのに何故避けようもなく失敗してしまったのかを延々説明しようとするが、それは不毛な行為である。

失敗の理由を探る行為は、その失敗が回避可能だったという前提の下に行われなければ意味などない。つまり、実現可能な行為を何処で誤った為に失敗したのかという検証であるべきなのだから、不可能性の証明であるべき意味はないのである。オレは悪くないのにどうしても不可能だったなどという話を延々聞かされるのは、他人にとっては時間の無駄でしかないのである。その前提で考えるなら、それが可能な誰かをそいつの替わりに充てるという選択肢しかなくなるからである。

この現代においては正義の成立の余地は窮めて限られている。不特定多数の合意の規範となるスローガンとしての正義に意味はないということは、当ブログでも繰り返し語ってきた。正義というのは個人性の埒内にしか存在の余地はないものであり、その個人性がこれだけ複雑且つデリケートなものとなった現代において、自身の正義を確立することは困難な課題である。

早くも龍騎の段階で白倉的思想性に対して異議申し立てを行ったのが以前論じたFateであるということになるのだが、Fateの物語は手法上白倉作品と同様に正義の困難性をガチガチの論理でどんどん追い詰めて行きながら、その動機は白倉作品とは完全に逆で、正義の存在可能性を証明しようという執拗な情熱に基づくものであった。

その一方で、白倉作品はファイズからセラムンに至っても未だ正義の不可能性の証明に拘っていて、セラムン後半のドラマ的破綻はこの強烈な恣意によるものだというのがオレの持論である。

Fateについて論じたエントリーで語ったように、Fateの作者も主人公を論理的に追い詰め過ぎて物語の落とし所を見失った嫌いはあるが、それでも正義は可能なのだという粘り強い信念が物語の余韻を爽やかなものにしている。対するに、白倉作品では主人公を追い詰める動機が正義の不可能性の論証という後ろ向きなものであるが故に、強烈な不毛感と物語の破綻に対する不条理感を醸し出している。

Fateの結論が何故爽やかなのかと言えば、「正義は必要である。だから可能でなければならない」という強力な信念があるからである。その信念は、どんな困難に対峙していても人に希望を与えるのであり、人はそのように願うことで悠久の歴史を生き長らえてきたのだという感動がある。一方、「正義は必要である。にも関わらず不可能である」というテーゼには何の感動も希望もない。自分の失敗の「無理もない理由」を延々と語る部下の繰り言を聞かされるような鬱陶しさしか感じない。

セラムンからさらにモップガールへとにじり寄る為に、北川景子が演じた火野レイという人物のキャラクター性を視ていくと、彼女の闘争動機として設定されたのは自身の異端の能力であり、父から遺棄された過去という個人性の部分であった。父親から遺棄された孤独な少女が、異端の霊能力の故に周囲からも排斥され、自身の存在を根拠附ける為にその異能を善用しようとする、これが火野レイの闘争動機である。

自身を迫害する周囲に対して心を鎖した出発点における火野レイは、それが自身の異端の能力を正当化する根拠となるという目的意識において悪と闘っていたわけで、彼女を異端視する他校の生徒に因縁を附けられながらも、失踪した少女を探す為に霊視を行おうとする状況が本格的なファーストアピアランスである。

その意味で、突き詰めて考えれば、彼女に失踪した少女が可哀想だとか救ってやりたいという利他心がなかったとは言えないが、寧ろ自身の力が正しい行為を為す為に与えられたものであることを自他に証明する動機において闘っていたわけである。

たとえばそれは、亜美ちゃんの闘争がうさぎにとって必要な自分を証明する為のものであったり、まこちゃんの闘争が自分が常に一人である理由を探る為のものであったり、美奈子の闘争がいずれ死んでしまう自分が残された短い命を賭ける価値として認めたものの為であったりするのと同様、徹頭徹尾個人性の範疇の問題である。

自然な感情に基づいて目の前の赤の他人の為に戦えるのは独りうさぎのみであって、だからうさぎだけが主人公であり真のヒーローなのである。

奇妙なことに———いや、実際奇妙なことなのだが、モップガールの長谷川桃子はこのような文脈において火野レイの連続上にある存在と視ることが可能なのである。何故それが奇妙なのかと言えば、世の中にそんなベタな因果話が転がっていると考えるのが窮めて不自然だからである(笑)。

さらに言えば、北川景子の経歴上においてセーラームーンなんて番組は存在しなかったことになっていて、北川景子が火野レイを演じたなんて過去は少なくとも北川景子視点の現実においては公式には存在しないのである。その北川景子が初の主演ドラマで存在しない過去において存在しない他局のドラマで演じた存在しない人物の連続上にあるようなキャラクターを演じるなんてことが、あっていいわけがないのである。

しかし、モップガールを最終話まで詳細に読み解くと、長谷川桃子と火野レイの人物設定の類似は偶然の域を超えたものであることを認めざるを得ない。

この二人を結び附ける要素とは、たとえば家庭環境や父親からの逃走などという部分もあるが、本質的には異能と受け継がれる意志である。桃子もレイちゃんも、大前提として本人の意志を超えた異能が具わっていて、それをどのように用いるかという部分で試しを受けている。

桃子の場合は、大伴の事故死した恋人・葉月涼子が自身の異能の故に闘っていた利他の闘いを能力と共に受け継いだわけだが、本来幼少時に死すべき運命にあった桃子はまったく無関係な赤の他人の善意によって生かされたわけであり、今ここに自分が在ることと引き替えに涼子の命と大伴の哀しみという犠牲が払われている。

勿論桃子はその時に自分がタイムリープの能力を受け継いだことなど識らずに育ってきたわけだが、自分の命が誰かの命と引き替えに得られたものであるという認識において生きてきたことは間違いない。そんな大切な命でありながら、長谷川桃子という人間はたいていの一般人よりも無能な役立たずである。それがコンプレックスとなって大病院の院長である父親やそこの医師である兄から逃げて生きているわけだが、そんな桃子が葬儀社リトル・エンジェルに異動になったことから、その身に秘めた異能に気附くこととなる。

誰でも出来ることが満足に出来ない役立たずであった長谷川桃子は、この時に一転して誰にも出来ないことを行う能力と直面せざるを得なくなる。さらに最終話で明らかにされた事実によれば、桃子を庇って死んだ女性から「あなたならきっと出来る」という言葉と共にその能力を行使する意志をも受け継いでいる。

嘗ての涼子の闘いを「正義」とすれば、この物語の大きなテーマとして「受け継がれる正義」というFateにも通じる観念があるわけである。個人の正義が不滅のものとして生き長らえる為には、その実践を通じて次代に受け継がれるものでなければならないという観念が根底にある。一人ひとりの力には限界があっても、人から人へと揺るぎなく受け継がれるからこそ、正義とは人の世の希望で在り得るのである。

そういう意味では、実は桃子とレイちゃんは同等の問題性に立っているわけで、単にレイちゃんの場合は受け継がれた意志が他者の正義ではなく前世の使命という空疎な呪縛だっただけである。正義が在らねばならないという信念と、正義の不可能性を論証する意志という違いが、この二者の在り様を隔てるのみである。

まあ、これを偶然と解するほどオレもお人好しではないので(笑)、作り手の間で火野レイを出発点として桃子を造形するという認識が共有されていたことは疑いのないところだとオレは考えている。オレはな(笑)

この謎の女性の事故死は、最初の最初に提示されたこの種のテーマ性を暗示する大前提で、この大前提の故に、どんなくだらないギャグが演じられてもこのドラマの根底にあるシリアスなテーマ性を意識せざるを得なかったわけである。

さらに桃子に与えられた能力がタイムリープであるということは、一見物理的な能力に見えるが、タイムリープと予知能力は意味的には変わらないものだというのはSFにおける常識である。未来がこうなると具体的に予知出来るのなら、未来を変えることが可能になる。それは実質的に過去に遡ることと意味的に変わらないのである。

それを相対的に視れば、確定した現在から過去に遡って現在を改変することと意味的にはまったく同義である。時制が一つ遡るだけだが、時制というのはそれを観測する主体がどちらに在るかによって決まるものであるから、どちらの場合も観測者が二つの時制に跨って存在する以上、実質的にこの二つの間に違いはないのである。

「確定した未来」という前提に立つ予知能力は、「確定しているか否か」という時制の弁別条件を無効化し相対化してしまうわけで、過去も未来も現在も確定していると同時に改変可能だという逆説的な時間認識を導き出す。つまり、桃子の能力は主に認識に纏わる能力であって、物理的な力ではない。

ゆうきまさみの時かけパロに、「タイムリープしながらどうやって制服をパジャマに着替えられるの?」というのがあったが、時かけ方式で意識だけが時間を遡行するのであれば、それは見かけ上詳細な予知と区別出来ないわけである。

だとすれば、このドラマの読み解きにおいてもう一本有効な補助線が引けるわけで、予知能力を前提にした召命体験については、ウルトラマンティガの傑作エピソードである第三九話「拝啓ウルトラマン様」でも触れられている。さらにこのエピソードが下敷きにしているスティーブン・キングの「デッド・ゾーン」も視野に入るわけで、確実に起こると自分だけが識っている未来の悲劇を前にした時、人はどのように行動し得るのかという問題性が語られているわけである。

さらにぶっちゃけると、この番組はそもそもの最初から「トゥルー・コーリング」との設定上の類似を指摘されていて、これはオレは未見だから何とも言えないところだが、ウィキによると原作小説とドラマ版ではかなり桃子の能力の設定が違うので、ドラマオリジナルの設定要素である。

これが確信犯のパクりであることは、ERIKAの歌う主題歌の最も目立つサビの歌詞に「Hear the colling」という一節があることからも明らかである。要するに最初の最初から「トゥルー・コーリングをパクりましたよ」と断っているわけであるが、当ブログの基本的なスタンスとして、物語設定のアイディアというのは本質的にパブリックドメインであって、倫理上問題となるパクりは完全な盗作のみであるという認識に立っている。要するに、「物語を偸む」という意図的な狙いの存在しないパクりというのはそれほど問題にすべき事柄ではないということである。

閑話休題、タイムリープと言いながらその実は具体的な予知能力と変わらないのであれば、さらにその能力が死者の遺志に左右される不随意的なものでしかないのであれば、主人公の桃子は単に在り得べき悲劇を否応なく識り得る立場に立たされただけであり、本人の問題解決能力的には一般人より劣る役立たずな儘である。桃子のアドバンテージは、これから起こり得る事柄を予め識っているというただそれだけである。

パートナーの大伴は、そんな役立たずな桃子を支える推理力と実行力と下世話な知恵を身に着けたヒーローであり、正直言って事件の解決に対して桃子が役に立つことはないのだが(笑)、現実の能力面では役立たずでも桃子にはもっと大きな力がある。それは不条理に死すべき運命に置かれた人々を、何を差し措いても絶対に救わねばならないという揺るぎない意志である。自身が嘗て事故死の運命から救われたように、見知らぬ女性の犠牲において命を長らえたように、自分だけが救える誰かは自分が絶対に救わねばならないという確信である。

嘗て恋人をわけもわからぬ儘に事故で喪い、心に痍を負った大伴は抛っておいても人助けをしようと考えるほどの善人ではない。死ぬような奴なら死なせておけという程度の正義感の持ち主であるわけだが、桃子がそんな大伴を脅したり賺したりしながら何とか動かし、絶対に諦めないから事件は解決出来るのであって、それは巡り巡って大伴が死せる恋人の遺志に遵う道でもある。

物語の劈頭で死んだ謎の女性と大伴の間に関係があることは後半で徐々に明かされてきた要素だが、大伴と桃子を因縁附ける予定調和の真相という以上に、受け継がれる正義の連環という観点において感動的な真相となっており、最終話のクライマックスで大伴が桃子を庇って死にかける流れにも響き合う。まあそれを一瞬の夢として回収する大団円のオチがあるわけだが(笑)、ここで実現された情動は、その人騒がせなトリックが何を意図したものかをまざまざと開示する。

大伴の恋人である葉月涼子が桃子を庇って死んだように、大伴もまた桃子を庇って命を落とす、それは桃子が涼子から能力と正義を受け継いだからであり、そんな桃子と大伴が共に闘ってきたからであり、桃子のタイムリープによって「なかったこと」にされてしまった悲劇的な現在において、大伴が涼子の能力と正義を受け継いだ桃子の死を回避出来なかったからである。

それは大伴にとって涼子の死に二度立ち会うことに均しい。涼子の遺志を引き継いだ桃子は、潜在的な意味性として大伴にとっては涼子自身でもあるのである。その涼子でもある桃子を再び死なせてしまったなら、そしてその事実を識らされたなら、大伴は今度こそ立ち直れないだろう。桃子が最後の跳躍で救ったのは、雪弥と己の命であるのみならず、大伴の生の意味でもあったわけである。

嘗ての大伴は涼子の能力や使命について理解がなく、自分の恋人が安全であればそれで好いという極普通の感じ方に過ぎなかったわけだが、涼子に死なれた後の大伴は、それから何があったものか、サラサラの直毛でスクエアなナリをした好青年だったのが、ピンピンの撥ねっ毛でガイジン女に目のない口八丁手八丁の斜に構えた喰えない変人野郎になっていた。

そんな自己中心的な曲者の大伴が毎回毎回何だかんだで桃子の願いを聞き入れ、無能な桃子を助けて事件の解決に貢献するわけだが、それは桃子が涼子の遺志を受け継いだ者として意味附けられることでそのように在るべき根拠を持つわけである。何故大伴は結果的にいつも桃子を棄ててはおけないのか、最初の最初から桃子を助けて活躍するのかという疑問に対する答えがそれである。

回避され覆された現在において、桃子の死に立ち会うことで大伴はその真相を卒然と悟らされる。あの時と同じように、誰かの命と引き替えに護られた少女を桃子の父が抱きしめる姿を視ることで、涼子があの日命を救った少女こそが桃子であること、その桃子を自分は護れずに死なせてしまったことを識る。前半で提示された在り得べき現実の悲劇性は、単に桃子が死んでしまうというだけではなく、大伴がそれを護れなかったという悔恨を覚え、さらにそれが涼子の死と引き替えに得られた命であることを識らされることで二重の悲劇性を帯びている。

このような現在が覆されたことで、大伴の気附きそのものも存在しない未来になってしまったわけだが、そんな真相を識らずとも瀕死の桃子に必死に呼びかけ死ぬなと叫ぶ大伴の姿を在り得べき現実として一度見せておくことによって、この悔恨を回避する為に大伴が自身の一命を賭けるだろうという予感を視聴者に与える。

おそらくこのストーリーにおいて本当に大伴が桃子を庇って死ぬのであれば、桃子と涼子の関係性を識っていたほうが満足して死ねたことだろうが、その気附きは桃子の跳躍によって「なかったこと」にされてしまった。如何にタイムリープによって現在を改変することが可能だとしても、そのどちらも得ることは出来ないのである。

このドラマでは一貫してそのようなトレードオフを原理に据えていたわけで、桃子の能力は最悪の結末を回避することだけは可能だが、それは常に最善の結末ではなく次善でしかない。何かを犠牲にすることでしか最悪の結末を回避することは出来ないのであって、その原理が顕著に顕れたのは第四話の「ストーカー殺人」の一件だろう。

このドラマの事件設定においては、単に人が殺されることが問題なのではなく、誤った人物に罪が着せられ真相が粉飾されていることが問題なのである。それはそもそも第一話からハッキリしていて、銀行強盗の真犯人と目されて警官に射殺された桃子の恩師はたしかに金策に困って銀行強盗を目論んだが、実際には実行しておらずまったくの誤解に基づいて無意味に射殺されている。桃子と大伴の活躍によって恩師の不条理な死が阻止されたのみならず、銀行強盗の冤罪も回避され桃子の恩師は失望のどん底から這い上がる契機を得る。

謎解きミステリの性格も持つこのドラマにおいては、一旦確定した現在においても真相は開示されていない必要があるわけで、タイムリープの能力を持つ桃子が事件の真相をすべて識っていたら謎解きが成立しないわけだが、それが主か従かは識らずそれによって前述のようなこのドラマにおける事件設定の構造が規定されるわけである。

第二、三話辺りの話は、そのような事件構造に則って、桃子と大伴のコンビが本来死すべき運命にある人々の命を救い、冤罪を晴らすというわかりやすい活躍が描かれているわけで、それによって改変された現在において生き延びた人々の関係性や更生の問題は当事者たちの生き様に投げ返されるという完結した挿話構造になっているわけだが、問題の第四話においては、桃子は遂にストーカーと目された塚田浩平の死を回避することが出来ない。

桃子たちが救ったのは塚田の命ではなく「生の意味」であって、それ自体は死に行く当事者と残された遺族の満足という極ささやかな見返りでしかない。一旦確定した現在においては、ストーカーである塚田が被害者の真理を殺して自分も死んだという身も蓋もない事件として視られていたのが、改変された現在においては真理が生き延びて真犯人である弘樹が裁きを受けるという一見順当な解決が得られながら、塚田は真理を庇って呆気なく殺されてしまう。

塚田も真理も助かり悪人の弘樹が罰されて目出度し目出度しという大団円の解決は得られなかったわけだが、元々この事件は塚田が弘樹を呼び出して真理から手を引かせようと迫ったところに真理が居合わせるという回り諄い成り行きによって最悪の悲劇が実現したわけだから、弘樹が悪いからこうなったという単純明快な話ではないわけである。

塚田が自身の手で弘樹の悪巧みから真理を救おうとしたことそれ自体が身勝手なエゴと言えるわけで、動機はどうあれ塚田が真理を附け廻して精神的に追い詰めていたこと自体も紛れもなく事実である。たとえそれが金目当てに喰い物にしようとする動機だったとしても、弘樹との交際は真理のような内面の空疎な女性にとっては幸福だったと言えるわけで、そんな個人の幸福を別の個人が自身の信念に基づいて毀す権利などないという言い方も出来るわけである。

この事件の結末は、そのような事情を無慈悲に暴き立てるわけで、弘樹の行為を判りやすい悪として描きながら、塚田の行為に非の打ち所がなかったという描き方もしていないわけである。正義の味方になりたいという塚田の夢は、彼に見込まれた悲劇のプリンセスの視点から視れば傍迷惑な思い込みに過ぎず、その意味ではやっぱり塚田は単なる一個のストーカーに過ぎないわけである。

この塚田の人物造形が、ネーミングからも明らかな通り著名ラノベ作家である上遠野浩平をモチーフ(モデルではないから(笑))にしているのは、それが「正義の味方」を巡る問題性を扱うエピソードだからでもある。以前のエントリーで語ったように、上遠野浩平の作品は現代における「正義の味方」像を巡る言及でもあるわけで、同様の問題性を扱う目配せとして彼のファーストネームを借りているわけである。

上遠野浩平とは違って塚田浩平は大してヒットもしなかった著書を一冊刊行しただけの無名作家であり、本質的には正義の味方の物語を語りたかった人間ではなく、自身が正義の味方になりたかった人間である。そして、現代において正義の味方になるということは、自身のエゴを貫き通すということでもあり、他者からの賞賛も感謝も得られずに一個の変人として排斥されることでしかない。

結末において塚田が、真理から命を救われたことへの上辺の感謝を得られただけで、好意も尊敬も得られなかったのは、彼がそのような意味において身勝手な正義の味方に成り果せる結末だったからである。そもそも塚田は真理から愛されたいと願ったのではなく、正義の味方として真理を救済したいと願っただけなのだから、最終的に真理が塚田をどう思おうがそれはどうでも好いことなのである。

塚田にとって意味があるのは、自身が正義の味方に成ることそれ自体であって、その一命を賭した行いによって誰からも感謝も尊敬もされなくても、それはまったく無関係な事柄なのである。桃子と大伴が救ったのは、正義の味方として生きるという塚田の生の意味であって、命や幸福ではない。

そんな塚田の生の意味はたしかに身勝手な思い込みに過ぎないし、小さな幸福を大事に思う真理から視れば、自分がどんなに非道い目に遭わされようが、納得尽くで弘樹に尽くしているのだから、それを他人にとやかく言われる筋合いはない。正義というのは、そのような他者の生き様に積極的に関わっていって、それではいけないと余計なお世話を焼く妄想でしかかない。本人がどう感じようが意に介さないというのであれば、それは正義を行う人間の身勝手なエゴの圧し附けでしかない。

ならばそれは無意味なのかと言えば、そうではないだろう。真理がくだらない悪人の喰い物にされることを見過ごしには出来ないという塚田の思い込み、自分勝手な正義はやはり美しいし、こういう心性が滅びないから人の世には希望がある。

一旦確定した現在において真理が殺されたのは塚田の責任もあるという見せ方にしているのが巧妙だが、現状のストーリーにおいては塚田の行為の意味が一義的に価値判断出来ないようになっていて、本来なら風俗に売られたり莫大な借金を負わされる可能性はあっても殺されるまでのことはなかったはずの真理が殺されたのは、塚田が自身の手に余る事件を自ら解決しようと目論んだからである。

その複雑に縺れた真相に桃子たちが介入することによって、少なくとも塚田の名誉と真理の命だけは救われた。但し、真理は弘樹との関係を諦めてはおらず、出所してくる弘樹を待ち続けるという次第となり、本質的には何も解決していない。塚田が介入しなければ在り得たような状況が続くだけの話であり、その意味で塚田が一命を賭して真理を救おうとしたことは無駄骨折りに見えないこともない。

くだらない男に引っ懸かるつまらない女の人生を救うことは、本来非常に困難な事柄である。それは、その女が納得尽くでそのような生き様を選んだのだから、他人がそれを何とかしようとするのは無謀であり、有り体に言えば不可能である。この場合、たとえ真理が弘樹を思い切ったとしても、どうせ次の男も弘樹と似たり寄ったりだろうというのは誰でも想像が附くことで、話を簡単にする為に弘樹を待ち続けるという形に納めただけのことである。

塚田はそんな不可能事にどうしようもなく魅入られた人間なのであり、誰かを救いたいという妄執に取り憑かれた狂人と言っても好い。他人様から視たら、真理がどう思おうと自分の正義を貫こうとする塚田は紛れもなくストーカーに過ぎないが、正義とは個人の主観においてしか成立しない観念であり、その意味で塚田はたしかに正義の味方なのである。赤の他人である真理がくだらない男から開放され幸福になってほしいと願う塚田の妄想は、傍目には気味の悪い狂気でも本質において美しい願いでもあるのである。

正義の味方になるということは、塚田のように誰からも認められず賞賛も感謝も受けられず、それでも誰かを救おうと努める無私の行為でしかない。この事件はこれ以降のエピソードのアバンで度々触れられ、桃子のモチベーションにおいて大きな意味を持つ事件であったという意味附けが施されている。

軽妙な娯楽物語の主人公である以上、桃子がその活躍の見返りとして人々から迫害されるという陰惨な成り行きにはならないが、タイムリープという誰にも信じてもらえない能力の故に退っ引きならず他者の悲劇を救済すべき立場に置かれる桃子は、塚田と同様正義の味方として在るべき使命を課された人間である。

塚田浩平という一個の変人として死んだ愚かな男は、長谷川桃子の陰画として描かれた人物であり、たとえ塚田と同じ状況に置かれたとしても、桃子もその正義から目を逸らせないという潜在的な事実を開示するエピソードであった。

長谷川桃子という人物は、その出発点においてそもそも置かれた状況に対して真っ直ぐ行動する人間として設定されている。以前Fateに関して陳べたように、Fateの主人公の衛宮士郎が他者の犠牲と引き替えに今在る人間であるのと同様、長谷川桃子もまた自分を救って死んだ葉月涼子の生の意味と意志を負って生きている。

リトル・エンジェル社に異動になる前は死者の遺物に触れる機会がなかったから、単なる社会不適応者の位置附けに甘んじていたわけだが、前述の通り異動をきっかけとして他の誰にも出来ないことを行うか否かの岐路に立たされる。これは最終話で明かされた涼子の遺言である「選ぶのはあなた」という言葉に象徴されているが、最初から桃子は他者を救う為に行動せざるを得ない立場に立っている。

そんな意志を桃子に受け渡して死んだ涼子の生をも負って生きている以上、そしてこれまでの人生において誰の役にも立たない無能な人間として日々を便々と過ごしてきた桃子が、自分にしか出来ない選択肢を与えられた以上、それを否むことは不可能である。

つまり、この物語において長谷川桃子が何ら躊躇なく他者の為に動けるのは、そのような人物として設定されているからであり、そこにこそ桃子の主人公性の根拠があるのである。正義の味方の条件とは、人に優れた能力ではなく、他者から受け渡された正義の意志を受け容れ、その為に迷いなく行動出来る心性の在り方なのである。

物語は後半に進むに従ってそんな桃子の闘いの意味を問うものとなっていき、たとえば第六話の明日香が桃子たちの活躍で連続通り魔事件の唯一の死亡者として死ぬことなくその真犯人として生き延びて安い名声を博することはどうなんだとか、第七話の須美子が純粋な愛情からとは言え無関係な他人に罪をなすり附けて不都合な人間を抹殺しようと企む悪事に対して、殺されるはずだった人間を悪人として描くことで事件が解決しても真の救済が得られないとか、第八話で早乙女の命は救われ博覧強記の会の絆も回復されたが、法によって裁き得ない「誰でもない女」の問題を残すなど、桃子たちの活躍がすべてを救済するわけではないという含みを残す。

第九話に至っては、すでに北濱の死は覆し得ない確定事項であり、そのタイムリミットの範疇で北濱の最後の願いを叶える為に奔走するという、タイムリープの能力が一切益しない課題設定において、しかも北濱と桜子の逢瀬は現実には実現しないというほろ苦い余韻を持たせた結末を描いてみせる。それでも死せる北濱にとって、最期の瞬間に視た桜子の姿が幻想であるか現実であるかなどどうでも好いことで、さらに北濱の臨終には間に合わなかったものの遅れて桜子が現れることで、絶妙の距離感で美しい物語が成立していた。

たしかに桃子の能力はオールマイティの魔法ではないし、桃子と大伴に出来ることには明らかな限界がある。それでも桃子たちが悲劇の回避に向けて迷いなく行動することによって救われる部分はあるわけで、その程度のささやかな救済しか得られないとしても人は自身の信じる正義の為に行動すべきであるという一貫した信念が描かれている。

続く最終話は、あろうことか北川景子の泣きの演技を何度視ても貰い泣きしてしまうくらい出色の出来で、前半で桃子が一旦死んでしまうまでの流れで一山情感の山場があり後半で大伴が死ぬまでの流れでもう一山情感の山場がある。その二つの山場を繋ぐ細やかな伏線の配置と筋立ての流れの対照がよく出来ていて、続編狙いの大オチもその全体構造から視て自然なものとなっている。

つまり、後半で本当に大伴が死んでしまうということなら、大伴は回避された現在において識り得たすべての真相を識っていなければ納得して死ねないだろうし、桃子を護ることとその真の意味を識ることの両方を得ることが出来ないなら、どの道それは哀しい結末とならざるを得ないからである。そして、このドラマの原則においては、どちらもという欲張りな結末は在り得ない。

大伴がすべての真相を識り得るのは、大伴の気附きを喚起する風景としてつららを抱く桃子の父親の映像が実現されねばならないのだから、桃子が死ぬという流れの現在が必要条件なのであり、桃子が死なないという流れの現在においては、その真相を識ることは叶わないわけである。このドラマは一貫してそのようなトレードオフを語ってきたわけで、大伴が桃子を護って死ぬのであれば、ドラマ的な落とし所としては、大伴が一命に替えても桃子の命を救うべき真の意味を識っていなければならないのだが、それは原理的に不可能なのである。

だとすれば、少なくとも最終話の事件設定においては大伴が死なないという形でしかドラマの決着は附けられないことになり、その意味でもよく考えられた構成になっていると言えるだろう。

さらに言えば、前半で桃子の死を、後半で大伴の死を描くことで、この両者の互いに対する想いの在り方を描くという狙いもあるわけで、日頃のドSな態度からは窺えない悲痛さで死に行く桃子に呼びかける大伴の姿、ケチャップにまみれて(笑)意識を喪う大伴に縋って慟哭する桃子の姿を交互に描くことで、ひとまず今回のシリーズにおけるこの両者の感情の到達点を明示することが出来ている。

オレがこのドラマを高く評価するのは、このような巧みな表現の知恵が随所に視られるクレバーな描き方と志の高さが高度に両立され、さらには肩肘張らないくだらないギャグテイストを交えて描いている気取りのなさが好感触だからである。セラムン以来何を演じているのを視ても反感を覚えた北川景子を上手く使って、このような面白い物語を語ったスタッフには脱帽である。

ひとまず今回はこんなところでレビューを終えるが、時効警察と言いモップガールと言い、この枠はテレ朝ドラマとは言え満更ナメたものではないだろう。

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コメント

>セラムン以来何を演じているのを視ても反感を覚えた北川景子
何もそこまで(笑)。でも
>非常にプロっぽい沢井の物腰と、主演の重圧をまったく意に介さないような天然なハマチを視ていて、変なふうに女優としての自意識が肥大した
という部分は大笑いしました。
確かに、見た目はいちばん自己コントロールが出来ていそうで、実はいちばんしっかり管理する必要があるのが北川さんなのだろうなあ。私も、北川さんの今回の成功は、どこかレイちゃんを引きずるキャラクターだったからだよな、と思います。
いやしかしそんなことよりも前回の日記、失礼な話ですが、私は『SP』もしくは『モップガール』のレビューを期待していたんで「バトンかぁ、じゃまあ、これはこの次ゆっくり読もう」と思って、とばしてたんですよ。いま初めてきちんと読んだら、私も指名されてるじゃん。どうしよう。年末年始に考えます。

投稿: Leo16 | 2007年12月23日 (日曜日) 午前 06時06分

どもです。いや、Leo16さんが相手だから言いますけどね、オレが北川景子に対して反感を感じていたのは、別段握手会をズル休みしたのが憎いとか、OV版の時点でマーズのコスチュームを厭がったのが許せないとか、決してそんなことのせいではありませんよ、ええ(木亥火暴!!)。

少なくともオレの認識では、セラムン後半の迷走の一因は北川景子が女優としてヘボかったことも大きいというのに、大手事務所に移籍してプッシュしてもらえることになった途端にセラムンの経歴をなかったことにしたのが不愉快だったんですねぇ。あんたそりゃちょっと無責任だろう、と。

セラムンをはじめとする過去の経歴を次々に「なかったこと」にする北川景子が「悲劇的な現在をなかったことにする能力」を持つヒロインを演じるというのも剰りに出来すぎた皮肉ですが(木亥火暴!!)、そこまで意図した設定だったら凄すぎて脱帽どころか脱毛しちゃいますねぇ(木亥火暴!!)。セラムンは「悲劇的な過去」なのかよ(木亥火暴!!)。

それから、ちょっと今月は珍しく忙しかったものですから、書こうと思っていたことが押せ押せになってしまって、順番にやっていく必要があったんですが、バトンのエントリーは指名する方の都合もあるので年末にかからないように先に廻したんですよ(笑)。レビューなら幾ら長くても読むだけですから、年末年始にゆっくり読んでいただければ好いかな、と思って後回しにしたんですが、バトンのほうは拾って戴けるのでしたらいつでも構わないですよ(笑)。

そう言えばLeo16さんご当人のことはあんまり識らないなぁと思ったので指名させて戴いたんですが、書くとなるとじっくり腰を据えて書かれるLeo16さんのことですから、読み応えのある自分語りが聞けるものと楽しみにしています。

投稿: 黒猫亭 | 2007年12月23日 (日曜日) 午前 09時06分

あっ、今思い附いたネタだけど、ひょっとして第八話で原史奈が演じた柚子原陽子は、「過去をどんどん抹殺していくと誰でもない人間になっちゃうよ」というイヤガラセのメッセージだったのだろうか(木亥火暴!!)。セラミュでムーンを演じた原史奈のキャスティングも、到底偶然とは思えないしなぁ。

…つか、なんでそこまで北川景子に辛く当たるんだ>オレ(木亥火暴!!)。

何度も強調するが、それは決して「わざわざムックを買って並んだのに、沢井と小松にしか握手してもらえなかったのがとっても悔しかった」という動機では断じてないのである(木亥火暴!!)。たしかにあの時とっても悔しかったのは事実だが(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2007年12月23日 (日曜日) 午前 10時52分

セラムンにはさしたる義理のない私ですが、桃子の造形がレイちゃんをベースに導き出したものだというのには同意します。つか、義理のない私が思うんだからきっとそうなんでしょう(笑。<決めつけ
私もモップガールはヒーローものだったと思っているんですが、いわゆる戦隊的世界観に依らないヒーローものが作られたことで、ヒーローものを正義の物語ではなく善意の物語として描くやり方もあるのだとあらためて思いました。

というかムック買ってうさぎと美奈子に握手してもらったんですね。
ちょっと微笑ましいです(笑。

投稿: quon | 2007年12月23日 (日曜日) 午後 12時22分

>quonさん

どもです。寝ていたので承認が遅れました(笑)。

>>桃子の造形がレイちゃんをベースに

プロセスを遡って考えると、この番組が北川景子をフィーチャーする企画として相当練り込まれているということでもあるわけですよね。企画テーマは北川景子とすら言っても好いんじゃないでしょうか。敢えてナイーブな言い方をすると、こういうコンセプトのドラマがあるとして、それに北川景子を当てはめたということでは決してないわけです。

北川景子の初主演ドラマという企画において、彼女をどうやってフィーチャーするかというコンセプトで、演技スタイルと語り口のマッチングもそうですし、キャラ造形において彼女が一年間演じた火野レイというキャラも俎上に上っていた、そういうことなんでしょうね。それこそ本文中で触れたように、事務所の力ってモンでしょうし、主題歌が先輩女優の沢尻エリカってのも「スターダストプレゼンツ」の企画という印象です。

ただ面白いのは、事務所主導的な企画と考えたら主要な売り物である北川景子の扱いが剰りにも容赦ないってところで、よくこんな企画が通ったなって印象です。やはり事務所としても正統派女優で売りたかったところでしょうし、この作品のヒットで仲間由紀恵や中谷美紀みたいに変な色が付く可能性もあるわけですから。

あと、戦隊的でないヒーロー物という部分ですが、元々がトゥルーコーリングをパクってるということもあってか、アメリカのTVドラマみたいな道具立てを考えたのかなという気もしますね。見た目が剰りにもそれっぽくないので気附きませんが(笑)、桃子と大友のコンビというのは、レミントン・スティールとかブルームーン探偵社とかあの辺の雰囲気なのかなと思わなくもないですね。

>>というかムック買ってうさぎと美奈子に握手してもらったんですね。

…左様(木亥火暴!!)。物臭なのでその手のイベントには参加しないんですが、セラムン熱の最盛期には勢いに任せて友人に誘われるが儘に神保町まで遠征しました。北川景子のドタキャンは当時ネットでもかなり話題になりましたが、まあ沢井・小松組と握手出来たから好いかなというのが本当のところですね。さすがに面と向かってあんなレビューを書いているとは言えませんでしたが(木亥火暴!!)。

でもやっぱり一番心に残っているのは、セラミュの公演後の握手会でサターン役を演じた船越英里子と握手した時ですかねぇ。何しろ本物の小学校五年生の美少女の手を握って言葉を交わす機会なんて限られてますから(木亥火暴!!)。それで病み附きになって、三回くらい公演を観に行ったというのは内緒です(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2007年12月23日 (日曜日) 午後 04時19分

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