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2008年1月31日 (木曜日)

自らの伝言

無粋な騒動も落ち着けたし、そろそろ通常営業に戻ろうかと考えていた矢先だったのだが、どうもこの正月から始まったニセ科学批判を巡る一連の動きは、まだまだ終息してはいなかったようである。今回語る問題に関しては、すでにご存じのpoohさんのエントリーやそれを受けた亀@渋研Xさんのエントリーでお話の筋道を辿ることが出来る。

これも広く括れば一種の「ニセ科学批判」批判であって、poohさんのところで触れておられる庄内拓明さんのエントリーに関しては、あちらで「この種の論者はニセ科学を莫迦にしているのではないか。だからそんなものを真顔で批判するニセ科学批判の言説に対してヒステリックなものを感じ、感情論の原理でこの二者の立場を相対的に読み解きたくなるのではないか」とコメントさせて戴いた。要するに、問題性の在処を認識しておられないということである。

続けて書かれた新しいエントリーを拝読するに、ますますその推測が当たっているのではないかと感じるようになったのだが、まあ、オレとしてはまさにこういう問題性についてこれまで一連のエントリーを書いてきたので、こういう方や、この方が元々引用されている黒影さん辺りにこそ一連の記事を読んで貰いたいところだが、と思わないでもない(笑)。

黒影さんは少なくとも「反科学の情熱」だけは読んでくださっているらしく、当該エントリーのはてなのブックマークで「じゃあ、いっちょオレがマトモな批判批判をしてやろうじゃないか」的なコメントを書き込んでおられたので愉しみにしていたのだが、正直に謂うとモノサシ論というのはオレが以前書いた「世界を視る目」や「心の外」でニセ科学信者側の心理の読み解きの基本に据えていたような認識だったので、残念ながら剰り新味を感じなかった。

当然、信者にとってニセ科学の「科学」など口実に過ぎないのである。人は信じたいものを信じたいように信じるのであって、その場合に個々人が基準に据えているのが黒影さんの所謂「モノサシ」である。しかし、黒影さんの論に少し飛躍があると思うのは、ニセ科学信者の多くがニセ科学の「科学」を大きな訴求要素と視ていないというところで、それは流石に少し無理があるだろう。

その点を捨象してしまうと、ニセ科学を装う側とニセ科学に騙される側の意識に乖離があるという話になるし、そもそも「ニセ科学」という問題性の切り取り方が無効なんだという話になるが、多分そういう感じ方も現実にはあるはずではある。科学だか何だか識らないが、隣の○○さんが効くと言ってるんだから試してみよう、こういう価値観が現実にあることは否めない。そういう話をオレ自身以前したことがある。

ただ、それは「ニセ科学」という問題性の立て方と噛み合っていないのである。黒影さんが仰るような感じ方というのは、オレは一種健全だと思うし、すでに以前の記事でそういう意見を陳べている。しかし、そういう人々はそもそも一般論としてのニセ科学批判なんかされても関心を持たないのが理屈である。何故なら、そもそも科学というモノサシとは無縁の動機で購入した商品を科学という別のモノサシで批判されたところで、「あらそうなの」レベルの反応を示すのが普通だからである。

そして、勿論これとてもすべての人々のリアクションを記述する言説では在り得ないはずで、科学というモノサシを基準に購入したわけでもないのに、科学というモノサシで批判されると理屈抜きに不愉快に思う、自分が良いと思っているものを貶されると何がどうあれ不快に感じる、そういう不合理な感じ方もあるだろう。

つまり、黒影さんのような問題性の切り取り方をするなら、「いろんな人がいる」という雑駁な話にしかなりようがないのである。そのアスペクトで謂うなら、それこそ論宅さんが言うように、「あなたはなんでこの商品を購入したのですか」という社会学的調査を行った上で、その個別の証言を質的にも検証し、「どうやらこの商品は科学だと誤解されているから売れているらしい」「この商品は科学と誤解されているからではなく商品自体が高性能だから売れているらしい」というふうに個別の事情を厳密に視ていく必要性が出て来るはずである。

黒影さんは「モノサシを否定されたからだ」と仰るが、それが一般的に蓋然性を持って殆どの人に当てはまることでなければ、ニセ科学商品を購入する人の中には「そういう人もいる」という話をしたことにしかならないだろう。常にそのような人々が大多数であって、ニセ科学が科学を装っているから訴求するという人が窮めて少数派であれば、ニセ科学批判という言説は特定少数者における被害を重要視する社会的重要性が比較的低いマイナーな言説である、そういう筋道の話になるはずである。

しかし、ニセ科学批判というのはそういう問題性の立て方ではないのである。たとえばニセ科学を謳い文句にした或る商品を一〇〇人の人が買ったとする。そのうち、たとえばその商品の口コミの評価やTVCMの好感度を動機として買った人が九九人いたとしても、残りの一人は「その効果が科学的に実証されているから」という不実証広告やそれと紛らわしい広告を動機として購入したとする場合、九九人の「その他の動機」は一切扱わず、ニセ科学のニセ科学性に騙された唯一人の問題を扱うという立場こそが現状のニセ科学批判の立ち位置である。

つまり、社会的意義として重要であるか重要でないかは結果論に過ぎないのである。

それ故に、ニセ科学が科学を装っていることで騙される可能性のある人が原理的にゼロでない限り、ニセ科学批判という言説の意義は程度を問わず成立するわけである。黒影さんとても、ニセ科学の科学を装う欺瞞に騙されて商品を購入する消費者がゼロだなどとは断定する根拠がないはずである。

だから「科学であると広く誤解されていることを実証せよ」式の設問の立て方が莫迦らしいわけで、ニセ科学批判が扱うのは、その数量や程度の如何を問わず「それが科学であると誤解して購入する人」に関する問題なのである。それが可能性として無視出来ない限り、一人であろうが九九人であろうが関係ないのである。そして、現実問題としてそのような動機で購入する人が一〇〇人中僅か一人程度の割合だろうという想定は、剰り現実的なものではないはずである。

何故なら、現実にニセ科学業者がニセ科学広告を打つのはそれが消費者に対して大きな訴求力を持つと考えているからであり、実際にニセ科学的広告によって、商品自体の訴求力から考えて本来在るべきレベルよりも大きなパイのビジネスが成立している以上、「科学的に実証されているから」式の広告の訴求力で購入している購入者が或る程度以上の割合に上ると考えることは説得力のある推論である。

だがまあ、こういうふうに言ったところで、黒影さんは剰り納得されないだろう。何故なら、モノサシ論というのはニセ科学信者がニセ科学批判に反撥を覚え「科学を絶対視している」と決め附ける心理的機序を記述しようとした言説なのであって、別段ニセ科学批判を無意味だと批判する言説ではないからである。

しかし、「科学を絶対視」式の反応がモノサシ論で説明可能かどうか、一般的なニセ科学商品の場合に当てはめて考えればわかるのではないかと思う。先程「人は信じたいものを信じたいように信じる」と陳べたが、以前語った通りそれはそんなに単純な問題ではない。信じたいことを信じたいように信じられたら誰も苦労しない。信じる為には何らかの確実な根拠が必要である、これが現代人の感じ方だろう。ニセ科学広告というのは、これに対して「根拠」を提示するものであり、「信じたい」という強力な動機が予め存在するのだから、それに応える形で提示された「根拠」は容易く受け容れられる、こういう機序をオレはすでに語った。

ニセ科学広告というのは、正面切って「科学」を謳い文句にしているのだから、この場合における判断のモノサシが「科学『ではない』」と考えるほうが、実は不自然で無理があるのではないかと思う。たしかにマイナスイオン商品の口コミ評価や広告に起用されたタレントの好感度など、いろいろな訴求要素はあるはずだが、その核心が科学であることを装った「マイナスイオン」なるものの効果であることは、まず疑いの余地はないのであり、そうではないと考える説得力のある理由はない。

それ故に、たとえばマイナスイオン商品を巡るニセ科学批判で、まず「科学を絶対視している」式の反応は主流的なものではない。ナノイー関係の某ブログのスレなどを眺めると、基本的に科学的規範を巡って議論が交わされているのであり、たとえばマイナスイオン商品に対して加えられた批判に対して「しかし、実際に効くんだからいいじゃないか」式の反論があった場合、普通の論者なら「商品自体の性能には一切言及してないです」と答えるから、モノサシ論はそこで終わってしまうのである。

その意味で、従来的な文脈のニセ科学批判というのは、別段それほど一般的な人々の反撥を煽るようなものではないし、広告の似非性を論証されると「売れなくなる」と思うから業者はわざわざあの手この手で批判を封殺しようと目論むのである。そういう意味では、一般的なニセ科学とニセ科学批判の在り方を考えると「科学を絶対視」式の反応を一般的なものとして捉える解釈には無理がある。

まあこちらの方くらいになると「科学でないものは全部疑似科学」くらいの話になるようで、普通一般に「疑似科学」と呼ばれている対象は科学的に見せかけているが科学ではないものを謂うのだから、一般的に如何に生きるべきかなんか語らないものである。そういう意味では、剰り当を得た批判とは言えないとオレは思う。

では何故今この種のニセ科学批判批判が語られているのかと謂えば、これはつまり直截正月の政治ブログの騒ぎを一種のニセ科学対ニセ科学批判のティピシャルなケースと視ているからではないかというのがオレの推測である。

勿論、あれは別段レアケースというわけではないのだが、問題は、あそこで取り沙汰されたのが「水からの伝言」だということである。対象を水伝に絞って謂えば、たしかに水伝を賞揚したことを批判された側が「科学を絶対視」式の反撥を示す事例は多いわけだし、その裏面にモノサシ論的な心理機序を想定することも可能だろう。

この「水からの伝言」に関してオレがどういうふうに考えているかは、以前の「今更ではあるが」というエントリーをご参照戴くことにする。つまり、端的に謂ってオレは水伝とは呪術であると考えている。呪術であるから、本来ニセ科学批判の射程には入らないはずの対象なのだが、水伝の面倒臭い部分というのは、表向きは「科学ではない」と否定しながら、実質的には科学を装っている鵺的な性格にある。

そして水伝というニセ科学の特殊例の最も厄介な部分とは、迂闊に関わり合うと引っ込みが附かなくなるという物凄く厄介な説話構造があることで、例の正月の騒動もこの辺の特殊要件に関わる問題であり、ニセ科学やニセ科学批判一般の問題とは関係ないというのがオレの考えである。

たとえば、水伝が最初から呪術であると名乗っていれば(つまり、科学であると臭わせることがなければ)水伝授業などというものは生じようもなかったはずである。何故なら、幾らなんでも学校の教員が胡散臭い呪術であると識りながらそれを道徳の授業に使うということは考えにくいからであり、そうでなければ水伝授業がTOSSという特定のネットコミュニティを超えて全国に波及することは考えにくい。

水伝を道徳教育に採用した教師は、アタマから波動の理論を信じていたわけではなくても、というか江本氏の理論がこじつけだと思っていても、少なくとも言葉が水の結晶の形成に良い影響を与えたということを真に受けていたはずであり、それを道徳教育のストーリーで読み解くだけだから水伝授業に罪はないと考えていたはずである。つまり、事実に基づく「解釈」だから、それは「お話」の次元の問題だと考えているのである。

幾ら何でも、言葉の美醜が水の結晶の形成に影響を与えたということまで完全な大嘘だと思っていたのであれば、嘘だと識りながら子供たちに嘘を教えていたことになるが、その部分についてはそれほど疑っていなかったはずなのである。彼らが創作だと思っていたのは、波動やホメオパシー的な江本氏の理論だけだろう。

つまり、彼らは江本氏の謂う「科学ではない」というエクスキューズを、耳に胼胝が出来るほど聞かされた「現代の科学では解明されていない」つまり「現代科学の未研究の領域」という意味に解しているのであり、言葉が水に影響を与えるということ自体は事実だと感じていたのである。「信じていた」と書くとニュアンスが強いが「嘘ではないと感じていた」程度には事実だと思っていたのである。

まあ、これは一般論であって、事実でなくても構わないとさえ考えていた軽率な教師も中にはいるのだろうが、一般的には書籍に書かれた実験結果は五分五分で事実だろうと受け止められていたと考えるほうが自然である。少なくとも、嘘かホントかはわからないが多分本当だろうくらいの感じ方だろう。この辺の微妙さ加減が水伝の水伝たる所以なのである。

実際には、実験の方法がまるで出鱈目で、江本氏の方式では幾らでも汚い結晶と美しい結晶を恣意的に取り出し得るわけだが、江本氏自身がそれで何が悪いのかわかっていないのだし、これを事実として真に受けた読者の多くも、この方法で何が悪いのかわからなかったということだろうと思う。

実際「水からの伝言」というのは、形式上「写真集」であり、美しい言葉をかけた水の結晶がこんなに美しくなりました、逆に、醜い言葉をかけた水の結晶はこんなに汚くなりました、そういう写真を見せる書籍である。

人間は、何となく写真や映像で見せられた物を事実だと思い込むもので、この場合写真に映っているのは、美しい言葉や醜い言葉をかけられた水ではなく、その周辺の空気中の水分の結晶、つまり言葉とは無関係な由来の水分によって構成された雪や霜柱のようなものでしかないから、まるで江本氏の話は出鱈目なのだが、そういう水がこういう結晶を作りましたというストーリーを添えて写真を見せられると、そういう事実自体が本当かもしれないと思い込む。

自分は江本氏の出鱈目な理論などアタマから真に受けたりしないが、そういう事実自体が五分五分で本当だということなら、まあお話自体は良い話で教訓的だよね、そういう理解になるわけである。この時点では、読者は自分が江本氏に騙されているとは思わないから、上から目線である。別に、オレは、あたしはアタマの悪いビリーバーじゃないけれど、これが事実ならちょっと良い話だよね、そういう距離感でこの対象を捉えているということになる。

だから、「ちょっと小耳に挟んだんだけど、こういう良い話があるらしいよ」という話を気軽に人前で披露するわけで、最後には必ず「まあ、科学的に理論が解明されているわけじゃないらしいけどね」と一言言い添えることで、自分が騙されていないことのエクスキューズになるわけである。

しかし、冷静に科学的に考えるなら、江本氏が語るような条件では「美しい言葉をかけられた水が美しい結晶をつくった」という事実認識自体が誤りだという話になってしまうのである。何しろ、結晶を作っているのは「ありがとう」という紙を「見せられた」水でも何でもなく、それとはまったく無関係な空中の水分である。さらに、江本氏の方法だと幾らでも美しい結晶と汚い結晶を恣意的に選び出せるのだし、ご丁寧なことに彼はその実験手順を堂々と書中で明記しているのである。

だから、上記のようなパターンで水伝を紹介した論者に対して、ニセ科学批判の側としてはそのような理路を語って批判することになるわけだが、そうなると水伝を紹介した側のプライドは大いに痍附くことになる。何しろ、これがインチキというか出鱈目なことは、科学的な専門知識がなくても誰にでも常識的に判断可能なのであり、そんな事実自体が存在しないということになれば、「自分は騙されていない」という自負それ自体が木っ端微塵に否定されるからである。

要するに、かなりソフトに説明しても、その言説の語る意味としては「水伝を真に受ける奴は相当な莫迦である」という侮蔑的なニュアンスを色濃く持つのである。別段水伝批判は水伝を真に受ける人を莫迦にする為に為されるわけではないのだし、水伝の厄介な部分というのは、割合常識的な判断力の持ち主でもうっかり面倒だから流してしまうような部分で微妙なレベルの信憑性を騙る部分にあるのだから、一概に真に受けた人を莫迦にして好いことではない。

この世にニセ科学というものがわんさと存在するという意識のない人なら、著名な識者や影響力のあるタレントが「本当だ」と言い切れば、何となく真に受けてしまうのも割合自然なのである。世の中には、ちゃんと冷静に考えればわかることでも、冷静に考えさせない構造の説話というものがあるのであり、水伝というのは結晶写真の本当らしさと江本氏のトンデモ理論という取り合わせによって、江本氏の理屈は斥けても何となく結晶写真のほうだけは真に受けてしまいそうになる性格があるのである。

しかし、その間の筋道を第三者に提示され事実関係を冷静に考えてみると、我が事ながら莫迦でもない限りこんな安直なインチキには騙されないように見えてしまう。つまり物凄く莫迦にされたような気分になるのである。何故なら、水伝の非科学性を説明する理路は子供にでもわかるくらい単純明快な筋道であり、大人なら誰でも理解可能であり種明かしから先に視ると莫迦でもない限りこんなものには騙されないように見えるからである。

だから、こと水伝に関しては批判された側が「科学を絶対視」云々と反駁する言葉を剰り真に受けないほうが好いのではないかと思う。彼らがそのように言うのは、そうとでも言わない限り剰りにも自分の立場がないからである。

水伝をサラッと流して受け容れてしまった論者からしてみれば、精々騙されていないつもりであったのにこんな低級なインチキに騙された自分の立場が途轍もなく惨めなものに感じられ、水伝を明快に批判する言葉は、自分を幼稚な愚か者だと罵る言葉にしか感じられないのである。

誰だって、自分を莫迦だと罵る規範は傲慢に見えるのが当たり前である。自分はそんな規範が正しいと思うから水伝を採り上げたわけではないのに、非科学だの何だの言われるのは納得出来ない、純粋に「良い話だ」と思ったから採り上げたのであって、その真意を酌まずに科学的規範だけを重視して自分を愚か者扱いするおまえらは硬直的な思考の持ち主だ。どうせ科学を宗教のように崇め奉っているんだろう。

まあ、うっかり水伝に関わり合ったが最後、こうとでも言わない限り自分のプライドを保つことは難しいのである。そういう次第で、水伝にうっかり関わってしまった人がこういうふうに苦しい言い訳をする時に過剰に追い詰めるのは危険なのであるが、とにかく水伝はいろいろな意味で有害だから批判せざるを得ない。

こういう部分が妙に厄介なのである。

また一方では、たとえば庄内さんのような見方が生じるのは、この話題が政治ブログの勢力争いというか、人的共同体の中において潜在していた亀裂が顕在化するきっかけとして使われたという見え方の故もあるだろう。要するに、水伝批判自体の必要性とは別次元で、周囲からの見え方として、かねてより対立を抱えてきた間柄で何かがきっかけとなって対立が激化したら、そのきっかけは「口実」として見えるということである。

ニセ科学批判の論壇のほうでも、政治ブログにおけるこのような動きについて妙な悪影響を蒙らないように警戒はしていたわけだが、結局こういうふうに「二者関係の感情的対立」と視て批判する意見が出て来るわけである。別段政治ブログの特定のサイドに具体的に肩入れしたわけではないが、一方のサイドがニセ科学批判を名目に他方を批判していたから、第三者からの見え方としてニセ科学批判というのは特定の勢力が特定の勢力を攻撃する言説だという見え方になるわけである。

庄内さんのご意見は、どうもオレには、政治ブログ騒動におけるニセ科学批判を派閥内抗争の口実視してニセ科学批判一般をそれと同列に見做している雑駁さと、それによって迂闊に水伝の問題に関わってしまった引っ込みのつかなさの混合のようなものを感じてしまう。

そもそも庄内さんはご自身で仰っている通り、ニセ科学にもニセ科学批判にも興味なんかはないのである。精々科学を表に立てた消費者運動というくらいの認識なのだろうと思う。たまたま直近の政治ブログの騒動でニセ科学批判が口実として使われたという視点において、自虐史観とのアナロジーで皮肉を言ってみたかった、そんな動機だったのではないかと思うが、真面目にニセ科学批判を何年も続けてきた人間にしてみれば(オレのことじゃないよ、オレは昨日今日のニワカだから(笑))、大いに迷惑というところだろう。

まあ本エントリーでは批判する形になったが、ここで引き合いに出された黒影さんにしても迷惑な話で、彼のほうはもう少しニセ科学批判という言説の意義を尊重しているから真面目に批判を加えてみただけである。何というか、poohさんがちょっと怒っておられるのも何となくわかる気がする。

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コメント

とりあえず、なんとなく時事のひとつとして触れるにしても、ニセ科学ってのは厄介なんですよねぇ。その辺り逆に、場合によっては論者を判別するいい指標にもなったりするんですけど。

投稿: pooh | 2008年1月31日 (木曜日) 午後 10時11分

>poohさん

今回poohさんも仰ってますが、それまで立派な論客だと思っていた人でも意外とニセ科学には躓くんですよねぇ、何故か。ちょっとわからないのは、庄内さんと仰る方は疑似科学についてもたまに意見を仰る方なんですよね? それでも、これまでニセ科学批判言説の存在には気附いておられなかったということでしょうか。

オレもニセ科学批判の論壇というのは識らなかったわけですから大きなことは言えませんが(笑)、どうもこの方は「ニセ科学批判」というとたんぽぽさんやkojitaken さんのご意見以外ご存じないんではないかという気がしたものですから。何故なら、この方が当該エントリーで語っておられる「疑似科学信奉者」対「疑似科学批判者」の対決という想定における「モノサシ論」式の論点は、ニセ科学批判の論壇においては本流ではないと思うからです。

で、「自然科学を絶対視」式の論点というのは、ニセ科学批判対ニセ科学批判批判の文脈で出てくるのが常套で、それで言うならニセ科学批判批判者というのは、直接利害関係者以外はニセ科学信奉者でも何でもないですよね。概ね自然科学の外側のレイヤーを自称される方がメタ論をしたくてニセ科学批判者にちょっかいを出すというのが定番のパターンで、その意味で庄内さん辺りも典型的な位置附けにあるわけです。

そういう想定に当てはまる対決の図式というのは、オレの識る限り正月のあの騒動以外思い附かないわけですよ。poohさんたちにご紹介戴いたニセ科学を巡る過去の議論を視ても、そういうタイプの議論というのは主流でも何でもないわけでしょう。ニセ科学とニセ科学批判という言説の在り方を考えると、本来「科学を絶対視」式の論点なんて出てこないですよね。そういうことを言いたがる人というのは、大概「ニセ科学問題」として括られる現実へのコミットを拒絶するメタ論者なわけで、だから庄内さんもそこにハマってしまったのではないでしょうか。

今回例に挙げさせて戴いた方々の言説を視ると、とにかくニセ科学批判一般に適用可能な蓋然的理路を具えていないという印象が強く、それがpoohさんたちの違和感に繋がっているのでしょうが、この方々の論が適用可能なのは正月の騒動に特化しているんですね。彼らの論でディスクライブ可能なのは、一個の特定の事例に過ぎないわけで、それをニセ科学批判一般と拡大解釈するところに誤解の種があるように思います。

この中では源流に当たる黒影さんのモノサシ論というのが、多分ニセ科学批判の論壇と共有された信奉者という概念の心情を解き明かそうという狙いが意識されているわけですが、それが曲解されて正月の騒動という特定の事例の解釈に援用されている。

でも、よく考えると正月の政治ブログの論争というのは、ニセ科学批判の論壇から視ると水伝を巡るよくある論争だから気附きにくいけれど、水伝批判と水伝擁護の論争というのは、実は一般的なニセ科学批判の構造から視るとかなり特異ですよね。本文中では剰り当を得ていない批判として流してしまったところの方など、「疑似科学は生きる道を示してくれる」なんて物凄く頓珍漢なことを仰っていますが、水伝の特殊な部分というのは、本来は呪術なのにニセ科学の射程に引っ懸かってくるところで、この方のように仰ると、「疑似科学」一般の話として語っておられても、実は水伝以外何もご存じでないことを暴露してしまうんですね。

だから本来は、庄内さんも初めからたんぽぽさんやkojitaken さんの名前を直接挙げて正月の騒動に特定してこういうことを仰っていたら、よくある政治ブログ騒動への言及の一つに過ぎなかったわけですが、そういう特定の例から無理矢理一般解を導き出そうとする方法論が無理筋過ぎて、領域全体に通底する一般的要件を象徴していると視た個別事例が、その領域の全体においては特殊例に過ぎなかった為に引っ込みが附かなくなるんだと思います。

というか、本当に一般解を導き出すことが狙いだったのか、単に個人名を特定することなく漠然と高みから当て擦りが言いたかっただけなんではないか、そういう疑問すら覚えますね。

poohさんの批判に応じる庄内さんの言説が当を得ていないガイシュツの理屈だらけなのは、本来ニセ科学批判一般なんか射程に入れたコメンタリーではなかったのに、ニセ科学批判の側から噛み付かれて慌ててご自身の立場を正当化に懸かっておられるからで、そらまあ、多くの優れた論客が何年もかけて真剣に議論してこられた言説の総体に、如何にご自身が知的能力の高い方とは言え、今この場の一個人の考えだけで対抗しようというのだから無理はありまくりでしょう。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 1日 (金曜日) 午前 10時21分

> この方が当該エントリーで語っておられる「疑似科学信奉者」対「疑似科学批判者」の対決という想定における「モノサシ論」式の論点は、ニセ科学批判の論壇においては本流ではないと思うからです。

 私は、「ニセ科学批判」ではなく、非合理批判活動として、5年以上、結構な時間を割いてやってきましたが、現在のblog上でトラックバックをつけての批判のような活動は、「新しい」種類の活動だと思います。

 私に言わせてもらえば、ブログ上で行われている議論の8割~9割はメタ議論です(この界隈では尊敬できるpoohさん、TAKESAN、黒猫亭さんなども含めて)。

 昔から、個人サイトの掲示板、Yahoo!掲示板、2ちゃんねるなどなどで、本当の意味でビリーバーと対峙したベタな議論が行われてきました。それとは全く違ったものです。
 そこでは、黒影さんのような「モノサシ論」的な“心構え”というのは、コミュニケーションを成り立たせる上で、かなり基本的な要素です。しかし、それを行動としてできている人は本当に少ない。
 私は黒影さんのような論は、昔ながらのベタベタなところを経験しているからこそだと思います。

 「ニセ科学批判」というジャンルは(昔は無いというわけではないですが、このジャンルが成立したのはここ数年)新しいものですから、blog上のやり取りのようなものを、ニセ科学批判の現状だと言うことはできるでしょうが、そこには出てこないもっとベタベタな議論があることも忘れないで欲しいと思います。

投稿: newKamer | 2008年2月 1日 (金曜日) 午後 05時36分

>newKamerさん

>>私は黒影さんのような論は、昔ながらのベタベタなところを経験しているからこそだと思います。

なるほど、昔のことをきちんと識らないで語るとこういうところで馬脚を現してしまうものです(笑)。実際にビリーバーと対話した経験もないわけですから、ビリーバーの感じ方については何かを言える立場ではないですね。その辺については、オレは断定的にモノを言える立場にはないと思います。

また、本文のほうでも言っていることですが、例に挙げた論者の中では、黒影さんだけは政治ブログの騒動は単に例として挙げられただけで主要な関心ではなかったと思います。おそらく、ウチのブログのコメント欄の一件なども少し視野に入っていたのかもしれません。ところが、そこで正月の騒動を例に挙げておられた為に、正月の騒動を目的的に語りたかった庄内さんやGen さんの目にとまってしまったことで話がややこしくなったのかな、というのがオレの推測です。だから多分、庄内さんやGen さんに話題が波及する段階で重点がズレたんじゃないかと思います。

ただ、科学というモノサシを持っておられない方と対峙する場面において、科学のモノサシを圧し附けることが相手にとって傲慢に感じられる、という筋道は理解出来るのですが、ことニセ科学という問題性において、科学というモノサシ以外のモノサシでニセ科学商品なり言説なりを受け容れた論者が、科学というモノサシによる批判に過敏に反応する例がそれほど多いというのは、実感としては「ホントに?」というのが正直なところです。

この辺、newKamerさんが仰る「非合理批判活動」と「ニセ科学批判」とでは少し事情の異なる部分なのかな、と思わないでもないところです。非合理なモノサシに基づいて非合理な行動をとる方々に合理的な批判を加えるというのと、ニセ科学批判は少しフィールドがズレるのかな、と。ニセ科学の「科学を装う・科学ではない」という条件を勘案すると、少しモノサシ論とはズレてくるんじゃないかと思います。やはり、普通に考えると、ニセ科学批判というのは、非合理なモノサシに合理のモノサシで対決する言説ではなく、飽くまで科学というモノサシに纏わる問題なのではないかな、と思います。

多分、モノサシ論の延長で謂うなら、同じ科学のモノサシでありながら目盛りの狂った出鱈目なモノサシを批判する行為で、たとえばセンチ尺を以てインチ尺や曲尺を批判する行為とは少し位相が違うのかな、と。科学でないものは扱わない、という棲み分けもその辺を意識した方法論だと思いますし。

黒影さんが例に引いておられる方々のご意見を拝見すると、寧ろnewKamerさんの仰るブログ論壇の「メタ論議」の文脈で読み解いたほうが適切かな、と思うことも事実です。論宅さんなどは科学を拒絶しているわけではないですし、政治ブログの方々も非科学であることそれ自体は良くないと認めておられるわけですが、寧ろ主流的な擁護意見としては、「指摘するにしても言い方があるだろう」「お話として紹介しただけなのに、その真意を酌んでいない」的なリアクションが多かったわけです。

これらの実例を視る限り、ビリーバーの拒絶反応というふうに視るのは少し無理があるんじゃないかと思うんですね。ビリーバーという意味では、殆どの人は水伝なんか信じてなかったと思うんですよ。だから、水伝が非科学だと謂われたら「あ、そう」という程度の受け取り方だと思うんですが、問題なのは「それでも何らかの反論をしなければならない」という事情が「先に来ている」ことだと思うんですね。

さらに謂えば、論宅さんも「自然科学を絶対視」とニセ科学批判者を攻撃していますけど、実際には自然科学を全否定しているわけではなくて、自然科学よりも社会科学のほうが優れていると主張しながら、自然であると社会であるとを問わず「科学的に」視ると筋の通らないおかしなことを仰っているわけです。この意味でも、論宅さんのモノサシとニセ科学批判者のモノサシが対立しているという局面ではなくて、論宅さんのモノサシって論宅さんご自身が言ってる通りのモンじゃなくね?的なツッコミだと思うんですよ。

それ故に、黒影さんがそうお考えになった動機や経験は尊重するとしても、例示された対象については、モノサシ論で語るべき対象ではないように感じます。論宅さんの例はたとえばモノサシを振り回しているのは論宅さんだけで、論宅さんに対する批判というのはそのモノサシがペナンペナン曲がったり伸び縮みしてるのはどうなのよというだけの話だし、正月の騒動というのはみんなでモノサシを持って殴り合いをしていたようなものです。

論宅さんの場合は、モノサシを揃えようにもモノサシ自体が出鱈目なので揃えようがないという話なのだし、正月の騒動はモノサシの話をしたところで「この棒がどうしたって?」と言い返されるような筋合いのものです。そういう意味で、黒影さんやnewKamerさんのご実感は尊重するとして、この場合に重視すべき問題性はnewKamerさんが「メタ議論」と仰ったブログ論壇の問題性なんだと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 1日 (金曜日) 午後 08時07分

どなたもこなたも閉鎖的な村社会的ブログ村の井戸端会議に終始しておられるのですなあ。
いったいその手の陰口のオンパレードのような言説のどこにシンジツがありますか。
見苦しいばかりです。

投稿: イカフライ | 2008年2月 2日 (土曜日) 午後 08時54分

>イカフライさん

いらっしゃいませ。あのう、ここで例に挙げさせて戴いたブログには漏れなくTBを送らせて戴いているので、「陰口」と仰られても困るのですが(笑)。それ以前に、直リンを埋めた段階でアクセス解析からこちらでの言及を辿られるのが今時のパターンということになりますから、こういう形で「陰口」を叩くのは難しいですね(笑)。

庄内さんのところにも送らせて戴いたのですが、反映されていないのはシステムの問題かあちらの判断で公開承認されなかったのかはわかりかねます。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 2日 (土曜日) 午後 09時25分

おはようございます。こちらでは初めまして。あちこちでニアミス中ですが(汗)。

先般はTBありがとうございました。すぐに気づいてはおりましたが、キャパがせまいもので、あちこちのみなさんの言及などもそうなんですが、なかなかきちんと読めずにおりました。ようやく読めたときには、すでにコメント欄でもお話が展開されており、そっちも含めて「ううっ、無知故に脇道の探索にはまってしまったが、先にここを読むべきだった」と悔やんだり、「ああっ、そうなんだ!?』なんて膝を打ったり(いや、ボクの場合、オレの膝ポンは危ない、という警戒心があるので微妙なんですが・汗)、なんともはや、ありがとうございます。

って、話がおかしいですね。ていうか、具体的なことは何も言えてない(汗)。

じゃあ、未消化な部分はさておき、少しだけ。
たとえば「正月の政治ブログ関連なんじゃないか」という視点はまったくもてていなかったんです。そういう騒ぎがあったことぐらいは、知ってたのに。詳細はともかく。
また、水伝授業について、やっちゃった先生に数年経ってから「あれはマズいよ。なんでやっちゃったんすか?」とかって感じで話を聞いたことがあって、それをおかげで思い出すことができて。
……って書き始めたら、またむやみに長くなりはじめてしまったので600字削除。まあ、その、本日のところはこの辺でお暇いただいて、って、なにを書いているのだ、オレは(T^T)

これに懲りず、今後とも宜しくお願いいたします。

「つ、次にはちゃんとしたトラックバックを送るからね!」と、取り乱しつつ去る。

投稿: 亀@渋研X | 2008年2月 3日 (日曜日) 午前 06時14分

>亀@渋研Xさん

いらっしゃいませ。あちこちでニアミスしている割には直接お話をする機会が少ないですね。こちらのエントリーにも配慮してくださって有り難うございます。いや、かなりなことを言っている割には、オレが本丸と目しているお二方には相手にされていなくてちょっと寂しかったところです(笑)。

たとえば、黒影さんのところの書き出しの「ここ数か月ほど、なにやら疑似科学批判批判なるものがちょっと流行っていたようだ」という書き方も面白いレトリックだなとオレは感じていて、ニセ科学批判に対して「最近ニセ科学批判が流行しているようだが」的な雑駁な言及をされる方は多いですが、それを踏まえて「メタ論的ニセ科学批判批判こそニワカの流行だ」と切り捨てておられるんだと思います。

で、この「流行」ということで謂えば、おそらくネット上の「事件」としてニセ科学批判対ニセ科学批判批判という図式で思い描けそうな事件というと、一般に正月の水伝騒動がかなりメジャーな話題だと思うんですよ。言い方は悪いですが、コピペの人とか論宅さんとの立ち回りというのは、ネット上ではそれほどメジャーな「事件」ではないだろうし、ニセ科学問題にコミットしている人以外にはそれほど言及する魅力を感じる話題ではないでしょう。

庄内さんなども、幾つかエントリーを拝見させて戴くと、ニセ科学問題よりも政治的言説に興味を惹かれそうな方だなと思ったものですから、多分この方が想定されているのは政治ブログの問題だろうと推測したわけで、そもそも正月の騒動への言及からの延長で起こされたエントリーなわけですから、そう考えるのが妥当だろう、と。

Gen さんのほうはあちこちで謝罪行脚をされていて、まあ人間的には生真面目な方なんだろうと思いますが、庄内さんのほうはpoohさんの反論に通り一遍の再反論をされたきり放置という状況で、とにかくニセ科学批判一般を正月の騒動と直結して意味附ける言説であることが一番の問題だと思います。

poohさんのところにも書き込みましたが、多分庄内さん経由で黒影さんのエントリーを読んだり、ニセ科学問題に関心を持った読み手は、正月の騒動のようなものがニセ科学問題のティピシャルな議論だろうと思うだろうし、「ニセ科学批判者」として括る場合は、たとえば菊池さんやapj さんではなくあの件で水伝批判に廻った方々を想起するだろう。その方々の言説に対してはどうこう批判を加えるつもりもありませんが、あの特定の事例における個別的な事情を以てニセ科学批判一般を視られるのはいろいろ有害ではないかと思うんですね。

たとえばニセ科学批判対ニセ科学批判批判の問題を、よく識らない人はそれこそ何らかの特定勢力同士の抗争と視るかもしれない。そこには、正月の騒動を「政治ブログの勢力争い(そうだったという意味ではなくそう視る論者も多いという意味で)」的に視る印象がそのまま投影されているのかもしれないし、その意味で実態とは無縁な誤解が流布することでいろいろパブリックイメージ上のデメリットが生じてくるかもしれないと思います。

正月の騒動の特定のニセ科学批判の言説がさまざまに言及されることには、そこに至るまでの特定のブログ領域固有の経緯や事情があるわけですが、ネット上のイベントとしてあの極端な事例だけを目にされる方は、それが政治ブログの領域の固有事情だとは思わずにニセ科学批判一般の問題であると早呑み込みされる虞れがあるわけで、オレとしてはそこが一番気に掛かるところです。

>>「つ、次にはちゃんとしたトラックバックを送るからね!」と、取り乱しつつ去る。

「ツンデレか!」とお約束のツッコミを返したところで、明日上げられると予告されたエントリーを楽しみに待たせて戴きます(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 3日 (日曜日) 午前 11時11分

なるほど、ミステリの謎解きを読んでいるようです。論理的に当然の帰結というようなものでしょうか。
こういうときにボクは話を追うだけで精一杯で、我ながら情けないことに「おおお、そうだったのか!」以上の感興も、「だとすると云々」というような発展も、すぐには出てこない。気の利いたことがすっと言える方はスゴいと思います。
ミステリなら妥当性の評価なんかできなくても雰囲気で「なんかすっきりした」と読み終われるんですが、現実ってヤツは自分の知性の範囲でしか把握できないので困ったものです。
またツンデレになりきれなかったのに汲んでいただけてありがとうございます。

ところで「明日上げられると予告されたエントリー」ってなんでしたっけ。って聞かれてもわかるわけないか(汗)。Genさんの件「明日以降になると思いますが」かな。それともpoohさんかTAKESANさんところでなんか口走ったかしら……ウチにはそれらしい痕跡は……やっぱGenさん? しばし記憶と自陣と巡回先をめくっていたんですが、ええとええと(汗々)
なにしろこの数日が予想以上にバタバタしちゃったもので、いい加減なことに片端から「明日」とか「週末に」とか言っていたらしく、収集がつかなくなってます(ダメダメやん・汗)。ああっ、明日って、き、今日?
「ほれ、あそこで」とか「あれのこと言ってたじゃないの」とか、お心当たりがありましたら、ぜひぜひご指摘ください。まぢで(滝汗

投稿: 亀@渋研X | 2008年2月 3日 (日曜日) 午後 06時06分

>亀@渋研Xさん

根がミステリ好きなモンですから、ついつい人の発言の裏を勘ぐりすぎるところはありますね(笑)。まあ一応、推測とか推論というのは飽くまで「お話」という虚構だというのは忘れないようにしていますが、その「お話」の埒内での有用性は心がけています。

庄内さんやGenさん、黒影さんご自身には異論もおありだと思うんですが、Genさんを除いてもうこの件に関して直接言及されることはなさそうなので、推測は推測のレベルでお受け取りを、ということで(笑)。

poohさんのお話を伺って、やっぱり昨日今日のニワカは無神経なところがあっていかんなとちょっと反省しております。上のほうのnewKamerさんのご指摘共々しっかり考えてみたいところです。

>>ところで「明日上げられると予告されたエントリー」ってなんでしたっけ

この件については複数のブログが関わっていてオレも混乱していますが(笑)、たしか亀@渋研X さんご自身の意見を明日にでも上げるというようなことを仰っていたかと記憶しいていたのですが、少し確認してみたらpoohさんのところのこれでした。

>>以下、明日の自分ちで<ぉぃ
by 亀@渋研X (2008-02-03 07:02)

昼頃にそちらのブログを拝見したら、それらしいエントリーが上がっていたのでコメントさせて戴いたのですが、あのエントリーのことですよね?(笑)

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 3日 (日曜日) 午後 06時32分

ああっ、ほんとだっ、思い出したっ! ありがとうございます。
いや、poohさんちのコメントは自分ちのエントリを上げてから書いたもので。
そうだ、半分書きかけたやつがエディタに……あった。残ってるよ……ここで削除した600字も……。
うーん、明日が明日だったのはよかったけれども、あんまり筋がよくないなあ。これをどう仕上げたものか(汗
なにしろ宿題が明らかになったのはよかったです。ありがとうございます。

投稿: 亀@渋研X | 2008年2月 3日 (日曜日) 午後 07時01分

>亀@渋研Xさん

おお、そうすると別のエントリーを書かれるのですね。楽しみに待たせて戴きます。それから、まあご自身で読み返して気に入らないという場合はアレですが、一応念の為に申しあげておきますと、「長い」というだけならご遠慮なさるには及びません、なんせブログ主からしてこの有様ですから。長文投稿絶賛募集中です(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 3日 (日曜日) 午後 07時21分

こんにちは、皆さん。

 なんとなく、労働安全衛生の巡視指摘と、指摘を受けた人の反応という事に類似点を感じてしまいます。

 私も幾つか労働安全衛生関係の資格を持っています。その関係で安全巡視に付き合わされる事もあるわけですね。でもって、私の様にいい加減な専門家でも、資格を得る過程で「こういう事がこういう事故につながった」なんて事例は山ほどたたき込まれている訳ですね。だから、事故につながりそうな事というのは自ずと分かるし、一緒に巡視している人が「ここは直しなさい」と指摘してもその意味は分かる訳です。

 でもって、「直しなさい」と指摘を受けた人が素直に聞いてくれると良いのですが、なかなか反発があるわけです。曰く「いままでこうしていても事故なんてなかった」とね。でもって、反発だけなら良いのですが、反発が反発する人の中で合理化されるとなかなかやっかいなんですね。「あいつは偉くなったものだから、威張りたくてどうでも良いことなのに指摘しやがった」なんてね。少なくとも一緒に巡視している何人かにとっては、「確かにそれは事故につながりかねないから直した方が良いよね」くらいの指摘なんですね。それが、「どうでも良いことなのに指摘する」となり、その指摘の動機は「威張りたいからだ」となってしまう訳です。

 まあ安全巡視は強制力がありますから、少々反発されたり、動機をねじ曲げて理解されたって直すべき所は直せるから良い訳ですが、ニセ科学批判みたいに我々は批判するだけで強制力は無い状態だと、結局、批判はしたけど事故が起こるまで放っておくと言うことしかできないのかも知れないと思ったりもするわけです。例えば国内のニセ科学商品が米国にまで売られて巨額の懲罰的賠償を命じられるとか、国内でニセ科学概念による差別が起こって社会問題になるとかしないと、どうにもならないのかも知れないと無力感に襲われる面もあるわけですね。

投稿: 技術開発者 | 2008年2月 4日 (月曜日) 午後 05時15分

>技術開発者さん

どうもです。そうですねぇ、感情的反撥を遡って根拠附けるという行為はかなり困りものではあります。所詮感情的反撥だとわかってやるのならまだ引け目がある分好いのですが、それに何らかの理屈が附いてしまうことで反撥それ自体が正当化されることになり、感情的反撥を伴う指摘を拒絶することが正当化されてしまう。

技術開発者さんが常々仰っている合理と不合理性の関係の逆のパターンですね。こういう場面でも人間は不合理を合理附けてしまうことで自身の行動を正当化しようとするわけで、こういう正負のダイナミズムの鬩ぎ合いでどうにかこうにか社会秩序が成立しているんだな、と思います。

ただまあ、たとえば科学を装わない呪術、科学を装わないオカルトはそれほど有害ではないかもしれませんが、「人を騙そうと何かを装う」物には大なり小なり良くない影響があるわけで、たとえば「効きもしない機能水だってプラセボとして効果があれば良いじゃないか」という理屈を附けても、apj さんが仰るようにインチキな研究に予算が割かれてマトモな研究の予算が削られたり、社会全体の中で必ず何らかの不当な悪影響はある。水伝に至っては、どんな悪影響があるかということが散々語られているわけですが、それでも「いい話だからいいじゃないか」式の無関心な正当化が後を絶たない。

技術開発者さんが仰る「真っ当さ」を欠いた行いには、必ず悪影響があるはずなんですが、「人には騙される自由だってある」式のシニシズムを堂々と口にする人がまだまだたくさんいる。嘘はいけない、人を騙してはいけない、こういうことは単なる自己満足の倫理観で言われているわけではなくて、他人のまともな自己判断を操作するという行為ですから、必ず社会全体の中で何らかの悪影響を及ぼしているのだと思いますが、人は何にでも正当化の理屈を考えつくものですね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 5日 (火曜日) 午前 12時23分

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