今更ではあるが
最近お邪魔しているブログで興味深い記事を拝見して、その事例に絡めて前回のエントリー同様ニセ科学の問題について少し長い記事を書きかけていたのだが、そこで引き合いに出されている別のブロガー氏を過剰に叩くことになりかねないので、途中で気が変わって一旦白紙に戻した。
事情をご存じない方には感じ悪いだろうが、まあその個別の事例に踏み込んだ話をするのは取りやめにしたというだけである。そういう次第で論点は多少ズレるが、今回は今更ながら何かと騒動の種である「水からの伝言」を少し考えてみたい。
すでに決着の着いた問題としても、某有名政治ブログでも新年早々水伝を巡るトラブルが勃発したようだが、この個別の事例にも立ち入って発言するつもりはない。まあ個人的な感じ方としては、たとえば自分が愛読しているブログでいきなり水伝の話が出たら窮めて気まずい気分を覚えるだろうが、オレ個人はそこを愛読していたわけでもないので余所事についての個別のコメントは控える。
ただまあ、今は下手に水伝に関わることが危険な状況にあるのはたしかで、それは一般的な認識として、水伝を肯定的に語ることには明らかな社会的悪影響があると目されているからである。その間の議論はかなり詳細に論じ尽くされていて、今更何かを言ったところで大勢の判断が覆ることはない。ブログでこれを肯定的に採り上げることには、その伝播に一役買ったという加害者性を論じられるリスクが伴うのである。
前回語ったこととも関連してくるが、ニセ科学の問題で重要なのは「悪意なき知的不誠実」の問題である。前回は「これほど科学が持て囃される世の中において、科学的な本当らしさとは何かについて無関心であることは窮めて有害であり、悪質なニセ科学の被害者になる可能性があるというだけならまだしも、その加害者になる可能性も同等に存在する」と書いたが、その加害者性に無自覚なことは、悪意の有無に関わらず不誠実な姿勢である。
立ち回り先でそれを痛感するようなブログの事例が挙げられていて、それに関して若干意見のやりとりをさせて戴いたのだが、個別の行為の応報という意味では充分叩かれているのだからオレが今更何かを附け足す意味はない。オレが感じたのは、たとえば「知的不誠実」と言い「心映えのコミュニケーション」と言ってはみたが、非常に具体的な感想を言えば、ブログやってるくらいなんだから何かを書くなら事前にネットで調べれば好いじゃないか、という散文的なものである。
たとえばウィキが全面的に信じられるとは限らないが、少なくともそのテーマに関心を持っている人間の多くがそれほど文句を言わない程度のことが書いてあるし、記述が固まっていない場合はその旨註釈してあるのだから、世間でどういうふうに受け取られているのかの尺度にはなるだろう。編集合戦が行われて凍結されているような記事なら、ああ世間ではまだ評価の定まっていない事柄なんだな、というふうに解釈していろいろなサイトを読んで自分の意見を固めれば好いだけの話である。
ブログというのは個人の私的情報発信なのだから、自身の職業的専門領域以外のことにも言及する自由はあるし、その場合は世間で受け取られているレベルの情報を前提視して論を展開する分には何処から文句を言われる筋合いもないだろう。ウィキの記述レベルを超えて正確なことが言えるとすれば、そのテーマに関して世間一般よりも蓄積情報のアドバンテージがある場合だけである。
オレが記事中で度々ウィキを引くのはその程度の意味で、つまり当ブログの記事は大体そんな世間並のたしからしさに基づいて物を言っている言説であり、それを明示する意味でウィキを引いているわけである。その場合、予め考えていた青図にとって不都合な記述が出てくれば、青図のほうが間違っている公算が大きい。念の為に別のことが書いてあるサイトがないか調べてみて、ウィキの記述を支持する内容のサイトが圧倒的に多ければ、概ねそれは現段階で世間的に受け容れられている知見だということになる。
そのような場合にオレは最初に書こうとしていた内容をサラにして、新たに得られた情報と整合するように最初から内容を考え直す。結果的に最初に考えていたこととは全然違う記事になったりするが、記事を書くことが契機になってそれまで漠然と抱いていた自分の意見がより妥当なものに是正されたということだと考えている。
こういう場合に、躍起になって自説に有利な材料はないかと探し回るのは馬鹿げていると言えるだろう。何の為に検索するのかと言えば、そのテーマに関して世間と大前提となる知識を共有する為である。世間において共有されている知識こそが出発点となるべきなのであって、予め自分が語ろうと思っていた内容が出発点になるのでは何の意味もないだろう。
それが在り得るとすれば、それは自身が一定期間継続的且つ専門的に追跡していて世間一般の人々よりも蓄積情報のアドバンテージがあると確信出来るテーマに関して、世間一般の現状の常識知を修整したいと考える場合のみである。つまり、自身にとって非専門的な領域においてこのような自説ありきの姿勢を固持することは、知的に誠実であるとはとても言えないわけである。
これはつまり、誰だって出来る限り何処からも後ろ指を差される謂われのない、妥当な意見を堂々と発信したいという欲求に基づいて発話しているのではありませんか、それならばちょっとしたネット検索がどれだけの負担だと言うのですか、そこで自説に不利な材料が出て来たからと言ってそれを受け容れて意見を修整することがどれほど苦痛だと言うのですか、という話である。後で叩かれたり信用を落とすのは、誰でもない、当の自分なのであり、ブログというのは世間を相手にする発話なのである。
調べてみてミスがあった、解釈が間違っていた、情報源が正確ではなかった、これは一般人としては仕方のない部分だろうし、妥当な批判や指摘を受けたなら虚心に受け容れるべきだろうが、何故に調べればわかることすら調べようとしないのか、これはどのような言い訳も効かない窮め附けの怠慢である。
敢えて挑発的なことを言うなら、ブログを閲覧するどんな読者もそんな労力を省いてまで書かれたあなたの不誠実なご意見を一分一秒でも早く読みたいなどとは望んでいないのだから、最低限の情報は調べて確認すべきである。所詮はネットの私的発話なのだから、ネットで入手可能な情報だけで構わない。国会図書館に行って参考文献を渉猟せよとか、大宅に行って時事資料を漁れとか、専門家に面談してレクチャーを受けよなどと無茶なことは言わない。公的発話には、書き手の取材力相応の情報収集努力が求められるというだけの話である。
ネットでちょこっと調べるだけで、そのテーマに関して世間の大勢としてはどのように受け取られているのかということがアッサリわかるのである。それはもう、どのように言っているサイトが多いのかという、その程度の至極単純な判断でも構わない。何も調べずに安直に書くより一〇〇〇〇倍マシである。
どんなブラウザにでも入っているあのブックマークを開いて、あなたが今まさに書こうとしているエントリーのテーマとなる単語を入力し、幾つかのサイトを少しだけ読んでから書くべきだろうという、そういう極々単純な話をしているのである。
たとえば、今回のテーマである水伝を例に挙げると、検索サイトによっては順序の違いはあるが、最初に出て来るのは概ね当事者である江本勝氏の会社であるIHMの公式サイトと、例の田崎晴明氏の「信じないでください」と、ウィキの記事である。それに続いて、水伝に感銘を受けた一般人のサイトが幾つかと、もっと多くの水伝批判のブログやサイトが専門家・非専門家を交えてゴロゴロ出てくる。
なるほど、水伝の著者は江本勝という人なのだなとわかると、それでは江本勝とは如何なる人物かということで、まずウィキの記事で著者名のリンクを踏むと、流石にこれだけの影響を及ぼした人物だけあってちゃんと項目が立っている。しかしこれだけでは普通の履歴調べにしかならないので、ご当人の本拠地であるIHMのサイトでどのように紹介されているかを視てみる。
やはり大したことはわからないのだが、気になるのは彼の唯一の学位として掲載されている「代替医療学博士」という一語である。「代替医療」というのは字面から概ね意味がわかるが、ウィキの記事はそこにもリンクが埋まっているから踏んでみると、なるほどそういう分野なのだということがわかる。
大本の水伝に戻ってIHMの紹介文やウィキの記述を読み進め、さらにウィキにも外部リンクがあり検索でも上位にヒットする、田崎氏の「『水からの伝言』を信じないでください」というページや菊池誠氏のブログ、天羽優子氏のサイトなどを読んでみる。
検索サイトの一ページ目上位に挙げられた幾つかのサイトのリンクを順に読み進むだけで、世間では水伝がニセ科学と視られていることやその理由、何故にこんな馬鹿馬鹿しいオカルトが真剣に批判されているのかという事情が自然に理解出来るはずである。さらに興味を覚えたのであれば、グーグルやヤフー、グーというふうに検索サイトを変え検索ワードを変えていろいろ検索を繰り返してみれば好いだろう。そのプロセスにおいて、水伝の著者である江本勝氏が自著に関してこんなことを言っていますよ、というテクストが出て来る。
水からの伝言はポエムだと思う。科学だとは思っていない。僕は科学者ではない。単なるロマン的なこと、ファンタジー。宗教と紙一重なので、誤解いただくこともあるが、宗教家ではない。少年のまま大きくなった普通の人間。ただ、科学でわかっていることはほんの数%、95%はわからない。今後、周りの研究者によって科学的に証明されていくと思う。
結晶の撮影は本来は温度や湿度のコントロールができた部屋でやるべきでしょうが、中小企業なので限界がある。ネガフィルムなので、改竄はない。ご要望があれば公開したいが、科学者からは無視され、インチキと言われている。撮影者には、こういうことをした水だという情報を与えている。水は心の鏡だという。撮影者の意識が働いてきれいなものになるということはある。それは別に非科学的ではないと思う。量子力学の世界ではそうなっているようだ。内容を知らせていなくても、良い言葉では良い結晶が多い、そのへんは謎だ。
思いついたきっかけは、水を使って健康相談に応じていたら、すごいことが次から次に起きたからだ。水が情報を運びうるんだ、その情報は微細な振動だと自分なりに推理した。それが波動だった。とても大事なことなのに誰も信じてくれない。あるいは理解できない。それで、僕のような素人がたまたま手をつけた。
波動の理論は、僕の中での常識。著書に書いた「108の元素が108の煩悩に対応している」ことも常識だ。常識を発表していけないことはない。
1999年に琵琶湖に350人が集まって祈る運動では成果を収めた。それ以来、琵琶湖はきれいになった。
祈りでハリケーンを消すことができるか?出来ると思うが、人数がいっぱい必用でそう簡単に出来ない。そのためにも世界を講演して歩いています。
前掲の天羽優子氏のサイトの記事である。
逐次的な書き起こしではなく要約のようだが、天羽氏の活動が世間的にどういうふうに評価されているかについて、オレの場合前以て予備知識があるから、これは大体信用出来る記述だろうと見当を附ける。そうでない人でも、ウィキで外部リンクとして推奨されている以上、一定の信憑性はあるサイトなのだろうな、と感じるだろう。以下、これを読んでオレがどういうふうに考えるかを例示してみよう。
兎に角このテクストの内容は壮絶である。中でも「1999年に琵琶湖に350人が集まって祈る運動では成果を収めた」という発言は、読む人によっては怒り出すのではないだろうか。普通に考えるなら、琵琶湖の湖岸や水質がきれいになるとすれば、それは環境再生に努めている人々の現実的な活動や地道な清掃活動の成果のはずであるが、この人にかかると、三五〇人程度の人間が祈ったからだということになるわけである。
オレは最初、そのような示威行動がイベントとして成功し、それに触発されて琵琶湖の環境再生運動が活発化したというような意味のことを要約して言っているのかと受け止めたのだが、続く個所で「祈りでハリケーンを消すことができるか?」という話になっているのだから、言葉通りの意味だということである。
そこで具体的な記事はないかと検索すると、すでに水伝の検索ワードで上位に出て来ていたIHM内の記事がヒットする。これを視る限り、オレが想像した以上にそのものズバリのイベントであったことがわかり、さらにその検索の過程で琵琶湖を巡る祈りのイベントが今に至るも継続されていて、あの美内すずえ先生なども関わっておられることなどがわかる。
実際に琵琶湖の水質がきれいになっているのかどうかまでは調べる必要はない。おそらくそれをネット検索で確認するには、水伝を巡る問題の検索作業全体を合わせたのと同じくらい検索の労力が必要だからで、その種のローデータは引き出しにくいところに格納されていたりするから、割合高度な検索スキルが必要なものだからである。この場合には、この江本氏の理屈によれば、琵琶湖がきれいになっていたらそれは彼らが祈ったお陰だということになる、ということさえ理解すれば、所期の目的としては必要にして充分である。
この理屈は勿論科学ではないし、ご自身が語る通り宗教でもない。従って、理詰めで反論するとかそういう問題でもない。この方の考えによれば、たとえば環境再生の為にどれだけの人が骨を折って苦労して汗を流して、その結果琵琶湖の水質がきれいになったのだとしても、それは彼らが祈ったからそのようになったのだという理屈になるということである。これには反論の余地が一切ない。
たとえば民間や行政による環境再生の為の施策が実施されたことも含めて、彼らの祈りが琵琶湖の現実を動かしたのだと主張されたら、或いは科学的に実証可能な方法に先駆けて彼らの祈りが琵琶湖の水に作用したのだと主張されたら、最早客観的に論じ得る対象ではなくなるからである。
祈ったからそうなった、というのは正面から反論すべき事柄ではなく、そのように主張する人物との距離の取り方を考えるべき問題なのである。これが専門家の科学者である場合は、「祈っても水がきれいになるわけがない」と指摘するという不快且つ不毛な手続も踏まねばならないが、オレたちの場合は江本勝という人がどういう物の考え方をするのかを理解すればひとまずそれで好い。
さらに「祈りでハリケーンを消すことができるか?出来ると思うが、人数がいっぱい必用でそう簡単に出来ない」と仰っていることから、たとえば、もしも琵琶湖の水質がきれいにならなかったとしたら、人数が少なかったからだと考えるであろうことも充分予測可能である。これは非常にわかりやすい循環論法であって、良いことがあれば「御利益があった」、悪いことがあれば「信心が足りない」式の考え方であるということは、更めて指摘するまでもない。つまり、どんな結果が得られても祈りの有効性を揺らがせる根拠とは成り得ないのである。
さらに言えば、この方は科学者でもなければ宗教家でもないそうである。これ自体はどうということもない記述だが、オレの感じ方では検索の過程で視たいろいろな場面で宗教や科学に類似した主張を語られているように見える。ならば、この方の夫々の主張の根拠はどの辺にあるのかと言えば、「波動の理論は、僕の中での常識」という個所を視るに、要するに彼個人の思い込みであるということになる。
世間と共有されていない「常識」というのは、某教祖様の「定説」同様個人の思い込みに基づく「偏見」だということである。何故なら、「常識を発表していけないことはない」という場合の「常識」というのは世間を前提とするものだが、この方にとっての世間とはご自分一人でしかないということになり、それは彼が自身の主観世界を絶対視するタイプの人物であることを物語るからである。つまり、自分がそう確信しているから正しいんだ式の考え方である。
また「水が情報を運びうるんだ、その情報は微細な振動だと自分なりに推理した。それが波動だった」という個所を視るに、「情報」とか「振動」とか「波動」などという何となく「科学っぽいターム」を恣意的に用いられている部分が、科学に蒙い人々には科学だという誤解を与えるのかもしれないなあと感じるわけである。そもそも、波動測定器・MRAやマイクロクラスター水というのも、天羽優子氏が散々批判している通り、彼女の専門領域の科学に「見せかける」タームであるととられても仕方がないだろう。
また、たとえば「撮影者の意識が働いてきれいなものになるということはある。それは別に非科学的ではないと思う。量子力学の世界ではそうなっているようだ」というようなことを仰っているが、これは別にそうなっていませんし充分非科学的ですからご安心ください。この個所はつまり、コペンハーゲン解釈とか観測問題というのをわかりやすく誤解もしくは拡大解釈しているわけで、この方は肩書上科学者でないというのみならず、一般人の教養レベルの科学的素養もない方なのだろうということが理解出来る。
これが物語るのはつまり、たとえばブルーバックスのような叢書の形での科学啓蒙の努力において非専門家の読者にもわかりやすく噛み砕いて科学を語ることは、信じたいことを信じる式の読み手にとって雑誌「ムー」と変わりない恣意的妄想のよすがを提供するに過ぎないという空しい徒労感である。
だとすると、所謂トンデモ分野で言われる「波動」と量子力学などで扱う「波動」というタームを混同しておられるというベタな可能性も高いわけで、大体この方の科学的素養のレベルがわかってくるわけである。そうすると、「振動」というのも量子力学の概説書辺りから拾ってきたタームと、疑似科学の「波動」と同義の「振動」を混同しているのかもしれんなぁと思うわけである。
さらに、ご自身の語る「ポエム」が「今後、周りの研究者によって科学的に証明されていくと思う」と語っておられるところを視ると、たとえばオレが自称超能力研究家や自称心霊研究家に対して感じている無責任さの臭いもする。つまり、彼が個人的な思い込みで主張していることの証明責任を科学の徒に圧し附けているわけである。
無責任ということで言えば、最初のところで「水からの伝言はポエムだと思う。科学だとは思っていない。僕は科学者ではない。単なるロマン的なこと、ファンタジー」などと語っておられるのも、後半の「とても大事なことなのに誰も信じてくれない。あるいは理解できない。それで、僕のような素人がたまたま手をつけた」という部分と照らし合わせると矛盾した無責任な印象を覚える。
科学者の無理解の故に「すごいことが次から次に起きた」にも関わらず彼のような素人が手を着ける羽目になったと仰っているような「とても大事なこと」なのに、それはポエムやロマン的なことやファンタジーだと仰るわけである。とても大事なことだから自分がやらねばならないと感じたのだろう、ならば、その意義を自ら軽んじるような表現を用いるのは、矛盾しているという以前に無責任に感じられるのである。
つまりこの方は、「オレは科学者じゃないから上手く説明出来ないけど、絶対何かあるんだ」という窮めて曖昧なことを申し立てておられるわけであって、「そんなことを言うんなら説明してみろ」と言われると困るので「科学者ではない」「ポエム」と逃げを打っておられるのではないかと推測出来るわけである。
これらのことを綜合して考えると、多分この方ご自身は悪い人間ではなかろう、というか悪い人間になる能力はないだろう。しかし、この方が結果的にであれ彼以外の人間が耳を傾けるに値するだけの何か有用な言説を語り得る可能性は皆無だろうし、この方の物の考え方が他者に悪影響を与える可能性は高いだろうとオレは結論附ける。
この方の物の考え方の特徴として、自分が信じたいことを信じる為に都合の良いことは拡大解釈するし、不都合なことは黙殺するという、美味しいとこだけつまみ食い的なところがあると感じるわけである。こういう方が科学者でも宗教家でもないのは、ある種当たり前である。科学にせよ宗教にせよ、或るかっちりしたセオリーに則って世界を視る枠組みであるが、この方の発言には枠組みというものが一つもない。ご自分の幼児的な思い込みがまずありきで、理屈は後から附いてこい的な姿勢である。
オレがこの方の言説に耳を傾けるだけの価値はないだろうと考えるのは、要するにご自分の信じたいことを簡単に信じられる方だからである。それは宗教ではないかと思われる方もいるかもしれないが、そうではない。そうではないとご本人も仰っているのだ。
宗教というのは信じたいことを信じるものではなく、信じるべきものを決めてそれを信じるべく努めるものであり、人々に世界を視る規範を提供するものである。さらに最低限新宗教の提唱者には信徒を率先して導くという責任感が必要だろう。信じたいものを信じるのはただの幼児的な独善であるし、もっと言えば整理された教理教義も持たず教祖様が一存で得手勝手なことを言いたい放題に言えるうちは宗教以前の未宗教だろう。
そういうふうに、高度に概念化された何ものかであると考えるのが間違いで、この方はご自身で仰っている通り、「少年のまま大きくなった普通の人間」と言えるかもしれないが「普通の人間」よりかなり思い込みが激しいし、それを世間に吹聴出来るだけ傍迷惑な存在である。ご自分の抱いているファンタジーが世界の真実だと思い込んでおられるわけで、寧ろ「頑固な幼児」と表現すべき人物だろう。
実際のところを言えば、オレがこの水伝の話を耳にしたのは随分前で、安井先生のサイトや天羽氏のサイトにおけるリアルタイムの批判を嗤いながら読んでいたから、今更亡霊のようにこの話題が浮上してきたことに驚いたというのが事実である。しかし最近の疑似科学関連のエントリーに絡めて更めて検索してみたところ、ウィキに気になる記述があった。
また、江本は、『水からの伝言』の絵本版を2006年から2015年にかけて約500億円の予算で6億5000万部を印刷し世界中の子供たちに配布する計画を発表している [8][9]。
水伝はたしかに大勢としてはその内容の非科学性が周知され、普通一般の良識を具えた大人ならただのくだらないオカルトだと思っているが、すでに終わった問題でも何でもない、現在進行形の問題なのである。これを教育現場に持ち込んだTOSSは最早識らぬ顔を決め込んでいるようだが、すでにそこから一般の教育現場に拡散して未だに水伝を用いた道徳教育が実践されているらしい。
ウィキからの引用を視るに、この方はご自分の思い込みを全世界に向けてアウトブレイクさせたくてたまらないらしいが、恰も全世界の子供たちの知能低下を目論むゴルゴムの陰謀を視る想いに慄然とした。日本発の情報で、世界中の六億五千万人の子供たちが成熟した物事の判断力も附かないうちに大人から幼児的妄想を吹き込まれるのである。
これが実現してしまったら、日本人は世界中の人々に土下座して謝らねばならない羽目になるだろう。国辱というのはまさにこのことである。二〇〇六年からということはすでに二年間も経過しているわけで、まあ単純計算で一億冊くらい出回ってしまっているということになる(本当にそんな計画が実行されたかどうかはさておき)。これだけでも四五度程度に腰を屈めて四方拝でお詫びしなければならないくらいの国辱ではある。
水伝がアピールする理由は大体見当が附くわけで、それこそ洋の東西を問わず言葉には神秘的な力があるという呪術的な観念が世界中に遍在している。日本にも言霊思想というのがあるが、これは別段日本の専売特許ではない。水伝のような虚構がまず日本で生まれたことの理由附けにはなるだろうが、やはり水伝がアピールする可能性があるのは日本人だけには限らないわけである。
人間の心的現実に大きな影響を与える言葉には神秘的な力がある、これは自然な感じ方である。呪文や真言やマンスラなど呪術一般は言葉を媒介にするものが多いわけであるし、「はじめに言葉がありました」式の言葉に神の理や強力な式としての力を視る見方は宗教において普遍的な観念の枠組みである。そのようにして、言葉に神秘的な力があるとする観念の背景にある普遍的な感じ方とは何かと言えば、心的現実がその外部の物理的現実に対しても影響力を持っているという感じ方である。
我々は心の外に外部としての物理的世界が在ると漠然と認識しているが、それは心的現実に映じた世界の影としてしか感じられない。それ故に、心的現実に働き掛ける言葉の意味性は現実世界に対しても影響力を持つのだと感じることは自然であるし、それは一面では真実でもある。言葉が心的現実に働き掛けるものである以上、心的現実に映じた世界の影にも影響力を持つのは不自然ではないからである。
しかし、弁えておかねばならないのは、言葉が心的現実を飛び越えて心の外の物理的世界に直接働き掛けるわけなどはないということである。心の外の物理的世界が心的現実に映じるのであって、心的現実が物理的世界に何らかの影響を持つのではない。これは一方通行の関係性であって、双方向の影響関係ではないのであり、その意味では対称性の破れた関係性なのである。この世界の事柄はすべて対称的な関係にあるのではないのだが、人間が理解しやすいのは対称的な関係性であり、還元主義的な原理だからそのような誤解が自然な感じ方として罷り通るのである。
少しややこしい言い方になるが、言葉が世界に対して何らかの影響力を持つのだとすれば、それはその言葉に影響された相手の心的現実に映じた世界の影においてのみだということである。つまり心の外に存在する水に対して「ありがとう」だの「ばかやろう」だのと言葉をかけたとしても、物理的実体としての水自体は何ら影響を蒙らないということであり、影響があるとすれば、それはたとえば江本勝という人物の心的現実に映じた世界の影の中の水に対してのみということである。
だから江本氏は美しい言葉をかけられた水の美しい結晶を容易く見附けることが出来るのだし、悪い言葉をかけられた水の醜い結晶を容易く見附けることが出来るのであり、江本氏の心的現実においてそれは紛れもない真実なのである。そして、先程「常識」を巡る解釈の問題として視てきたように、この江本氏という人物は主観世界を絶対視するタイプの人物であり、つまり心的現実に映じた世界の影と世界の物理的実体の区別が附かない人物なのである。
水伝の物語性が訴えるのは、このような世界の見方なのである。言葉の力は心の外の現実に影響を与える、これが水伝の語る意味性であるが、それは江本氏のような主観世界と客観世界の間に画然と区別が附けられない心性に根差す考え方である。すでに水伝を子供の道徳教育に使うことの問題点がさまざまに語られているが、やはり最も大きな問題点とはこの種の主観と客観の不潔な混濁だろう。だから江本氏は、ただ大人数で言葉に出して祈るだけで広大な琵琶湖の水がきれいになるという気違いじみた妄想を真剣に信じられるのである。
水に言葉をかけることで美しい結晶が出来るという物語が原理的に導き出すのは、たとえば強い言葉の力があれば海の水を割ることすら出来るという発想である。頭数さえ揃えばハリケーンを止めることさえ出来ると考えているのだから、たとえば蒙古船団が大挙襲来してきたら暴風雨を起こして撃退することが出来るということである。
心的現実と物理的現実の区別が附かないということは、極論すれば祈れば何でも出来るという思想である。これは「喩え話」ではない、実際に言葉通りの意味でそのように信じているということである。
水伝を素直に「良いお話だ」と受け取る人はどう考えているか識らないが、本質的に水伝とは「祈れば海を割ることさえ出来る」という狂気の思想の出発点なのであり、実際にその提唱者は祈りで琵琶湖の水を浄化したと確信しているのである。これはもう、非科学的とかトンデモとかそういうレベルの問題ではないだろう。そういう人物とその思想が、未だに端倪すべからざる勢力を構成しているのであるから、これは決して笑い事でも何でもないのである。
水伝では言葉の美醜の対比が語られているから、何となく言葉の価値基準を語る喩え話に思えるし、この人物が言葉の美しさの持つ力を素朴に讃えているように見える。そう考えると琵琶湖の話は繋がってこないが、実は水伝の本質は言葉の価値基準にあるのではなく、言葉の持つ力にあるのである。要するにこの人は呪術師なのであって魔法の呪文で何でも出来ると考えているのである。
これを道徳教育に使う場合のケーススタディも田崎氏のサイトに詳しいが、この教育法でどんな事態が想定されるのかと言えば、たとえば子供同士の間でも憎しみや殺意という負の感情があるわけだから、死ねば好いのにと思う相手の体内を巡る七〇%の水に対して「死んでしまえ」と呪いをぶつける、そういう事態も在り得るだろう。
いじめという観点で言えば、面白半分に犠牲者を決めてみんなで「死ね」と言葉を掛けるという事態も想定可能だろう。そして、ここが怖ろしいところなのだが、コップに汲んだ水に「死ね」と言っても何処吹く風で水が死ぬことなど在り得ないが、人間に死ねと言えば本当に死ぬのである。
つまり、人間同士の間だから当然呪術は効くのである。
死ねと言うほうも言われるほうも、水伝授業で言葉が水に対して影響を与えるのだと信じている。つまり、両者の心的現実において、言葉が水に影響を与えるという原理は実在するのだから、「死ね」という呪いは送受双方の合意において成立するのである。
おそらく「死ね」「ばかやろう」という「醜い言葉」を掛けられ続けた子供は実際に健康を害するだろうし、肉体以前に精神が疲弊するだろう。呪いというのは物理的現実に対しては無力だが、心的現実に対しては大いに有効だからである。
これは水伝授業のネガティブな側面なのではない、本質的な側面なのである。言葉が現実世界に影響力を持つという思想は、本質的に人間の恣意によって世界を動かそうと欲する思想なのであるから呪術的側面がある。ありがとうという美しい言葉に関する物語として語られているから気附きにくいが、言葉に力があるというのならそれには暴力的側面もあるということであり、力それ自体には善悪の極性などはない。
前述の「呪い」というのはただの一想定に過ぎず、呪いが「効く」場面を想定したわけであるが、物理的現実世界に対しては絶対に効かない。これが心的現実の問題としてどのような影響を及ぼすかを考えてみよう。
ありがとうという言葉が水に良い影響を与えると教えて、ありがとうという言葉が一時クラスで流行する、それだけの成果と引き替えに、人間の恣意によって世界を動かそうという不毛で原始的な心性が復活する。
しかし、人間は祈ってもどうにもならないから現実的な努力をするのである。祈りが現実において効くという思想は、そのような現実的な要因ではなく言葉や想いの強さという主観的な要因によって世界が動くのだという世界の見方を提供する。
そして、呪術的世界観とはどのようなものかと言えば、たとえば江本氏のような循環論法で世界を視るということである。たとえば、願いが叶えば祈りが効いた、叶わなければ祈りが足りない、そういうふうに世界を視る見方である。原始時代の無力な人類が、圧倒的な力を持つ自然の猛威に対処するには、そのような「現実解釈の方法」が有効であったからである。
たとえば雨乞いをするとして、都合好く雨が降れば雨乞いが効いたわけだから巫覡の力が崇められる。それによって、次に日照りがあってもこの巫覡がいれば雨を得られるという安心感が購える。ならば降らねばどうかと言えば、その巫覡に力がないということで打ち殺されるか追放され、その場合、それに代わる力のある巫覡を見附ければ次は何とかなるだろうという希望が得られる。まあ極々単純化したモデルだが、呪術師というのはそういう類の存在である。
なんでそんなナンセンスな制度があったのかと言えば、雨が降るのも降らないのも人間にはどうしようもないという剥き出しの事実が不安で仕方がないからである。だから、本来どうしようもない心の外の現実の在り様に合わせて、人間が何某かの有効な影響を与えているような「フリ」を演じることで己が自身を騙すわけである。
降れば巫覡が有能だった、降らねば巫覡が無能だった、このように考えれば人間が天候に対して何らかの影響力を持っているという虚構の安心感が得られるのである。つまり呪術というのは、所詮は心の外の現実に合わせて人間側が解釈の辻褄を合わせ虚構を演じることで成立する原理であり、それは現実世界の障害に対して人間が無力だという前提の思想なのである。
水伝とは、所詮は呪術の一種である。美しい結晶を恣意的に見附け出して「これは美しい言葉をかけたからだ」と根拠附ける。醜い結晶を恣意的に見附け出して「これは醜い言葉をかけたからだ」と根拠附ける。心の外の現実は一切影響など蒙ってはいないが、解釈を左右して言葉が現実世界を動かすのだという「フリ」を演じているわけである。
こういうファンタジーで教育されれば、子供はいずれ現実世界の困難に対して自身の解釈を左右することで対処するようになる。わかりやすい言い方をすれば、酸っぱい葡萄の論理式の言い訳ですべての困難に対処するということである。
現代社会のような、或る程度個人の努力によって環境を伐り拓き障害を打破し得る世界において、呪術的思想の必要性が何処にあるだろうか。古代の人間は、たとえば病苦を癒す決定的手段を持たないから呪医を信じたのである。たとえば侮辱を受けたらどんな強力な相手であろうと相手を殺す以外に恥辱を雪ぐ手段がなかったから呪殺を信じたのである。干魃が起こったら人の身には為す術などはないから雨乞いを信じたのである。
それ以外の多様な選択肢を与えられた現代人に呪術的思想は有害無用である。祈りというのは個人の努力を超えた天意に身を委ねる為にあるものであって、汗を流して手を動かせば事態を改善出来る琵琶湖の環境再生について祈りで何とかしようとするのは単なる易道の怠慢である。みんながみんな江本氏の思想を信じるようになったら、誰が琵琶湖の水質を改善する為に現実的な施策を講じるというのか、その為に手を動かし汗をかこうとするというのか。
オレが前掲の引用文において、まず真っ先に見当違いとも思える琵琶湖の事例に噛み附いたのは、これはつまり呪術などという無用の長物に頼らずに地道に努力しておられる方々の実績に対する図々しいフリーライダーだからである。
まさか琵琶湖の環境再生に努めている人間が、この江本氏の一団だけなどということなどは在り得ないわけで、ちょっと検索しただけでその種の事例がたくさんヒットするわけである。そのような方々にしてみれば、彼らの主張はまさに「そりゃねえだろうよ」という話である。こんな卑しい只乗り行為の何処が美しい心映えなのか理解に苦しむ。
ここまで附いてきてくださった方々は、オレがこれまで例示してきたような検索のプロセスを通過しても、まだ「水伝は良い話だ」と思い続けることは困難だろう。一見して良いお話に見えるが、それを提唱している江本氏の物の考え方は矛盾だらけで強烈に主観的であり、その思想は必然的にアヤシゲなニセ宗教紛いの儀式にまで連続的に続いているのである。
数百人の集団が琵琶湖で大声を張り上げて祈っている異様な光景を目にしても、その成果として琵琶湖がきれいになったと主張する図々しさを目にしても、たとえばそれが教育現場に深く広く浸透している実情を識るに至っても、その教育法が非科学的な恫喝の原理に基づいていると識っても、そして世界中に六億五千万冊の絵本が配布され全世界にこの呪術的で野蛮な思想がアウトブレイクしつつある現状を識っても、それでもこれが「ちょっとした良いお伽噺」と思えるのなら、それは普通知的に鈍感な姿勢と呼ばれても仕方ないだろう。
別段、ちょっと小耳に挟んだ噂話として水伝を良いお話だと思い込む分には無理もないところはあるだろう。日常の雑談の中でこれを話題にすることも、まあ一種一般人の生理として無理もないところがある。そのような場合には、検証手段も検証機会もないということが考えられるからである。すべての人がインターネット環境に接し得るわけではないし、PCスキルがあるわけでもない。
しかし、ブログやネットで公的に発話している人間にはその両方があるのである。オレがネットの有り難みと感じるのは、たとえばインターネット出現以前の状況に比べて市井の一般人が情報に接し得るハードルが格段に下がったことである。
それ以前ならば、たとえば個々のブロガーに相当する情報を持った人々と現実上の接点がなければ、つまり聞き取り取材のような形で足を使わなければ情報など得られなかったのだし、現在ネット検索で容易く入手可能な基礎知識は、然るべき費用を遣って書籍や冊子を収集するか、それでなければ図書館や史料館に足繁く通うという労力を費やすことなく得られることはなかったのである。
今は幾つかのブックマークを開いて数文字の単語を入力するだけで、驚異的なマッスの情報を引き出すことが可能なのだし、検索サイトも重要な情報から順に接し得るように工夫をしている。昔と比べれば、高々一時間くらいテクストを読むだけで重要な情報は粗方入手可能なのである。その程度の手間を吝んでまで急ぐ情報発信にどれほどの意味があるのか、オレは疑問に思う。マスコミの報道合戦ではないのだから、一分一秒でも早く発信することに意味などはないはずである。
それで更新ペースが落ちるのであれば、それは必要なロスなのである。時間がないことなど言い訳にならないのである。ブログで何かを書くということは、ナイーブにそのように考えられているように個人の思いを垂れ流すということではなく、ネットという情報の大海の中にあって、情報を受け渡すジャンクションとなるということではないのかとオレは考えている。
或る特定のテーマに即して何かを書こうとする時に、ネット上の情報を一切調べずに手持ちの記憶だけで書くということは、要するに自分の気持ちだけを聞いて貰いたがる姿勢である。それは、その特定個人に興味も関心もなければ只の垂れ流し日記と同じことではないか。少なくともオレには、赤の他人の日記を覗き見して喜ぶようなつまらない趣味はない。事前に情報を収集して、それを自身の視点において解釈しそれを材料として整合的な見解を構築し、それを個人発の情報として発信する、そういうブログにしか興味はない。
で、これが大詰めの話だが、調べもせずに書いてしまうブロガー諸氏は、単なる気忙しい面倒くさがり屋さんなのだろうか。勿論単純にそういう人もいるだろうが、オレはそれが主要な動機ではないと思う。
オレの推測では、多くの人が事前に調べ物をしないのは、最初のほうで陳べたように予め抱いている自説に反する材料が出て来ることを無意識に嫌うからであると思う。少しの手間を厭う面倒くさがり屋さんも多いだろうが、それよりもっと多いだろうと予想されるのは、自説を翻すことに強い抵抗を覚える心性である。
たとえばこのエントリーの発端になった一件も、水伝を好意的に捉えているブロガー氏が水伝をはじめとする水商売一般を批判する天羽優子氏のサイトをさしたる根拠もなく誹謗していたという経緯だったのだが、こういう方は事前に調べようが調べまいが結論は最初から変わらないのである。自分が感銘を受けた水伝を他人が批判するのは理屈抜きに不愉快だから誹謗したわけである。
これはいわば、自身の感動に水を差された感情的反撥の表現である。感情的反撥だから理屈はないのであり、水伝の問題がその外側にどのような拡がりを持つのかとか、それを批判することにどんな正当性があるのかとか、そんなことなどは最初から「識りたくもない」事実なのである。
「ああ、良いお話だなぁ」と感じていた自分の感じ方を全否定されたような憤りを覚えたから、それを否定した人間を闇雲に攻撃したのである。その意味で、一種このような感じ方は江本勝氏のそれと親和性がある。信じたいものを信じるのだし、それを妨げる不都合な情報は最初から目に入らない。だからそんな情報をわざわざもたらす者を盲目的に攻撃する。
不誠実だというのであれば、そのような心映えが最も不誠実なのである。調べてみたらおそらく自分の信じたいことを信じる妨げになる、自分が今言おうとしていることの否定材料になる、そのような無意識の予感に易々と負けて、すべてに目を瞑って言いたいことを言いたいように言う。そんなのは自由な情報発信でも何でもない、ただの落書きである。
ニセ科学を論じるようになってから、当ブログにもポツポツとしょっぱいペースでその種の落書きが寄せられるようになったが、まあ一読して大笑いの類のつまらないイヤガラセばかりなので、笑うだけ笑って未公開の儘サックリ削除させて戴いている。一応ニセ科学批判批判者の手法の参考になるので、公開せずに全削除の条件で宜しければ、オレだけは必ず一度読むので、これからも懲りずに投稿を続けてください。
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コメント
poohです。こんにちは。
これはコメントではなく私信です。
非常に下世話な話で恐縮なのですが、このエントリからぼくのところのどれか適当なエントリにトラックバックをいただけませんでしょうか?
たいしたことはありませんが、ぼくのところからのリンクはいくらかアクセス誘導の効果があります。ふだんはその効果も計算してエントリを起こすことも多いのですが(最初に黒猫亭さんのエントリに言及したのも、何割かはアクセスを誘導する効果を計算してのことです)、立て続けにぼくの方からトラックバックすると、なんと云うか「ふたりの対話」になってしまいます。
ただ、このエントリは読まれてほしい。
直近のぼくのエントリで、このエントリのトラックバック先として適切なものはいくつかあると思います。また内容的にも、読者の方が不自然に感じられる可能性はあまり懸念する必要はないと思います。
ご検討ください。
投稿: pooh | 2008年1月10日 (木曜日) 午後 12時51分
>poohさん
どうもです。わざわざお気遣いいただいて大変有り難うございます。実は、ここのところのニセ科学関係のエントリーでは、こちらのほうではpoohさんのところにTB打ってはいるんですよ。しゃばけのエントリーでは何とかTBが通ったんですが、それ以降TBが通らない状態が続いていて、IPアドレスの関係で何か不具合があるのかもしれません。
いずれにせよ、お言葉に甘えて何度か試してみますので、もしも重複して届いたらよろしくご対応をお願いいたします。多分この手のトラブルはタイミングが合えばあっさり解決すると思いますので、ちょっと気長にやってみますね。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月11日 (金曜日) 午前 12時48分
ありゃりゃ。なんでだろう。
了解しました。
投稿: pooh | 2008年1月11日 (金曜日) 午前 07時54分
>poohさん
と、事務連絡だけでも何なので(笑)。
水伝を巡る論の総体というのは、多分物凄いマッスになるのではないでしょうか。本文中で触れた科学畑の方々の著名な批判サイトが議論の前提となる叩き台の認識を用意したとすれば、それを踏まえて非専門家の間でも是々非々でさまざまに論じられ、そのような議論の拡がりによって現在「水伝はこうだ」という常識的な見解が確立されているわけです。
それに反する意見を表面する場合に、そのような言説の蓄積を一切踏まえずに「自分はこう思う」と言ってみたところで、十中八九すでに論じ尽くされたことでしかないと思うんですよ。オレの今回のエントリーは、そのような「論じ尽くされた議論」を後附けるものでしかないわけですが、少なくともそのような議論の積み重ねを踏まえないうちは新たに何かを言うことは出来ない。だから「今更ながら」なんですけどね(笑)。
「四の五のと煩瑣く論じられているようだが、オレ個人は水伝に感銘を受けたんだから関係ない、興味がない、識りたくもない」という感じ方を第三者の目から視たら、それこそそんなあんたの身勝手な感じ方なんて、オレにはどうでも好いよという話になるでしょう。
水伝のどんなところが間違っているのか、どんなところが社会的に悪影響を与えているのか、そういう他人様にとってはとても重要な関心事に対してはまったく興味はないけれど、自分が受けた個人的な感銘については受け容れてほしい、そんなのは幼児的な身勝手でしかない。膨大な議論のマッスをもたらした社会的関心の在処に興味がないと言うのなら、そんな人物が世間に向かって言葉を発してみても誰も耳を傾けるはずなどはない。
本文中で「この世界の事柄はすべて対称的な関係にあるのではない」と言いましたが、少なくとも人間同士の間の事柄というのは双方向的であるべきです。世間に関心があるわけでもない人間が世間に向かって発話する、世間に関心を持ってもらいたがる、そんなのはやはり矛盾しているわけです。
ブログの反響というのは、基本的にコメ欄への書き込みやTBという形でしか見えませんから、自分に関心のある閲覧者しか読んでいないと錯覚しがちなものですが、そこで論じられている内容に対する個別的な関心で訪れる読み手も多いわけで、本来そちらのほうが本道だと思うんですよ。
ブログは自分に関心を持ってくれる誰かを捜すツールだという出会い系的な感じ方もあるんでしょうが、多くの場合、ブログというのはそこで論じられている関心対象に対する第三者的な興味で読まれているものだと思うんですね。
そのような関心対象を自分が受け容れやすい形で語る人物の人柄や識見に対して持続的な関心を覚えるから常連化するだけで、ブロガー当人に対する個人的な興味で閲覧している人なんて極々一握りでしかない。たとえばブロガー当人と親しく会話したいというだけの動機でコメ欄に書き込む常連さんもたくさんいるでしょうし、そういう感じ方も否定しませんが、飽くまで言説ありきが本筋であるべき世界がブログだと思います。
特定の人々と仲良くしたいだけなら、システム的に穴だらけとは言え一応クローズドを謳っているSNSという選択肢もあるわけですし、SNSのコミュニティに公的な発話がどうしたとか言うのは建前上筋違いで、そこではTPO的な良識や公衆感情が重視されるべきでしょう。しかし、ブログやホームページというのはそうではない。飽くまで世間を相手に物申しているのだという自覚が必要なものだと思います。
そのような言説の場において、絶対的に自分に味方してくれるわけでもない中立的立場の第三者が大勢読んでいるものだという認識があれば、そのような読み手に対しても責任感が生じるものでしょう。
だとすれば、自分以外の多くの人々が関心を持って論じた内容にも自然に興味が湧くと思いますし、多くの人々が受け容れている現時点の結論がどのようなものであるのかを識りたいという動機にも繋がると思うのですが、それを識ることよりも自分が信じたいことを信じるほうを選ぶ、言いたいことを言いたいように言うことのほうを選ぶ、それを煎じ詰めれば、他人の考えには一切興味はないが、自分の考えに対して多くの人に興味を抱いてほしいということで、そういう幼児的な自己中心的心性がイヤですね。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月11日 (金曜日) 午後 12時19分
「水からの伝言」をはじめとしたニセ科学問題の包含するものがとても大きなものだ、と云う認識はぼくも持っています。そしてそれは、非常に多方面からアプローチされるべきものだ、と思っています。ぼくならぼくの、他の方たちもそれぞれの問題意識で論じています。ニセ科学批判を行う人間たちが「一派」ではない、と云う認識はそのあたりからくるものです。
で、この種の議論は続けていくうちに宿命的に先鋭化し、ディテイルに向かいます。そうすると当然、そのディテイルについての議論だけを目にした方から、「すでに論じたこと」についての疑問が生じます。これは批判を継続的に行っている側からすると「周回遅れ」に見えがちですが、だからといってそれで済ませてしまうべきものではない。
なので、ぼくのところでも(他の多くの方のところでも)「繰り返し論じる」と云うことを意識して行っています。その意味ではこのエントリなんて云うのは実効性と云う側面において「今更ながら」でもなんでもなく、むしろいままでの議論を踏まえていらっしゃることによって高い洗練度に達した、意義深い内容だと思っています。おっしゃるとおりに、読者は「これまでの議論」なんて踏まえていらっしゃらなくて当たり前なのですから。
ネット論・ブログ論に関しては、ぼくはまだ極力論じないことにしていますので、ここではお返事を控えさせてもらいます(うちのブログもまだ1年半足らず、ですし。ただ、個別の議論のなかでなんらかの見解を示す必要がある場合は発生するんですけどね)。
投稿: pooh | 2008年1月11日 (金曜日) 午後 02時25分
>>ネット論・ブログ論に関しては、ぼくはまだ極力論じないことにしていますので、ここではお返事を控えさせてもらいます
ちょっと偉そうな言い方ですが(笑)、非常に賢明な姿勢だと思います。というのは、ニセ科学批判というのは社会論の範疇の言説だと思いますが、ニセ科学批判批判というのは、ネット論・ブログ論に根を持つブロガー同士の下世話なネットバトルの一種だと思うからです。当ブログはニセ科学批判に焦点を絞った特定テーマのブログでも何でもないですし、ネットバトルも来るなら来やがれ的なスタンスですから、こうしてブログ論紛いのことも語りますが、そちらの場合はそうではない。
そちらでニセ科学批判批判を採り上げる場合でも、ニセ科学批判というフィールドからの距離感と実効性の範疇において扱っておられるわけですが、ネット論・ブログ論を展開してしまうということは、ニセ科学批判批判のフィールドと同じ土俵に上ることで論点が揺らぐ虞れがあるわけですね。その意味で、ネット論・ブログ論に対して一定の距離を置かれることは戦略的に有効なのではないかと思います。
そちらでも少し触れさせて戴きましたが、ニセ科学批判というフィールドは社会的現実を直接扱うものですから、きちんとした取材や検証、定義や議論、加害側・被害側双方に対する公正な配慮という客観的な妥当性担保の手続が必要なものですが、ニセ科学批判批判というのはネット論でありネットバトルの一種ですから、どんなに不正確でも構わないし、誰を不当に痍附けても構わない、ネットを見回した上での手持ちの材料だけで幾らでも得手勝手に語ることが出来ます。
意地の悪い揚げ足取りやつまらない言いまつがいの指摘、文章的な曖昧表現の手柄顔な揶揄、言説の出来不出来を岡目八目を気取って論じたり、ネットに転がっている既存のゴミをお手軽にコピペするだけでも成立してしまうのが、ニセ科学批判批判と呼ばれている言説の現状のようです。得手勝手に語れる恣意的言説によって、客観的妥当性の担保を求められる批判に茶々を入れる、オレはこれを公正でまともな公的発話の姿勢だとは考えませんし、所詮広汎な影響力など持ち得ないと視ています。
それと正面から争うということにも一定の意義はあるでしょうが、少なくともニセ科学批判を中心的な問題性に据えて考察を重ねるのなら、ネット論・ブログ論としての批判批判のネットバトルに積極的に参加するべきではない。オレはこのように解釈いたしますが、まあこの部分に対してお答えを戴くこともネット論・ブログ論の範疇ですから、勿論お返事は求めません(笑)。オレはそう受け取ったという類のお話です。
オレが極々お附き合いの浅いpoohさんという一ブロガーをあっさり信用するのは、必要な四隅をきちんと押さえてらっしゃる方だなというのが、そのようなお言葉の形で言説の端々に見て取れる、つまり対話可能なお相手だろうと判断出来るからです。
投稿: 黒猫亭 | 2008年1月11日 (金曜日) 午後 03時38分