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2008年1月13日 (日曜日)

心の外

前回あのような記事を書いた後に「ニセ科学批判者は科学を絶対視しているのか」という問題性に関するNATROMさんの記事apj さんの記事を拝見したのだが、このような単純且つ知的に怠惰な誤解が何故ニセ科学批判を社会学的に批判すると称する言説において平然と前提視されているのか、大いに理解に苦しむところがある。

以前のエントリで触れたように、科学というのは科学という規範の埒内においてそれ自体絶対では在り得ない方法論であることが基本的な前提になっており、オレがニセ科学関連の記事で「たしからしさ」だの「本当らしさ」だのという不細工なタームを多用するのも、非専門家が非専門家に向けて語る言説である以上仕方がない。

専門家の間では普通に「正しい」という言い方をするようだが、それは科学の領域において「正しい」というのはどういうレベルの正しさを謂うのであるか、という認識が大前提視されているからだろうと思う。この前提を共有していない門外漢から視ると、科学の徒が「正しい」と明快に言い切る場合、科学的な正しさを絶対視しているという印象論的なレベルの誤解に繋がるのかもしれないが、科学の専門家が専門領域において採用されている正しさの規範を、専門領域に関する言説で大前提視するのは窮めて当たり前の話ではないか。

前回の記事では「これが専門家の科学者である場合は、『祈っても水がきれいになるわけがない』と指摘するという不快且つ不毛な手続も踏まねばならないが」と陳べたのだが、これは別段科学者一般を「無駄な骨折り、ご苦労さん」的に莫迦にしているわけではない。科学者という立場には科学という方法論に則って物事に対してコメンタリーする社会的責任があるのだから、一般人なら「んなアフォな話があるかい」で済ませてアフォな与汰話を吹聴する人間と距離をとれば済むが、科学者という社会的な立場においてそんな与汰に言及する場合に、それが科学的に在り得ないことを一旦指摘し論述するという手続上の必要性があるということである。

たとえば科学の専門家という立場で水商売一般に言及している天羽優子氏が、たとえば科学という規範に照らしてニセ「科学」としての水伝に言及するとするなら、当然双方の間で「正しさ」の規範として共有されているべき科学という規範における正しさが尺度になるのは当たり前中の当たり前の話であるという、物凄く当たり前なお話である。

絶対視も糞もない、ニセ「科学」が「科学の持つ正しさの印象」を籍りる羊頭狗肉の詐術であるなら、では籍りられた正しさの元々の規範である科学的知見に照らしてそれが正しいのかという話になるのは誰が考えても当たり前の話である。

まあ、水伝のほうは著者自ら「科学ではない」と仰っているのだし(笑)、それを例に挙げることは「科学を装うとはどういうことか」という、この問題性とは直接関係のない複雑な議論にスライドするからニセ科学全体に一般化して論じるが、たとえば前掲のリンク先においてapj さん自らが仰っている喩え話がわかりやすい。

ニセ科学とは科学を装うものである。このような前提に立つなら、ニセ科学が詐取している「正しさの印象」の根拠とは「科学という規範がもたらす正しさの印象」であるということになる。

つまり、この問題性においては、そもそも「科学の領域で謂う『正しさ』がどのレベルのものなのか」という定義は、最初から何の関係もない。ニセ科学が科学を装う動機の次元において、「科学的に正しい」という想定の持つ不特定多数に与える印象のメリットを利用しているのだから、その想定が成立するか否かという理路においてニセ科学批判は科学的規範を尺度として用いるのであり、その正しさの定義や限定はこの理路においてはまったく無関係なのである。

科学者のサイドからの一応の釈明としては、前述の通り科学的な正しさというのは厳密な定義に基づく限定された正しさなのだから、たとえば「科学者一般は科学を絶対視しているか否か」という問いかけに対しては「否」と即答することになる。それが科学一般において主流的な見解ということになっているのだから、たとえ特定の科学者個人が科学的規範を頑なに狂信し絶対視していたとしても、その特殊例を以て一般を論じることは筋違いである。

科学であろうがなかろうが、その規範において一般的に共有されている認識から逸脱した特殊例を以てその領域全体を語る愚かしさは、オレが更めて指摘するまでもないことである。それはつまり、特定の警察官の不祥事を以て警察官全体を悪人だと言い募ることに近い。

たとえば悪徳警官が量的に無視出来ない割合で存在するなら、社会がそのように誤解することにも一定の条理が立つわけで、それ故にこそ綱紀粛正という話にもなるわけであるが、筋道上悪徳警官というのは飽くまで警察官という概念一般の特殊例であるべきである。そのような特殊例が剰りにも多ければ「何処が特殊なんだ」という実態論になるというだけのことで、警察官とは何かと謂う概念的設問において痴漢を働いたり押収物を私するのが警察官だという話には決してならないわけである。

たとえば個々の科学者が「科学を絶対視する」という嘆かわしい風潮が無視出来ないレベルで蔓延しているのなら、科学者の共同体における自浄努力の問題になるわけだが、それは科学者がどのようなものであるかの一般論とはアスペクトの異なる問題である。

科学者というのは、科学という規範に則って働く者である。それ故に科学者が科学者として何かに言及するなら科学という規範を採用するし、その規範において採用されている正しさの基準に照らして物事の正誤を判断する。しつこいようだが、これは当たり前の話なのであって、それがイコール「科学者は科学を絶対視している」ということになるわけではない。

同様に、ニセ科学を批判する場合の尺度となるのは、ニセ科学という問題性の切り取り方の核心が「科学」である以上科学の規範であることは当たり前なのである。ニセ科学批判というのは、科学的な正しさがどのレベルのものであるのかという定義とはほぼ関係を持たないのであり、その定義を問題にするならとっくの昔に決着は附いている

再度ウィキの記述を引くなら、

故に、現代の自然科学では、少なくとも人間によって合理性が認められる理論を「今のところ正しい(正しい可能性が高い)」と仮定し、それ以外の理論を「正しくない(正しい可能性が低い)」とする考え方が一般化した(参照:「悪魔の証明」)。

これだけ。これだけで終わる話であって絶対視も糞もない。「現代の自然科学では」というのはつまり、今この場面で謂う「科学」のすべてがこのような認識を一般的に大前提として受け容れている規範であるということであるから、とっくにケリが附いている問題なのである。

まあ百歩歩譲って、この問題性の真の核心が「ニセ科学批判者がニセ科学批判を行う潜在意識下の心理的動機面に関する社会学的考察」であるならば、科学的規範に対する信頼という心的な要素も勿論論じ得るだろうとは思う。しかし、それを絶対視という言葉で乱暴に括るのであれば、そもそも定量化もへったくれもない一〇〇ゼロの考え方であり、考察以前の予断として結論があるというつまらない話にしかならない。

さらに一万歩くらい譲って、その「科学的規範に対する信頼の根拠を問う」という問題性の在り方を認めるとするなら、これにも解答は用意されている。

ニセ科学批判者は、基本的に宗教の問題は扱わない。宗教というのは科学とは別種の規範であるから、勿論その世界の記述法には非科学的部分が不可避的に存在する。そして宗教とは人々の無前提の信仰に根差すものであり、無根拠な信仰という意味ではニセ科学とも通底する心性に立脚するにも関わらず、普通の意味合いで謂う悪意なき宗教一般はニセ科学批判の射程からは捨象されるのである。

これは何故か。

それはつまり、宗教と科学が何処で棲み分けているのかという設問であり、ニセ科学批判という問題性の切り取り方において、何故科学に対する信頼が成立するのかという設問でもある。

当ブログの流儀に則って、最初に結論を謂うなら、たとえば歴史ある伝統宗教のような規範は、人間の心的現実に映ずる影としての世界の記述として窮めて洗練されている故に有用だからであり、そこで採用されている独自の正しさの規範というものがあり、その一方、自然科学とは心的現実の外側に在る世界の物理的実体に言及し得る現時点における唯一の規範であり、そこでも別種の正しさの規範があるからである。この違いを軸にして宗教と科学は棲み分けているのであり、一方が一方を排斥し互いに背反するというのは頑迷な誤解でしかない。

たとえばオレは前回「本質的に水伝とは『祈れば海を割ることさえ出来る』という狂気の思想の出発点」と陳べ、これはツッコミキボンヌで脇を空けたわけだが(笑)、流石にそこまで単純な奇門遁甲に引っ懸かるお目出度い莫迦はいなかった。オレはこういうふうに書けば「じゃあモーセの十誡を信じるキリスト者は皆狂人なのか」とかねじ込んでくる人がいるんではないかと思ったんだが、まあ現実に大昔に存在した一預言者が海を割ったのだと信じているのであれば、それはかなり強硬で頑なな聖書原理主義者ということになるからその通りである(笑)。

しかし、普通一般の良識的なキリスト者は言葉通りの意味でモーセが海を割ったことを史的事実だとは受け止めていない。その聖書の記述は、少なくも物理的な意味で預言者が海を割ったことを本当だと受け止めるという意味では、現代における信仰上の意義はないと考えているだろう。科学的な観点では預言者の力で海を割ることなど現実には不可能だというのが一般的なキリスト者の感じ方であるが、それは聖書の記述が嘘を語っているという捉え方ではないだろう。

おそらく、出エジプト記の記述が現代人の信仰において意味を持つとすれば、それはそれを史的事実として視る見方とは別のアスペクトにおいて視る見方が提供する意味性だろうというふうに解釈されているのだと思う。この辺、オレはキリスト者でもなければ神学者でもないので明確に断言は出来ないが、百歩譲ってキリスト者が史的事実としてもモーセの奇跡を信じているとすれば、それは心の外の世界におけるそれではなく心的現実の領域において信じているのである。

単純な論理に基づいて考えれば、モーセが預言者であるのは神から言葉を預かる人界の指導者だからであり、奇跡とは神が下しおかれたその現実的な実証である。モーセが紅海を割ったという奇跡が史的事実でないならば、史的事実の次元において神は実在しないということになりかねない。しかし、信仰の原理においてはそのような論理は無意味である。キリスト者である限り、神を信仰しない、神の実在を信じないという出発点は在り得ないのであり、普通一般の物理法則に則れば預言者が海を割ることなど在り得ないという「別種の規範」が提示する現実を目前にしても神を信仰することが可能なのかということが問われるのである。

つまり、信仰という心的現実の次元においては、史的事実性の次元を捨象し、科学的物理規範を捨象するということである。何故なら、信仰とは心的現実のレベルで明確に真正だからであり、心的現実の埒内ではそれ自体無矛盾で成立する観念だからである。

以前例に挙げたNHKスペシャルのアインシュタインロマンでは、最終夜のテーマとして、「神は賽子を振らない」と語る敬虔な信仰者でもあったアインシュタインが厳密な科学の徒でもあったことをダブルスタンダードの矛盾として批判的に語っていたが、これは宗教の本質も科学の本質も弁えない無理解な暴論であって、あの当時でもかなり興醒めしたことを覚えている。

一人の科学者が敬虔な信仰者でありながら厳密な科学の学究でもあるということは、何ら矛盾なく並立可能である。それを矛盾だと捉える見方は、心的現実と物理的現実の違いを弁えていないと言われても仕方がない。宗教者であるなら科学は認めない、科学者であるなら宗教は認めない、宗教と科学はそんな単純な関係性にあるわけではない。

史的事実性だの科学的物理規範だのを捨象する心的現実のレベルの概念規範を、別種の規範で叩くことは完全に筋違いであり、何ら実効的有用性がないからニセ科学批判は詐欺性のない伝統宗教をその射程に含めないのである。

科学的規範とは元々出自を辿れば哲学や宗教と一体不可分の原点を持つわけで、ソーカルに揶揄されたように自然科学の知見を無理解に誤用する現代哲学の有用性が現代においてどの程度のものであるかは微妙だが、宗教は心的現実の次元に特化することによってこの「科学万能(笑)」の世の中においても力強い精神世界の概念規範として延命している。対するに科学が志向したのは、錬金術や哲学を経過点として心的現実の外側の物理世界に直接言及する方向性である。

宗教的な次元における「予言」とは、勿論心的現実の次元において成就さるべき事柄だが、科学が志向したのは物理的現実の次元において成就さるべきそれである。再現性というのは科学の基本的要件であるが、科学というのは或る程度の確度で予言を為すことが可能で、それは、科学的規範が心の外側の世界に直接言及し記述しようと志向する原理だからである。

現代において科学がこれほど持て囃されているのは、科学という規範が初めて心の外側の世界に対して有効な影響力を持ったからであり、言ってみればそれだけのことなのである。たとえば現代のレベルの高度な自然科学が成立する以前は、世界の原理を識る為には観察の積み重ねと哲学的直観と純粋思惟に拠るしかなかったわけで、技術の発展は経験則の積み重ねとその連続上にある類推(つまり経験に基づく「工夫」)に拠るしかなかったわけである。

現代的な自然科学の方法論が登場するに至って、その間のプロセスは格段に効率化されたわけで、帰納に基づいて一定の法則が確立されれば演繹のプロセスによって相当正確な精度で予言が可能となる。ならばそれらの知見を組み合わせることで、経験則の積み重ねを遥かに超越する効率性で技術の発達が可能となる。

科学が有り難がられるのはこのような現実的な効率性の故で、科学が登場しなくてもいずれ人間は空を飛ぶ機械を発明出来たのかもしれないが、それは気の遠くなるような長い時間をかけた経験則の積み重ねの上でなければならなかっただろう。しかも、そのような連続的なプロセスでは原理的に産み出し得ない技術というものもあるだろうから、現代の便利な生活はその殆どが自然科学の恩恵によるものである。

科学が心の外側の世界に直接影響力を持つことを漠然と認識しているからこそ、人は科学を有り難がる。古代人なら呪術が効いた・効かないという心的現実レベルの認識に基づいて世界をコントロールしているという安心感を購ったのだが、科学は一応のところ心的現実レベルの安心感を超えて、心の外の物理世界に直接触れ得る技術とその成果を提供してくれる。

ニセ科学というのは、科学を装うことによって科学の持つそのような現実的有用性を詐称するわけであるから、ニセ科学批判というのは、その対象が現実に心の外側の現実に対する影響力を持っているのかいないのかという基準で裁くべき領域である。まあ同じことを何度も何度も繰り返すのは莫迦のやることだが、噛んで含めるように繰り返さないと莫迦には通じないし、それでも通じない莫迦が現実にいるのだからしょうがない。

ニセ「科学」が「科学の持つ正しさの印象」を籍りる羊頭狗肉の詐術であるなら、では籍りられた正しさの元々の規範である科学的知見に照らしてそれが正しいのかという話になるのは誰が考えても当たり前の話である、これでおわかりか。

リンク先で論じられている大本のエントリの論旨が馬鹿馬鹿しいと思うのは、科学の何たるか、ニセ科学の何たるか、ニセ科学批判の何たるか、「ニセ科学批判」批判の何たるかを一切弁えない単純な思い込みに基づく暴論だからである。

つまり、何もわかっていないんだから、何も言えないのが当然だろうという、窮めて当たり前の話なのである(笑)。

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コメント

 「ニセ科学批判者は科学を絶対視している」という言説が、社会学を標榜(←ここ重要)する人から出てくるのを見ると、少々うんざりして「社会学はクソ」と言いたい気分にもなってくるが、それは、一部の例外をもって社会学全体を評価する行為に他ならないのだった。
 まともな社会学の人が議論してくれるのをじっくり待ちたい。

 常識的に考えるなら、まともな学問分野としての社会学や哲学といったものがクソなわけはない。しかし、社会学や哲学を黙示・明示で標榜してクソ議論を始める人が出てくるということは、ニセが混じっているのは何も科学だけの問題ではなくて、学問分野全部にわたっていると考えるしかない。

投稿: apj | 2008年1月13日 (日曜日) 午後 04時48分

>apjさん

いらっしゃいませ。まあ、一応世間でマトモな社会学や哲学と視られているものでも、過去にはソーカル事件みたいなものがあったわけですが(笑)、ソーカルの批判の対象となった人々も、根っこのところでは学際の知見の融合とか、人文科学に自然科学の方法論を採り入れたいというようなことを真摯に考えていたと信じたいところです。

それよりもっと多いのが散文的な「ニセ学者様」の頓珍漢行状記で、先日コメントを下さったpoohさんが、以前「玄論」の方の別のエントリーに絡めて「社会学がこんなモンだと思われたら社会学が気の毒だから」というようなことを仰っていましたが(笑)、単純な思い込みに基づく言説を「社会学の枠組みに基づいている」と強弁するのは滑稽な欺瞞ですね。

近代以前ならいざ知らず、現代的な学問というのは自然科学に限らず人文系の分野でも一定の客観的方法論を具えているはずのもので、自然科学の根っこにあるような客観的妥当性担保の手続を幾許かは採り入れているはずなんですよねぇ、たとえば「玄論」さんが以前仰った「社会学的調査」とか(笑)。

それが「ニセ」な学者様にかかると「『○○は科学的事実であると社会的に誤解されている』と実証せよ」というような頓珍漢な話になるのは、何だか傍目にはニセ医者様が浣腸器で注射しようとしているような凄まじさを醸し出しますね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月13日 (日曜日) 午後 06時59分

黒猫亭さん、

>過去にはソーカル事件みたいなものがあったわけですが(笑)
 それを言うなら、科学の方だって、過去に「ポリウォーター騒動」なんかを引き起こしているわけです。
 ただ、そこから教訓を学んで、それ以後は、主流では何かあってもかなり早く騒動が収束しています(常温核融合は半年くらい、パンヴェニストの希釈しまくった溶液が生理活性を持つという話は追試終了あたりで決着)。また、その時代時代の技術で検出限界ぎりぎりの話をするのはアブナイといったことを共通の知恵としてきているはずです。

 ソーカルから何かの教訓を学ぶとしたら「混ぜるな危険」じゃないでしょうか(笑)。人文系には人文系の客観性を担保する方法論があるわけで、安易に自然科学と一緒にすると言葉遊びになりかねないということでは。自然科学側が人文系の客観性確保の手続きに倣っても、多分うまくはいかないでしょうし。

投稿: apj | 2008年1月13日 (日曜日) 午後 10時20分

余談です。
 エントリの中で、出エジプト記に言及しておられましたが、学術用語に「モーゼ効果」というのがあります。モーゼは預言者(で良かったんでしたっけ)のモーゼです。
 水は弱い反磁性体ですので、超伝導電磁石が作る強い磁場の中に入れると、磁場が強いところから遠ざかろうとする性質があります。このため、細長い水槽に水を満たし、超電導磁石のコイルの中に突っ込むと、中心付近の水面が下がり、両面が盛り上がるという現象がみられます。これが、水を割ったモーゼを連想させるため「モーゼ効果」と名付けられました。
 キリスト教圏ではモーゼの話がしっかり根付いているため、ネーミングでウケているというか、親しみをもたれているようです。知り合いの先生は、シャレで、水槽の写真を見せた後、聖書の子供向け絵本か何かに出てきそうな海が割れている絵を出して笑いをとっていました。まあ、みんな宗教と科学の両方の世界を知った上で(もちろんそれが別物であることも了解の上で)楽しんでいるというか……。

投稿: apj | 2008年1月13日 (日曜日) 午後 10時28分

連投すみません。訂正です。
×両面が盛り上がる
○両端が盛り上がる
です。

投稿: apj | 2008年1月13日 (日曜日) 午後 11時33分

>apjさん

お返事どうも有り難うございます。実は本文中で偉そうにカガクカガク連呼している割には、素人相応のお粗末な知識しかないものですから、そちらが挙げられた実例を調べるのに少々手間取りましたが(笑)、概ね対比としての意味はわかりました。

たしかにソーカル事件が暴露したのは、「見た目がどれだけ尤もらしくても、出鱈目でも同様に通用するのならそれは妥当性を担保するツールではない」ということでしょうね。ならば、自然科学の方法論を模倣したポストモダン哲学の、一見客観的妥当性担保を目指すかのように見える手法は、その実は恣意的に語られた自説の本当らしさを補強する為のレトリックに過ぎなかったという言い方も出来るでしょう。

つまりハイブラウにスカした比喩という以上の意味はなかったわけで、「科学を装うことで科学の正しさの印象を籍りる」という意味ではニセ科学とも通底する心性ということになるかもしれません。人文科学には人文科学の方法論があるべきだというのはまったくその通りですが、自然科学の方法論を採り入れるにしてもやり方というものがあるだろうという部分もありますね。そこが恣意的に底抜けだと、自然科学の方法論を模倣する動機面の問題にもなってきますし。

あなたとわたしが同時に同じものを同じように視ているという前提を措定出来ない心的現実の領域では、自然科学の方法論が万能ではあり得ないのは当然でしょう。そのような領域において客観的に妥当であるということはどういうことか、それをどのように検証するのかという知恵、それは人文科学の分野の知の積み重ねを積極的に信じて好いのではないかと思います。

どちらの場合でも「少なくとも人間によって合理性が認められる」ということが「本当らしい」ということなのですから、この場合に想定されている「人間」というのがどの程度のものなのか、各領域においてどの程度の「合理性」が求め得るのかという突き詰めなしでは正しさも糞もないでしょう。少なくとも、自然科学のような意味合いや確度の正しさを人文科学に求めるのは少し無理があるのではないかと感じます。

大本の話題に立ち返ると、例の社会学者氏のニセ学問の胡散臭さというのは、少し調べればわかる程度のことを調べない、多くの人間が合理性を感じられないという、自然科学も人文科学もへったくれもない知的怠慢と不合理性の故であることは間違いないということだけは言えますね(笑)。

>>まあ、みんな宗教と科学の両方の世界を知った上で(もちろんそれが別物であることも了解の上で)楽しんでいるというか……。

何というか、物凄く古くさい偏見として、科学者はみんな無神論者で、科学を宗教的に狂信しているというのがありますね。浅学にしてモーゼ効果というものの存在は識りませんでしたが、欧米のマトモな科学において、モーゼ効果をアレしてナニすればモーセの紅海渡海を史的事実として証明可能なのではないかと考える人が主流だとはちょっと思えませんね(笑)。

信仰者であると同時に科学者でも在り得るという心性の在り方を想像出来ないというのは、やはり自然科学が広く誤解されているということではないかと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月14日 (月曜日) 午前 12時26分

黒猫亭さん、

>そちらが挙げられた実例を調べるのに少々手間取りましたが(笑)
 申し訳ありません。他の読者のこともあるので、説明させてください。
 ポリウォーターは、東西冷戦のさなかにロシアの研究者が、細い石英管に入れた水の融点沸点が変わり、あたかも高分子のように分子がつながった水になっていて、それが水の最安定な姿だ、という説を出したというものです。西側に伝わって騒ぎになりました。専門家の間では、半分くらいは信じた人が居たようで、理論モデルを立てたり技術的応用まで考えたりしたんですが、賛成派も批判派も十分な量の試料を得られず、実験の再現性が怪しいまま数年が過ぎ、結局、高濃度の不純物が含まれていたということを提唱者が認めて、間違いであったということで決着しました。
 常温核融合の方は、パラジウム電極で重水を電気分解すると核融合が起きるという話ですが、通常の学会→論文発表、というルートではなく、いきなり記者会見で騒動が始まった上に、追試のための十分な情報が出されず、あちこちでやってみたけれど痕跡もなく、半年ほどでこれ以上調べても無意味、ということで終わりました。信者はいまでも小数居るようです。
 パンヴェニストの実験は、免疫反応の実験系で、試料の入った溶液を10倍希釈することを繰り返していくと、分子が1つも無いはずの状態でも免疫反応が観測されるというものです。しかも、薄めた回数と反応の起きる様子が周期的っぽく変わるという、物質の存在量で反応の量が決まるという化学の基本の反するものでした。これは、Natureに掲載されましたが、その後の追試で否定されました。根底には、水にどんな物質が入っていたかという情報が記録される、という、ホメオパシーの考え方があったようです。

>モーゼ効果をアレしてナニすればモーセの紅海渡海を史的事実として証明可能なのではないかと考える人が主流だとはちょっと思えませんね(笑)。

 はい、もちろんその通りです。
 モーゼの出エジプトを説明できる自然現象があるかどうかは、全く別に調べている人達が居るようです。気象学的というか地質学的な方からなので、磁石を使った実験とは全く関係ありません。
 単に、聖書が宗教としてだけではなくみんなが知っている文化的背景としても根付いているから、そういうネーミングが受け入れられたのでしょう。

投稿: apj | 2008年1月14日 (月曜日) 午前 03時27分

今更ですが、科学者を相手にカルスタに気を遣って言葉を選ぶこともなかったな、今時ポストモダンの流れを汲むと称する輩を批判しているんだから、もう下世話にソーカル事件というのは、シロサギを喰うクロサギの話だと言い切っちゃってもよかったんじゃんとか思いました(笑)。

というのも、apj さんが挙げられた事例の意味とは、要するに自然科学だろうが人文科学だろうが、人間というのは間違うし嘘も吐くという話に決着するのかな、と。自然科学というのは、そんなヒューマンファクターに基づく数々の科学スキャンダルに直面して、その都度教訓を得て客観的妥当性に対する勘働きを鍛えてきたんだよ、そういうお話であったかと思います。

功名に逸る気持ちであったり、研究機関の財政的な問題であったり、その国の置かれたエネルギー事情であったり、研究者の個人的信条の問題であったり、人間である以上自然科学者であっても理不尽な情動の故に間違ったり人を騙したりする。それでも概ね自然科学は学の知的誠実性に対する大枠の信頼性を確保してきたわけで、それは方法論を改善するということも勿論あるでしょうが、自然科学者の共同体における知の経験として共有されることで、検証の実践の場面では直観の域に降りてくるのかなと思います。

apj さんもサイトのニセ科学批判においては、その種の直観や勘働きのようなことを仰る場面が多々あったように思います。人間というのは痛い目をみるまで懲りないものではありますが、痛い目に遭ったらせめて懲りようよ、せめて次は同じように騙されないようにしよう、そういう知恵をみんなで分かち合おうよ、というお話だったのかなと。

ソーカル事件をもう少し詳しく検索してみると、自然科学の知見に只乗りするポストモダンの学は、相対主義を唱えることで強烈な反科学の思想でもあったという意見を何処かで見かけたのですが、そのような観点で言えば自然科学を模倣するポストモダンの人文科学というのは確信犯のニセ科学だったわけですね。

そういう意味では、たとえば自然科学の領域における科学スキャンダルの歴史というのは、「嘘や錯誤を見抜く為のケーススタディ」と見做すことも可能だし、ソーカル事件というのは「嘘を見抜く為に嘘吐きに仕掛けた嘘のケーススタディ」と見做すことも出来ますね(笑)。

>>モーゼの出エジプトを説明できる自然現象があるかどうかは、全く別に調べている人達が居るようです。気象学的というか地質学的な方からなので、磁石を使った実験とは全く関係ありません。

おそらく、史的事実の次元で言えば、その当時の紅海に先行するユダヤ人だけが渡渉可能でそれを追跡するファラオの軍勢には不可能となるような、たとえば橋のような海底の隆起と潮汐の関係のような何らかの地勢上の要件があって、その要件が少なくとも現在に至るまでには喪われてしまったということを実証附きで説明出来れば、モーセの紅海渡海が史的事実であったと認め得るわけですね。何も馬鹿正直にモーセの祈りに応じて突然海が割れたという事実を説明する必要はないわけですから、まあ割合現実的な研究だと言えるんじゃないでしょうか(笑)。

そういうお話を聞くと、信仰と史的事実の検証というのはやはり別次元の話になるんだなと思います。たとえばエクソダスの過程でそういうユダヤの民にとって都合の好い事情があったということを、心的現実のレベルで「モーセが預言者である証を神様が下された」と解釈し、宗教の文脈で「奇跡」として視るというのは何処も間違っていない世界の見方だと思います。

旧約が成立した時代のユダヤの民の感じ方はさておき、現代人にとって聖書の記述が宗教的意味を持つとすれば、それはその通りの超常現象としての奇跡が本当にあったから神という超越者は存在するんだと信じる感じ方とは別次元の話なんだろうと思います。神が気軽に人界に交わって奇跡を見せてくれるわけではない時代に生きていながら、それでも信仰というのは揺るぎなく在るんだという話ですね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月14日 (月曜日) 午後 02時13分

>apjさん

追記ですが、今更こんなことを言うのもご存じの通りの事情があるからでして、なんか嬉しがってウチにもマルチポストで連投してきましたよ(笑)。まあウチではあの人のコメントは公開しないことにしていますが、元のブログで読めるんだからご本人も満足なんじゃないですかね。しっかり「信じたいところです」を省いて引用する辺り、御念の入った作為で恐れ入ります(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月14日 (月曜日) 午後 02時35分

黒猫亭さん、

 科学者だって間違えるし勘違いもするので、どうやって相互にチェックして間違えた時に修正するかというノウハウを積み重ねてきた面があります。ですから、現在進行中のところはこの先どうなるかわからない=グレーだし、既に時間と人手をかけて十分チェックしたところはほぼ確定だし、方法論についても「こんなんじゃ間違える可能性の方が圧倒的に多いよ」「こうすればかなり間違いは防げるよ」という経験を積んできています。

>神が気軽に人界に交わって奇跡を見せてくれるわけではない時代に生きていながら、それでも信仰というのは揺るぎなく在るんだという話ですね。

 別次元さについて少し書いてみます。

 「滅多に起きないから奇跡って言うんですよ」などと説明したりするわけでして。
 科学というのは、繰り返し観測して他の事象とも整合性があって説明もできて……というものの集合なので、たった1回しか起きず、観測ともいえない伝承については、信仰の対象ではあっても科学の対象じゃないんですね。逆の表現をするならば、科学ごときが人の信仰を支える奇跡に口を挟むな、と言った方がいいのかもしれない。

 水の方の例だと、ルルドの泉というのがあって、水を飲んだりすると難病が治る奇跡が起きるとされています。その場所は周辺の人達の善意と信仰で維持されています。なお、奇跡というのはキリスト教では聖人と認められるための条件の一つですから、ヴァチカンの認定は相当に厳しいです。
 ところがその水を持ってきて、「奇跡の原因は泉に○○という物質が含まれていたからだ」などと、物質科学に無理矢理当てはめる説明を後付けして金儲けを企む輩が後を絶たなかったりします。こういう行動を日本では普通「罰当たり」って言うんですけどねぇ。
 奇跡を信じて信仰を大切にするなら科学におもねってはいけないし、人の信仰を科学で説明しようというのは科学の間違った使い方であり思い上がりだし、そんなことは関係なしに金儲けのために信仰と科学をくっつけて奇跡を宣伝するのは、そもそも人としてどうかと思うわけでして。

投稿: apj | 2008年1月14日 (月曜日) 午後 04時32分

>apjさん

本文のほうでは、科学と宗教の棲み分けというようなことにも触れさせて戴いていますが、apj さんの表現はさすがにわかりやすくて練れていると思います。オレの場合は、専門の畑ではないのでどうしても言い回しが諄くなってしまいます(笑)。

apj さんが上のほうで仰っていた「混ぜるな危険」という話とも関わってきますが、まあ「多くの人が病を癒すと語る水に科学的な意味で有効な成分が含まれているか否か」という観点においてルルドの泉の成分を検証するという研究はあっても構わないが、その研究結果は「ルルドの泉の奇跡という宗教的な次元に属する事象」に対する言及では在り得ないし、科学的に得られた成果はそれとは何の関係もないというお話として受け取りました。

調べてみると、ヴァチカンのほうでも奇跡を認定するに際して一応医学者による科学的な証明を求めたというような話がありますから、ヴァチカンでも満更科学に目配せしていなかったわけでもないようですが、二〇世紀初頭の科学の限界で現在の基準では疑わしい事例も混ざっていて、今ではプラセボ的に視られているようです。

しかしそこで「現実に病が癒えた人がたくさんいるんだ」「それはこういう物質が含まれていたから効いたんだ」と「科学的に」強弁しておきながら、その強弁に「科学的」妥当性がなければ立派なニセ科学もしくは詐欺商売ということになりますね。この場合は宗教的権威と科学的権威の両方を訴求要素として借りているわけですから、二重取りの悪質な欺瞞行為ということになるわけで。

>>「滅多に起きないから奇跡って言うんですよ」などと説明したりするわけでして。

一回性の強い特殊例ですから、元々科学が扱える対象でもないし、無理して扱う必要も意義もないということでしょうね。ヴァチカンの認定が相当厳格で物凄い数の条件を厳密に満たす必要があるというのはオレも仄聞していますが、宗教の規範で奇跡を客観的に妥当な形で(人間によって合理性が認められる形で)認定し得る方法論が確立されていて、そこに妥当な形で科学的検証手段が織り込まれている以上は、科学がそれ以上の口出しをすることもないと思います。

たとえば「合理性」と無前提に謂う場合、当然「科学的合理性」もあれば「宗教的合理性」もあるわけで、語義上「或る理念規範に合致する」という意味ですから、宗教の領域の事柄については宗教の規範において「合理性」があればそれで好いわけで、一方ニセ科学の問題性においては、前提として共有されている理念規範が自然科学なのだから科学の規範において「合理性」があることが求められる。割と単純な話だと思います。

宗教イコール非科学ではないし、イコール不合理でもない。この現代において自然科学の実効を無視して世界を視ることは現実的ではないから、ヴァチカンの奇跡認定にも科学の規範が織り込まれているんだと思いますが、元々宗教が求めているのは自然科学と背反する原理ではなく別種の原理に対する合理ということなんでしょうね。

ここの境界線を曖昧化するのが相対主義だというのなら、まあ元々別種の厳密な規範同士を何の根拠もなく恣意的に無思慮に混ぜて使ってるんだから合理的じゃないし危険だよね、そういうお話でしょうかね。

それから、一応お断りしておきますと、この対話においてオレは非専門家でapj さんは専門家という条件になりますから、非専門家が専門家と対話する場合の手続として「そういう理解でよろしいですね?」というニュアンスで確認を求めるような修辞的疑問形を多用していますが、個別の言説について逐語的な認証を求めているわけではないので特に修正や補足を要する部分以外はスルーして戴いて結構ですよ。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月14日 (月曜日) 午後 06時08分

黒猫亭さん、

>この対話においてオレは非専門家でapj さんは専門家という条件になりますから

 はい、科学(の一部=つまり私が本当に専門にしている分野と、それにつながる部分)については専門家として、誠心誠意、わかりやすく説明するつもりでおります。
 ただ、宗教ということになると、私の理解も一般の方々と何ら変わるところはありません。それでも、「科学と宗教は対立概念である」「科学者には信仰がない」「科学は合理的だが宗教は非合理」などといった、短絡的でありがちな言説については、いくらなんでもそんなもの一般化できないでしょう、科学の側から見たって無理がありまくりです、ということは言ってもよいかと思います。

 例えば、人生の価値とか、人はいかに生きいかに死ぬべきか、といったことは、科学に訊いたって何も答えは出ないわけです。でも、こういったことを考えるのも大事です。
 使う対象を間違えたり混同したりしなければ、一人の人間が複数の判断基準を持っても全く問題はないし、むしろそれが当たり前ではないかと思います。また、質の異なる判断基準ですので、どれが良いとか悪いといった比較をすることも無意味ではないでしょうか。

 奇跡の判定のときに医学を使うとしても、本当に治ったことが真実であることや、治った理由が医学のせいではないことを確認するのであれば、神の示された奇跡というのが揺らぐことはないし、信仰のあり方に影響が生じるわけでもない。おそらく、ヴァチカンはうまく科学と付き合っているのだと思います。

 一方、日本でしばしば騒ぎを引き起こすカルトでは、「教義そのものが科学で実証されている」かのように装っていることがあります。はっきり言明しなくても、信仰に入っていく時のツールがいかにも科学っぽいものだったりします。どうも、信仰そのものに科学の裏付けを求めようとすると、おかしな方へ行くようです。ただ、宗教というものに対する理解をほとんど進めていないため、なぜそうなるのかを論じるのはまだ無理なのですけれど。

投稿: apj | 2008年1月16日 (水曜日) 午前 12時35分

>apjさん

>>はい、科学(の一部=つまり私が本当に専門にしている分野と、それにつながる部分)については専門家として、誠心誠意、わかりやすく説明するつもりでおります。

科学の全分野において専門家である一人の人物を想定することは、ヴァン・ヴォクトのSFでもない限り、少なくとも現代においては不可能ですから、「科学の専門家」という場合は論理的に言って「自然科学の方法論の専門家」という意味になると思います。

オレがニセ科学に関するエントリーで一貫して論じているのも、個別の研究領域における専門知識の具体ではなく、自然科学一般が基礎を置いている「客観的妥当性を担保する方法論」ですから、その意味でapj さんは立派な専門家ということになりますし、当ブログの一連の流れの上にある記事に対して発話されている以上、それがオレとapj さんと平準的なリテラシーの読み手の間で共有されている「文脈上の前提」ということになりますね。

その観点においてapj さんという特定の科学者が、ご自身の占めているドメインに関する具体的な事例からフィードバックして自然科学一般に共有されている方法論を解説するというのは、何処も階層的に混乱していませんね。誰でも識っているトップダウンとボトムアップの循環の関係になるわけです。

>>ただ、宗教ということになると、私の理解も一般の方々と何ら変わるところはありません。

宗教の問題に関しては、勿論世の中には神学者であると同時に科学者でもあるという人物なら存在すると思いますので、宗教と科学の関係性を専門領域として想定する場合ならそういう論者が専門的な研究を深耕するという形になるかもしれませんが、この場合に謂う「専門家」というのは、特定の研究テーマを専門領域として想定する文脈上の意味ではありません。科学の規範における信仰の問題を語るのであれば、科学の専門家であることが当事者性を担保するので、apj さんには当事者性の観点における言及の資格があると思います。

たとえばオレの場合、科学者でもなければ宗教者でもないわけですから、どちらの意味合いにおいても非専門家です。非専門家が専門家の間の事柄を対象化して推測しているわけですから、手続上当該領域の専門家と対話する場合には「そういう理解でよろしいですね?」という修辞が求められるということです。対話している相手の専門領域の事柄に関して、非専門家が対面的に断言するのは不遜な話ですので(笑)。

逆に宗教者の規範における科学の問題を語るのであれば、専門の宗教者であることで当事者性を担保されるという、まあ普通ならわざわざ口にするまでもなく直観的に階層構造が理解可能な極々単純な話ですね。一応念の為に「平準的なリテラシーの読み手以外の読み手」の為に補足するわけですが(笑)、専門性に関する定義はこんなところで十分ではないかと思います。

個人の言説には想定読者との前提共有という限定があるのが当たり前ですし、その想定の範疇でしか正確に意味は伝わりませんから、如何に不特定多数に向けた啓発を動機とするコメンタリーでも「平準的なリテラシーの読み手以外の読み手」という「少数の特殊例」を過剰に考慮しても穣りある対話になりません。これだけ語ったのですから、そこは前提視してくださって構いませんよ。

>>使う対象を間違えたり混同したりしなければ、一人の人間が複数の判断基準を持っても全く問題はないし、むしろそれが当たり前ではないかと思います。

本文で採り上げたアインシュタインロマンでは、最終夜でその間の関係性に対する無理解を露呈してしまったわけで、マンハッタン計画に対するアインシュタインの姿勢の具体を挙げて批判していましたが、さすがに当時の若かりし頃のオレでも、こいつら莫迦じゃねーのかと思いました。厳格な科学者が敬虔な信仰者でも在り得るというのは、欧米圏のSFや科学ドキュメンタリーを少しでも識っていれば、極自然に実感的に理解出来ることです。

またたとえば当ブログの表芸であるトクサツの分野でも、ゴジラ映画などは元々反核反戦のメッセージが重視されるシリーズなので、科学者を扱う場合には戯画的に誇張して描いて科学の傲慢な盲目性や倫理性の欠如を指弾する形になりますが、幾らそれが様式美とは言え、現代の時制において科学者一般に対する誤解を煽るような「職業描写」は社会的な意味で不適切なのではないかと苦々しく感じます。

たしかに自然科学の黎明期には、科学者=無神論者的な短絡が在り得たのかもしれませんが、それは宗教も不合理を抱えていたし自然科学も不合理を抱えていたという時代性における問題でしかないわけですよね。所謂「暗黒の中世」を引きずった宗教的不合理というのは、二〇世紀初頭までは現実問題であったわけですが、それは宗教という規範自体が不合理なのではなく、宗教に由来する現実的な不合理が歴史的な時制で残存していたというだけの話で、そこの階層を混同して語っても意味はない。

黎明期の自然科学は、そのような宗教由来の不合理に対する一種の対抗規範として出現したという言い方は出来るかもしれませんが、本質的な原理においては不倶戴天の対立概念でも何でもないわけで、社会の進歩に伴って宗教由来の不合理が改善されるにしたがって、その時代性において自然科学の具えていた宗教由来の不合理に対する対抗規範としての性格は薄れていったと言えるでしょう。

宗教という概念は、歴史的に言えば本家本元の「合理」を提供する規範だったわけですが、過剰な宗教的情熱や民衆の教育レベルという人間的な要素の故に不合理な暴力の淵源ともなっていたわけで、宗教が具えていた合理の規範としての性格の一部が自然科学に受け継がれ、対抗規範として自然科学が発達することで、宗教自体の合理性を取り戻すことに一役買ったという流れになるかもしれません。その意味で、元々宗教と科学は原理的な次元で棲み分けが可能であることが保証されている規範であると思います。

アインシュタインロマンの話に戻りますと、彼が科学者でありながら宗教者でもあったということは、彼の科学における研究倫理の心的な根拠が信仰であったという話になるだけで、何処も矛盾した話ではない。現実における彼の振る舞いが宗教的倫理に照らしてどうかというのは個々の人間の生の実践の次元の問題であって、理念の次元の問題ではない。彼が一人の人間としてダブルスタンダードの矛盾を抱えていたという理解ではなく、生の実践において一個の信仰者としての倫理に背馳していたという言い方なら別段何の問題もないし、そのような批判内容が事実解釈の次元で妥当かどうかという検証になるだけなんですが。

実際、キリスト教圏の科学者の倫理の根拠というのは多くの場合、生活レベルにまで浸透したキリスト教的倫理の規範でしょうし、それがどの程度の振幅を持っているかというのは現実的な問題であって理念面の問題ではない。宗教倫理固有の事情で忌避される研究テーマというのは何処の文化圏にもあるでしょうが、それは寧ろ宗教と自然科学が別種の規範であり、人間の生の現実の上で上手く棲み分けていることの証左となっているのではないかと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月16日 (水曜日) 午前 07時12分

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