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2008年1月17日 (木曜日)

負けたと思うまで

先日のエントリーで社会学玄論の論宅氏の主張を視てきたわけだが、またしても脱力モノの壮絶なオチの予感が兆してきた。先日お相手してくださったapj さんのブログのコメント欄で紹介されたKumicit さんの「乗り遅れな気もするけど、merca論宅氏について考えてみた」というエントリーによると、どうやらこの論宅氏が長期に亘って展開されているニセ科学批判批判は、TheorySurgeryさんという特定の論者の特定の論を一義的に想定した個別の反駁でしかなく、それを名指すことなく一般化して恰も「論」であるかの如くに装った為に混乱が生じていたのではないかということである。

もとよりこの方の考察が論宅氏の真実を正しく言い当てている保証はないわけで、それこそ論点が心的現実の問題に投げ返されたわけであり、これはこれで一つの推測でしかないわけだが、オレのようなイッチョカミとは違って彼との議論に辛抱強く附き合ってこられた方々にとっては、いろいろと腑に落ちる推理だったことは確かなようである。

昨日オレは「世界を視る目」というエントリーへ寄せられたがんさんのコメントに答える形で、「ニセ科学信奉者にはおおむね個人性や当事者性の高い動機がある」という直観を陳べたが、それはニセ科学批判批判者にも当てはまることかもしれない。人が一見して不合理な言動をとったり、不合理な情熱を燃やしたりすることには、その裏面に何らかの個人性や当事者性の動機があるのではないか。

まあこれはニセ科学に纏わる問題に限らないわけで、すべての言説の裏には個人性や当事者性の動機があるという言い方も出来るのだが、マトモな言説はそれらの動機の個別的な側面を昇華して言論推進のエネルギーに転換している。言説の表舞台で個人性や当事者性が生の形で噴出することのないように心懸けているわけで、第三者視点における妥当性に則って言説を彫琢するわけだが、マトモでない言説というのはそのような客観的な妥当性の基準がハナから念頭にない。

たとえばニセ科学信奉者なら、何が何でもニセ科学批判者に「説得」されまいと頑張るのだし、ニセ科学批判批判者なら何が何でもニセ科学批判者を攻撃しないと気が済まないわけで、妥当性とは別の規範によって結論が予め揺るぎなく確定している。そのような人々は当然他者と共有出来ない個人性・当事者性の動機が生の形で言説を支えているのだから、彼ら以外の第三者から視れば窮めて不合理な言動をとる。

こういう場合に「不合理な」と形容すると、ガリレオ先生のように人はすべからく論理的に行動すべきだみたいなニュアンスにとられるかもしれないが(笑)、学問的な厳格さではないにせよ元から人はおおむね論理的に行動しているものである。普通なら人の言動というのは、なんでそういうことを言ったり行ったりするのか大体意味が通じるものである。殊に第三者に向けた発話というのは、どういうことを言っているのかおおむね意味が通じるのが普通である。

だから、「不合理な」というのは、どういうことを言っているのか他人が幾ら考えてもわからないということである。他人から視てわからない部分というのは、どんな人の言説にも附き纏う個人性の限界ではあるだろう。人の言説において第三者に通じない混乱というのは、要するにその論者が自明視して受け容れている個人性が、非意図的に言説の客観的意味性や論理構造を揺らがせることで生じるのだろうと思う。

それ故に、一見して「不合理な」言動というのは、そのような個人性の部分が剰りにも強く作用している為に、第三者が意味共有可能な論理を構築し得ていないということになるのだろうと思う。このような個人性の突出というのは、多分にその論者の主観的な物事の見方と密接な関係があって、他人と意味を共有する為に必要な客観性が欠けている為に不合理な言動として顕れるということではないかと思われる。

しかし、たとえばこちらの一連のニセ科学関連のエントリーで採り上げたニセ科学批判批判者の言説に必ずこの種の生臭い個人性の「オチ」が附くというのは、言説それ自体を視るなら一見して不合理に見えても、その論者の行動それ自体は合理的に解釈可能だということである。

水商売の関係者だから水商売批判のサイトを攻撃する、これは「利害関係」というわかりやすい条理に則っているわけで、非常に合理的である。また、私怨に基づく恨み言であるなら、誰のどんな言動を対象とした恨みなのかが特定出来れば、その言説を合理的に解釈することは可能である。これらの言動が何故不合理に見えるのかと言えば、たとえば論者が水商売関係者であるということが判明していなかったり、私怨であることやその対象が隠されて恰も一般論であるかの如く装っているからである。

つまり、第三者がその人物の言動を解釈する為に必須の情報が言説それ自体に内包されていないから不合理に見えるだけである。たとえば「私自身が関係者だがこれは大変良いものだが、それを悪く言う水商売ウォッチングというサイトはけしからん」と最初から言っていれば、そもそも係争相手の関係者なのだからそういうことを言うのは当たり前であり、その主張の是非は措くとして何処も不審はない。

また、Kumicit さんの考察が論宅氏の真実を言い当てているとすれば、その旨明らかにして特定の論争相手と特定の論旨を名指しして具体論として論じていれば、これもその主張の是非は措くとして誰が視ても意味がわかる。つまり、不合理な言動としては見えてこない。それこそ互いの主張の是非や議論の巧拙という具体論になるだけのことで、この二者間の対立に興味がなければ捨て置けば済む話である。

それらの必須の情報は何故隠されているのかと言えば、それを明示することで論者が不利になるからだろう。水商売関係者が水商売批判のサイトを攻撃するのは、単にそのサイトの発信する情報が自分に不利益だからであって、それ以外の正当性はない。それを明示して語られる批判には第三者視点における正当性など欠片もない。だからたとえば天羽優子氏の係争相手の関係者が彼女のサイトを批判するなら、わざわざ最初に「オレはどこそこの関係者だが」などと宣言したりはしない。さも無関係であるかのような口振りで、一般論として批判するわけである。

また、何処か特定のブログで社会科学が疑似科学扱いされ自然科学に比べて劣った学問領域だと言われたことが悔しかったということが発話の動機であれば、普通はその特定ブログで展開されている特定の言説に対する反論という形になるが、そこで論破されてしまったら社会科学の敗北を決定附けるだけに終わる。だから自ブログで一般論として社会科学の優位を語るのであり、これなら自分が自説を撤回しない限りどれだけ論破されても頬かむりして同じことを言い続けていれば好い

他人の主張を撤回させるには、まず討論に勝つしかないのだし、勝ったとしても相手がそれを撤回する保証はない。ならば、自身にとって都合の好い説を自前で唱えて頑なにそれを主張し続ければ、誰にもそれを撤回させることは出来ない。何も苦労して他人の本拠地に攻めて行って難しい議論をする必要などないのであって、相手に認めさせたいと思う主張内容を自分が唱えるほうが何倍も楽で確実なのである。

世の中には、喧嘩というのは勝つのは難しいが負けを認めなければ少なくとも負けないと思い込んでいる人がいるもので、多分そういう理屈で大本の特定当事者への反駁という動機を伏せたのだろう。この想定に基づくなら、論宅氏は他人が何と言おうがどれだけ袋叩きにされようが、最初の最初から自説を撤回するつもりなど毛頭ないのである。

apj さんが怒っておられるのもそこだろう。そもそもapj さんは社会科学の擬似科学性というテーマの議論には不参加のスタンスだということである。

今につながるニセ科学言説へのツッコミを入れ始めた頃に「そんなものを批判するなら、なぜもっと重大な問題である”科学”を名乗る人文系の学説を批判しないのか」といった意味のことを言われたことを思い出した。

(中略)

優先順位の議論を始めたら最後、結局何もできなくなるのは明らなので、各自ができることをするしかない。ある特定の問題が重要だと思うなら、他人に要求したりせず、そう思う人が自分でやれ、ということである。

つまり、apj さんが専ら注力しているのは、広義の疑似科学批判でもなければ社会科学の科学性の検証でもなく、自ら定義しておられる「ニセ科学」という具体的なドメインにおける法廷闘争という手法である。それ故に、本来論宅氏が抱えている(と考察された)問題性とは徹頭徹尾無縁なはずであり、その問題性には自身のリソースを割かないと決めておられるわけである。

件の考察の前提に立てば、論宅氏は社会科学の擬似科学性に対する特定個人からの特定の批判に対する具体的反駁を動機として、何故か最終的に「ニセ科学批判者は自然科学を絶対視している」という「一般論」の体裁を装ったわけで、元々はapj さんのフィールドにはない問題性をそうであるかのように装ったということになる。

要するに、論宅氏は自然科学に対する社会科学の優位を是が非でも主張したかったのであり、その「序でに」自然科学を規範としてニセ科学を批判する論者を「自然科学が世界を視る規範として一義的に優れていると信奉する代表的な勢力」と視て批判したという形になるだろう。だから、社会科学は自然科学の規範をもメタ的に扱い得る上位階層の規範であるという主張を根拠附ける為に、ニセ科学批判批判というメタ議論に足を踏み入れてしまったという経緯になる。

その欺瞞性の故に本来無関係な論敵を引き寄せる羽目になったのは自業自得だが、本質的な目的がニセ科学批判者への批判ではないのだから、実は議論に襤褸負けしようが何だろうが、ほとぼりが冷めれば同じことなのである。

これまでの一連のエントリーで陳べてきたように、オレとしては自然科学というのは世界を視る規範の一つであるに過ぎない認識しているし、たとえば宗教的規範とはそれとは別種の規範であるから、別段自然科学と比較して上だの下だの対立するだのというような関係性にはないと考えている。

社会科学という規範だってそれと同様に自然科学と棲み分けているはずだろうし、たとえば社会科学が自然科学の方法論を採り入れるにしたところで、それは社会科学が自然科学に比べて劣った規範だとか遅れた規範だという意味ではないだろう。社会科学の擬似科学性に関する議論があるとすれば、理想的に言えばそれは社会科学の方法論の実効を高める目的に益するものであるべきであって、特定の学問領域を貶める目的の言説など不毛な口論だろう。

科学一般という領域において、自然科学や人文科学や社会科学の間で規範の優劣を競うというのは愚劣なプライドの問題であるにすぎない。社会科学の領域に属する人々が自然科学の領域に属する人々から擬似科学性を指摘されるのであれば、後進性に劣等感を覚えるとかそれとは裏腹な突出した優越感を求めるというのは、非常に生臭い人情の問題でしかない。

たとえば一連のエントリーでオレは、世界を物理的実体と心的現実に二軸化して論じたわけだが、こんなものは特定の問題性を扱う場合のツールとしての想定にすぎないわけで、そこに社会科学という別項を立てるのであれば、社会的現実という領域も想定可能である。その社会的現実を扱い得る規範が社会科学だということで棲み分けるというだけの話だろうから、自然科学の規範を社会的な事象として扱うというのならそれは社会的現実を軸にして世界を視る見方においてそうなるというだけの話で、規範同士の間の優劣の問題でも何でもない。

しかし、普通はこのような学問的な見方が客観的に妥当な形で成立するのであれば、自然科学の規範が物理的実体の世界を正しく扱い得ることを無矛盾で説明可能でなければならないはずであるが、論宅氏はポストモダンの懐疑論とか相対主義とか言い出すことでとっくの昔にケリの附いた問題を蒸し返したわけである。つまり、社会科学の自然科学に対する優位を主張する根拠として、社会構築主義以上のアイディアがなかったということだろう。

そういう意味では、先日触れたソーカル事件というのは割とベタに論宅氏の動機に近い位置附けにあったわけで、要するに「サイエンス・ウォーズ」の素人臭いパロディだったわけである。そう考えてみると「私のような相対的な認識をもっている者」という自己規定や「ポストモダンが生み出した懐疑論者やニヒリストたち」という言い方も理解出来るわけで、彼の中でソーカル事件は存在しなかったのだし社会構築主義は未だに有効な社会学のセオリーなのである。

ニセ科学批判のフィールドに特化するなら、そっち方面に話が転がるのはイヤだなという勘働きがするわけだが、まさしくそっち方面の話だったということだろう。個人性の動機で展開される言説には、一見不合理に見えても何処かでポロッと襤褸が出るものだという非常に散文的な事情だったわけである。

前掲のウィキの記述によれば、社会構築主義の問題点とは、

また、認知科学が尺度構成法や心理測定法という方法論をもとに1970年代のアメリカで大きく発展したのに対し、この主義は具体的な研究手法は何もない。ただ単に、研究者が自分の個人的体験という、偏ったデータをもとに考えるだけである。そのため限界のある研究法だとする批判が存在するし、この研究手法は既に時代遅れで、アメリカ社会学会では廃れつつあり、具体的な測定法や分析法はとくになく、極めて抽象的な哲学的議論のみとの批判がある。

ということになるわけだが、先日のエントリーで触れた「社会学的調査」というタームを視るに、この方は何らかの調査を行うことでこの「時代遅れ」の規範に「具体的な研究手法」というパッチを当てて継続利用することが出来ると考えているわけである。そもそも思考規範として恣意的且つ主観的に過ぎて客観的現実を無矛盾で説明出来ないという批判のあるツールに、どんな尤もらしい継ぎを当てても無意味である。

たとえば科学社会学におけるクーンのバラダイム論という考え方は、別段社会科学が自然科学の上位規範であるということを保証するものではないということは、ウィキの記述でも明らかである。

トーマス・クーンが1962年に発表した『科学革命の構造』は、通俗的には、科学の歴史がつねに累積的なものではなく、断続的に革命的変化すなわち「パラダイムシフト」が生じると指摘したものとして、科学知識の相対性を主張したもの(少なくとも相対主義的科学観を容認するもの)と見なされている。

(中略)

こうした俗説は、クーンが科学の擁護者であったこと、またパラダイムという概念を、科学と非科学の間に境界を引くための線引き問題の解決を図るべく、科学という知的活動を他の知的活動と根本的に区別する基本的特徴を指すものとして用いたことを見落としている。

だとすれば、これは科学という知的活動を社会的現実というアスペクトで読み解く試みであって、そもそもどっちが上だの下だのという話ではない。こういうふうに考えていくと、冒頭で挙げたリンク先のKumicit さんが「メタな観察ではなく、高見に立つ」と表現された意図も見えてくる。

勿論、メタ的観察なら一つだけのサンプルを以て論じることが莫迦気ているという非常にご尤もな指摘もあるが、メタ的考察イコール上位規範というわけではないということもあるだろう。メタ的観察というのは問題を対象化する手続に過ぎないわけで、特定の規範を相手取る場合は、その規範の外側に立って対象化する必要があるというだけのことである。

しかし、論宅氏の一連の主張の動機面において、社会科学の自然科学に対する優位を主張したいという情熱があるのであれば、メタ論イコール上位イコール優越という印象論的且つ恣意的短絡があるということである。社会科学が自然科学の上位規範であるというのであれば、階層的に言えば社会科学は自然科学のすべての知を無矛盾で説明可能でなければならないが、そんな無茶なことが可能なわけがない。どんだけ膨大な検証責任を社会科学に負わせるつもりだという話である。そんなことを、たとえばチマチマと人に聞き取り調査することで検証可能だと考えているのであれば、まあ普通の意味では知的に可哀想な人である。

パラダイム論的な論考が成立するとすれば、それが自然科学とはまったく別種の規範だからであって、社会的現実というまったく別次元のアスペクトに基づいて、科学という知的活動を記述しているからである。そもそも、たとえば先程視てきたような相対主義的社会構築主義のような雑駁で無謀な試み以外では、自然科学を社会科学のサブカテゴリーに置こうとするような無茶な暴論は在り得ない。

たとえば論宅氏の社会科学礼賛は以下の一文のようなロジックで成り立っている。

 外的観察しかできない自然科学よりも、内的観察ができる社会学や人間科学のほうが、対象と認識の一致という点において、より科学的である。

この場合、「外的・内的」という二極を「対象と認識の一致」を計る基準として想定することがすでに恣意的である。そんな話は誰も聞いたことがない。この場において論宅氏が唐突に言い出した判断基準である。では、物理的実体における「内的観察」とは何なのかという疑問があるわけで、「石の心」とか「水の想い」とか言い出すつもりなのであろうか。

そういう意味では、論宅氏の中にしかない論宅ローカルの「社会科学」とやらは、窮めてニセ科学に近似の呪術的な何かであるということになる。心的現実の意味論的な解釈によって自然科学よりも世界を正確に記述可能である、自然科学のもたらしたすべての知見ですらが無矛盾で説明可能であると主張する考え方なのだから、それはズバリ呪術であると表現して差し支えないだろう。

その前段でも、論宅氏は驚くべき超絶理論を唱えている。

 究極的にいうと、物理学や自然科学のほうがむしろ不確かである。外からしか観察できないわけであるから、複雑な現象になると、隠されていた別の原因や要因が後からよく発見されたりする。しかし、行為を対象とする社会学には、調査対象が虚偽を申告しないかぎり、それは起こり得ない。

たしかに自然科学は「隠されていた別の原因や要因が後からよく発見されたりする」ものであるが、それは別段不確かとイコールではない。アインシュタインの相対性理論によってニュートン力学が全否定されたわけではないし、少なくとも自然科学の方法論が確立された後は、「今までの考え方は全部間違いでした」「これからはこの考え方が正しいですよ」という類のパラダイムシフトは起こらない。それは、それこそ言葉を喋らない対象に対する観察の積み重ねという外的な拠り所があるからであり、積み重ねが積み重ねとしてそのまま活きるからである。

この手の相対主義はニセ科学批判批判の一つ節であるが、個々の具体的対象に対するアプローチでは未知の部分や不確かな部分もあるが、理論面で「正しい」と認められた規則性が完全に覆るということはないのである。それを基準として、何がどの程度たしからしいのかということに基準を設けたのが科学の正しさの基準であり、それは外的な拠り所によって検証されたものである。

一方、社会科学というものが論宅氏の語る通りのものであるなら、正しさとは人間同士の合意によって成立するものだということになる。人間同士の合意の規範というのは、時代性によってダイナミックに変わり得るし、それこそ相対的に捉えることが可能であるから、断絶的なパラダイムシフトも頻繁に起こり得るが、それとは別の次元で普遍的な要素もある。だから、論宅氏の主張するような単純な基準によって「正しさ」を一括りにされるのはどちらの科学に属する者としても納得が行かないだろう。

この方の仰る通りなら、社会科学が自然科学より優れているのは、人間同士が質疑応答によって合意することで手っ取り早く正しさが成立するからだという話になるが、そんなお手軽な正しさに基づく学問が何処にあるだろうか。これがどんな科学にも優越する正しさだということであれば、やはり心の外側の物理的実体など実在しない、もしくは人間には物理的実体に直接言及することなどは出来ないと言っているのに均しい。

これはつまり、呪術的な唯心論である。

また、apj さんも「混ぜるな危険」と仰っているが、先程のパラダイム論が記述しているのは、人間の社会的活動としての科学であって、科学が相手取る対象そのものではない。そこまでの射程を含めて社会科学の自然科学に対する優越を主張するから、社会科学が自然科学の知見の総体を無矛盾で説明可能でなければならなくなるのである。元々そんなことを主張していた学者はいないのだし、学者でない者ならソーカル事件によって一纏めに殺されている。

もっと言えば、「調査対象が虚偽を申告しない限り」というくだりに物凄くナイーブな思考の粗雑さを視るわけで、ここには人間の発話の多義性や世界認識の複雑性や意味概念に対する懐疑が視られない。

しかし、普通の人文系の科学では、人間の発話や思考の様式というのはそれ自体がダイナミックに変動する学術研究の対象であって、正しさを保証するツールでは在り得ないはずであるが、この方はきちんとした手続さえ踏めば人間の証言によって世界を読み解くことが出来ると考えておられるわけだし、石や水に何かを聞いても何も答えてくれないから自然科学は不確かだと仰っているわけである。

だとすれば、人間の患者が言葉で愁訴出来る人間の医学のほうが、患畜が言葉を喋れない獣医学より優越せる学問だという理屈になるのだろうか。この二つの領域の間の優劣の関係性は医者じゃないからよく識らないが、多分そういう理由で区別があるわけじゃないと思うぞ(笑)。

これは石や水が「本当だ」と請け合うことが正しさの基準として定められているわけではない自然科学に対して、それがすべての知を横断する最上位の正しさの基準だと今この場で言い出した論宅氏という特定個人が噛み附いているだけの話で、まあ最初からお話にも何もなっていないわけである。

よっぽど退屈で退屈で今にも死にそうだと思われる方は、リンクを辿って原文に当たられても好いかもしれないが、こういう人を嗤ってもかなり空しい。オレは原文を読んで何だかとても哀しい気分になって裏の小川でちょっと泣いた(笑)。

まあ、最初からこういうふうに語ってくれていたら「お大事に」と一言呟いて速やかに無視することが出来たわけだが、かなり追い詰められるまでこの方は「ニセ科学批判者は自然科学を絶対視している」という仮想論敵批判の迂遠な物謂いに終始した為に、なんだか不合理な論難に見えたというわけである。

オレは直接議論に参加したわけではないから当事者的に語り得るわけではないが、当事者の言によると「自然科学を絶対視しているニセ科学批判者がいるのなら、実名を挙げろ」と迫られてもついに論宅氏は誰の名をも挙げなかったということである。

そこで口を割っていたらそこで話は終わっていたはずである。

論宅氏の恣意的なニセ科学批判批判に対して反論するにしても、純粋にその言説の狭い到達範囲内で誤解が流布することを阻止するという目的が見えやすかったはずである。要するに論宅氏の批判は為にする難癖の類であり、そもそもニセ科学批判者を批判したかったのではなく社会学の優位をアピールする為のものなのだから、無意味に臨戦態勢で討論する意味もなかったわけである。

別に論宅氏個人がそう思い込んでいるのは勝手であるし、その意味で負けを認めなければ喧嘩は負けないと言えるだろうが、出鱈目を吹聴されるのは社会的な悪影響が大きいという観点においてツッコミを入れるという形になる。論宅氏が自分でそう思い込む為には不特定多数の誤解が必然的な結果として要求されるというのであれば、こんなに傍迷惑なことはないのであって、自然科学など引き合いに出さなくとも自身の学に誇りが持てればそれでいいだけの話である。

飽くまでKumicit さんの推理が妥当なら、という留保は附くが、そういう前提で考えればこの先一〇〇年議論したところで論宅氏が自説を翻すことはない。というか、彼が自説の動機を隠したのは、どんな議論によっても論破されたくないからだということになるだろう。「何故一旦受け容れたはずの認識を翻したのだろう」と仰る方もいるが、これは話が逆であって、とりあえずその場を凌ぐ為に同意はしたが最初から自説を翻すつもりなどなかったのだし、最初からニセ科学批判者など眼中になかったわけである。

ニセ科学批判批判は、高見に立って自然科学の優位を否定する口実に過ぎず、一時の討論で論破されてもほとぼりが冷めたら同じことを言い張れば済むのである。討論に負けられないのはニセ科学批判者のほうであって、論宅氏ではない。論宅氏は討論に負けてもその場は凌いでおいて、また同じことをすれば済むからである。

直接の相手を名指すことなく一般論として自説を語り、その過程で仮想敵に見せかけて引き合いに出すことでさらに多くの論敵を引き寄せるという一見して不合理な言動の利点としては、これ以外にオレは思い附かない。

おそらく彼は、TheorySugery氏という特定のブロガーを論破して主張を撤回させるという実現性の薄い手段をとるより、誰にも撤回を強制されずに自分が言いたいように言うという易道を選んだのだろう。それはまあ、皮肉に言えば賢い選択であって、この特定のブロガー氏だけがそのように考えているとは限らないわけだから、彼を論破して主張を撤回させたとしても、第二、第三のTheorySugery氏が現れるかもしれないだろう。

それよりも、自分で自分に都合の好い説をいつまでも言い張り続ければ、在り得るかもしれないすべてのTheorySugery氏に対する効果的な反駁となり得る。

そうまでして、何故に社会科学の優位を主張したいのかと言えば、先程視てきた呪術的な思考傾向を考えれば、この論宅氏という人物は世界を自分の視たいように視たい人だという、ただそれだけのことなのかもしれない。

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コメント

個人的には論宅さんが「社会学の立場を代弁」しているつもりらしいと云う点に一番不快感を感じます。あなたに背負ってほしくない、みたいな部分で。
この怒りが本質的なものなのか、それとも枝葉末節に向けられた横筋的なものなのかは、自分でも分からないのですが。

投稿: pooh | 2008年1月17日 (木曜日) 午後 10時27分

 新エントリによる解説とトラックバックありがとうございます。
ウチの方では、こんなものをシャレで定義してみたので追記しました。

●「ニセ”ニセ科学批判批判”」
 ニセ科学(仮定義あり)に対する批判に対する批判という外見を装っているが、実はニセ科学に対する批判ではない別のナニモノカに対する批判や異議申し立てであったり、他人がうかがい知ることのできない個人的な理由や欲求を満たす目的を隠して議論をしているもの。
 定義からいって、他人からうかがい知ることのできない理由や目的というのは、議論を見ただけでは直ちにわからないものなのだから、他人の議論を最初から「ニセ”ニセ科学批判批判”」と決めつけることは、ポパーの言うところの反証不可能な主張となってしまうためお薦めできない。別に調べた証拠によって、欲求や目的の存在が明らかであるならば「ニセ”ニセ科学批判批判”」と判断してもよい。

投稿: apj | 2008年1月17日 (木曜日) 午後 11時20分

>poohさん

どうもです。まあ論宅さん問題では終始居心地の悪い思いをなさったんだろうな、と思いますが、あの人のは「オレ社会学」ですから(笑)。某所のコメントでも、自然科学の観点でニセ科学を批判するのが主流の論壇で、社会科学寄りの立場に立つpoohさんの苛立ちのようなものはお察し致します。

オレ自身、社会科学とか社会学と言われても剰りピンと来ないというのが本当のところなんですが、何というか客観的な評価の難しい領域なんだろうなとは思います。論宅さんのようにナイーブに「人間が相手だから話を聞けばわかる」と考えられればホントに楽なんでしょうけど(笑)、寧ろ人間が相手だから騙されたり不確実性を抱えていたりするものでしょうし、それこそ心や想いを持たない石や水とは違って、次も同じように振る舞ってくれるとは限らない。

多分社会科学が自然科学の方法論を採り入れる動機というのは、疑似科学やニセ科学に近縁の本当らしさを籍りる動機ではなく、人間や社会というあやふやで不合理な留保を残す領域を、自然科学のようにステディに記述出来ないかという動機に基づくものではないかと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月18日 (金曜日) 午前 12時38分

>apjさん

どうもです。そちらのコメ欄でも何方かが仰ってましたが、どんだけニセなんだって話ですよねぇ(笑)。そちらのネタも笑えますが、ネタ元の論宅サン自身の「論」がメタ議論というよりニセがメタ構造になってるというのが洒脱ですよねぇ。

多分そのうちこの伝で、

●「ニセ『ニセ[〈{ニセ科学}批判〉批判]』」
●「ニセ『ニセ[〈{《ニセ科学》批判}批判〉批判]』」
●「ニセ『ニセ[〈{ニセ《“ニセ科学”批判》}批判〉批判]』」

とか何だかわからんバリエーションが山ほど出てきて、日本語の約物が足りなくなる上に、最早一般人には何が何だか修飾関係がわからない複雑怪奇な状況になるんじゃないかと危惧しています(笑)。いや、前掲の例は出鱈目ですから実直に修飾関係を検証されると困るんですが(笑)。

何にでもフェイクというものが在り得るわけなんですが、フェイクのフェイクのそのまたフェイクのフェイクと、どんどん情報が劣化していきますね。こういうのは、一応複製の繰り返しということになるんでしょうが、なんか途中で混ぜては危険ないろんなものが混ざる辺り、単純なコピーじゃないですね。

まあ心和むネタはともかく、オレなんかは一回、二回触れた程度ですからそんなでもないですが、長々と関わらされたapj さんたちは心中お察し致します。apj さんのネタのキモは「他人の議論を最初から『ニセ”ニセ科学批判批判”』と決めつけることは、ポパーの言うところの反証不可能な主張となってしまうためお薦めできない」という部分でしょうから、悩ましいところです。

前回の脱力オチの時に自分でも言ったことですが、最初からもうプンプン胡散臭さが臭う相手でも「アレだな」と決め附けて相手取るわけにはいかないですから、なかなかハイコストではありますね。多分、apj さん辺りはもうかなり勘が鋭くなっていると思いますので、手続上決め附けに留保は設けながら効果的に議論を進めるノウハウをお持ちだとは思いますが。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月18日 (金曜日) 午前 01時24分

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