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2007年12月24日 (月曜日)

娑婆気は仮名書きで

先月「シリーズ第一弾」のスペシャルドラマを観た関係で、俄然原作に興味が湧いてあれから文庫で刊行されている四冊をすべて読んでみた。元々オレはハードカバーを読むのが苦手で、すぐに手がだるくなって座って読んでいるのが辛くなる。ハードカバーを一冊読み通すのに、仰向けに寝転んだり俯せに寝たり座り直したりを頻繁に繰り返すので、剰りに忙しくて本を読んだ気がしないのである。マジで書見台を購入しようかと悩んだくらい、オレはでかい版型の書籍を読むのが嫌いである。

これには若い頃の貧乏な読書生活が影響しているということもあるのだが、今は若い頃と同じくらい貧乏なので尚更のことである(笑)。まあそんな些末なことはさて措いて、ハズレだった場合でも文庫本四冊なら単行本一冊半くらいの損で済むし、逆にそれが当たりだったら続巻を買いに出るのももどかしくすぐに読みたくなるから、差し当たり文庫版を全巻買ってみたわけである。

例によって結論から先に言うなら、文句なく当たりであった。

オレ的には宮部みゆきの「本所深川ふしぎ草紙」辺りよりもよっぽど巧い小説だと思うので、これがヒットしているのは目のある小説読みが廃れていないということで嬉しい限りである。少なくとも第三作の「ねこのばば」までは文体に荒れもなく、巧くて綺麗な小説になっている。第四作の「おまけのこ」は、話自体は面白かったが文体が少し先行作品より荒れていて、語り口も少し舌足らずなように感じた。

王様のブランチのブックコーナーのインタビューで視る限り、著者の畠中恵は普通に人の好さそうなオバサンというルックスだったので、装幀や挿し絵の印象もあってかなり甘い小説を予想していたのだが、甘いばかりのお伽噺ではなく、池波的なシビアな町人の世界の現実をジェントルネスと好いバランスで描いている。最前名を出した宮部みゆきもそうだが、作家は見た目で判断してはいけないものである(笑)。

文庫カバーの見返しの略歴を視ると、高知生まれの名古屋育ち、漫画家を経由して都築道夫の小説講座に通って小説家デビューという、何やら去年話題になった誰かさんを思わせるような経歴なのだが(笑)、これだと「都築道夫の弟子筋」というのも少し大袈裟に感じてしまう。やはり師弟関係というと互いに互いを師弟を認め合い人格的な交流があってこそという気がするのだが、都築道夫の小説講座の受講生ということで言えば畠中に限らず無闇にたくさんいるだろう。

それでも小説作法を直接伝授されたのだから、しゃばけシリーズの小説作法に都築道夫の影響があることはたしかだろう。言うなれば「妖怪長屋捕り物さわぎ」とでも言うべき内容で、先日ドラマ化された第一作ではファンタジー的な筋立てのほうが強調されていたが、続巻は殆ど短編集で一種の時代劇ミステリの体裁をとっている。

しゃばけシリーズの世界を解説した「しゃばけ読本」というのも著者のインタビューが載っていたので序でに買ってきて読んでみたが、畠中自ら都築道夫の「なめくじ長屋」が好きで参考にしたと語っていて、好きだとどうしても同じようなものになってしまうので、敢えてなめくじ長屋の逆へ、逆へと発想していったそうである。

つまり、なめくじ長屋捕物「さわぎ」のような賑やかな世界が欲しいけれど、似ないようにするにはどうしたら好いかという観点で、たとえばなめくじ長屋が非人社会という一種のどん底リアリズムで行くならしゃばけは妖怪というファンタジーで行こうとか、なめくじ長屋が人情を一切廃した池波ノワール調で行くならしゃばけは人情を入れて行こうとか、積極的に逆目に張って行ったわけである。なめくじ長屋では最底辺の貧乏人の生態を描いていたわけだが、しゃばけが日本有数のブルジョワ家庭を舞台にしているというのもその種の動機だろう。

砂絵のセンセーに相当する名探偵が病弱な若だんな、その手足となって探索を担当したりコンゲームを仕掛ける非人集団に相当するのが妖怪の集団ということになるが、病弱という設定は一種の安楽椅子探偵物を構成する仕掛けとしての意味もあり、頭脳明晰な名探偵の推理力を印象附けるために行動上の制約を設ける意図もあるようである。そして、小説としての巧さや艶に関しては、弟子の畠中恵のほうが上に感じた。

以前「時効警察」に絡めて都築道夫を語ったことがあるが、都築道夫という作家は非常な小説の読み巧者だし優れた理論と発想力を持ち合わせた小説家でもあるのだが、惜しいことにその小説の肉体性に色気がない。エロチシズムという意味ではなく、何というか書き手その人の人好きのしない狷介な性格その儘に、文章の書きぶりに読者を惹き附けるだけの肉体的な艶というものがないのである。

そのような小説家として致命的な資質の問題性が最も気の毒な形で表れた実例は、さして新味のない骨格のお話を文体の色気だけで読み応えたっぷりに読ませてしまう久生十蘭の名作捕物帖シリーズ「顎十郎捕物帖」のパスティーシュを試みた時だろう。久生十蘭の遺族の許諾を得て書かれたこのパスティーシュは、一種正統的な続編とも言い得るわけで、十蘭に私淑する都築道夫にとってやり甲斐のある試みだったと思うのだが、結果としては無惨なものでしかなかった。

都築道夫の「新・顎十郎捕物帖」と十蘭の原典である顎十郎捕物帖を読み比べると、哀れなくらい小説としての色気や読み応えの部分で都築版が貧相に見える。勿論ミステリ短編集としてのロジックの緻密さでは、研究家でもある都築道夫のほうが上手かもしれないが、そもそも顎十郎捕物帖の読み物としての無類の面白さは、ミステリ的な巧拙にその源泉があるのではない。

都築道夫というミステリ作家は、実は本邦ミステリ史上に残るような画期的なトリックを幾つも考案しているのだが、その小説的実践は全然面白くない。トリック自体は面白いし、ミステリ小説として何処が間違っているというわけでもないお手本的な作品なのに、読んでいると物凄く退屈な小説になってしまうのである。トリックの斬新さに比較してそんな斬新なトリックが読者にもたらす驚きや満足度の度合いも低い。

比較するのも気の毒だが、クリスティの「アクロイド殺し」や「オリエント急行」を初めて読んだ時の驚きのようなものを劇的に演出するのが下手である。ミステリ小説の実践として言えば、黄金期の傑作ミステリというのは、読者が潜在的に「もしかしたら」と想定しながらも剰りに荒唐無稽なので無意識に否定してしまうようなトリックが整合的に語られた場合に最も意外性や満足度を感じるものである。

前掲のクリスティの二作品も、少し気の利いた読者なら潜在意識のレベルではチラッと想定してしまうけれど、剰りに非常識だから顕意識に上る前に否定するような事柄が、本当に事件の真相だったと整合的に語られる辺りにミステリ的な興奮があるわけだが、都築道夫は真相に至る手懸かりを一応フェアに提示しながら、読者がその真相に辿り着くことを徹底的に阻止しようと努力する。本格ミステリとはそういう知的な駆け引きの部分が面白いのだと介していた節がある。

その辺、この人はかなり無粋な感性の人だったわけで、デリケートな人情の機微や粋事の成立する微妙な基準というのが、遂にわからなかった小説書きだったと思う。岡本綺堂や久生十蘭への熱烈なリスペクトを語っているところを視ると、自身を粋な江戸文化との連続性を辛くも保持している東京人の末裔として意識していたのだと思うが、はっきり言って都築道夫の小説家としての一番の弱点は、微妙なデリカシーのわからぬ朴念仁だったところだとオレは思う。

シメノンや池上、綺堂や十蘭という、年季の入った小説読みだけがその芳醇な味わいの真価を識り得るような「巧い小説」に憧れていながら、自身はそんな巧い小説を書けるだけの資質を持ち合わせなかったわけである。都築道夫ほどの読み巧者なら、自身の作品がそれらの先達と比べてどうであるかということも充分自覚していただろうから、小説家としての都築道夫は生涯不幸だったのではないかと想像したりする。

ここで漸くしゃばけシリーズに舞い戻るわけだが、そういう意味では都築道夫の小説作法を引き継いでいながら、畠中恵の小説には読者を満足させるような色気がある。人の生の暗い現実を見据えた苦い結末を描いても、読者を不快にしないだけの人好きのする語り口がある。都築道夫的な奇抜な名探偵ミステリの枠組みに、池波的な世話物の人間観がプラスされていて、京極夏彦的なキャラクター性が加味されている。

こういう小説が玄人受けするのは窮めて自然であって、巧くて綺麗で読みやすく面白い小説である辺り、売れる小説の見本のような作品である。先日のドラマ版を視る限りミステリ色は剰り感じなかったが、長編は最初のしゃばけと第五作の「うそうそ」くらいで後はすべて短編集、そしてそれらの短編はすべてミステリの体裁によるものである。

元々都築道夫の講座出身ということもあってミステリを書きたいというモチベーションがあるらしく、ミステリ的課題設定の骨法にたしかに都築道夫の影響がある。そのような軽ミステリの骨格に妖怪ファンタジーやキャラクタードラマや人情話の味附けを載せているわけで、妖怪という異能を持つ存在を前提にした謎の構築ということも視野に入れているようだが、たとえば西澤保彦のSFミステリほど虚構の世界律が深く絡んだ謎を構築しているわけでもない。

ここで少し脱線するなら、京極夏彦や畠中本人も語っている通り、ほんの幕末くらいまでの日本人は妖怪や幽霊の存在を満更迷信だとは思っていなかったわけで、武家身分の高等教育を受けた大人の男性なら、「怪力乱神を語らず」の教え通り妄りに怪異の噂を真に受けて喋々したりはしなかったが、元々「怪力乱神を語らず」というのは「理屈でわからないことは語っても意味がないからつまんない無駄口を叩くな」というほどの意味で、怪力や乱神など「ない」という話ではなかったわけである。

これは現代科学でも同じスタンスで、大槻教授などは躍起になってUFOや超能力や超自然現象を否定する芸風で売っていたが、本来科学というのは科学的アプローチで解明出来ない対象に関しては最初から言及しないというスタンスの規範である。

その意味では、たとえば「未確認飛行物体」という意味のUFOは最初から語り得る射程にないわけだし、科学的に解明したらそれは「未確認飛行物体」ではなくなるのである。それを論理的な根拠もなく「異星人の宇宙船」と断定する物の見方が非科学的だと言い得るだけで、そもそも「未確認飛行物体」というのは「存在するのが当たり前」のものである。

「異星人の宇宙船」式の考え方が科学の分野で相手にされないのは、異星人も宇宙船もその実在が確認されていないのに、何ら根拠もなく未確認の対象の正体をさらに未確認の対象に比定する考え方が非科学的だからであって、異星人や宇宙船という概念が非科学的だからではない。

異星人も宇宙船も実在可能性の範疇では何ら非科学的な概念ではないが、科学という規範は常によりたしからしい考え方に則ってアプローチするのが筋なのだから、手持ちの材料だけで解釈可能な対象はそのような解釈で考えるほうがたしからしいとする判断基準があるというだけのことである。

人間は空を飛んでいるすべての物の正体を逐一確認出来ているわけではないから、正体を識別出来ない飛行物体というのは常に暫定的に存在する。だからそのような呼称が一般的に存在するわけで、正体が確認されるまではすべての飛行物体はUFOである。識別信号を発信している航空機だって、厳密に言えばそれが誰かに確認されるまでは未確認飛行物体である。

それらの「未確認飛行物体」群の中には、正体を確定し得るだけの材料が最終的に揃わなかったとか、そもそも正体を確認する必要性を認められなかったものがあるわけで、それ故に「未確認」な儘に放置されるのだから、それらの対象の正体が何であるかという言及はすべからく「空想」である。在りそうな空想かなさそうな空想かというだけの違いで、最早それは科学が扱う対象ではなくなるのである。

それ故に、「UFOは非科学的だ」というのはいろんな言葉を端折った乱暴な表現なのである。だからオレは、他人から「UFOを信じるか?」と聞かれたら「おまえ、莫迦だろう」と答えることにしている。幾らなんでも言葉吝みにも程がある(笑)。これまで陳べてきたように、UFOが存在するのは当たり前なんだから信じるも糞もないが、聞き手の真意はそこにはないだろう。

超能力や心霊現象も同じことで、たとえば超能力研究家などという人々は、たとえば人の心を読むという超能力者が相手の微妙な仕種や生理現象や言葉尻に対して無意識の直観が働く人だというふうに説明されると無闇に反撥するが、それで何処が気に入らないのかサッパリわからない。それらの人々が存在すると主張している能力が普通の科学の規範において存在を認められただけなのに、変な波動がどうしたとか科学的に検証しようのない原理でなければ承知しない人が多いのは理解に苦しむし、それらの人々が「研究」の名の下に科学的な手法を装っているのは嗤うべき愚昧である。

そういう確認しようのないものは最初から相手にしませんよ、というのが科学の大前提であるから、科学がそれらの対象を相手にしないのは当たり前のことなのである。それで別段そういう現象や事象が在ると「信じられていること」自体に対しては一切言及していないのだから、トンデモサイドのほうが恰も科学的アプローチであるかの如く装って正統的な科学の徒に因縁を附けているわけであり、だから心霊研究だの超能力研究だのという「擬似科学」は有害なのである。

たとえば幽霊だの超能力だの異星からの宇宙船を信じるなら、「信じる」と言えば好いだけの話である。自分が無前提に在ると信じている事柄に科学のお墨付きを求めるから有害な疑似科学に騙されるのである。当たり前の日常の理屈では推し量れないものについては誰かがその実在を実証しなければ信じられない、これは普通の理性的な現代人の感じ方だが、信じられないなら信じなければ好いだけの話であって、それでも信じたいからと言って誰かに論証をせがむのは莫迦のやることである。まず十中八九まで何かの見間違えや解釈の問題にすぎない理不尽な対象の存在を信じたいのであれば、自己責任で宗教のように盲信する以外にはないのである。

ここでしゃばけに話を戻すなら、江戸時代の日本人は、幽霊も妖怪も存在すると信じていたのだし、そのことに別段根拠など求めていなかったのである。たとえば自分以外の他人が実在すると無根拠に信じるように、自分というあやふやな存在が実在することを当たり前に受け容れるように、幽霊も妖怪も当たり前のように存在すると信じていた、それだけの話である。それは、単に世間一般がそれを当たり前に受け容れていた、そのように世界を視ていたという、それだけの理由である。その時代、物事の実在には必ずしも科学的実証という根拠附けは求められていなかった、そういう話なのである。

そういう意味では江戸時代の平均的な日本人は、少なくとも「理外の理」程度の怪異なら在り得るものと信じていたわけで、女子供の読む戯作に出て来るような虚構上のキャラクターとしての妖怪が存在するなどということは、教育のある大人は信じていなかったわけだが、そんな人々でもきちんとした文書として残っているような怪異の類例なら大いに在り得ることだろうと考えていたわけである。

まして無教育な町人の世界では、幽霊だの妖怪だのというのは当たり前に受け容れられていたわけで、町場の教養人である一言居士のご隠居だの坊さんだのが、一種の倫理上の戦略的な喩え話として幽霊だの妖怪だのの存在をまことしやかに語っていたのだから実在を疑う必要などはないのである。しゃばけの世界はつまり「その時代の人間が存在すると考えていた妖怪が本当に実在する世界」を語っているわけである。

その意味では第一作のしゃばけは純然たる意味ではミステリではない。普通に物語上の謎として真相が設定されているだけで、真相に纏わる妖怪の能力が前提条件として最初に規定されていないのだから、まあ、ミステリアスな妖怪譚という性格のものである。

しかしこれが第二作の「ぬしさまへ」以降の諸短編になると、ミステリに妖怪を絡める手際もこなれてきて、人間世界の論理で解釈可能なミステリ的課題を解決する手段として妖怪の能力を応用するとか、妖怪の存在を信じる心性において成立する心理的な動機を設定するとか、妖怪の存在論的意味性との比喩において人間の心性を読み解く筋立てなど、妖怪というガジェットの扱い方に多角的な知恵が視られるようになってくる。

土台妖怪というのはあやふやな理外の理でしかないのだから、西澤保彦のSFミステリのようにガチガチに前提条件を詰めることはそぐわない。それ故に、妖怪の異能をロジカルに規定してそこから謎を構築するという作法にはSFミステリほどの可能性はないわけで、現状の方向性が妥当だろう。日本の妖怪というのは、海外のファンタジーの幻想種のように厳格な世界律に則って存在するものではなく、もっとあやふやでいい加減な世界の見方に基づいて立ち現れてくるモノである。

その意味ではしゃばけシリーズの妖怪の扱い方にもかなりルーズな隙があるのだが、本来妖怪というのはそのようなものである。それが実在するという前提で物語を語る場合に、頼りになるのは世界律の論理の厳密性ではなく、あやふやな対象をまことしやかに語り得る語り口の詐術である。「頭山」や「首提灯」のような不条理が何となく成立してしまうのが語り物の詐術というもので、著者が落語の世界も参考にしているというのはそういう語り口の部分だろう。

前述の通り、シリーズのヒットで著者の身辺が忙しくなったせいか「おまけのこ」辺りは少し文章が荒れているような気がしないでもないが、おおむね白場が目立つ書面でありながらも味のあるスムーズな語り口をキープしていて、それもこのシリーズを読み進める楽しみとなっている。

インタビューによれば、時代小説を書くのはこれが初めてだそうで、その故に手探りで試行錯誤している部分もあるようだが、現代の軽妙な娯楽小説で時代小説のムードを醸し出す語り口というのは案外に難しいものである。大昔の時代小説のようにリアリティのある江戸時代人の言葉遣いをその儘書けば好いというものではなく、所詮は現代語の範疇でしか活き活きとした小説は書けないのだから、その意味で現代の時代小説はかなり嘘を交えて語っているものである。

その範囲内で現代人にビビッドに通じる言葉と時代性を醸し出す言葉をどのレベルでバランスするかというのは難しい問題ではあるだろう。冒頭で例に挙げた宮部みゆきの諸作は割合オーセンティックな時代小説の連続上にあるような語り口を採用しているわけだが、しゃばけシリーズはもう少し現代的なキャラクター小説の線を狙っているのだから自ずと別の語り口を要求される。表面に顕れない苦労はあるのだろうが、その語り口のバランスの好さにも好感を覚えた次第である。

序でに触れておくと、シリーズ初期の頃の書題の附け方にも知恵があって、少なくとも「しゃばけ」と「ねこのばば」は仮名書きになっている辺りに洒落っ気があって感心した。「しゃばけ」とは「娑婆気」のことだと見返しに種明かしが載っているわけだが、仮名書きにされると「たほいや」のような意味不明の印象的な語感となるし、町人社会の世話物語の娑婆っ気と「おばけ」の世界を絡めたお話ですよというダブルミーニングもあるだろう。「ねこのばば」も漢字で書くと「猫の婆」なのだが「猫の糞」という意味もあるというのが最後まで読むとわかる仕掛けになっている。

いい加減長くなったのでこの辺にしておくが、最近剰り小説を読まなくなったオレでも文句なく楽しめた作品として未読の方にはお奨めしておこう。ただ、原作シリーズを読んでいくと次のドラマ化がどうなるのかちょっと読めないところがある。「うそうそ」以降の作品はまだ文庫化されていないので未読だが、素直に次の長編としてうそうそをベースに据えるものか、シリーズを長持ちさせる為に諸短編を継ぎ接ぎするのか、もしくは何らかのオリジナルのシナリオで行くのか、その辺は考え所ではあるだろう。

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コメント

TBを戴いた先のブログのコメント欄に書き込んだことではあるが、一応更めて断っておくと、オレはお手軽で無責任な数行のツッコミに何倍もの労力を費やして正面から反論するほど暇な人間でもないし勤勉な人間でもない。それ故に、それなりに労力を割いて答えるに値するとオレが認めたコメント以外は公開しないので、悪しからず(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2007年12月29日 (土曜日) 午後 05時36分

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» 心に棲むもの [Chromeplated Rat]
黒猫亭とむざうさんの娑婆気は仮名書きでと云うエントリを読んだ。畠中恵の「しゃばけ」シリーズについての論評。このシリーズについては、ミステリを基本的にあまり読まないぼくも文庫で追って読んでいたりする、と云う話はそれとして、このなかで黒猫亭さんはこのシリーズで特徴的に登場する「妖怪」たちを通して、ニセ科学について触れていらっしゃる。 そういう確認しようのないものは最初から相手にしませんよ、というのが科学の大前提であるから、科学がそれらの対象を相手にしないのは当たり前のことなのである。それで別段そう... [続きを読む]

受信: 2007年12月27日 (木曜日) 午後 10時05分

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