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2007年12月18日 (火曜日)

"Kick me!"と呼ぶ声あり

外でもない、その声の主とは余人にあらず、全国一〇〇〇万特撮ファンのアイドル・白倉伸一郎のことだが(笑)、裏ブログに移転してからの発言なので、礼儀上直リンもTBも避けておく。表の白倉ブログトップの目立たないところにリンクがあるから、そこから辿ってみて、裏ブログ今月一四日附の「和食ファシズム(1)」という記事を参照されたい。

例によって例の如く「日本豚食文化幻想」張りの牽強付会なのだが、その前日のエントリーで自分からこの当ブログ十八番のタームを口にしているのだから、今回ばかりは確信犯と言えるだろう(笑)。こと白倉伸一郎が絡むことには、野猿街道を突っ走るデコトラの違法無線さえジャックしてしまうほどの強力な電波を飛ばすストーカー体質のオレから視れば、このエントリーは紛れもなくオレに対する挑戦である。

某白倉萌えの同志から「続きが読みたいのでお手柔らかに」と呉々も釘を差されているので剰り乱暴に蹴る気はないが、当人自ら「蹴ってくれ、いや、蹴ってください」と誘い受けているのだから、蹴らずに素通りもならないだろう。

オレはそこまで不人情な人間ではない。

想えば、この世に白倉伸一郎という人物なかりせば、オレのネット生活は何と味気ないものであったろうかなどとつらつら心に覚ゆるほどに、オレのネット上の言論活動の大半は何らかの形で白倉に言及している次第であるが、オレと白倉伸一郎の唯一の共通点とは、無駄にサービス精神が過剰なところであり、最も甚だしい対立軸とは、白倉伸一郎が最も得意としている合目的的な詭弁をオレが生理的に嫌っているというところである。その二項の綜合として、白倉伸一郎のブログ上の発言に対して黒猫亭が屡々噛み附くというネット上の見世物が成立するわけである。

今回ばかりは確信があるのだが、この人は和食文化がどうこうなどということを心得顔に語りたくてあんな話を始めたのではないのである。どうにかして真顔で大法螺を吹く洒脱な芸風を身に着けようと、わざわざツッコミどころ満載の隙だらけな屁理屈を並べ立てているのである。

世に蔓延る「白倉インテリ幻想」を逆手にとって茶化そうと、大上段に構えて天下国家を相手取るテーマを破綻した屁理屈で論じてはみたものの、それが詭弁であることを察するほどにリテラシーの高い読者は馬鹿馬鹿しいから口を鎖し、「インテリの語る理屈はなるほど高踏だ」と真に受けるほどナイーブな読者は人目に立つところで声高にそれを賞揚する。

このような構図は、実は当人の望むところではないだろう。アカラサマな詭弁にツッコミを入れられることで「東大卒のインテリ」と目されている自身を道化にしようと目論だのに、そのつもりで語った口から出任せ出放題の屁理屈を真に受けて「流石は白倉」と感心されてしまうと、ただのつまんない夜郎自大な嘘吐きになってしまう。人から感心されたくて厭味な嘘を吐くつまんない奴になってしまう。

それはあんまり気の毒だということで、長年の一方的な附き合い甲斐に(笑)オレが野暮天役を買って出てマメにツッコミを入れているわけではあるが、考えるまでもなく白倉ブログとオレのブログではアクセス数の分母が二桁以上違うのだから、屁の突っ張りにもなっていないわけである。まあそれはオレという私人の影響力の限界なのだから、勘弁してやってくれたまえ、私人・白倉伸一郎さん(笑)。

さて、それでは今回のエントリーの何処がアレなのかと言えば、まず、アメリカ人の食習慣を揶揄する「(アメリカ人は)『和食は健康的』と、米に醤油をたっぷりかけて食べる」というジョークを、「でも、私たち日本人も、それこそ寿司パックには醤油をかけ回したりするではないか」と受けている部分だが、ここがすでにズレていることは誰でも気附く。

前掲のジョークの何処が笑い処なのかと言えば、「米に醤油をかけて喰う」ことではなく「たっぷり」という部分である。日本人が米に醤油をかけて喰うというのは今更指摘されるまでもなく当たり前のことであって、夜中に小腹が空いて何もおかずがない時に白飯に直接醤油をかけて喰うのが好きな貧乏臭い人も、今でもけっこういるのではないかと思う。だから今更アメリカ人が飯に醤油をかけて喰うことをおかしがる日本人というのはそんなにいない。

問題は、「たっぷり」という形容詞である(笑)。アメリカ人が嗤われるのは、たっぷりという場合に節度なくたっぷりだからである。日本人の抱いているアメリカ人観としても、たとえば映画を観るという場合には、バターまみれのポップコーンを「たっぷり」満たした一抱えもありそうなバケツにひっきりなしに手を伸ばし、さらにお弁当の保温ジャーくらい巨大なトールサイズカップを「たっぷり」満たしたコカコーラをがぶ飲みして、映画一本見終わるまでにそれらを全部平らげる。

先日上げたエントリーで語ったように、オレ個人はとてもそれを嗤えた筋合いではないのだが(笑)、アメリカ人の場合「たっぷり」喰うのはたいがい見るからにカラダに悪そうなジャンクフードというイメージがある。

今では日本中何処の町にも存在するピザパイ、ハンバーガー、フライドチキンのファストフードというアメリカから輸入されたジャンクフード文化を視るに、こんなものを日常的に「たっぷり」喰っているアメリカ人の粗暴な食生活や味覚の幼稚性を嘲笑する風潮が、歴史的食文化を誇る旧い国々の間に生まれるのはしょうがない。

それ故に、前掲の笑い話を聞いた時、普通の日本人は「白飯に卓上瓶一本分の醤油をかけお茶漬けのようにザラザラと浚い込むアメリカ人」をイメージするだろうし、醤油それ自体は健康的な調味料でも、昔から徴兵逃れの目的で醤油を呑んで血圧を上げるという話があるくらいで、それほど大量の塩分を一気に摂取することそれ自体が半端なく不健康であるという愚かしさを嗤う。

こういう類型の話は本邦にも存在して、今昔物語にこういう笑い話がある。何事も過ぎたるは及ばざるが如しという話であるが(笑)、健康的な食品でも節度なく「たっぷり」喰ってしまう辺りのデリカシーの欠如が、流石はアメリカ人だなぁというのが笑い処なのである。

尤も、幾らアメリカ人でも健康志向のハイソ人種がそこまで莫迦なはずはないから、もとよりこれは悪意的な作り話か何処の国にでもいるロワーな階層の半可通の失敗談でしかないわけで、これを以てアメリカ人一般のエートスを象徴させるのは若干不公平ではあるだろう(笑)。本邦の落語の世界でもこの種の莫迦は売るほど存在するわけで、落語紛いの莫迦も現実にうようよいるのだから、その意味では万国共通である。

後段で白倉は「醤油を薄めるか薄めないかの違いはあれ、やってることは同じだ」と強弁するのだが、この場合のポイントは「薄めるか薄めないかの違い」なのだから、そこを無視してしまったら意味がない(笑)。普通は薄めて喰うものを薄めないで節度なく摂取する辺りがアメリカン・ウェイ・オブ・ライフというジョークなんだから、そこですでに論点がズレている。

この「やっていることは同じだ」式の論法で言えば、幾らでも共通点は抽出可能なのであって、箸を使って飯を喰ってるのは同じだとか、白米を炊いて喰ってるのは同じだとか、同じ要素に注目してプロットするのであれば幾らでも恣意的に共通項が抽出可能なのは莫迦でもわかる。

しかし、「やっていることは同じ」→「滑稽なのは我々も同じ」という論旨が成立する為に抽出さるべき共通項の妥当性は、当然ながらその笑い話の滑稽味が何処にあるかによって判断されるのが筋である。このジョークでは、アメリカ人が白飯に醤油をかけることが滑稽なのではないのだから、そこを共通項として抽出することは作為的な誤誘導ということになる。

何せアメちゃんは、変な作法とは言えそもそも和食を喰ってるつもりなんだから、何処かしらに和食と共通項があるのは当たり前の話なのである。そもそも「変な作法」とは言っても、所変われば品変わるで、和食だってアメリカ人が自分たちの好きなようにアレンジして喰う権利くらいあるだろう。

オレら日本人にしてからが、たとえば東京は世界中の料理が喰える世界に類のない食の国際都市ということになっているが、日本人向けにアレンジされた料理や作法が、本場の人間から視れば噴飯物だという場面もあるだろう。

たとえば、今はさほどではないが昔の珈琲通はブラック党と決まったもので、砂糖やクリームを入れると珈琲の芳醇な香りや苦味酸味が楽しめないということになっていたのだが、南米やヨーロッパなど珈琲文化が食生活に根付いている国や地域では、たいがいこれでもかとばかりにいろいろな香料や甘味料を山ほど入れ物凄く甘くして呑むのがポピュラーである。

本場の作法ということなら、昔の日本の通人のほうが余程作法外れの奇矯な趣味をしていたわけで、茶や珈琲を甘くするというのは世界的に極一般的な傾向である。

砂糖やクリームを山ほど入れる外国人の味覚を嗤うなら、砂糖もクリームも歴史的に高価な贅沢品だった日本人の食生活の物質的な貧しさを嗤われても仕方ない。戦後に至って漸く甘いものが大人にとって贅沢ではなくなった程度の国情なのだから、砂糖をふんだんに使える国や地域で大人の間でも強い甘みが愛好されることを嗤うのは、貧乏国の僻みととられても仕方ないだろう。

素材本来の味わいというのなら、アフリカや太平洋圏の未開地の人々が塩と水だけで調理した喰い物が(素材の旨味を引き出しているか否かを問わなければ)純粋な正道ということになる。素材が本来持つデリケートで豊穣な味わいを最大限に引き出すというのは、味覚の感度の個人的民族的地域的趨異に基づくただの一嗜好でしかない。

豆本来の香りや旨味を楽しむと称して何も入れない珈琲を有り難がるのは、素材本来のデリケートな味わいを尊ぶ日本人くらいのものであって、やはりわかりやすい食の楽しみとは甘いとか辛いとかしょっぱいとか良い匂いがするとかベタなものである。

閑話休題、この種の論理展開は詭弁としては馴染み深いもので、冒頭で他人の滑稽譚を語って読者を嗤わせておいて、でも実はそれと同じことをあなたたちもやっているのではないですかと畳み掛け、我々が何の疑問も抱かずにやっている「普通のこと」が鳥瞰的に視たらおかしなことなのではないか、と常識を疑わせる仕掛けである。

しかし、このエントリーの例示では他人の滑稽譚と我々の常識を「同じこと」とする論理に胡麻化しがあるわけで、それが何故滑稽なのかという考察を有耶無耶に糊塗して、共通しているのが当たり前の事柄にこじつけているわけである。

例によって例の如しなこのような強引な語り出しを軽いジャブとして、さらに驚くべき必殺の鉞フックが待ち受けている。

"和食”とは、醤油味という味つけの傾向でしかないのか?
どんな素材を使い、どんな調理をするとしても、醤油味にまとめるのがゴールなのであれば、主は醤油であり、素材や調理法は従にすぎない。
(中略)
しかし、私たちが醤油病に罹患しているかぎり、どんな可能性もつぶされてしまう。
魚の塩焼きの付け合わせの大根おろしにまで、醤油をかけてしまうようでは、病気は深刻である。

この辺、当人的には笑い処なのである。「おいおいオッサン、何言うてまんねん」的なツッコミキボンヌなのである(笑)。他人を嗤わせ、その滑稽事を我々も犯していると強弁して常識を疑わせた後、そのネガティブイメージに載っかって猛然とラッシュをかけて強弁に強弁を重ね、何ら論理的な筋道を示すこともなく醤油は悪者にされてしまう。

主は醤油であり」から何の脈絡もなく「醤油に罹患」「どんな可能性もつぶされてしまう」「病気は深刻」と、語感のネガティブイメージを漸強させることで石蹴りごっこの論述は展開する。誰がどう視てもこれらの論述の間に論理的な筋道は存在しない。言い募っているだけである。

これに続いて、彼はさらに世界のメジャーな料理体系と和食のそれの違いとしてこのような要素を挙げる。

だが、アッラ・ガルムは製法が失われ、中華料理は油やエキスに走り、タイ料理や韓国料理は唐辛子に目覚めた。もちろんアジアでは大豆由来の醤油も魚醤も使われつづけているが、調理法によって各種が使い分けられ、しかも、かならずしも必須ではない。

まあ平たく言うと、別にそれが和食の異質性というわけではない。すでに自分から醤油以外の味付けの一例として「たとえば塩焼き・漬け物・味噌汁……。京都のとある店では、鯉の洗いを大根おろしの絞り汁で食べさせるとか」と挙げているが、醤油の特権性を強調する為に、味噌の存在をネグレクトするのに苦労している(笑)。

料理の基本は「さしすせそ」だと謂われるが、和食において醤油がメジャーな調味料だということはたしかでも、醤油単体が国際的に視て異様なくらい特権的な位置附けにあるわけではない。

それはたとえばタイ料理を「何でも甘酸っぱくてパクチーが入ってる」とかインド料理を「何でも黄色くて辛い」とかフランス料理を「何でもベシャメルソースが絡んでいてバター臭い」と決め附けるのと変わらない。実態としてはまったくそんなことはないわけで、雑に括ればそういうイメージがわかりやすいというだけの話である。

醤油程度に主流的位置附けにある調味料があれば、味噌程度にそれと競うような調味料があり、甘味や酸味を加える調味料がある。そういう意味では「やっていることは同じだ」式の論法で妥当に平準化可能な料理の一般則である(笑)。少し違うところがあるとすれば、醤油も味噌も主に大豆を発酵させてつくった調味料で、他の国の調味料ほど多用な食材を用いていない、遵って材料の組み合わせの多様性の幅が限定されるという部分くらいのものである。

敢えて日本料理に欠けている食感の調味料を挙げれば、たとえば四川料理の花山椒や朝鮮料理の唐辛子、インド料理の胡椒をはじめとする辛味スパイスのような、味覚ではなく痛覚に訴える辛味の成分である。

日本人は明治の時代まで、舌が痺れるとか口腔内に痛みが走るというような痛覚に訴える調味料は苦手であった。ここで一応註釈しておくと、たとえば漢字で「辛い」と表現されるような風味をもたらす調味料は、味覚ではなく痛覚を刺激することで独特の食感をもたらしている。つまり、辛いということは痛いということである。

たとえば四川料理の花山椒というのは、舌や口腔内が鈍く痺れるような食感を持っているので、その食感は「麻痺」の「麻(マー)」と表現される。そこに「辛い」という意味の「辣(ラー)」という食感が加わることで、四川料理の風味は「麻辣(マーラー)味」と表現される。つまり、舌や口腔がピリピリ痛む上に痺れるわけで、それが四川料理の食感の基本となっているわけだが、味覚で感じる味附けの基本はその刺激的な風味に負けないくらい強力な甘味と鹹味と油のコクである。

一方、和食の分野で精々辛いものと謂えば大根おろしとか山葵や和辛子程度で、大根おろしのピリピリした辛味は胡椒やカプサイシンの辛味に比べるとマイルドなものでしかないし、山葵や和辛子の辛味というのは揮発ガスが喉頭や鼻腔を抜ける時の刺激で、外国料理のような舌や口腔を痛め付ける刺激的な辛味ではない。寧ろ和食の辛味調味料というのは、痛覚ではなく味覚の観点で謂えば甘いものが多い。大根おろしも山葵も和辛子も、刺激を無視して味わうなら、あえかな甘味がある。

どれも魚食の場面で生魚の臭みや脂の乗った焼き魚のしつこい後口を、鼻腔や口腔を刺激してサッパリさせる効果があるから調味料として採用されているだけで、辛味それ自体の刺激を楽しむ為にある調味料ではない。辛い薬味を添える料理はあるが、それ自体が辛い料理というのは極わずかしかない。

明治までの日本人は、こと辛味という側面においては現代の赤子同様ナイーブだったわけで、生姜も一種痛覚に訴える食感はあるが、調理の場面ではその独特の風味や温感作用が重視されるわけで、痛覚的な辛味それ自体はそれほど重視されない。茗荷のような風味の野菜を「辛い」と表現し、葱も唐辛子も一緒くたに「南蛮」と表現して「辛い」というニュアンスで表すことからも、それは明らかである。

一般的に謂われているのは、日本の風土は温暖で四季がはっきりしていて通年で旬の食材が収穫可能、地理的に東西に長く食材の多様性に富んでいて、少なくとも東北以西の地域においては収穫される食物それ自体の滋味が豊富、火を通し塩を附けて喰うだけで充分美味い、水質も基本的に悪くなく軟水が主流なので煮込みに適しており、それ故に味附けのベースが「素材に塩味を利かせる」だけで料理が成立してしまうので、他国の食文化ほど調味料や香辛料の多様性が発達しなかったとされている。

醤油も味噌も、基本的な本質は塩である。塩に独特の風味が乗っているのがそれらの調味料の本質であり、どちらも大豆を発酵させたものが主流である。その意味では、従来の一般論で謂えば和食の基本は素材であり、調味料ではないということになる。それなりに風味のある塩味の調味料があれば、それを加えるだけですべての素材は美味い料理に変貌する。穫れ立ての新鮮な魚を船上で捌き、その肉を海水に漬けて喰うという漁師料理が一種和食の味わいの理想でもある。

それに加えて、和食の秘奥は出汁遣いにある。たとえば、とろろ昆布や炙った干鱈に湯を注いだものが吸い物の最も簡便な形態だが、昆布のグルタミン酸、節や煮干しのイノシン酸という二大系統の旨味成分の組み合わせで、単純な塩味を超えた旨味の階調が成立する。塩自体がまた、日本古来の製塩法は藻塩や塩田など直接的に海水から鹹水を得て煮詰める方式が主流だったのだから、塩それ自体に海水由来の旨味成分が存在するわけで、世界的に主流の岩塩由来の鉱物塩ではない。

岩塩とて元は海水なのだが、悠久の地質学的時間を経て地層中で圧縮され鉱物化される過程を経ており、塩の旨味の性格を決定するのは元となった海水の水質ではなく地層的な全体状況である。

その意味ではすでに海水という出自を忘れた塩と言えるわけで、混在するミネラル分の構成によっては、イノシン酸と脂肪が旨味成分である肉料理と相性が好い塩というものも存在するはずである。その点で、日本の製塩法は基本的に今そこにある海水を濃縮するという生産性の観点では非効率的な手法で作っていたのだから、漁労文化の食習慣との相性が一義的に好い。

つまり和食文化の調味料体系とは、特定の調味料が支配的な食体系と視るより、料理における調味料の存在感が比較的薄い体系と視たほうがより適切だろう。基本的に和食というのは、素材に控えめな塩味を加えて喰うという、味附けの部分で淡泊な調理体系である。刺身が大ご馳走であったように、生の食品に発酵調味料の風味と塩味を加えて喰うという淡泊な旨味を尊ぶ味覚の体系である。

だから、何にでも醤油をかけるから何でも同じ味になるというのは、西欧料理に毒された考え方である。ベシャメルソースやデミグラスソース、ウースターソースをかけたら何でも同じ味になるのかもしれないが、醤油というのはそれらのソースよりも自己主張の弱いソースだから和食の文化が成立するのである。味噌というのは、それよりももっと自己主張が強い。だから醤油が一番手で味噌が二番手なのである。

醤油や味噌の風味というのは塩の鹹味と同程度のウェイトの存在でしかなく、旨味の本体は素材そのもののそれである。要するに、和食の基本的セオリーというのは、動物性蛋白質や植物に塩を附けて喰うという未開地の人々の原始的な調理法が、その単純な方向性を保持しつつ極度に文化的に洗練されたものなのである。

白倉の謂う「油やエキス」というのは和食における出汁遣いと調理階層的にイコールであり、「唐辛子」というのは茗荷や生姜や柚子大根山葵と同列のものであり、それぞれが量的な関数の問題でしかない。そもそも一口に「醤油」と雑駁に括ってはいるが、所変われば品変わるで、東北の魚醤であるしょっつるや北陸の出汁醤油、関西醤油や白醤油など、一口に「醤油」と謂っても豊かな多様性がある。日本人が他府県に移動してまず食の分野で戸惑うのは、醤油の風味や味わいの格差である。

オレ個人としても、北陸出身なので関東の醸造臭のキツい濃い口の醤油は、上京後四半世紀を過ぎた今でもどうにも受け容れられない。寧ろ関西の塩味が強くて醸造臭の薄い醤油や北海道の昆布醤油のほうがまだしも口に合うくらいで、出汁にしたところで昆布主体か節主体か煮干し焼き干し主体かで全然味わいが違う。さらに煮干し焼き干しにしたところで、魚種によって味わいが変わってくるのだから、和食においてすべての料理が醤油味という画一的なゴールを目指していると謂われたら、大いに異論がある(笑)。

和食というのは、手法や構造面という高次の階層の概念的なバラエティではなく、同じ醤油の風味と塩味の階調や出汁の旨味成分の組み合わせの微妙な階調、そして素材自体の持つ旨味の微妙な違いを楽しむ階調表現の墨絵の世界である。それを諸外国の色彩的な食文化体系と普通に並列に並べてグローバリズムの尺度で論じても、和食の個別性をディスクライブしたことにはならないだろう。

たとえば、フランス料理が何でもデミグラスソースの味附けだったらデミグラファシズムと言えるだろうが、和食で味附けのベースが醤油になっている現状を醤油ファシズムとは言えない。少なくとも、料理の文脈においてはな

それでは、例によって例の如しの強引な牽強付会で白倉伸一郎は何を言いたかったのかと言えば、それはおそらく

なぜ私たちは"醤油病”にかかり、醤油を「万能」と錯覚してしまったのか?

この部分に鍵があるんだろう。

このエントリーで用意したかった前提というのはこれである。普通の日本人が深く考えずに何にでも醤油をかけて喰う無意識性を「醤油病」というとして誇張し、醤油の味附けを無根拠に万能と信じる意識こそファシズムだと言いたいわけである。

とりあえず、このエントリーでは「ファシズム」というタームが強調されているんだから、まずはファシズムについてちょっと考えてみよう。

日本型のファシズムのモデルとして「天皇制ファシズム」というのがあるが、これはつまり民衆の無意識に根差す融和的で優しい全体主義である。欧州型の強力なカリスマの下で民衆が熱狂する形ではなく、天皇という現人神の一視同仁の優しい視線の下に天皇の赤子としての民衆が一種の家族的共同体として存在するわけで、天皇個人の人柄がカリスマ的に魅力的だとか、その主張が日本国家の抱える政治的課題を打破し得る魅力的なものだという理由ではなく、家族的共同体としての国家において国民全体が敬愛出来る究極の家父長として最も旧い父系の「家系」を持つとされる天皇家の家父長である天皇がすべての中心に存在するという制度で、天皇の詔を絶対的正当性の根拠と為す国家モデルである。

戦後知識人の間では、近代天皇制のような国民の無意識に侵食する優しい全体主義をどのように警戒すべきなのかという問題が主に論じられてきたわけで、何かを無意識裡に前提視するという一般概念の成立状況に危惧が語られてきたわけである。日本型全体主義を論じる難しさとは、それが無意識に根差しているからである。

物事を考える場面で、一々何にでも根拠を探していたら煩わしくてろくに何かを語ることは出来ないが、そのようにして無意識の前提を置く姿勢そのものが日本型全体主義を生み出すのだから、常に無意識の前提を疑う姿勢を堅持しなければ日本型全体主義の構造を撃つことは出来ない。

つまり、近代天皇制の成立から東京裁判へと至る近代日本史の語る教訓とは、人が無意識且つ無批判に特定のドグマを受け容れそれを絶対視することの危険性である。近代天皇制は日本国民を熱狂的に魅了したり強圧的に蹂躙することで成立した制度ではない。すべてはイメージ優先で有耶無耶のうちに推移したのである。たとえば、今の日本国民は日本の首都が東京であることに何の疑問も抱いていないが、首都としての東京の歴史的な異様性は、制度的に明確な規定がないということである。

近代天皇制の黎明期に、京都の禁裏に在った孝明天皇が明確な遷都の宣旨を発することもなく東下して徳川家の江戸城を居城としてしまったから、事実上天子のおわす帝都東京が首都になったというだけで、制度的には別に東京を日本の首都に定めるという明確な規定はないのである。京都人が未だに京都が日本の首都だと信じて疑わないと謂われると他府県の人々は嗤うだろうが、それは制度的に言ってたしかにそのように考えるべき根拠があるのである。

この種の制度的な無根拠性は国号や国旗に関する議論にも関わる問題性で、長年月の鎖国政策によって、日本は文明国間で共有されている制度的正当性のシステムを巧く取り込むことが出来なかったし、そうしようとはしなかった。海に囲まれているのを好いことに、日本以外に天下が存在しないという世界観が無意識に成立していたのだから、日本という近代国家の仕組みを考える必要がそもそもなかったのである。

日本人は、歴史的に視てすべての重大な国事を有耶無耶の無意識裡に受け容れてきたのであって、その間の事情については東京遷都も近代天皇制も変わりない。コイズミ政権以来ポピュリズムに対する警戒心が国内的に高まってきてはいるが、日本という国は伝統的にポピュリズムで成り立ってきた側面があるのであり、それは明治維新からコイズミ郵政選挙まで一貫した国民の政治姿勢でもあるのである。

それは首都を法的に規定するような意味での客観的制度ではなく、蓮實重彦的文脈における認識の「制度」なわけだが、日本人はそのエートスとして自然で融和的な制度の確立を強力に欲している。ファシズム一般がそうだが、それが確立されることで国民生活が強力に安定するというメリットがあるのであり、ファシズムというのは社会的幸福を実現する成功の理論なのであって、国民が幸福の実現の為に自分のアタマを使わずに済む庇護的で優しい政治ロジックなのである。

話題を白倉伸一郎に戻すと、彼はその著書においてナチス政権下のドイツを民族的排除の論理でディスクライブしてみせたが、これが一個の近代的先進国が歩んだ歴史的一状況の論述としては剰りに幼稚な暴論であることはすでに別の機会に論じた通りである。

しかし、彼がこの論述で語りたかったことを想像するなら、ファシズムの最も恐るべき側面とは、無意識の前提として人々を支配する部分だということだろう。それは恐らく特定の為政者や権力の謀略という皮相的な次元に留まる話ではなく、それらの為政者を含めて人間の共同体が強力に安定する為の無意識のシステムとしてファシズムの脅威が存在するという勘働きだろう。

隣人の価値観を無批判に共有する怠惰な姿勢、他人がこうしているから己もこうするという「大衆」の無名性への逃避、自身の信奉する正義が何故に正しいのかを問わない欺瞞的な不誠実、これらはすべて思考停止に基づく「無意識の前提」と括り得る。そのように知的に怠惰な姿勢は、必ずファシズムへの道を現出するものである。

現にコイズミ政権下では、その種の無批判なカイカクファシズムが剰りにも呆気なく成立してしまったではないか。経済のことしか訴えなかったコイズミ時代には意識されなかったことだが、その後を襲った安倍晋三の新保守主義の政治は、剰りにもアカラサマに軍国化の方針を志向したではないか。安倍政権のそのすぐ目と鼻の先には、太平洋戦争当時のような全体主義国家の青図がある。

この二〇〇七年という時代性は、日本という国家にとってまさに危うい瀬戸際だったのである。この一年を経験したことで、オレは「軍靴の音が聞こえる」式の旧態然たる体制批判を嗤うことが出来なくなった。人間とは、日本人に限らず未だにそのレベルの愚かしい存在なのである。

生真面目な一社会人としての白倉伸一郎は、たしかにこうしたファシズムへの傾斜とそれをもたらす思考停止を懼れているのだし、その批評的言説の主な射程としているのだろう。和食には醤油をかけるもの。そのような思考停止の思い込みも、原理的にはたしかに立派なファシズムなのである。

たとえば「美味しんぼ」の劇画では、美食倶楽部の新米料理人が風味豊かな新蕎麦の薬味として型通りに刻み葱と山葵を添えて、その既製概念を疑わない思考停止の姿勢を厳しく雄山に叱責されるというエピソードがあったが、無意識の前提というのは本質的にファシズムへと繋がるものなのである。

彼が食文化に関するエントリーで語りたいと考えているのは、食に仮託したこのような日本型ファシズムの隠喩なのだろうと推測していて、「和食には醤油」という無意識の制度が存在し、醤油をかけることで何も考えずとも和食として成立してしまうのであれば、「和食」というカテゴリーそのものに日本型ファシズムとして括り得る性格が潜在しているという認識転換の挑発を目論んだものだろう。

先日の日本豚食文化幻想の話も視座は同じだったのだろうと思うが、あれに関しては当人の中で「豚を喰う」という食習慣の意味が明確ではなかったのではないかと想像している。あの文脈だと、在り来たりのつまんない伝奇的な陰謀論にしかならない。誰かが歴史を改竄したのだという常識破りの意外性は、割とつまらない嘘にしかならない。

正味な話がゴルゴムの陰謀とかユダヤ陰謀説とあんまり変わらないわけで、あれだけ無理無理なこじつけで構成した割には凡庸な作り話になっている。そこが気に入らなかったからちょっとばかりキツいツッコミを入れただけなのに、剰りに呆気なく頓挫してしまったのも味気ないことこの上ない。

まああのエントリーは「日本人は昔から豚を喰っていた」という伝奇的なトンデモの理論武装としてはちょっとお粗末だったので、あの切り口で進めるのは手に余ったんだろうと推測してはいるのだが(笑)。

詭弁というのは、正論で突っ込まれても平然と無視出来るだけの腹の括り方あってこそ成立するのである。白倉伸一郎が自身を滑稽な詭弁を弄する道化として演出したいのであれば、嘘を嘘の儘に堂々と吐き通してみたら好い。

オレの読みでは、こういう言説というのは「我々日本人は醤油病という固定概念に深く囚われている」という、言い懸かりでしかない大嘘に仮託した真の狙い所を読み手が面白がって受け容れる気にさせなければならない。だが、白倉式の言説はその肝心要の大嘘の語り口に色気と度胸がないから洒脱な芸風にはならないのである。

大きな嘘がネタとして成立する為には、嘘であることがハナから読み手にバレていてもそれでも真顔を作れるだけの図々しさと、嘘自体のねちっこい粘りがなければならないものである。白倉的語り口では、どうもその辺少しキョドってしまって本当らしさを繕う色気が残っており周りの顔色を窺うような器の小ささがあったのだが、その意味で今回の嘘は豚の話よりは余程巧く語れていると言えるだろう(笑)。

お話の発端も前提条件となるべき認識もすべてが出鱈目の大嘘だが、それはそれで好いじゃないですか(笑)。私人としての白倉伸一郎は割合一貫して「知的に怠惰な姿勢は多様性を圧殺する全体主義を招来する」という危惧を訴え続けているのだが、嘘の吐き方がこなれていないのですぐに頓挫してしまう。

それでも懲りずに何度も同じことを言いかけるのだが、まあまあ今回はその無理無理な大嘘の前提を受け容れて、あなたの言葉を聞きましょうという気にさせるだけの語り口と成り得ているだろう。

そのロジックの成り立ちはともかく、「和食には醤油をかける」という無意識の制度をファシズムと指弾する切り口自体はアリガチながら妥当である。勿論こじつけで構成されている以上真偽の基準では偽なのだが、比喩の階層で妥当性がある。だから今回のところは喉元まで出かかったツッコミを程々に控えて「和食ファシズム(2)」を心待ちにさせていただこうと思う(笑)。

そこはそれとして認めるとして、ならば今回は、そもそも白倉伸一郎は何故にちょっと手が空くとすぐにそんな屈折した自虐芸を披露しなければならないのか、少しそこを考えてみよう。

オレの鑑定(などと言うほど大した話ではないが)では、元々白倉伸一郎が東京大学を目指したのは、多分十中八九まで単純に映画会社に就職したかったからだろう。高寺成紀が早稲田大学に入学したのは、ヲタク活動のメッカで存在感を示して漠然とサブカル職業に就きたかったからだと睨んでいるのだが(笑)、その意味で白倉伸一郎はもっと堅実だったわけで、東大に入ってから漫然とその後の進路を決めたわけではないだろう。

東大受験を楽々クリア出来るような大秀才様が、最高学府で浮世離れした知の研鑽に没頭し、さてこの俺様の卓越せる知力をどんな分野で発揮してやろうかと考えて、酔狂にもジャリ番専門企業の東映に入ったというアニメ紛いのお伽噺などでは毛頭ないはずである(笑)。彼は単に、映画制作を手掛けたかったから一生懸命勉強して東大に入り、何とか卒業出来たから、喜び勇んで東映へ願書を出して面接に行って伝説に残るあの演説をぶったというだけの話だろう。

彼が進路を決定した八〇年代の当時、映画会社というのは一応一流企業であって、東大京大もしくは早慶何れかでもなければハナから採用されないだろうし、仮に潜り込めたとしても学閥の関係から制作畑で思う通りに仕事をすることなど出来なかった。

実際、国内の映画産業が成熟を果たし日本映画の黄金期を実現した頃にはすでに、たとえば映画監督などは軒並み一流大学出身の高学歴者で占められていた。香具師に毛が生えた程度の胡乱な人種が映画を撮っていたのはさらに大昔の話で、現在存命の最古層の映画人はたいがい「大学は出たけれど」というノリで、高等教育を受けた知識人が戦後の混乱期に身過ぎ世過ぎの為に映画産業に身を投じたという例が多い。

それ故に戦後の日本映画界というのは元々高学歴職種で、日本人全体の高学歴化傾向は高度成長期以降に本格化したのだから、戦前戦中の大学生といえばそれだけで一応インテリで通ったわけである。撮影スタッフなどは高価なキャメラや録音機材を扱うわけだから、扱いとしては専門教育を要する立派な技師である。映画が社会の暗部と密接に関連した卑俗な興行商売でありながら、その一方で高踏な総合芸術でもあるという認識もすでに確立していたわけだから、それらの技師を率いて一本の映画を文芸作品として成立させる映画監督も高度な教育を受けている必要がある。

まあ簡単に言えば、高度な技術職だから高度な教育を受けた頭の良い人間でないと務まらないだろうと漠然と考えられていただけだと思うのだが(笑)、当時の映画クルーは撮影スタッフから監督から俳優に至るまですべて映画会社の社員なので、一見学歴など無関係と思われる俳優も大卒が主流である。そんな高学歴な集団を擁する企業の総合職が頭の悪い人間に務まるはずはないから、そのわかりやすい指標として高度な学歴を要求されるという流れで、戦後の映画産業は基本的に一貫して高学歴職種だったということになる。

一方八〇年代当時は受験戦争がかなり激化し社会全体が高学歴化した時代だから、一流映画会社に入って好きなように映画をつくりたかったら、東大京大早慶以外の進路上の選択肢はない。その中にあって、早大閥は東映Pの顔ぶれを視ればわかるようにサブカル分野からのボトムアップというポジショニングになるわけで、日芸的な体質でありながら一流企業にも手が届くという特殊な位置附けになる。

だから、「特撮/映像」という志望対象を想定するとして、高寺成紀の場合は一も二もなく「特撮」にウェイトがかかるからサブカル活動が活発な早大を目指し、白倉伸一郎の場合はもう少し「映像」のウェイトが高かったから、映画業界入りの確実な切符として東大を目指したという話だろう。極端な話、高寺成紀は現在の身分がそうであるような特撮ライターや評論家という會川昇や切通理作的な方向性の選択肢もあったのだろうが、白倉伸一郎は一義的に作品制作に携わりたかったのではないかと思う。

自身も語っている通り、東大に入ってからはろくに授業にも出ず映画撮影にかまけていて「卒業出来ればいいや」的な姿勢だったわけだから、志望を実現する為のプロセスとして東大受験という課題に取り組み、さらに東大卒業という課題をかつかつで果たしただけなのだから、東大卒というだけで白倉伸一郎をインテリ視する必要はないだろう。

2ちゃんのPスレのテンプレを視ればわかる通り、他の東映のPだって東大卒がゴロゴロいるのだが、それらのPが白倉伸一郎ほど過剰にインテリ扱いされているのを視たことがない。白倉伸一郎の特殊な部分というのは、「物言うプロデューサー」であるというそのキャラクター性にある。

単に高寺成紀や白倉伸一郎の入社時は日本映画の斜陽期で、志望者の数も採用人員数も少なく、日笠淳の次の世代がいきなり高寺成紀になってしまうわけで、高寺や白倉の時代になるとメディアがPの職域にも注目するようになったから、公的な場面で個人名を強調した意見表明を行う場面が多くなり、自然と目立ってしまったということだろう。

日笠より上の世代になると、伝説的な名プロデューサーの某氏以外そんなに表舞台で私的な意見を表明せず企業人としての顔を堅持するという意識の人が多くなる。

たとえば高寺成紀のような早大出身者の場合、クウガのヒットでけっこう意見表明の機会が増えたとしても、サブカルジャンルの人材が早大閥であるのは割合自然なのでとくにどうとも意識されないが、白倉伸一郎の場合、世間的には日本を牛耳る最高の学閥と目されている大看板の「東大卒」なのが目立ったということだろう。

しかし、種を明かせば東映内部で東大卒の看板なんか学閥を噂する場面以外で誰も意識しない。そもそも東大卒の学歴は就職の条件というだけなんだから、総合職の職域では周り中に東大卒がゴロゴロしているわけである。

オレの友人に昔からジュニア向けの小説を書いている人がいるのだが、ポリシーとして学歴を公表しないことにしているとのことで、ジュニア世代に向けて文芸を語る立場の人間の学歴を問う姿勢そのものが厭だということなのだろうが、それと同じような意識は白倉伸一郎にもあるんじゃないかと思う。

彼自身としては、映画会社でTV番組のプロデューサーを務める以上、東大や早大などの一流大卒というのは極当たり前の就職条件に過ぎないという意識だろうし、直前の世代で同じ東大卒の日笠が格別インテリ扱いされてもいなかったのだから、何故自分ばかりインテリ扱いされるのか釈然としないものがあったのではないだろうか。

妙に生真面目なところのある白倉伸一郎としては、子ども向けのTV特撮番組をつくる立場の人間である自分が、過剰に学歴を有り難がられている風潮には反撥を覚えていたのではないかと思う。旧い馴染みの井上敏樹が「理論武装はするけれど本当は野獣」と表現するくらいだから、元々そんなにロジカルな人間ではない。レトリックを駆使するのは合目的的に相手を言いくるめる為であって、彼自身の思考法はどちらかと言うと論理的というより空想的である。

しかし、如何に自身をインテリ視する風潮に反撥があったとしても、口先で「オレはインテリなんかじゃない」と幾ら言っても、事実において東大卒の看板を背負っている以上厭味な謙遜としかとられないだろう。そこで彼が漠然と考えたのは、インテリのパロディを演じることではなかったか(笑)。

世間からインテリと目されている自分が滑稽な道化を演じることで、インテリという雑駁な観念自体の胡散臭さを誇張して演出し我から笑い物になろうという腹づもりなのではないかと思うのだが、「流石は一級の釣り師」的な持ち上げ方は、やっぱり根底の部分で白倉伸一郎のインテリジェンスを過剰に盲信しているのではないかという気がするし、その根拠にはやはり東大卒という卑俗な看板の力があるだろう。

看板やレッテルを潜在的な根拠として特定個人の人格的能力的優越性を盲信する姿勢とは、やっぱり根底の部分で白倉伸一郎が指弾して已まないファシズムへと繋がる道なのであり、だから本人はその種のパブリックイメージが厭なんではないかと思う。

物凄くわかりやすく言えば、彼が心に描いている在るべき自分のパブリックイメージというのは、八田亜矢子みたいなものではないかとオレは考えている。現役東大生という輝かしいステータスに対する大衆の劣等感と、大衆が無前提で揶揄的に見下せる天然イメージがいい具合にバランスされているのが八田亜矢子のキャラ性だが、ひとまずこういうパブリックイメージにはそれほど実害はない。

しかし、その先を見据えるならば、国内随一の高等教育を受けているエリートが莫迦を演じることほど胡散臭いことはないわけで、苟も一流企業で辣腕を揮う総合職の人材が世間一般の平凡な人間よりよっぽど莫迦だなどという話はない。それ故に白倉伸一郎は東大卒の一流企業人である自分が、大衆が無意識に見下せるほどアカラサマな莫迦を演じることもまた胡散臭い欺瞞だと思っているのではないか。

東大生や東大卒の公人が大衆に受け容れやすい天然キャラを演じることは、イッパンタイシューがエリートに対して感じている僻みの感情や劣等感を優しく慰撫するプライドの補償に過ぎない。何だい、ちょっとばかりお勉強が出来たところで、オレたち以下の莫迦ばっかりじゃないか。こういうふうに思えることは、イッパンタイシューにとって自身のプライドを護るよすがとなる。

そのプライド補償の思考法などは、そんなイッパンタイシューと変わらぬ矮小な一凡人が自身の望む社会活動を実現する為に血の滲むような努力を積み重ねた事実を無視するものでしかない。たしかに東大卒のタレントは、「自分はちょっと勉強のコツを呑み込んでいた要領の好い人間に過ぎない」と謙遜する。しかし、日本の最高学府である東京大学の狭き門に合格し優秀な成績で卒業を果たすのは、そういう「ちょっと要領が好いだけ」の人間ばかりではない。

白倉伸一郎だってご余裕で東大に合格したわけではないだろうし、それなりに努力して自分の志望を実現しているはずである。東大卒だからと過剰にインテリ視したり、逆に現役東大生の天然ぶりにプライドを慰撫されたりするのは、まあそういう当人性を無視した大衆の思い込みに過ぎない。

現役東大生ということで言えば、たけしの「コマネチ大学数学科」に出演中の木村美紀松江由紀子のパブリックイメージは八田亜矢子と逆方向で、視るからにアタマの悪そうな安いギャルが、一般人にはチンプンカンプンな難しい数学の問題を理路整然と解答する辺りのイメージ上のギャップが、激しくイッパンタイシューのコンプレックスを刺激するわけだが(笑)、本来こういうイメージのほうが健全ではあるだろう。

受験勉強にはたしかにコツがある。しかしそれはアタマを働かせるコツや要領という意味であって、元々アタマを使うことが嫌いな人間でも魔法の呪文で東大に入れるという甘い話では毛頭ないのである。真面目に勉強している現役東大生が一般人より基礎的な知的能力が優越しているのは、或る意味当たり前で公平である。「ちょっとお勉強が出来てもホントは莫迦だ」式のキャライメージというのは、そういう冷厳な事実を糊塗して大衆の嗜好に迎合する欺瞞ではあるのである。

「東大卒だからインテリだ」式の人間観も幼稚なら、「東大生と言っても頭でっかちの勉強莫迦だ」式の人間観も負けず劣らず幼稚である。現状の日本の社会において東大という学府が象徴するのは、社会において一流のレベルで仕事をする為にどの程度の課題をクリア出来るか、その為にどれだけ努力出来るか、そんな第一段階の足切りである。

白倉伸一郎という人は、目指す志望の為にそういう努力をして課題をクリアした、それだけの話である。その当人性の次元で言えば、「東大卒だからインテリだ」と決め附けられたら、「オレは普通よりちょっと努力しただけの平凡人だ」という反撥を覚えるだろうし、「東大卒と言っても頭でっかちの勉強莫迦だ」と言われたら、「希望を実現する為の犠牲を払わなかった人間がそれを言うことでプライドを購うのか」という反撥を覚えるだろう。

オレが常日頃から「東大卒だからって白倉をインテリ視するな」と言うのは、現状において東京大学という学府と当人のインテリ性に直接的な相関はないからである。高踏な知の極北を追究するインテリ的なメンタリティなど欠片もなくても、一流企業で仕事をしたかったら国内トップの最高学府を目指すしかない、その努力や苦労を「インテリ」の一言は容易くネグレクトして意識の背面に廻しちゃうわけである。

映画やTV番組というのは、創作に興味を持つ人間なら誰でも手掛けてみたいと思う魅力的な対象だろうが、莫大なカネが懸かるものだから一握りの「選ばれた人間」しか手掛けることが許されない。誰がどのような基準でそれを「選ぶ」のか、それには明確な基準も選び手の資格も存在しないのである。とにかく困難な課題を設定して、それを解決出来るだけの能力があることが第一段階の選定法となるだろう。

少なくとも、「映画会社に入社する」というのは、そこで選ばれる機会をつくる為の有効な手段の一つではあるだろう。コネが幅を利かせる映像ジャンルにおいて、有名俳優や著名監督、大物TV業界人の係累ではない白倉伸一郎が、莫大なカネの懸かる映像作品を手掛ける為には、東大卒の看板とそれによる映画会社への就職が必要条件だった、少なくともそういう就職努力を納得して受け容れた、それだけの話である。

そんな足切りの課題を以てして当人性を語るんじゃない、これは白倉伸一郎自身が抱いている反撥ではなく、オレという赤の他人が抱いている反撥である(笑)。世間一般の人が東大卒の一流企業人を「ああインテリだからねぇ」と語るのはしょうがない。人間というのは、それほど関心のない他者に対しては便利なタイプシンキングで応じるものである。

こういう条件附けの人間だからこうであるはずだ、それがタイプシンキングの人間観である。目の前に存在する特定の人物が事実においてどのような人間であるのかという緻密な観察に基づく帰納ではなく、この手の人物はこうだという無根拠で怠惰な演繹の思い込みで他人を計ることである。

東大卒のコムズな理屈を語る映像プロデューサーなんだからインテリだ、これがタイプシンキングというものである。三流大学出のチャランポランなフリーターは人間が甘くていい加減な人間だ、それもまたタイプシンキングである。小泉純一郎は正義の味方だから彼の訴える改革原理主義は正義だ、これもタイプシンキングである。

ファシズムを生み出す源泉というのは、この種の知的に不誠実なタイプシンキングの思考法なのである。タイプシンキングという機械的合理は、制度的であるが故に無意識の前提というものを容易く無批判に容認してしまうものだからである。

人間はそれほど関心のない他人のことまでチマチマ考えている余裕はない、だから関心のない他人をタイプシンキングで計るのはある種人間として健全である。読者諸兄姉も自分が他人からそのような雑駁な見方で計られたら、怒りを覚えたり躍起になって実態をわからせようと努めても無駄なことであって、所詮その人は自分に対してその程度の関心しかないのだと割り切ったほうがいい。

人間というのは、どうでも好い人間のことまで誠実に考えようとはしないものであってそれで当たり前の生き物なのである。もっと自分のことを識ってほしいと願うだけの特別な誰かが相手なら、ムキになって自身の真実を訴えるのも好いだろうが、どうでも好い赤の他人がどうでも好い赤の他人である自分を雑な鋳型で認識するのは当たり前の話であり、そこまで気にしていたら俗塵の巷で生きていくことは難しい。

しかし、人間観の観点において問題なのは、強い関心を持ち好意を覚えている相手に対してまで雑駁なタイプシンキングでしか計れないことであり、これもまた白倉伸一郎が一貫して指弾する無意識の制度的思考である。つまり白倉伸一郎が常日頃批判しているのは、「流石は東大卒のインテリ」とか「侮れない一級の釣り師」とかタイプシンキングしている彼の支持者が抱く雑駁なパブリックイメージでもある。

それ故に白倉伸一郎は、本物のインテリにしては間が抜けたことしか言わないし、お勉強が出来るだけの天然キャラも演じないのだろうとオレは思っている。関心を持って他人を論じる場面で、タイプシンキングで語るほど知的に怠惰な姿勢はない。だから彼は知的に不誠実な人々が我から好んで白倉伸一郎を語りながら、タイプシンキングを脱して対象を視ようとしない姿勢に対して、「白倉伸一郎はこうだ」と安定的に語れる単純な鋳型を用意することが厭なんではないかと考えている。

そのこと自体に対してオレはまったく反撥を感じていない。彼が他人から自身をどう思われたがっていて、その為にどのような自己演出を行うのかというのは、徹底的に彼自身の自由意志の問題でしかないからである。

虫が好かないのは、冒頭で言った通り合目的的な詭弁である。それによって安定的に寄り掛かれる他人様の「お言葉」を期待する人々に持って回った知の挑発を仕掛けたいという動機はわからんでもないが……でもねぇ、それって結局ポピュリズムなんですよ。

たとえば、表現の自由や個の多様性を圧殺する優しく融和的なファシズムを主な射程に据えて、それを読み手に真意を隠した戦略的な詭弁で撃つ。これはやっぱりポピュリズムなんですよ。小泉純一郎の強弁と変わらないわけで、コイズミカイカクや安倍政権の新保守主義がファシズムなら、それを撃つ為に本質的にファシズムへ続く道でしかないポピュリズムを手法として採用するのはどうなんですか、という疑問があるんだよ。

衆愚をファシズムに導くポピュリズムのレトリックをそれを撃つ側も採用するのであれば、それもまた極性こそ違えどファシズムの一種でしかないのではないですか、という話である。白倉伸一郎の思想においては、善いファシズムも悪いファシズムもないはずであって、人々の自由意志を無意識のレベルで束縛し操作するファシズムであることそれ自体が悪のはずで、それに関してはオレもまったく同意見である。

しかし、だからこそオレは合目的的な詭弁が生理的に嫌いなのである。合目的的な詭弁の本質とは相手の無意識に働き掛けて自由意志を操作するということであり、真の意味で相手の自由意志や理性を信頼していないということであるか、もしくは確信犯で行う悪であるかのどちらかである。

そして、オレは私人としての言説の場において、他者の自由意志や理性への不信も嫌いなら確信犯で行う悪も嫌いである。たとえば小泉純一郎が悪辣な裏の顔を隠した極悪人の偽善者であれば話は簡単だが、もしかしてオレが以前ディスクライブしたようなマジモンの正義の味方かぶれであったらどうか。

彼の十八番の政治手法であるその場逃れの詭弁や強弁や情報操作は、彼の視点においては崇高な正義を行う為の手法に過ぎないということになるのだし、人々の自由意志や理性を信じず、無意識に働き掛けて操作し自身の信奉する独善的で幼稚な正義に遵わせ救済しようとしたのならどうか。

オレはそんな正義も救済も信じないし、その独善こそがファシズムなのだと考える。

そして、白倉伸一郎が常日頃批判しているファシズムとはそのような種類のファシズムなのではないかと思うのだが、それを撃つ為に自身もプチコイズミになってどうするんだという反撥はある。ファシズムを撃つのであれば、如何なる次元においても同じ土俵に上ってはダメだ。それは、ファシズムが何故いけないのかという根本的な意義を何処かに置き忘れてきた言論姿勢だからである。

聞き手の自由意志や理性を尊重せず、相手を恣意的に操作してまで救済しようとするのは独善に過ぎないし、ファシズムとはそもそもそのようなものであって、私利私欲の利権に走るから悪なのではない。

それは単なる個人の倫理の堕落にすぎないのであって、ファシズムそれ自体の抱える問題性とは別問題である。倫理的に高潔なファシストなら存在を許されるのか、そうではないだろう。だとすればファシスト個人の倫理を問えばそれで済むのであって、ファシズムそれ自体を撃つ言論にはならないだろう。ましてやファシストの存在しない制度的ファシズムである醤油ファシズムを撃つべき絶対的必然性はないのである。

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