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2007年12月 5日 (水曜日)

映画二題

最近映画を観ていないなぁと思って、先日買い物に出た序でに、以前少し興味を惹かれた映画を二本借りてきた。一本はブライアン・デ・パーマの「ブラック・ダリア」で、もう一本はオムニバスの「ユメ十夜」である。

結論から言うと、どちらもオレ的にはハズレだった。ユメ十夜のほうは先日コメント欄で話題に出たのがきっかけで、実相寺の短編を観るのが目的だから、後は全部スカでも構わないのだが、ブラック・ダリアのほうはそこそこ期待していたのとそれなりに尺の長い映画だったので、見終わってかなり徒労感を感じた。「期待していた」というのは面白い映画なのではないかという意味ではなく、こういう題材ならもう少しマシなデ・パーマ作品が観られるのではないか、という意味での期待である。

元々オレはデ・パーマはそんなに好きではない。言うまでもなくそれは女優を撮るのが下手な監督だからで、たしか「フューリー」だと思ったが、エイミー・アービングの銀歯丸見え猿顔の絶叫シーンで、この監督は女優を綺麗に撮ろうという意識がまるでないのだということを確信した。

デ・パーマと言えば「ファントム・オブ・パラダイス」だが、これもファントムが入れ上げるヒロインにジェシカ・ハーパーを起用しながら、同じ女優が主演した「サスペリア」に遠く及ばない汚い撮り方に愕然とした覚えがある。原作者・監督共に一代の出世作となった「キャリー」でも、不細工な少女がどんどん綺麗になっていくという話なのに、地が不細工な二〇代後半のシシー・スペイセクを起用するというのは何ういうセンスなんだか疑問に感じた。

それでもデ・パーマがつまらない映画作家ではないのは、何がフィルムに映っているかではなく、それを何う撮るのか、何う繋ぐのかという窮めて映画的な部分に官能を感じる映画的な変態だからである。つまり、デ・パーマ作品においては、何が映っているかとか、何が語られているかということに、本質的な重要性はない。

女優の選定眼や演出術には大いに問題があるし、物語の叙述ということにもそんなに勘のない監督だが、撮り方と繋ぎ方という手法的な部分に突出して惑溺する部分に映画人としての面白味がある。話なんか何うでも好いし、女優なんか汚く映っていても気にしない人なのである。また、デ・パーマ作品でルックの良い映画というのも全然記憶にないので、そういう部分に拘る人でもなさそうである。

初期のデ・パーマの作品は、映画というのは物語や役者の芝居を撮影したものではなくフィルムであることそれ自体が面白いのだという意識が突出していて、徹底的に空疎でありながら映画としての存在感はあった。

多分、デ・パーマがつまらなくなったのは、大資本の大作を撮るような一廉の大監督になってからのことで、「アンタッチャブル」や「カジュアリティーズ」以降はダメなんじゃないかと思う。オレ的にはアンタッチャブルからしてすでにダメだと思っていて、場面場面でデ・パーマらしいところはあるのだが、シーンとシーンの繋がりがブツ切れになっているのが剰りにやっつけで粗雑に感じられた。

この種の空疎な手法が突出した映画人としてはオリバー・ストーンもその一人だと思うのだが、ストーンの場合はご大層なテーマを勿体ぶって表現するという芸があるし一本の映画全体に対して手法的な意識が一貫している人だから、大仰な大作映画ということになるとデ・パーマより向いているだろう。所詮デ・パーマは映画の肉体性にネチネチと拘る一種のヲタクでしかないわけだから、「ミッドナイトクロス」のような小さい映画で偏執的な撮り方をするのが向いているんではないだろうか。

今回のブラック・ダリアも、ネタ的にはアメリカ史に残る異常犯罪を題材にした作品なのだからもう少し酩酊感のある映画になるかと予想していたのだが、寧ろ時代性を強調してワイプの繋ぎに拘った部分が、妙に軽い印象になっている。

こういう題材なら、当初の予定通りデビッド・フィンチャーの演出で映画化したほうが面白かっただろうし、同じ死体ネタということでデビッド・リンチのような見え方の映画でも雰囲気は出ただろうと思う。元々異常心理や屈折した友情や三角関係の心理が主題となる物語なのだから、そもそもデ・パーマのタッチでは物語的本質の表現にはそぐわないわけで、敢えてデ・パーマが撮るならもう少し映画の肉体性の部分でらしい表現が欲しかったのだが、印象に残るのは死体発見の場面のワンカット俯瞰撮影くらいで、そこも粘りが足りないので剰り満足感は得られない。

全体にデ・パーマが撮らなくても好いんじゃないかという印象しかない映画で、普通につまらないニューロサスペンスになっている。まあ、この程度の資本の作品ということになると、デ・パーマは雇われてディレクションしただけなんだろうが、ブラック・ダリアと富豪令嬢マデリンを別人が演じている意味もよくわからないし、それが馬面のヒラリー・スワンクというのは相変わらず何だか外したセンスである。スカーレット・ヨハンソンは全体に綺麗に撮れているが、元々綺麗目の女優なんだから綺麗に撮れて当たり前である。

全体に意欲のなさが感じられる映画で、多分デ・パーマのほうもやる気がなかったのだろうが、手癖で撮ってることが丸わかりである。手法の部分や映画の肉体性に魅力がないのだから、ただ淡々と話を語っているだけの映画で、話の芯になるブライカートとブランチャードの友情にも全然リアリティがなく、語りの言葉で言っているだけにしか見えないし、間に挟まるケイという女を何ういうふうな女として描きたいのかもサッパリわからない。

二人の男がブラック・ダリアの死体に入れ込んでいくプロセスも映像的な説得力がないので、単にブライカートが二人の女の間でフラフラしてるのが悪いというだけにしか見えない。この辺は、おそらくレイティングの関係で猟奇的な死体を正面から撮るわけには行かないという事情もあったのだろうと思うが、何処にでもいるくだらない生き方の田舎の小娘が、装飾された死体に祭り上げられることで全米中の関心を集めるスターになるという皮肉な映画的主題が十分に表現されていないのが原因だろう。

装飾された死体の美しさという意味では、デビッド・リンチの「ツインピークス」の象徴的存在であるローラ・パーマーの例があるが、あれなどは生前の描き方を視てもさして魅力的ではないつまらない小娘がラッピングされた全裸死体として無惨に遺棄されることで物語全体のメインビジュアルと成り得ている成功例だろう。あの茫漠としてとらえどころのないいい加減な物語を最後まで観ようという気になるのは、冒頭で提示されたローラの死体が、物語全体の核心を成す謎が何であるかをビジュアリックに象徴していたからである。

その点、死体が主人公の物語でありながら、死体を映すわけには行かないというのは大きなハンディキャップだが、画面に映さないことで観客の関心が否応なく常にそこへ舞い戻る負の中心とする演出というのも在り得るはずである。しかし、現状の作品では、そのうちブラック・ダリアの死体というのは単なる猟奇犯罪の記号にしか過ぎなくなってくる。何の取り柄もない少女が残酷に殺害され飾り立てられたという映画的に最も重要なイメージの部分が何うでも好い話になってくる。

多分、この物語はこういうふうに映像化されるべきではなかったのだろう。撮り方次第でもっと怖い映画に出来たのではないかとしか思えない。

元々中身のない空疎な映画人ではあったデ・パーマだが、中身ではなくそれを語るガワこそが映画なのだという拘りが単なる手癖に堕落してしまったのでは、面白い映画になるはずなどないだろう。

もう一本のユメ十夜のほうは、まあ実相寺が最後まで実相寺だったということを確認しただけでも観た意味はあっただろう(笑)。一〇本の短編のうち、原作の筋立てに比較的忠実なのは、実相寺と市川崑、清水崇、意外なことに松尾スズキ辺りも大幅に話を崩していないのだが、後のほうになるに遵って段々つまらなくなっていく。

一言でつまらないというと話が終わってしまうが(笑)、あの原作を剰り極端にアレンジするとただの「何でもアリ」になってしまうので、原作のエッセンスを欠片でも拾う姿勢がないと「JAM FILMS 」辺りと剰り見え方が変わらない。何う考えてもお金の懸かっていない企画なんだから、全部漱石の時代性で映像化するというのは無理だろうとは思うが、あんまり逸脱するのはいただけない。

先程挙げた四人と、豊島圭介の作品辺りは原作のどの話かピンと来たのだが、後の半分はそれほど記憶に残る原作でもないということもあって、在り来たりの不条理物という印象しか残らなかった。目当ての実相寺は第一夜を担当していて、久世光彦の遺した脚本も悪くなく、原作が喚起するビジュアルイメージをいい具合に実現していたと思う。第二夜の市川崑も、往年の切れはないがこの話ならこういう絵になるだろうという線を手堅く映像化していて、この辺までは原作の映画化というラインを外していない。

第三夜の清水崇も大筋原作のイメージその儘だが、清水厚や豊島圭介になってくると原作は方便に過ぎなくなってくる。後はもう、例によって例の如しとしか言えない雰囲気になってきて、皆さんよくご存じのオムニバス映画のあのムードになってくる。

まあ、先程例に挙げたJAM FILMS もそうだが、そもそもこの種の映画は一口チョコの詰め合わせセットなので、気合いを入れて映画館に観に行くような種類の映画でもないだろうし、制作側もDVDスルーをメインの商売だと考えているだろうから、レンタルで済ませるかCSの放映を待つか、そんなところが適当だろう。

豪華出演陣を謳っているが、面子を視るとたしかに各方面で活躍している人材が揃っているとは言え、お祭り映画のちょんの間出演ならお値頃な「オトモダチ価格」で出てくれそうな人ばかりで、まああんまり肩肘張って観るような映画でもないだろう。

そういう次第で、半年遅れとは言え久しぶりに新作映画らしいものを観たのだが、どちらもそこそこというところで、長々と語るようなことも思い附かなかった。

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