« 映画二題 | トップページ | オレの口に入るもの »

2007年12月11日 (火曜日)

やっぱりな

NBonlineの記事で「このままでは成果主義で会社がつぶれる」というセンセーショナルな見出しを見付けたので詳しく記事を読んでみた。まあ内容的には予想通りで、成果主義の問題点が読者アンケート結果から浮き彫りになったという話だが、そもそも人件費抑制策として導入された成果主義が、目先のコストダウン以上の「成果」を残せるはずなどはない。

オレが以前勤めていた制作会社でも「成果主義的な評価体系を導入しなければ」的な話も出たのだが、編集制作のような業務フローが曖昧なジャンルで「成果」を妥当に評価することは窮めて難しい。わかりやすいのが売上ということになるのだが、一個の制作会社が存続していく為には直接売上に繋がる業務ばかりが重要なのではない。売上という形に直結しない労働というのもあるわけで、それをどうやって妥当に見積もるのかという問題が常に附き纏う。

たとえばそこで、会社にカネを入れれば偉いという評価体系を選ぶとすると、誰しも単価が高くて割の好い仕事に就きたがるのが当たり前だが、単価の低い商売になると数をこなさなければならないということで自然とオーバーワークになる。今日び制作系の商売は軒並み単価が低い小商いなのだから、ちょっとでも多くの仕事をこなせということになり、その結果として同じ金額のカネを入れるなら実働の多い人間のほうが評価されるという奇怪な転倒が起こる。

ホワイトカラーエグゼンプションなどもそうだが、「家族団欒法」などと言い換える以上、建前上は効率的に仕事をこなすことで労働時間を短縮するのが筋のはずだが、実態としてはそんなことには絶対にならない。同じ金額を稼ぐのに、効率的に仕事をこなして定時に帰宅するなどという人間は絶対に評価されないことになっている。

何故なら、そんな人間が連日連夜徹夜している人間と同じくらい働いたら、もっと会社にカネが入るはずだからである。その意味で、徹夜して働いて同額しか会社に入れられない人間と同程度の成果設定で自身の労働時間の短縮を図るような労働意欲の低い人間は、会社から決して評価されることはない。同じ売上を稼ぐなら、徹夜してでも働いている人間のほうが意欲的で評価出来るという話になる。

こうなると、下手に効率的に働けることが上にバレてしまうと、当人に何のメリットもないのに無茶な目標設定を課されて死ぬまで働かされるのが目に見えているから、誰でも三味線を弾くようになる。他の無能な奴よりちょっとだけマシな仕事をするのが自分視点で最も「効率的」な労働だから、効率的に考える人間ほど限界よりもよほど手前の段階で手一杯に見せかけるという話になる。

本来なら、同程度の成果を得るなら労働時間を短縮したほうが経費も懸からないし福利厚生面でも面倒はないはずなのだが、「もっと稼げるはずなのに、そこそこで手を打って楽をしている」という意欲面のマイナス評価で、そんな勤務姿勢が上層部から歓迎されることなどはない。だから、自分が効率的に働けることをアピールすることには当人視点において何のメリットもないのである。

つまるところ、労政上の問題などは起こさずに、しかも馬車馬のように己を殺して限界まで働いて、出来るだけ多くのカネを会社に入れろというのが企業の本音ということになる。そういう労働条件についていけない人間は、まあ無理にウチで働いてくれとは言わないから別のところを探してくれという話になるし、「別のところ」なんて金輪際ないのが今の世の中であるから、自衛の為の知恵が必要になってくる。

オレが勤めていた会社でも、口先では「残業はするな」「定時で帰れ」などと言いながら、早めに仕事を済ませて定時で帰るように心懸けている人間は決して上層部から評価されなかった。この種のダブルスタンダードがある限り、成果主義もホワイトカラーエグゼンプションも目先の人件費抑制、つまり社員の仕事ぶりをマイナス評価して昇給を抑制し労働時間を増やす根拠を探す減点法の基準にしかならないのである。

こういう企業体質においては、労政のトレンドとしてノー残業を社員に訴えても、それは企業がモラールの低い従業員を炙り出す為の罠ではないかという不信感が生まれるだけで、寧ろ不必要でも会社に残ってサビ残のポーズを繕ったほうが得策だということになり、結果的に業務効率やモラールの低下、労政上の問題などが増加する。

減点法の基準でしかない以上、効率的な仕事をする人間のスキルやもたらすメリットに着目して加点するのではなく、そのモラールの欠如を厳しく批判して減点するという形になるのは当たり前で、一事が万事「仕事を成果主義的に評価する」というのはあら探しで減点していくのと同義だと視られている。そうなると、前掲の記事中でも触れられているように、業務を評価する立場の直上の上司に取り入るとか阿るというスキルが重要になってくるわけで、昔ながらのサラリーマン体質が極端化するだけの話である。

まあ公平に言うなら、オレの場合はそれほど阿漕な会社ではなかったので、何だかんだ言って毎年一〇%前後の昇給はあったのだが、言い方を変えれば、業態固有の事情で成果主義をどういうふうに導入したら好いのかわからなかったから、それなりに真面目に働いている奴は機械的にその勤務姿勢を評価されたということである。

現に会社の上層部が「よく頑張っている」と評価していたのは、売上どうこうではなく連日連夜倒れるまで働いている人間で、これでは労働とは会社にメリットをもたらすことではなく自身の苦痛を引き替えに渡すものだということにしかならない。

日本企業の「成果主義」など所詮その程度のもので、前掲記事中でも大半の企業が人件費高騰に対する対抗策として成果主義評価体系を導入したというのだから、労働者サイドのメリットなどは一つもない。躍進企業の社員がどんどん高齢化して行って、年功序列の報酬体系では企業の利益率が圧迫される、だから年功序列では当たり前であった定時昇給や昇進に厳しい条件附けを施す、そういう話である。

元々保護主義経済的な時代の遺物である年功序列が、経済の最盛期を過ぎて企業経営を圧迫し始めた段階で、すべての企業の経営コストの基本となる人件費の高騰に対して、それと収益の拡大は必ずしも密接に相関しているわけではないのだから、経営者視点では労働者に対して不当にコストを支出しているような不条理感があるだろう。

それは、わかりやすい言い方をするなら「ウチの社員は働きが悪いくせにカネばっかり欲しがる役立たずだ」という不信感である。カネを払う側から視れば、払いの伸び率の割に稼ぎの伸び率が拡大していないのだから、そのような感情があっても自然だろう。

会社一般が儲からなくなっている世の中で「てめえの権利ばっかり主張しやがって」という不条理感が経営者サイドにあるとしたら、労働者の扱いも酷薄になろうというものである。元々日本企業においては、下々の労働者は経営のことなんか考えずに与えられた仕事をきっちりやれ的な労働観が定着していたわけで、だから個々の労働者は自分の業務が企業活動の全体の中でどの程度の経済価値があるのか、ということを考えないで働いてきたということになる。

しかしそれは別段労働者の怠慢というわけではなくて、経営層にとってそのほうが都合が好かったというだけの話である。たとえば労組なり何なりが会社の経営に口出ししてきたら鬱陶しくてしょうがない、あれをやれこれをやれと言ってその通りに動く労働者のほうが扱いやすいから「下品の衆が経営のことなんて考えるな」「黙って真面目に働いていれば悪いようにはしない」という体質でやってきただけだろう。

それが保護主義経済が行き詰まって、素直に年功序列でやっていけるほど右肩上がりの経済ではなくなってきたというだけで、労働者のモラールが下がったとか労働の質が低下したという話ではない。景気が好かろうが悪かろうが、日本の労働者は企業を信じて経営の都合なんて考えずに現場で真面目に働き続けてきただけである。

収益の伸び率と人件費の伸び率がきちんと相関しないという事態において、感情レベルの次元では経営層に不当な労働者蔑視の基盤が生まれたということになるのだろうが、人件費が経営のお荷物だということと、労働者が企業のお荷物だということはイコールにならないはずなのだが、リストラによる大規模な人件費の削減という安直で即効性のあるアクションが株式市場で評価され正当化された時代を経て、労働者を酷薄に扱うことが経済の正義であるような風潮が醸成されてしまったわけである。

成果主義がポジティブに評価すべき労働者のスキルや潜在的アビリティというのは、企業活動の経済価値や社会価値を拡大していく局面において意味のあるものだが、労働コストの高騰という経営課題に対して労働者を切ってシステムや設備で代替するという最初の一手を選択した以上、企業が支払う経営コストをスリム化していくという方向性になってしまい、要するに一般家庭で光熱費や食費を切り詰めるのと変わらない理屈で利益を出すという不毛な循環に落ち込んでしまったわけである。

たとえば一五万円しか収入のない世帯で幾らお内証を切り詰めても、一五万円という既定の金額以上のカネは生まれない。経済の発展というのは一五万円の収入を二〇万円とか三〇万円に増やすことであって、一五万円の中で必要経費を切り詰めてお母さんのお小遣いを増やすことではないはずである。

本来は、一定の収益の拡大にはそれと相関して経営コストの拡大も付随するのが当たり前だが、その相関が健全なものではなくなったので、将来的な収益拡大など織り込まずに現状の経営コストを切り詰めるという、後ろ向きの形で成長を捻出したわけである。

嘗て経済の立て直しの為にリストラの嵐が吹き荒れたのは、その時代性においては旧来の経済政策と経済の現状の不整合を正す為に致し方のない「痛み」だったと言えるかもしれないが、そこから日本経済の衰退が本格的に始まって、英米型の新自由主義の台頭が日本型の経済システムを完全に破壊したわけである。

日本企業は、戦後ニッポンが一種の国民福祉として推進してきた完全雇用と年功序列のシステムの破綻を契機として、労働者の為に損をすることを過剰に嫌うようになったわけだが、それはつまり現状の日本において経済の飛躍的発展なんか誰も期待していないということで、一部経営層が先細りの世の中で自分だけは損をしないように損を順送りして巧く立ち回っているということである。

企業経営というのは、どんな規模であっても人間の労働の具体と切っても切れない関係にあるのは常識中の常識だが、いつの頃からか企業のビジネスの実体とは経営戦略とシステムだということになってしまった。現場の労働というのは平準化され切り売りされるプロダクトでしかなく、だから恒常的に囲い込むのではなく流動化し労働者自身がコスト努力を行うものだということになった。

コスト努力というのは、決まった内容の目標を前提としてプロセスを効率化していくものなのだから、平準的な労働内容に対して安い値を附けたほうを採用するという話である。それを普通に考えれば、平準的な労働内容が想定されている以上は、加点法で評価するのではなく減点法で評価することと原理的な関連性があるわけで、マンパワーというのは一山幾らの規格品であって、その中からコスト対効果比の悪いものや不良品を撥ねて行くのが相応の評価法だという物の見方である。

失われた一〇年の閉塞状況に対して新自由主義的経済政策が突破口をつくったなんて嘘の皮で、まだしも以前のほうが日本経済には選べる選択肢が残っていた。こういう経済状況下においてデフレスパイラルから脱却出来ないのは当たり前の話で、誰も将来の収益拡大を織り込んでビジネスを考えていないのだから、先細りの閉塞状況という意味では未曾有の危機的状況にあると言えるだろう。

たとえば、光熱費や食費を幾ら切り詰めても、水道も電気もガスも使わず飯も喰わずに暮らす、つまり必要経費をゼロにすることなど出来ないのだし、その意味では一五万円の所得の世帯は一五万円以上のコスト削減は出来ないのだし、そもそもコストをゼロにするということなど在り得ないのである。一五万円しか所得が入ってこない世帯で、家族が飢え凍えているのに、お母さんのお小遣いが一五万円だというのは、誰が視ても在り得ない話だろう。

失われた一〇年で見失われたのは、どの程度の経営コストが収益に対して妥当なのかという感覚で、経営コストを一方的に削減し続けていく方向性が評価されるという、莫迦が考えても破綻するシステムを採用した為に、労働者に利益を還元するという発想が完全に抜け落ちてしまった。それ故に、「経営層が儲けを独占する」という自己中心的なゴールが見据えられているのも当たり前の話だろう。

政治ネタを書くようになってからいつも拝見させて戴いているkojitaken さんのブログで、数日前に「新自由主義がもたらすのは格差社会を超えた階級社会だ」というご意見を拝読したのだが、これは言い得て妙である。

オレ自身、これまで日本経済に言及する場面で、新自由主義政策によって受益する階層を特定するのに何故「資本家」という古色蒼然たるタームを使わねばならないと感じるのか疑問に思っていたのだが、このご意見を拝読して納得が行った次第である。

この記事によると、新自由主義とは富裕層の権力回復のプロセスであり格差の拡大こそが目的のプロジェクトであって、格差固定による階級社会の現出が目論まれているという説があるそうである。さらに、新自由主義がもたらした階級社会の実現によって、すでに死に体の過去の妖怪だと考えられていたマルクス主義が再び甦ったという説もあるということだから、今現在「資本家という階級」は実在するわけである。

今回のエントリーはその認識の延長上にあるわけだが、「資本家階級」の復活の契機が何処にあるのかと言えば、経済成長率の萎縮と「人件費高騰」という観念にこそその発端があったのではないかということを、前掲の日経の記事で考えたわけである。

よく考えてみれば、経営層が「人件費高騰」に悩むというのは、すでに矛盾しており階級的自己中心性がある。下々の労働者の人件費が本当に高騰し膨大化して経営を圧迫しているのであれば、細かいターム上の区別を無視して言えば経営層の所得もその一部であるはずである。

企業経営者が企業を経営するのは、会社を大きく発展させることそれ自体が面白いからということもあるだろうが、直接にはそれによって豊かな生活を享受する為であって、会社さえ発展すればオレは清貧に甘んじても好いなどという奇特な経営者はそんなにいないだろう。

企業の発展という事業欲求の手応えを直接実感出来るのが豊かな暮らしなのだから、やはりどんな企業の経営者だって、下々の労働者同様に年々所得を拡大させていたはずなのである。欧米の多国籍企業のCEOなどは、株主に対してきちんとリターンを返せなかったら解任されたり劇的に減俸されたりするわけだが、少なくとも日本の国内企業の経営者はそれほどシビアな立場には置かれていない。

国内企業においてもそういう風潮が出て来たのは、欧米追随の新自由主義が浸透して以降の話であり、ぶっちゃけ規制緩和によって外資が国内経済に本格介入してきてからの話だろう。新自由主義の急先鋒のはずの御手洗冨士夫が、その種の欧米的にシビアな経営制度に関してだけは導入を渋っているのは周知の事実である。

閑話休題、前掲記事ではその以前からの経済状況が語られているわけだが、「企業経営者が人件費高騰に悩んでいる」という話には、まず経営者自身の所得を抑制するという想定が含まれていないと視るべきだろう。売上自体は拡大しているのだから経営者は受益したいけれど、その利益を圧迫するコストとして高水準の人件費がある、それを何とか減らしたいという経営者視点の話である。

人件費が高騰したせいで利益率が悪化したのだから、それは働きの悪い労働者の責任だというロジックのはずである。どうやったら働きの悪い不良労働者に不当に高い給与を払わず、もっと言えば自分の企業から排除出来るか、そういう観点の話である。人件費の高騰を凌駕する成長を実現して妥当なコスト対効果比をもたらすという話でないのは勿論、他ならぬ経営者としての自身の働きが所得に見合うかどうかという観点の話ですらないわけである。

つまり、「人件費が高騰して利益率が圧迫されている」という問題意識の中に、すでに階級的思考形態が織り込まれているわけである。汚い言い方をすれば、「どうすれば労働者にカネを払わずにオレだけが儲けられるのか」という性格の問題意識だと表現することも出来るだろう。そこには階級的独善性の萌芽が視られるわけである。

会社を興したり経営したりしているのはオレなのに、そのオレが使っている人間に払うカネの為に困窮するのは理不尽だという自己中心的憎悪が胚胎するわけで、これは論理的に言って資本家サイドが労働者サイドを客体視して敵対的な感情を抱いているということだから、すでに階級意識が前提にあるわけである。

経済の状況が好かった頃は、そこまで意識化して考えずに労使の間に一種の共利共生的な関係性を想定していた経営者も多かっただろうし、労働者の企業に対する忠誠心や愛社精神というのはそういう曖昧な関係性に根を持つものである。会社と自分は一蓮托生なのだから、会社の経営が好くなれば自分の生活も好くなる、だからこの会社の為に我が身を犠牲にしてでも働き抜こう、心からこの企業を信頼し、誇りを持って愛していこう、それが従来の日本社会の労働倫理だったわけである。

しかし、経済状況の悪化に伴ってそのような共利共生の関係性が崩壊したわけで、その出発点となったのが「人件費の高騰」という観念である。企業は何の為に存続すべきなのかという設問があるとして、それに対して「人件費の高騰」式の考え方は「創業者一族や一部経営層が富を寡占する為である」という結論を誘導する。

企業組織という人的な総体を想定して、それに関わる人々すべての共利共生を前提にこの問題を考えるならば、人件費の高騰に相応するだけの飛躍的発展を実現するか、企業組織内のすべての人間が公平に生活レベルを低下させるしかないのだが、「人件費の高騰が企業経営上の重要課題だから成果主義を導入したい」という発想は、そこに差別を設けるという考え方であり、その場面で施策を実行する側に立つ者が冷遇されるということは、まず以て在り得ない。

経営層が経営層以外の関係者の労働コストを、何らかの建前上の名目を附けて抑制するという話にならざるを得ないのだから、旧態然たる「資本家対労働者」という階級的対立の構図になるのは当たり前の話なのである。その第一歩がリストラの嵐だったとすれば、給与水準どころか労働者単位で切り捨てていくという話であって、最早労使の間の共利共生など建前上ですら成立しないだろう。

経営中枢に与しないということは、それだけで排除の対象となる可能性を内包しているのだから、労使の間には潜在的に階級間闘争の緊張が存在するということになる。自身の社会的安定は、会社に対する信頼と奉仕の見返りとしてではなく、会社との間の緊張関係に基づく自己責任の闘争によって自衛されねばならない。これまでのように、会社の為に尽くせば酬われる世の中では決してないわけで、資本家階級は労働者階級を自身の利益の為に利用する対象としか視ていないわけである。

これは経済活動の将来性を考えれば何のメリットもない状況で、マンパワーの集積において強者と弱者の間に相互信頼がなく弱者に強者の横暴からの自己防衛の努力が要されるというのであれば、その分だけ無視出来ないレベルのマンパワーが拡散するわけで、日本企業の組織力は間違いなく弱体化していると言えるだろう。

団塊世代のオジサンたちが「プロジェクトX」を観てノスタルジーに浸っているのを嗤えたことではないわけで、あの時代のような高度なマンパワーの集積に基づく輝かしい社会的価値を生み出せない不毛な世の中に生きているオレたちが、そんな時代の記憶を嗤うことなどは出来ない。技術立国を目指した名もなき先人たちの努力は、金融立国という濡れ手で粟式の愚昧な夢をみる強者たちのお陰で、現代ニッポンにおいては完全に廃れてしまったのである。

誰もが背中の心配をせずに仕事に打ち込めた時代はもう終わってしまったのであり、普通の職業人がまず考えねばならないのは、力の強い誰かの都合で極普通の自分の生活が破壊されないように賢く立ち回ることばかりである。自分一人もしくは自分たち家族がこの先も生きていくということを常に心配しなければならないということが、どれほど消耗することなのか、エネルギーを要されることなのか、これを考えれば嘗ての日本人労働者のように、我が身や家庭の団欒を顧みずに仕事一筋に打ち込む人間など今後現れることはないだろう。

そのような意欲に満ちたマンパワーの高度な集積は「成果を出さなければ切る」という卑しい脅しで得られるものではない。

|

« 映画二題 | トップページ | オレの口に入るもの »

コメント

一通り書き終わってから、本文で触れたkojitaken さんのところの本日更新分をじっくり読ませて戴いたら、何の偶然かそちらでも「日経の成果主義の記事」について触れておられたのがちょっと驚いた。一瞬同じ話かと思ったら違う話題だったので、単なる偶然ではあるのだが、こういうこともあるんだな、とちょっとおかしかった。

さて、本文中で触れた「売上という形に直結しない労働」というのはどんな業態でもあるものだろうから、皆さんの職場に当てはめて考えていただければ好いのだが、一例としてオレの昔話を語ると、ライター稼業における「筆の速さ」というのは上層部に伝わりにくいスキルである。

一般に「筆が速い」というと、量との相関の問題で解釈されがちだが、最近は原稿作成の速度と精度そのものが問われることが多い。たとえば昨今の現場では、クライアントからワードやエクセルの形式で資料や元原稿をメールしてもらって、それを元に原稿を書いてすぐに組版データに流し込んでPDF化し客先に投げ返すというスピーディーなプロセスが多い。こういう場面で、たとえばオレはA4一ページ分くらいの文章量の原稿なら、元になるテクストさえあれば三〇分以内に完品が作成可能だから、上がった端からどんどんオペレータに渡してデータに流し込める。

DTPが当たり前になってくると、今作業してすぐ見せて欲しいということを言うクライアントが多くなったのだが、こういう場面では作業のスピードと正確さそのものが重要になる。テクストの作成というのはDTP作業フロー上では最上流の地点なので、その作業時間が短縮出来れば下流の組版作業や校正作業に余裕が出来る。

こういう仕事においては、フローの下流の作業のほうが重要で余裕を持って行うべきものなので、上流の作業でモタモタ時間を潰されるとかなり迷惑なものである。ライターの筆が速いということは、下流に優しいということになるわけだから、現場ではけっこう重宝される。

こういうのは現場で作業に携わっていないと、なんでそれが重宝なのか具体的に理解出来ない。直上の上司が「あいつは筆が速いから助かる」というふうに上に好意的な報告をしてくれても、現場の実態を識らないと「ふーん」でオシマイである。上層部に現場の作業フローに対する具体的な想像力を期待しても無駄だからである。

上の人は作業の速度というのは量の相関の問題だとしか思っていないので、そんなに速いんならもっと仕事を入れれば好いのにとしか思わない。しかし、普通に考えれば原稿作成をコンスタントにびっしりスケジュールに入れられるほど作業フローが纏まっていれば誰も苦労しないのであって、来たら瞬時に対応出来る人材がベタ附きで詰めているということが重宝なのである。現場に近いところにいる上司には評価してもらえたが、これが経営層に近くなると「何だか知らんが上司が悪く言わないんだから働いてるんだろう」くらいになる。

元々企業における評価の階層性なんてそんなモンだが、この業界の場合下手に経営層にいるのも業界経験者であることが多いので、最近のDTPの現場の事情なんてわからなくてもわからないという顔はしない。自分でもわかっているつもりなので、自分にわからない評価基準を挙げられても信用しない。上司もそういう使い方を考えているので遊軍的なポジションに置くわけだから、上層部からは悪くは言われない代わり暗に「もっと働け」という圧力をかけられるのにはかなり参った(笑)。

書類に残るのは、会社にずーっと長時間いる割にはあちこちの業務でちょびっとずつ作業した記録だけだからである。それだけ視ると、こいつはなんでこれだけしか作業してないんだという話になる。さらに、中間作業者だと直接売上を上げるわけではないから金額という基準でも評価出来ない。そうすると直上の上司の報告を信用するしかなくなるわけだが、本心から納得しているわけではないので、勢い冷淡な扱いになる。

ならば、中間作業者でいる限り芽が出ないということだから、ディレクションを担当して売上を計上する立場に立たない限り一人前とは見做されないわけで、オレも自衛上仕方なく早々にそういう方向性にシフトしたのだが、中間作業者のスキルをディレクター見習い的に視るのではなくその職掌において評価する基準がない限り中間作業は「半人前のディレクター」という「何かのなりかけ」がこなしているわけだから、作業フローの効率化というのは在り得ないわけで、慢性的にこの業界は不効率なやり方を強いられているわけである。

まあ、こういう業態において成果主義を導入すると言ったところで、作業フロー自体が曖昧で不合理なんだから無理だったという話である。その会社とは大分以前に切れてしまったので今どうなっているかは識らないが、当時親しかった人に聞くと相変わらず同じような体質らしい。まあ、人文分野のしかも虚業の業態というのは、なかなか合理的にはならないものだろう。

投稿: 黒猫亭 | 2007年12月11日 (火曜日) 午後 08時40分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/17340051

この記事へのトラックバック一覧です: やっぱりな:

» 「痛みに耐えたカイカク」の先に現出した「階級社会」 [きまぐれな日々]
今年ももう残すところ今日を含めて25日となった。「2007年の回顧」が新聞などに載り始める時期だ。 今年の日本政治における最大のできごとは、7月の参院選での自民党惨敗と9月の安倍... [続きを読む]

受信: 2007年12月11日 (火曜日) 午後 07時58分

« 映画二題 | トップページ | オレの口に入るもの »