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2008年3月19日 (水曜日)

投稿されなかった一通のコメント

きくちさんと香山リカ氏の対談集「信じぬ者は救われる」について、立ち回り先のあちこちでエントリーが上がっているが、オレ自身はまだ未入手で、レビューされているブログに貼られたアマのページで視たら「通常3〜5週間以内に発送」とかのんびりしたことが書いてあるので、駅前に出向いて書店巡りでもしようかと考えている。

未読であるから内容に立ち入った意見も言えないが、poohさんTAKESAN さんのブログを経由して、瀬名秀明氏がご自身のブログ上でこの書籍についてちょっと不思議なエントリーを上げているということを識った。

勿論、著名な作家のブログに押し掛けて読んでもいない書籍に関するエントリーにコメントを附けるつもりなどはなかったのだが、エントリー本文もさりながら、コメント欄の遣り取りを拝見しているとかなりフラストレーションが溜まってきたので、この際書籍とは離れた部分について語らせてもらおうかと思ったのだが、コメントを書いてみたら例によって随分長くなった(笑)。

これをそのまんま先方に投稿して精読を強要するのはブログ主にも読み手にも失礼な話だし、瀬名さんは「TB先をすべて読むとは限らない」と仰っているので、読む読まないに関して自由度を設けるのが筋だろうと思い、こちらのエントリーとして起こすことにした。普通の言及の形に整形しようかとも思ったのだが、コメントの形でないと剰り意味のない内容なので、書き上げたテクストをそのまま再掲する。



お邪魔致します。最近ニセ科学問題について少しずつ勉強させて戴いている黒猫亭と申します。当該書籍に関しては未入手で、入手次第読ませて戴くつもりです。そういう次第で書籍の内容を踏まえてこちらの議論を理解しているわけではないですから、ROMに徹するつもりだったのですが、瀬名さんのご意見を拝読していて一つ疑問に感じたことがありますので質問させて戴きます。

オレの受け取り方では、瀬名さんは不特定多数の一般人に対して、専門家が何かをハッキリ明言する必要があるとお考えのように見えるのですが、どうでしょうか。たとえばグレーゾーンの問題についても、どのようにして一般人にわかりやすいハッキリした言明として発信するか、というふうに、説明スキルの観点の問題としてお考えのように見えます。

たとえば、自然科学にせよ人文科学にせよ、或る程度知的活動の訓練を受けた方は、その命題が「どの程度たしからしいのか」という基準で物事を判断しておられることと思います。最終的には科学の規範内で規定された基準に則って「真・偽」が決定されるにせよ、それまでにはさまざまな階調における「たしからしさの程度」があるわけで、グレーゾーンのお話などもそのような意味合いの事柄ですよね。

瀬名さんやきくちさんにとっては、それは言説を判断される際の当たり前の姿勢だと思うのですが、まあ今現在の不特定多数の一般人にとっては「真・偽いずれか」という二分法的基準の立て方になるわけで、グレーゾーンのお話や「もやもや感」のお話ではそこを問題視されているのかとお見受け致します。当該書籍に対する「救い」の観点のご意見も、「何もハッキリ明言していないじゃないか」というニュアンスなのかな、と。

本来グレーゾーンにある知見というのは、「この知見は現段階では未だグレーゾーンとしての窮めて限定的なたしからしさしか持っていない」と受け取るのが妥当なわけですよね。瀬名さんの命題の立て方は、これを自然科学の素人に対して「真・偽いずれか未決定な事柄を二分法の観点でどのように説明すべきなのか」的な発想であるようにお見受けしますし、きくちさんのスタンスは「『グレーゾーンにあるというたしからしさの在り方』をどのようにしてありのままに伝えるか」ということでお悩みのように思います。つまり、現状の一般人の受け取り方に対するスタンスの違いがあるのかな、と思います。

「どの程度たしからしいのか」ということが重要なのは、それが真と偽の間にあって命題の結論の根拠を担保するプロセスだからだと思うんですね。たしからしさの程度という理解がなく、いきなり真か偽かという二分法で解釈するということは、他人の語る結論を鵜呑みにするということと同義だと思います。

物事のたしからしさの程度が或る基準を満たしたときにそれを真であると認める、また別の或る基準を満たしたときにそれを偽であると認める、そういうふうに科学的な意味での真・偽が決定されるわけですね。結論だけを求めるというのは、そのようなたしからしさの程度それ自体には無関心で、信じられそうな他人の言明を無根拠に信じるということとイコールでしょう。

それ故に、表面的に「詳しい専門家」を装った人の言い分がどの程度信用出来るのかということについて一般人に判断基準を提供するとすれば、まずそのようなグレーゾーンのたしからしさの在り方そのものを理解してもらう必要があるわけです。

オレ自身はきくちさんのご活動や、それに影響を受けた方との対話を通じてこの問題を認識しているので、どちらかというときくちさん寄りのバイアスが懸かっているのかもしれませんが、瀬名さんはおそらく不特定多数の一般人自身がその言説の「たしからしさの程度」をありのままに判断し得る可能性を想定しておられず、たとえばきくちさんのような立場の方が翻訳的な役割を果たして一般人に対する「(たとえばエコマーク的な性格の)結論としての識別情報」を発信して注意を喚起するという構図を想定しておられるのかな、と思います。

しかし、おそらくきくちさんは長い議論と活動を通じて、専門家的な立場の方が「これはホント、これはニセ」という二分法の結論を識別情報として提供する方法論の限界を痛感されていると思うのですね。最終的にはやっぱり不特定多数の一般人自身が二分法的判断基準から脱却して「どの程度たしからしいのか」という判断を下し得るような状況にならねば、問題は解決されないと思うのですね。

何故なら、専門家的な立場の方が「これはホント、これはニセ」という情報を発信することで問題が解決するとすれば、著名な科学者が発信するニセ科学のような問題性を撃つことが出来ないからだと思います。この立場からニセ科学の問題を扱うとすれば、ニセ科学的言説を流布する「詳しい専門家」と、ニセ科学批判を展開するきくちさんという「詳しい専門家」のどちらを信用するか、という話にしかなりようがないと思うのですね。そうすると世間的な基準としては、「どちらが学者として偉いのか」とか「どちらがよりマスコミに露出しているのか」という、窮めて本筋を外れた権威主義的な基準で判断するという話にもなるわけです。

瀬名さんが「所詮一般大衆とはそういうものではないのか」という認識の下に、それに対して果たすべき科学者としてのきくちさんの役割を考えておられるのであれば、それは問題性のアスペクトが剰りにも食い違っていると感じます。

誰か「詳しい専門家」が二分法の結論を情報として提供してくれるという期待は、結局ニセ科学に騙される心性と密接に結び付いているのではないでしょうか。ニセ科学の問題を突き詰めて考えるなら、いずれはそこに辿り着くわけで、その社会的な構造自体に肉薄しない限り、ニセ科学批判は皮相的なものに終始するだろうと思います。

おそらく瀬名さんは「専門的訓練を受けていない一般人が、科学的言説の真偽を自力で判断出来るはずがない」ということを前提視しておられるのかもしれませんが、ニセ科学の実態を詳しく視てみると、問題の核心は科学的リテラシーや情報提供の問題というよりも、自分の頭で判断することを放棄する他者依存の姿勢、信じたいことを信じようとする恣意的な姿勢、そういう心性の問題が大きいということがわかってきます。普通に考えれば当たり前に判断可能な言説にすら騙されるという部分が、ニセ科学問題の奥深いところだと思います。

水伝の問題に関して多くの方が反証実験をしてみせることに否定的なのは、技術開発者さんが仰るような現実的な側面とはまた別に、「科学者が実験の結果否定した」というのはただの「結論」であって、無説明に「それはニセ科学だ」と断定することと何ら変わりがないという問題もあるからでしょう。

誰でも常識の範疇できちんと考えれば、特別の専門的知識がなくても水伝という言説が明確に「偽」であることが判断出来ます。それに対して、実際に実験してみせるということは、「専門家が実験した」というアリバイの下に結論だけを提供する行為に繋がります。これは「専門家が違うと言っているんだから違う」というのと同義ですね。そうすると、結局は「それを言っているのが本物の専門家かどうか見分けろ」という話にしかなりようがないですが、「本物の専門家かどうか」という判断は科学的情報を発信することとは無関係である上に、本物の専門家がニセ科学を語っているような問題には対処出来ないわけです。

しかし、本来水伝のような言説というのは、言説それ自体の筋道をきちんと一般常識で考えることによって一般人でも容易く真偽を判断することが出来るはずのものです。これに対する対抗言説というのは、「実験の結果否定された」という天下りの結論を提供することではなく、普通に考えれば偽であることがわかるはずだ、という事実に対する気附きを促す性格のものであるべきでしょう。

そして、きくちさんはこれまでにあらゆるタイプのニセ科学の問題を旺盛に扱ってこられたわけですから、ここでオレが申しあげたような事柄というのは、ニセ科学問題の或る特定の側面でしかないわけです。この問題には膨大な裾野があって、一口には明快な解法を明言出来ません。

瀬名さんは、ニセ科学と科学者の関わり方について、正確な科学情報をわかりやすく翻訳して一般人に向けて発信するという役割に限局してお考えなのではないか、そこが当該書籍の論点とすれ違っているのではないか、と推察する次第ですが…すいません、まだ未読なので確信を持って言えることではありませんでした。

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