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2008年1月 6日 (日曜日)

世界を視る目

以前しゃばけシリーズに事寄せて何心なくいつもの一つ節を語る感覚で書いた疑似科学批判を、poohさんと仰る方が好意的に紹介してくださった。この方はブログ上でニセ科学一般を批判しておられることで有名な方なのだが、そちらのコメ欄で少しお話をさせて戴いたことが契機になって疑似科学に対して日頃感じている事柄についてどんどん考えが膨らんでしまって、他人様のブログに長文コメントを連続投下するという不作法にまで及んでしまったので、この際自分のブログで纏まった意見を書くべきだと思った。

poohさんのところでは「ニセ科学」というタームを遣っておられるから、一種それらの悪意や悪影響を重視したスタンスだということだが、当ブログでは「疑似科学」というもう少し緩い括りのタームを用いている。これは悪意や悪影響の介在を剰り重視しないということで、疑似科学的なるものそれ自体が有害だと考えているということである。

リンク先のコメ欄でも少し語ったことだが、物の考え方が科学的であるか非科学的であるかというのは、科学的専門知識を持っているか持っていないかとはそれほど関係なくコモンセンスの問題なのではないかと思う。つまり科学的思考法というのは、今現在の人類がどのような仕組みで「本当らしさ」を担保しているかということなのであり、それは一種常識の問題でもあると考えているということである。

ウィーン学団に関するウィキの記述にもある通り、科学的規範に基づくアプローチでは科学と疑似科学を厳密に区別することは出来ない。絶対的に正しいことなど世の中にはないわけである。

故に、現代の自然科学では、少なくとも人間によって合理性が認められる理論を「今のところ正しい(正しい可能性が高い)」と仮定し、それ以外の理論を「正しくない(正しい可能性が低い)」とする考え方が一般化した(参照:「悪魔の証明」)。

つまり、科学というのは「本当らしい」と大多数の人間の理性が信じられる事柄を探る規範で、何が本当らしくて何が本当らしくないのかを判断する為の基準である。科学と一口に言うと小難しい高踏な理屈で、専門家以外の平凡人の日常生活に関係ないと考える人も多いのだろうが、このロジックで考えればそうではないわけである。

何故なら、何を「本当らしい」と考え何を「本当らしくない」と考えるかということはどんな人間にも無関係ではない重要な現実認識の基準だからである。疑似科学一般の最も悪しき部分というのは、この「本当らしさ」を担保する仕組みの理解が決定的に欠落していることにあるのだとオレは考えている。

ニセ科学の問題もそこから立ち上がってくるわけで、悪意的な詐術や社会的悪影響というのは、すべてこの「本当らしさ」に関する問題である。たとえば浄水器や機能水などの水商売関係の「ニセ科学」というのは、天羽優子氏のサイトを視ればわかるように、科学的な専門的知識などなくても常識で考えて明らかに矛盾した理屈を唱えることが多いが、一方でそれらを「本当らしい」と感じる感じ方がある。

非科学的というのなら、そんなものを「本当らしい」と感じる感じ方が非科学的なのである。これは何も「騙されるほうが悪いんだ」ということを言っているわけではなく、科学的方法論が担保する「本当らしさ」というのは、本来そういうものではないということである。

これは「ニセ科学批判」批判にも絡んでくる話だが、「科学を装う」というのは実態論ではなくイメージ論でしかない。その本質において科学ではないから「科学を装っている」という印象面についての批判を語るのが難しいわけで、たとえば超能力研究や心霊研究などの「既存の科学の常識を超越する」と称するそもそも科学的規範では最初から整合していない分野の言説のニセ科学性を批判するのはかなり面倒臭い。

一般に「科学」と言えば、大学の偉いセンセイとか難解な数式とか理論とか最先端の計測装置を使った実験結果というふうに考えるが、これらは道具立てに過ぎない。科学的方法論というのは、これらの道具立てを使う場面において、どのような厳密な検証の手続を踏むかということであって、道具立て自体が科学なのではない。ニセ科学一般はこの道具立てだけを整え科学に弱い人々に対して説得力を訴求するわけだが、肝心要の手続の部分で穴だらけだから、結果的に科学では在り得ない。

たとえば「科学的実験データが実証!」式に煽る対象は正面から科学を名乗っているわけだから比較的科学の言葉によって批判しやすいわけだが、道具立てだけが物々しいというのはつまり、昔の人が徳の高いお坊さんの言うことは信じられると感じる感じ方と変わらないわけで、難解な理論は有り難いお経と同列だし、先端的な計測機械は立派なご本尊や金襴の袈裟と変わらない。

つまり、人々の感じ方においては未だに科学と宗教はそれほど区別されていないということである。物々しい道具立てがあって信じられそうな人が口にする言説を無批判に信じるという感じ方があるわけである。しかし、科学というのはそういうものではなく、誰の言葉であろうが、ご本尊や袈裟が立派だったり貧相だったりしようが、それとは別に言説それ自体の妥当性や本当らしさを公平に判断する為の規範である。

科学研究の世界でそういう感じ方が存在しないとは言わない。未だに無名の一学生の唱えた理論よりも偉い先生が唱えた理論のほうが主流的な定説となるという傾向はあるだろうし、それは信じられそうな人が言っていることのほうが信じられるという非常に下世話な原理に基づく感じ方が少しは生きているということである。

しかし、少なくとも現代の学問の場においては、そういうヒューマンファクターの弊風を超えて言説の妥当性が検証可能だという健全性があることも事実で、その判断の拠り所となっているのが科学的方法論なのである。どんなお偉い先生の理論でも、それに反するような妥当な研究結果が発表されれば一学生の理論のほうが正しいと見做される。

それは科学というものが、物事の本当らしさの基準を個別のヒューマンファクターに置かない客観的妥当性の原理だからである。大学者対一学生という対立関係が在るとすれば、どちらの研究や理論のほうが第三者にとって本当らしいのかという基準に基づいてその可否を判断するのであり、どちらのほうが社会的に信頼されているかとか高潔な人柄かとか頭が良いかとかカネを持っているかという個別のヒューマンファクターを判断基準に据えない種類の原理なのである。

それ故に、たとえば何たら大学の教授様だとか難解な理論だとか最新鋭の計測装置などという要素に本当らしさを視る感じ方は、科学的でも何でもない。敢えて言えば、その言説を誰が語っているのか、その誰かは信ずるに足るだけの人物なのか、見た目の有り難みはあるのか、という窮めて人間的な部分に重きを置いている時点で、宗教的な感じ方であるということになる。

そのような科学では在り得ない空疎な道具立てを見破るには、それと同じような物々しい道具立てが必要なわけではない。何故なら、穴が空いているのは道具立てではなく物の考え方だからであって、物の考え方さえ健全で簡単な基礎知識を持っていれば見破ることが可能な欺瞞は多いのである。

そしてこの場合に「簡単な基礎知識」というのは、たとえば個々の専門分野に関するそれではなく、「科学的であるということはどういうことなのか」「科学的に本当らしいということはどういうことであるのか」に関する基礎知識であり、これは非専門家である一般人でもそれほど抵抗なく習得可能である。

たとえば以前「あるある大事典」の捏造を論じたエントリーで語ったように、「ここで我々はある『実験』を行った」と称して、たった一〇人前後の被験者を対象に行ったアバウトな条件附けの実験など、科学的にはどんな意味もない。このやり方で表現可能なのは、予め実証済みの理論を体感的に表現する場合のみであるということはすでに語った。つまり、リトマス試験紙を酢や石鹸水に漬けたら色が変わりますよ、というプレゼンテーション的な意味合いの「実験」なのである。

また、たとえば「善玉コレステロール」とか「サラサラ血」などという言い方が科学的に不正確だというのは、人体にとって「善い」「悪い」という線引きは人間視点で勝手に引いた判断基準でしかなく、天然自然の食物に人の肉体に一義的に「善い」喰い物とか「悪い」喰い物があるわけがないということでわかる。

喰い物一般というのは本来人の為に在るものではなくそれ自体が生存する為に存在するのであり、それに含まれる成分も人間の存在を前提に在るものではないのだから、「善玉コレステロール」的な表現の根底に在るのは過剰な人間中心主義であり、それに基づく一種の比喩である。

人工物や人間のカラダに馴染まない異物がよろしくないというのなら、普通の喰い物はすべて程度の差こそあれ人体にとっては異物であり毒であるのだし、人間にとって必要な成分だけを含む夢の喰い物など、天然自然に存在するはずがない。人間を含む動物一般は、そういうふうに毒でも在り得る異物としての他の生物に含まれる必要な成分を摂取する仕組みを進化の過程で整備したというだけで、人間に喰われる為に存在する天然物など存在しない。だから食中毒や食物アレルギーはいつまで経ってもなくならないのである。

人間の為に一義的に都合の好い食物や有効成分があるとしたら、それは人間がその為に合成もしくは抽出したものだけであり、必ず人工物である。人間中心主義的な物質は人間の被造物しかないからである。そして、どんな都合の好い物質であろうが、それが体内でどのような影響を及ぼすかというのは必ず量の関数の問題であって、絶対的に人体に「善い」という一面的な特性だけを持つ物質など在り得ない。

さらに言えば、今人間が喰っている大半の喰い物は、動物や植物を原種から品種改良したもので、その意味では殆どすべての喰い物が人工物である。だから「自然志向」という言い方も雑駁な表現でしかない。旧き善き日本の田園風景を「豊かな自然」と表現するのと同列の不正確な表現である。田園風景など、原生林を人為的に開墾した人工物の極みでしかないというのは、その成り立ちをちょっと考えれば常識で判断可能である。

「サラサラ血」という言い方だって、本来的な血液の粘稠性がどの程度であるべきかからの相対表現でしかないのだから、「見た目がサラサラなら何でもいい」というわけではない。蒸留水のようにサラサラしている血液がカラダに善いという印象を与えるこの表現は、流れる水が清いものであるという印象に則った「あるある大実験」や「善玉コレステロール」同様の「喩え話」のレベルの表現でしかなく、科学的には非常に不正確で紛らわしい表現である。

これらの表現が表しているのは、たとえばミクロの次元において特定の条件下で特定の量や性情の物質が特定の視座において人体に良好な影響を与えるという事実を、マクロレベルの形容詞に翻訳した表現で、「善玉」「サラサラ」の持つ良好な語感は、それが表現する事実の具体的な特定の条件附けから遊離したら何の意味もないイメージに過ぎない。それが容易く遊離するから、恰も「善玉コレステロール」という絶対的な人体の味方が存在するとか、血液がサラサラなら何でも好いという誤解を招くわけである。

但し、これらの表現は複雑でわかりにくい物事をオレたちが日常的に感じることが可能なフィーリングに翻訳して伝えることで、直観的に「わかりやすい」というメリットがある。物事を噛み砕いてわかりやすく表現すれば、その分精密性が犠牲になり情報が劣化するというのはある種避けられないことである。わかりやすさと正確性は相補的な関係性にあるのだから、その意味で所詮TVの情報バラエティに過ぎない番組が、この程度に劣化した情報を流すことそれ自体に目くじらを立てても仕方がない、という言い方は出来るだろう。

そのようなベタな表現やプレゼンテーションの不正確さや紛らわしさは、本来詳細に開示さるべき情報に対してわかりやすく噛み砕いた表現を求める視聴者ニーズと、それに呼応するマスメディアの関係性において現出するのだから、そのような表現を歓迎する視聴者一般の知的に不誠実な姿勢との比較において「どっちもどっち」式の話にしかなりようがない。それ故にオレが当初「あるある」に感じていた問題性というのは、詰まるところ「この番組の視聴率が高い」という現象全体に纏わる総体的なものであったということになる。

この番組が出発点からして科学的に不誠実な表現に傾いていたことは間違いないが、それを批判するのであれば、そのような表現をこそ望む視聴者の民度、すなわち常識のレベルもまた大きな問題となる。視聴者が科学的に誠実な表現よりもこのようなわかりやすい表現を好むからこそ、この番組は一〇年にも亘って高視聴率をキープして継続的な放映が可能だったのである。

しかし、この番組はその出発点においてこそ、その種のわかりやすい「喩え話」でアリモノの理論を語るというスタンスを守っていたようだが、次第にネタ切れが深刻な問題になるに連れ「喩え話」に過ぎない検証手段で素人が思い附いた「仮説」を「実証」するという無茶な姿勢に傾斜していく。捏造問題は、そのプロセスで必然的に起こったのである。土台そんな無茶なことは最初から不可能なのだから、いずれは何処かで行き詰まる。行き詰まって追い込まれれば人間は嘘も吐く。

つまり、最初のうちは科学的な規範では不正確な表現である「喩え話」を駆使して視聴者のわかりやすさを優先させるというスタンスだったから単に「不正確な表現」と謂うレベルに留まっていたが、後半に至って名実共に立派なニセ科学の仲間入りを果たしたというわけである。これはつまり、出発点におけるギリギリの「弁え」というのが如何に危ういものであったのかということの顕れで、科学的に不誠実な「だけ」だったのは単なる僥倖以外の何ものでもなかったということである。

初期の段階でアリモノの理論しか紹介しなかったのは、そんなものを自前で発案出来るとは思っていなかっただけの話で、何故出来ないのかというのは「ノウハウがないからだ」と考えていたということである。つまり、ノウハウさえ蓄積すれば自分たちでもその種の理論を考えることが出来ると考えていたということで、これはつまりその表現が確信犯的に非科学的だっただけではなく、それを制作していた人間たちの物の考え方が最初から窮めて非科学的だったという話になる。

或る科学的に本当らしい事実の比喩的表現と科学的な本当らしさの検証手段の区別が附いていないということは、そう考えられても仕方がないほどに非科学的で蒙昧な識見である。事程左様に、これほど科学が持て囃される世の中において、科学的な本当らしさとは何かについて無関心であることは窮めて有害であり、悪質なニセ科学の被害者になる可能性があるというだけならまだしも、その加害者になる可能性も同等に存在する。

そういう事柄の可否を判断し得る知識というのは別段専門的でも何でもない、常識の範疇の知識であるべきだろう。本当らしさを見抜く力がないということは、理不尽な迷惑をかけられたりかけたりする可能性があるということなのだし、それを避けようと心懸ける為の拠り所こそが「常識」というもののはずである。他人から迷惑をかけられたくない、かけたくないと思うのなら、その程度のことを識っておくのにどの程度の困難があるというのか。

これまで例示した事柄の問題点を整理すれば、たとえばデモンストレーションと検証手段を混同するアバウトさであったり、たとえば過剰な人間中心主義であったり、たとえば流水の清いイメージを血液にも求める印象論であったり、人間社会には殆ど存在しない「天然自然」を異常に礼賛する姿勢であったりするわけだが、これらは専門知識など何もなくても、少し考えれば誰にでもわかる、明らかに不合理な物の考え方である。

一口に「常識で考えれば誰にでもわかる」と言い放ってはみたが、裏を返せば「世の常識がそのレベルであってほしい」という願望に過ぎないことはわかっている。たしかに誰でもわかるはずなのではあるが、わかりたいと思わないからわからないのである。それはやはり、社会の常識のレベルの問題であり心性の問題であると言えるだろう。今では「常識」と謂えば無根拠な固定観念の代名詞というニュアンスで使われているが、本来はおおむね多くの人間が具えているべき平準的判断力の規範という意味合いである。

その場合にまず言えるのは、「常識」と呼ばれるべき規範には、専門的知識は含まれないということである。

たとえば一九九一年に放映されたNHKスペシャル「アインシュタインロマン」なども科学情報番組としては優れた作品だったが、原理的には「あるある」同様に難解な理論をビジュアリックな「喩え話」や日常レベルの感覚で把握可能な「事例」に仮託して紹介するというもので、情報としては大幅に劣化しているわけである。

その当時のオレはナイーブに「これで有名な相対性理論が理解出来た」というふうに思い込んだものだが、本来アインシュタインの理論を「理解する」ということは、その基礎的な素養として高等数学を修め、大前提として確立されている物理学法則や定理に習熟しアインシュタインの数学的記述を後附けながらその論ずるところを検証的に追っていくという意味である。さらには少なくとも一般相対性理論までの物理学理論の歴史的なプロセスを同様の手順で「理解」している必要もあるだろう。

相対性理論の時代から現在に至るまでの量子論や大統一理論の様々な試みをも同様な手順で理解し、「それ以降」の歴史のプロセスの中に正しくプロットすることもまた相対性理論を「正しく」理解することの一環である。

つまり、アインシュタインロマンで表現された比喩やSFで描かれている相対性理論の応用物の骨格的な概念だけを把握しても、本当は「理解」したことになどならないというのが厳密な言い方である。それはつまり、専修的に物理学を学んでいる大学生以上の学士でなければ本当の意味でアインシュタインの理論それ自体を理解することは出来ないということである。

一般相対性理論の本質を、たとえばウィキの記述にある以下のような概要にあると考える人は多いかもしれない。

一般相対性原理と一般共変性原理および等価原理を理論的な柱とし、リーマン幾何学を数学的土台として構築された古典論的な重力場の理論であり、古典物理学の金字塔である。測地線の方程式とアインシュタイン方程式(重力場の方程式)が帰結である。この理論では、アイザック・ニュートンが発見した万有引力はもはやニュートン力学的な意味での力ではなく、時空連続体の歪みとして説明される。

一般相対性理論では、次のことが予測される。

■重力レンズ効果——重力場中では光が曲がって進むこと。アーサー・エディントンは、1919年の皆既日食で、太陽の近傍を通る星の光の曲がり方がニュートン力学で予想されるものの2倍であることを観測で確かめ、一般相対性理論が正しいことを示した。
■水星の近日点の移動——ニュートン力学では説明不能だった水星軌道のずれが、太陽の質量による時空軸連続体の歪みが原因であることを示した。
■重力波——時空のゆらぎが光速で伝播する現象。
■膨張宇宙——時空は膨張または収縮し、定常にとどまることがないこと。ビッグバン宇宙を導く。
■ブラックホール——限られた空間に大きな質量が集中すると、光さえ脱出できないブラックホールが形成される。
■重力による赤方偏移——強い重力場から放出される光の波長は元の波長より引き延ばされる現象。
■時間の遅れ——強い重力場中で測る時間の進み(固有時間)が、弱い重力場中で測る時間の進みより遅いこと。

勿論、一般人レベルではこれだけ呑み込んでおけば何の問題もなく大威張りで「一般相対性理論についての教養」を誇ることが出来るだろう。オレたち非専門家は、別段これを応用して何かを作ろうと考えているわけでもないし、この理論の妥当性を検証しようとしているわけでもないし、この理論を批判して別種の理論を構築しようとしているわけでもない。つまり、現実生活上不要な知識である。現実生活で不要な知識は普通教養というふうに表現されるのだから、非専門家が教養として身に着けるならこのレベルで何の不都合もないのである。

しかし、厳密に謂えばアインシュタインの理論というのはこのような一般概念レベルの骨子ではなく、その数学的記述と整合的に語られた論理にある。何故なら、この理論がおおむね多くの専門家たちに正しいと認められている根拠はそこにこそあるからであって、厳密な意味で「理解」出来たということは、その言説の妥当性を論理的に検証可能だということなのだから、検証出来ない以上理解出来ているわけではないのである。

上記の記述でも、一般相対性理論の予測した重力レンズ効果が確認されたという個所については、「そうですか」としか言い様がない。「ニュートン力学の予測より一般相対性理論の予測のほうが観測事実と合致する」という、かなり大雑把な階層の理屈によって理解しているだけである。甲の予言より乙の予言のほうが正しかった、だから乙の言い分が正しい、こういう窮めて卑近なレベルまで情報を単純化しないと、オレたち非専門家にはその情報の意味するところが理解出来ないということである。

現在の世の中では、専門的なレベルで一般相対性理論を理解している人間は、オレが子供だった時分よりは格段に多いだろう。それはつまり、受験戦争の激化によって専門的学問領域を理解する為の基礎的訓練を受けた人間のパイが爆発的に増えたからであり、それはつまり一応日本人の教育水準が上がったということである。それでもそれが極々限られた専門分野の話であることは論を俟たない。どれだけ基礎教育の水準が底上げされても、国民の大多数が厳密な意味で一般相対性理論の意味を理解しているという状況が実現されるはずはないのである。

厳密な意味での一般相対性理論の「理解」は、本質的に「常識」のレベルに属する事柄ではない。SF紛いの人類の知的能力の拡張でも実現しない限り、個々の専門領域の常識知というのは、非専門家にとっては常識では在り得ないのである。

ここで一般論からニセ科学の話題に戻ると、素人が見破るのが難しいのは、科学的な手続としては正しいが実験データを操作するという欺瞞で、これは専門的知識がないと見破ることが出来ない。つまり、「常識」で判断可能な範疇の事柄ではないのだから、専門家が非専門家に仕掛ける確信犯の詐欺であり、「騙されるほうが悪いんだ」方式の手前勝手な三分の理すら成立しない悪質な欺瞞もしくは怠慢である。

専門家なら、「この条件で計測してこんな値が出るはずがない」という勘働きでその実験やデータの信憑性を疑い、それに対して実験の条件設定の厳密性やデータの信頼性を証明出来なければその実験結果は単なる欺瞞か錯誤の賜物ということになる。勘働きと表現したが、類似の条件設定で通常計測される値と明らかに懸け離れた数値が出れば、その実験の条件設定やデータ自体の信憑性、データ解釈の杜撰さを疑うのは窮めて合理的な考え方である。

天羽優子氏のサイトでも、実験条件の粗漏やデータの信憑性を根拠とした専門的な批判も多いが、すでに科学的な手続として間違っている研究に対して加えた批判に「反証の為の研究もしていないのにお手軽な因縁を附けるな」というクレームが多々寄せられたこともあるようである。しかし、反証も糞も科学的方法論として手続が間違っているのであれば、そんな研究結果には最初から一銭五厘の価値もないというだけの話である。

たしかにオレたちのように科学的専門知識のない素人は、確信犯のデータ改竄や実験条件の粗漏という「専門的な偽装・錯誤」を見抜くことは窮めて難しいから、それは専門家集団の共同体における社会に対する開示責任ということになるが、大半のニセ科学の非科学性は健全な常識の範疇で一般人にも可否の判断が可能である。

にも関わらずニセ科学がこれだけ蔓延っているのは、まだまだ人間は他人の言説を判断する場合、言説それ自体の整合性や論理性ではなく、その論者自身の信頼可能性を尺度に言説の妥当性を判断しているということで、それは一面では極々自然なことでもあるだろう。

人間の言葉には、言説自体の妥当性で計られるべき事柄と、それをどんな人物が言っているかで計られるべき事柄がある。同じ言葉でも違う人が言えば重みや説得力が全然違う事柄というのは幾らでもあるわけだし、それは人間対人間の心性に関する問題性においては大きな要素である。安い生き方をしているつまらない人物に、言葉だけは高尚で妥当で立派なお説教をされても説得力ゼロである。その人物固有の生き様や考え方や実績の積み重ねを背景にしなければ意味のない言葉というものもたしかにあるのである。

しかし、科学というのはそういう規範ではない。どんなくだらない人間が口にした言葉であれ、言説それ自体が整合しているか、それには妥当な根拠があるか、総体的に判断してどの程度本当らしいのか、という基準で判断する規範である。だから原理的には万人の間の共通言語と成り得るのである。

その一方で、その言説を語る人間の人間性と乖離のある規範だから、卑近なイメージとして科学には冷たい肌触りがある。「冷血な科学」とか「傲慢な科学」というふうに、科学に対してネガティブイメージを付与する傾向があるのは、科学が人情や心の感じ方で言説の妥当性を判断する規範ではないからである。

たとえば、大変人好きのする好人物で人格的に清潔な人物が私心なき理想に燃え情熱を込めて自身の仮説を語っていれば、人情の尺度ではその言説が正しいと思いたくなるものである。その一方で、見るからに胡散臭い拝金主義者的な人物が、如何にもこれで一山当てたいんです的な動機を言動に滲ませながら語る仮説は正しくないと思いたい、これも人情である。

しかし、科学の規範では少なくとも建前上はそんな論者個別の人柄で言説の妥当性を判断することはない。当然科学の徒も人間であるから、視るからに厭な人物の語る言説など否定したい、赤っ恥を掻いて間違いを指摘されたら痛快だ、という人情の動機はあるが、そのような人情の動きを努めて排するのが科学的に誠実な姿勢である。

科学的言説の妥当性は、心に響いたかどうかで判断するものではない。所与の検証手続に則って厳密に妥当性を計られねばならないものであり、厭な人物の語る卑しい動機に発した言説でも、その手続に則って正しいと判断されれば正しい。だから心的な価値基準を捨象する科学的規範には冷血だの傲慢だのというようなネガティブイメージのレッテルを貼られるのだろう。

しかし、人間はその歴史の中で心に響く言葉が必ずしも正しいとは限らないという経験を数限りなく積み重ねてきたわけで、人間の心が嘘を吐くこともあれば気紛れに揺れ動くこともあるということも識っている。しかし、世界が人間の心に映ずるただの幻想でないとすれば、自身の心という主観的で他人と共有出来ない規範を超えて自分と自分以外の赤の他人が共に「正しい」と認め得る真理があるはずではないかとも信じているわけである。

手垢の附いた西洋対東洋の二項対立の理屈で謂えば、たとえば西洋というのは絶対者という自己の心的現実を超えた超越を想定するから神の理という絶対の正しさを求める動機があるが、東洋、就中日本においては人間の心的現実に重きを置きその心映えにおいて認められる正しさが緩やかに他者と共有されていることを善しとする。

そういう思想傾向の違いがあるから、西洋では第三者と共有可能な客観的な合理の規範を希求する動機があるが、東洋では心的現実や心映えのほうを重視するから黒白をはっきりさせて誰が視ても正しい事柄を決めようという動機がない、それ故に西洋合理主義的な科学の規範は日本人には馴染みが薄い、まあ雑駁に括ってしまえばこういう考え方もあるだろう。

たしかにこういう考え方に基づけば、最初のほうで語ったように、日本人が言説それ自体ではなくその話者の信頼性やその言葉が心に響くかどうかという感じ方の部分で真偽を判断するという傾向を説明出来るかもしれないだろうし、「あるある」の非科学的表現やたとえば「水からの伝言」のような馬鹿馬鹿しいオカルトを真に受ける心性も説明出来るだろう。

しかし、この考え方の欠点は、ニセ科学に騙されるのは何も日本人に限ったことではないし、同様の道具立てで万国共通に騙される人間が多いという一般的傾向があるという事実である。科学的思考法の出自や、国民性とか民族性、物の考え方の歴史的経緯という要因はたしかに量的な部分では関係があるのだろうが、根底の部分にある普遍的な要因を剔抉する要素ではないのである。

我々日本人は別段東洋人だからニセ科学に騙されやすいのではないし、西洋人だからニセ科学に騙されにくいわけでもない。

人間なら誰でも「自分が信じたいことを信じたがる」という希みがあるのだし「信ずるに足る他者に判断を委ねたい」という弱さがある。人間の本音の部分で「本当らしいこと」というのは、「如何にも信頼するに足るような見た目の人物が、自分が本当だったら好いと望んでいる事柄を本当だと請け合ってくれること」なのである。

オレは、ニセ科学に騙される心性の根っこにあるのはそれだと考える。

勿論、そんな本音の人情に附け込んで、「信頼に足る人物」を装い相手が「本当だったら好いのにと望んでいる事柄」を「本当だと請け合う」輩の品性が下劣であることは、更めてオレが指摘するまでもないことだし、それは指弾されるべき悪だろう。

たとえば「○○大学教授」「この分野の権威」という肩書は人物の信頼可能性を担保する道具立てなのだし、そんな人物が語る「毎日服むだけで見る見る痩せる!」という言説は、それを聞く人間が「本当だったら好いのに」と望む事柄だし、「科学的実験データが証明!」式の煽り文句は自信たっぷりに「本当だと請け合うこと」なのである。

この条件が揃ってしまえば、その「○○大学」というのが何処にあるのかとか○○教授が本当に学界で認められている権威ある研究者なのかとか、そういう普通の疑問は消し飛んでしまうのだし、騙される当人にとって不都合な疑問となる。「科学的実験データが証明!」「驚異の○○理論!」というベタな煽り文句は、空疎窮まりない断言の手続に過ぎないのである。何故なら、そんなものに騙される人々は、「毎日服むだけで見る見る痩せる!」という普通なら馬鹿馬鹿しい嘘っ八が本当であって欲しいと希求する動機があるからである。

ニセ科学のチャチな道具立てが騙される人々に訴求するのは、人々が信じたがっている事柄を信じる手助けをちょっとするだけで簡単に騙されてくれるからである。

たとえば超能力研究などでは、「旧人類」に優越する特別な能力が自分にもあるかもしれないという希求と、他人にそんな能力があったら怖ろしいという畏れが人々の心性の根底にある。自分にもあるかもと思える人なら「いや、科学は万能ではないんだから超能力だって絶対あるよ」という態度に傾く動機があるのだし、どんな特別な能力だろうがそんなものが自分に具わっているわけがないと思ってしまう人なら「超能力なんて非科学的なモンがあるわけがねーだろ」的な態度に傾く動機がある。

SF黎明期にはスラン症候群的な話題が喋々されて、黎明期SF小説の主要な読者層であった思春期の少年の自我肥大にアピールするキャッチフレーズとして「僕らはみんなスランだ!」という殺し文句が口にされた時代がある。竹宮惠子の代表作である「地球へ…」などもスランを下敷きにして思春期の少年少女の疎外感と、それとは裏腹な自我肥大の心性にアピールした作品である。

滅び行く旧い世代の大人たちが持ち合わせない特別で新しい能力が僕たち新しい世代にはある、それは普遍的な青少年の自我肥大の心性でもある。黎明期のSFが若い文芸であると言われるのは、そのような新しい世代の心性にアピールする文芸ジャンルだからでもある。

近代以降、いつの時代にもテクノ格差のようなものがあり、テクニカルな領域に纏わる世代間闘争の種がある。SFというテクノロジーをキーワードとする文芸は、相対的に新しいテクノロジーに順応した新しい世代の心性にアピールする魅力があるわけで、旧人類対新人類的な対立軸の設け方も「大人は信用出来ない」「既存社会は自分たちには居心地が好くない」という若い世代の感じ方にアピールし、世代間闘争の隠喩としての機能を併せ持つ。

雑駁に括ってしまえば、たとえば自己の心性の軸足を「昔少年少女であった自分」に置くか「今現在大人になってしまった自分」に置くかによって、同じ対象に対する姿勢が一八〇度変わってしまう。「超能力はある」「超能力なんてない」という両軸でそれを判断するということは、裏を返せばそのような心的現実の二項対立が投影されているという側面もあるわけである。

超能力という固有のテーマに絞って言っても、その背景には「本当であってほしい」という動機と「本当であってほしくない」という動機の鬩ぎ合いという心的現実のレベルの動機が想定可能なのである。ならば「科学的な姿勢」とはどういうことかと言えば、そのような心的現実の両軸における対立を捨象して、所与の規範に照らしてそれがどのようであるのかを客観的に判断する姿勢である。

そのような姿勢は、たとえば今現在の心性の軸足を「昔少年少女であった自分」に置く人と「今現在大人になってしまった自分」に置く人との間の世代間闘争的な心的レベルの動機を超えた本当らしさをもたらすわけである。科学が提示する本当らしさの真の価値というのは、このように立場や動機の異なる人々の間で客観的に共有可能な正しさの規範であるという部分にあり、それ以上でもそれ以下でもない。

そして、たとえば科学が世代間闘争を調停するとしても、科学の言葉によって客観的本当らしさの文脈では調停されても、心的現実のレベルで世代間闘争は存続する。科学はその心的現実の在り方や人間の感じ方には主体的に関わらない規範なのである。

また一方で、科学という規範は厳密性を志向する故にそれ自体が厳密で完全な規範では在り得ないことがそれ自体の規範によって実証されているという、一見して矛盾した性格を有していることもニセ科学が附け込む隙となっている。

たとえば前述の超能力に対する可否両様の姿勢は、どちらの態度も科学的には妥当ではないわけで、超能力一般の科学の俎上に乗りにくい特殊要件を捨象するとすれば、それが普通の科学的検証手段で実在を認められれば超能力はたしかに実在するのだと考えるのが「科学的に本当らしい」わけで、検証の結果実在が確認されなければ「科学的に本当らしくない」と考えるのが妥当な態度である。

その場合、「科学的に本当らしくない」というのは、決して「ない」という意味ではないわけで、科学的に物事を判断するなら、超能力は実在しないと考えるのが妥当だろうということである。

現在のところ、超能力一般というのは科学的検証手段で検証することが困難な性格を有している故に、科学的なアプローチではかばかしい成果がもたらされたという話など聞いたことがない。要するに、「筋の悪い研究テーマ」なのである。「筋の悪い研究テーマ」というのは、原理的に効率良く成果を出すのが難しいテーマという意味もあるけれど、たとえば厳密に間違いであるとは実証されていないがまず疑いの余地なく間違いだろうと多くの科学者が確信しているテーマもその一つである。

万が一にも科学の常識がひっくり返るような大発見に結び附く可能性が厳密にゼロではないが、考え得る限りの可能性において限りなくゼロに近いというテーマが在り得るわけで、現実問題として普通に有用な研究成果を挙げようと考える科学者は誰も真面目に取り合わないということである。そもそも科学が提示し得る本当らしさというのは厳密に一〇〇%の正しさではないのだから、厳密にゼロではないが限りなくゼロに近い正しさというのは、実質的にはゼロだということである。

最初からゼロに近い正しさを研究によって論じることは、「一応科学的アプローチで研究しましたよ」というアリバイにしか過ぎないのだから、マトモな科学者ならそんなゼロに近い意義しかない研究に限りある人生の一時期を捧げて手を初めようとはしない。SFによくあるように、「学界から異端視されているタヴーだから」科学者が懼れているわけではない。掘っても何も出てこないことがわかりきっている所を無駄に掘るのは誰だって厭だから誰も手を着けないのである。

精々「学界から異端視される」ということの現実的な意味合いを考えるなら、無駄だとわかっていることに酔狂にも限りある人生を捧げる無能な愚か者だと見下されるのが厭だという、その程度の話である。

ならば何故筋が悪いと視られているのかと謂えば、超能力一般はすべてマジックで再現可能だからである。マジックと本物の超能力は違うと考える人は、ではそれらを何を根拠にして区別しているのかと謂えば、マジシャンが演じるのがマジックで超能力者が演じるのが超能力だという、その程度の基準しかないのではないか。

だから、所謂自称超能力者が行う超能力とまったく区別の附かない行為をマジシャンが行うと、そんなものはトリックだ、トリックで可能だからと言って超能力が実在しないということにはならないとかわけのわからないことを言う。そうではなくて、マジシャンがトリックで超能力と同じ行為が可能だということは、普通一般の人にはマジックと超能力が無前提で見分けられないということなのである。

その間の弁別可能性の最低条件としては、マジシャンの行うトリックをすべての人が看破可能でなければならない。トリックがあれば見破れるが、トリックがないから超能力は本物だ、これなら納得出来るだろう。しかし、マジックの知識がない大多数の人々にはマジックのトリックを見破ることなど出来ない。精々この間TV番組でやっていたように、超人的な動体視力の持ち主であれば単純なトリックを見破ることは可能だろうがそれが出来ないからそれが見世物になるのである。

ならば、それにどんな意味があるのかと言えば、超能力が実在するかも知れないという考えの根拠になっているのは、たとえばニセ科学関連の用語を定義されている亀@渋研Xさんという方の定義によれば「個人的な体験」が確信の源になっていることである。

超能力を信じる人々が何故信じるのかと言えば、それを「この目で視た」と信じているからである。それはたとえばユリ・ゲラーや某少年のスプーン曲げであったり、千里眼を持つとされるカリスマのパフォーマンスであったりするわけで、「オレは、私はこの目で視た」という事実の有無を言わさぬ実感的な説得力が個人的な「根拠」となっているわけだが、たとえばマジシャンが自称超能力者のパフォーマンスを完全に再現可能だということは、そのトリックが見破れない限り一般人には自称超能力者がインチキをしていても見破れないということであり、「オレはこの目で視た」という事実の本当らしさの規範におけるたしからしさが無効化されるということである。

完全に同じパフォーマンスを演じて見せることによって、ではこのまったく同じ二つの行為をマジックと超能力に区別する実感的規範は何なのですか、という話になってしまうわけである。言うまでもなく、この二つの行為の実感的な違いとは、マジシャンがマジックですよと断って演じるか、超能力者が超能力ですよと断って演じるかの違いでしかないのである。

かなりややこしいことを言うからそのつもりで聞いてほしいのだが、科学的な規範においては、たとえば超能力とマジックが別物であり、超能力の実在が「オレはこの目で視た」という実感によって規定可能だというのであれば、たとえば本物の超能力者がタキシードを着て「マジックですよ」と言って披露した超能力と、無名のマジシャンが一般人を装って「これは超能力です」と言って演じたマジックを、普通一般の人が見た目で一目瞭然に区別出来なければならないということになる。

マジックによって超能力の実演が完全に再現可能ならば、少なくともその超能力をこの目で視たという実感は、それが本物の超能力であるか否かとはまったく関係ないということになるのである。その超能力者が単に無名のマジシャン予備軍であって、確信犯で超能力を装ってマジックを演じた場合でも、「オレはこの目で視た」式の根拠を挙げる人間には決して区別が附かないということだからである。

それ故に、たとえばマジシャンが超能力者のパフォーマンスを完全に再現して見せる行為を視て「たとえトリックで再現出来ても、そういうトリックを使ったという証明にはならないじゃん」とか言っている人は相当鈍いわけで、そこで言われているのは「こういうトリックを使われていてもあなたには見破れないでしょ?」という意味である。

別にそのまんまのトリックでなくてもいいが、トリックによって再現可能な行為を視てそれが本物の超能力だと思い込む人というのは、たとえばステージマジックの定番である空中浮揚の演題やセロのクローズアップマジックを視たら、本物のテレキネシスやアポート能力だと思わねば矛盾しているということである。

マジックはマジックですと断るから罪のない見世物になる。その間の手続は、たとえばそのパフォーマーが公的にマジシャンと認められているだけで充分である。すべてのマジックに種も仕掛けもあることは、誰もが識っている大前提なのであるから、たとえマジシャンが「種も仕掛けもございません」と言ったところで、それはステージ上のレトリックである。

少し前にMr.マリックのパフォーマンスがインチキ呼ばわりされて冷や飯を喰わされたのは、彼のパフォーマンスの見せ方や売り方がマジックと超能力の間で見た目的に紛らわしかったからである。最初からマジックですよと断っていたら、誰もマリックを咎めなかっただろうが、マジックだとも超能力だとも有耶無耶にしていたから叩かれたのである。まあそういう紛らわしい売り方で人気を博した人間なのだから、それは一種詐欺ではないが叩かれたのも当然の酬いではあるわけである。

しかし、これを公的にはマジシャンとは認められていない人物が、オレはこういう他人とは違った能力を持っているんです、マジックでもトリックでもありませんと言い張ったら立派な詐欺になる。その当人が、無意識に複雑精緻で一定の訓練を要するトリックを駆使しているということなど、普通に考えて在り得ないからである。

そして、オレの「個人的な体験」を挙げるなら、オレはこれまでマジックによって再現不可能な超能力というものをこの目で視たことが一度もないから、オレが超能力として見せられたパフォーマンスはすべからくマジックである可能性のほうが疑問の余地のないほど高いと確信している。というか、そういう検証が実際に行われている。

オレは「本物の超能力」など一度も視たことがないし、視たことがなくて人類には未知の原理で成立していて既存の物理法則を一切超越する能力など、人の心の中以外にはまず実在しないだろうと考えている。ただ、一〇〇%実在しないと断言するだけの確実な根拠はないというだけの話である。

幽霊は枯れ尾花ではないかもしれないし、妖怪は実在するかもしれないし、UFOは異星人の宇宙船かもしれない。そうでないと実証された事柄以外はすべて何某かの実現可能性を内包しているのであり、それをゼロにすることは不可能である。

だからこそ超能力研究というテーマは、実在を否定されてはいないけれど、苦労して生涯を捧げて掘ってみても何も出てこないテーマだろうと考えられているのである。

そして大多数の人間だって冷静な常識で考えるなら同じような結論に至らざるを得ないだろうと思うけれど、それでも超能力の実在を主張する人が後を絶たないのは、それを信じたいという心的動機を持つ人が無視出来ないレベルの勢力を構成しているからだろうと考えている。

そのような人々とそうでない人々の違いは、権威を装った誰かが勿体ぶって自信たっぷりに断言してくれさえすれば、自分の理性が囁くいろいろなことに目を瞑って信じたいことを信じられるかどうかの違いに決着するのだとオレは考えている。そのような人々にとっては、結局その規範が宗教であるか科学であるかオカルトであるかなどは無関係なのであり、誰かが自分に都合の好い事柄を「本当だ」と断言する為の既存の口実が何かしらあればそれで好いのである。

ニセ科学に騙される人は簡単にニセ宗教に騙されるのだし、オカルトにも騙される。さらに言えば詐欺紛い商法にも騙されるのだし、小泉純一郎にも騙される。オレが撃つべきだと思う本質的な問題性とは、たとえばニセ科学とオカルトは別だとか、宗教とそれらは違うとかいうような構造面の問題ではない。

人々が信じたいと願う事柄を信じられるように手助けする茶番劇一般の悪意、そしてそんなものに身を委ねたいと望む人々の常識の欠如である。自分の大切なものが悪意的に狙われているというのに、それでも一方的に他人に依存して願いを叶えて貰いたがる心性の問題なのである。

人は何故ニセ科学に騙されるのか。そのような書題を掲げた多くの書籍が刊行されているが、オレの考えは簡単である。人は自分が自分の頭で物事を判断しなくても済む無理もない難解さの境界としての役割を科学に求めている。専門的な科学知識は一般常識ではないのだから、先端科学の問題はたしかに一般人が考えるべき事柄ではないだろう。

そこが口実となって、人は勿体附けた赤の他人が自分の信じたいことを魅力的に語る馬鹿馬鹿しい夢物語を無批判に受け容れられるのである。その根拠となるニセ科学なんて道具立てさえ揃っていれば無意味なアブラカダブラで構わないのである。

ニセ科学なんてその大半は誰にでも見破れる。自分の頭を使って見破りたいとは望まない人間、自分にとって大事なことを誰か他の人に決めてもらいたがる人間、理解不能な魔法の呪文が自分の望みを叶えてくれると思いたがる人間が、真っ先にそのようなチャチな嘘に騙されるのである。

ニセ科学一般の問題とは、そのように世界を視ようとする心性の問題であるとオレは考えているのだし、行為としての悪であるニセ科学をも含めて疑似科学一般が有害だと考えるのは、そのような意味である。

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コメント

ようやくニセ科学に関するエントリーを読み終わりました。

どこにこのコメントをつけたものか、と思いましたが、ここにぶら下げておきます。

僕は黒猫亭さんも読んでいるとある理系ブログのコメント欄で、頑固なニセ科学信奉者にちょっと突っ込むだけのつもりが話をややこしくしてしまい、以前に終わっているはずの話を蒸し返してしまうような莫迦をやってしまってドツボにはまっていたりします(笑)。いろんな人がそれこそ噛んで含めるように手を変え品を変え説明しても単なる平行線で終わっているものを自分みたいなのがどうこうできるはずがないのに、でも譲れないのでしんどい思いをしているという・・・。

そんななかで、黒猫亭さんが自分と同様の方向性で、自分よりはるかに雄弁に語ってくれているのを読んで少々救われたような気がします。というのも、自分の長い付き合いの友人にこういう弁の立つ人がいるというのは、それだけでなんとなく強力な味方を得たような気がして心強いものです。

まぁ、今僕がやっていることは徒労に終わる公算が大きいですが、決して間違ったことをやってはいないと思えるので、もう少し精進しながら頑張ってみます。

投稿: がん | 2008年1月16日 (水曜日) 午後 07時29分

>がんさん

どうもです。そういえばがんちゃんも科学者でしたね、仲間内に理系の人がいるというのは、非専門家としては心強いものがあります。まあ、正味な話、自分も含めて科学の専門教育を受けていない人間の語る科学というのは推測ですから、専門家によって言説の妥当性を検証して戴く必要があるわけで、そういう方々からそれなりに評価して戴けるのは有り難いことです。

本題のほうですが、すでにニセ科学信奉者である論者というのは論理も会話も通じない部分がありますから、説得するのはまず不可能ですね。たとえその場で言い負かされても別の場所に行って仕切り直すだけなので、徒労感は激しいと思います。それでも、ニセ科学批判を展開されているブロガーの方々がその種の相手と議論するのは、相手を説得しようとか、言い負かして議論に勝とうという目的でその場の議論に打ち込んでいるわけではなく、信奉者の言説を放置することでそれを読んだ不特定多数の読み手の間に誤解が広まることを阻止するという公益の為に、対話不能性を承知の上で討論しておられるんだと思います。

現実のニセ科学というのは、そういう対話不能な論者の狂信故の人的迫力で伝播している側面も強いわけで、これはニセ科学とは限りませんが、たとえば自然食信者とか環境貴族なんかもその種の押しの強さで社会に一定の影響を与えているわけです。だからニセ科学と戦うという場面でも、間違った言説の流布を阻止するという地道な努力も必要なわけで、公益が重視される領域だと思うんですよ。

たとえば別のエントリーのコメント欄でやりとりさせて戴いているapj さんも、目の前にいるオレだけではなく、その対話を覗いている不特定多数の読み手の目を意識してコメントを書き込んでおられるわけで、それが明らかなだけにオレもそのような意識においてお話をさせて戴いています。多分、ニセ科学信奉者との議論においては、当事者性や個人性に囚われたら負けなんですよ。それは相手のフィールドであって、そのような言説と戦おうという人々のフィールドではありませんから。

たとえば、ここ暫くの間にいろいろな過去の議論を視てきましたが、個別のニセ科学信奉者のご意見というのは、第三者の目から視てとても合理的な目的性が見えにくいという共通項がありますよね。それは多分、それらの論者の目的性というのが窮めて個人性が高く当事者性の強い事情があるからなんではないかと思っています。

先日の記事で少し触れた水商売ウォッチング批判のブロガー氏も、その後のブログ内検証でマグロの関係者だったことが判明していますし(笑)、個人性や当事者性の動機で語られた言説の意味など他人に通じるはずがない。マグロの販売員の都合なんて、そうでない人間には何の関係もないですから、最初からお話にならないわけです。

これは、がんちゃんが相手取っている方も商売関係者だという話をしているわけではありません。言説それ自体によって目的性の読めない論者というのは、たいがいその言説には顕れない個人性や当事者性の動機を持っているのではないかという話です。だから言説のやりとりで説得することはまず困難なんですね、相手はすべてのカードを見せているわけではないですから。

それ故に、「何の為にこの人と論争しているのか」を見失わないことが大事なんではないかと思います。以前こちらに書き込んでくださったpoohさんにオレが「オレの言説なんて周回遅れなんじゃないですか」と申しあげたら、「個別の言説の場ではすでに論じられたことでも、世間の人々にとってはそうではないから、繰り返し論じることには意味がある」というようなことを仰ってくださったんですが、そういう意味ではがんちゃんの議論にもきっと意味があるんですよ。

そちらの場の常連の方々にとってはすでに飽き飽きするほど論じられたことでも、がんちゃんにとってはそうではないから積極的に論じることが出来る。それは無駄なことではないと思います。ニセ科学の論壇というのは、その場にいる個別の論者の知的満足ではなく、飽くまで公益を第一に考えておられるはずですので、「すでにその言説の場で論じられたことであるかどうか」は関係ないと思います。

合理的な目的性の視られないニセ科学信奉者は、あちこちへ議論の軸をズラし不合理な強弁を繰り返して飽くまで譲るまいと頑張るでしょうけれど、そこで譲れないと思うのならば、その方の論旨の何処が妥当ではないのか、矛盾しているのか、それを科学者の一人として辛抱強く冷静に指摘していけば好いのではないかと思います。そのうちその方も出鱈目の種が尽きて退散するでしょうから、その場におけるがんちゃんの議論の意味はそれで完遂されると思いますよ。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月16日 (水曜日) 午後 10時38分

こんばんは。

僕がしんどい思いをしながら譲れないというのはまさにそこのところで、今議論(にもなっていないのですが)している相手はこちらが沈黙すると、そのことを宣伝材料として自説をネットで広めていこうとするので余計に止められません。僕などは相手をしている大勢の1人に過ぎないのですけど、そういう点からも間違ったことをいうわけにいかないのはもちろん、沈黙するわけにもいきません。その意味でも、黒猫亭さんのこの言葉は非常に気持ちの上でも助かります。

しかしこのレスは、僕の様子を見てきたような文章で(笑)、まさに相手は典型的なアレってことなんでしょうね。長いネット生活でここまで会話が成立しないというのも(これほどでなければ時々ありましたが)記憶になく、ある意味いい経験をさせてもらってるのかもしれません。

僕はもう研究の現場を離れてしまっていて、技術開発からその普及をする立場に変わってしまったのですが、現場に出てからでもなぜ農薬は使用基準を守らなければならないのか、守っていればなぜ安全なのかなど科学的な基本を押さえておかないと説明も理解もできないので、農家のためにも消費者のためにも科学的な共通理解はできるだけ広めておきたいと思っています。

投稿: がん | 2008年1月17日 (木曜日) 午後 10時25分

>がんさん

どうもです。会話の通じない相手との議論というのは本当に消耗しますね。まあ最初のほうで書いたことや今日の記事にも通じますが、向こうはとにかく譲らなきゃいいや的なスタンスなんで、人の話を聞かなければ済みますし、論理的に整合してなくても思い附きを並べ立てれば済みます。出鱈目を言うのは簡単ですが、それが出鱈目であることを指摘するのはその何倍も大変なので、結果的に消耗するんですね。

でも、ニセ科学批判関係のエントリーでコメントをくださっているような方々のご紹介でいろいろな議論を視ていくと、やはりその辺はその場に居合わせた方々がリソースを分担するというのが知恵なのかな、と思いますね。先述の通り、元々原理的には出鱈目を言う側が圧倒的に有利なんですから、一対一で議論するとかなり消耗しますけど、そこは交代制というか、思い附いた方が思い思いに相手を務めるというのがいいのかな、と思います。

一見大勢で取り囲んで不公平に見えますが、元々自身の言説の整合性や妥当性に対して無責任な相手と一対一で議論すること自体が不公平なんですから、多人数で協力してことに当たるのが本当の意味で公平なのかな、と。まあ、お話を伺うとどうやら相手にはニセ科学を情熱的に喧伝するだけの十分な個人的動機とやらがありそうですので(笑)、議論をやりかけた以上最後まで完遂するしかなさそうですね。

オレ自身は現在は対面的な議論に腰が引けているというのが本音のところで、がんさんとは附き合いが長いからいろんな場面を視ていると思いますが(笑)、どうもオレはついついやりすぎてしまうので、ニフの会議室とは違って自己責任における発話が一般化している現在、ネットに対する感受性も鍛えられていない特定個人をそこまで追い詰める意味というのが剰り見出せずにいます。ニフと違って、痍附いた人をフォローする人もいるとは限らないですからね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月18日 (金曜日) 午前 12時27分

どもです。

最近、相手方がどうしたのかレスを返してこないというか発言自体がないので、落ち着いた日々を過ごしてます(笑)。本当に頻繁に(と言うほどでもないけど)やりとりをしていた時は、仕事中ですら「相手がこうきたらこう、ああきたら・・・」と対局中の碁打ちみたいについ考えてしまっていたものです。そういう意味で、かなり消耗してました。

しかし、あれだけたくさんの人に色々言われて消耗しない相手に対して、変な意味で感心します。黒猫亭さんが言うように、個人的動機があるにしても僕には理解できません。

まぁなんとか僕も割り切って、消耗しない程度に相手をして、でも自分を見失うことがないようにしていくようにします。そのうち、なるようになるでしょう(笑)。

投稿: がん | 2008年1月19日 (土曜日) 午前 12時13分

>がんさん

某所でヒントを戴いたんで、ちょっとそこを覗いてきましたが、流石に長くて全部読めませんでした(笑)。物凄く大雑把に言うと、どうもその方にとって自分の主張が生き甲斐みたいになっていて、その為にかなりの労力を割いているみたいですね。

ところどころログを拾い読みしたんですが、おそらくあの方はああいう問題を扱う為に必要な情報には一通り目を通しているみたいですが、科学的な基礎訓練がなくて全部独学みたいですね。それ故に周囲の方々と同じ対象を語っていても話がまるで通じていない。

素人のオレ辺りが読んでも、情報を共有していないから口出し出来そうな雰囲気ではないですが、何というか「議論が成り立っているかのように見せ掛ける」のに悪知恵のある方ですね。議論というより、出来が悪くて敵意のある生徒に無理矢理知識を教え込んで反論を全部ふさぐという感じですから、大変でしょうね。

ただまあ、あの方があそこで執念深く頑張っているのは、あそこの管理者の方が別の事柄に対して最初に仰った「引くに引けない」というのが動機でしょうから、それなりに玄人を相手にするプレッシャーもあるわけで、素人を騙せる程度に頑張って名誉ある撤退をしたいというのが本音じゃないですかねぇ。

まあ、時間のあるときにボチボチとログを読んでもっと理解を深めるようにはしますが。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月19日 (土曜日) 午前 01時07分

どもです。

おおむね正しい理解をして頂いていると思います(笑)。あの方は議論に見せかけているだけでなく、こちらの神経を逆撫でするような物言いをしますので、本当に消耗します。

その人にこちらにまで来て欲しくないので、ぼかした言い方をしていたんですが、きちんとたどり着いた上により理解を深めたレスをつけてくれたおかげで、僕にとってはいいガス抜きになりました。

ログの方は、話にならない話が延々と繰り返されているだけなので、全部読んでもらうのはなんだか申し訳ないです(笑)。

投稿: がん | 2008年1月20日 (日曜日) 午前 12時26分

>がんさん

すいません、お返事が遅れました。

>>あの方は議論に見せかけているだけでなく、こちらの神経を逆撫でするような物言いをしますので、本当に消耗します。

議論じゃなくて喧嘩ですねぇ(笑)。自然科学であれ何であれ、無前提に情報を入手していればそれでいいというものではなく、その体系的な理解や意味附けが共有されていることが重要なんですから、本当はその方も周囲の方の見解がおおむね一致している以上は、耳学問の自分の解釈のほうが間違っているということはおわかりなんだと思いますけどね、とにかく負けたくないんでしょう。

普通の常識で考えれば、自然科学の領域で一般に常識視されている事柄を巡る議論において、かなり個性的なメンタリティの方でもない限り、誰かが自説を言い張って譲らないという事態は考えにくいと思うんですが、身振りや物言いという喧嘩のテクニックの次元で相手を圧倒しようと努めるというのは、まあ妥当性の次元ではすでにおかしいと思いますけどね。

別のエントリーでこのお話を少し反映したお話をさせて戴きましたが、やはりこういう議論の場合に問題となるのは、専門家の間と非専門家の間で、議論の趨勢に対する認識が違うということなんじゃないですかね。それは逆に言えば、世間的に視て議論というのは妥当性が基準となるものではなく、言い負かすとか怒らせるとか勝手に勝利宣言の次元の闘争手段だと思われているってことですかね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年1月21日 (月曜日) 午前 03時44分

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