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2008年3月16日 (日曜日)

文芸と社会

いつもコメントさせて戴いているところで、某ドラマを巡るお話をさせて戴いていたのだが、よせば好いのに個人的な教育観の問題についてかなりしつこく言い募ってしまったのがお相手の不興を買って、「そういう個人的な話は自分のところでしてほしい」と言われたので、素直に随うことにした。全く以て仰る通りである。

日頃のその方との対話の性格から考えて、オレの個人性に基づくバイアスは正確に説明しておいたほうが今後間違いがないのではないかと思ったのだが、余所のブログのコメント欄で、熱心に視ていたわけでもないドラマの話題に絡めて、相手を不快にしてまで語るような話ではないので、今後そういう話は慎もうと反省した次第である。

そこでそういう話をさせて戴いたのは、完全にそこのブログ主「個人」に対する心安さから来る一種の「期待」の故であるが、そういうのは「勝手な思い込み」であって相手の方にしたら迷惑至極な話である(笑)。

それ故に、これはドラマの話でもそちらのブログで交わされた特定の会話に関する話でもない抽象論で、とくに誰に対して反論する意図もないから、固有名詞は省くことにするしリンクも張らない。言ってみれば完全に独り言であるから、多少意味の通じないところがあってもご容赦願いたい。

さて本題だが、基本的にオレは文芸作品におけるリアルタイムの社会問題の扱い方に関しては殊の外神経質である。文芸が社会的現実に意識的に言及することで、受け手の側には文芸作品の鑑賞者としての立場とは別に、その社会問題に対峙する一社会人としての立場も生起するものだと考えているからである。殊に大人なら誰でも責任を持っている普遍的な事柄一般に対する言及に関しては、たとえば小説だからとかドラマだからとか映画だからとかいう留保を一切抜きに、一社会人としての語り手の見識も問われるものであり、それはその文芸作品の多様な評価軸の大きな一部であると考えている。

何故なら、文芸作品の語り手と雖も、そのような個別の立場というのは社会の存在を前提にしか成り立たないものであって、当人の自己認識がどのようなものであろうと客観的には文芸作品の語り手である前に一社会人だからである。

文芸には必ず社会との間の接点がある。文芸作品と雖も社会に向けて発信されている公開情報なのだから、間違いなく社会的現実に対して広汎な影響力があるのだし、その影響に対して直接的な責任を負っているはずである。人の身には将来的なすべての影響を予測し得るものではない以上、為し得る配慮には限界があるが、責任だけは全面的に負うべきものであって、その意味で責任関係に収支の破綻があるのである。

文芸作品を語るということは、そういう覚悟を必要とするものだとオレは考える。その言説が文芸の形を取ることが、社会的現実に対して特権的な何かを保証したり、何らかの社会的責任を免責するものであるとは毫も考えていない。況や娯楽を目的とした文芸であるからと言って、その部分を捨象して受け取って好いとも考えない。

たとえば以前坂東眞砂子の一件を厳しく批判したのも、このような認識がその根底にある。文芸者と雖も所詮は一社会人であり、社会人としての倫理に随う必要がある。文芸者としての立場を笠に着て一社会人としての責任や批判を逃れ得るものでは到底ない。

彼女が一社会人としての倫理上の批判に甘んじて、それでもそれとは別問題として文芸上の主張を通そうとしたのであれば、文芸者として見上げた覚悟だと言えるだろうが、実際には文芸者の身分を特権視して一社会人としての自身が行った賤しい犯罪行為を正当化しただけのことである。

これは、オレが文芸作品一般を視る場面においてプライオリティとなる根本的な認識であるから、黒猫亭の文芸批評一般の基本認識である。別の言い方をすれば、黒猫亭の文芸批評というのはそのようなもので「しかない」。

そのような個人的信条に関しては、個別の批評的言説においても何度か触れたことではあるが、就中オレは教育の問題というのは大人なら誰でも遍く責任を持っている事柄として、その言及においては厳しく見識を問われるものだと考えていて、生中な料簡で面白半分に教育を語って欲しくないと考えているわけである。

さらに言うと、一社会人としてのオレにはオレ個人の固有の信条としての固有の教育観というものがあるわけで、教育に関する問題を語る文芸作品を視る場合は、社会と大きな接点を持つ言説としてその作品における教育観に対しては神経質な感じ方をするし、その場合にはオレ個人の教育観という個人的なバイアスが基準になる。つまりこれは、大袈裟に言うならオレ個人の固有の思想的立場ということになる。

その感じ方にもさまざまな温度の階調があるわけで、それはオレ個人の個別の思想的立場と作品と社会との間の三者関係の度合いで決定される事柄である。正面から作品の在り方を批判し、語り手の見識を手厳しく叩くような場合もあれば、格別作品全体の問題として批判するまでもないが、その教育観に対して一種の不快感を覚え、その臭気を忌避するという程度の場合もある。

今回の話の発端となった会話の対象は、程度としては後者に類する事例で、作品全体を批判する意図とは別に(全面的な批判を展開するほど集中して視ていなかった)、作品の語り口ににじみ出る語り手の教育観の雑駁さに不快感を覚えたという話をさせて戴いたわけだが、オレが不快感を感じる根拠となる個人的な信条の問題を、他人様のところでくどくどと語る必要などなかったということである。

そのようなお話をさせて戴いたところ、それは随分気の毒なドラマの見方だと言われたのだが、黒猫亭が黒猫亭であることが随分不自由で気の毒なことであるのは、人に指摘されるまでもなく自分が一番よく識っていることである。

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