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2008年1月19日 (土曜日)

反科学の情熱

最近、ニセ科学批判の論壇に接することで「『ニセ科学批判』批判」なる耳慣れない言説の分野があるということを識ったのだが、実際のところをよく聞いてみると、極少数の論客や不審なヒトがニセ科学を批判する言説に対して無責任に茶々を入れているというのが本当のところのようである。

まあ、これは考えてみれば当たり前の話で、ニセ科学批判を専門的に批判する立場というのは、他人の特定の言説傾向に関心が特化した立場だということになるが、普通の人から視ればそういうものが在り得るということがそもそも不思議に感じられるだろう。

そういう次第で、今回はこのニセ科学批判批判というものについて少し考えてみようと思うのだが、そうは言っても昨日今日の新参者で何分この論壇のこれまでの経緯をよく識らないのだから、まあ観念的な考察ということになる。

まず最初に定義しておくと、今回のエントリーで謂う「『ニセ科学批判』批判」とは単にニセ科学批判の特定言説を批判する行為一般を意味する言葉ではなく、「ニセ科学批判の言説一般を批判する立場に特化した論者の言説」という意味で、こういう不思議な立場がこの領域には存在するというお話であることをお断りしておく。

実際にニセ科学批判者とニセ科学批判批判者との議論を視ればわかるが、ニセ科学批判という一項を省いて考えると、ニセ科学という現実の領域とニセ科学批判批判というメタ的言説の間には必然性の観点の照応関係がない。

つまり、ニセ科学という現実の問題性が存在するからニセ科学批判という言説が存在するという関係性はあるが、ニセ科学が存在するからニセ科学批判批判が存在するという関係にはならないのであり、ニセ科学批判批判はニセ科学という現実の領域には言及することなくニセ科学批判の言説にのみ一義的に存在の根拠を負うのである。

ニセ科学批判批判の論客と言われる人の主張を視ると、ニセ科学批判への批判を通じてニセ科学という現実の領域に回帰していく理路が存在しないように見える。それでいてニセ科学批判批判というのは、ニセ科学批判という言説の在り方が、たとえばニセ科学のような意味で社会的に有害だという主張でもないのである。

つまり、ニセ科学批判批判の言説一般の特徴として、何故ニセ科学批判を批判しなければならないのかという論理的必然性が、いつまで経っても見えてこないということがあるようである。だとすれば、ニセ科学批判批判というのは、「現実にニセ科学批判に特化して批判する論者が存在する」という事実性においてしか第三者には存在の意味を理解し得ない言説ということになる。

ニセ科学批判の言説を批判することでどのような公益が得られるのか、その為にどんな目的性が据えられているのか、どのような方法論を具えているのか、それがどれだけ議論を通過しても皆目見えてこない。ニセ科学批判批判という言説は、その言説の領域それ自体の意味性によってではなく、個別の論者の動機によって成立している言説の領域だということなのだろう。

これも考えてみれば当然で、本来ニセ科学批判の個別の言説を批判する言説の領域が在り得るとすれば、それは同じニセ科学批判者のそれであるのが当たり前である。何故なら、批判の目的と実効と動機と知識と方法論を洩れなく具えているのが同じ領域の論者であるのは当たり前だからであって、メタ議論だけに特化した立場に立つ者が何一つそれらの条件を満たしていないのは明白だからである。

たとえば文芸批評という分野で考えるなら、特定の論者の批評の言説を批判するのは通常同じ文芸批評の論者である。文芸批評をメタ的に批評することに特化した言説の領域というのは、ウケ狙いの際物という以外に想定出来ない。批評に対する批評というのは通常批評家同士の文芸論争という形で展開するのが筋であり、文芸批評批評家などという特定の立場を想定することは難しい。それはメタ的というより無限に重畳可能な同語反復であり、反復される都度直接対象からの距離が遠離り、無駄話に近附いていく。

一方では、批評という分野が何故成立するのかと言えば、それは多くの人々が関心を持つ現実の領域を直接相手取る言説だからである。批評というのは既存の対象に言及する言説であるに過ぎず、それ自体が社会的価値を創出しているわけではないが、文芸作品という社会的価値を持った現実の領域との照応関係を担保されているから人々の関心の対象で在り得るわけである。

実作を伴わず文芸作品の批評に特化した言説の立場というのは、その意味で客観的な有用性に存在の根拠を支えられている。文芸創作も文芸批評も、文芸に特化した専門性ということでは同じだが、個々の専門家が創作と批評という個別の役割にそれぞれ特化していることには論理的な根拠と公益がある。

それ故に、たとえば文芸批評の批評に特化した言説の立場が在り得るとしても、それは公益性の薄い窮めて個人性の高い言説ということになるわけで、それ自体が芸として面白いというのなら、それはそれだけの意味の「創作」だということになるわけである。

何故なら、批評という言説の価値は社会的な価値を持つ現実の領域との直接的な照応関係によって担保されているが、批評という言説が「何かについての言説」でしかない以上、批評を批評するというメタの次元に立つことで価値を担保する対象との照応が途切れるからである。

であるならば、その言説それ自体が自力で価値を担保しなければならなくなり、「それを装った何か創作に類するもの」「それ自体価値を持つ創作物」でなければ社会的価値とは成り得ないのだし、それはたとえば、文芸批評の風刺的パロディとしての文芸創作か、もしくは「文芸批評論」とでも言うべきそれ自体が新たな知の価値を証すものでなければ人々の関心の対象では在り得ない。

一般的な意味で批評の言説に客観的な存在意義があるとすれば、それは第三者視点における有用性が担保されている必要があるということである。存在意義のない言説というのは発信手段さえあれば個人の自由意志で幾らでも発信出来るわけだが、それは本人以外の誰にとっても無意味な言説でしかない。

また、批評の言説が社会的価値を持ち第三者に対して有用性を持つ条件として、直接の対象に対する或る程度の知識が担保されていることが必須で、これもまた直接対象との照応と言説の妥当性を担保する必須条件であるが、直接対象からの距離が遠離るに連れ言説の成立に必要な条件としての専門知識の重要性が薄れていく。これもまた当然のことで、だからこそ批評の批評が有意義である為には、普通一般には直接対象に対する専門知識を担保された批評家同士の論争という形に落ち着くわけである。

Aの発言に対してBが批評を加える、そのBの発言に対してCがさらに論評を加え、さらにまたDが、というふうに重畳していくなら、Dの時点ではAに対する知識がなくてもCの発言に言及が可能だが、本来メタ議論というのであればDの論者はABCの三者に対する妥当な知識を有していなければ無意味なはずである。大半のニセ科学批判批判はこの間の事情を胡麻化して、一応言説が成立するからというだけで有意義な批判であるかの如くに振る舞っているわけである。

その文脈で、たとえばニセ科学批判批判というメタ議論の領域が客観的な存在意義を具え得るとすれば、第三者視点におけるどのような有用性が担保されているのか、そういう話にもなるだろう。まず思い附くのが、ニセ科学批判の言説の精度を高める為の批評的言及という意味合いである。ニセ科学批判者がニセ科学批判批判者の言説に対して積極的に耳を傾けるとすれば、それはそのような動機に基づくものだろう。

ニセ科学批判の論者は、現実の対象に内在する欺瞞性と社会的な悪影響を根拠として批判しているのであるから、自身の言説の精度を高めることに積極的である。ニセ科学が何故蔓延しているかと言えば、それは一般的に儲かる商売の種だからである。疑似科学ではなくニセ科学を相手取るのであれば、それはおおむね詐術的なカネ儲けと密接に関連しているわけである。つまり、大きなカネが絡む問題だから、批判するほうもされるほうも伊達や酔狂でやっているわけではない。

大きなカネが絡む事柄だけに、合理的に妥当な批判を加えられたからと言って、ハイそうですか、ごめんなさい、と素直に受け容れる相手などというのはそうそういないわけである。おおむねそういう相手は合目的的に相手の批判を封殺しようと努めるのであり自らに有利な要素を強調し不利な要素を否定しようとするのだから、その次元の具体にまで降りてくると現実的な社会闘争の性格を持つ。

ニセ科学を批判する側だって、インチキ商売なら幾ら叩いても構わないが正当なカネ儲けにまで余計な口出しをして邪魔をする権利はないわけで、そのような倫理と実効の兼ね合いにおいて為されるべき言説である。さらに言えば、社会闘争の具体にまで降りてきた段階では相手に勝てる言説でなければ意味はないわけで、おそらく現時点でニセ科学批判の妥当性を計る最もシビアな基準とは、apj さんが仰るように「法廷で勝てる理路を具えていること」である。

裁判に負ける言説というのは、社会的に健全な良識に照らして他者の利益を損なうほどの正当性を持たないと判断される不当な批判であるということになる。それ故に、係争の具体の次元にまで降りてくる社会闘争をニセ科学商売と闘うのは、プロの科学者以外の手には余るということになるだろう。オレなどがホイホイと知識もなく現実の企業活動を公に批判出来る立場にはないわけで、そこは慎重を心懸けている。

ネットコミュニケーションの次元でも、そこまでシビアな基準は適用されないとは言え公益を動機として他者の不当を批判する言説である以上、不当に亘る批判は自身の能力で可能な限り回避しなければならないし、それが面倒くさいとか言うのならば、黙っているほうが怪我はない。それ故に、ニセ科学批判の論者は常に自身の言説の精度を高いレベルで研鑽したいという動機を持っているはずである。

もしもニセ科学批判批判に批評的機能があって、論者の言説の精度を高める効果があるのであれば、互いの立場の違いに基づく活発な議論はあってもそれは穣りある討論だと言えるだろうし、ニセ科学批判もニセ科学批判批判も同等な公益性を具えていると言えるだろう。しかし、現実にはその言説による誤解の流布を阻止する目的の議論に引き込まれることが専らであり、その意味でまず事実性の次元において批評的機能を具えたニセ科学批判批判の言説というのは存在しないわけである。

それ以前の基本的な問題として、ニセ科学批判批判一般に共通するのは、通常特定の対象の批判に必要とされるはずの対象に関する詳細な知識や妥当な理解が決定的に欠けているということである。前述の通り、通常この種のメタ批評には、批判対象が相手取る分野に関して批判対象と同等の知識を持っている必要があるはずであるが、詳細な科学的知識に基づいたニセ科学批判批判の言説というのは、寡聞にしてオレは識らない。

議論が成立しているように見えるのは、科学的に妥当な議論が交わされる為には、科学的な基礎訓練を受けている論者の間でタームや理論や方法論に対する妥当な理解が共有される必要があるという、まさにその故であって、そうではない論者は同じことを語っていても専門家とは決して議論が噛み合わない。厳密に定義された言葉の意味や省略された前提が共有されていないからであり、そもそも話が通じないのは当たり前である。

玄人視点で視れば議論の成立しない素人が出鱈目を言って暴れているようにしか見えないが、素人から視るとその間の事情が必ずしも明らかではない。素人視点では、討論に勝つということは「言い負かす」ということだが、そもそも議論が成立していないのだから「言い負かす」ことは困難であり、言い負かされない為には単に自説が正しく相手が間違っているということを狂信する頑固さがあれば好いからである。

このような相手と議論するには、相手が根負けするまで言葉の通じない素人の暴論に附き合って、意見の矛盾点を淡々と指摘し続け、相手が思い附きそうなことを先回りして潰していくしかない。その意味で科学の専門教育を受けた人間は剰り不利ではないわけで、科学というのはその種の素人が思い附きそうな考えを検証して潰していく作業の積み重ねだったわけだから、大概の思い附きは過去の蓄積に類例がある。

殊に頑迷な素人論者ほど呪術的で原始的な心性の持ち主なのだから、比較的歴史の黎明期に属する初歩的類例で対応可能だろう。困るのは、剰りに物の考え方が出鱈目過ぎて次にどう出るか予想出来ない相手で、どうせ出鱈目しか言わないのだが、出鱈目が出鱈目であることを論理的に説明するには一種の表現上のノウハウが必要である。ニセ科学批判に経験の積み重ねから蓄えられた専門的領域があるとすれば、おそらくこの辺に対するノウハウではないかと思う。

その意味では、狂信的な素人との間で議論を交わす為には一応の科学的専門教育を受けている必要があり、ここでもオレなどの科学素人の出番はない。その言説が正しいことや間違っていることの合理的な説明が理解出来るというだけではなく、正しいとされる知識を自ら保持し相手の言説と照らし合わせ、何処がどのように間違っているかを正確に指摘する必要があるからである。常識で考えろ式の議論では決して狂信的な素人を論破することは出来ないのであって、常識がないから狂信者なのである。

そういうふうに考えていくと、たとえば容易くこの種の素人議論に陥るニセ科学信奉者やニセ科学批判批判者の主張というのは、それ自体不合理な誤解や思い附きによって構築された意見ではないかという疑問が生じてくるわけである。正しいことを言っているのだが議論のテクニックや語彙に問題があるとか、科学的専門知識がないから科学者を言い負かせないという議論の実態論の問題ではなく、そもそもその主張自体に合理的に妥当な理路がないのではないかという話になってくるわけである。

だとすれば、ニセ科学批判者とニセ科学批判批判者の間に意見の対立があるのは、それは専ら後者の自然科学に対する無理解や基礎的知識の欠如が原因で、無根拠な思い附きを狂信するから対立が生じるのだということになる。それこそ「人間によって合理性が認められる」という基準に則って言えば、ニセ科学批判の側が追い詰められている議論の局面など一度も視たことがない。

視られるのは常に、剰りに矛盾した出鱈目を前にどのように表現したら効果的であるかを考えあぐねて長考している図式ぐらいである(笑)。そもそもここで謂うニセ科学批判批判というのは科学の専門家からはまず出てこない言説の在り方なので、必然的にその論者は科学の専門知識に欠ける素人になるのである。そういう意味で、「専門家」というタームに過剰に反応する人がいるのも極自然な話である(笑)。

それ故にニセ科学批判批判者は、おおむね決まって最終的に自然科学の規範そのものを否定する。それは何らかの思想に基づくものというより、論者にその領域の専門知識がないからであり、自身が知的アドバンテージを持っていない土俵で闘うのは不利だからその規範そのものを無効化しようと目論むのだろう。しかし、そうなるとニセ科学批判というのは科学という規範を巡る問題性に関する言説なのだから、その規範自体を無効化する議論には、ニセ科学批判の視点でどんな批評的意味もないということになる。

誰でも思うことだろうが、対象についてわかっていないにも関わらず、それを妥当に批判することは可能なのかというのは極自然な疑問だろう。それこそ際物的な戯れ言のテクストとしてなら意味はあるだろうが、少なくとも普通一般に謂う意味でのマトモな批判では在り得ない。ニセ科学批判批判は常に科学的専門知識を迂回した論点で対象を批判しようとするが、土台そんな自分にも勝てる議論を成立させる為にでっち上げた論点になど何の意味もない。

つまり、ニセ科学批判批判に特化した特定の立場などというものは、一般に戯れ言のテクスト芸として以外では成立の余地などないのである。普通一般的な意味におけるニセ科学批判の言説に対する妥当な批判は、まず第一に本職の自然科学者から、次いで見解を異にするニセ科学批判者からもたらされるのが当たり前の話なのである。

少なくとも、ニセ科学批判批判に特化した特定の立場が特殊な例外として在り得るとすれば、対象に対する詳細な知識と第三者が納得可能な目的性と根拠に立脚しているべきであり、そうでないとすれば「オレが言いたいから言ってるだけ」「言いたいことを言うのは自由だろ」式の難癖だということである。

さらにここで卓袱台返しの話をするなら、これまで敢えて曖昧に語ってきたが、所謂ニセ科学批判批判という言説の不思議なところは、個々のニセ科学批判の言説を批評するものではなく、「ニセ科学批判という行為の総体」を否定的に語ることに特化した言説だということである。Aの言説やBの言説のここがおかしいという話なのではない、ニセ科学を批判する行為自体を批判しているのであり、つまり、「ニセ科学という問題性の立て方」そのものを否定しているのである。

それは普通想像するように、所謂ニセ科学として括られる現実の領域を価値評価した上でそれを批判するニセ科学批判の言説の在り方がおかしいという話ではなく、ニセ科学として括られる現実の領域の問題性一切を捨象して、ニセ科学という問題性の括り方しか相手にしないという言説の立場である。たとえば現実にどんなインチキな商売が行われていようと、それに無駄なカネを出す人間がどれだけいようと、もっとシリアスな社会的影響があろうとも、その領域の現実の事柄には一切言及しないし問題性として認めないという立場である。

これまでにオレが接し得た範囲の言説を視る限り、現状の所謂ニセ科学批判批判の言説には実効的批評機能がないだけではない。おおむねニセ科学批判批判の語るところというのは、大別して「ニセ科学批判には意義がない」「ニセ科学批判は間違っている」という類のものである。つまり、いずれにせよニセ科学批判の存在を許さないという方向性の言説であって、その目的の為なら手段を選ばない、論旨の不整合や論点のブレを厭わない、議論が低レベルの罵り合いに堕すことを寧ろ望んでいるという窮め附けの合目的的な性格がある。

それが何故不思議かと謂えば、現実に科学を装うことで詐欺的な商法が罷り通っておりその被害者が後を絶たない以上、それを批判的に語ることには公益上の妥当性があるわけだが、この種の言説の存在理由を否定するニセ科学批判批判の言説には、たとえばニセ科学批判の言説に内在する明らかに公益に反する側面の指摘がない限り、何ら公益上の存在意義などないからである。

おそらくニセ科学批判に長年携わっておられる論者には自明のことなのだろうが、ニセ科学批判批判の言説というのは、ニセ科学批判という公益に叶う言説の領域を攻撃する言説として、その攻撃の客観的根拠を自ら明らかにしない言説である。トリビアルな細部に対して科学的な知識に欠ける指摘で論難してくるが、それが反論されるとまた別の細部に対して同様の論難を繰り返す。この無限の繰り返しであるが、何故そのような不正確で不毛な論難を情熱的に繰り返すのか、その行為の妥当性の根拠を決して自ら明らかにしない言説なのである。

こういう言説が何故ネットに存在しているのかと言えば、それがネット言説だからだというのがオレの考えである。たとえばネットの登場以前なら、今現在ニセ科学批判を積極的に展開しておられるブロガー諸氏の努力は、たとえばマスメディアにコミットしている論者以外は、自身の周囲の現実的な関係者への影響力に留まっていたことだろう。

ネットコミュニケーション、就中ブログの登場によって個人の発話の到達範囲が爆発的に拡張されたわけだが、それはつまり、マスコミという上位の検閲機関が介在せず個人が自身の意志に基づいて自由に情報発信出来るようになったということで、そうなるとたしかに公益性の高い言説の活発な交流が可能になり、そのシナジー効果という得難いメリットが得られるが、その半面において、公益性のまったくない言説も同等の発信の権利を持っていることになる。

つまり、ネット上の言説の存在を根拠附けるのは、マスメディアの場合とは違って公益性や第三者視点の存在意義ではなく、発話者個人の私的な権利なのである。環境と経済さえ許せば誰でも平等に発話出来るからネットコミュニケーションがこれだけ活発化しているのであり、その意味で発話者当人以外には誰にとっても無価値な言説も平等な発信の権利を有している

だとすれば、本質的に個々のブロガーは公益性の高い発話を心懸けるべき義務などないということである。理念的な意味で謂っても、ブログや掲示板やSNSは利用者に提供されている通信サービスなのだから、法に抵触しない範囲でどのように利用するかは利用者の自由である。

それらのサービスを、一般人が行使可能なマスへの発信メディアと視るか、ケータイに類似の私的なコミュニケーションツールと視るかは、完全に利用者の自由である。法が禁じているのは著しく公益を損なう行為のみであって、公益を目指すべきだなどとは一言も規定していない。本質的にネットの発話は一種の私的娯楽なのであって、自分の為だけに自由に利己的に行う権利がある。

おそらく、ニセ科学批判批判というのは、単に「気に入らない」という無根拠且つ個人的な理由で行われる利己的な発話なのであり、それはネット言説だから存在の余地があるのであり、それを許す原理が同時にニセ科学批判のネットコミュニケーションを活性化しているのだろう。

それ故に、基本的に所謂「ニセ科学批判批判」と括られる言説の本質とは、ネット上のニセ科学批判言説に対する悪意的な攻撃もしくは拒絶の意志表明という、ただそれだけの意味しかない。何故そんな無意義な言説が成立し得るのかと言えば、ネットコミュニケーションにおいては、法に抵触しない範囲で他者に対する悪意を自由に表現し攻撃を行う権利が万人に保証されているからであり、それを抑制するのは何ら強制力を持たない漠然とした社会倫理に過ぎないからである。

オレの個人的な結論としては、所謂ニセ科学批判批判の言説というのは、悪意や情緒的嫌悪感、そして無論利害関係に基づく反撥等に根を持つ、一種無視出来ない反啓蒙の影響力を具える公益に反する利己的発話で、ニセ科学批判と同一平面上にある並列的な言説の領域ではなく、寧ろニセ科学と同一平面上に領域を占めるニセ科学批判が相手取るべき対象であるように思う。

それは別段、ニセ科学批判批判と問題性を共有して議論すべきだという話ではなく、その逆である。これまで視てきたように、ニセ科学批判批判の核心となる問題性とはニセ科学という問題性の立て方自体を否定もしくは拒絶する意志なのだから、現実の領域との照応関係を根拠にしてそれを前提視するニセ科学批判とは、最初から問題性を共有していない。そもそも噛み合っていない議論なのだし、ニセ科学批判者の大半はすでにそのことに気附いているだろう。

ニセ科学批判の言説はニセ科学という現実の領域を対象化し問題性として据えているわけだが、ニセ科学批判批判の言説というものはニセ科学という問題性との関連において対象化して扱われるのが相応だろうということである。

ニセ科学批判批判がニセ科学という問題性の立て方を認めない以上、ニセ科学批判の側でもニセ科学批判批判の問題性の立て方を認める必要はない。最初からすれ違っている議論なのだし、すれ違っている立場の間でも共有されているべき公的発話の価値規範と言えば、一種の公益性ということになるだろうが、ニセ科学批判批判が何ら公益的妥当性を明示しない以上、そのような言説の立場に誠実に向き合う義理はない。

だとすれば、ニセ科学批判の立場においてニセ科学批判批判に向き合う場合に問題性の核心となるのは、ニセ科学批判批判の言説に伴う影響のニセ科学性だということになるだろうし、ニセ科学という問題性を認めずに否定乃至拒絶するという以上、それはニセ科学批判の立場から言えば、批評的言及の間合いではなく利害が対立する言論闘争の間合いで対峙すべき言説だということになる。

つまり、たとえば水商売ウォッチングを攻撃する水商売関係者の言説と同じ間合いで接すべき言説の立場だということである。たとえばそのような場合、その関係者がニセ科学批判と問題性を共有していないのは明らかで、ニセ科学批判の立場ではその対象のニセ科学性と社会的影響を問題性の核心として視るわけだが、関係者の立場では自身の生業に対する社会的攻撃としてそれを視るわけで、問題性の核心にあるのは自身の利潤追求の権利主張である。

その商品の効用に本当に科学的根拠があるかどうかとか、その商売によってどのような社会的影響が波及していくのかというのは、ぶっちゃけ関係ないわけである。公益を損ねない限り万人に利潤追求の権利が許されている、だから我々は公益を損ねていないし健全な商売をやっていますよ、という主張を為し得ることが問題性の核心であり、実態における科学的根拠の妥当性や社会的影響の如何というのは検証的な課題ではない。そのように公に主張し得ること、そして公の良識に照らしてそのように認められることが最も重要なのであり、その意味では結論ありきの立場であって、実業である以上このような問題性の立て方自体は何処も間違っていない。

問題があるのは、事実において科学的な印象に基づいてアピールされた商品の効用の科学的根拠に明白な疑義があるからであり、その商売に明らかな社会的悪影響や社会的不正義が伴うと視られるからである。天羽優子氏のようにそれを裁判によって明らかにするということは、その理路において必然的な社会闘争のプロセスとなるわけだが、ニセ科学批判批判という言説の立場は、このような次元の現実性に対して一切関心を持たず責任も負わないという立場である。

その意味で、ニセ科学商売が科学的妥当性や社会的悪影響そのものに対して一切関心を持たず、その次元の現実性に対する責任を回避しようと努力するのと同じである。ニセ科学と同様にニセ科学批判批判だって、所謂ニセ科学問題として括られる現実の領域において、科学的妥当性を持たない言説が流布することや社会的不正義が行われることに対して決定的に関心を欠いているのであり、そのアスペクトにおける自身の言説の影響を一切考慮しない言説の立場なのである。

だとすれば、ニセ科学批判の問題性の捉え方においては、ニセ科学もニセ科学批判批判も同一平面上にある対象として扱うのが妥当ではないかと思う。ニセ科学という問題性の立て方を認めずそれと照応する現実性を無視する以上、ニセ科学批判批判には字面の印象とは違って批評的な機能はないのだから、そのニセ科学的な影響力の側面だけがニセ科学批判の射程に重なっているわけである。

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コメント

 丁寧な議論ありがとうございます。後で、この議論を踏まえて私の方でも何か書きたいと思います。
 取り急ぎの連絡としまして、事実に間違いがあるようなので訂正をお願いします。
 文中に、
>天羽優子氏などは何度も告発されているわけで、
とありますが、告発をする側になったことはあってもされたことはまだありません。ウェブがらみで話が法的手続きに進んだのは、次のものです。

1)原告天羽、被告お茶の水大、情報公開訴訟
 企業からのクレームにより大学がウェブサイトの公開停止を決めた経緯をめぐって情報開示請求し、隠された部分が多かったため提訴。ただ、内閣府の結論次第で開示するという状態だったため、口頭弁論開始前に取り下げ和解。
2)被告飛騨の人(個人ですのでお名前伏せます)に対する告訴状を提出。罰金刑が確定。名誉毀損。刑事手続きです。
3)原告天羽、被告飛騨の人(上と同一人)。名誉毀損訴訟(民事)
 相手が出てこなくて不戦勝・
4)原告吉岡英介、被告お茶の水大、独立当事者参加人天羽。
 現在進行中の神戸地裁の事件。名誉毀損。ただしニセ科学は関係なく、原告の商売がマルチであることを揶揄した表現が問題とされた・
5)原告天羽、被告マグローブ株式会社。債務不存在確認等。
 被告の製品のステンレス材料に関する議論について、削除要求があり、権利侵害ではない正当な議論だということを確認するため提訴。来週第一回期日。
6)原告天羽、被告マグローブ株式会社、吉岡英介。名誉毀損等。東京地裁。
 吉岡氏が以前関わっていた磁気活水器に公取の調査が入った時、それを私のさしがねであると思い込んで「水は変わる」という本を自費出版しお茶の水大に送りつけたりウェブでも公開したりしたが、これが名誉毀損文書だった。

 「ニセ科学批判」をしても、案外、それ自体で提訴まではいきません。
 但し、「公開された宣伝内容に対する批判」と「製品に対する批判」は別のもので、実験せずにやってよいのは前者のみであるという区別は常に行っています。

投稿: apj | 2008年1月19日 (土曜日) 午後 04時26分

>>>天羽優子氏などは何度も告発されているわけで、
>>とありますが、告発をする側になったことはあってもされたことはまだありません。

失礼いたしました、完全にオレの認識不足……というか事実確認を怠っていたということですので、言い訳のしようもない軽率な記述でした。とりあえず当該箇所は削除しましたが、社会闘争の次元に降りていくプロセスの理解において一過程見落としていたということですので、そちらのご考察を踏まえて、もう少し踏み込んで考えてみたいと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月19日 (土曜日) 午後 04時53分

 対応ありがとうございます。
 また、私のコメント中の「内閣府の」は、「内閣府の情報公開審査会の」に訂正させてください。

投稿: apj | 2008年1月19日 (土曜日) 午後 05時08分

>apjさん

あらためまして、どうもです。こちらの怠慢から一瞬とはいえ不愉快な想いをさせてしまって申し訳ありませんでした。速攻でツッコミを入れて戴いたので、伝播の影響の少ないタイミングで修正出来て幸いでした。後日この借りは更めて返させて戴きますね。

さて、本文に何かを附け加えるとするなら、おそらく専門家によるニセ科学批判に情熱的に喰い附いてくる非専門家のニセ科学批判批判論者の裏面の感情レベルでは、医療不信と似たような専門家不信の心性があるのかな、というのがずっと脳裏に引っ懸かっているんですが、この領域について具体的な実態を識っているわけではないので下手なことは書けないし、ちゃんと論じるには大幅な逸脱が避けられないということで、本文には盛り込まないことにしました。

推測ですが、ニセ科学批判批判の感情的なレベルの動機というのは、poohさんのところで謂われている「イノベーター」のような知的活動の専従者が、専門家の間でのみ意味共有されている議論を戦わせていることを漠然と不愉快に感じる、自分にわからないことなどは信じられないという心性もあるのかな、と。多分、ニセ科学批判の論壇を、一般的に日本医師会がそう思われているような閉じた圧力団体のイメージとして捉えているんではないですかね。

それから、論宅さんのエントリーなんかでは執拗に「あの一味」視する見方をしていますけれど、これをもう少し敷衍すると、多分ニセ科学批判者の間では活発な議論はあるけれど「喧嘩」がないというのが、一般的なネット論者には理解出来ないというところがあるんじゃないでしょうか。議論と喧嘩は全然違うわけで、利害対立の闘争の次元に降りてこないと「喧嘩」をしても意味がないんですが、そこのところネットのカオスの世界では議論も喧嘩も一緒くたな部分があるので、喧嘩しない奴らは仲良しこよしの合従連衡という雑駁な見方があるのかもしれませんね。

昔の仕事でクライアントから「あんたらは口角泡を飛ばしてつかみ合いするような議論をしないから信じられない」と言われたことがあるんですが(笑)、一般的には真剣な議論は必ず感情的な対立に発展するものだという見方があるのかもしれません。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月20日 (日曜日) 午前 04時00分

 抜けている部分を埋めることになるかどうかはわかりませんが、私の認識を書いてみました。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7506

投稿: apj | 2008年1月21日 (月曜日) 午前 01時30分

>apj さん

そちらでお返事させて戴こうかともと思ったのですが、長くなってしまいましたのでとりあえずこちらで。

怠慢な認識不足で今一歩詰めの甘い論考になってしまいましたが、apj さんの補足でおおむね足りている議論になるかな、という印象です。社会闘争に触れたくだりで明確化したかったことというのは、闘争一般には善悪正邪というわかりやすい対立軸だけではなく、法的に平等に権利を保証された二者間における利害衝突という主軸があって、応報という観点だけではなく相互の権利間の調停という視座があるということでした。

たとえばニセ科学批判という言説があるとしたら、ニセ科学と名指された企業の側は明らかに商売上差し障るわけで、それがニセ科学であるかどうかという観点を捨象した場合、これはどちらが善玉でどちらが悪玉かを決めるという問題ではないということですね。

ニセ科学と名指された商売とニセ科学批判のそれぞれの立場は、客観的にイーブンで議論の余地を残した問題ですから、議論の余地のある問題を前提視して当不当を判断するわけにはいきません。勿論科学者にはニセ科学言説の科学的妥当性を検証する力があるわけですが、社会的に視た場合、科学者の言説の妥当性は実際の発話で正当性を表明する以前に確定していることではないわけです。勿論ニセ科学的商売には明確な社会悪という側面はあるわけですが、ニセ科学批判の個々の言説の正当性というのは絶対的に前提視するわけにはいかない事柄で、企業の側が正しくて批判のほうが誤っている可能性を常に残しているわけですね。

その場合、ニセ科学の不当を暴くという悪者退治の観点だけではなく、或る特定のネット言説と或る特定の企業活動の利害が対立しているだけ、という客観的に公平な観点は常に存在するわけで、そのすべての成員が公平且つ平等な権利を保障されている社会においては、こっちのほうが基本的な対立軸であるわけです。ニセ科学批判には公益があるというニセ科学批判主観の理由で自由に無責任に商売を邪魔されたのでは、企業の側もたまったものではないわけです。

ニセ科学批判の正当性というのは、飽くまで「ニセ科学」という問題性の切り取り方における相対的なそれでしかないわけですから、たとえばニセ科学批判批判の視座においては絶対正義でも何でもないわけですね。一方で、社会の成員である以上、ニセ科学だろうがニセ科学批判だろうがニセ科学批判批判だろうが、個別の立場の如何に関わらずひとしなみに遵わざるを得ない優先的な規範として、社会的良識という大枠の規範があるわけです。

そして、批判をやめさせたいという主張と批判を行う権利の主張のどちらが社会的良識に照らして妥当かというのは、個々の事例毎に視ていく必要があるわけで、その為に裁判があるわけです。ニセ科学という悪者を批判する言説なら何でも無前提で正義であるというわけではない、という言い方になりますでしょうか。

apj さんが仰るように、商売に差し障るというのは当事者にしてみれば死活問題ですから、相手の視点で言えば「言いたいことを自由に言っただけ」で済まされては困るわけですね。その批判をやめさせる現実的な手段として法廷闘争があるなら、原理的に言ってニセ科学の側が提訴に踏み切る可能性が常にあるわけで、特定企業を対象としたニセ科学批判には、利害対立という観点において公平に法廷闘争を戦わざるを得ない可能性が常にあるわけです。

ここは観念的な考察ですから実態とかけ離れた部分があったわけで、現実問題としては一〇〇ゼロの話ではないですね、そもそも「普通の弁護士であれば提訴するのが難しい内容」であれば訴訟自体が成立しません。しかし、一方で「弁護士は普通はこんなもので提訴はしないと言う」訴訟も、訴訟を維持して結果を出すことそれ自体が目的でなければ、門前払いを喰うとしても無理矢理起こすことが出来るわけで、提訴それ自体が抑止力として働く効果を狙う場合もあります。だとすれば、可能性として常に存在する法廷闘争を戦うわけにはいかない現実的な事情があるならば、特定企業の活動に差し障るニセ科学批判の言説を安易に行ってはいけない、そういう理路としてapj さんのご意見を解釈しました。

今回のエントリーを拝見して、訴訟に発展した場合に正当性を持つ批判のガイドラインを整備されているということを識り、こうした認識に対する対応をすでに考慮しておられることが更めて理解出来ました。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月21日 (月曜日) 午前 02時44分

こんにちは、黒猫亭さん。

少し「紛らわしさの罪」といった概念を補足させてください。「人の名誉を毀損してはならない」という原則が刑法第230条にあり、「公共の利益のために事実を摘示した場合」という例外が刑法第230条の2にあるわけです。

そして、判例規範として「事実の摘示」に関しては「真実と見なすに相当する事由」がある場合も含まれる事が示されています。これが、これから私が述べようとする「紛らわしさの罪」という事を法解釈的に明らかにした部分です。

我々は「悪いことと紛らわしい行為」もまた嫌悪されるという倫理規範の中で生きています。私は悪徳商法批判の中で、「もし、相手が悪徳商法でなかったら、相手に悪いことをしてしまう」と悩まれる家庭の主婦の方に「皆さんはスーパーで買い物をされるときでも、きちんとスーパーのカゴに商品を入れてレジまで運ばれていて、私物の入っている自分のバッグに商品を入れて運んだりはされないでしょ」と説明し、「もし自分のバッグに商品を入れてレジに運んだ人が、『スーパーの保安員や周りの人が自分を万引きするのではないかと監視した、失礼だ』と怒っておられたときに、『紛らわしいことをするからだ』と思われたりするのではないですか?」と問いかけたりしました。

お金を払って商品を買うという立場の人間でさえ、「万引きの様な悪いことする人間と紛らわしく思われたくない」と気を配るわけです。ましてや、商品やサービスを提供する立場の人間は、買うお客以上に「自分は悪徳な事業者ではない」と「悪徳な事業者と紛らわしく思われること」に対して距離を置く必要があるのでは無いでしょうか?

そういう意味では、たとえば、何らかの形できちんとした学術論文などの根拠まで手繰る事のできない様な科学的イメージ喚起のある広告を行うと言うことは、消費者がスーパーで「万引きと紛らわしい商品の取り扱いをする」という事に等しいか、それ以上の不備ではないかと思うわけです。本来、ニセ科学批判というのはこういう倫理規範の下で考えるべきことだろうと考えています。

投稿: 技術開発者 | 2008年1月21日 (月曜日) 午後 05時13分

>技術開発者さん

どうも、いらっしゃいませ。もとより出発点はオレの観念論ですから、具体的な注釈や補足、修整やご批判等は歓迎するところです。何カ所か影響力の大きそうなところでご紹介戴いているようですから、今更「オレの私見です」は通りませんので、流布しては拙い誤解の余地があるのであればご遠慮なくご指摘をお願いします。

>>少し「紛らわしさの罪」といった概念を補足させてください。

念の為、apj さんが挙げられたニセ科学批判のガイドラインを、こちらでも再掲させて戴きます。

・製品そのものに対する批判は試験をしてからでないとやってはいけない。
・公開された製品宣伝の内容については、誰が批判をしてもかまわない。∵一旦公表された表現内容については誰がどう批判しても自由である。
・批判の内容が、現行の科学に照らして妥当でなければならない。
・意見、論評の範囲を逸脱してはいけない。

このガイドラインを視るに、ニセ科学批判という言説が技術開発者さんの仰る「紛らわしさの罪」に対応するものであることがわかりますね。

たしか環境講座の安井先生だと思いますが、メジャーなメーカー製の立派な製品でありながらニセ科学的タームで宣伝したものを「製品がこれだけ高性能なのだから、ニセ科学などに頼らずそこを訴求したほうがよっぽど効果的だったのではないか」というようなことを仰っていましたが、製品そのものについては実際に現物を試験してみないと批判出来ないということですし、逆に製品に何ら瑕瑾がなくてもニセ科学的広告はそれ単独でダメだという話になりますね。

それを法的に根拠附ける説明が、技術開発者さんの仰る「紛らわしさの罪」という関係になるのだろうと思います。apj さんのところで仰っていた「不実証広告」という概念に基づいて「製品ではなく宣伝における」科学のイメージを借りた詐術を「誰でも自由に批判する」のがニセ科学批判の言説であり、「名誉毀損」というような利害対立の次元でその批判の正当性を保証する根拠が「公共の利益のための事実の摘示」で、その為には「批判の内容が、現行の科学に照らして妥当でなければならない」という関係になりますでしょうか。

そこでapj さんのところのエントリーのタイトルである「訴訟を嫌がらないこと」に繋がるということになりますかね。いずれにせよ、潜在的に訴訟に発展する可能性を常に有しているわけですが、勿論、実際の訴訟は無駄な公費を遣わない為に訴訟が成立しないような強引な提訴を門前払いするわけだし、無理矢理提訴してもまず負けることはないから「訴えられる」ということを過剰に恐れる必要はない。

そして、オレが本文で語ったようなことは、健全な社会的良識を象徴する裁判という局面(その前段階に当たる法律家との相談も含みますが)において妥当な形で説明されるまで、その間の理路は無前提で成立しているわけではないのではないか、というような意味のお話でした。

たとえばapj さんのガイドラインから外れたニセ科学批判というものも当然在り得るわけで、技術開発者さんが解説された法的根拠がこのガイドラインで批判の具体に降りていくわけですが、「そういう批判内容」になっているかいないかで話が違ってくると思うんですね。たとえば「ニセ科学と紛らわしい本物の科学に基づいた製品」も在り得るわけで、これをイメージ的にニセ科学と短絡して批判するという事態も想定可能だと思うんですね。勿論、本職の科学者ならこの種の言説はスルーするわけですが、ニセ科学問題とはまったく逆の事態も想定可能なわけです。

その場合、真っ当に商売をしている事業者が無責任な批判で損害を被る可能性もあるわけですね。技術開発者さんの解説によると、こういう場合には「『悪徳な事業者と紛らわしく思われること』に対して距離を置く必要」を課せられた事業者の側の責任のほうが重いわけですが、それはつまり事業者のほうが紛らわしいことをし放題なら相対的に消費者のほうが弱い立場に置かれるからで、事業者と消費者が力関係の上で公平である為の条件附けだと思います。

その意味で、理念的には法律は事業者と消費者を公平に扱っているはずで、力の強い側や不当な行為によって得をしやすい側により重い義務を負わせることで調整を図っているということだと思います。そのような意味で「利害対立に基づく社会闘争の次元では互いにイーブンな立場だ」というようなお話をさせて戴いたわけです。これはつまり、この種の批判言論に附き物の「強者が相手なら何をしても好いということではない」という議論を踏まえた部分です。批判に対する批判を相手取る記事ですから、そこは押さえておく必要があるだろうと考えたわけですね。

事業者の側で不実証広告を打っているというのであれば、また妥当な手法で為された批判であれば、その批判は正当ということになりますが、そのような事実がないのに無根拠な批判を加えたとか粗雑なやり方で為された批判であれば、不当な批判だということになる。事業者が批判者を訴えるという局面になれば、実態としてはその両様の可能性があるわけで、裁判というのは実態がそのいずれであるかを問うものなのだから裁判所はこの両者を利害の対立する公平な二者として扱うはずである、そういう意味でした。

ただそこで、apj さんから「脅されることはあっても実際に提訴されたことはまだ一度もない」というお話を伺い、その為のガイドラインを提示して戴いたわけで、実践の次元ではまず訴訟に至らないという注釈を戴いたわけですね。さらにそこへ技術開発者さんから法的な側面に対する解説を戴いたという流れになるわけで、本文の理路においては脇道ではあるのですが、観念論の曖昧さが誤解を招きかねない部分に対して適切な修正と補足を戴いたものと解釈しています。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月21日 (月曜日) 午後 08時59分

こんにちは、黒猫亭さん。

>その場合、真っ当に商売をしている事業者が無責任な批判で損害を被る可能性もあるわけですね。技術開発者さんの解説によると、こういう場合には「『悪徳な事業者と紛らわしく思われること』に対して距離を置く必要」を課せられた事業者の側の責任のほうが重いわけですが、それはつまり事業者のほうが紛らわしいことをし放題なら相対的に消費者のほうが弱い立場に置かれるからで、事業者と消費者が力関係の上で公平である為の条件附けだと思います。

というか、「真っ当」という事の意味をどのように捉えるかだろうと思います。万引きをしない消費者を「真っ当」と捉えて、「万引きしなければ、万引きと紛らわしいことをしても真っ当な消費者」とするなら、実際に万引きをする者を見つけ出すのは難しくなります。「真っ当な消費者は、万引きしないだけでなく、万引きと紛らわしい行為もしない」とおき、万引きと紛らわしい行為をしてしまった場合に、「自分が紛らわしい事をしたから疑われた」と疑われたことの責めを自分に帰するような部分も含めて「真っ当」と考えるべきではないかと思うわけです。少なくとも私の周りで見かける消費者はこういう意味での「真っ当さ」を持っているように思っています。

消費者と事業者がイーブンという意味で考えるなら、当然、事業者の「真っ当さ」にも、「不実証広告をしない」だけではなくて、「不実証広告と紛らわしい広告をしない」も含まれ、「不実証広告と紛らわしい広告をして悪徳商法と間違われたときはその責めを自分に帰する」部分も含めて「真っ当」ではないかと思うわけです。

そう考えると、ニセ科学批判により「真っ当な事業者」を誤爆してしまう可能性というのは、かなり低いものではないかと考えてしまうわけです。多くの人が「真っ当さ」の線引きを「不実証広告をしない」においてしまうことで、いたずらに誤爆を恐れすぎている気がするので説明してみました。

投稿: 技術開発者 | 2008年1月22日 (火曜日) 午前 05時10分

>技術開発者さん

例によって少し長いですが、お附き合い戴ければ幸いです。

つまり、社会的な真っ当さの基準においては「誤解を招く行為を行ったら誤解されても仕方がない」ということですかね。事業者であれ消費者であれ、誤解されない為には誤解を招く行為を「積極的に避ける」義務があるのだし、誤解を招く行為をした場合には誤解した側の「責任は問われない」、そういうところでしょうか。

ニセ科学批判が相手取る領域の問題性は、不実証広告よりもう少し広く「不実証広告と紛らわしい広告」も含まれ、ニセ科学広告とニセ科学批判の夫々の利害が対立した局面においては、ニセ科学批判側はその根拠としてニセ科学広告の「紛らわしさ」を示すだけで十分であるということになりますかね。さらに、事業者側の責任がより重く設定されているのは、「自身の選択においてその立場を占める者」だからである、技術開発者さんの一連のご説明を纏めればこのようなものになるとしたら、素人なりにその間の理路は理解出来ます。

ただ、この観点における技術開発者さんの修整は注釈として受け容れるとして、やはりそれはこの局面における事業者側の不利な部分を公益という観点において説明する特定の視点ではあると思うのですよ。オレが押さえておきたいのは、たとえばapj さんが新エントリーで仰った、

>>民事訴訟の目的は正義の実現ではなく、私的紛争の解決である。その途中経過として真実が明らかになったり、結果として正しい方が勝つこともあるが、それは、たまたま「正しい方」が「真実を立証する活動をした」ことが認められたからに過ぎない。

という「たまたま」という部分なんですね。それに続く手札論というのは公益の観点というより有利に裁判を運ぶ為の具体論だと思うのですね。「裁判所は積極的に真実を明らかにすることはない。真実を明らかにするのは、争う当事者の責任である。主張がいくら正しくても、立証が不十分なら敗訴する」というこの部分は、つまり裁判所が事業者と批判者の間の対立を同等の立場に立つ二者間の私的紛争として認識しているということだと思うのですが、その次元の事実性を記述することが目的です。

その部分が原則論であって、「手札」というのは実態論だと思いますが、公益性という観点で「手札」を読み解くのは、紛争当事者の一方の立場の観点に立った見方だと思うんですね。オレが本文で押さえておきたかったのは、民事訴訟という具体的な闘争の次元に降りた場合、それは原則として利害が対立する二者間の私的闘争として視る見方において裁定されるという事柄であって、ニセ科学批判それ自体の法的な側面における正当性の根拠や有利性の程度ではないんですね。

技術開発者さんの注釈は注釈として、それを織り込むならば、事業者側が「不実証広告と紛らわしい広告を打っているわけではない」「ウチは何ら愧るところのない真っ当な商売をしている」と主張する局面までを想定して、対等な二者間の利害対立に還元し得る次元というものを押さえておく必要があるだろう、そういう目的で書いたわけです。

そうでなければ、やはり「正義は勝つ」「正義『だから』勝つ」「正義『だから』どのように行っても好い」式の誤解を招くのではないか、そういう目的性において押さえておくべき筋道だと思ったわけです。これまで技術開発者さんの言説を追ってこられた方ならそのような誤解はないわけですが、そのような読み手だけに向けられた言説であればそもそも技術開発者さんが補足される必要もないわけで、やはりその種の誤解に対する手当も必要ではないかと思います。

またapj さんがご自分のブログでオレのコメントを修整されたご意見が、

>>法的救済の門戸を閉ざさないため、提訴するための敷居は相当低いし、門前払いされることは現実には滅多にない。

ということであれば、要するにapj さんがこれまで訴えられなかったのは、訴えることの利益よりも不利益が上回ったというそれだけの理由だったということですね。

おおむねニセ科学商売というのは、不実証広告かそれと紛らわしい広告を打っているものなので、批判者の側が不利になる事例は現実にはそれほどないということなのでしょうが、それはそれとして、民事訴訟というのは、たとえばそれが真っ当な商売ではないという根拠に基づいて行われた批判が名誉毀損で訴えられたと想定した場合、その批判が法的な基準に照らして真っ当であるかないかを両者に「公平に」裁定するものであるわけでしょう。

裁判の場面でたとえば批判側が勝つとしたら、それはたとえば個別の「不実証広告と紛らわしい広告」に対する批判の真っ当さを、裁判の過程を通じて批判者側が立証出来たからであって、批判する行為自体が無前提で真っ当だからではないでしょう。つまり、技術開発者さんの仰る「紛らわしさの罪」というものがあるとしても、個別の広告がそのようなものであるかどうかというのは、裁判の場面では前提視されているわけではないし、そのような前提に立って争われるものではないのではないか、ということが言いたいわけです。

apj さんが「正義が勝つというフレーズは民事訴訟にはとことんそぐわない」と仰ったようなアスペクトの問題ですね。そこをまず押さえておかないと、たとえば「負ける可能性は『低い』」「それは裁判が『真っ当さ』を基準に裁定されるからだ」という理路が、容易く「負ける可能性は『ない』」「それは正しいからだ」にスライドして受け取られる危険があると思うのですね。

そこを押さえておかないと、ニセ科学批判は正義なんだから事業者のことはどういうふうに言っても好いんだとか、ニセ科学批判は正義なんだから裁判になっても勝つんだという誤解を招きかねない。おおむねそれで不都合は出ないとしても、それはやはり誤解には違いないと思うんですよ。

勝つことが多い、負けることが少ない、それと必ず勝つ、絶対に負けないというのは違うことですが、窮めて紛らわしい。何故勝ったり負けたりするのかと言えば、原理的な部分でニセ科学と名指された事業者もニセ科学を批判する言論者も民事訴訟の局面では利害の対立する対等な二者として扱われるからだ、こういう理路は押さえておくべきなのではないかと思うわけです。

おそらく技術開発者さんの動機において補足を行うとすれば「ニセ科学批判によって蒙る不利益」が過剰に見積もられ、ニセ科学的広告に対する一般人の追及が萎縮するような誤解を防ぐ目的においてでしょうが、ネット言説を扱った本論において、オレが補足したいと思っているのは、「行為の『真っ当さ』を名分とした非理の可能性」もしくは「『真っ当な』行為を行う側の倫理」についてなんですね。これはどんな分野であれ、ネット言説である限り附き纏う問題だと思うんですね。

たとえばapj さんが挙げられたガイドラインですが、識っていれば遵守可能な条項もありますが、一般人には少し判断の難しいものもある。「批判の内容が、現行の科学に照らして妥当でなければならない」という部分などは、自身が科学者であればその常識知に基づく判断が即ち「現行の科学に照らして妥当」であるという確信が持てますが、そうでない場合は、自身の常識的合理性が必ずしも科学的妥当性を保証してくれるというわけではない。そこに当然自己責任に基づくリスク要素はあるわけです。

また、「意見、論評の範囲を逸脱してはいけない」というのは一種言論のテクニカルな側面で、ナイーブな論者がついついその範疇を逸脱する局面もあるだろう。たとえばそれが法廷闘争の次元に降りた時点では、本職の法律家の助言も受けられますから過剰に恐れる必要はないと言えますが、当たり前のこととして、批評の言説は法廷闘争に先立つその原因であって法廷闘争それ自体ではないわけです。言ってしまってから、係争に発展してから本職のサポートを受けても、それは事後対応ということになるわけです。

たとえば今現在係争中の当事者であるapj さんのご意見と、技術開発者さんのご説明の間には、矛盾はないが欠けた輪があると感じられます。それやこれやを考え併せると、ニセ科学を批判するという公益に適うネット言説においてもその言説の「真っ当さ」を過信することなく、自身の言説の研鑽や情報のアップデートの努力が必要だろう、本文で書きたかったのはそういう理路になります。

そのような流れに沿った形で何かご助言を戴けると有り難いのですが。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月22日 (火曜日) 午後 11時06分

はじめましてですにゃー
自然科学の立場から「××批判」を行なう場合、それが科学主義的なものに陥ることはあるわけですにゃ
(例えば最近のドーキンスの宗教批判)
まあ、「ニセ科学」の場合は向こうのほうから科学を僭称しているのであって、もともと科学の土俵で争うべき問題であり、「ニセ科学批判」を科学主義と批判しても意味はにゃーわけですが。
とはいえ、「ニセ科学批判」の立場のヒトにはどうも科学主義的な世界観のお方もけっこういるのではにゃーかとも感じたりしますにゃ。最近のドーキンスに共感しちゃっているヒトも多いみたいだし。

科学主義は積極的に批判すべき「イズム」のひとつであると思うし、自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまうことは理解できなくもにゃーのです。それは確かに被害妄想かもしれにゃーけど、妄想にも三分の理というか・・・・(三分は多すぎかな)。

僕自身は文系に偏った書痴であるので、科学主義警戒の感覚だけはなんかわかるのですにゃ。まあもちろん、社会学を標榜して汚物言論を垂れ流すどっかの馬鹿のような存在が一番迷惑であることにはかわりにゃーのですが。

投稿: 地下に眠るM | 2008年1月23日 (水曜日) 午後 04時15分

地下に眠るMさん、
 科学主義を批判するのはいくらでもやってかまわないのだけど、ニセ科学批判をしている時にそれを持ち出すのは明らかに間違いというか誤爆ですよね。
 科学主義を警戒しているというのが、誤爆を正当化する理由にはならないと思いますけど。

 仮に、ドーキンスの宗教批判に共感している人が居たとして、その人が、明らかな科学の詐称を批判している場合に、ドーキンスに共感しているからという理由でその批判に異議を唱えるのあはおかしいですよね。その人が、科学主義批判として論じなければならない内容を主張した場合に批判するというのならわかりますが。

投稿: apj | 2008年1月23日 (水曜日) 午後 10時19分

>地下に眠るMさん

はじめまして。オレも理系の基礎訓練を放棄した文系のなり損ないですから、そういう気持ちはわからなくもないですけどね。ただ、科学主義と宗教批判とニセ科学批判は完全に分けて考えるべき事柄でしょう。ドーキンスが宗教批判をしたのは彼の個人的な心性の問題であって、科学者であることと必然的な関係にあるわけではないし、ニセ科学批判を行っている人間の中にドーキンスの批判にシンパシーを感じている人間がいるとしても、それは科学者であることとも、ニセ科学を批判していることとも必然的な関係があるわけではない。

自ら「文系に偏った書痴」を自認される以上、人間には多面的な領域があるということはご理解戴けるでしょうし、その多面的要素群はすべて必然的な関係によって結び附くわけでもないということもご理解戴けますよね。余所で一度語ったことですが、たとえば社会的に偉大な業績を挙げた偉人の生涯を振り返って、彼の生涯のすべてをその業績と関係附けて成功要因として語る、たとえば「戦国武将に視る○○術」タイプの物事の見方が単なる牽強付会の物語に過ぎないこともおわかり戴けるはずです。

つまり、人間というのは統合的に整合附けて解釈するわけにいかない非常に多義的で断絶した内面を抱える存在であるということで、こういう人間観は文系の得意領域ではないかと思いますので、その伝で言うとニセ科学批判者の中にドーキンスの宗教批判にシンパシーを感じる人がもしいたとしても、それを以てニセ科学批判一般を語ることには無理があるのではないかと思います。以前のエントリーで警官を引き合いに語ったことと類縁の話ですね。

また、

>>とはいえ、「ニセ科学批判」の立場のヒトにはどうも科学主義的な世界観のお方もけっこういるのではにゃーかとも感じたりしますにゃ。最近のドーキンスに共感しちゃっているヒトも多いみたいだし。

というような括り方は、本来個別の論者毎に「科学主義的な世界観の持ち主であるかどうか」ということを視ていくべき事柄であって、個人名を挙げずにそのように十把一絡げに括るのは流石にどうかという気がしますね。

こういう言い方をすると、たとえば自分は科学主義的な世界観なんか持っていないという方が不満を表明しても「別にあなたのことを言ったわけではないですよ」と幾らでも言い抜けが利きます。ニセ科学批判者集会でも開いて全員に聞いて回るしか反論しようがない言い方で特定の言説を語る人間の傾向一般を決め附けるのは、文系・理系に関係なく不公平な言い方なのではないでしょうか。

>apjさん

とは言うものの、地下に眠るMさんが語っておられるのは、おそらく「感じ方」の問題ではあるのでしょう。ニセ科学批判者を十把一絡げに科学主義者と決め附けることとは別問題として、彼が仰っている、

>>自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまうこと

という「感じ方」は一面の真理を突いているとも思うのですね。おそらく科学者の間に科学主義的な心性が嘗て風靡したことは歴史的な事実なのかもしれませんが、今現在の科学者一般は、そこまで単純に科学を絶対視してはいないでしょう。にも関わらず、根強くそのような偏見がイッパンタイシューの間に蔓延っているわけで、その原因はまず科学者を視る周囲の感じ方に求められると思います。

科学者一般に「科学主義」を視てしまう非専門家の心性の根底には、自身が習熟していない自然科学的知識の専門家に対する苦手意識のようなものがあって、「自分には抗弁出来ない相手が何かを批判すること」に対する反撥が情緒的な動機となっているのではないかと想像します。

何故自然科学者だけが、というと、つまり所謂文系人間というのは「多様な価値観」式の考え方が好きなんですね。某所で理系の基礎訓練の話なんかしてますが、選択の余地なくやらねばならないことというのが、割と「文系人間」はイヤなんですよ。それと同時に「正しいことが客観的に決まっている」というのも気に入らない。

割合普通の人間が考えがちなのは、「それをやるためにこれをやる」ではなく「それが出来ないからこれをやる」という代償的な考え方で、そんな自身の在り方を正当化する為には、「出来なかったこと」と「替わりにやったこと」が等価でなければならないわけです。自分は理系の教科は苦手だが、文芸の解釈には秀でているとか、そういう代償行為が価値的に等価でなければ不公平だと感じる感じ方があるわけです。

その場合、「あなたの言うことは正しいかもしれないが私の言うことも正しい」という相対主義や多様な価値観という考え方は至極重宝で、何が正しいかは人それぞれという考え方のほうが角が立たないし自分のプライドも満足するわけですね。それなのに、自然科学の考え方は、「私の言うことが正しくてあなたの言うことは間違っている」と決定し得る規範なわけで、これがとにかく気に入らないのだし、その規範に習熟していないことが自身の絶対的ハンディとして意識されるわけですね。

それはもう、自然科学的な物の考え方に理解のない人が「科学主義」だの「科学を絶対視している」だのと言い出すことの、最終的な理由というのはそれだと断言しても差し支えないでしょう。「正しいことを決める」ということに、理屈抜きに感情的にリアクションする人間が自然科学を攻撃するわけで、「オレが、あたしが賛成したわけでもないのに勝手に決めるんじゃない」というのが心性の根底にあるわけです。

何故なら、理系の基礎訓練に挫折した人間は、多くの人々が共有する正しさの決定の営みに参加出来ないというルサンチマンを抱えているからで、これは完全に不合理なルサンチマンでしかなくて、それが不満ならその営みに参加出来るように努力すれば好かったんじゃねーの?でオシマイの話ではあります。しかし、そういう不合理な心性が根っこにあることを理解しないと、不合理なニセ科学批判批判の根底にある心性というのはわからないんだと思います。

で、ニセ科学批判という言説の在り方が何故正当化されるのかと言えば、技術開発者さんが仰ったように社会的公益や真っ当さというものが根拠にあるからですが、それはつまりこういう不合理な心性を抱える多くの人々をも含めた「社会」を前提とした考え方なのですから、「不合理だ」と切り捨ててしまって好いものでもないと思うんですよ。

オレとかpoohさんが、「ニセ科学の問題はコモンセンスの問題でもある」と言う場合には、そういう人間の心性の不合理さというものが主要な問題性として念頭にあるんではないかと思う次第です。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 12時06分

おひさですにゃ>apj
いつぞやはこちらのつけたインネンに対処くださり、お疲れさまでしたにゃ。あのあと、あの権力うんぬんネタを取り上げていてくれたみたいなんだけど、ずいぶんあとになって気づきましたにゃ。ごめんね。

さて
>科学主義を批判するのはいくらでもやってかまわないのだけど、ニセ科学批判をしている時にそれを持ち出すのは明らかに間違いというか誤爆ですよね。

ソノトオリですにゃー。

>科学主義を警戒しているというのが、誤爆を正当化する理由にはならないと思いますけど。

正当化しているつもりはまったくありませんにゃー。

ちゅうか、「ニセ科学批判【非難】」をするお歴々って、ニセ科学は実は典型的な科学主義であることを理解してにゃーお方が多いでしょ? ニセ科学の多くは価値判断に、(詐称された)自然科学を結びつけているわけでしてにゃ。

>仮に、ドーキンスの宗教批判に共感している人が居たとして、その人が、明らかな科学の詐称を批判している場合に、ドーキンスに共感しているからという理由でその批判に異議を唱えるのあはおかしいですよね。

ニセ科学を科学主義の奇形的かつ典型的表現と見なした場合、科学主義者によるニセ科学批判は、科学主義者同士の内ゲバにすぎにゃーという解釈「も」可能になるんでにゃーですか?

誤解して欲しくにゃーのですが、ニセ科学批判はもっともっと広範になされてしかるべきだと思っているし、「ガッカイ」とやらがそうした啓蒙活動にしかるべき敬意を払ってにゃーように門外漢からは見えることもなんとかしてほしいと考えていますにゃ。
そして
僕がニセ科学を嫌いなのは、ニセ科学が科学主義だからでしょうにゃ。そして、ニセ科学を批判する声の中に本来ならば同じ穴のムジナである科学主義者の声が混じるのがにゃんとも気持ちワリイのですにゃ。そうした違和感の表明以上のものではとりあえずはにゃーです。

そして、科学が権力でなければ、科学主義という「イズム」は生じてにゃーのだろうとも付け加えておきますにゃ。

投稿: 地下に眠るM | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 12時20分

>黒猫亭(僕は誰でも呼び捨てなので、僕も同じように扱ってくださいにゃ)

>間には多面的な領域があるということはご理解戴けるでしょうし、その多面的要素群はすべて必然的な関係によって結び附くわけでもないということもご理解戴けますよね。

承知。ニンゲンの心理や行動にはパラメータが多すぎるし、しかも階層構造をなしておりますよにゃ。

>ニセ科学批判者の中にドーキンスの宗教批判にシンパシーを感じる人がもしいたとしても、それを以てニセ科学批判一般を語ることには無理があるのではないかと思います。以前のエントリーで警官を引き合いに語ったことと類縁の話ですね。

「警官一般の信頼性」に着目するのもアリなんではにゃーですか?
もちろん、部分的傾向と全体の傾向の区別は必要ですけれどにゃ。

>本来個別の論者毎に「科学主義的な世界観の持ち主であるかどうか」ということを視ていくべき事柄であって、個人名を挙げずにそのように十把一絡げに括るのは流石にどうかという気がしますね。

ドーキンスの著書とその反応については
http://jbbs.livedoor.jp/study/5329/
上記の「神と科学は共存できるか」というスレで議論しているのが具体例でもあるし、またアマゾンなどにアップされているドーキンスの「神は妄想である」の書評なども具体例になりえるでしょうにゃ。

あと
>>自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまう
のは、自然科学が権力だからではにゃーでしょうか? 文系の側の自然科学に対するルサンチマンは当然あるのだけれど、それだけで説明することはどんなもんでしょうにゃー?

投稿: 地下に眠るM | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 12時47分

黒猫亭さん、

>某所で理系の基礎訓練の話なんかしてますが、選択の余地なくやらねばならないことというのが、割と「文系人間」はイヤなんですよ。それと同時に「正しいことが客観的に決まっている」というのも気に入らない。

 私なんざ、自分で訴訟を始めた結果として、毎日法律の教科書と格闘する日々が続いていていまして。まさに、文系科目を選択の余地無くやる羽目になってるわけでして……。
 で、勉強してみると結構がっちり体系ができてるんですよねぇ。確かに、教科書を読んでみたら判例通説多数説有力説少数説と並んでいたりするわけで、自然科学の教科書じゃこんなことあり得ねぇ一体どんな世界じゃこれは、と最初はかなりカルチャーショックを受けたものでしたが、最近じゃ慣れました。何て言うか、アナログな考え方に。これはこれで人類の生活の知恵の体系化だなあと思ったりしながらやってます。

 自然科学は、内容がただ一通りに収斂するように作られるので、単なる表現の違いくらいしかなく、意味が違うということになるとそれは既に新しい概念の提案になっていたりします。説が並列するときは、実験によってテストされるまでの一時的な状態であるか、別の方法で内容が同等であることが後から証明されるか、どっちかですよね。

 それでも、「文系人間」が「正しいことが客観的に決まっているのが嫌」、というのなら、理系に居る人間としてはその「文系人間」に向かって「贅沢抜かすな」としか言いようがないです。自然科学が相手にしてるのは自然現象だけで、その場合は客観的に決まるようなやり方で体系化する。でも、人間の価値観を相手にするときはいろいろある、で良いわけですよね。人相手の話か自然現象相手の話かで方法論が違うというだけのことですし、対象によって方法論を器用に使い分けるなんてのはむしろ文系のヒトが得意とするところのはずだと思うんですけど。

 ところで、黒猫亭さんは、別の所で書いておられた内容から読み取るに、文系の人ですよね。私が最初、黒猫亭さんの書かれたものを見たとき、この言葉の使い方は理系の人間にはできない、私はこれに到達するような訓練は全く積んでいない、と思いました。自然現象やそれに関した概念を言葉にしてあらわしていく時のやり方と、人間を対象にして言葉を積み重ねて論じていくときのやり方は、おそらく相当違うんですよ。


地下に眠るMさん、

>自然科学が権力だからではにゃーでしょうか?

 私がいろいろ見た中で一番ピンと来ないのがこの見方です。
どう考えても権力なんかになりようがないものが、どうして権力だと言われるのかがさっぱりわからない。

 だって、自然現象をどうやって理解するかという方法論とそれによって膨大な積み重ねをやっただけに過ぎなくて、それで何でもわかったかというとちっともそんなことはなくて、「それなり」でしかないわけで。


>>自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまうこと

 これは、多分、自然科学が不寛容だからだと思います。「自然現象を相手にする、定量性や再現性を求める方法で」と限定すると、自然科学はその知識の積み重ね方や思考の方法において、非常に不寛容な面がありますので。もちろん、ブレイクスルーはあるし発想も自由なんですが、やはりお作法の部分が相当強いんですよね。

投稿: apj | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 01時36分

>「神と科学は共存できるか」というスレ

 このスレで「ニセ科学」という単語を検索すると9件引っかかり、この単語が入っているメッセージは「後悔と懺悔」さんの書かれたものでした。同じハンドル名を使っておられるのだとすると、kikulogの方にちらっと出てこられた方でしょう。

 その部分の前後を読んだのですが、いわゆるニセ科学批判と結びつくような話が見当たらないのですが……。ざっと探しただけなので、私の見落としかも知れませんけど。

投稿: apj | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 02時11分

>地下に眠るMさん

些末なことからになりますが、仰っていることがよくわかりませんね。そちらが個人的に相手を呼び捨てにすることにしているからと言って、何故オレがそれに遵わなければならないのでしょうか(笑)。というか、普通友だちでもない見ず知らずの相手をいきなり呼び捨てにすれば礼儀識らずだという話になりますし、そういうふうに一般的に受け取られているというのはそちらもご存じのはずですが、地下に眠るMさん個人のルールがそのような一般常識に優先するとお考えなのでしょうか。

そちらがどのような理由でそのようにお考えになったのかは、伺っていない以上わかりませんが、まあ正直興味はありません。ただ何というか、他人のブログにコメントを書き込むのに最初からご自分のルールを通そうとされるという姿勢は、何によらず個人のルールや考えを相手に圧し附ける方だというふうに受け取られる恐れはありますよね。

まあ、別に大した身分の人間ではありませんので、呼び捨てにされても一向構いませんが、それは一応地下に眠るMさんのご意見を判断する材料にさせて戴きますね。

>>「警官一般の信頼性」に着目するのもアリなんではにゃーですか?
もちろん、部分的傾向と全体の傾向の区別は必要ですけれどにゃ。

そのことについては以下のエントリーですでに語っていますので、宜しかったらご参照ください。http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/01/post_323c.html

全体的傾向によって語るべき事柄を部分的傾向に対する印象論で語るのはおかしいだろうという話ですね。

>>上記の「神と科学は共存できるか」というスレで議論しているのが具体例でもあるし、またアマゾンなどにアップされているドーキンスの「神は妄想である」の書評なども具体例になりえるでしょうにゃ。

あのう、スレのほうを覗いてみたんですが、他でもない地下に眠るMさんご自身が専ら自説を語っておられて、そのご意見に対してそれほど多くない参加者が反応している、またそれに対してそちらが専ら意見を語っておられるように見えるのですが、違いますでしょうか。一連の議論をすべて読んだわけではないのですが、こういうテーマの立て方でドーキンスを持ち出したら、そういう論調になるのも自然だろうし、地下に眠るMさんがそういう論点に誘導しておられるようにも見えましたが。

さらに言えば、ドーキンスの著書の書評というのはドーキンスの著書を前提にした言説ですので、リサーチの対象としては適切ではないのではないですか? 少なくともその本を読んだ人が語る言説ですから、好悪は問わずその本を読むという動機を持っていたり、その本に興味を覚えている人が語っているわけですよね。その時点ですでに対象の選択が偏っていませんか? まさか、ニセ科学批判に関心を持つ論者は、おおむねドーキンスの宗教批判の著書を読んでいて、アマゾンなどに感想を書き込みすると思っておられるのでしょうか。

寧ろ、真っ当な科学者なら、科学者が宗教を批判するという個人的な心性に基づく言説になど興味を持たないのが当たり前じゃないですかね。少なくとも、オレは科学者じゃないですがまったく興味はないです。無駄ですから。

>>>>自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまう
>>のは、自然科学が権力だからではにゃーでしょうか?

オレの意見を聞いておられるようですからオレの意見を申しますが、科学とは「力」では在り得ても「権力」ではないですね。人類の知的活動の歴史の中で、初めて心の外側の物理的実体の世界にマトモに触れ得たという意味では世界を読み解く「力」と言えますが、その力が権力で在り得る為には、少数の権力者によって独占されていなければならないのではないでしょうか。誰でもジョウント出来る世界においてジョウント出来るということが、果たして「権力」になるんでしょうかね?

誰でも自由に持てる力、行使出来る力は権力では在り得ませんよね? たとえば文芸の読解力は人の世の現実を読み解く力では在り得ても、決して権力では在り得ない。自然科学もまた、対象が違うだけでそのような意味における力なのであって、権力ではありません。既存の権力が強制によって自然科学の成果物を寡占するというようなことは在り得ますね、軍事機密なんかはそういう性格のものでしょう。

しかし、自然科学自体の論理が知の独占を必然としているわけではないですよ。たとえば自然科学の成果物を寡占する権力というのは、原則的に自然科学者ではなく国家という権力でしょう。まさか、権力を論じる方が、国家という元々権力の装置である制度と自然科学の理念を混同して視ておられるはずなどはないですよね。

所謂「権力」というのは、特定少数に寡占乃至独占されている力を言うのではありませんかね。所謂文系人間が科学という力を権力だと考える理路については、オレなりに想像が附きますが、オレの考えでは科学というのは権力では在り得ません。

何故なら、たとえばあなたが科学者を志したとして、科学者として成功出来るか何うかは保証の限りではありませんが、科学の方法論を学ぶことは出来る。これはもう原理的に言って普通の知力をお持ちの方なら必ず誰にでも出来るんですよ。苦手な理系の教科を我慢して粛々とやり抜いて科学の専門教育を受け科学的研究に携われば、地下に眠るMさんもapj さんと同様の規範において対象を語ることが出来ます。

自然科学の力というのは、それだけのことです。地下に眠るMさんとapj さんが同様の規範に立って同じ物理的現実に関する特定の考えを正しいと認められること。自然科学が目指してきたのはそのような世界の見方であって、その意味で力なんですよ。

では、何故学ばないのかと言えば、それは地下に眠るMさんが自由意志において自然科学を学ばなかったからという、ただそれだけです。自由意志において学ばなかったから手に入れることが出来なかっただけの力の何処が権力と名指し得るのですか? 科学の力というのは、求めれば誰でも平等に得られるものであって、誰もそれを独占乃至寡占しているわけではないですよ。

たとえばオレが、

>>文系の側の自然科学に対するルサンチマンは当然あるのだけれど、それだけで説明することはどんなもんでしょうにゃー?

という問いに対して意見を述べるとしたら、ご自身の自由意志で選ばなかった知の力を他人が行使していることを権力であると視る考え方こそが、ルサンチマンだということです。自分には向いていないとか興味がないという自己責任に基づく理由でその道に進まなかったのであれば、せめてわざわざ相手のフィールドに越境してつまらない難癖を附けるようなみっともないことをするなと言っているだけですよ。

自然科学という規範は、自然科学が適用可能な範囲においてしか力では在り得ないのだし、一部の不心得な例外を除いてはそのような意識において行使されているはずです。処を得て適切に行使されている力を、それを求めようとしなかった者が権力呼ばわりするのは、まさしく理不尽な恨み言というものなのではないですかね。

勿論、ニセ科学批判というのは、自然科学の規範を巡る言説である以上、自然科学が相手取るべき対象であって、別段自然科学が与えられたフィールドを越境して現実に影響力を及ぼしているわけではありませんし、それを科学主義のような「イズム」と括るのは無根拠で雑駁な議論ではないですかね。言わば冒頭で申しあげたような、そちらの感じ方の圧し附けではないかと思います。

科学以外の規範の力が相対的に科学より弱いという現状を以て「権力」と仰っているのであれば、それは科学の責任ではありませんし、科学に何らかのイズムがあるからではないと思いますよ。オレがapj さんに対して語った部分は、そのような人々の心性について触れた部分で、たとえば現代において神信心は現世利益をもたらさないと一般的に考えられていますが、現世利益があって欲しいと願う心性はなくならない。だから一般にあらたかな現世利益を謳う新宗教とそれに騙される人の種は尽きない。

しかし、その一方で自然科学というのはテクノロジーという形で必ず現世利益を約束してくれるわけで、だから宗教対科学という莫迦らしい対立軸があるかのように見えるわけです。一種、現世利益を求める人においては、自然科学は霊験あらたかな宗教の代替物として捉える見方がある。しかし、テクノロジーがもたらす現世利益というのは自然科学の派生物であって本質ではない。

オレは一連の記事で何度も「宗教は心的現実に対して有効な規範である」と陳べてきましたし、それはおおむね地下に眠るMさんの語るところとそんなに違いはないはずですが、なぜ宗教よりも自然科学を持て囃す人が多いのかと言えば、神信心も自然科学も現世利益という基準で価値を量る人が存外に多いからだと思っています。

ニセ宗教と真っ当な宗教の一目でわかる違いというのは、前者は出来もしないのに必ず物理的実体の世界を動かせると騙るという点です。宗教と科学が棲み分けているのは、オレの考えでは心的現実と物理的現実の弁別に基づくのですから、この場合宗教のサイドが自然科学の領域に越境してきているわけで、その瞬間に、本当に物理的実体の世界を動かせる自然科学と同じ土俵に立ってしまうわけです。

ニセ宗教やニセ科学を呼び込んでしまうのは、どんな規範であれ自分に都合の好いように現実を動かす為の手段としか視ない見方一般であって、宗教の規範や科学の規範の責任ではありませんし、自然科学のサイドがニセ科学を批判するのは、理念的に言えば科学をそのようなものと意味附けようとする悪意が存在するからですよ。

最後に一つ余計なご意見を附け加えるとするなら、自然科学を何らかのイズムであり権力と捉える視座に則って何処をどれだけ掘っても何も出てきませんから、早めにその観点を放棄したほうが知的活動の無駄がないと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 02時52分

>>無駄ですから。

これ、素っ気なさ過ぎですね(笑)。もうちょっと注釈すると、客観的な必然というより個人的な心性の動機に基づいて為された批判というのは、一種のブンガクだということです。如何にドーキンスが一般向け啓蒙書で当たりをとった書き手だからと言って、ブンガク素人の科学者が書いたブンガクに科学者一般やブンガク読み一般が興味を持つわけねーだろという話ですね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 03時10分

えと、まず科学と権力について>お二方
とりあえず以下のリンク先をお読み願えますかにゃ。まともな社会学者の記述ですにゃ。
http://www.socius.jp/lec/19.html

社会学においては、「権力は悪だああああ、打倒するんだあああああ」とかいった古き良きサヨクの勧善懲悪ハルマゲドン的な権力概念など採用してにゃーことはお分かりいただけたと思いますにゃ。
で、ここからつまみぐいして、

例えばウェーバーのいう「合法的支配」
>(1)非人格的で合理的規則にもとづく「合法的支配」そのもっとも純粋な形としての「官僚制」——人びとはその合法的な地位ゆえに服従し、行政幹部は法的な権限をもつ。
環境・安全・健康などの行政としての重要な課題において、科学的知見なしで官僚制を維持することがはたして可能かどうか、考えるまでもありませんにゃ。医薬品の許認可行政(=行政権力の行使)なんか典型的に、その時点での科学的知見に従うべきものですよにゃ。
もちろん、
立法や司法においても、自然科学の知見に少なくとも耳を傾ける必要のある案件は、増えることはあっても減ることはにゃーと思いますにゃ。

また、自由民主主義社会のタテマエにおいては、私的領域における価値自由というものがありますにゃ。直接的には思想・良心・宗教の自由として憲法で直接に保護されているものですにゃ。したがって、自由民主主義社会における政治の仕事は、タテマエ上は価値中立であることが望ましいわけですにゃ。そして、自然科学というものも価値から中立ということになっていますよにゃ。
だから、自由民主主義社会における公的権力の行使に際して、自然科学の知見を尊重するということは、その権力の具体的な行使の正当性を保障してくれることになりやすく、少なくとも自然科学の知見を尊重するというタテマエは権力行使の際には必要になることが多いのではにゃーでしょうか。責任を他人になすりつけることはほとんど役人の生理ですからにゃ。

以上、自然科学は公権力システムの中枢に組込まれていることは明らかではにゃーでしょうか。


また、私的領域においてはどうか。
これはリンク先の結論部分でも述べられている
>非常に大ざっぱな言い方をすると、ウェーバー流の伝統的な社会学的権力論も、フーコー流の新しい権力作用論も、注意を喚起しているのはともに「人びとの自発的服従」という事態である。それは「社会秩序」とほぼ同義の事態であり、それを「上から」ではなく「下から」把握しようとするとき「自発的服従」概念が理論的意義をもつのである。

ニセ科学が商売になるのは、科学(的に見える)言説に対して「人びとの自発的服従」という事態が非常に広範に見られるからではにゃーですか?
例えば僕がいくら科学主義を嫌悪していても、僕は医者の言うことには従いますにゃ。現代医学に対して僕は自発的に服従する。また、現代物理学と科学者共同体を基本的に信頼しているので、そこに属するapjの「水商売」に関する言説を信頼し、ぶっちゃけ自発的に服従していますにゃ(理解できるところまでは理解に努めているけど、理解を越えた部分については服従としかいいようがにゃーですね)。自分でいうのも何だけど、リテラシー能力と自然科学の科学者共同体の言説に対する服従度って、ある程度まで正の相関関係にあるんではにゃーだろか?

そして、この自然科学に対する私的領域における自発的な服従が、公的権力の行使において自然科学の知見を尊重することをいっそう促進し、公的領域における自然科学の尊重が私的領域における自発的服従をさらにおしすすめる。
つまりこれは、もっとも洗練されたスマートな権力なのではにゃーでしょうか。


ドーキンスやら科学主義については、また時間がとれたときにでも

投稿: 地下に眠るM | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 11時24分

(こちらでは)はじめまして
横から失礼します。

権力のさす意味がずれていると思います。
地下に眠るMさんのさす意味は「個人の内外で拘束・規律する力」ではないかと。
 

投稿: FREE | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 01時42分

>apjさん

>>それでも、「文系人間」が「正しいことが客観的に決まっているのが嫌」、というのなら、理系に居る人間としてはその「文系人間」に向かって「贅沢抜かすな」としか言いようがないです。

オレもそれはただの贅沢でしかないとは思っているんですけどね(笑)、これは一種過剰な人間中心主義とも重なってくる心性だと思うんですよ。人間の具体的な行為の次元では「正しさ」というのは多義性の揺らぎの中での限定的なものでしかない。だから人間的な領域、たとえば文芸解釈なんかの領域では「正解が決まっているわけではない」なんて教え方をしますし、「正義」に対する多角的な懐疑という問題にもなってくるわけですよね。

その点自然科学は、一義的に何かを正しいと言えるとしたらそれはどういう限定においてであるべきか、という大枠が固まっていますから、「正しい」という場合にどういう理由でどの程度正しいのかちゃんと定義されています。だから、「正しい」とか「正しくない」と明言する場面において躊躇する必要がない。しかし、だからと言って自然科学が絶対的正しさを標榜しているわけではないということは何度も言っていますし、おそらくapj さんにとっては当たり前の大前提でしょう。

その正しさがどのようなものであるかは予め限定されているからですが、この点に対する妥当な理解がないと、人間の領域の問題性における「正しさ」の緩やかな感覚を自然科学にも求めてしまうんじゃないでしょうか。元々自然科学というのは自然哲学や方法的懐疑を通過しているので、その限定の範囲内で正しさを判定出来ない対象を扱わない方法論ですが、そこを理解していないと「何にでも正しさを断言する無神経さ」みたいな感覚で受け取られるんじゃないですかね。

ですから、自然科学が「『自然現象を相手にする、定量性や再現性を求める方法で』という限定」に則った一種不寛容な方法論だとしても、その不寛容さに対する感覚的な反撥を動機とした批判だって、それ以上に無理解に基づいた不寛容さなんだと思います。

>>ところで、黒猫亭さんは、別の所で書いておられた内容から読み取るに、文系の人ですよね。

きっぱり文系ですね。それも、数学や物理が嫌いだったバリバリの文系です(笑)。ですから、心情的には所謂文系人間の気持ちというのはよくわかるんですよ。理系の教科がスルスルと頭に入ってこない知能の在り方というのは、やっぱり間違いなくあるんだと思います。それでも文系の意地というものがありますから(笑)、理系は傲慢だとか融通が利かないとか冷たいとか、つまんないステロタイプの難癖は言いたくないですねぇ。そうでない理系の人をたくさん識っていますし。

元々理系の畑から優秀な文学者は何人も出ていますし、一時「理系ホラー」と呼ばれた瀬名秀明とか、理系ミステリの森博嗣なんてのもいますから、理系の人間が文系の教科が苦手だなんてことはないと思うんですね。ただ、apj さんが仰るように専ら相手取る対象の違いによって言葉の紡ぎ方が違うだけで。

その上で、教育訓練の面で文系/理系の二項を立てるなら、理系の人間が文系の職種に就くことはそれほどハードルが高くないけれど、文系の人間が理系の職種に就くことには大きなハードルがあって、それは単純に、理系の基礎訓練に一定の時間と労力がかかるからだと思うんですね。いろんな具体をすっ飛ばして単純化すると、大学卒業まで文系で通した人間が、いきなり何処ぞの企業の研究所の研究員になったりすることは出来ませんよね(笑)。しかしその逆に、理系の畑で通した人間が文系の職種に就く例は世の中に幾らでもありますね。

それはつまり、文系の訓練というのは価値的に等価な対象群に対する自由選択に基づく段階的な反復強化の訓練法だから習熟度の問題として顕れるが、理系の訓練というのは体系立てられた基礎的素養を規則的に習得していくというプロセスなので、そもそも一連の訓練を序列に沿って通過しないと学術研究のスタートラインにすら立てないという違いがあるのではないかと思います。

apj さんがオレの文章を評価してくださったのも、つまりapj さんが理系の基礎訓練を序列に沿って体系的に習得したプロセスと比べて、オレのほうは反復強化的な訓練と経験則に基づく直観的な微修正という文系的プロセスで、文芸の読み解きや文章構築法を訓練していたという学びのプロセスの違いがあるからかな、と思います。

あとは、対象を正しく記述する為のテクストであるか、人間との意思疎通を目的としたテクストであるかで、大分書き方が違ってくるんじゃないかと思います。前者は対象の記述の正確さにおいて正確無比な機能的意思疎通を果たすわけですが、後者は人間の意思疎通という動態において、必ずしも正確性に依拠しない読み手の受け取り方をも考慮に入れ、可能な限り正確に意志が伝わることを目指す経験則的方法論に則っていると言えるんじゃないでしょうか。

>>対象によって方法論を器用に使い分けるなんてのはむしろ文系のヒトが得意とするところのはずだと思うんですけど。

ここ暫くの間ニセ科学批判の論壇を視ていて思ったのは、「多様な価値観」とか言う人に限って自然科学者よりよっぽど狭量なのは何だかな、ということでした。「多様な価値観」というのは本来「あんたは正しいかもしれないがオレも間違っていない」「オレの正しさを許容しないあんたの考えは独善だ」という話ではなく、局面や対象毎に違う価値観があるという話のはずですよね。

それなのに、現実においては結論ありきの言説を正当化する為に階層性や領域性の違う要素を恣意的に混同して、決まって「オレだって正しいんだ」的な悪しき相対主義に堕落するというのは、文系人間の一人として忸怩たるものがあります。

当ブログの表芸のトクサツ評論の分野では、特にオレが粘着しているクリエイターが一人いるんですが、この人は人間的に悪い人ではないし作る作品も試みとしては興味深い挑戦を繰り返しているんですが、思想的な発話において非論理的な詭弁を常套手段として弄するのが困りものです(笑)。

ニセ科学やフードファディズムを批判し、知的誠実性を心がけよ的な発話をする人物なんですが、どの口が言うんだこの口か的なツッコミ甲斐のある人物です(笑)。そういう発話では根本的な知的不誠実の問題は解決しないし、ニセ科学やフードファディズムやポピュリズムというのはその種の発話が立脚する不合理に根を持っている。そういう視座において粘着的にイヤガラセの批判を続けているんですが、まあこれは余談ですね。

本来文系であるということは論理性の欠如を正当化するものではないはずで、自分とは考え方の違う人間に対して意志を伝える為には、文系だろうが理系だろうが論理性が必須のはずなのですが、恣意的空想と自由な発想、多様な価値観と言ったモン勝ちを混同している人が多いことは遺憾ながら事実のようです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 03時07分

>地下に眠るMさん

リンク先を読みましたが、たしかにおかしなことは書いてないですね。おかしな部分があるとすれば、地下に眠るMさんの解釈のほうではないでしょうか。オレもこの種の論旨は何処かで読んだ記憶がありますから、野村一夫氏の仰っている内容はおおむね理解出来ますが、それが何故今この場で地下に眠るMさんに引用されているのかが理解出来ないわけですね。

>>また、自由民主主義社会のタテマエにおいては、私的領域における価値自由というものがありますにゃ。直接的には思想・良心・宗教の自由として憲法で直接に保護されているものですにゃ。したがって、自由民主主義社会における政治の仕事は、タテマエ上は価値中立であることが望ましいわけですにゃ。そして、自然科学というものも価値から中立ということになっていますよにゃ。

私的/公的という領域の分け方は、自然現象においては最初から立てようのない二軸なのですから、それが人間の現実に関する領域性であることを示しているわけです。だから「思想・良心・宗教」という心的現実のレベルの事柄に対して自由を保証しているわけですね。そして、これらの事柄を総体的に取り扱うのは社会的現実の次元の領域性だということになります。

そして、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返し申しあげているように、自然科学が相手取るのはこれらの領域とは別の物理的実体の世界だということで、たとえば人間でいうなら、その物理的実体としての領域にしか言及しないということです。心の内容の次元ではなく、人体や生理という観点でしか人間を量らないということです。

たとえば社会科学の分野で自然科学の方法論を採り入れるというような議論が某所で交わされていますから、いずれは社会科学の領域で心的現実のレベルと物理的実体のレベルという新たな線引き問題が生じるかもしれませんが、少なくとも自然科学というのはそういう対象を相手取るものではありません。

>>だから、自由民主主義社会における公的権力の行使に際して、自然科学の知見を尊重するということは

ということが無説明で前提視されていますが、公的権力の行使に際して尊重されているのは自然科学の知見だけではないですよ(笑)。寧ろ公的権力行使において最も尊重されているのは「法」の概念でしょう。権力の行使において「自然科学の知見『だから』」という根拠が尊重されるわけではなく、法を作ったり法の執行という形で公的権力は行使されるものです。

自然科学的知見が尊重されるとすれば、化学とか工学とか医学とか建設等々、自然科学が必要とされる領域における諸問題に対してであり、それは物理的実体を相手取る問題だということです。地下に眠るMさんはこの辺の階層性乃至領域性を恣意的に混同しておられるのではないですかね。

少なくとも、私的/公的という切り分けが可能な人間的領域に関して権力が尊重するのは、自然科学的知見ではなく、こちらで技術開発者さんが何度か比喩を交えてご説明くださったような法的知見ですね。自然科学的知見は、飽くまで自然科学的領域における妥当性を量る基準として尊重されているのみです。

まさかとは思いますが、地下に眠るMさんは、たとえばニセ科学批判を巡る一連の裁判のお話で、「科学的に妥当な批判であること」という一項がガイドラインとして挙げられているからそのようにお考えになったというわけではないですよね? これは単に、言説の妥当性はその言説が占める領域の専門性において採用されている規範に則って量るというだけの話ですから、そもそも公権力の行使とは別次元のお話です。

また、リンク先の論旨によれば「自発的服従」という文脈における権力観というのは従来的な権力者という主体の権力行使という視座において権力を読み解くという観点の議論ではなく、権力関係という関係性において読み解くものですよね? ハナから「権力は悪い」「何が権力なのか」「権力を批判する」的な視座における議論ではないのに、地下に眠るMさんを通過することで、「自然科学は権力である」「科学主義は悪い」というベタな権力批判の議論になってしまうのは何故ですかね?

そもそもリンク先の野村氏自身が、こういう論旨を述べながら「科学的に」という語を多用しておられますね。

>>科学的には、権力による支配は避けられないということから出発するのが正しい。

>>社会のしくみ・メカニズムとして科学的に認識することから、すべては始まるのだ。

>>いずれにしても権力論に「正義−悪者」というコードをもちだすこと自体、あまり科学的ではない。

>>科学的には、権力による支配は避けられないということから出発するのが正しい。

このことは、野村氏のこの言説自体が科学的な妥当性を基準にして構築されたものだということですが、それはつまり地下に眠るMさんに言わせれば概念矛盾であり科学主義的であり権力的な言説だ、という話になるわけですか?

またこの例示の最後の部分を前段と続けて引用すると、

>> ひとつは、人間が社会を形成するとき「支配関係なしの社会」あるいは「権力なしの社会」は、まずありえないということだ。「ある」といいきる考え方はイデオロギーであり、現実から遊離している点でユートピアである。科学的には、権力による支配は避けられないということから出発するのが正しい。

つまり、権力なんかなくても社会は成立するんだという考え方は現実性のないイデオロギーにすぎないと言っておられるわけですし、社会というものの動態的構造を分析する場面でその必要な秩序維持機能として権力を位置附ける意味において権力を論じておられるわけです。この論旨をどう解釈しても、地下に眠るMさんの仰るよう権力批判的な論旨にはならないはずですよ。

この文脈において自然科学を権力と名指すのであれば、それは普通一般における権力批判的な射程には入らないのだし、さらに言えば、この種の権力はこの人間の現実において制度的に前提視されている規範すべてであるということになるのではないですかね。それはつまり、規範意識的な無意識的機序こそが権力関係を成立させるのだという意見として読めるだろうし、社会秩序を権力のダイナミズムに読み替える視点転換としても読めるでしょう。いずれにせよ、そもそも地下に眠るMさんの科学主義批判やイズム論とは何の関係もないように見えますね。

>>つまりこれは、もっとも洗練されたスマートな権力なのではにゃーでしょうか。

フーコー的な視座において、社会秩序を維持する機序として権力関係というものを捉え権力一般を規範というほどの意味に解釈するなら、普通に通分すると「自然科学というのは最も洗練されたスマートな『規範』だ」ということになりますから、その文脈においては何の異論もありませんよ(笑)。

矛盾しているのは、それが領域性の異なる権力批判的な文脈で語られることで、科学主義批判が権力批判的な意味合いなのだとすれば、そもそも整合していない物の見方だということです。

こうしてリンク先と地下に眠るMさんのご意見を見比べると、本当にこの文章をお読みになった上で挙げられたのか、疑問が生じてきます。前段で視てきたように、地下に眠るMさんのご意見は、階層性や領域性の異なる事柄を曖昧且つ恣意的に混同して語っておられるので論理の体を成していませんね。

最前語った通り、オレは自然科学者でも何でもない唯の文系のなり損ないですが、そういうオレでも地下に眠るMさんのご意見の恣意性や論理性の欠如には気附きます。さらに言うと、前回のコメントでは「自然科学が何かを批判するのが攻撃的に見えるのはそれが権力だからだ」と語られていましたが、それは「自発的服従」「最も洗練されたスマートな権力」という見方とは矛盾していませんか?

ぶっちゃけて言うと、オレが地下に眠るMさんのご意見を歯牙にもかけない身振りをするのは、たとえばご自身で例示されたソースにおいてすら、都合の悪い部分は無視して都合の好い部分だけ抽出し都合の好いように解釈した「美味しいとこだけつまみ食い」方式の立論だからであって、それは最初のコメントからしてプンプンそういう恣意性の臭いが漂っているからですよ。

それよりも自然科学がマシな方法論だと考えるのは、自然科学とはそういう「美味しいとこだけつまみ食い」方式を厳に忌避する方法論だからです。これは文系だの理系だのは関係なく、野村一夫という人物が論述に込めた意志を正確に汲もうとせず、自説の都合だけで恣意的に引用し立論する知的不誠実をオレが嫌うからでもあります。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 03時08分

えーっと、根本的に誤読をしてくださりやがっていますにゃ(ぽりぽり
そもそも僕は科学主義は批判しているけど、自然科学は批判してにゃーんだけど・・・・
もちろん、権力批判をした覚えもにゃーですよ

http://www.genpaku.org/skepticj/scientism.html
より
>科学主義は、科学的意見だ けが有意義であるとする自己欺瞞的な考えである。この主張は科学的ではないため、もし真ならば意義がないことになる。したがって、科学主義は誤り であるか、または意味がない。

科学主義はイデオロギーであり「イズム」であり、批判の対象としているけれども、自然科学を批判の対象とはしてない、という前提において、僕の投稿を頭から読み直していただけませんかにゃ?

投稿: 地下に眠るM | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 03時23分

>>科学主義はイデオロギーであり「イズム」であり、批判の対象としているけれども、自然科学を批判の対象とはしてない、という前提において、僕の投稿を頭から読み直していただけませんかにゃ?

では、逆に提案ですが、そのような前提のご提示がないという視点で最初からご自分のコメントを読み返されてみては如何ですか?

今更「こういうつもりだった」とか言われましても、オレと地下に眠るMさんは赤の他人なのですから、お話が通じるわけはありませんよ(笑)。そういう意味で、そろそろ地下に眠るMさんと議論しても無駄なのかな、という結論に落ち着きかけています。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 03時32分

>FREEさん

どうも、はじめまして。

>>地下に眠るMさんのさす意味は「個人の内外で拘束・規律する力」ではないかと。

オレもそのような意味と解しましたが、そうだとすると無意識的な次元の社会秩序維持の動態構造を説明する論理を、何故特定のイズムや方法論を意志的に批判する言説の根拠として挙げられているのかが理解出来ないので、それは矛盾していると指摘させて戴きました。

そうすると今度は地下に眠るMさんが批判している対象に対するこちらの認識が誤っているという明後日の方角からのご反論を戴いたので、これは鼬ごっこだよな、と。そう言いたかったのなら「最初から」そう言ってくださいませんかね、という話で、自説の前提を提示し忘れたのは向こうの責任なのに、頭から読み直して認識を正せとか言われるんじゃかなわんなというのが本音のところです(笑)。

そもそもそういうふうな前提に立っても、フーコーとか持ち出して来た意味がサッパリわかんなくなりますし、この人は自身の言説の一貫性というのをどういうふうにお考えなんだろうと、謎は深まるばかりですね。

まあ、一般的に言えばお話にならない議論の姿勢だとオレ個人は思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 04時27分

うん、やっぱり僕が最初から意識して使い分けていた「科学主義」と「自然科学」の用語の区別ができていなかったみたいですにゃ。
いいかい?
科学主義はScientismの和訳で、科学万能主義などと訳されることもある語だにゃ。それほど一般的なタームではにゃーのだが(それでもScientismはGoogleで265000ヒットする)、ニセ科学批判とか疑似科学批判の文脈においては共有を前提としてもおかしくにゃータームだよ。なんなら、信頼できるヒトに聞いてご覧?
ちなみにNATROMも科学主義について注意を喚起しているにゃ
http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/scientism.html

科学主義と自然科学の使い分けが、僕の私的な用法でもなければ後付けでもなんでもにゃーことは、リンクを張ることで示したはずなんだけど、
>今更「こういうつもりだった」とか言われましても
などといういいがかりをつけられるとは思いませんでしたにゃ。

繰り返すが、チミのハズカチイ誤読だ。
僕は最初から権力批判も自然科学批判もしていにゃー。
問われているのはチミの知的誠実さだよ、マジに。

投稿: 地下に眠るM | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 04時54分

>地下に眠るMさん

まあ、一応続けられる意志があるのであればお附き合い致しますが、その前にもう一度だけ確認させて戴きます。

第一に、大前提としてオレは地下に眠るMさんを説き伏せるとか論破することになど何の興味もありませんし、そちらがご自分の思いたいように思う自由にまでとやかく言う動機などはありませんが、オレが書いた意見に対して附けられたコメントとしてオレが間違っていると考える意見を言われたら、その意見が一定範囲内に流布することを阻止するという責任において反論せざるを得ないわけだし、その責任においてはどうしても地下に眠るMさんのお気持ちを斟酌するという話にはなりません。

そちらとの対人的な交流を目的とした対話ではなく、そちらの意見が間違っているということを第三者に対して最大限効果的に論証することが最優先の目的になりますので、日頃のコメント姿勢とは違って手加減一切抜きで反論させて戴きますから、かなり手厳しくなりますが、それでもよろしければお相手させて戴きます。

また第二点として、オレの視たところ、地下に眠るMさんの主張の論理構造は決定的な破綻を抱えていますので、どれだけ鼬ごっこを繰り返してパッチを充てても矛盾なく自説を説明可能な意見には成り得ないと視ています。つまり、以前申しあげたようにそちらの主張は一種筋の悪い「説」の構造なのですから、どう言い繕っても必ず他人からは丸見えの綻びがあるのです。オレ個人の見立てでは、そちらのほうが圧倒的に不利な状況にあるのですが、そうお考えにならないのならお相手させて戴きます。

第三に、これは一種の注意喚起ということになりますが、これまで地下に眠るMさんは理系畑の論客を専ら仮想敵と見做しておられたのでしょうから、相手に対して有効な抗弁が出来なくても、その事実自体を「科学者は科学主義に陥っている」と意味附ける苦しい逃げ口上が可能だったでしょうが、オレは自然科学者でないどころか事実において理系畑の人間ですらありませんので、この場でそちらのご意見が論破されたら、それは如何なる意味においても正当化の余地はありません。

どこで同じような話をしても、ここでの議論を識っている人からは「あいつは同じ文系人間の黒猫亭何某にさえちゃんと反論出来なかった奴だ」という目で視られることになりますが、そういうリスクを踏まえておられるのであればお相手します。

ナメたご忠告だと憤慨されるかもしれませんが、多分今あなたはご自身が理解されていないだけで、下手を打ったら自分だけが致命的な損をするかなり危ない腐ったドブ板を踏んでおられるのですよ。

そういう立場に在る方の背中を積極的に押すほどオレも暇ではありませんので、何も言わずに撤収して戴ければこれ以上の追及は致しませんし、ここ以外の何処でどのように今回の議論の経緯を語られたとしてもオレ自身はわざわざ出向いてまで注釈するつもりはありませんので、そちらの自由意志と自己責任において判断してください。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 05時23分

http://www.socius.jp/lec/19.htmlを読みました。
私に理解できたことは、権力というのはあくまでも人対人の関係において意味を持つということです。

>医薬品の許認可行政(=行政権力の行使)なんか典型的に、その時点での科学的知見に従うべきものですよにゃ。

 医薬品の許認可、もっと平たく言えば、何を医薬品として使ってよいかという話は、そもそも自然科学の知見によって決められるべきものです。ところが、自然科学の枠組みには、他人に対して権力を発揮して従わせるなどという機能はありません。科学まかせにしておいたら、インチキ薬やまともな試験をしていない薬が使われることを防げません。科学は、自然はこうだ、ということを記述できても、他人に対してその知識を使えと強制する機能はありません。そこで、権力の側が、医薬品については科学の基準に従うべし、として、それに人を従わせているということです。

 自然科学は便利なので、権力の側が必要以上に悪用するというか、濫用するということはあるかもしれません。権力を持つ者にとっては、他人に何かを強制するという方法は自由に選べるわけですから、たまたまそこで自然科学が利用されたからといって、自然科学が権力の中枢に組み込まれているという話にはならないでしょう。

投稿: apj | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 08時38分

黒猫亭さん、

>本来文系であるということは論理性の欠如を正当化するものではないはずで、自分とは考え方の違う人間に対して意志を伝える為には、文系だろうが理系だろうが論理性が必須のはずなのですが、恣意的空想と自由な発想、多様な価値観と言ったモン勝ちを混同している人が多いことは遺憾ながら事実のようです。

 理系の方でも、自然現象(の一部)という限定されたものしか取り扱っていないのに、対象と扱う範囲を限定したことによって得られている科学の強力さや切れ味を勘違いして、「科学的だから正しいんだだだっ!」と、科学一神教に突っ込んでしまう、理解の入り口で止まっているヒトというのもいるわけで。

 この手の勘違いというのは、あらわれ方のパターンが違うだけで、分野を問わず起きているのではないでしょうか。

投稿: apj | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 10時11分

こんばんは、黒猫亭さん


地下に眠るMさんの話をまとめると
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①ニセ科学は科学を装うことで科学に成りすましを行っている。

②科学には科学主義の一面を社会に対して意図しなくても持っている。科学的に正しいとする言説が盲目的に信用される状況を生み出していることは、逆説的にニセ科学が機能している事より明らかだ。また社会が科学的知・科学者などのあり方を規定し科学を取り込んでいる事、人が自らが理解できない科学の成果とされる内容を盲目的に信頼する行動を自発的に行っている事からも機能されている事が読み取れる。この科学主義の一面こそが権力である。

③つまりニセ科学が科学を装うのは権力として機能するシステムを利用しているのであり、ニセであることを除けば科学主義のみ抽出したものである。

③故に科学がニセ科学を批判する事は「科学主義を内包した科学」が「抽出された科学主義」を批判している事であり内ゲバ手ある。
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ここまでは良くあるメタ的分析ですが、問題はなぜ科学がニセ科学を批判する事の批判的根拠として持ち出しているのかが理解できません。apjさんのところでのコメントでも権力の話が出してきたときに、フーコーの権力かどうか確認してしまいました。

この話は科学がどうのこうのという話ではなく、「批判は他のレイヤー・構造の外からなさねばならない、「知」が権力であるとして「知」の内部で知の在り方を問うことは正しくない」という話になると思います。

まぁ、話を進めるにしてもあまり筋の良い攻め方だとは思いません。単に好き嫌いの話であるかと読めるような部分や「という話も」「も可能」という言葉もあるので撤退通路も準備済みだと思います。

投稿: FREE | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 10時18分

まず最初にいっておくけど、今度の日曜に某試験を受ける身なので、次のレスは週明けになりますにゃ>みにゃさま

まとめてレス
「ニセ科学批判と科学主義」の話題については、apjからスジ論で突っ込まれて「違和感の表明以上のものではとりあえずはにゃーです」とすでに撤退済み。
ニセ科学批判を行う者の中には一定数の科学主義者がおり(いわば「中心」に近い科学主義者)、それがニセ科学言説を垂れ流す類いの科学主義者(いわば「周縁」にいる科学主義者)を批判する事態については、科学主義の内ゲバのようなものであり、これは「科学には科学主義の一面を社会に対して意図しなくても持っている(By FREE)」という事態を強化してしまうのではにゃーかという懸念はあったにゃんよ。結果としてニセ科学が生まれてくる土壌をつくっているようなものになりかねにゃー。
あるいは中心にいる科学主義者による周縁の科学主義者批判ってそもそもキモチワリイし。しかしこういう漠然とした傍観者の懸念・感覚は現場のスジ論の前には無力だよにゃ。よってapjの1レスで即撤退。


「自然科学と権力」の話題については、以前にapjのところで発言したときは我ながらインネンに近い形のままで終わってしまっていたので(しかも後で取り上げていてくれたことに気づかなかったのも申し訳なく)、ここで科学主義にからめてふってみましたにゃ。
自然科学に対する反発の原因というのはイロイロあるだろうとおもいますにゃ。apjのいうように、自然科学の作法がキツイというのもあるだろうし、黒猫亭のいうように怠け者のルサンチマンもあるだろ。しかし、内心を規律するスマートな権力のその裏に持つ暴力性というのもあるんではにゃーかと。
内心を規律するスマートな権力にいったん攻撃的なスタンスをとられると、攻撃された対象にとっては実にキツイこととなりますにゃ。乱暴な例えをすると、ある信仰者がある行為をして、それを非難されたとするにゃ。非難したのが教団外の者だったらダメージは少ないだろうけど、教祖様(生き神様)に非難されたらダメージはでかいよね。スマートな権力は、スマートゆえに内心を直接攻撃する暴力性を持ちうるということですにゃ。科学主義者にとって自然科学とは、信仰の対象であり、庇護してくれる存在であり、畏怖すべき存在でもあり、ことによると荒ぶる神となるわけにゃんね。

しかし、実際に科学の現場で働く者には科学が権力である意識は持ちにくいようですにゃ。現実に科学を知るものにとっては、科学とは内心を律する権力ではなく、手続き・お約束の体系だからでしょうにゃ。一見すると権力だけど、勉強してみるとお約束のことだった、っていうあたりは法律なんかも同じかも。
何にしろ、自覚があろうとなかろうと、ゴリゴリの科学主義者にとって現役の科学者は科学「教」の祭司になっちゃうのではにゃーでしょうか。科学主義が促進されることは、何よりも科学にとって不幸なことにゃんね。

また、ニセ科学ビリーバーの過てる信念が強固な理由について、「ヒトは信じたいものを信じる」というよくいわれている言説に加えて、「内心を律する権力に盲従」ってのもあるんではにゃーかと。ビリーバーは実際には信じたいものを信じているだけなんだけど、自分は権力したがっているように感じているということなんでにゃーでしょうか。で、それを正当な科学教の祭司にダメだしされるというのは、ビリーバーにとっては異端審問と同じことにゃんな。往々にしてカルトを結成することとなる。

少なくとも、科学主義者にとっては科学が権力であることは紛れもない現実なわけで、ニセ科学批判の際にはそのあたりを考慮する必要はあるのではにゃーでしょうか。

以下、個別に

>黒猫亭

第一点について
ひとのところにやってきて呼び捨てをするような輩の心情に配慮する必要なんてどこにもにゃーでしょ?

第二点について
僕は今のところ、「良くあるメタ的分析(by FREE)」を開陳したら、科学主義と自然科学の区別がついてないお方に目茶苦茶な誤読をされて、それをリンク付で指摘したら逆ギレされて、さらに辛抱強く指摘したら誤読のことは訂正どころか触れられることすらなく「お前はすでに死んでいる」などといわれている状況にゃんが。
誤読を指摘しただけなのに、なんで僕が「圧倒的に不利な状況にある」のかさっぱりわかんにゃーですね。

それとさ、「そちらの意見が間違っているということを第三者に対して最大限効果的に論証する」ためには少なくとも僕のいっていることを理解する必要があるわけにゃんね。で、僕がいつ「今更「こういうつもりだった」」などといったんだい?
誤読にもとづく決めつけをして、それを指摘されても「明後日の方角からのご反論を戴いたので、これは鼬ごっこだよな、と。そう言いたかったのなら「最初から」そう言ってくださいませんかね」などとぜんぜん理解できず。さらに指摘されても訂正すらしにゃー。そしてその同じ口で「知的誠実」などと口にしていることを、ロムのみにゃさまは忘れにゃーように。

科学主義というコトバの意味を知らなかったことを責めるつもりはにゃーので、ここで開陳されたチミの支離滅裂な誤読とアタマのワリイ決めつけにいちいち突っ込むことはとりあえず控えておくけど、誤読の指摘に対する逆ギレは相当にハヅカチイことだという自覚くらいは欲しいんですけどにゃ。訂正すらにゃーのだからそういう自覚すらにゃーみたいね。

第三点について
>これまで地下に眠るMさんは理系畑の論客を専ら仮想敵と見做しておられたのでしょうから
ぜんぜんちがいますにゃ。むしろ、疑似科学(特に創造科学)のヒトと遊ぶことが多かったにゃ。

>相手に対して有効な抗弁が出来なくても、その事実自体を「科学者は科学主義に陥っている」と意味附ける苦しい逃げ口上が可能だったでしょうが
ぜんぜんちがう。疑似科学信奉者は科学主義に陥っているとは何度もいっていますけどにゃ。

>オレは自然科学者でないどころか事実において理系畑の人間ですらありませんので、この場でそちらのご意見が論破されたら、それは如何なる意味においても正当化の余地はありません。
議論に負けたらどうかなっちゃうの? 何度もいうけど、僕は誤読の訂正を求めているだけなんだけど。もちろん、ちゃんとした読みをされたうえで「おまえのいうことはここがおかしい」と納得できるようなことを書かれたら感謝するにゃんが、それはハヅカチイことなの? apjに突っ込まれたところについては、すでにさらっと撤退したけど、それってハヅカチイことだった?
誤読を指摘されて逆ギレすることはハヅカチイと僕は思うけどにゃ。

僕に対するチミのプロファイルはトンデモ百万光年の世界にゃんね。そんな有り様で可能だというのなら僕をぜひともギッタギタにたたきのめしてくださいにゃ。期待してるぜ。

>apj
>医薬品の許認可、もっと平たく言えば、何を医薬品として使ってよいかという話は、そもそも自然科学の知見によって決められるべきものです。
>権力を持つ者にとっては、他人に何かを強制するという方法は自由に選べるわけですから、たまたまそこで自然科学が利用されたからといって、自然科学が権力の中枢に組み込まれているという話にはならないでしょう。

引用の前段では、自然科学が利用されるのが必然だと読め、後段では偶然と読めますにゃ。
自然環境やニンゲンの安全・健康に関する公権力の行使において、自然科学の利用は必然だと言いたいの? たまたまだと言いたいの?


>FREE
おひさですにゃ。
おみゃーさんのまとめが考えの整理に役立ちましたにゃ。さんきゅ。
まとめについて訂正したいところもかねて、まとめレスをあげましたにゃ。
すでに撤退済みのところを逃げ道確保とかいわれたのは心外でしたにゃ。

僕の興味は、ビリーバー(科学主義者)にとっての現実と有用な批判の方法論のあり方だにゃ。
そして僕が表明しているのは、ビリーバー(科学主義者)の心性を持つものがニセ科学批判側にも紛れているという気持ちの悪さと、それがろくなことにならにゃーのではにゃーかという不安。

投稿: 地下に眠るM | 2008年1月25日 (金曜日) 午後 12時08分

>apjさん

撤収される方のお邪魔にならないように今までコメントを控えていたんですが、どうやらもう何か書き込んでも大丈夫なようですね(笑)。

>> 理系の方でも、自然現象(の一部)という限定されたものしか取り扱っていないのに、対象と扱う範囲を限定したことによって得られている科学の強力さや切れ味を勘違いして、「科学的だから正しいんだだだっ!」と、科学一神教に突っ込んでしまう、理解の入り口で止まっているヒトというのもいるわけで。

遺憾ながらそういうこともあるかに伺っています。その意味でオレも、科学万能主義的な心性が在り得ることについては否定する動機がありません。また、何度も語っていることなのでご理解戴けると思いますが、一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけての歴史性においては、実際に大半の科学者が科学万能主義的な世界観の持ち主だったことは歴史的な事実だったんではないかと思っています。

今四〇代半ばのオレの世代が子供だった七〇年代の頃の現代ニッポンの時代性においては、たとえば大阪万博のスローガンである「人類の進歩と調和」みたいな未来観が支配的だったのだし、科学の知の光によって封建社会の不合理の闇が駆逐されることに対する期待というのも、イッパンタイシューにはあったんだと思います。SFを読むことが子供の間で進歩的だと思われていた時代があったのだし、SFの疑似科学もムーの疑似科学も一緒くたにして「科学」のポジティブな側面だと思われていた時代があった。

現在の時代性におけるニセ科学というのは、そのような底抜けに明るい科学信頼のツケという側面はあるんでしょうね。

また、カルスタ一派が科学を修辞として用いたように、たとえばニルス・ボーアのように哲学を科学の修辞として用いる論者がいることも在り得ますね。物理的実体の世界を突き詰めて行くと、どうしても超越者や超越的原理を想定したほうが説明しやすい次元に突入するわけで、その時点の科学で説明不可能な事柄の根拠を神秘的な原理に求めるのは、人間一般の弱さなのかもしれません。

ただまあ、一口に「科学者は」とか「理系人間は」という語り出しで何かを名指す場合には、その括りによって括られる集団一般の性質を妥当に抽出していないと意味がないですから、特殊例ばかり語っても「まあいろいろな人がいるからねぇ」で終わってしまう話になったりしますが(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月25日 (金曜日) 午後 06時40分

>FREEさん


ご丁寧にまとめて戴いてありがとうございます。これで納得して撤収して戴けるかなと思ったんですが、まだ続けられるらしいですね(笑)。

>>ここまでは良くあるメタ的分析ですが、問題はなぜ科学がニセ科学を批判する事の批判的根拠として持ち出しているのかが理解できません。

オレもFREEさんのまとめられたようなことまではわかるんですが、同じところが理解出来ません(笑)。まあ、その点については地下に眠るMさんへのお返事で詳しく語らせて戴きますので、今はそれ以上触れないことにしますが。

>>「批判は他のレイヤー・構造の外からなさねばならない、「知」が権力であるとして「知」の内部で知の在り方を問うことは正しくない」

それはつまり、ニセ科学批判自体が自然科学の知の在り方を問うという性質の試みではないということでしょうね。ニセ科学を批判しておられる方も、ニセ科学批判という行為を、自然科学という規範を前提視した自然科学の埒内の現実的な営みとして視ておられるようですから、それはハナから別問題だということですね。

たとえばオレがニセ科学批判批判に関して思うのは、何故この人たちは自分たちが自然科学それ自体に対して抱いているまったく無関係な思い込みを、ニセ科学批判の言説に絡めて語りたがるのか、ということで、そういう意味では「自然科学の知の在り方を問う」式の問題性も、「科学者は自然科学を絶対視している」式の論難同様、ニセ科学批判とは関係ない。

何故無関係な問題を何でもかんでもニセ科学批判の言説に求めるのか、これがオレには大変不可解な部分で、最初からそういう話をしているつもりなんですけどね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月25日 (金曜日) 午後 06時41分

>地下に眠るMさん

随分興奮しておられるようですが、試験大丈夫ですか? まあ、まだ続ける意志がおありだということですので、こちらももう暫くお附き合いさせて戴きましょうか。とは言え、日曜に試験を受けられるというのであれば、こちらの反論も月曜以降に持ち越させて戴いて、他の方との対話を優先させて戴くことにします。その間に、一応オレのコメントのほうも一通り読み返して、序でにそちらが書き込みされるまでの対話の流れや本文の概要も把握しておいて戴くと無駄がなくて助かりますねぇ。

それでは、試験受かると好いですね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月25日 (金曜日) 午後 06時42分

黒猫亭さん、

 日本の歴史を振り返るに、科学万能主義というか、科学で未来はバラ色という認識が共有されていた時期があったことは、私にもわかります。万博のあたりがピークでしょうかね。
 実はそれなりにアニメやマンガが好きなので、その中で科学がどう扱われていたかを見れば、世相を反映していたりする場合もあるようで。

>現在の時代性におけるニセ科学というのは、そのような底抜けに明るい科学信頼のツケという側面はあるんでしょうね。

 それはあるかもしれません。文化論を語る立場にはないのですが、一時期にすり込まれた科学者のステレオタイプがその後一人歩きを続けているんじゃないかと思うときはあります。

 物理学が哲学に変わるとしたら、問いの立て方によるのではないかと。
 測定できる量の間の関係を考える、つまりhowを考えている間は物理学なんですが、なぜその関係になるのか、つまりwhyを考え出すと、形而上学に突っ込んでいってしまいます。

投稿: apj | 2008年1月25日 (金曜日) 午後 07時24分

>apjさん

>>日本の歴史を振り返るに、科学万能主義というか、科学で未来はバラ色という認識が共有されていた時期があったことは、私にもわかります。万博のあたりがピークでしょうかね。

ええもう、オレなんか万博直撃世代ですから、脳天気に「こんにちは、こんにちは」とか「二一世紀の夜明けは近い」とか歌われたり「人類の進歩と調和」とか言われたら、かなり痺れます(笑)。親に相当ゴネて親戚に連れて行ってもらったんですが、何処のパビリオンも長蛇の列でろくに展示物を観なかった割には、万博広場の光景なんかが鮮烈な印象として残っていますね、ロシア人以外のガイジンをあんなにたくさん視たのなんてあれが初めてですから(笑)。

>>実はそれなりにアニメやマンガが好きなので、その中で科学がどう扱われていたかを見れば、世相を反映していたりする場合もあるようで。

マンガなんかでも藤子不二夫の作品なんかは具体的に「未来の日常」を描いてくれていましたから、いずれこの肥やし臭くて磯臭い田舎の村もドームに覆われて天候が快適に操作されたり、エアカーが走ったり、ドラえもんの道具みたいな便利なものが山ほど出来るんだろうと本気で信じてましたねぇ(笑)。しかし、そういう明るい未来への期待というのは、すでに万博直後のトクサツなんかではディストピアに対する不安みたいなものに塗り替えられていましたね。

まあ、或る種あの当時の小学生くらいまでだと、明るい未来を謳歌する古典的SFのリライト物やそれに類似の楽天的世界観に基づく作品に触れる機会が多く、中学生くらいになって知恵が附いてくると、ちょっと背伸びして七〇年代の世相を反映した暗い作風のものを好むようになるという個人史的な事情もあったと思いますが。

歴史的に視ると科学者が科学万能主義に染まっていたのは一九世紀後半から二〇世紀前半とかえらい昔の話であって、以前のエントリーで語ったように宗教的迷妄に対するアンチとしてそういう理性過信の姿勢が現れて、けっこうこの方法論でとことんまでイケるんじゃね?的な自信として続いたんでしょうが、二〇世紀後半ではそのような自信が挫けてしまって謙虚になり、自然科学には何が出来て何が出来ないのかを冷静に見据えるようになった、ベタに言うとそういう流れになりますかね。

apj さんが仰るようなステレオタイプの問題というのは、あの当時の情報の伝播速度とも関係あるような気がします。おそらく七〇年代の時代性では、そんな脳天気に科学万能主義を謳う科学者はすでに絶滅寸前だったはずなんですが、自然科学によらず専門的な領域の実感が一般大衆に伝わる速度が、今とは格段に違っていたような気がします。

当時の文芸作品なんかを視ると、とにかく専門的領域に対する描写がかなり杜撰でご都合主義的にお話の都合で潤色されていますから、そういう事情もあったんではないかと思いますね。今はもう、文芸作品で専門家を描写する場合にあんまりテキトーなことを描くと現場から突き上げを喰らったりするし、その間の事情がマスコミやネットを通じて筒抜けですからね。

その半面、昔はボロが出なかった専門職の虚飾というのが暴き立てられる世の中でもありますから、戸田奈津子の字幕が如何にいい加減であったかというのも話題になったりするわけですが。

>>つまりwhyを考え出すと、形而上学に突っ込んでいってしまいます。

これはそういう話をしてくれたオレの友人もそういうふうに言ってますね。howに当たる事柄を専門的に研究していくと、このような精緻で深奥な機序が「何故」無から生じたのかを必ず考えたくなるものだが、それは少なくとも今の科学では言及し得ないものなのだし、それを考えるとどうしても「いつか来た道」を辿ってしまう。それでもその目の前に在る魅力的な「謎」に興味を覚えてしまうのが人間というもので、或る程度抽象的な性格を持つ物理の領域で最先端の研究を行う者などにはとくに危険な誘惑だという話でした。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月25日 (金曜日) 午後 08時15分

不図思ったのだが、この展開で一番「しめしめ」とほくそ笑んでおられるのは、実は技術開発者さんなのではないだろうか(笑)。彼が最初のほうで説明されていたような事柄の恰好の実例が飛び込んできたことになるわけだが、オレのほうでもそれで大分説明の手間が省けるので文句を言う筋合いはないだろう(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月25日 (金曜日) 午後 10時17分

あともう一つだけ。

>FREEさん

そちらの二度に亘るご厚意はどうやら伝わらなかったようです。オレもその線で収めたかったのですが、まあ何によらず通じないことというものはあるようです。たいへん残念なことですが。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月26日 (土曜日) 午前 02時30分

こんにちは、黒猫亭さん。

>この展開で一番「しめしめ」とほくそ笑んでおられるのは、実は技術開発者さんなのではないだろうか(笑)。

ほくそ笑む、というより、背中に寒いものを感じている面があるんですね。事象の地平線に少し書いて見ましたが、なんていうか、個人個人の利害とは別な「社会秩序」という事に関して、社会で生きている人たちの意識が薄れている気がする訳です。事象の地平線の方に悪徳商法のアルバイトで苦学した若者が入社の面接に来て、そのアルバイトになんら反省をしていなかったら採用するかなんて話を書いた訳ですが、本来、採用する会社にとってそのアルバイトした悪徳商法が直接に被害を及ぼすようなものでなくとも、「この若者は道徳観・倫理観に欠けるな」と採用を見合わせる様な部分があったわけです。

そういう時代では、その若者はそういうメンタリティのまままともな会社の面接を受ける限り、どこでも「道徳観・倫理観に欠ける」と採用して貰えない事が起こったわけです。それは、あたかも社会が「非論理的に排斥する」とも言える面です。そして、現代では、そういう傾向を「非論理的である」と逆に排斥する傾向が生じている気がするわけです。

社会秩序というのは、一面で社会の構成者個々が、共通した嫌悪感とか禁忌感という感情を持つことで保たれて来た面があるのですが、今、そういう共通性を持った嫌悪感や禁忌感を「非論理的である」と逆に嫌悪する事が起きている気がする訳です。


投稿: 技術開発者 | 2008年1月28日 (月曜日) 午前 08時52分

>技術開発者さん

あ、すいません、「この展開」というのは例の方を巡る議論の展開の話であって、一般的な社会傾向の話ではなく、便宜上技術開発者さんのご解説にナビゲートしておいたほうが話が早いので引き合いに出させて戴きました。紛らわしい言い方をしてすいませんでした。

>>個人個人の利害とは別な「社会秩序」という事に関して、社会で生きている人たちの意識が薄れている気がする訳です。

自分の権利を言い立てる人が多くなった、ということは言えるかもしれません。自分の権利は最大限に尊重されるべきだ、ということばかり考えているが、相手にも平等に権利があって見知らぬ誰かにも同じように権利がある、社会というのはその全体に対して公平であるべきで、特定個人の立場に偏ることは出来ないのだから、おおむね多くの人が満足を感じるというのは大事なことだと思います。

だから個人対個人の利害対立の場面では、多くの人々が満足する社会的な真っ当さを基準にして裁定するという理路になるのだろう、このように解しています。個人の権利そのものが社会秩序を維持することで保証されており、逆に言えば個人の権利を万人に平等なものと規定することで社会秩序が成り立っている部分がある。

例示された悪徳商法のアルバイトの話でも、「道徳観・倫理観に欠ける」という理由で採用しないというのは、一見その企業の利害という観点では非論理的に見えるかもしれませんが、その企業がマトモな商売をしているなら、「道徳観・倫理観」という規範が遵守される社会を前提にその規範に遵って商売をしているということになりますから、あながち論理がないわけではないでしょうね。その規範に対する侵犯を忌避する感情自体は、別段非論理的なものではないわけで、非論理的と感じる感じ方のほうが近視眼的ということになると思います。

そこはどうでもいいから実力のある人間が欲しい、ということになると、その企業自体の社会における真っ当さが危うくなるわけで、そこは重要な部分でしょう。

>>社会秩序というのは、一面で社会の構成者個々が、共通した嫌悪感とか禁忌感という感情を持つことで保たれて来た面があるのですが、今、そういう共通性を持った嫌悪感や禁忌感を「非論理的である」と逆に嫌悪する事が起きている気がする訳です。

その一面ではたしかに非論理的な部分もあるとは思うので、難しい問題ですが、社会感情というのは社会秩序にとって重要なファクターではありますよね。当ブログでも社会的問題について語る場面で、社会感情に基づく応報が時に苛烈に過ぎても、それは仕方のないことだろうというふうに語る場面もあります。

社会的に共有されている真っ当さの感情に逆らう行為は、如何に個人の権利として法で禁じられていなくてもやってはいかんだろう、という部分で、期待されているのは健全な社会感情による圧力だと思うんですね。

たとえば、元々応報というのは個人個人で程度の受け取り方が違うのだから、「ちょうどよく罰する」ということが難しい。凶悪事件の被告に対して「死刑にしろ」という声が必ず上がるのは、悪い奴は殺すべきだという暴力的な感じ方があるわけで、こういうのは問題ですが、たとえば司法制度が「妥当に裁かれる」という安心感を与えるものであるのなら、社会感情に基づく社会的制裁というものは緻密なシステムではないですから、常に「不当に裁かれる」側面があるわけで、一々個別の事情を斟酌せずに苛烈に罰するという側面があるわけです。

社会感情に反する行為というのは、個人の特定行為はこういうリスクを冒してまで実行する名分があるのかという話と常に表裏一体だと思うんですね。こういう暴力性まで含めて社会の構成員が真っ当な行為を行うべき筋道になっていると思うんです。

或る種、現在そのような社会感情を非論理的として嫌悪するというのは、そのダイナミズムの不当で苛烈で暴力的な部分に対する嫌悪感だと思うのですが、真っ当な社会感情自体を否定するのは階層が間違っていると思いますね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月28日 (月曜日) 午後 01時45分

こんにちは、黒猫亭さん。

>或る種、現在そのような社会感情を非論理的として嫌悪するというのは、そのダイナミズムの不当で苛烈で暴力的な部分に対する嫌悪感だと思うのですが、真っ当な社会感情自体を否定するのは階層が間違っていると思いますね。

私が「社会通念に照らして判断出来るまっとうな社会人」という事をしばしば言うのは、まさにそれなんです。人間は確かに感情的に暴走するおそれのある生き物ではあるのです。しかし同時に「感情の暴走を恐れる」面も同時に持っている訳です。そして、集団心理とかで暴走する要素が少ないときには、自分で或る程度暴走を止められるものだと思うわけです。例えば、「奥さんがご主人をバットで殴り殺した」なんてニュースに接すればまず「酷いね」と思うけど、それに続いて「日頃からご主人に暴力をふるわれていて、その時も・・・」なんて詳細が伝わると「酷い奥さんだから極刑にしろ」なんて意識には多くの人が成らないわけですね。でもね、殺人のニュースに接すれば、「酷いことだね」とまず判断する感情そのものが間違っているという事では無いわけです。そういう殺人などを嫌悪し、自分が殺人などを犯すことを禁忌する意識というのがまずあって、それの暴走を恐れる気持ちもどこかに持っていて、「何かそんな犯罪を犯さざる得ない理由があつたのかしら」と考える部分があるのだろうと思うわけです。

なんていうか、社会秩序が乱れるような事、例えば人を何か騙すような事、に対して自然に嫌悪感があり、自然に禁忌感がある社会では、教育というのはその自然な流れに対して、「まあ、何か同情する理由があるかも知れないから、詳細を聞くまで感情にまかせるのは良くないよ」と教えるという形で為される訳です。ところが、今の社会を見ていると、その自然さがまず失われている感じをうけるわけです。もともとに自然な感情の流れが無いのに、その流れの行きすぎを止める「感情的になる前に考えろ」だけが生き残っている気がするわけです。つまり元の自然な流れがないのに、逆方向に水を掻く教育の成果だけが残ったら、何が起こるかというと流れが逆向きに流れる訳ですね。

投稿: 技術開発者 | 2008年1月28日 (月曜日) 午後 05時49分

>地下に眠るMさん

お約束の日限ですし、とくに事情に変わりもないようですので、議論を続けさせて戴きます。とにかく指摘することが多すぎて大変長くなりますから、こちらを覗いておられる方には予めご容赦を願います。よろけた言説を語るのは短くて済みますが、言説がよろけていることを説明するにはその何倍も長い説明が必要ですので。

ではまず、大枠の話から始めましょう。オレがまず最初に反論するとすれば、地下に眠るMさんがオレの言論姿勢に対して「誤読」「知的に不誠実」と批判しておられることに対してですから、本文の詳細な検討以前にその問題についてお答えさせて戴きます。

地下に眠るMさんは、そちらの言説に対するオレの読み解きの姿勢に対して誤読だ不誠実だと盛大に言い募っておられるようですが、まあ普通に言ってそのようなご意見に賛同されるマトモなブロガーはまずいないでしょう。

そちらはどのようにお考えかは存じませんが、普通、他人のブログにコメントを書き込んだら、コメンターの側に自説の真意を伝える誠実な説明努力が求められますし、その努力を判定するのはコメンターの側ではなくブロガーの側です。そして、そのブロガーの判断が正しいかどうかを判定し、個々の受け取り方で読み解くのがROMの立場という関係になるでしょう。

それは何故か。

それにはまず、この少し上のほうやapj さんのブログで技術開発者さんが語っておられる法律談義に目を通してください。事前に伏線を張っておいたので、勘の良い読み手の方はもう読んでおられるかもしれませんね。ニセ科学批判の拠って立つ根本的な社会的妥当性に関する解説ですので、この論壇に参加されるのなら読まれて損はないですよ。

http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7517#com7530

技術開発者さんの解説を援用してこれから語るのは、原則論を語る為の「比喩」ですので、現実の具体的場面に適用される法律の細則と照らして細かい齟齬があっても多目に視てやってくださいね(笑)>技術開発者さん

さて、ここで解説されているのは「紛らわしさの罪」ということで、事業者側には不実証広告でないばかりではなく、それと紛らわしい広告をも積極的に避けるべき義務が課されており、それは社会で採用されている真っ当さの基準として、「選択によりなる立場」のほうが責任が重いとされているからだ、ということです。

これはニセ科学とニセ科学批判の特定の関係を陳べるばかりではなく、一般的に社会において真っ当な関係性とはどのようなものとして受け容れられているのか、という原理に関する記述でもあります。つまり、この解説から「ニセ科学」とか「ニセ科学批判」という固有名詞を除いて一般化するなら、選択してその立場を選んだ者は、選択の余地なくその立場に在る者に対して、より重い責任を負うということです。

この原理を今回の状況に当てはめて考えましょう。そちらは別段オレのブログの特定の記事に対してコメントを附ける必要などないし、興味がなければそうしなければならない義理などないでしょう。よしんばオレがそちらの考えと異なる発言をしていたとしても、その言説の中で地下に眠るMさんの名前は何処にもないのですから、無視して通り過ぎることも可能です。その発言を見過ごしたからと言って、そちらがその論旨を認めたという関係性は一切成り立ちませんからね。それ故に、そちらがここに書き込んだのは、徹頭徹尾そちらの自己責任における意志的選択によるものです。

対するに、オレの側はどうかと言えば、オレが書いた記事に対して附けられたコメントはオレの記事に対する言及であると受け取られるのが自然ですので、もしもそちらのコメントに対して異議があれば、選択の余地なくそれに対処する必要がある。このブログに掲げられた元記事は、紛れもなくオレ個人の名前で発信されているオレに責任が帰属する情報であり、コメント欄を管理する権限が与えられているのですから、それに対するコメンタリーへの対応はすべて何らかの意味附けにおいてオレの身振りとして解釈される可能性があるわけです。

それを放置するということは、その論旨を認めたと解される虞れがあるわけで、そのコメンタリーが自説に反するものであれば、選択の余地なくこれに反論する責任があるわけです。そうなると、そちらがここに書き込んだことはオレの選択の結果では一切ありませんが、書き込まれた以上はそれに対して適切な対処をとることが選択の余地なくオレに求められます。

つまり、技術開発者さんの喩えに倣えば、この場合はそちらが事業者の立場でオレが消費者の立場という関係性になるわけですね。そうでなければ、他人のブログに口から出任せのいい加減なことを書き込めば幾らでもその言説を貶めることが出来て、それに対してブロガーの側には選択の余地なく無限に対処の労が求められるという一方的な不公平が成立してしまうからです。

それ故に、この場合「この記事にコメントする」という選択を行った側に、相手に対して誠実に意味を通じさせる努力が求められるわけで、そういう関係になることで、たとえば最終的にブロガーの側が「あんたの言うことは結局わけがわからない」ということでコメンターとの対話を拒絶することが可能になります。

つまり、自由意志に基づく選択でこちらに書き込んだコメンターには、相手に対して理解を強要する権利などないわけです。相手が誤解したのだとしたら、それは相手に意味を通じさせようとするそちらの努力が成功しなかったということであって、わざわざ好き好んで他人のブログに書き込んでおきながら、自分はちゃんと説明したのにこいつは意見を誤読したと言って騒ぎ立てる筋合いなど誰にもないわけです。

コメンターが誠実に意味を通じさせる努力をしているという保証がない限り、出鱈目なことを言っていても、それを相手が理解しなかった、誤読しやがったと難癖を附けることが幾らでも出来ることになってしまうからです。地下に眠るMさんがそういう努力をしているかどうかなど、あなた以外の誰にも保証出来ないことでしょう。

そして、意味を通じさせる努力という観点においては今回の状況には重大な問題がありますが、それはひとまず後段に譲りましょう。ここでは、普通ならブログへの書き込みに際して誰もが漠然と理解していることを、どうやら何故か地下に眠るMさんは理解しておられなかった、ということを指摘させて戴くに留めます。

次に、オレにはそちらの判断力や客観性を信頼出来ない合理的な理由があります。

地下に眠るMさんは、オレが呼び捨てにされたのを不快に思って根に持っているのだとでも解しておられるかもしれませんが、それは或る意味ではその通りだし、別の意味ではそうではありません。そちらは最初に「僕は誰でも呼び捨てにするので、僕のことも呼び捨てにしてください」と仰ったわけですが、どういう筋道でこういうことを考えるに至ったのかサッパリ理解出来ないことが不信感に繋がるわけです。

おそらく、地下に眠るMさんが行く先々で同じような不信感を相手に対して与えているということは断言出来るんじゃないですかね。これもまた、技術開発者さんに倣って比喩を用いて説明しましょう。ここでも原理原則を語る為の比喩ですので、細かいところの法律的細則についてのご指摘はご容赦ください。

たとえば、まず今ここに税込み定価二四〇円のマンガ雑誌と二四〇円の現金があるとします。この二つは市場価値的に等価ですからこれを交換することは対等な取引のように見えますが、実はそうと決まったものでもありません。

二四〇円払って雑誌を購入する側は、その雑誌が二四〇円の現金と引き替えにしても好いかどうかを価値判断し、購入するか否かを決定する権利があります。また、売る側のほうにも二四〇円の現金を払う客に対してその雑誌を売っても好いかどうか決定を下す権利があります。まあ、現実的な場面では業者が特定個人に対して物品の販売を拒否する行為の是非についての問題はありますが、飽くまで比喩ですから、それはこの際捨象して単純化した原則論で語ることにします。

その前提においては、たとえばコンビニや書店に並んでいる雑誌を不特定多数の誰かが定価で買うこと自体は対等な取引です。二四〇円払えば誰に売っても好いという前提で商品を置いてある場所で対価を支払うということは、購入者がそれを購入するという決定を下したということになりますから、そこには両者の円満な合意があり、何処も批判すべきところはありません。

しかし、たとえば電車の中で誰かが読んでいる雑誌をいきなり奪い取ってから「対価として二四〇円差し出しても好い」と言うのは、対価を払っても単なる「泥棒」ですね。雑誌を読んでいる人間がそれを売るかどうかの決定を下す権利を踏みにじって、それを決定する立場にはない買う側の人間が決定を下しているからです。

本来、二四〇円を払う側に許された権利とは、その雑誌を買うかどうかの決定に関するもののみなのに、売るかどうかという本来自分に権利として許されていない決定まで下しているからです。

そちらの申し出はこれと同じで、本来その相手を呼び捨てにするかどうかの決定権は相手側にあるのが常識であって、そちらの側に許された権利ではありません。そちらに許されているのは、相手が自分を呼び捨てにするかどうかに関する決定のみですから、そちらの提示された条件だと、まず、相手に決定を下す権利のあることを不当に決定した上で、自分に決定権のある代償を差し出していることになります。

これはつまり、二者関係において相互に平等に権利のあることを、一方的に片方が決定しているということであって、呼び捨て云々というよりその権利侵害が根本的に不当で失礼な行為なのですよ。

そちらのような申し出を行っても好いのは目上の人間だけであって、それは何故かといえば、目上の人間には目下を呼び捨てにする権利が最初からあるわけで、相手に対して自分を呼び捨てにして好いと申し出るのは、自分の権利の一部を自身の自由意志において相手に譲っているからです。この場合、最初から敬称に関する決定権は一方的に目上の人にあるわけで、相手の権利を不当に侵害せず敬称で呼ばれるべき自身の権利を放棄しただけですから、不当な申し出ではありません。

たとえばハリウッド映画でよく上司が部下に初体面する場面で「やあマイク、オレはフランクだ、フランクと呼んでくれて構わないぜ」とかいうのがあるでしょう。またその逆に「オレを呼ぶ時はアタマにミスターを附けてオケツにはサーを附けるんだ、わかったな、くそったれ」とかいうのもあるでしょう(笑)。

目上の人間には敬称に象徴される二者関係の性格を決定する権利が一義的に与えられているから、目上の人間から申し出る分には呼び捨て関係でも構わないんですよ。部下のほうからいきなりそんなことを言い出したら、如何にカジュアルなアメリカ社会でも剰り好い目はみないでしょうね。

雑誌の喩えで言えば、校則で校内雑誌持ち込みが禁じられている学校で、教師が生徒の雑誌を没収する場面に相当するでしょう。教師には無対価で雑誌を没収する筋合いがあるわけですが、「只でとられたんでは気の毒だから代金払ってやる」と申し出るのはその教師の自由ですね。

つまり、そちらのように申し出れば、相手はそちらが自分の権利を不当に侵害しているか、もしくは何の根拠もないのに目上として振る舞っていると解釈するでしょう。しかし、ネット社会においては現実的な身分の如何によらず、それこそ皆平等ということですから、そのような権利侵害を避ける為には、友だち以外の誰でも敬称を附けて呼ぶ以外の合理的な選択肢は最初から存在しないということになります。

そちらがどのような理由でそんなつまらない決め事をつくったのかは識りませんが、少なくともその申し出は誰にとっても公正ではないし、対等の関係性ですら在りません。そういう非常識なことを言い出すこの人はマトモな常識がないのだろうか、と誰しも眉を顰めて腫れ物にでも触るように生温い扱いを受けるのがオチですよ。

そのことをわかっていてやっているなら、相手が当然抱いて然るべき不快感や不当感を考慮しないただの自己中心性だし、それがわかっていないのなら考えが未熟だということですね。いずれにせよ、そちらの周囲の人々はそういう身勝手な習慣を不快に思っておられるのだろうし、それにはそちらがそうする理由より社会的に真っ当だと受け取られるべき合理的な理由があるということは断言します。

たしかに一時のネットコミュニケーションで相手を呼び捨てにする習慣が流行ったことはありますが、それは現在のように一般人の間でブログが活発化する以前の話で、初期のネットワーカーが現実社会で半ば義務附けられている敬称関係の堅苦しさを排して平等な関係性を強調するという理路において、コミュニティのローカルルールとして採用されていた習慣です。

今のように普通の人の間でもブログが広まった時代性においては、そのような合意に基づいてネットにアクセスしている人間は最早少数派ですし、ネットの上では皆平等だという感覚は広く緩く共有されているのですから、今更強調する意味などはありません。つまり、敬称略という引き算のプロセスで平等性を確保するのではなく、現実の身分に拠らず誰でも敬称附けという足し算の作法で呼び合うことでも、充分に平等性が確保されているということです。

今でも呼び捨て関係をローカルルールとするコミュニティは何処かにあるのかもしれませんが、それがそのコミュニティの外側で通用するルールではないことくらい、マトモな社会感覚の持ち主なら察しているでしょう。少なくとも、ブログ時代という時代性において現在を認識するなら、ネット社会という特殊性に基づくローカルルール的な決め事はおおむね失効していると視たほうが好い。そこで適用されているのは、現実社会と同様の一般的な習慣則です。

地下に眠るMさんは、オレが呼び捨てにされるとムッとする性格だと踏んで何度も呼び捨てにして煽ったつもりなのかもしれませんが、別にオレは社会的にはそんなに尊敬される立場ではないですから、そんなことは割合どうでもいいんですよ。単にオレは「コモンセンス」のない人間や他人の気持ちに配慮のない人間が嫌いなだけで、そちらのそういう自分勝手な決め事が非常識で不当だから不愉快なだけなんですよ。

しかし、最初の段階ではオレの意見を受け容れてオレを直接名指さないようにしておられたので、「ああ一応相手の反応によって使い分ける気遣いはあるのかな、それなら誰だって不愉快なのは同じで言うか言わないかの違いしかないんだから、最初からそんな不便な決め事は放棄すればいいのに」と思ったのですが、腹を立てて感情的になるとわざとイヤガラセめいたことをするというのは、まあ剰り理性的な人ではないんだな、と更めて思いましたね。

他人から視れば「相手が認めていないのが明確な状況で非礼を犯す非常識」「何らポリシー上の動機もないただの傲慢」としか視られませんから、オレ個人がそちらのそういう決め事に感じた自己中心性を更めて自ら自他に強調されたわけで、ご苦労様としか言い様がないですね。

だから最初の段階では、そういう合理的な不信感をそちらのご意見を判断する材料とさせて戴く、と予め断らせて戴いたわけですが、それに対してはとくに言及がなかったのでそのようにさせて戴いたわけです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月28日 (月曜日) 午後 06時11分

>地下に眠るMさん

さて、指摘すべきことが山ほどあって忙しいですが、とりあえず言説の読み解きの段階に入りましょうか。まず指摘すべきことは、地下に眠るMさんのお話が今のところ誰にも通じていないのは、普通一般に受け容れられている議論の手続をまったく理解しておられないからだということです。

そちらはどうやら「権力」という言葉をフーコー的な権力作用論の意味合いで遣っておられるようですが、それはそもそもそちらが書き込む以前の言説の場で共有されていなかった文脈の意味性ですね。先程のブロガーとコメンターの関係とは別次元で、議論の手続として定められているのは、共有されていない文脈の意味性を持ち出す場合は、それを持ち出す側に文脈を特定する責任があるということです。

たとえばそちらが最初に「権力」という言葉をタームとして用いた場面で、それをそのような特定の文脈で用いていることを明示していれば、話はもっと簡単に通ったのであり、その場合はこの場で交わされている話題とは何の関係もないことがもっと早く判明したわけですから、これまでの議論は無駄だったということになります。

たとえばそちらが一言「フーコーの言うところの権力」と仰ってさえいれば、その瞬間に話は通じたわけですね。その場の人間に予めフーコーの思想について予備知識がなくても、フーコーと権力という二項が現れたのですから調べるくらいのことはするでしょう。そうすれば、少なくともそちらが一般名詞としてではなく、タームとしてその語を用いていることが明示されますから、最低限一般名詞としての用法と解される虞れだけはなくなりますね。

以降の議論でその場にいる人間が地下に眠るMさんの言う「権力」を一般名詞と解して語った言説は、そちらが議論の初歩的手続を無視したことで刷り込まれた先入観に基づく尤もな誤解なのですから、その誤解に基づいた言説を語る無駄な労力に対する責任は一義的にそちらにあるわけですよ。

本来は無関係な議論を持ち込むこと自体が見当外れで、最初から「誤爆」扱いされているわけですが、そちらのほうでは無関係だと思っていないのでしょうから、せめて文脈を特定してからタームを遣うのが筋というものですよ。

文脈を特定してその一般名詞をターム化するまでは、そのタームとしての意味性を踏まえた議論はいつまで経っても始められず、最も妥当性が高いのは、この場のすべての論者の間で共有されている意味性としての一般名詞として解することだということになります。そうするとそちらの主張はいつまで経ってもわけがわからないから、無用な質疑応答を繰り返すことになります。

>>>>自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまう
>>のは、自然科学が権力だからではにゃーでしょうか?

>>そして、科学が権力でなければ、科学主義という「イズム」は生じてにゃーのだろうとも付け加えておきますにゃ。

二つのコメントに書かれたこれだけの言及で、これが特定の文脈に基づくタームであることを理解出来る読み手は皆無でしょう。それは、後述するようにタームとしての権力の在り方とこの文脈を結び附けている理路が、この時点ではまだ地下に眠るMさん個人の中にしか存在しないからです。それを理解出来るのは、すでに語られた同様の意見を過去に聞いたことがある人(たとえばFREEさん)しかいないわけです。

この限りではこの語を一般名詞として解釈する以外にはないわけで、そちらが特定してもいないのにフーコー的文脈における権力のことだと解釈する合理的理由はなく、それを特定するのはそちらの責任です。

その上で、「科学(まあこの文脈では自然科学ですね)が一般名詞としての権力だから科学主義というイズムが生じた」という主張は、オレやapj さんにとっては見過ごしに出来ない主張だから、それに対する反論を語ったわけですね。まあ、こういう性格の元記事に附けられたコメントで誤解を流布する類の主張が為されたら、こちらは選択の余地なく対応しなければなりません。

しかしこれは、そちらが議論の手続を怠って「紛らわしい言説」を弄した為に起こった単なる誤解であり、それに費やした労力は「無駄」以外の何ものでもない。

それはまあ、人間ですからうっかりやミスはありますが、FREEさんのお話によるとそちらは過去に余所でも同じように語っておられて、FREEさんのほうでフーコーの権力であるかどうかを「確認した」と仰っています。つまり、同じ手続の怠りを懲りることなく何度も繰り返しておられるということになります。こういうのは、当たり前の意味での知的怠慢ということではないですかね。

議論というのは、必ずしも役に立つ言説ばかりが為されるとは限りませんが、その範疇で最大限効率的に廻していかねば無駄な言説ばかりが増殖してしまいますから、単なる手続無視で他人に無駄な労力を費やさせても顧みることがないというのは、まあ普通に謂えば知的に誠実な姿勢とは言えませんね。

まあとりあえず、これに対しては事後にリンクを挙げて特定したのですから、無駄な労力と言ってもコメント一往復程度です。それこそうっかりやミスは誰にでもあることなのだから、ひとまずは最大限そちらの主張に沿う方向でリンク先を視ながら考えてみましょうか。

>>だから、自由民主主義社会における公的権力の行使に際して、自然科学の知見を尊重するということは、その権力の具体的な行使の正当性を保障してくれることになりやすく、少なくとも自然科学の知見を尊重するというタテマエは権力行使の際には必要になることが多いのではにゃーでしょうか。責任を他人になすりつけることはほとんど役人の生理ですからにゃ。

>>以上、自然科学は公権力システムの中枢に組込まれていることは明らかではにゃーでしょうか。

ここまではウェーバー的文脈における「権力」の話をしておられるわけですよね。その権力とは法的根拠に基づく実体的な支配のシステムを謂うのだから、法によって定められているから官僚による支配は正当だという話ですね。この場合に謂う「権力」とは野村氏の分類によると「見える権力」で「実体/支配者/マクロ/抑圧的/否定的」な性格を持っているということになり、自発的服従という考えは踏まえられているが、従来的な権力観を脱する手前の実体論の段階に留まるということですね。

ただし、「自然科学が公権力システムの中枢に組込まれていることは明らか」というのは単なる印象に基づく地下に眠るMさん個人の断定で、何の根拠もないということになりますね。さらに言うとウェーバーの文脈で謂うなら「正当性」というのは人々が自発的に服従することの正当性という意味ですから、自発的服従それ自体を論理的に根拠附ける正当性という意味で、その権力の行使の具体が正当だから服従するという意味ではないことになり、この面でも理路や理解に混濁がある。

>>ニセ科学が商売になるのは、科学(的に見える)言説に対して「人びとの自発的服従」という事態が非常に広範に見られるからではにゃーですか?

で、この私的領域の「権力」というのはフーコー的文脈における作用論的なもので、それは「見えない権力」で「関係/匿名/ミクロ/産出的/肯定的」なものだという話になるわけですよね。

公的領域における「権力」は「見える権力」で「実体/支配者/マクロ/抑圧的/否定的」なものとしてウェーバー的な理路によって権力たり得るわけだから「現代国家は当然『合法的支配』であり、人びとは手続き上の正しさに対して服従し、納税などの義務を果たすのだ」ということになるわけですが、その正しさの印象を保証する為に自然科学が用いられているのではないかと仰っているわけですから、ウェーバー的理路に拠れば、自然科学の正しさの印象は、手続上の正しさによって成立する権力において本質的な成立要件ではないし、他の一般的な規範と同等の重要性しか持たないことになる。

寧ろリンク先の別項で語られている「歪められたコミュニケーション」の問題に近い話になってくるでしょう。

一方、私的領域における「権力」は「見えない権力」で「関係/匿名/ミクロ/産出的/肯定的」なものとしてフーコー的な作用論で自然科学は権力たり得るということになり、有効な規範であることで人々の自発的服従が得られているという話になる。これについて、そちらはこのように陳べておられます。

>>そして、この自然科学に対する私的領域における自発的な服従が、公的権力の行使において自然科学の知見を尊重することをいっそう促進し、公的領域における自然科学の尊重が私的領域における自発的服従をさらにおしすすめる。

ここでウェーバー的な合法性の「権力」とフーコー的な作用論の「権力」が、とくに機序を明示することなく相互作用によって強化されるという話がされていて、比較的一般名詞に近い概念のウェーバーの「合法的権力」が自然科学を尊重することで、私的な領域におけるフーコー的な作用論における自発的服従と相俟って、自発的服従がさらに推進される、という話になっていますね。

これはわかるようでいて実はよくわからない話で、二つの文脈の「権力」と、実体と観念のレベルの「自然科学」が、とくに機序を明示することなく相互作用によって自発的受容を強化すると論じられても、では具体的に何がどうなると仰っているのかが理解出来ないということになる。こういう次元の違う要素を組み合わせる場合に重要なのは、具体的な機序の道筋を語ることですから、そこが抜け落ちていると本当の意味では整合していない。何となく印象的に「そうか?」というレベルの話です。

一方、リンク先では、従来的な権力は歪められた情報によって正当性を装う、それに対しては社会科学的教育や情報公開に基づく反省能力が権力を開かれたものにするという説を語っているわけで、従来的な権力観では自然科学がさらに基礎を置く科学的規範が有効な反省のツールだという話になっているのだし、フーコー的な権力作用論の話になると権力の秩序維持機能的な文脈の話になって、権力というものは漸くマルクス主義的な構図を脱して批判の対象ではなくなるわけですね。

ならば、ここで「もっとも洗練されたスマートな権力」と結論附けられた自然科学というのは別段批判の対象ではないのだし、ここで陳べられた自然科学への自発的服従というのは従来的な権力観における実体的な「支配ー服従関係」ではないわけで、その意味では、ここでは科学主義の話はしていない。「自然科学とは権力だ」と仰ったそちらの発言の真意を解説する話だったわけです。

ここまででも相当混乱していて不親切でわかりにくい話ですが、これはこの限りにおいては単に何故そういう筋道になるのか論理的な説明がない、ただの恣意的立論にすぎないからわかりにくいというだけの話です。部品として用いられているのは社会学的知見なのかもしれないが、それを組み合わせて地下に眠るMさん個人の「説」としておられるわけで、その部分の理路に矛盾や飛躍があるという話です。しかし、

>>>>自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまう
>>のは、自然科学が権力だからではにゃーでしょうか?

というご意見を説明するコメンタリーとしては何も機能していない。自然科学が権力だと仰ったそちらのご意見の真意はわかったが、何故「攻撃的」に感じられるかの説明として機能していないわけです。これで説明が済んだおつもりのようだから「そのような権力として説明された自然科学が攻撃的な性格を持つからである」という意味だろうと類推するしかなくなるわけですが、そうすると、ここで挙げられている秩序維持機能の文脈における権力作用論の話とちっとも噛み合わない。

つまり、今なんでこんな話を言い出したのか、誰にも理解出来ない。

ここまで視てきたそちらのご意見は、自然科学という規範が秩序維持という観点において有効に機能しているという、それだけの説明でしかない。それはもうすでにこの議論の元記事においてオレが語った内容で、単に社会学のタームでそれを繰り返しただけの話です。しかし、それが何故か自然科学の攻撃性の根拠として挙げられているわけで、その関心において「何故ですか」という話になっているわけです。

自然科学の攻撃性を説明する言説として解釈するには、一種の権力批判と解し「権力としての自然科学にはネガティブな側面がある」というニュアンスと解するしかないが、そもそも権力を悪と見做す従来的な見方に立つ言説ではないのだから、それも矛盾している。ますます何を言いたかったのか理解出来ないわけですね。

では、最初から整理してもう一度考えてみましょう。元々この話は、

>>「ニセ科学批判」の立場のヒトにはどうも科学主義的な世界観のお方もけっこういるのではにゃーかとも感じたりしますにゃ。

という一文を受けて、

>>科学主義は積極的に批判すべき「イズム」のひとつであると思うし、自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまうことは理解できなくもにゃーのです。

>>>>自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまう
>>のは、自然科学が権力だからではにゃーでしょうか?

という話の流れで語られたもののはずですから、普通に読めば、

1.ニセ科学批判の立場の人には科学主義的世界観の持ち主がけっこういる。
2.科学主義は積極的に批判すべきイズムのひとつである。
3.自然科学の立場から何かを批判することは攻撃的に感じられる。
4.それは自然科学が権力だからである。

この四項はそれ自体論理的な関係性があるわけではないので、そう言い出した論者にはこれらを論理的に関連附けて語る説明を期待するのが当然ですね。しかし、このコメントでは4しか語っておらず、1、2についてはまた今度ということでひとまず捨象するとしても、肝心要の3は何処へ行ったんだという話になる。そもそも3と4の関係においては、3が本来的な論点で4はその理由を説明する為に語られた補説のはずだが、この時点で何故か4自体が目的化されている。

で、はっきり言えば、この場で共有されている文脈において、4というのはそちらが個人的に論じておられる説であるに過ぎないのだから、主要な関心の対象ではない。自然科学というこの場で共有されている主要な関心対象の否定的特質を説明する言説であるから関心対象で在り得るのであって、表現された主要な関心対象の特質の説明と成り得ていない言説は、当人以外の誰にとっても関心対象では在り得ない。

1〜4の項目のうち、この場で共有されている文脈においては4は論者当人にしか関心を持たれていないのだから最もどうでも好い話であって、この場における主要な関心対象に対して、4の個人的立論に基づかねば説明出来ないことを言い立てているのはそちらのほうなのだから、少なくともこの場にいる他の人間に対して理解可能な形できちんと説明する責任がある。

ここまでの段階で、無説明でタームを濫用するという初歩的な手続無視で他の論者に無駄な労力を費やさせても自身の責任であることを認識せず、さらにこの場で共有されている主要な関心との関連において派生的に関心が持たれているに過ぎない自身の個人的な立論を語って満足し、さらに他の論者がその都度コメントするまで自身の言説の構造的欠落に無自覚な姿勢に、かなり苛立ちが生じるわけですよ。

そちらの手続無視や文脈無視によって、さらにもう一度無駄なコメントの遣り取りが交わされるわけですが、どうもご本人には、それが一般的な議論の手続上不誠実な流儀だという認識がない。相手に対して不当な無駄を強いているご自覚がない。

この場の誰も地下に眠るMさんのご高説それ自体に興味があるからお話を伺っているわけではなく、ここを覗いていたり書き込みをしたりしている人間が共通して抱いている関心対象に対する言及としての意味において関心を抱いているに過ぎない。

つまり、次のターンにおいて地下に眠るMさんが真っ先に語らねばならないのは4の立論に基づいた3の説明であるべきなのに、この時点でそちらが最も関心を持たれたのはオレがそちらの言説を誤読しているという、他人にとってはどうでも好い事柄であったわけで、それが決定的に議論をなし崩し的にどうでも好くしてしまった。

>>科学主義はイデオロギーであり「イズム」であり、批判の対象としているけれども、自然科学を批判の対象とはしてない、という前提において、僕の投稿を頭から読み直していただけませんかにゃ?

それはわかったけれど、それについては今まで何にも実になることを語ってないじゃないの、その前提がないという前提で読み返せばそれに気附くのではないですかね、という意味ですよ(笑)。そちらがこの時点までに語ったのは、自然科学が権力だという発言に対する説明だけで、それだけでは他者に対して何の価値もない贅言であるだけです。

鼬ごっこというのは、手続無視を指摘されてから漸くタームを特定し、何を語っていたはずなのかを指摘されてから漸く「こういう話だった」と説明するような、常に後手後手に廻る無駄の多い言論の姿勢を言っているわけです。そんなに穴だらけなんでは、この先一体どのくらい無駄が続くんだ、そういう話をしているんですよ。

今更そういう話をしているんだと仰るなら、他人に無駄な手間をとらせずに自分の中で整理して最初からそういう話をすればいいじゃないか、という意味なんですが、全然伝わってないですね。

一応確認しておきますが、科学主義という言葉をそちらが最初に持ち出された時にすでにオレは「調べて」いましたので、おおむね意味はわかっているつもりですし、その理解において遣っているはずですよ。頓珍漢に自然科学と科学主義のターム上の混同だなどと騒ぎ立てたら、お話がまったく通じていないこと、つまり他人が何を言っているのか理解出来ていないこと、それどころか今この場で何を話し合っていたのかすら覚えていないことを暴露するだけで、恥をかかれたのはそちらですよ。

そもそもオレが最初に疑問を提示した1の問題性に関しては、こちらとしても何度も反論させて戴いているのに、誠実にご対応を戴けたという感触を持っていない。最終的には「一定数の声が混じること」というような当たり障りのない範囲に修正されたようですが、折角直接対話して反論しているのだから、何処をどの程度受け容れたのか確認して戴くのが議論の手続というものでしょう。そうでなければ、たまたまこういう言い方になっただけなのか、認識が変わったのか第三者には確認出来ません。

そちらがずっと拘っておられたのは、ご自分の意見にちゃんと誠意を持って理解努力が払われているかどうかという他人にとっては最もどうでも好い事柄だけで、他人にとって最も重要なそちらの誠実な説明努力に関しては穴だらけで、他人に無駄な労力を強いなければ最後の「まとめレス」程度の、この場の文脈上窮めてどうでも好い当たり障りのない言葉遊びすら提示出来なかったでしょう。

つまりですね、最初からきちんと他者に対する説明責任を意識した説明努力を払われ文脈に沿った適切な説明範囲を認識し無駄を省いて論理的に語る能力さえあれば、そちらのご発言を巡る他の方のコメンタリーの九割方は、単に足りない部分を引き出す為の合いの手にすぎず、他者視点でははっきり言って無駄な手間なんですよ。そういうふうな合いの手を出すのは、本来は論者が説を語り出す前の自問自答と語り出す記述のプロセスにおいて論者自身が果たすべき役割なんですよ、普通はね。

ところがそちらは、第三者が自身の言説を読んでどのように受け取るかという客観的視点が欠落しておられるのか、毎度毎度何かを言い漏らしたり特定し忘れたり論点を外されたりするので、逐一文脈に沿って誘導するのに手間が懸かって仕方がない。

そちらがまとめレスで書かれたような、大半放棄されてしまったような思い附きの主張を語る為に、apj さんやオレが「ああではないか、こうではないか」と散々に確認し、FREEさんが「この方はこう言ってるんではないか」と補足して、漸くそちらはその程度の言説をまとめ得ただけで、地下に眠るMさんの千鳥足のご高説に三人の人間が辛抱強く附き合ったことで最終的に得られたのは、「僕の発言を誤読している」という自己中心的な恨み言の大暴れだけ、というのは大した議論の収穫でしたね。

そして、如何にブログスペースが公に開かれた言説の場だからと言って、個々のブログはその管理者が私的に維持している有限のリソースなんですから、そこにコミットする以上は、良識ある大人として振る舞って戴かないと、リソースの無駄遣いなんですよ。

最初にそちらが、たとえば「説明不足」というご自身の説明責任を意識した言葉でもなく、「誤解」というコミュニケーションの齟齬を意識したニュアンスの言葉でもなく、いきなり「誤読」という読み手側に誤りの責任を一方的に帰すタームを持ち出された時点で、オレの地下に眠るMさんに対する印象は決定的に裏附けられたわけで、この人はご自身の説明責任について一切ご自覚はないが、他人の理解努力については一方的に要求される自己中心的な心性の方なんだな、と判断したわけです。

何もオレが好き好んでこの場で地下に眠るMさん個人のご高説を語ってくれと頼んだわけでもないのに、勝手にこの場の文脈とは無関係な話をしておいて、それを他人が理解しないことを相手の責任として追及する方であり、その何処が間違っているかすらわからない方なんだな、と思ったわけですよ。

誰からみてもウンザリするようなつまんないキャラ作ってる余裕があるなら、もう少し知的に誠実な姿勢を心懸けて戴けませんか。普通に書かれていても意味を通じるのに多大な困難がある未整理な千鳥足の立論が、「にゃー」だの「にょー」だの鬱陶しい語尾が附いているお陰でさらに読みづらい。読みづらくて議論の手続を無視していて立論が千鳥足で今何を話しているのか忘れていて他人が整理してくれるまで思考自体が未整理というのでは、誤読だ何だと騒ぎ立てる資格が何処にあるんですかね?

せめて他人のブログで他人同士が交わしている対話に参加する以上は、文脈を共有して可能な限り自身の考えを整理し、出来るだけ明快な発言を心懸けて戴かないと、単にそちらのご意見が誰にも通じないだけではなく、他人に無用な労力を強いる不毛な謎掛けになります。しかし、有り体に言えば、ご当人以外にはそんな無用の労力を払う責任などないのであって、本来この場合、知的誠実性に対する努力義務というのは地下に眠るMさんに一義的に求められることなんですよ。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月28日 (月曜日) 午後 06時12分

>地下に眠るMさん

また、これを指摘するのはご本人の意志に反することだとは思うんですが、どうもそちらはFREEさんのコメントを誤解しておられますね。FREEさんは、そちらの一連の言い分を「整理」したのではなく「整形」したのです。一瞬見過ごすところでしたが、実を言えばFREEさんのまとめはそちらの言い分そのままではなく、おそらく意図的に論点をずらしてあり、一部ではそちらの主張に反する部分もあり、いわばそちらの言説に「下駄を履かせた」のですよ。

>>・科学には科学主義の一面を社会に対して意図しなくても持っている。

そもそもこれは、科学者の話でも科学主義者の話でもないわけです。「社会に対して意図しなくても」という部分が曲者で、一般に受け取られている「科学という概念」には「科学主義という概念」の生産能があるという話であって、科学主義者がいるという話をしているわけではない。科学が規範としての実効的な力を持つ以上、科学的に正しいという印象が人々の自発的受容を促しているという話ですね。

>>・故に科学がニセ科学を批判する事は「科学主義を内包した科学」が「抽出された科学主義」を批判している事であり内ゲバ手ある。

規範としての科学の力にはその規範を自発的に受け容れようと促す作用があり、その作用の故にニセ科学は成立しているのだから、ニセ科学批判とは、自然科学が持つ影響力の結果として生じたものを自然科学自体によって批判する行為だから内ゲバ的だという話であって、要するにこれは「概念上の比喩」であり、シュギシャ同士の内ゲバという実体を想定する具体論ではない。

この場で謂われている「科学主義」というのは「自然科学という一般概念」が社会に対して内包している「自然科学は正しい」という「強い印象」のことであって、「自然科学は絶対的に正しいと信じるシュギシャ」という行為者の想定ではない。つまりこのまとめによると、

1.ニセ科学批判の立場の人には科学主義的世界観の持ち主がけっこういる。

という具体的行為者の次元の一項は綺麗に抜け落ちてしまうわけで、オレやapj さんが地下に眠るMさんの言説に対して関心を持っているのは、最終的にこの一項の粗雑な断定に過ぎないことを見越して「そこはもう主張しない」という前提のまとめに整形されたわけですね。

このまとめに至るまでの地下に眠るMさんのコメントでは何故か、

4.それは自然科学が権力だからである。

という、あなたが得々と語る分には気持ちが好いだろうが、他人にとっては一番どうでも好い部分しか語られておらず、その立論によって語られるはずの、

1.ニセ科学批判の立場の人には科学主義的世界観の持ち主がけっこういる。
2.科学主義は積極的に批判すべきイズムのひとつである。
3.自然科学の立場から何かを批判することは攻撃的に感じられる。

という、相手が地下に眠るMさんの立論に期待する理路の説明がまったく語られていないのだから、いい加減もう周囲の人間はそちらのお話に興味を喪っているわけなんですが、途中で他人が自分の立論に附いてきていないと癇癪を起こされてそちらの話一色になって、ますますどうでも好い話になってしまった。

オレが「一種筋の悪い『説』の構造」と言ったのはそういうことです。オレの読み解きにもいろいろご不満はあるのかもしれませんがね、細部がどうこうというより全体の論述の構造にふらつきや飛躍があって論理が破綻しているんですよ。それに気附かれないということは、つまりあなた自身、途中で自説に自己陶酔して「自分が何を話していたのかわからなくなった」ということではないですかね。

その場その場のコメント内の自説の整合をチェックして「変なことは語っていない」と解釈されたのかもしれませんが、どういう文脈に沿ったどういう目的性と理路において今現在発話しているのかという最も重要なことがどんどん見失われている為に、結局は論理の破綻した論述の構造になってしまったんではないですかね。

だから、ここらが引け時だろうと視たFREEさんが「この人はおそらくこういうことが言いたかっただけだし、それはよくあるメタ的分析なんだから、そもそもここのお話とは関係ないんですよ」という「体」にして議論を収めようと図ったわけです。これはオレのような嘘吐きから視ても一枚上手のお見事な知的詐術でした。

で、この方が地下に眠るMさんが仰りたかったことを類推出来たのは、他の場所でも遣り取りを交わして探りを入れていたからで、この場の言説のみによってそのように類推されたわけではない。そういうお話も仄めかしてありますね。だから「この人は何処でもこういうことをこういうふうに言っているんで、気にしないでください」という含意で「よくあるメタ的分析」という一言で切って棄てているわけですね。

で、それでいて、

>>ここまでは良くあるメタ的分析ですが、問題はなぜ科学がニセ科学を批判する事の批判的根拠として持ち出しているのかが理解できません。

という辺りを押さえているのも抜かりがないわけで、メタ的分析であるならそれは概念レベルの話であるべきなのに、何故か具体的な行為者の次元でそういうシュギシャがいて批判し合っているという話になっているのは整合していないが、おそらくそれは結論に飛躍があるのであって、メタ的分析から結論に至るまでの理路が語られていないだけだろう、でもこの場の文脈とは関係ない話だから、もうそれを問うのは意味ないでしょう?という底意じゃないですかね。

>>この話は科学がどうのこうのという話ではなく、「批判は他のレイヤー・構造の外からなさねばならない、「知」が権力であるとして「知」の内部で知の在り方を問うことは正しくない」という話になると思います。

まあ、自然科学が不可避的に「正しさの印象」を有しているなら、その印象によって生起したニセ科学という「誤り」を正すことによってますますその「正しさの印象」は強化されるのであり、その限りにおいて自然科学が科学主義という概念を生産するという特質は自然科学内部からの批判では撃つことが出来ない、つまり、自然科学が不可避的にニセ科学を産み出してしまうような機序自体を問題性として扱うことは自然科学の内側からは出来ない、その程度の意味でしょう。

つまり、自然科学それ自体の正しさと、ニセ科学の誤謬という二項を想定すると、ニセ科学の誤謬を自然科学の正しさが修正する行為「それ自体」が「正しさの印象」を強化するという話なのだから、そこにシュギシャという具体的行為者が介在することはこの理路とはまったく無関係であるということになります。

寧ろシュギシャを織り込むとシュギシャ自体の野蛮な似非性(自然科学は絶対であるという命題の非科学性)とそれに対する社会の感覚的反撥(科学だけが絶対じゃない「はずだ」的な)の故に、自然科学の正しさの印象が弱められると考えるのが理屈というものでしょう。それ故に、このお話はまず観念の次元の話であるととるのが妥当ではないかと思います。

それはそれ自体として耳を傾けるべきご意見ではありますが、たとえばこういう問題性に対しては、poohさんやTAKESAN さんやdiltさんのように、自然科学の外側からニセ科学批判の試みを探っておられる方がたくさんいらっしゃいますので、そもそも現状のニセ科学批判の論壇には織り込み済みの観点ではあります。さらに言えば、ここでこういうふうに仰ったFREEさんにとっても、それが論壇に織り込み済みであることまで含めて織り込み済みのご意見だということでしょう。

おそらくニセ科学批判と一口に言っても、菊池さんやapj さんという、poohさんのブログで伺った「イノベーター」という立場に当たる方々が自然科学の規範においてニセ科学の欺瞞を原理主義的に撃つとしたら、それを受けて他の論者が社会に向けてブログ言説として情報を発信する過程においては「その外側のレイヤー」の立場で「正しさの印象」がもたらす負の影響に対して何らかの言及を加え、「自然科学に内包される科学主義」を撃つという階層性になるでしょう。

この場合に混同されてはならないのは、飽くまでそれは概念レベルにおける問題性の捉え方であって、シュギシャのレベルの具体的な論では毛頭ない。自然科学にコミットする人々のマッスの中にシュギシャのマッスがあって、ニセ科学という同じシュギシャと抗争しているという話ではないわけです。

シュギを産み出すということとシュギシャを産み出すということは、一文字違いで大違いなわけですが、地下に眠るMさんの立論にはここに決定的な混濁がある。大枠においてはシュギの話をしていながら、何故かいつもシュギシャの話に舞い戻る。つまり、動機と理路が一致していないのだから、その意味でこの論の進め方は相当「筋が悪い」。

つまり、本来この理路に立つなら、地下に眠るMさんが指摘する「ニセ科学批判に一定数の科学主義者の声が混ざること」など「一定数ってどんだけよ」とか「いろんな人がいるからねぇ」でオシマイになって本質的な問題性ではなくなるわけです。そちらの言い方に倣うなら、シュギというのは中心だがシュギシャというのはおしなべて「周縁」だと言っても構わないことになる。

その意味で、オレなんかが扱っている問題性も「科学的に間違っている」という部分の指摘ではなく、「科学だから正しい」という盲目的信頼に対する言及と言えるわけで、FREEさんの文脈で言えばこれも科学主義批判ということになる。つまり、視座の置き方によってニセ科学批判とも科学主義批判とも言えることについて語っているというそういう話になるわけで、だから「よくあるメタ的分析」という程度の話になるわけです。

要するに、それは言葉遊びに過ぎないんですよ、という話ですね。シュギシャの話がしたかった地下に眠るMさんの言説を、シュギシャの話が出ようもない言説に整形して八方円満に収まるようにオチを附けられたわけです。本当はFREEさんもシュギシャの話をしている地下に眠るMさんの理路は破綻していると思っているけれど、それをあなたに悟らせない形で表明されているわけですね。

この方がなんでこんなことをこのタイミングで言い出したのかと言えば、オレの警告を受けて地下に眠るMさんがもう撤退されると踏んだからで、それは他人のブログに書き込む以上、普通のコメンターなら誰だってそうするからでしょうね。これまでのあなたを識っているからそうしないかもしれないとは思ったが、そうして欲しいという望みを込めてそういうふうに仰ったということではないでしょうかね。

そこで、そちらのこれまでの言説が言葉遊びとしてはこんなモンだったんですよ、と下駄を履かせ、その一方でこちらが地下に眠るMさんの言説に関心を持つに至った論点については無効化し、つまり双方の顔を立ててこの辺でキリにしませんか、というお膳立てを用意してくださったわけですね。

簡単に言えば、地下に眠るMさんに退路を用意してくださったわけです。このように目配せすれば、この人は自分の知的能力にプライドがあるだろうから、不合理で自分に不利な行動はとらないかもしれないと思われたのかもしれません。まあ、そちらがまとめレスでシュギシャの話を蒸し返してそのお志を台無しにされたんで、FREEさんも今頃大変落胆されていることと思いますけどね、何故かこの方は地下に眠るMさんに対して、安易に同調はしないが割合好意的であるように感じました。

「見るに見かねて」というお気持ちが言外に顕れているような気がして、その意味でこの方のコメントにレスするには、そのお志を酌む必要があるのでちょっと難しかったんですが、わざわざあなたが「まとめについて訂正」されるというのは、そのご厚意が少しも伝わっていなかったということで、窮めて残念です。

オレのほうでも、そろそろウンザリしたからお引き取り願えないかという底意であのコメントを書き込んだわけで、コメンターに撤収を要求するのは一般に管理者サイドに許されている権利と見做されていて、それに遵わないのは「荒らし」だけだと認識していたのですが、地下に眠るMさんがあのような要求を訴えられたのを視て、相手のネットワーカーとしての常識を過信していたことに気附かされ慄然としましたね。

もしかしてこの方は、オレがここのブログの管理者であることをご存じないのだろうかとすら思いましたが、そうだとすると、看板すら視ずにコメントを書き込んでいるという物凄く乱暴な話になるわけですが。

普通なら、管理者サイドがこういうふうに警告すれば「脅されたから」という理由で撤退することには名分が立つんですよ。こちらのほうでも散々無駄なお喋りに附き合わされたんだし、少しは癪な気分を我慢して貰わないと引き合わないからちょっと意地悪な言い方をしましたけどね(笑)、普通なら、あれで撤退しておけば「痛み分け」で済んだんですよ。

たとえばそちらが余所で「黒猫亭という奴も意気地がにゃー、旗色が悪くにゃったら出て行けと言いやがったんで、やっつけるにょは勘弁してやったにゃー」というふうに今回の武勇伝を語られても、オレはわざわざ訂正しに行ったりしませんよ、まあその線で納得して戴けませんかね、というお話をしていたんですよ。それをどう判断するかはその説明を聞いた第三者が勝手に考えれば好いことですしね。

別段オレも不当な脅迫をしたわけではないし、実際にこうして警告通りの内容のコメントを書き込んでいるわけで、それはそちらが自己責任で選ばれた選択肢ですから仕方のないことです。しかし、本来そちらの立場では、FREEさんが退路を用意してくれた上で筋道上の撤退の名分も立っているんだから、これ以上議論するのは本当ならオレにとっても地下に眠るMさんにとっても無意味で無駄な労力なんですよ。議論の続行を選ぶというのは、まあ誰が判断してもあの時点で最も知恵のない選択肢です。

なんでこの議論が続いたのかと言えば、「地下に眠るMさんの気が済まなかった」という単にそれだけの理由です。ご自身が引き際を見失ったせいで他人が用意してくれた撤退の道筋なのに、それを感情的になって蹴り、管理者の圧力に反撥して感情的になって暴れたから、これまで散々他人に無駄な労力を費やさせたということを明らかにするだけの議論が、更なる無駄を伴いつつ今に至るも続行中、というわけです。

本音を申し上げますと、もういい加減にして戴きたいというところです。本当にあなたは手の懸かる方だ。大して関心もない議論にちょっかいを出す手際の野暮ったさにもウンザリだし、ご自分が何をおわかりでないのかすらわからない未熟さや、他人の厚意や腹芸の真意も理解出来ない空気の読めなさにもほとほと呆れました。そういう感覚こそが一般に社会的能力と謂われているものなんじゃないですかね。

相手に自分を理解しろと要求する前に、あなたが他人を理解する為にどの程度の努力を払っているかを一度真面目に考えてみられては如何ですか。

議論に負けたらどうなるのか教えてくれと仰いましたが、その程度のことも想像出来ないというのはどうなんでしょうね。単にそちらが書き込みしてきたら、つまらない言葉遊びを愉しむだけの為に周囲に無駄な労力を払わせた挙げ句、自分の裁量で撤退する知恵もないからいろいろ面倒臭いということが、また一つ明確な言葉でネットに書き込まれるというだけですよ。

まあ、実際にこうして書き込まれたわけですが、これとても「ニセ科学批判批判」という割合多くの人々に関心を持たれているテーマを語る記事に附いたコメント群の流れにおいて突発的に起こったトラブルを解決する為に、「地下に眠るMという特定のコメンター」という不特定多数にとっては窮めて関心の薄い対象を語る言説でしかないのですから、はっきり言ってリソースの無駄遣いです。

その結果、まあ今まで地下に眠るMさんをこんな人だと視ていた人はまた一つ憂うべき実例を視るわけだし、そちらの存在を識らなかった人は、こういう人だからウチでは相手にしないことにしようと考えるという、要するに「世間がますます狭くなる」というだけの話ですね。本当ならオレ個人にとって徹底的にどうでも好いことで、売られた喧嘩は基本的に買うというポリシーだからお相手させて戴いているだけです。

たとえば地下に眠るMさんをご存じのapj さんとても、ご自分が特定の文脈を踏まえて一定の労力を費やして論じておられた議論に識り合いが無神経に割って入って引っかき回した上に、散々ゴネて大暴れをされたんでは心苦しいというのが本音でしょうし、今後そういう経緯を踏まえてそちらのお相手をされることになるでしょう。

今後余所でapj さんが書き込んでおられるところにそちらが割って入ったら、今回のようなことにならないように牽制されるでしょう、というか、今回も真っ先にそういう牽制を受けていたはずですよ。そういうことが続けば地下に眠るMさんの世間はどんどん狭くなる。ネットの言説というのはその場その場で「ネットの恥は書き捨て」ではありません。まあ、「ロムのみにゃさまは忘れにゃーように」というところですかね(笑)。

apj さんのところの掲示板でも、何処其処でこういう経緯があったから誰それは書き込み禁止、みたいな但し書きがあるでしょう。ああいう人の仲間入りをして、多くの人に周知されたいからゴネてらっしゃるんですか? 経験というのはその都度リセットされるのではなく、人々の間で記憶や記録として蓄積されていくのですよ。

オレとしてもこれ以上無駄な議論を続けるのは不本意なんですが、第三者の方が、たとえばご自分のブログで地下に眠るMさんの書き込みを禁じるとか、ゴネそうになったら強制的に排除する、書き込みを削除する、或いは無意味な議論を拒絶する為の合理的根拠として引き合いに出せるよう、一応こうして地道に検証してテキストを用意しているわけです。オレ自身が今こういうふうに言及したことで不特定多数へ引用の許諾を与えた形になるのだから、今後確実にそういう方が出て来ます。

ここでこういうことがあってこういうふうなことが書かれたとURLを貼れば、地下に眠るMさんが納得しなくてもその場にいらっしゃるあなた以外の第三者が「この人の言論姿勢には他の参加者を不当に圧迫する欠点がある」と納得されれば、それは排除の根拠として有効になるわけですから、そのつもりで書いています。そもそもオレの批判はこの言説の場の範囲内における地下に眠るMさんのご発言に基づいているので、ここだけを読めばオレの批判が妥当かどうか第三者に判断可能であるということになります。

この場からそちらを排除するだけではなく、可能性としてある将来的なこのような事態において、無駄なリソースを費やすことなく事態を効率的に収拾可能なように、合理的根拠を用意するという意義において、ゴチャゴチャと混濁した千鳥足の言説を苦労して読み解きながら議論を続けているわけです。この読み解きに不満があるというなら修正されても結構ですが、それは地下に眠るMさんの言説における問題の本質ではありませんので、こちらとしては痛くも痒くもないというのが本当のところです。

あなたの言説に言葉遊びという以上の意味がないということは、すでに確認されていますのでね。このコメントを書いた以上、あなたが「これが言いたかったんだ」と仰るのならそれを受け容れるし、訂正しろと仰るのなら幾らでも訂正しますよ。もうそれは誰にとってもどうでも好いことなので。

オレが常々当ブログで実践している方法論というのは、多くの人々に関心が共有されていながら明確な言葉にしにくい事柄や縺れ合ったややこしい筋道を、何とか掴み出した上でわかりやすい言葉にするという営みですから、今回のコメントでもそのような意義を踏まえて語らせて戴いています。つまり、この場合なら多くの人々が漠然とあなたの言論姿勢に対して抱いていた不快感の正体を、明確で合理的な言葉として説明するということになります。

このコメントでオレが列挙したあなたの言論姿勢に対する批判は、どれ一つをとってもブログへの書き込みを禁じて排除するに足る合理的な根拠として掲げ得ます。それがこれだけ多岐に渉って複合しているというのが「地下に眠るMというコメンター」の特徴であるということになりますから、まして況やというところです。

あなたのお人柄に関しては、過去の経緯をご存じの方に少しお話を伺いましたが、擁護される方でも「動機において悪意はない」という一点を挙げ得るのみで、言論姿勢自体や言説の価値を擁護される方は皆無でしたね。その僅か唯一点を以てして、一概に排除するのは気の毒だと思ってくださる方のご厚意に応えたいとは思われないのですか?

あなたの言説に対して誠実に向き合わねばならない、真摯に理解の努力を払わねばならないと人々が感じる為には、あなた自身がご自身の言論姿勢を正し、考察や言論の質を彫琢して自身の価値を公に示す必要があるのであって、他人に誠実に向き合おうともしない一コメンターに対して、あなたが要求するような誠意を不特定多数の人々が当然のように尽くす義理や責任など、この世の何処にも存在しないですよ。そんなものが無前提であなたに与えられた当然の権利だと考えておられるなら、遠からずあなたの声に耳を傾ける人などいなくなります。

たとえば、今この場ですらあなたは、あなたの為に良かれと思って出されたFREEさんの助け船を、その真意を解そうともせずに脳天気にもやいを解いて水に流してしまわれたのですから、これでまた一つFREEさんのあなたに対する好意の欠片が摺り減ったのではないですかね。そういうふうにして、これまでどれだけ他人の厚意や誠意に気附かず足蹴にしてこられたのか、その結果、あなたの世間がどれくらい狭くなっているのか、まあそういう陰気な想像をしてもつまらないですね。

唯一つ言えるのは、そういうふうに他人の厚意や誠意を足蹴にし湯水のように無駄に蕩尽される方には、他人に現状以上の誠意を要求する資格などないということです。

別段、オレがこの場でそちらに論破されたからと言って、オレが多くの人に共有されている議論の手続を踏まえ、世間で保証されている真っ当さの基準に従う限り、誰もオレを責めませんが、あなたがこの文脈で下手を打てばどんどん世間が狭くなる。

賭けられているものの重みが違う上に、あなたがオレを不誠実だと非難する為に論証しなければならないのは、当たり前の読み手なら誰でもあなたの語っていることを簡単に理解出来ているはずだという窮めて証明しにくいこと、そしてあなたにとっては剰り面白くないことなのだから、ハナから割の悪い勝負だったんですよ。それを憂えて無駄かもしれないと識りつつ止めてくださった人がいたわけですよ。

あなたが誤読だ不誠実だとこちらの姿勢を非難されたことに関しては、長々と言葉を尽くして原理原則から説き起こすという労力を費やしてまで反論させて戴きましたから、今度はあなたが他人に不当な無駄をさせないよう、誠実に振る舞う番でしょう。

今後もネットで書き込みを続けたいのなら、それを踏まえた上できちんと大人の常識に従って対応されたほうがよろしいかと思いますよ、只の老婆心ですが。それこそこのエントリーのアクセスは当ブログとしては異例のレベルで、あなたに関するトラブルが始まってからは通常の一〇倍以上の参照数がありますから、たくさんの人が視ています。

炎上と喧嘩はネットの華とはいえ、皆さん、物見高いですよね(笑)。あなたと「遊んでくれる」奇特なお志をお持ちのお識り合いの方々も大勢視ているはずですよ。

あなたがそれまで何の知遇もなかった赤の他人のブログで、ご自身の未熟さの故に要求する筋合いもないことを要求して傍若無人な大暴れをしたことを目にしたら、もうこいつと「遊ぶ」のはやめようとお考えになる方もたくさん出て来るんじゃないですかね。その為には、ここの議論を踏まえれば問答無用のアクセス拒否や削除で対処しても構わないことになりますから、今までよりもずっと簡単になります。コメンターとしてのあなたの言説は「人目に触れる機会すらなくなる」ということになります。

何処かで排除されたら別の場所に書き込む、そうすると誰かがひっそりURLを貼っていく、そこでも排除される、そういうふうにしてあなたが書き込める場所はどんどん少なくなっていくかもしれませんね。繰り返しますが、あなたが特定のハンドルに愛着を持ってネットに書き込みを続ける限り、「ネットの恥は書き捨て」ではないんですよ、決して。

そうなったら、ネットの片隅でひっそりとご自分のブログでも始められますか? 他人の家に押し掛けたら、そこの主人はどんなに不愉快な客でも一応相手にしなければならないけれど、厭な人の家にわざわざ訪ねていくお人好しはいませんよね。あなたを識っている人は誰も来ないし、精々論宅さんのようにケーススタディ用のヲチ対象になるだけだと思いますが、まあそんなことはオレの考えることではないですね。あなたが議論に負けたらどうなるのか教えてくれと仰るから、つまらない辻占を語ったわけですが、勿論オレは占い師ではないのでこの占いはインチキです。当たらないといいですね。

そちらの今後のご対応次第では、オレが問答無用で地下に眠るMさんの書き込みを削除しても名分が立つことになりますし、事前にその為の根拠を提示する意味でもこうして書かせて戴いているわけですから、これまで以上に慎重なご対応を望みます。プロセスを保存する意味で過去のご発言を削除するようなことは致しませんが。

勿論、他人のリソースを無駄に使わないという意味でこの儘黙って撤退されても、追及は致しませんし、欠席裁判のような真似事もしませんからご安心ください。オレが望んでいることは、これ以上無駄なことの為に無駄な労力と無駄なリソースが無駄に消費される無駄を防ぐことなので。

断っておきますと、このコメントへの反論であなたが「にょー」だの「にゃー」だのつまらないキャラを演じるのは自由ですが、それで少しでも幼稚で感情的な内容が書いてあったり何某か誠意の足らざる部分があると感じれば、「その次からは」遠慮なく削除させて戴くのでそのおつもりで。勿論そのコメント自体はプロセス保存の為に削除せずに残しますし、オレのその判断が正しいかどうかは、あなたが「次に」書き込む場所の周囲の対応でわかるでしょう。

つまらないことに一ミリでも労力を割くくらいなら、不特定多数の読み手に一ミリでも真意を酌んでもらえるよう、全力で真摯に対応しないとインチキ占いが当たりますよ。何処かで「『勝手に勝利宣言』は許さない」と語られた言葉を聞かれたあなたなら、おそらく誠実に応じて戴けるとは思いますけれども。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月28日 (月曜日) 午後 06時13分

黒猫亭さん、元の議論の流れの方で少しコメントを。

>科学者が科学万能主義に染まっていたのは一九世紀後半から二〇世紀前半とかえらい昔の話であって、以前のエントリーで語ったように宗教的迷妄に対するアンチとしてそういう理性過信の姿勢が現れて、けっこうこの方法論でとことんまでイケるんじゃね?的な自信として続いたんでしょうが、

 その時代は物理学の方でニュートン力学と電磁気学が完成した頃でして、これで自然は全部記述できるだろうという希望的観測を持った人はそれなりに居たと思います。黒体輻射の説明をするのに、当時正しいと思っていたモデルでは、温度と出てくる光の色(スペクトル)が食い違うということはあったけれども、ある時期までは多分そんなに深刻な問題とは思われていなかったかと。
 ところが、電磁気学とニュートン力学の統一しようとするとうまくいかず相対論が出て、黒体輻射やらミクロな世界の記述やらは実はこれまで知られていた知識とは似ても似つかない量子力学であることがわかり、決定論的なニュートン力学では足りなかった部分はカオスになったわけでして。これらが20世紀の物理学の核になった。

>おそらく七〇年代の時代性では、そんな脳天気に科学万能主義を謳う科学者はすでに絶滅寸前だったはずなんですが、自然科学によらず専門的な領域の実感が一般大衆に伝わる速度が、今とは格段に違っていたような気がします。

 このあたりは、科学と技術を区別しないで、導入した日本の特殊事情もありそうです。「科学技術」と、一つのものとして語ることに普通の人はおそらく違和感を持たないでしょう。ですから、現実に起きている経済発展とそれを支える技術の進歩というのが、科学万能というイメージに結びつきやすかったのではないでしょうか。詳しく論じるほど私の理解が進んでいないので、これは私の抱いている印象のレベルなのですが。
 知り合いがヨーロッパの雑誌に論文を投稿したときのレフェリーのコメントに”Science should be distinguished from technology.”と書かれてあったのを見たことがありまして、向こうでは科学と技術は別の概念なんだなと思ったこともありました。
 情報伝達速度については同意です。今みたいにネットは無かったし、情報流通の経路も限られていましたから。

>当時の文芸作品なんかを視ると、とにかく専門的領域に対する描写がかなり杜撰でご都合主義的にお話の都合で潤色されていますから、そういう事情もあったんではないかと思いますね。

 確かにそうですね。
 でも、最近でも侮れませんよ。アニメや特撮に出てくる科学者のステロタイプとして「白衣を着ている」といのがあるんですが、仮面ライダーThe First では、ホールで講演する主人公が白衣姿で登場して、「水からの伝言」モドキの研究成果を発表していましたorz。「水伝」ネタにも脱力しましたが、同時に、いくら何でも、シンポジウムの会場で登壇者が白衣ってのはねぇだろうとずっこけました。

投稿: apj | 2008年1月29日 (火曜日) 午前 02時07分

>技術開発者さん

すいません、タイミング的に凄く長いコメントに埋もれる形になってしまいました。

>>なんていうか、社会秩序が乱れるような事、例えば人を何か騙すような事、に対して自然に嫌悪感があり、自然に禁忌感がある社会では、教育というのはその自然な流れに対して、「まあ、何か同情する理由があるかも知れないから、詳細を聞くまで感情にまかせるのは良くないよ」と教えるという形で為される訳です。

そうですね、真っ当さ、健全さの感覚のある社会においても、論理性の欠如が不幸にして不当な暴力性に傾くことがある。そのような社会をより良いものに近付けていく為に論理性に基づいた判断力を教育するという関係になるはずが、今は「愚かしいことをしない」ということが強調されすぎている気がします。

何度か申しあげているように、当ブログの表芸はトクサツ評論なんですが、トクサツの世界でも「正義への懐疑」というのが大きなテーマにはなっています。ただ、正義への懐疑という問題性というのは、「正義は在らねばならない」という出発点から考えるべき事柄で、その正義が妥当であるかどうかを常に自問するという形でしか意味はないだろうと思います。

ともするとこういう問題は「正義への懐疑」から容易く「正義の不可能性」みたいな話に飛躍しがちだと思うんですが、正義という概念とは、技術開発者さんが仰る社会的な真っ当さを回復したいと望む感情から発するのではないかと思いますから、不可能性の話に行くのでは意味がないと思うんですね。

真っ当な社会の在り方というビジョンがあって、それに近付けるにはどうしたら好いのかという、非常に現実的な問題として捉えるべきなんじゃないか、正しさとは何かという原理主義的な厳密性に拘ると却って見失うものがあるのではないか、本末転倒なのではないか、と感じることがあります。

大本の話題に戻ると、前回オレは法的制裁は可能な限り厳密に公正でなければならないが、社会的制裁は往々にして苛烈に過ぎるというようなことを申しましたけれど、それはやはり、社会的制裁というのは「刑罰」ではなく、人々がその行為に対してどのような感情を抱くのか、そういう社会感情の指標だからだろうな、と思います。裁きというのは感情を排して個々の事情を厳密に視ていった上で処遇を決定するものだけれど、社会的制裁というのは感情に基づく部分があるんだろうな、と。

人々が不倫な行為に対して抱く忌避感情の故に、犯罪者や悖徳漢が様々なデメリットを蒙るというのは、苛烈に過ぎる場合でも多少已むない部分があるのではないかと思いますので、それに対して公平さや論理性を過剰に求めることには多少違和感があります。まあ、だからと言って凶悪犯罪者は即刻極刑にせよ的な世論に安易に同調するつもりもないので、難しいところですが。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月29日 (火曜日) 午前 02時54分

こんにちは、黒猫亭さん。

>裁きというのは感情を排して個々の事情を厳密に視ていった上で処遇を決定するものだけれど、社会的制裁というのは感情に基づく部分があるんだろうな、と。

これは、もともとの人間観とか社会観になってしまうのですが、私は「人間というのは不合理な情緒優先仕様の上に薄皮一枚の知性が被さっている生き物」だと思っています。だからといって駄目だとかいう気はなくて、その薄皮一枚の知性が「最大限の事をやって生存能力を高めてきた」という事の素晴らしさを感じたりするわけです。

その薄皮一枚の知性でその下にある情緒的不合理性を押さえ込むという形では、文明社会は築けなかったわけです。そのため、知性はその不合理性すら「人間が生存しやすくなる」方向に利用することで文明を築いたと考えています。poohさんの所に「原始の村の巻き狩りの勇者」なんてたとえ話を書いたりしましたが、本来、「できるだけ楽に安全に生きのびたい」という事を合理的に考えるなら巻き狩りにおいて最も危険性の高い最後の仕留め役など誰もやりたがらない訳ですね。知性の下にある「群れの中で優位でありたい」とする本能的な不合理を知性が利用し、「仕留め役は村の勇者だ」と祭り上げ群れの中の優位性を差し出すことで、本来困難であるはずの危険な役の候補者を常に手に入れる事で原始の村の巻き狩りは成り立ったわけです。

社会的制裁というのも実のところそういう知性の下にある不合理を知性が利用することで「人間の生き延びる力」に変えたものではないかと思います。製造業が不良品を出した時に、名も知らぬ会社の製品ならさしたるニュースにならないけども、名の通った会社ならニュースもとりあげ、その結果、その不良品だけでなく、その会社の全ての製品の売り上げに響いてくる。時には同じ商号を冠するグループ企業の製品の売り上げにすら響いてくる。その、波及効果の大きさは誰にも測れない、だからこそ大きな抑止力として働く訳です。名も知れぬ小さな会社であれば、人数も少なく、「気を付ける」ことの限界も近いけど、大きくなれば、様々な専門家の知恵を借りることも容易となり、要求される抑止力に答えるだけの力もあるという意味で、社会的制裁という不合理な抑止力は一面でとても合理的な文化を供給している訳です。

なんて言いますか、もともと我々の知性はその下の不合理を押さえ込むような形で文明を築いたのではなく、不合理をうまく利用することで結果として合理的となるようにすることで文明を築いたという事の理解が大事なのではないかと思うわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008年1月29日 (火曜日) 午前 08時27分

>apjさん

>>その時代は物理学の方でニュートン力学と電磁気学が完成した頃でして、これで自然は全部記述できるだろうという希望的観測を持った人はそれなりに居たと思います。

宗教のほうでは第一原理として神を想定するわけですから、或る意味世界の記述としてはかなり包括的な性格を有していると思うんですが、科学のほうでもこの時期に一気に世界の真相に肉薄し得た、あともう少しで包括的に万象を司る大枠の原理が解明出来て世界を記述可能ではないか、という感触があったんでしょうね。

ところが実際にやってみると、マクロの世界では相対性理論みたいなスッキリしなくて気持ちの悪い話が出てきて、ミクロの世界では量子力学みたいなうそ寒くて曖昧で薄気味の悪い話になって、なんだか最初に思っていたよりも世界の物理的実体というのは不気味なモンじゃないか、線的に追及可能なモンではないんじゃないか、みたいな感じになったんでしょうね。窮めて感覚的なことを言ってますが(笑)。

人間が実感的に感じられる現実の在り方とギャップのある振る舞いをする事物の領域があるというのは、この儘連続的に科学が進歩していけば何でもわかるんじゃないかという希望に水を差したということでしょうか。ニュートン力学みたいな綺麗で連続的な原理が、極大と極小で断絶しているというのは、あの時代の自然科学者の世界観としては何とも気持ち悪い話ではあったろうと思います。

初期の科学者が解明すべき「世界」と視ていたのは、アリストテレスの昔から変わらない人間が直観的且つ実感的に観察可能な具体的なものだったでしょうから割合近いところにゴールが見えていたのかもしれませんが、どんどん突き詰めて行くと人間が直観的に観察も想像も出来ない不気味な振る舞いの領域があっで、最近はCGなんて便利なものがありますから近似的にビジュアライズすることが出来ますが、昔はそういう視覚的な「喩え」を使うことも出来ませんから、科学者の側でも正しさの実感に自信が持てなくなったのかもしれませんね。

ニュートンのリンゴというベタな伝説がありますが、目の前で落ちるリンゴと巨大な天体を同じ原理で扱えるような、一直線に繋がっていると思った世界のその原理には妙なギャップがあって、この先科学がどれだけ進歩しても、無限にこういうギャップが見附かるだけなんじゃないかという話になったら、まあちょっとイケイケの勢いも続きませんわね。それで、じゃあ科学の方法論によって本当はどれくらいのことがわかるの?という内省が出てきたんではないかと想像しています←想像かよ(笑)。

それから、科学万能主義が挫折したのは、二度に渉る世界大戦の経験もあるというような話がありますね。科学万能主義というのは、apj さんが仰るように現世利益としての科学技術の貢献によって自負を支えられていた部分があったと思うんですが、両大戦の大量死は科学と科学技術の倫理の問題としても論じ得るわけですね。

第二次世界大戦においてはアインシュタインの話なんかも絡んできますけど、科学というのは一方的に人類の幸福に益するものではないんではないか、という挫折感はやはりこの経験が大きかったのかもしれないですね。両大戦において自然科学が果たした役割としては、核兵器の開発を頂点として戦争における被害規模を拡大する方向にしか働かなかったわけで、本当は科学の理性はこのような現実に対してもっと素晴らしい貢献が出来ていたはずなのに、科学が万能であるという傲りは大量死しかもたらさなかった。

「科学には何でも出来る」という傲りは「数百万人の大量死だって実現出来る」という筋道に繋がっているという発見は、ナイーブな理想に燃えていた学究の共同体を打ちのめしたのだろうな、と思います。とくに第二次世界大戦では、多くの学者が悲惨な戦争に対する関与の有無を厳しく追及されたわけだから、自然科学者も例外ではない。

事物の不気味な振る舞いの領域の発見が知の可能性としての自然科学に限界があることを垣間見せ、人間の不合理な振る舞いによる悲惨な極大事例の登場が知の恩恵としての科学技術の盲目性(つまり科学技術自体に倫理は含まれていない)を暴露したことで、自然科学者の共同体は科学万能主義的なナイーブな捉え方で科学と附き合っていくことに疑問を覚えるようになった、そういうふうなストーリーになるのでしょうかね。

>>このあたりは、科学と技術を区別しないで、導入した日本の特殊事情もありそうです。

まあ、自然科学の根っこに当たる部分が殆ど発達していなかったから仕方のない部分もあるのではないかと思いますが、そういう性格はたしかにあるでしょうね。日本の学問で自然科学に最も近いというと、本草学とかその程度でしょうか。明治以降の歴史で謂うとやはり富国強兵殖産興業ですから、どうしても科学技術の成果物によって実利を得るという動機になるんでしょうね。アカデミズムのようなものもなかったわけですし。

ただでさえ地理的条件の故に他国と隔絶していて情報交流のハンディとなり、自然現象を扱う知の領域では後進国だったという事情があるのに、徳川三〇〇年の鎖国の歴史で知的な国際交流にさらなる大きな制約が課されたわけですから、開国以来早急な科学の導入が必要だとする動機としては常に「国力」というものが想定されていたわけで、科学知識の導入という巨費を要する国家的事業においては、スポンサーの国家の側にテクノロジー格差による危機感という動機があったのですから、どうしてもテクノロジー偏重にならざるを得ない。

そもそもそのような科学技術として一体不可分の形で移植されたという事情と、戦後の日本が技術立国を目指したという流れがあって、実際に戦後経済の順調な発展がテクノロジー礼賛の風潮を醸し出したということになりますでしょうか。大阪万博辺りでは、国際博覧会史上初のアジア開催のホスト国として先端技術の粋を全世界に見せるという意気に燃えていたでしょうし、五五年から七十年代半ばまで続く高度経済成長の希望は一にかかって日本企業の技術力に支えられていたわけですね。

その一方で、そのような経済発展のもたらす負の影響というものが公害や環境破壊という形で顕在化していた時代でもあって、その意味ではノドカな田舎で育ったオレには実感の薄いところがあるんですが、バラ色ばっかりの未来じゃないよというムードも反動として強かったんではないかと思います。

>>でも、最近でも侮れませんよ。アニメや特撮に出てくる科学者のステロタイプとして「白衣を着ている」といのがあるんですが、仮面ライダーThe First では、ホールで講演する主人公が白衣姿で登場して、「水からの伝言」モドキの研究成果を発表していましたorz。

…ああ、遂にその話題が出てしまいましたか(笑)。最初に「水からの伝言」をネット検索した時、検索キーワード候補として「水からの伝言 仮面ライダー」という物凄い取り合わせが挙げられていたので、何だと思って踏んでみたら、検索結果の上位にそちらのブログの記事が出てきたことがあったので、いずれは話題に出るのでは、と恐れていたのですが(笑)。

The FirstはDVD持っているんですが、実はまだ観ていないんです(笑)。なんかもう公開当時から「水の結晶ておま…orz」というトクサツファンの間の嘆き節を聞いているので、なんとなく観るのが億劫で(笑)。

実はこの作品、上のほうのコメントで「ニセ科学やフードファディズムを批判し、知的誠実性を心がけよ的な発話をする人物なんですが、どの口が言うんだこの口か的なツッコミ甲斐のある人物」と評したプロデューサーが手がけておりまして(笑)、まあ身内でも何でもないんですが、長年愛憎相半ばしつつ粘着してきた義理合いでオレが代わってお詫び致します(笑)。

少し考えの浅いところのあるプロデューサーで、たとえば下記のエントリーで採り上げている言説なんかが彼の代表的な論法ですね。

>>http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2007/12/kick_me_dfce.html
>>http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2007/06/porkpighog.html

まあ、一種の戦術的プレゼンテーションですから真に受けるのもアレなんですが、どうも論の持って行き方に拙いところがあって判断が軽率なのが難です。多分水伝を持ち出したのは彼と組んでいる脚本家のネタ出しじゃないかと思うんですが、おそらく彼の中ではすでに水伝はトンデモ科学として世間で周知されていて、一種ニセ科学としては現役ではないという認識でOKを出したのではないかと踏んでいます。

ちょっと前なら、たとえば天才科学者という設定の人物を描くなら、バイオの先端技術や量子力学とかを研究しているというふうにリアル寄りに振ったものですが、このプロデューサーと脚本家のコンビだと、寧ろ嘘くささを身振りとして強調するほうに関心が行くのではないかという気がするし、その意味で水伝は最初から嘘事の科学の名目として恰好だという認識だったんじゃないですかね。

それは一方では、先ほど申しあげたように現実の特定の研究領域だと、現在の時代性では嘘事を盛り込むのは難しいという事情もあるわけで、バイオだの量子力学だのという実在の分野だと、少し詳しい人にはすぐに突っ込まれてしまいますので、最初から嘘事のトンデモの領域のほうがフィクションと割り切れて後腐れがないという判断だったのだろうと推測しています。

その辺、一応劇場映画なので子供も観に行く作品だし、水伝というのはニセ科学であることが世間的にかなり識られていながら、意外に根強い支持者がいたり、道徳教育の問題があったり、「真偽はともかくいいお話だ」的な問題性もあるわけで、嘘事の題材の選び方としては勘が鈍かったというか、かなり思慮が浅かったですね。

「科学者=白衣」というステロタイプについては、まあ監督が六〇過ぎのお爺ちゃんなんで勘弁してやってください(笑)。最初の仮面ライダーの頃から助監督で附いてる人なんで、やっぱり科学者・本郷猛と謂えば白衣だろうという思い入れがあるんじゃないですかね。

まあ、この作品にもいろいろ現実の科学者として不満はあるでしょうが、オレはやっぱり科学者蔑視のトクサツの代表作と謂えば、平成ゴジラシリーズに留めを刺すのではないかと思いますね。元々第一作が終戦直後の作品で、戦時中の記憶を色濃く残している作品なので、科学者観が戦前っぽいんですね。で、そのムードを現代に継承したシリーズですから、嘘事にしても科学者の描き方がかなりひどい。第一作の頃は世間のムードとしてもそんなモンだったんでしょうが、平成になってからの時代性でこの科学者描写はないだろうというのが不満としてありますね。

それから、一〇年くらい前のウルトラマンティガという番組でも物凄い科学者描写がありまして、山奥の別荘で変人科学者が爆発したら数十キロ四方が焼け野原になるという強烈な危険物質を一人で研究しているというシチュエーションで、科学者が中座した隙に窓から突風が吹いて試験管がコロコロ倒れて(ryという、まあ当時のファンダムでも非難囂々のエピソードがありました。多分、原発批判みたいなことが言いたかったんだと思われますが、理解不能です(笑)。

SFやヒーロー物では、科学者というのは結構便利な職業なのかもしれません(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月29日 (火曜日) 午後 02時26分

>>山奥の別荘で変人科学者が爆発したら数十キロ四方が焼け野原になるという強烈な危険物質を一人で研究しているというシチュエーション

ちなみに、研究ツールは「試薬と試験管とビーカーとピペット」です(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月29日 (火曜日) 午後 02時50分

試験はなんとかなったようですにゃ。ごしんぱいありがとさんですにゃ。

さて、われながら不毛なやりとりとなってますにゃー。ではなるべくシンプルかつ建設的に。

まず、呼び捨てうんぬんについてそこまで拘泥されているとは思いませんでしたにゃ。訂正を出しておくべきでしたにゃ。では、以下に訂正。
「僕は相手を呼び捨てにするので、そちらはそちらで好きなように呼んでください。」
僕がこのスタイルをとる理由については、問われにゃー限り説明しませんにゃ。もちろん、呼び捨てと語尾が不快だからという理由で議論を打ち切る自由はありますにゃ。ただし、その理由に基づく打ち切りは、最初にいっておいてほしいものにゃんね。



最初の僕のカキコをうけて、apjに対し黒猫亭が「地下に眠るMさんが語っておられるのは、おそらく「感じ方」の問題ではあるのでしょう」と発言しているにゃんね(直後に「ニセ科学批判者を十把一絡げに科学主義者と決め附けることとは別問題として」などといっているけど、もちろん僕はそんな決めつけをしてにゃーのでここは誤読。最初から決めつけられているのではにゃーかと感じた)。

で、「感じ方」の問題を黒猫亭はルサンチマンに回収していたよにゃ。「自然科学的な物の考え方に理解のない人が「科学主義」だの「科学を絶対視している」だのと言い出すことの、最終的な理由というのはそれだと断言しても差し支えないでしょう。・・・何故なら、理系の基礎訓練に挫折した人間は、多くの人々が共有する正しさの決定の営みに参加出来ないというルサンチマンを抱えているから」という発言に明らかにゃんね。
また、権力の話はapjに対する話の続きでもあるので(FREEが以前見たことのある権力うんぬんの話は、apjのところでしていたもの)、自然科学と権力の話を持ち出したわけですにゃ。文系なり「イッパンタイシュー」の側の自然科学(あるいは科学主義)に対するある種の警戒心を、無知のルサンチマンに還元するのは暴論だよ。これは多階層において論じられるべきものだろ?(階層性を理解していない、という批判の仕方は便利だね。言及していないことを突っ込める。僕は以降はこの便利な批判法をここではなるべく封印しよう)

また、持ち出した権力概念にしたって、別に特殊なものでもなんでもにゃーのだけれど。
リンク先にも、
「いずれにしても、支配についてジンメルとウェーバーがともに強調するのが「服従者の服従意欲」である。支配というのは服従のチャンス[可能性]である。服従には理由がなくてはならない。正当な根拠があって、それを認める人びとが支配という関係に入るわけである。」
「非常に大ざっぱな言い方をすると、ウェーバー流の伝統的な社会学的権力論も、フーコー流の新しい権力作用論も、注意を喚起しているのはともに「人びとの自発的服従」という事態である。」
というわけで、自発的服従の問題を突っ込んで考え抜いたのは確かにフーコーだから「フーコー的」と言われたことをあえて否定はしてにゃーけど、僕の出した権力概念は社会学において実に一般的なものにゃんぜ。
これを特殊なタームと言われても困る。

それと、FREEの「まとめ」についての黒猫亭の解釈がながながと開陳されているにゃんな。シュギシャとシュギの混同について書かれているにゃんが、シュギシャの話については1レスで撤退済みと前回書いたはずなんだけどにゃー。FREEに対しても重ねてそういっているにゃー。撤退済みのネタに「ここに決定的な混濁がある」といわれてもね。まあつまり、僕の前回のレスを読んでにゃーということなのだろうけれど。

さて、どうでもいいといえばどうでもいいお話

>科学以外の規範の力が相対的に科学より弱いという現状を以て「権力」と仰っているのであれば、それは科学の責任ではありませんし、科学に何らかのイズムがあるからではないと思いますよ。(1月24日 (木曜日) 午前 02時52分 黒猫亭)

僕は自然科学がイズムだなんて一言もいってにゃーわけよ。そこは注意を払って書いているからにゃ。自然科学と科学主義をちゃんと区別して黒猫亭が読んでいたら、こんなこと書くわけにゃー。さっきも書いたけど、最初のレスもいきなり「ニセ科学批判者を十把一絡げに科学主義者と決め附ける」などと論評されちゃってますしにゃ。こういう単純な誤読を重ねたうえで「一般的に言えばお話にならない議論の姿勢だとオレ個人は思います」と言われたら、「おいおい待てよ。誤読だよ」という以外にどうすればいいんだにゃ?
しかも、誤読を指摘したら逆ギレにゃんぞ。で、僕の書き方が一方的にワリイって?

しかも後付けで恣意的訂正をしたかのように言われたらどうよ。
他者の言説を批判的に扱うのであれば、誤読の指摘に対して応えるのはアタリマエなのではにゃーのか?
僕がいつ「今更「こういうつもりだった」」などという言動をしたんだい?

他にもいくつかヒデエ誤読・読み落としがあるわけよ。「ニセ科学批判者の中には科学シュギシャもいる」といったら「ニセ科学批判者を十把一絡げに科学主義者と決め附ける」と論評されるレベルの単純なやつがね。こんな誤読・読み落としに僕の側に責任があるってのはすさまじい話だにゃ。ほかにもある誤読・読み落としをいちいち指摘するのはめんどいし不毛だけど、やってみせろというのならやるにゃ。
で、揚げ句の果てに目茶苦茶なプロファイルだろ? あのヘソで茶を沸かすプロファイルになんの「理路」がある? 黒猫亭にとって、僕がどういう存在であればいいかの願望以上のものではまったくにゃーわけよ。

投稿: 地下に眠るM | 2008年1月29日 (火曜日) 午後 04時18分

>技術開発者さん

>>なんて言いますか、もともと我々の知性はその下の不合理を押さえ込むような形で文明を築いたのではなく、不合理をうまく利用することで結果として合理的となるようにすることで文明を築いたという事の理解が大事なのではないかと思うわけです。

知性が不合理性を排除するのではなく、不合理性を織り込んだシステムにおいて合理的な文明が築かれたという考え方は面白いですね。社会秩序の中にすでに不合理そのものがダイナミズムとして織り込まれていて、合理的な秩序を維持するというお話になりますかね。

法的制裁と社会的制裁のバランスについては常々思うところがあったのですが、そういう考え方だと整理しやすくなるのかな、と思います。前回のコメントで言い切るのを躊躇ったのは、社会的制裁は不当に苛烈であることそれ自体の故に、公平な法的制裁を補完する社会的ダイナミズムたり得るのかな、ということでした。

法的制裁の限界として、個人の権利を平等に尊重し公平に裁くという合理性それ自体が一種の限界を形成しているのかな、という気がします。つまり、不当に扱われないならば或る程度それをリスクとして織り込み得るという感じ方もあるのではないかという気がするんですね。この辺、刑罰論の問題とも絡んでくるんでデリケートな問題ではあるのですが、そこに逸脱しない範囲で言うなら「公正に扱われることそれ自体はそんなにイヤだと思わない」という感じ方があると思うんですよ。むしろ法治国家の成員にとって耐え難い状況というのは「不当に扱われる」ことなんではないかと。

一種ネガティブに論じられがちな社会的制裁の過剰性も、そういう意味では敢えて合理を担保する為の不合理として秩序に織り込まれた要素なのかもしれませんね。オレとしては、おそらく社会的制裁の本質というのは「不当であること」そのものなのではないかという感触を覚えていて、有形無形のデメリットそれ自体よりも、社会倫理や法律に背く行為の酬いとして不可避的に社会から不当に扱われるという部分に実はキモがあるのではないかと思います。

現代社会の中で一人の個人には、建前上正当に扱われる権利があるわけで、何らかの犯罪を犯して裁かれる場面でも、飽くまで法的に公正に扱われ、その範囲内で権利の制限を受ける権利があるわけですが、個人の権利を正当に扱うこと一辺倒では社会倫理というのは維持出来ないのではないでしょうか。

そういうふうに考えれば、身体刑の次元を離れて社会の扱いという次元で言えば、不特定多数の人々が、自己の裁量で法律を逸脱しない範囲で対象者に対して悪意を示すわけで、不特定多数の人々からの「悪意的な取り扱い」という形で為される制裁であり、それは本質的に「不当に扱うこと」が本質なのではないかと思います。

対社会という側面で言えば、法律とは違って自身が正当に扱われることそれ自体が社会的規範や真っ当さの感覚の遵守と引き替えに得られる取り扱いであって、そのような規範に悖る行為を行った場合、「相手がどれくらい困っても構わない」「やりすぎていても構わない」という剥き出しの暴力的な悪意によって扱われることが如何に不当であろうとも、それこそが対社会の場面において個人の行動に負わされた本質的なリスクだと言えるのかもしれませんね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月29日 (火曜日) 午後 06時21分

(のんびり書いてたら既に触れられていたけど…カキコしてみたりw)
「水伝」な上に白衣の発表…orz
こんにちは。apjさんのコメントに過ぎ去りし悪夢が蘇りましたw
あれはかれこれ10年前、私がまだ現役の研究者だったころですが、到底看過できないお話にぶつかってメゲていたところを、黒猫亭さんの「解題」によって、非常に助かった思い出がございます。

お話は空想科学トクサツの雄、ウルトラシリーズの一つ、ウルトラマンティガの「ゼルダポイントの攻防」。
ネタが高エネルギー開発を巡る科学者の過ちと贖罪…というのは、容易に「核」などを思い起こさせるわけですが、それは兎も角。登場した科学者は新規物質「ゼルダガス」のエネルギー資源としての開発を行っていたが、その危険性(なのか?)から研究成果を学会で否定され、更に自宅に持ち帰ったゼルダガス検体入りの試験管が「開けっ放しの窓から吹き込んだ風で倒れて破損」し、その爆発で我が子と愛鳥を失う…という描写があったわけです。その後、彼はこつこつとゼルダガスの廃棄方法を研究していましたが、病に倒れ、結局ゼルダガスの廃棄は「怪鳥」となった愛鳥に託されることとなります。私は怪鳥がいかんとか、娘の幻がそこに寄り添うのがありえないとかは考えません。ウルトラマンのお話としてはそれはアリだからです。

しかし、科学者としての彼は「誠実」な人物である事になっており、その彼をして「試験管ころころ」で事故を起こさせるのが…その…何というか、科学って怖い、科学者達は一般人の知らないところでとんでもないことをやらかしている、ということを強烈に訴えておりまして、小学生の息子の居た私はかなりメゲました。ステロタイプなマッドサイエンティストならまだしも、誠実で優秀な科学者の過ちの描写、そして科学者としての落とし前をつけさせない結末は、あんまりだ…と思われたのです。

「子供相手の描写だから分かりやすくしたんだ(=試験管ころころ)」「科学の暴走や思いあがりを風刺する描写だ」などの意見や、亡き娘に許されていく科学者の人情話の部分から「ええ話なんだからいいじゃないか」との意見も、某所では読みました。しかし、私はマトモな科学者はそんな事をしない!と書き込まざるを得なかったのです。その際、黒猫亭さんに階層の様々に異なる「過ち」や「科学者のイメージ」の錯綜を解きほぐして貰いまして、大変に感銘を受けたのでした。

子供が見ているからこそ、科学を能天気に語るのではなく、シニカルに否定するのでもなく、もうちっとバランスよくオーセンティックに描写でけんか…というのは「SF的描写」との関係も含めて、「イマドキのトクサツ」を見る私の視点ではあるのです。

投稿: shof | 2008年1月30日 (水曜日) 午前 01時02分

黒猫亭さん、話題がちょっと横道にそれます。
shofさん、はじめまして。
リアル科学者の業界でもこんなの
http://people.cs.uchicago.edu/~dinoj/scilies.html
が作られていまして。
"...accidentally strained during mounting"と論文にあったら、それは...dropped on the floor.という意味だと^^;)。
 私の認識では、科学者も普通にドジを踏む、です。

投稿: apj | 2008年1月30日 (水曜日) 午前 01時26分

>shofさん

そういえばそんなことがありましたねぇ←遠い目(笑)

あれから一〇年経ちましたが、ご覧の通り当時とまったく同じことを今もやっている次第で、我ながら進歩がありません(笑)。「ゼルダポイントの攻防」のエピソードについては、apj さんのような科学畑の論客に設定も何も理解しない儘一度ご覧になって戴くと面白いかな、とちょっと思ったりしますね(笑)。まあ、ウルトラは一応何処を切っても金太郎の各話読み切りオムニバス形式ということになっていますし。

あのエピソードは、ホントにいろんなアスペクトで間違っていて、何処から突っ込んで好いやら「嬉しい迷い」というところでしたね。脚本の太田愛は、放映後に刊行されたムックで、演出の北浦嗣巳がかなり脚本をいじったんだなんて言い訳していましたが、根本的な社会観がダメだと思いましたね。

エネルギー危機を解決する為に新規物質を研究する誠実な科学者、という出発点から考えると、どう考えてもああいう話にならんだろうという辺りが凄いです。今にして思えば太田愛の発想はどうしてもブンガク寄りの方向に行くので、「科学者の悲劇」というイメージや個人のドラマ性に惹かれたんだと思いますが、なんか社会的現実に対する考察が浅いというのか、科学者だって現実の職業なんだという認識が決定的に欠けていたような気がしますね。

>>「ええ話なんだからいいじゃないか」

これって今思うと水伝のリアクションそっくりですね。「オレの、あたしの感動に水を差すな」というヒステリックな反応は、当時かなり強かったですね。それで大暴れして最終的にはオレを訴えるとか息巻いた人までいましたが、今頃は何処でどうしているのやら(笑)。多分、オレがこういうふうに一〇年経っても進歩がないんだから、その人も何処かで同じようなことをしてるんでしょうねぇ。

案外、何処ぞのブログで「The First の水の結晶問題を私が擁護してみせます」とか鼻息も荒く主張していたら大笑いなんですが。

>apjさん

オレが面白かったのはこの辺ですねぇ(笑)。

>>"It is clear that much additional work will be required before a complete understanding..."
I don't understand it.

>>"Well known."
(i) I happen to know it, or (ii) well known to some of us.

>>"The reason is, of course, obvious."
(i)Not in the least, or if it really is: (ii)I was not the first to think of it, but I think I got it independently.

なるほど、科学にも修辞はある。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月30日 (水曜日) 午前 02時54分

こんにちは、黒猫亭さん。

>社会秩序の中にすでに不合理そのものがダイナミズムとして織り込まれていて、合理的な秩序を維持するというお話になりますかね。

例えば、企業の偽装などの不祥事そのものが、もともと人間の不合理性の表れなんですね。合理的に考えたなら賞味期限を付け替える事で受ける「食中毒の可能性」「味が落ちているという不評」などのリスクと得られるわずかな利益というベネフィトそのものが釣り合わない訳です。でねもともと人間は不合理にできていますから、そのようなリスクはどうしても過小評価され目の前の利益は過大評価されます。

そういう過小過大評価を是正するために「得体の知れない評価しきれないリスク」を提示することで、バランスを取る働きが社会的制裁にはあるわけです。リスクが評価しきれないということに、このリスクが不合理なものであるという事が濃縮されている訳ですが、そういう不合理さをもともと不合理な過小過大評価にぶつけることでバランスをとろうとするわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008年1月30日 (水曜日) 午前 08時32分

>技術開発者さん

オレのような法的根拠に疎い者にもわかる噛んで含めるような丁寧なご解説、いろいろありがとうございます。大変含蓄のあるお話を伺った気が致します。他の方へのレスでも技術開発者さんのご解説を援用させて戴いたことがありますが、技術開発者さんのコメントはわかりやすいということもさりながら、選れて実用的で時を得ているというのがオレにとっては新鮮でした。

他の方もそうですが、議論の活発な領域の論客と見做されるほどの方は、皆さん社会的能力が高いなあと感じます。皆さん、コミュニケーションの感覚がかなり鋭くて表現がソフィスティケートされていらっしゃる。別のエントリーのがんさんへのレスで申しあげたように、オレはブログ開設以来、直接対話での議論に消極的な姿勢をとってきたので、このエントリーのコメントの遣り取りはスリリングで面白かった。

やはり人の営みの中でも、言葉の遣り取りというのは選れて高度で全人的な能力を要求されるゲームなんだなとつくづく思いました。いや、「ゲーム」と謂うと語弊がありますが、一定の様式とルールと判定基準を具えた遊技的な行動という意味で、人の発話というのは字面だけ読んでいてもダメ、と気附く場面が屡々ありましたね。

自分でこう言うのも尾籠ですが、結構このコメントツリーは面白い(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月30日 (水曜日) 午前 11時58分

>地下に眠るMさん

コメントを拝読致しました。こちらが予め提示させて戴いた条件をすべて無視しておられると判断致しましたので、今後当ブログで地下に眠るMさんの書き込みが公開されることは決してないということに決定させて戴きます。最初から最後まで無意味で無駄な遣り取りに終始したことを大変残念に思います。まあ、あなたの「胸の傷口の痛み」はオレがどうこう考えることではないですがね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月30日 (水曜日) 午後 08時06分

黒猫亭さんこんにちは。
はじめましてです>apjさん
科学にも修辞と申しますか…論文のもって回った言い回しは定型化しているところがあって、お互い分かってる同士だと、苦しい言い回しから結論をどの位割り引くか、無意識に計算しますね。
私の現在の業務の一部は、apjさんご紹介のような修辞に突っ込みをいれつつ、論文を読んでお上への報告書を作成する、だったりします。
論理構成に穴のある疫学研究その他の論文は、そりゃあ星の数ほどあるのですが、業務上自分のトコロの製品に関連するとそれを全部チェックしなければならないので、「研究にもピンキリ」を日々実感しております。科学が万能?ナニソレオイシイ?でありますね。

>科学者も普通にドジを踏む
数々のあんなことやこんなことが脳裏を過ぎります(自分の事ですw)
しかし、床に落として測定データが狂う…ですんだらいいんですが、シャレにならん場合というものがあるわけです。これがフィクション作品に表れる場合、その作品のリアリティレベルなりのインパクトの違い、というのがあるのかなあ、などと思っています。

三角フラスコの色つき水から謎の湯気wが立ち昇っている実験室の「なのじゃよ博士」が言う事なら割引度も大きいけど、下手に現実に近寄った文脈に「試験管ころころ」が差し挟まれると、これがインパクトがでかい。また意匠として科学者の記号に使われる「水伝」と、主人公の真情や行動決定に関わる「水伝」だと、そうですね…「迷惑度」が違いましょうか。黒猫亭さんの心の友である映像プロデューサー氏の読み違いも、その階層分けの失敗であると。

この辺の解析は、実は黒猫亭さんの得意とするところで、脚本なり監督なりの製作意図と、現実に成立した作品と、それが観客にどう受け取られるかを実に手際よく「腑分け」されるので、どの辺に「認識のすれ違い」が起こるのかが非常にわかりやすくなるんです。平成ガメラと平成ゴジラの科学「らしさ」の描写の違いなどは、各々の作品のリアリティレベルを左右する部分で、どちらも現実の科学ではないのに、どうしても本当らしさが異なる機微というのが存在する。

…と、その昔のニフのログがここに残っていないのが残念ですw

投稿: shof | 2008年1月31日 (木曜日) 午前 10時10分

>shofさん

いやだなぁ、そんなに煽てられると、木に登って一〇匹くらい蠅を一気喰いした挙げ句深田恭子の上に降って来て二五年後の姿が見えちゃったその上にヅラが飛んでしまいますよ←最早何のネタだかわからない(笑)

たしかにオレの方法論というのは、階層性や領域性を腑分けすることで、本来混ぜてはいけないものが混ぜてはいけない場面で混ざっていることを指摘して説明するというのが常套手段ですね。これは徹底的に隙間商売的な方法論なんだろうな、と思うのは、本来人間の知恵というのは、そこまで言語化しなくても物事の構造を直観的に把握しているモンだと思うからなんですよ。

で、世の中が割合単純な時代なら「これはおかしいだろう」で成立していた批判が、物事が複雑に錯綜してくることで一旦言語化しないと何処がどう間違っているのか直観的に理解出来なくなってきた、そういう流れにおいて階層や領域を言語によって明確化するという手続が有用になってきたと思うんですね。

たとえば、ゼルダポイントの例で謂うなら、shofさんの仰る通り「試験管コロコロ」というのはそれこそ某マンガの「汁粉爆弾」レベルの日常的事件であって、マンガ家が原稿に飲み物や墨汁を零す(コンタミと謂うらしい(笑))のと同様、建前上あってはならないんだけど現実的には割合アリガチなリスクではあります。

ただ、普通の科学の方法論に基づくなら、想定されるリスクの範囲がどの程度のものかによってフェイルセーフが設けられているのが当たり前で、試験管が転がったせいで実験をやり直すとか実験室に異臭が充満するとかいうレベルなら、責任者が注意を呼びかける程度の対応で構わないわけです。しかし、たとえばこれが原発レベルの甚大なリスクということになると、「試験管コロコロ」的なケアレスミスによってもたらされるリスクが洒落にならない範囲に及ぶわけで、何重もの安全装置が設けられ厳しい作業手順が定められている。

そこをリスクのレベルによって対応や取り扱い手順を階層分けして段階的に制御するのが科学というものの手続だろうし、敢えて科学と限定しなくても社会的な事柄全般がそのような条理に則って動いているはずですね。

たとえば頻発する原発事故のような問題性を撃つなら、「科学の傲慢」的な文脈で語るのは明らかに「何もわかっていない」わけで、厳しく定められているはずの安全基準や運転手順が何故必ず堕落するのか、そういう観点で語られるのが当たり前で、研究開発の時点の話として語るのではそもそも階層性がおかしい。せめてジュラパのように複雑系のメガシステムは必然的に破綻するのじゃよとか言い出すのなら可愛げがあるんですが、その次元にすら至っていないのでは何をか言わんというところです。

おそらく原発事故の問題というのは、寧ろ製造業で盛んな総合品質管理活動やISOの管理システムみたいなものと近縁の問題性で、複雑で煩瑣な手順が必ず堕落する理路を解き明かすという問題性なんじゃないかと思うので、それを踏まえた上で甚大なリスクが伴う複雑なメガシステムを人間が運転することの原理論というのは語り得ると思うんですが、そこを雑駁に語られると問題提起にすらならない。

単純に原発はイヤだという拒絶感として表現するなら、じゃああんた電気がなくても生活出来るかという単純な水掛け論になるわけで、そこをもっと細かく論じるなら、本当に電力供給は危機的状況にあるのか、原発の建設は適正な規模で行われているのか、そこに何らかの不正な利益誘導や政治事情はないのか、そういうふうに厳密に具体的データを評価していくべき問題となる。

エネルギー危機を前提として踏まえるなら明らかに新規エネルギーの開発は必要なわけで、それ自体を否定するなら文明否定ということになる。それはそれで周到に語るべきテーマであって、新規エネルギーの開発だけに目を据えていてもそのような大きなテーマは語り得ないわけで、文明の恩恵に与りながらエネルギー開発はおかしいとか語るなよという話になる。もっとラジカルに「人間なんて原始時代に戻ってもいんじゃね?」的な暴論を開き直って風刺として語るのでもない限り、「新規エネルギーは欲しいけどノーリスクじゃないとイヤだ」というだけの話になる。

新規エネルギーの研究というのなら、事故が起こった場合に大きな被害があるかもしれないということを織り込んで安全性を確保するのが筋道で、そこは決して単純化して描いてはいけない部分です。科学者として誠実だというのなら、まずそこをクリアしてからの話だろうということになるわけですから、学会の発表で「危険だからやめろ」と謂われた研究なら尚更「そんなことはない、安全に利用可能なんだ」ということを示す為にも、さらなる安全性を確保した上で研究するのでなければ誠意も糞もない。学界の批判通りにヤバいことをやらかすアタマのおかしい人物だという話になるわけですね。

だから、「変人科学者が別荘で新規エネルギーを研究」という状況設定には、今時の職業描写のリアリティの問題と変に密接に絡んだところに、物語の根本的な構造を歪めている問題点があるわけです。ここを単純に割り切って「大時代な科学者の悲劇」として描きたいのなら、そこをクリアする必要があるのですが、それをまったく意識していない辺りが書き手として未熟だということになる。

脚本の太田愛のつもりでは、ここがもっとマッド寄りの捉え方で、それが北浦嗣巳に伝わっていなかった可能性というのはたしかにありますが、その観点で視ても破綻した大義の為に狂ってしまった科学者が娘との情愛の故に一瞬正気を取り戻して死ぬという枠組みの話にもなっていないのだから、どのみち大本のロジックの煮詰めが足りなかった為に破綻した話になってしまったわけです。玄人なら、ここは確実に「この人はアタマのおかしい特殊な科学者なんだ」ということを押さえておくべきです。

太田愛にとっては、「科学者」というのはshofさんの仰るような「なのじゃよ博士」同様に物語の中の役割に過ぎなくて、たとえばロープレの魔術師とか戦士とかドルイド僧と剰り変わらない存在だったのでしょうが、実際に職業としてその領域に従事している人間が無視出来ないマッスを形成しているのだから、文明批評という社会的なテーマに挑むならその種の社会的な実態に対する適切な理解が必須となる。社会の実情も識らないで社会を語るんじゃない、という至極当たり前の話になるわけです。

彼女の経歴を考えると、そういう意味での社会的感覚を錬磨する機会はなかったようですが、それで書いて好い領域と書いてはいけない領域がある。物語のウソは不当に他者を痍附けるものであってはならないわけで、その意味で社会的領域に対して知識も勘もない書き手は、無用に人を痍附ける可能性を避ける為に、きちんと社会的な実情を勉強するか、その種のテーマに迂闊に触れないだけの弁えが必要でしょう。

あの当時はオレももっととんがっていたので、「おまえみたいなアタマの雑な奴なんかに文明批評は無理だから、おとなしく御伽噺でも語ってろい!」的な啖呵を切って太田脚本を盛大に批判しましたが(笑)、あれから太田愛もいろいろあって、本当に少年同士の友情譚とかご町内珍騒動とか変なお爺ちゃんの奇行録とか、リリカルな御伽噺しか語らない脚本家になりましたね。

人間には適不適というものがあるのだし、作家には興味の対象の向き不向きというものがあるのだから、それでいいんだと思いますが。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月31日 (木曜日) 午後 12時49分

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黒猫亭さんの反科学の情熱と云うエントリを読んで、なんだかちょいと蒙が啓かれたような気分になっている。個人的な事柄に属する部分なので、「余談」カテゴリに分類。 「ニセ科学批判」批判について、どうしてぼくが時間とエントリを費やして考えているんだろう、と少し自分で不思議だった。 自分の言説に対立するものだから反論を行うのは当然、と云う感覚は実はぼくにはあまりなくて、そこに感じているのは所謂「人体の70%は水分」理論と同種のもので。感覚としてはそこが曖昧だったのだけれど。 そういうふうに考えていくと、... [続きを読む]

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