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2008年3月14日 (金曜日)

いかなることをか忘れけん

poohさんのところで懐かしい人の話題が出たのだが(笑)、その話の流れで「五徳猫」の話題を出した。これはdlitさんのところで京極談義をのんびり続けていることからアタマの中が京極づいていて連想したものだが(笑)、妖怪の解説をウィキに任せきりというのも京極ファンとしては美味しくないので、ここは一つ無謀にもオレが石燕の妖怪画の絵解きにチャレンジしてみよう(笑)。

とは言え、実はこの五徳猫の妖怪画は絵解きするまでもなく一目瞭然である(笑)。

京極夏彦の常連読者なら、鳥山石燕の妖怪画が博物学的な趣旨で描かれた伝説上の怪物の細緻な想像図やスケッチではなく、構図内に配置されたアイテムや図像のデザインを地口として風刺や諧謔を意図した判じ絵であることは御存知のことだろう。

その意味でこの妖怪画で企図された諧謔は明らかで、それ故に京極の小説「五徳猫」でも、タイトルとなったこの妖怪画自体の絵解きはちょこっとしかされていないし、本編のほうも化け猫一般を主題としていて、とくに五徳猫の特性に擬えた話にはなっていない。ラストで申し訳程度に触れられるだけである。

京極の「五徳猫」は「百鬼徒然袋 風」に所収の中編で、人を喰い殺して成り代わるという怪猫譚一般がモチーフとなっているが、石燕の描く五徳猫の妖怪画自体は、猫怪の一種として描いてはいてもそういう怪異譚とは直接の関係はない。

図像を視て戴くとわかるが、この妖怪は劫を経て尾が二股に別れた所謂猫股が、囲炉裏端に屈み込んで火吹き竹を吹いて火を熾しているが、奇妙なことにその頭上に「五徳」を戴いている。この図像の故にこの妖怪は「囲炉裏や火鉢の傍にいて、人気がなくなると自分で火を熾す妖怪」というふうに説明されるようだが、ウィキによればこれは後世の後附け解釈らしい。というか、例によって伝承を元にした伝説上の妖怪ではなく、石燕の諧謔を判じた創作キャラだということである。

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この妖怪画に添えられた石燕の手になるキャプションは以下の通りである。

七とくの舞をふたつわすれて、五徳の官者と言ひしためしもあれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ。

この文中で触れられている「五徳の官(冠)者」とは、ウィキの解説によれば「平家物語の作者とされる信濃前司行長」であるという。

行長は本来は学識ある人物だったが、唐の太宗の武の七徳に基づく舞曲「七徳の舞」の内の二つの徳を忘れたことから「五徳の冠者」と渾名され、世間に嫌気がさして遁世したという説がある。五徳猫はこの五徳と器物の五徳との言葉あわせで創作されたものとされる。

この説明によると、「七とくの舞をふたつをわすれて」と言っても徳そのものを忘れた徳なき者と誹られたわけではなくて、「七徳の舞」という楽曲のうち二つの徳のくだりを忘れて世間から嘲笑われたのが秀才のプライドに障りました、という意味である。さらには、その前段にこのような記述がある。

土佐光信による室町時代の妖怪画『百鬼夜行絵巻』にも同様に五徳を頭に乗せた猫の姿があり、五徳猫はこの猫をモデルにしたと考えられている。

つまり、行長の故事が引かれてはいるが、「五徳猫」という妖怪の伝承自体は存在しないのだし、この妖怪画は何かの諧謔を判じた絵解き物であるということである。

では、京極小説で屡々語られる妖怪画の絵解きの手法を真似てこの判じ物を絵解きするなら、まず妖怪本体の図像を視てみよう。すると、如何に劫を経た獣の妖怪とは言え、不自然なほどにこの妖怪は年寄りであることを強調して皺くちゃに描かれていることに気附く。さらに、殊更目立つように腹部にしなびた乳首が描かれていることから、この妖怪の姿は「老女」を判じたものだということがわかるだろう。顔立ちも、猫というよりは人間の婆さんの顔を思わせるように描かれている。

キャプションで引かれているのは世に秀才と仰がれた男性学識者の逸話なのだから、その伝承を引いた妖怪が老女の姿で描かれているのは少し不自然であるが、しかし、石燕は別段この妖怪を世を拗ねて遁世した行長その人が化けたものだと言っているわけではないのだから、行長本人の性別に囚われる必要はない。

何故にこの妖怪は年寄りで、何故に女で、何故に猫なのか。前述の京極の「五徳猫」の本文には、直接ではないがこの絵解きのヒントが語られている。つまり、猫と花柳界の関係である。猫とはすなわち寝子であり、つまり遊女のことである。さらに後世には芸者のことも猫と呼ぶようになり、これは三味線に猫の皮を張ることや「淫声を出す女の楽器」と視られていたこと、さらに芸者を猫と呼ぶのは一種の蔑称で、芸ではなく春を売る芸者、所謂転び芸者の隠語である、といったようなことが本文で語られている。

また、遊郭と猫は切っても切れない関係にあり、実際郭の外には決して出られない花街の太夫たちはよく猫を飼っていた。これをヒントに五徳猫の図像を読み解くなら、ここで描かれているのは郭で春をひさぎながら歳を経てしまって、最早女としては商売物にはならずに台所で火の番をするようになった老女という擬えだろう。

その老遊女は囲炉裏で竹を吹いて火を熾しながら、その囲炉裏火の上に掛けて薬罐や鍋を沸かす為に必要な五徳を頭の上に被っている。石燕はこの猫が「何かを忘れているようだ」と書いているわけで、何を忘れているのかと謂えば、火に掛けるはずの五徳を逆様にして頭の上に被っているのに一生懸命火を熾している、つまり自分が何を何の為にしているのかを忘れているんじゃないのか、という揶揄が込められているのだろう。

囲炉裏の火を熾すのは、暖を取る為でもあるが、その図像中に五徳が描かれている以上は薬罐や鍋を沸かす為と視るべきだろう。それなのにその肝心の五徳を逆様に頭に被っているのでは、火を熾す意味がない。これはつまり、頭の上にメガネを引っ掛けて懸命にメガネを探す横山やすしの芸と同様のギャグが込められているわけである。

通常、遊郭の女というのは金の形に売られた女である。年季が明けて借金を返しきるか良い旦那に見初められて落籍されるかする以外、遊郭の女の身柄は自由ではない。しかし、遊女というのは運良く金回りの良い馴染み客に落籍された者以外は、病気で死なずに年季が明けてもそのまま遊里に居着く者も多かったようである。

要するに昔の基準で中年女になるまで身体を売り続けて、その上で身柄が自由になったところで他に暮らしの立つ手業があるわけではないし貯えもない、賤しい商売上がりの中年女を嫁にとってくれるような奇特な男もそうそういないし、唯一の自活手段となる売春を行うにはもう薹が立っているのだから、さらに私娼に落ちて辻や河原で安い客の袖を引くか、飯炊き女や下女奉公でもして遊里で養って貰う以外に身の振り方がなかったのだろう。

遊郭の風俗を屡々諧謔を交えて描いた石燕は、このように郭の囲いの内で一生を終える女の末路をからかって、「七徳の内の二つを忘れて表舞台から身を引いた秀才も昔はいたらしいが、この女たちはどんな徳を忘れた酬いでこんな皺くちゃ婆さんになるまで遊郭で過ごしているのだろう?」と皮肉っているわけである。表向きは「七徳の舞」という楽曲の話なのだが、遊女という生業で徳それ自体を忘れたからそんな境涯に身を沈めたのだろう、それでは頭に五徳を逆さに被って火を熾すようなモンじゃないか、と揶揄しているわけである。

そう考えると割と血も涙もないヒドイことをさらっと言っているわけだが(笑)、石燕の判じ物は大概この類で、かなり容赦なくヒドイことを言っている。そういうヒドイ毒舌を直接言葉で顕わすのではなく、絵解きに判じた辺りが諧謔味だったわけで、当時の時代人ならこの妖怪画に込められた底意があっさり読めてクスクス笑ったわけだが、京極堂が語るように現代ではその共有された意味コードが喪われているわけで、絵に描かれたことをそのまま受け取る以外にはない。

本来は怪獣ブームの頃に「教育怪獣ママゴン」みたいなベタなネタイラストが流行ったようなもので、昔のネタ画像が今は博物学的な妖怪図鑑となっているわけである。この妖怪も、囲炉裏端に潜んでいて人のいない時に火を熾す悪戯者の猫股、という具体的なキャラクターになっているわけで、これに敢えて解説を附すとすれば、「消したはずの囲炉裏の火が、ふと気附くとまた勢い良く燃え上がっていることがあるが、それはこの五徳猫の仕業だ」という話になるわけである(笑)。

で、それをさらに解釈して「炭火は灰を掛けて一度消しても、再び燃え上がることがよくあるが、この妖怪はそういう現象が怪異と捉えられて生み出されたのだろう」とか、そこから転じて「火の用心の戒めが語られたもの」というような尤もらしい後講釈が附くわけである。いや、五徳猫の解説でそんな話をしているのは聞いたことがないから、単なる喩え話ではあるのだが(笑)。

また、更めて断るまでもなく、これは素人であるオレ個人の絵解きであるから、これが正解である保証などないし、京極夏彦は小説中では絵解きを省いて一種の喩えとしてこの妖怪画を用いているから、今のところどう読み解くのが正しいのか、正解らしきものはないようである。

五徳を逆さに被った女と謂えば「丑の刻参り」も連想されるわけだが、それを織り込んで読み解くのは筋が悪いように思うのでネグレクトしているし、図画中のアイテムという意味では妖怪の背後の竹をぶっちがいに結わえた屏風のようなものにも意味があるはずだが、これが何を仄めかしているのか、江戸時代の風俗にとくに明るいわけでもないオレには読み解けなかった。

その意味で、飽くまで京極堂の手法をなぞった私論であることはお断りしておく。

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