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2007年12月27日 (木曜日)

匣モノ商売

昨日は久しぶりの平日オフということで、朝一番に散髪に行った序でに「魍魎の匣」を観に行った。我ながら今日のオレは行動的だと感心した(笑)。普通の人なら当たり前のことなのかもしれないが、オレは一度座ったなりに何時間でも座っていられる京極堂並に腰の重い性分なので、用件は一日一件までと決めていて、二件も三件も用事をこなすと物凄く働いた気分になる。

さらに言うと、再々語っているような事情で通路側の席を確保したかったので、散髪に出た直ぐその足で電車に乗って板橋のワナマイに先乗りして、昼過ぎの上映だというのに一〇時過ぎにもう席を取った。しかし、すでにe−リザーブでかなりの席が押さえられていたようで、通路際の席は真ん中近辺しか残っていなかった。

ここで註釈を加えると、システムから考えて何処のシネコンでもそうなのかもしれないが、板橋のワナマイはスクリーンサイズの割には各室の席数が少なくてハコが小さいので、普通の映画館の感覚で真ん中辺りに陣取ると常に画面を見上げる形になってえらく首が疲れる。ワナマイの上席と言えば最後列の通路際と決まったものだが、残念ながらかなり真ん中寄りしか取れなかったので、初手からちょっとげんなりした。

それでも一番席数の少ないハコでやっていたので、通路際が取れただけでもよしとするとして、後は上映開始までの二時間を潰すだけである。オレの性格と体力から考えて、下層階のショップを冷やかして廻ったら無駄なカネを遣った挙げ句映画を観る前に疲労困憊するのは目に見えているので、マックとミスドという貧乏くさいジャンクのコンボで二時間を地味目に潰し、漸く昼過ぎを迎えて入館した。

当ブログの約束事として、結論は必ず一番最初に言うことになっているが、今回の結論としては三点ある。まず第一に、全然違う話になっているから原作は一旦忘れたほうが好いということが一つ、第二に、それ故に原作中で最も魅力的なメインビジュアルとなるあの幻想的光景がかなりおざなりに映像化されているということが一つ、そして第三に、それでも原作を忘れればかなり出来の好い映画になっているということが一つ。

迷っているくらいなら今すぐ観に行ったほうが好いと断言しよう。原作原理主義者で変な風にアレンジされていたりキャラが違ったりすると我慢ならない、責任者出て来いと暴れたくなるような人以外には、文句なくお奨めである。原作が変な風にアレンジされていて、キャラがまったく変わっているが、一本の娯楽映画としては間違いなく面白い作品だからである(笑)。

そういう次第で、一応原作がミステリ小説ということもあるので従来の鑑賞レビューと比較してネタバレはほどほどに控えつつ、仔細にこの作品を視ていこう。

たとえば前作の「姑獲鳥の夏」で、「古本屋とか探偵とか猿はハマってるけど、刑事が宮迫って…」とか、今回の事前情報で「桔平が猿ってのは在り得ないだろう、絶対久保竣公じゃねーの」とか思った人、安心してくれたまえ、今回に限っては誰一人原作通りのキャラじゃないから

ハッキリ言って、前作でハマってた連中までキャラが変わっていて、荒川良々の和虎から田中麗奈の敦っちゃんに至るまで全員違うヒトになっているから、いっそスカッとするくらいである。あのお馴染みの「京極堂と愉快な仲間たち」のキャラを出発点として単なる面白い人たちにアレンジしているので、あんまり原作とキャラが違うと気になる人は楽しめないかもしれない。崩しの美学の実相寺より原作と乖離のある人物描写というのも随分な話である(笑)。

お話自体、あの複雑膨大な原作をかなり枝葉を削って組み替えて単純な話にしているから、ああいう精緻な構造面の愉しみを期待すると肩透かしを喰うが、その分娯楽映画としてはしっかり面白い撮り方になっている。話を単純化した分、クライマックスの屋台崩しの筋立てがかなりつまらないのだが……つか、屋台崩しがある時点で全然違う話になっているんだが(笑)、とにかく撮り方繋ぎ方が窮めて映画らしくて楽しめる。もう、筋立てなんてどうでも好いとすら言い切ってしまおう。

これまで原田眞人の映画は二本しか観ていなくて、どちらも面白いと思ったことはないが(ガンヘッドは川北の担当した特撮パートしか面白くなかったから)、今回ばかりは素直に面白かった。芝居の演出と撮り方で、単純化された猟奇犯罪活劇を二時間一三分飽きさせずに一気に見せる。なるほど、たしかにあの重厚長大な原作を限られた尺で映画化するなら、こういう行き方もアリだろう。少なくともオレは一瞬たりとも退屈しなかった。多分この映画は、前作の姑獲鳥とは逆に原作を識らない人のほうが純粋に楽しめるのではないかと思う。

また、観ている間でも「すげぇカット数だなぁ」と感心するんだが、パンフレットによると二三〇〇カットもあるそうで、とにかく一つの動きを無闇に割っている。それは榎木津と久保の出逢いを語るファーストシーンから顕著な傾向で、「嫌われ松子の一生」のようなアップテンポな映画は例外だが、普通ファーストシーンというのは観客を映画に引き込むのが役割だからそんなにたくさんカットを割らないものなのに、この場面は緩やかな呼吸の芝居でありながら、ディゾルブの繋ぎで印象を和らげつつかなり頻繁にカットを割っていて分析的な見せ方になっている。

一呼吸で撮っても好さそうな芝居でも、切り返して表情を見せたり寄りをインサートしてポイントを強調したりしていて、妙に情報量が多い撮り方繋ぎ方になっている。常々公言しているように、オレは映画を観る場合はファーストシーンを特に丹念に観るよう心懸けているので、そこで少しオヤ?と違和感を感じたのだが、さしてカネのかかっていない国内撮影のしょっぱい戦場描写がけっこう印象的に撮れている。

ファーストカットは斜めの構図で張り巡らされた鉄条網を榎木津が潜り抜けるという形で、原作のテーマである境界線の越境を表現してもいて、アバンタイトルのファーストシーンとしては過不足のないものである。

すべての映画のファーストシーンには、その映画がどんな映画であるのかという全体的な性格が表現されている。つまりこの映画は、一繋がりの流れとして撮って繋いでも誰も不自然に思わないような映像でも分析的にカットを割ることで、絵や芝居の動きの面白さを徹底して見せる映画だということである。

そこからタイトルが出て本編に入り、榎木津が依頼者の柚木陽子と出逢うシーケンスになると、三次元的な動きを組み合わせた立体的な撮り方になっており一々撮り方や役者の動かし方に工夫があって、つまらない説明的なシーンを面白く見せている。陽子の登場場面の撮り方などは、わかりやすいチャン・イーモウもしくはウォン・カーウァイのパロディになっていて少し下世話に感じたが、セットの構造や高低差を上手く使って面白い芝居を組み立て、それを面白く撮って面白く繋いでいる。

そういう撮り方繋ぎ方の傾向は全編に共通しており、人間の芝居を動く絵で見せる映画という娯楽の愉しさを十二分に表現していて、すべての場面で映画的なアイディアが惜しげもなく注ぎ込まれていて楽しめる。インタビューによると原田眞人は年季の入ったシネフィルとしての映画的記憶を総動員してコラージュしたようで、すべてのシーンのイメージに具体的なネタ元があるわけだが、オレが視た感じではそのまんま構図やカット割りを真似して撮っているという意味ではないようである。

イメージの下敷きとして過去作の名場面を明確に措定しているが、個別のロケセットの構造や芝居の意味性や役者の演技や動きの方向性を考え併せて、映画的に面白い撮り方繋ぎ方を工夫しているという印象である。

わけても、役者の動きの方向性や運動性を計算して万華鏡のように動きのある構図をつくり、その芝居をアングルやポジションに落差を設けたAB二台のカメラで三回撮影して繋ぎにも別の運動性を設け、立体的な映像体験を構築するという絵づくりが随所に視られたのが、モーション・ピクチャーとしての映画ならではの視覚的面白味を醸し出していて楽しめる。それを演じた役者自身も、フィルム上の映像としての芝居場を更めて見せられたら、意外な驚きがあったのではないだろうか。

役者に対しても役作りの参考として、たとえば「第三の男」のジョゼフ・コットンで行くからDVDを観て研究しておけとか、成瀬巳喜男の「稲妻」の高峰秀子の歩き方をマスターしてこいとか、ちょっと聞くとかなり行儀の悪い乱暴な演技指導をしているわけだが、映画自体の絵面が原田眞人の映画的記憶のコラージュを出発点に発想されているわけだから、役どころの具体的なイメージを過去作の過去の俳優に求めるのは別段おかしくないというわけである。撮り方同様、そのまんまモノマネを練習しろと言っているわけではなくて、こういうイメージの役として撮りたいんだということである。

具体的な芝居の意味性については、役者と頻繁なディスカッションを持って具体的な言葉で伝えていき、アドリブを積極的に取り込んだり、役柄を演じる役者個人の柄を掬い上げて原作のキャラに加味していくというやり方なのだから、そもそも原作通りのキャラになるわけがない。

映画的な人物描写というのは、観念に載っかる具体的肉体性の附加物の複雑性で見せるものだから、そもそも原作小説のキャラ描写のように氾濫する言葉の錯綜による観念それ自体の複雑性を容れる余裕がないのである。何故なら、観念というのは映像には決して映らないからで、観念を表現する為には膨大な言葉が必要だからである。京極小説の膨大なヴォリュームは、大半がこの複雑に錯綜した観念の縺れ合いの有機的な構造の美しさを語る為に費やされているが、その儘では映画にならないのは当たり前である。

少なくとも娯楽映画のキャラ描写というのは、上っ面の見た目で表現出来る観念性しか盛り込み得ないものである。役者が演技で載せていく観念性というのは、寧ろ逆説的に肉体的なものであって観念それ自体の複雑怪奇な内実を表現するものではない。役者が表現するのは、一旦肉体性の次元に降りた観念の表出であって、そこからさらに観客が脳内で観念の次元に解凍して受け取る類のものであるから、京極小説のような観念それ自体の論理的な縺れを芝居で表現出来るわけがない。

そこはスッパリ別物と割り切って、核となるイメージだけ残して実際の俳優の肉体性との兼ね合いで芝居を附けたのは正解だろう。舞台を経験したベテラン俳優が多いということもあって、芝居の間や肉体性の部分で充分面白いドラマが演じられていたと思う。

主役陣の芝居もそうだが、たとえば美馬坂を演じた柄本明は日頃あんまり作品ごとに目立って芝居の性格を変えない人だが、今回の美馬坂のエロキューションは面白かった。

勿論原作の美馬坂幸四郎とは造形がまったく異なるわけだが、抑揚のない平坦な口調で句読点のないような長台詞を早口で淀みなく語りきるという異様なエロキューションが論文口調で物を考えている科学者の異質な肉体性の表現として面白い。

小劇場演劇などでも一種勢い任せの台詞芸としてこの種の台詞廻しはあるが、映画の役作りの域にブラッシュアップされている辺り、柄本明の映画俳優としてのキャリアが物を言う。柄本明は小さくて繊細でリアルな肉体性の芝居を演じると抜群に好いから、本質的に映画俳優向きの人材なのである。

主役の京極堂を演じる堤慎一は、姑獲鳥の時ほど無理をせず地を出せるように芝居の呼吸が微妙に変わっていて、堤本人のイチビリな性格が若干加味されているから、京極堂というキャラ主体で視ると違和感はあるが、「堤慎一が演じる京極堂」として視ればこちらのほうがしっくり来るという言い方も出来るだろう。深秘御匣教の本拠に乗り込む場面の憑物落としのパフォーマンスは、監督自身が原作を読んで最も面白く感じたというだけあって迫力のある場面になっていて、劇中の白眉となっている。

対するに、堤慎一と阿部寛の俳優の格が同等だということもあるのだろうが、原作よりも榎木津の活躍がかなり足されていて、勢い原作シリーズ全体で視れば一般的な奇人変人キャラの部分は今回もかなり抑え目に解釈されている。監督の役柄解釈がフィルム・ノワールの探偵キャラというのだから、そもそも原作通りの榎木津になるはずがないということだろう。オレが直観的にイメージしたのは「ロング・グッドバイ」のエリオット・グールドの線だったが、原田眞人のイメージとしてはもう少し旧い映画の感覚のようである。

その他の面々について語っていると長くなるからこの辺で割愛するが、一つだけ付言すると、久保竣公の宮藤官九郎に関しては、久保のキャラ自体が変わっているので予想ほどには違和感はない。原田眞人のイメージとしては「第三の男」のウェルズだということなのだが、どちらかと言うとフィルム・ノワールの飄々とした脇役の小悪党の雰囲気だと思う。ピストルを撃つ場面はクドカン自身乗って演じたそうだが、その場面の撮り方もフィルム・ノワールに村川透とタランティーノが混ざったような、何だか奇妙な映画的記憶の雑多なアマルガムになっていて面白かった(笑)。

原作者の京極夏彦は至極人間の出来た人だから(笑)、自作をどんなふうに撮られても何処かしらに取り柄を見附けて褒めるんだが、今回の場合は物語の骨格も「魍魎をパクった別のお話」レベルのものだし、キャラも映画として受肉する場面に介在するいろいろな要素(監督の映画的記憶やら役者の柄やらその場のノリやらその他諸々)を取り込んでかなり振れ幅のあるものとなっているのだから、素直に「人様にお任せした作品」として割り切って視られたのではないかと思う。

一方、クライマックスの屋台崩しが若干ダレるというのはつまり、特撮やセットの建て込みやロケーションの都合でそうした融通無碍な分析的な撮り方繋ぎ方に制約が設けられリズムが崩れるからでもある。パンフによると石切場だの県庁だの廃工場だのという国内六カ所のロケセットを組み合わせたものだそうだが、まあハッキリ言ってそういうバラバラな場所で撮影した映像の寄せ集めにしか見えなかった。

そこを一種のスペクタクルと設定し、ワンカットで一目瞭然に説明可能ではない匣屋敷の複雑な内部構造を説明的なカットの組み立てで見せる必要もあることから、観客はそれまでの驚きのある撮り方繋ぎ方よりもスムーズで説明的な繋ぎ方を求めるモードにスイッチしてしまい、事実映画の呼吸も若干説明的な方向にシフトするのだが、それがそれまでの窮めて映画らしい興趣が、画一的な「娯楽映画」のレベルにトーンダウンしたような遺憾な印象を与えるのである。

さらに言えば、これが最大のネタバレなのだが原作の核心となる匣屋敷を舞台とした印象の鮮やかな主調的事件がサクッと省略されているので、匣屋敷内の加奈子絡みのシーケンスはクライマックスまで殆どお話の表舞台に出てこない。精々地下の入口付近で木場と陽子の絡みの筋立てが演じられるのみで、京極堂一行が匣屋敷へ乗り込んだら、もう話が終わってしまう。原作で最も印象的な「押し絵と旅する男」的奇想の抒景は附け足しのようにエピローグで描かれるだけである。

勢い、原作では脇筋でしかない連続少女バラバラ殺人のほうにウェイトがかかってしまい、事件全体の輪郭が曖昧で、したがって縺れた複雑怪奇な因果の綾を解きほぐす京極堂の憑物落としも生彩を欠くわけである。つまり、劇中で「今回の事件」と謂われるのは連続少女バラバラ殺人事件のことなのであって、密室からの奇怪な魔術的消失劇ではないのである。後者は完全にエピローグを附け足す為の僅かな脇筋のレベルにまで圧縮されていて、殆ど原作の痕跡を留めていない。

原田眞人の言によると、原作では精々三階建てくらいの真っ黒な箱に過ぎない匣屋敷をあれだけ広大な内部空間を持つ要塞として描いたのは、狭い場所だと一つの場所をつくり込んで見せなければならないが、広い場所ならいろいろな場所のモンタージュでディテールを描けるからだということだが、そこだけ妙に発想が後ろ向き、つまり現場の都合レベルの動機なのがマイナスに作用したということだろうか。

ハッキリ言って、クライマックスに至るまでの映像が意外性に満ちていて面白かったのに比べ、このシーケンスの撮り方はまるっきり予想の範囲内で、匣屋敷絡みのスペクタクル描写は凡庸過ぎて殆ど面白くない。

そもそもオレが「原田眞人で魍魎を映画化」と聞いた時に、真っ先に脳裏に浮かんだのがこういう映像であって、要するにガンヘッドである。実際、この六カ所のロケ地の中にはガンヘッドで使用した場所もあるそうで、妙に印象が似ているのである。

しかし、ガンヘッドという映画の面白さというのは、ガンヘッドという自律思考型戦闘メカとブルックリンという主人公の友情が、昔「男の子」だった観客なら絶対大好きな世界を描いているところにあって、それは完全に川北紘一のメンタリティそのものなのだから、原田眞人本編監督の担当した部分は全然面白くないのである。

そういう意味で、それまで「原田眞人って、意外とやるじゃん」というノリで愉しんでいたのが、いきなり「あ、やっぱ原田眞人だわ(笑)」という流れになってしまうのがかなり白けたということである。

腐し序でにこの映画の、引いては原田眞人の難点と感じたことを挙げると、見立てのセンスに剰り細やかなデリカシーがないということだろうか。この映画では五〇年代の東京を表現する為に上海ロケを敢行したということだが、以前「華麗なる一族」を論じたエントリーで語ったように、上海というのはやっぱりどう撮っても中国にしか見えないものである。

パンフレットに寄稿したライターたちも、流石にこの部分はちょっと困っちゃったらしくて、それでも触れないとかえってわざとらしいから、「国際人の感覚を持つ原田監督が描いた異化された昭和」的な言い回しで逃げを打っていたが(笑)、下手に原田眞人がアクティブに動いて上海近郊の町場にロケ場所を求めてゲリラ撮影まで敢行した為に、どこからどう視ても中国下層民の生活風景にしか見えない街並みを「昭和の東京です」と言い張っているような見立ての粗雑さが目立ってしまった。

インタビューを読むと、どうも原田眞人という人は、海外で勉強して国際的な活動が目立つ人材だということもあるのか、物の言い方に勿体ぶった奥行きがなく白か黒かで具体的に言い切るところがある。それをネガティブに言うと、物事の判断に粘りがないということで、かなりパッパッと実践的に即断するようなところがある。

あれがダメならこれで行こうと即決する部分があるということで、要するに上海撮影所や上海近郊の街並みの昭和日本と共通するイメージに触れ「これでイケる」「面白い絵になる」と判断し、原田眞人と同年代の日本人なら微妙に感じるはずの違和感についてはディジタルに捨象して考えているということである。言うなれば、限られたセットを緻密に建て込んで、それ以外にロケを交えなかった実相寺の撮り方のまったく逆であるわけだが、オレの感覚では原田眞人の感じ方は多くの日本人にとってディジタルに過ぎて見立てのセンスの雑駁さと感じられるのではないかと思う。

それはパンフに寄稿したライターの大半が上海ロケを最初から「擁護」の姿勢で語っていることからも明らかで、つまり誰が視てもこの街並みは昭和の東京には見えないだろうということが前提視され、そこが突っ込まれた場合の言い訳を先回りして設けているということである。

そうは言っても、たしかにすでに国内ではこれだけ大掛かりに昭和を再現するロケ撮影は不可能と断言しても好く、「三丁目の夕日」のように大規模にCGを投入する以外にはなくなるのだから、ロケ撮影に拘ったこと自体は評価出来ると思う。現に前作の姑獲鳥では、限られた予算内で建て込めるセットには限界があって、眩暈坂近辺の土木工事と久遠寺屋敷の近辺以外はかなり寂しい街並みを何とかCGで胡麻化したようにしか見えなかったし、逆にフィルムのルックに拘ると剰り大々的にCGを使うわけには行かなくなってくるわけで、そこは考えどころの部分である。

横道に逸脱すると、以前PJ版「キングコング」を語った際にちょっと触れたが、近年のハリウッドのスペクタクル大作はCGによるVFX前提なので、何を観てもルックが画一的に決まっている。白倉伸一郎式に言えば「CGファシズム」と表現しても好いくらいで(笑)、VFXというのはそれほど選択肢のあるソフトウェアでつくっているわけではないだろうから、CGでクリエイトされた風景は大概似たり寄ったりのルックに落ち着いてしまう。勢い、本編のほうがCGの都合に合わせてルックを調整するという、映画の本道から言えば本末転倒な傾向が一般的になっている。

その辺、三丁目の山崎貴は元々CG屋なのだからCGの限界と可能性、技法の振れ幅を熟知しているわけで、山崎貴の映画ではCG映像が主要な映像を構成しているからルックの問題がないという特異性はあるが、普通の映画作家がCGのVFXを前提に撮ると何でも同じような見え方になってしまう嫌いはある。

今回オレはシネコンの発色の悪い画面で観たからルックについては剰り細かいことも言えないが(何だか妙に黒潰れして色彩が銀残しのように沈むスクリーンだった)、魍魎に関しては原田眞人も色彩設計やルックに拘りがあったようで、剰りCGを使いたくなかったのではないかという気がする。その現実的な事情との天秤で、原田眞人の目には上海やその近郊の貧民街の持つ、如何にも中国の生活臭がプンプン漂うような細やかなディテールが最初から目に入らなかったのではないかと思う。

先程の匣屋敷内部の雑然とした印象もそのような見立ての拙さの一環で、原作でもそうだがこの映画の流れにおいても、匣屋敷はもっと稠密でつくり込まれた内部として見せるべきだったのではないかと思う。最後に久保が逃げ込む場所として、だだっ広くてスカスカの匣というのは平仄が合わないし、箱の内部というのは同一平面としてのテクスチャーの統一感がなければそのように感じられないわけだから、異なるテクスチャーの継ぎ接ぎとして見せるという選択肢はハナから間違ったものだと考える。

この映画の匣屋敷は外見が四角いというだけで、一歩中に入ると複雑怪奇に入り組んだ洞窟網という大地へ向かって開いている根っこのインフラを持ち、内部構造も画一的ではなく様々なロケ場所固有のテクスチャーを持っていて立体的な迷路のようなごちゃごちゃした構造になっている。

一般的な観念として、こういう特質を持つ構造物を匣に見立てるのには無理がある。

映画の叙述の問題としても、京極堂一行が三派に別れて別々のルートから頂上を目指すという娯楽映画の王道的展開である上昇のベクトルを持っているが、内部構造が徒に複雑なのでそれが観客の視覚に訴えかけてこない。さらには、京極堂と関口が美馬坂を目指し、榎木津たちが久保竣公を目指し、木場修が陽子を目指すという、個別のルートの位置附けの違いが叙述上も視覚上も明確ではなく、美馬坂と陽子が一緒にいる為に木場修がどうでも好い位置附けになって、さらに陽子と京極堂の間に男女のアヤを設けたのも余計に感じられ、ごちゃごちゃ錯綜した濁った印象になっている。

つまり、このクライマックスでは映画の語り口としても観客の期待としてもスッキリした三本のベクトルに分岐した説明的な叙述を求めるモードにシフトしているのに、その間の叙述の手際がもたくさ渋滞しているので、通俗的なスペクタクル描写としても出来が悪いということになる。

さらに、この筋立てでもこの段階で匣屋敷が機能停止寸前で、さらに久保という新たな実験対象に残された余力を割いたことで加奈子が死にかけているということは美馬坂以外誰も識らないはずなので、誰も加奈子を助けに行かないことが不自然に感じられる。

そういう意味で、肝心要のクライマックスの語り口がかなり不手際だが、それでも役者の芝居のテンションが途切れていないから辛うじて見続けられるというレベルで、最前少し触れたように事件全体が再構成されて単純化されている為に、大詰めの京極堂の憑物落としが甚だ生彩を欠くという憾みも残る。

ただ、この部分の憑物落としがアッサリしていて旨味がないのは、おそらく原田眞人が原作を読んで最も熱狂したのが前述の深秘御匣教本拠において寺田に仕掛けた憑物落とし…というか憑き物を憑けたわけだが(笑)、その場面だったということで、言葉を操る超人としての京極堂の見せ場はここだというふうに考え、そこに注力したから敢えてクライマックスで京極堂を立てる必要はないと考えたのだろうと思う。寧ろ匣屋敷のくだりの主人公は榎木津のほうである。

実際、堤慎一の演じる京極堂固有の見せ場はこの御匣教本拠の場面であると断言して好い。原作で描写された京極堂の超人性が、JAC出身の舞台経験者という面白い経歴を持つ堤慎一の力強い発声と所作事の迫力でまざまざと視覚化されている。この場面の憑物落としの面白さは、しんねりむっつりと長台詞を語っただけの姑獲鳥よりも台詞と所作の相乗効果でよほど上手く出来ている。

TVの予告映像でも流れている禹歩を踏んで畳を鳴りとよませ寺田を追い詰める京極堂の所作事は、原作ファンにも「これぞ京極堂」という満足を与える。その分クライマックスの凡人ぶりと凡庸な名探偵っぽい説明台詞は俗流に流れた部分だが、まあそこはこの映画においてはこのようなキャラなのだから仕方がないだろう(笑)。

概ね感想としてはこのようなものだが、ヒロインの柚木陽子が一度引退した名女優であり木場修が片恋を覚える相手ということもあって、そのような設定要素から原田眞人個人のヲタク的な映画愛が暴走したことで、映画に纏わる映画のような自己言及的な構造の映画になったことがプラスに働いた作品と視て好いだろう。

言ってみれば、伊丹十三の「お葬式」や「タンポポ」に近縁の映画である。原田眞人自身がそう陳べているように、これが現時点の彼のベストワークと言っても好いのではないかと思う。

原田眞人が「木場の一番の見せ場」と表現した、木場が柚木陽子こと美波絹子の映画の最終上映を観る場面など、単なる一キャラクターのファーストアピアランスとしては妙に熱の籠もった演出になっていて、物語的な意味などあんまりないのに奇妙に胸に迫るノスタルジーがある。オレらは別にこんなふうに熱狂して花形女優の映画にやんやの喝采を贈った経験などないわけだが、映画というのはこういうふうに愛されて今に受け継がれている文芸形態なのだという事実が、監督個人の思い入れと共に表現されているわけである。

そのように視るなら、たとえばこの場面で描かれる劇中劇としての絹子の映画の撮影法や編集法が、どう考えても五〇年代邦画とは思えないほどにスピーディーで現代的なものであることも、最前語った「見立ての粗雑さ」の一環ではありながら、一種描かれている内実に沿ったものとして視ることも可能なわけである。

五〇年代の映画ということでわざわざパンフレットに例示があるのだが、邦画では黒澤明の「生きる」や成瀬巳喜男の「稲妻」、洋画では「第三の男」や「真昼の決闘」というラインアップで、どう考えても邦画の低予算娯楽時代劇が実際のフィルムとしてこんなに現代的な撮り方の映画であるはずはない。黒澤の「七人の侍」はこの二年後に公開され、従来の時代劇のテンポに慣れた観客のド肝を抜いたのである。

では上海ロケ同様にケチを附けるのかと言えばそうではなくて、多分、当時の若干のんびりした撮り方繋ぎ方の映画も観客の心象としてはこういうふうにスピーディーで格好良く映っていたのであろうと思う。少なくとも、そういう見え方を感じさせてくれた。

たとえば星護辺りなら、昭和の時代性において当時の映画を再現すると、わざとフィルムを荒らしたり駒を飛ばしたりノイズを入れたりアルカイックなカメラアングルを設定し、誇張した時代色を出すわけだが、それは一種引きの時代性ということになるだろうと思う。今の人間が視たら古拙な作品でしかないものを、昔の観客は熱狂して視ていたという事実を、引いた視点において語っているわけである。

そういう細かい物質的ディテールに拘らず、普通に今の感覚において格好良い時代劇アクション映像として撮るというのは、その逆に寄りの時代性とでも表現すべき手法で、昔の観客が心で感じていた映画の見え方を現代に翻訳して再現するということなのだから、満更間違った手法でもないだろう。

そういう意図があったのかどうかは識らないが、多分一九五二年当時の日本人の観客の目には、今の目で視たら平板なカメラワークでカット数も少ない映像も、現在のオレたちが「24」を観るような感じ方で見えていたのだと思う。映像の見え方というのは相対的な認識の制度でしかないのだから、時代が変われば制度のほうも少しずつ変わってくるものである。

ここでそういうふうに解釈したということは、おそらくこの場面に至るまでにオレがこの映画に好感を覚えていたということだろうし、上海が上海であることを強固に主張する風景に違和感を覚えながらも、この映画が語る京極堂たちの東京に浸りたいという欲求を覚えていたということだろう。

さらに、原田眞人の関心が剰り柚木加奈子と楠本頼子の間の少女小説的な関係性に重きを置いていないということもあって、全編が大人の登場人物主体の物語として纏められていることも少し不満ではある。さらに言うと、原作のキャラクター性から考えると、加奈子と頼子をそれぞれ演じる寺島咲と谷村美月は、配役が逆のほうが好かったのではないかと思う。

谷村美月という人はけっこう可哀想な人で、割合整った顔をしていて本人もそんなに性格のキツい人ではないのに、表情が怖いというだけで険のある仇役とか主人公の友人役が多かった人で、今回の頼子役も従来の芸歴の延長上にすっぽり入ってしまうのだが、頼子のような凡庸な友人役を演じているのを視るといつも違和感がある。

今回の映画版では原作よりもっと凄惨な役回りを振られていて、その最期は充分に印象に残るもので、オレはこの場面がけっこう好きである。原作の頼子に比べて映画版の頼子には、やっぱり谷村美月的な性格が加味されていると思う。

それ故に、加奈子役の寺島咲と比べて損か得かという下世話な観点で視ても意味がないのだが、正直言って寺島咲のような少し肉感的な面立ちの少女が匣の中の美少女役というのはかなり違和感がある。つまり、匣に入るのが似合うかどうかというだけの判断基準なのだが(笑)、やはり原作を識っているとそこが一番重要でしょう(笑)。

そういうわけで、何やかやととりとめのない駄文に終始したが、とりあえず一八〇〇円の木戸銭だけの価値はある映画であるから、正月映画の中ではお奨めである。

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コメント

アップしてから想い出したのだが、木場修のルートに関しては一応ちゃんと美馬坂・陽子組と一度遭遇していて、陽子の拒絶と共に匣屋敷外に吹き飛ばされるという流れで、後の京極堂と陽子の対話との対照は整合しているのだが、美馬坂と陽子が一緒にいる為に、京極堂・関口組と木場修を別ルートにした意味が「段取りの都合」という以上の必然として見えてこない。

たとえば歌舞伎のだんまりのように、こういう錯綜と混乱それ自体を映画的興趣として目的的に描くということも考えられるわけだが、一口で言って映画として美しい叙述ではないので、やはり「濁り」の印象として感じられることには違いがない。

この場面以外のこの映画の叙述の面白みというのは、ひとえに長大複雑なストーリーを単純化したことの恩恵によるもので、人間は映像的現実の面白みを感得するには概念的なレベルの叙述要素に頭を使っている余裕などはない。それ故に、映像としての複雑な面白みを成立させる為には、筋立てを思い切って単純化する必要があるわけで、この映画の潤色が正当化されるのは、そのような映像的興趣を前提にするからである。

その意味で、このクライマックスが「濁り」として感じられるのは、叙述要素の視覚的な見せ方が渋滞しているからであって、スッキリとわかりやすい叙述要素に捻りのある映画的興趣を載せていくという本編全体の語り口と違和感があるからだろうと考える。

投稿: 黒猫亭 | 2007年12月27日 (木曜日) 午後 11時23分

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