「外部」という虚構
こんなばかな、こんなばかな! おれは、この字を天柱に書きつけて来たのに、どうして如来の指なんかにあるんだろう。こりゃ『見通し術』でも使ったのかも知れん。まやかしだ、まやかしだ。おれはもう一ぺん行って来る!
(作:呉承恩 訳:太田辰夫・鳥居久靖 『西遊記』第七回より)
日本人なら誰でも一度は西遊記くらい読んだことはあるだろう。上記引用は「お釈迦様の掌の上」という俚諺の元にもなった、大鬧天宮末尾のくだりである。本邦では西遊記と謂えば取経の旅がメインだが、本場中国では妖猿悟空が天上で道教世界の神仙を相手取って散々に翻弄するこのくだりが最も人気が高いそうな。引用箇所は、さしも神通無辺の斉天大聖と雖も釈迦無二尊者の法力には適わず、哀れ五行山の虜とされるくだりから引いた一節である。
我が掌から飛び出してみよ、さすれば玉帝に自ら掛け合って天宮をそちに譲らしめるぞよと煽られた斉天大聖孫悟空が、お安い御用とばかりに一飛び十万八千里の神通力で如来の掌から飛び出していくのだが、天の果てと視た五本の柱に「俺参上!」と書き附けて如来の許に戻ってみれば、天の果てと思えた五本の柱は如来の五指に他ならず、その儘悟空は釈迦の掌に伏せられて五行山の下敷きとなる、大方そのような筋書きである。
こんな昔話から語り出したのは、勿論それが「比喩」だからである。
先日「反科学の情熱」という記事に戴いたFREEさんのコメントを拝読して以来、またその後にこの論壇で起こった事柄を視るにつけ、オレが考えていたのは「外部」という問題性である。念の為、FREEさんのコメントの当該箇所を再掲する。
この話は科学がどうのこうのという話ではなく、「批判は他のレイヤー・構造の外からなさねばならない、「知」が権力であるとして「知」の内部で知の在り方を問うことは正しくない」という話になると思います。
このコメントの元となった文脈については、すでに終わった話なので一切言及するつもりはない。この場合問題なのは「構造の外」という一句に触れた時にオレが感じたそこはかとない違和感というか、逆に謂えば腑に落ちる感触である。
前回の「自らの伝言」という記事に対して戴いたnewKamerさんのコメントで、
私に言わせてもらえば、ブログ上で行われている議論の8割〜9割はメタ議論です(この界隈では尊敬できるpoohさん、TAKESAN、黒猫亭さんなども含めて)。
というご意見を戴いた時にも、前掲のFREEさんの提示されたフレーズとオレの中で響き合うものを感じたのだが、さらに、はてブのコメントで前掲の「反科学の情熱」に対して「『ニセ科学批判批判』批判」というフレーズで表現しておられるコメントを見掛けて、なるほどそういうことだよな、と腑に落ちたわけである。
人間が或る特定の状況を語る時、或る現実の領域を問題性として切り取るなら、その問題性の中にいる人々がいて、その問題性の外側から言及する人々がいるとする。たとえばこれは、ニセ科学言説対ニセ科学批判者という大雑把な括り方が可能だろう。
さらにそれに対して外部から言及するのがニセ科学批判批判ということになるわけであるが、この方式で無限に外部を設定することが可能である。現にオレはニセ科学批判の内部にいるような顔をして、ニセ科学対ニセ科学批判の外部にいるつもりのニセ科学批判批判の外部からニセ科学批判批判批判を加えた、というふうにあの言説を視ることが可能なわけである。
そういう意味では、既存の或る状況を客観的に語る言説はメタ議論の性格を不可避的に帯びてしまう。それは、或る状況を包括的に語る為には視点をその構造の外部に置かねばならないからである。だとすれば、オレが「反科学の情熱」で語った言説が妥当であるかどうかというのは、ニセ科学批判批判の言説がニセ科学批判者という特定の対象のみに関する言説であって、有効なメタ議論として成立していないというオレの主張が、その外部から視た場合に有効なメタ議論として成立しているかいないかという果てしなく自己言及的な評価軸に依拠することになる。
そこで黒影さんがズパッと語られたモノサシ論というのは、newKamerさんが指摘された通りメタの大本に遡るものであって、ニセ科学という問題性の埒内に在ると措定された人々との直接対話に視点を引き戻すものである。常に本丸はそこから離れてはいけないというご指摘としては、受け容れざるを得ない直球ド真ん中の正論である。
この場合に重要なのは、その問題性に対して「当事者として関わる」という意識だろうと思う。前回の記事に戴いたご意見は、或る種庄内さんやGen さんの言説に対抗する言説は、本来果てしなく重層化するメタ議論を直接対話の当事者性に揺り戻すものであるべきだろうというご指摘として受け止めたが、或る現実の状況を語る言説がメタ化していくプロセスは、一種不可避的な運動性でもあるだろう。
オレの認識では、たとえばニセ科学批判者に直截向けられるべきニセ科学批判批判というのは、本筋上で謂うなら黒影さんのモノサシ論のようなものであるべきで、メタ化していく議論のプロセスに対して問題性への直接的向かい合いの注意を喚起するものであるべきである。ただ、その意味で最早問題の直接対象に対する関心を喪ったニセ科学批判批判のメタ議論に言及するべきではなかった、直接現状のニセ科学批判言説を対象とした批判として展開してほしかった、という憾みが残る。
「反科学の情熱」で語ったように、オレは所謂ニセ科学批判批判という言説には、最早ニセ科学という直接の問題性を指向する関心は失せていると視ている。これは疑似科学批判とか非合理批判とか言い換えても同じことで、ニセ科学批判を語っている言説に対する直接的関心において語られているメタ議論なのである。つまり、この問題に言及することは何重にもメタ化したブログ言説に対して言及することであり、この局面にはたとえばモノサシ論が射程に入れているニセ科学の内側に在るべき直接当事者が存在しないからである。
この段階においては、ニセ科学問題への直接的関心を根拠とした批判の射程で言説を撃つことは出来なくなる。何故なら、所謂メタ議論としてのニセ科学批判批判にニセ科学批判の観点から対抗すべき理由があるとすれば、それは誤解の流布という間接的な影響の問題性でしかなく、ニセ科学批判批判者はニセ科学問題それ自体の領域性の外側にいる存在だからである。
この局面でネットに跳梁しているプレイヤーは、ニセ科学問題にもニセ科学信奉者にも一切関心はないが、そのような対象を批判する論者に対する直接的関心において、その構造の外側から言及を加えている論者である。
このような論者を直接対話のロジックにおいて引き合いに出すことで、たとえば正月の水伝騒動をビリーバー対批判者の対立構造と誤認させ、そこで直接当事者への関心が断絶した外側のレイヤーからニセ科学批判者を批判する行為の正当性を語る道具として用いられる隙が生じたことは否めない。
誤解してほしくないのだが、黒影さんのモノサシ論自体は、ビリーバー対批判者という構図において批判者を外部から批判する立場に身を置きながら、ご自身が批判者でもありビリーバーと直接対峙しているという自己言及性があるわけで、その意味では状況の包括的言及として完結した明晰な論理である。その意味で、はてブの予告を見事に実践されたわけで、これ自体に対してはオレとしても何ら含むところはない。
ただ、これはメタ的階層性においては、方法的に所謂ニセ科学批判批判者と同階層に身を置く立場であるから、ここに黒影さんと並列的な階層にある所謂ニセ科学批判批判者を交えてしまうと階層性が混乱するのである。階層的に彼らは所謂ビリーバーと切れているわけであるが、そこの階層性を混乱させることで、無理解な引用者からニセ科学批判者一般に対する雑駁な批判の具とされる契機が生じるわけである。
たとえば前回批判した庄内さんの論の瑕瑾というのはまさにそこにあるわけで、正月の騒動をビリーバー対批判者のモノサシ圧し附けとして読み解くというのは、この問題性に対して意識のない人ならアリガチな混同である。オレは昨夏の一連の政治関連の記事を書くプロセスにおいて、この領域のブログ論壇に対する予備知識があったので、一応問題のコメントツリーも読ませて戴いたのだが、主流的な議論は所謂ビリーバーの問題とは無関係なのである。
この議論の特殊性というのは、疑似科学やニセ科学に対する批判的言説をきっかけとしていながら、その後窮めて政治的な議論に発展したという部分で、少なくともらんきー擁護派の論者の方々は「連帯・共闘」という窮めて政治的な意識において支援の論陣を張り批判派に反論したのだと視ている。そういう意味で、この議論がニセ科学批判の問題だったのはきっかけだけで、後はブログ論壇における政治的闘争として推移したのだとオレは視ているのだが、ニセ科学批判批判の観点で視るとニセ科学批判者の不寛容の問題として括りやすい性質を持っている。
だから、本来この問題を切るならば、そのニセ科学批判及び対抗言論におけるニセ科学問題の「口実性」を論じるべきで、批判に対する対抗言論の動機が政治的な性質のものである故に、最早それは純粋にニセ科学批判の問題としては論じ得なかったという特殊性を読み解くものでなければ意味がない。
その意味で、庄内さんの言説は政治ブログの実態を踏まえてもいないしニセ科学問題の本質を踏まえてもいない空論でしかないと思うのだが、所詮この方はご自身で仰っている通りニセ科学問題になど興味も関心もないのだから、過剰にそれを追及するわけにもいかないという事情がある。
今となってはオレも少し反省しているのだが、この方は別段政治ブログの現状についてコメンタリーしたかったわけでもないし、ニセ科学問題について何某かの意見を加えたかったわけでもなく、単なるネットバトルヲチの延長で気軽にこれらの問題に言及されたのであろうと思う。だとすれば当事者意識がないのも当然で、甲と謂う一派と乙と謂う一派が無益な抗争をしているという見え方においては、そんな諍いの直中に身を置く義理はないという意味で「当事者性」を拒絶しておられるのだろう。
つまり、最初からニセ科学批判の論壇とは話が噛み合っていなかったのである。
そういう意味では、若干皮肉混じりではあるが、水伝の「厄介な性質」に引っ懸かったのはお気の毒な成り行きだったと言えるだろう(笑)。余所のブログでもコメントさせて戴いたのだが、「水からの伝言」という「ニセ科学」には、迂闊に言及した人間を抜き差しならない深みに引きずり込んでしまう知的トラップの側面がある。
幼稚で無害そうな見かけによらず、寧ろそのアルカイックなイメージの故に過小評価して言及した論者に徹底的に言説の姿勢を問い質す試金石もしくは踏み絵としての凶暴な性格があるのである。これについてTAKESAN さんのブログに書き込んだオレのコメントを転載させて戴くと、
オレが水伝に関して「迂闊に関わると引くに引けなくなる厄介さ」と語っているのはまさにそこで、一見して水伝が具えている「幼稚なくだらなさ」の印象に油断して、相当な論者でも深く考えずに引っ懸かってしまうというところがあると思うんです。
何か「こんなくだらないネタ」に真剣に反応するのは沽券に関わると思わせるところがありながら、その実物凄く厄介な性格を抱えている。ニセ科学としてのヌエ的な性格や悪影響の複雑さ、また批判的ではない論者にとっては無害性・有用性の印象や事実だと思わせる錯視を誘う部分など、見かけの単純なくだらなさに比べて水伝はかなり知的トラップとして悪質で複雑な説話構造を具えていると思うんです。
おそらくコアにいるビリーバー層とは別の問題になると思うんですが、ブログ言説に関してはそこが問題の核心になっているのかな、と。正月の騒動を語るのであればそこをこそ問題にしなければ的外れなんじゃないかと思っていて、あの時騒いだ人は殆ど水伝なんかどうでもよかったと思うんですよ。
らんきーさんにしても、深く考えずに「いい話だよね」と紹介して、それは多分小学校の校長先生が朝礼の講話のネタを拾うような気軽な感覚だったんだと思うんですが、仲の良くない人から「莫迦でもなければこんなインチキに引っ懸からない」的なニュアンスで水伝の欺瞞性を指摘されたら引くに引けなくなる。勿論、指摘したほうにそんな侮蔑的な意図がなくても、水伝の種明かしには迂闊に関わった人を虚仮にするような子供騙し的な性格が不可避的にある。子供騙しでありながら、相当の大人でも油断して引っ懸かる辺りが悪質なわけですが、種明かしだけを視たら単純すぎて物凄く恥ずかしくなってしまう。
そこからの連続で庄内さんやGen さんの問題も出てくると思うんですが、水伝に詳しくない論者にとっては、どうしても「こんなくだらないネタ」を真剣に批判している側のほうが常軌を逸しているように見えてしまう。いつもならきちんと事実関係を確認してから言及するような慎重な論者でも、今自分の目に映っている状況の意味が剰りにも自明なように見えて(つまり「科学を絶対視」式のステロタイプ解釈)確認を怠ってしまう。
その結果、これこれしかじかの経緯があってあんたの考えているような簡単な問題ではないんだと逆ねじを喰う、そうするとそれは確認抜きで軽率に批判した自身の言論者としての姿勢に関わってくる問題だから、これも引くに引けなくなる。
そういう次第で、正月の騒動の擁護派の方同様、「何が何でも反論しなければならないという事情が先に来る」という深みにハマるわけだが、水伝論争というのはネット基準で謂えばかなり長い歴史があるわけで、どんなに知的能力が高くても大概の一個人がその論の総体を識らずに思い附くような反論は、すでに潰されているということになる。
その結果、ニセ科学批判者からねじ込まれた論者は引き際を見失うわけで、どのようにして自身の体面を保った儘議論を終結させれば好いのかわからなくなる。何せそんなこととは識らずに唯のネットバトルのつもりで気楽に言及しただけなのだから、ここまで強硬にねじ込まれるなどとは予想だにしていなかったわけである。それが益々ニセ科学批判の不寛容さや狭量さの印象を強化するという負の影響もあるだろう。
以前poohさんのところのコメント欄で、このように批判を加えることで七〇年代の左翼言論のような強硬な印象を帯びる危険性がある、と語ったことがあるのだが、人々が無自覚に行っている不合理に対して強硬に「気附き」を迫る方法論は、やはり相応の反撥を招く危険性があるはずである。
たしかにこのような雑駁な括り方は、ニセ科学批判一般の言論活動に対して不当であるばかりではなく無視出来ない悪影響を与えるわけだが、その理路に基づいて「気附き」を迫ることで、下手をすると「正しさの無神経さ」的な文脈で括られかねない危険性があるわけである。他者からの批判に対する自然な防衛反応から、反論の必要という事情が先に来ることで、遡って「正しいことそれ自体」が相手の感情的反撥を招くという負の影響も無視出来ないわけである。
そうなるともう、「正論ばかりがすべてではない」という何でもアリの世界に突入してしまうわけで、何でも言いたい放題の言葉のカオスに陥ってしまうわけである。その意味で、前掲のTAKESAN さんのブログへのコメントに附言してオレは、
ちょっと今回の件に関しては、オレも庄内さんを過剰に批判しすぎたかなという反省がありまして、敵視して攻撃するより巧く適切な理解に誘導する術があれば、こういう一定範囲に影響力を持つ論者の力も得られたのに、と思います。
と陳べたのだが、庄内さんの知的プライドがこういう姿勢に応じてくれるものかどうかは勿論オレにはわからない。ただ、自身の暢気なバトルヲチを批判されたことで、庄内さんが「ニセ科学批判というのは狭量な価値観を圧し附けてくるものだ」という思い込みを正当化するようなスタンスに立たれるようになったことだけはたしかで、最新エントリーでも「多様な価値観論」を展開されている。
まあ、残念ながら庄内さんのこの種の「多様な価値観論」も、ニセ科学批判の論壇では散々ガイシュツで、庄内さん自身がまさにその外部に立って批判を加えたつもりの「ニセ科学批判者」である当のたんぽぽさんがすでに「多様な価値観論者」の外部に立って論じていたりすることである。メタ議論というのは、単にその論が成立する時制に伴う立場でしかないのだから、いつでも外部に立って論じたつもりの対象に背後をとられる可能性があるのである。
つまり、この場合なら庄内さんは外部から論じている対象から時制を遡ってすでに外部から論じられているわけで、このウロボロス的入れ子構造からは簡単に抜け出せない。この連環から抜け出すには、すでに論じたようにご自身が立たれているメタ的外部から言及可能な対象を包括的に語り得る視点を獲得するしかない。それはつまり、ニセ科学問題に対して当事者性を持って関わっていくということである。
すでにオレは庄内さんに対する批判の方法論を改めたのだから、庄内さんがこういう無限の後追いに追い込まれた経緯自体を過剰に批判するつもりはない。単に庄内さんはアタマの良い人がよくハマる極一般的なパターンで水伝に絡め取られてしまった論者の一人であるに過ぎない。
このようにして引き際を見失い、深みにハマった論者は何とか自身の立ち位置を正当化しようとして様々な観点から論陣を張るわけだが、残念ながら如何に庄内さんが利口でもそれと同じくらい利口な論者が何十人も懸かって何年も考えてきた議論に今更独力で追い附けるはずなどはない。最も合理的な選択肢は、一旦ハマり込んでしまった泥沼なのだから、過去に交わされた論の総体に当たってご自身の立ち位置を再構築するしかないのだが、感情的にはそれも難しいだろう。
何故なら最初にこの問題に足を踏み入れてしまったのは、水伝に対する知的な侮りが原因だからである。こんなに「幼稚でくだらないもの」を今更真顔でシリアスな問題性として取り扱う、つまりご自身の誤りを認めて向き合い直すことには相当の心理的抵抗が伴うだろう。
だとすれば、残る選択肢としてはこの問題性に纏わる言及関係を拒絶するしかない。言及しない替わりに言及もされないという局外者の立場に立つしかない。飽くまでご自身の立ち位置を正当化したいのであれば、既存の立ち位置を肯定するのではなく新たに正当な立ち位置を選び直すしかなくなるのである。寧ろオレはそうしてくださったほうが穣り多い議論が交わせるのでは、と思うが、そんなことを強制出来る立場にはない。
しかし、この儘意地を張り通せば、庄内さんの言論者としての値打ちがどんどん廉くなる危険性は避け得ないわけで、すでに庄内さんは科学的規範に対する当事者性の認識を拒絶されたわけだが、これはつまり、受益はするが当事者的責任は負わないということで、典型的なフリーライダーである。
この論理を突き詰めていけば、社会というものすら彼が頼んだわけでもないのに彼の周囲に勝手に存在するものでしかなく、社会によって保証されている様々な権利を受益するが社会に対して責任は持たないと仰っているのと同じことになってしまう。それは大の大人が真顔で口にすることではなかろうというのは言うまでもないことで、普通大人の社会人というものは、自分が頼んで造ってもらったわけでもない既存の社会を無理矢理圧し附けられる理不尽を受け容れて、責任を持ってそれを担っていく存在である。
そのような社会的成熟を拒絶されるのも個人の勝手だが、それは真っ当な社会人のそれとは見做されないのだし、それより何より、そんな論者が何故社会的領域性に言及した言説を社会に対して旺盛に発信しておられるのか皆目わからないということになる。要するに、この方はご自身の言説が社会に与える影響に対して、一切当事者的な責任を引き受けないと仰っているのと同じことになるのである。
ご自分が社会の一部としてコミットしている当事者であるという意識もないし、ご自分の意見は社会に対する何らかの影響を意図したものではなく勝手な独り言に過ぎないのだから、それをどう解釈しようが読み手の勝手でオレの識ったことではない、ということになってしまう。
オレとしては、まさかそんなことを本気で仰っているとは思えないので、単にご自身の立ち位置を正当化する為の詭弁の泥沼にハマり込んでおられるだけなのだと解釈しているのだが、まあそれも剰り建設的な態度ではない。オレとしては、別段ブログの中心的課題として言及するまでのことはなくとも、今後もっとニセ科学に対して旺盛な好奇心を抱いてくだされば、それで今まで払われた知的プライドの犠牲に対する見返りとしては充分なのではないかと思う。
この方を引っ懸けたのはニセ科学批判の言説ではなく、「水からの伝言」という表面的には道化を装い無害な見せかけをとる莫迦らしいニセ科学の言説であり、それが何故有害なのかと言えば、庄内さんほどのアタマの良い方でもむざむざと引っ懸かるような不気味な説話構造を具えているからである。庄内さんだけではなく、らんきーブログの主人をも引っ懸かけたのだし、もっと多くの一般人を今に至るも引っ懸け続けている危険なお伽噺なのである。
如何にも「僕は何の害もない、それどころか役に立つ教訓話になるピュアなお伽噺なんです」という見かけを装いながら、庄内さんを騙し、ぶいっちゃんさんを騙し、水伝授業を採用した教師やもっと多くの子供たちを騙し、そして六五〇〇〇〇〇〇〇冊の絵本の形になって世界中の人々をこれからも騙そうとしている不気味な侵略者なのである。
その提唱者は「僕は少年のまま大人になった人間」とナイーブさを強調しながら、その一方では一度見附けた説話の鉱脈によってアヤシゲな商売を続け、定期的に琵琶湖に出掛けて大勢の信者と共に琵琶湖の水の浄化を祈り、多くの人々がこの理論を受け容れるならハリケーンすら止めてみせると豪語する人物なのである。
こんな人物を莫迦だと見下すのは容易いが、莫迦でも利口を騙すことは可能なのであり現に騙される人がいるから庄内さんは何だか面倒な立場におられるのである。こんな知的トラップに引っ懸かって言論者としての姿勢を揺るがされた庄内さんは、最早名実共にニセ科学の局外者では在り得ず、非当事者性を主張すべき立場にはおられないと思うのだが、どうだろうか。
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コメント
庄内さんくらいになると「被害者」と見なされるのも業腹でしょうし、難しいでしょうね。ただ、ぼくなんかから見れば庄内さんの言説はいちばん害の大きな種類のものだったりするんですよね。
一般にニセ科学に対する言及は、その論者の(非常に緩い意味での)世界把握みたいなものをあからさまにします。そこが難しい。
非常に妙なたとえを持ち出しますが、ぼくは十代の終わりに河合隼雄・秋山さと子経由でユングに触れて、ものの見方のわりと深い部分に取り込んでいます。で、そう云うぼくがニセ科学を批判する方に立っている、と云う事実によって、ぼく自身がどうユングを受容しているか、みたいなものもあからさまになってしまうわけです。
投稿: pooh | 2008年2月 4日 (月曜日) 午後 09時57分
こんばんは
メタ的分析って構成する要素への分解と関係性・構造を見る行為な訳で、つまり分析する個人が見えなかった要素や切り捨てた要素の方が見つけた要素よりも多くなります。
個人的には視点をベタからメタへの引き上げは比較的容易にできますが、メタからベタへのレイヤーの引き下げ(具体論への接続)は注意して行わないと繋がらないと考えます。ましてメタからメタへと引き上げすぎた分析ではベタは語れない、概念分析以上でも以下にもならないと思います。
もちろん概念分析が良くないと言う意味ではありません。問題は概念分析をした後、その視点・切り口でベタから何が見えているのかを考えるか否かであると思うのです。メタ的分析が何のために行われているのかという初期の目的がないメタ分析は、ベタと接続する可能性を持つことが極めて少ない事を自覚的でなければメタで語ってほしくないと私は思います。ただ私が常にそう行動できている保証はどこにもないのは事実で、ベタから乖離しすぎるようなメタをもってベタを見ようとする行為はそれこそ他者からの指摘でしか自覚し得ないかもしれません。
私は自分が多視点で物事を見る事ができると断言するだけの自信がありませんので、他者の視点を借りるために対話をするのであって、だからこそ面白いのです。
投稿: FREE | 2008年2月 4日 (月曜日) 午後 10時57分
>poohさん
>>庄内さんくらいになると「被害者」と見なされるのも業腹でしょうし、難しいでしょうね。
そうでしょうね。でも水伝を不当に軽く視たということは結局「騙された」ということなのだし、それによって他人を不当に貶めて、その結果言い逃れしにくい批判を受けたということは「被害を受けた」ということですよね。ご本人のプライドがそれを許さなかったとしても、庄内さんが水伝に騙された被害者であることは間違いのないことと言えるでしょう。
>>一般にニセ科学に対する言及は、その論者の(非常に緩い意味での)世界把握みたいなものをあからさまにします。そこが難しい。
おそらく、自然科学とそれを偽ることの問題性というのは、人間が何を正しいと見做しているのか、正しさを偽ることをどの程度許容するのか、という規範意識と密接に関連しているからではないでしょうか。それは引いては、その人が世界を、社会をどう視ているのかという部分に繋がっている。他者との関わり合いにおいて、正しさをどの程度重視するのか、他者を欺くことをどのように視ているのか、そういう倫理観をも剔抉してしまう。
だから、ブログで日記や文芸作品の感想を書いているのであればともかく、社会的な領域の事柄に言及するのであれば、その個人が社会に対してどのように向き合っているのかが否応なく暴き立てられてしまう。普通、政治や社会に対して活発に言及している論者なら、そういう緊張感を持っているべきなんじゃないかな、と思います。
その意味で、ニセ科学の問題のように個人と社会の関わり方を暴露するような問題に迂闊に言及することは危険なんだと思います。
…というか、オレのようなお調子者が論壇が積み重ねてきた論の総体も識らずに疑似科学を語ったテクストを、poohさんみたいな論客に初めて言及された際に窮めて好意的に評価されたことは、実は大変ラッキーなことだったんじゃないかと今になって思い知りましたが(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 5日 (火曜日) 午前 12時39分
>FREEさん
どうもです。相変わらず怜悧なご指摘を戴いて有り難うございます。
>>メタ的分析って構成する要素への分解と関係性・構造を見る行為な訳で、つまり分析する個人が見えなかった要素や切り捨てた要素の方が見つけた要素よりも多くなります。
>>個人的には視点をベタからメタへの引き上げは比較的容易にできますが、メタからベタへのレイヤーの引き下げ(具体論への接続)は注意して行わないと繋がらないと考えます。
第一次情報のベタから第二次情報のメタに階層が上がった瞬間に情報が取捨され抽象されるわけですから、変なところを拾ってしまうとメタの次元の分析がとんでもない方向に行ってしまう虞れがいつでもありますね。そういう意味で、具象の次元と切り離された過度のメタ論というのは、具象の根拠を持たない抽象的言説の戯れというに過ぎなくなってしまって、大本の現実の領域の問題性に対しては何の力も持たないということは言えると思います。
>>概念分析以上でも以下にもならないと思います。
ということですね(笑)。だから、「反科学の情熱」でも語ったことですが、ニセ科学という問題性に対する批判、ニセ科学という問題性の切り取り方に対する批判(つまり一種の批判批判ですが)、ニセ科学批判の実践に対する批判、こういう言説がマトモなものである為には、少なくともニセ科学問題として切り取られた社会的領域の具象との往還可能性を放棄してはいけないはずです。
現実の領域という具象の次元が存在するからこそ、その拠り所との対比によって抽象の領域の概念論の妥当性を量ることが出来るのであって、どうもブロゴスフィアの議論が具象の次元とは切り離された概念分析のメタ論に傾いているのは、具象の次元を切り捨てれば妥当性を検証することが出来なくなる、つまり、「言ったモン勝ち」の世界になるからということもあるかもしれません。
はっきり言って、現実の領域と直面しながらニセ科学批判を展開している論者の方々にとって、そういうしんどさを気楽に切り捨てた検証不能の言ったモン勝ち方式のメタ論議は、何の役にも立たない空論にしか過ぎないのだろうな、と思います。
>>私は自分が多視点で物事を見る事ができると断言するだけの自信がありませんので、他者の視点を借りるために対話をするのであって、だからこそ面白いのです。
オレも同様です。もしも有効なニセ科学批判批判というものが在り得るとしたら、そういうニーズに応えるものであって欲しいと思います。しかし、ネット上では特定集団同士の抗争とか、特定規範を絶対視する狂信とか、何とも具象と懸け離れた言い懸かりに近い言葉遊びのメタ論しか存在しないというのが寂しい限りです。
投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 5日 (火曜日) 午前 01時09分
本文で触れた水伝の「不気味な説話構造」について、窮めて論理的な分析を加えておられる言説があることをpoohさんのブログで目にして、実際に拝読してみるとたしかに秀逸な記事なので、こちらでも紹介させて戴くことにした。これは「『digital ひえたろう』編集長の日記★雑記★備忘録」というブログの「『水からの伝言』の2つの側面」というエントリーである。
http://taizo3.net/hietaro/2008/02/post_155.php
いや、これはお見事な。オレなどはそういう説話構造がどのように危険でどういう機序で各階層の論者がトラップに引きずり込まれるのか、という周縁的事情についてしか語れなかったわけだが、この論ではその説話構造の根幹を論述しておられる。たとえば庄内さんやGen さん的な問題提起も織り込み済みだし、この論に基づくなら水伝に纏わる様々な階層の論者の反応におおむね対応可能なような気がする。
投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 5日 (火曜日) 午後 01時29分
黒猫亭さん こんにちは。
当ブログを御紹介いただき、ありがとうございます。m(_ _)m
実はあのエントリは、黒猫亭さんの「自らの伝言」というエントリがきっかけになって書いたものです。
当該エントリを読みながら「水伝のことを考えるモード」(^^)になっていたところに
「人は信じたいものを信じたいように信じるのであって」
「それを道徳教育のストーリーで読み解くだけだから」
という部分が引っかかったのでした。あのエントリはこの中の「信じたいものを信じる」「読み解く」のキーワードから、導き出されたものです。
(だから私のエントリには両方のキーワードが入っています)
文脈上で直接関わりがあるというわけではないのですが、こういう「鍵」からスルスルっと何かが「見えて」くるような感覚というのは、考えることの楽しさ?を感じる瞬間です。
件のエントリは望外に色んな方に評価していただき恐縮しているのですが、あれを書くことができたこと自体、黒猫亭さんのお陰で、御紹介していただいた以前に、そのことについてお礼を述べさせていただきます。
ありがとうございました。m(_ _)m
投稿: hietaro | 2008年2月 9日 (土曜日) 午後 04時11分
>hietaroさん
いらっしゃいませ。いや、てっきり存じ上げない方だと思っていたので、こちらのエントリーを読んで戴いていたとは思いもよりませんでした。本当にウチの記事があの記事を書かれるきっかけになったのだとしたら望外の喜びですから、そう言って戴けると嬉しいですねぇ。
オレ自身、他人様との遣り取りの中でそれまで自分の中になかったことを考えるという経験は多いですし、自分の記事に戴いたコメントに触発される経験を何度も繰り返しています。hietaro さんが仰るような経験も何度もありますね、なんというか、自分の中で接ぎ穂を喪っていた考えの筋道が適当な一言を得ることでスラスラ繋がる感覚、というんでしょうか。
余所でも語ったことですが、オレは自分自身が何らかの知の体系にコミットして専修的に学んだわけではないですから、自分の知の力や発話力をあんまり信頼していないところがあって、他者との語らいというものがかなり重要だと思っています。ブログが面白いと思うのは、何か記事を書く場面でも他者の発話を踏まえて書くことが一般的だというコミュニケーション性で、そういうシナジー効果みたいなものが確実にあるよな、と実感出来る部分ですね。
hietaro さんが仰るようなプロセスにおいては、別にオレが意図的にアシストを出したわけではないのに、hietaro さんの意義深いテクストが生成される場面で意想外の形で一役買っていると言って戴けると、ネットって面白いなぁと思えますね。
投稿: 黒猫亭 | 2008年2月 9日 (土曜日) 午後 11時06分