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2008年4月30日 (水曜日)

「お詫びのポイントがずれている件」に寄せて

例の青学の瀬尾佳美準教授の不適切発言を巡る議論が、apj さんの「事象の地平線」で沸騰している。オレも首題のエントリーで何度か発言させて戴いたのだが、ホットな話題だけに2ちゃんに晒されたことでアクセスが集中しているらしく、サーバに過剰な負荷が掛かっているとのことである。

それ故に、apj さんが管理可能な時間帯以外は暫定的にブログを停められるということなので、一種トラフィックを分散させる為ということもあって、先方に直接書き込むのではなく、こちらのエントリーとして立てることにした。先日の瀬名さんの問題の際と同様な対応であるので、上記問題に関心を持たれていない方や先方ブログを読んでおられない方にはご容赦を願いたい。



>apjさん

昨日は、粘り強い対応お疲れ様でした。言説の意義に対する信念を身を以て示しておられる姿勢には敬意を抱きます。

今回の一件のもどかしいところは、ここまで突出して常軌を逸した言説に関する事例が極々のレアケースであることは直観的にわかるけれど、では何処で一般則と線引きをするのかということがなかなか見えてこないということ、そして事が表現の自由に関する問題であるだけに、「程度」という曖昧な基準で特例を設けることが果たして妥当なのかということ、そういう部分に明確な答えが見付からないからだと思います。

わかりやすいところから結論を言うと、やはりこのケースでも電凸という手段を選択したことそれ自体は正しくないというのは間違いないのですよね。飽くまでこの一件は瀬尾佳美という個人のネット上の言説を巡る問題なのですから、ネット上において瀬尾さん個人に対して糾弾が為されるというのが精々のところのはずです。

なので、2ちゃんなり痛いニュースなりで瀬尾さんがバッシングを浴びたり、ブログが炎上するという程度までは、ネット言説対ネット言説の問題ですから自業自得と言えるわけですが、大学に無関係の人間が大量電凸を仕掛けるという行為自体には正当性がないわけです。で、ここについては若干舌足らずでしたが、大学側に多少の火の粉を被っても仕方のない理由があるからと言って、それが即大量電凸を肯定するということにはなりませんよね。

以前プリンスホテルの件に関しても似たような論理を語りましたが、世の中の大半の事柄というのは、対立し合う一方が間違っていれば自動的に一方が正しいということにはならないものです。たとえば民事裁判というのは、普通はそうはならない成り行きを人為的に形式や条件附けを整えて甲乙何れが正しいかを判定するシステムですから、一方が間違っていれば一方が正しいということになりますが、こちらのほうが特殊な例だと言えるでしょう。

今回の件では、電凸を仕掛けたほうも間違っているし、受けた大学側にも大いに責任があるという、何というか大変スッキリしない話になるわけで、その辺がさらにわかりにくくなっている弊はあるでしょう。

大学側がクレームを受けるとしたらどんな場合が在り得るかについては、他の方との議論を通じてapj さんが細かく線引きしておられますが、電凸という手段一般が肯定されるのは、たとえば現実社会における問題に関するネットの議論において、どうしてもネットの公開情報だけでは必要な情報が入手出来ない、もしくは批判対象となっている個人なり企業なりの真意や対応の実態が掴めない、そういう場合に対象である個人なり企業なりが正当なコミュニケーション手段として公開している連絡先に、議論しているコミュニティの代表者が身元を明かすリスクを冒して直接取材する、意思表示して相手の対応実態を視る、ネットの議論と現実の対象との間の窓口となる、そういう場合が在り得ますよね。

ネットの議論が現実を動かした事例において、電凸というのはそれなりに意義のある公平な取材手段・意志表明手段として活用されてきた歴史もあるわけです。そのような場合にも、たとえば「漏れがいっちょ凸してみる」「よし任せた」みたいな自律は在って然るべきで、みんなで一斉に電凸して困らせようぜみたいな恫喝的な手段は厳に慎まれるべきでしょう。

たとえば今回の場合なら、特定の教育機関に所属する教育者の私的な言説について、同学がどのような見解を持っているのかを、代表者が電凸によって確かめるということなら考えられるでしょう。その際に、「さすがにこれは教育者としては許されない言動だろうし、大学の信用を損なうと思うんですけど」程度の「私的な意見」を添えるということまでは考えられますよね。

で、公式なチャネルを通じた対応ということなら、その結果をネットで詳細にリポートされてもしょうがないわけで、その程度の危機管理意識もないとしたら、それは大学側の広報対応や説明責任に対する認識が緩すぎるということになるでしょう。

しかし、実際には単にクレームをねじ込んで困らせてやれという人々が我先にと大勢群がったわけで、これ自体には何ら正当性がないわけです。大量のネットワーカーが一斉に大学側と現実のチャネルを通じてコミュニケーションをとる積極的な必要性があったわけではないし、よしんばその場において電凸が必要だという流れになったとしても、夫々のコミュニティなりの自律によって代表者を絞るということもせずに、むしろ大量動員を呼び掛けて多くの人々がそれに呼応するというのは、まあ単なるDOS攻撃という以外にないですね。それこそイナゴ呼ばわりされても仕方のない部分がある。

大量に電凸されたら先方の事務機能が麻痺して困るだろう、クレームに対応せざるを得なくなるだろう、要求に屈して謝罪せざるを得なくなるだろう、こういう論理は要するに右翼の街宣活動と変わらない恫喝行為でしかありません。その結果、大学が現実的な圧力によって瀬尾さんの言論活動を圧迫したとしたら、これは紛れもなく瀬尾さんに対する言論弾圧です。これをどう評価するかというのはまた別の問題になるのですが、一旦後段に譲ります。

瀬尾さんのブログ上のコメント対応姿勢を視ると、批判的な議論の土俵にマトモに載せることすら一苦労という印象ですから、公正な条件で対話に応じさせる為に圧力を掛けるというのなら、言説の責任を言説でとらせる為の手続と言えるでしょうからまだしも理解の余地はありますが、これは結果的に一切の議論抜きで瀬尾さんを謝らせ黙らせる為の活動ということになりますので、明らかに言論弾圧と呼べるでしょう。

ただまあ、青学側のユルいところというのは、公式サイトに問い合わせメールの機能を実装していないところで、公式サイトの作り自体も学生とその関係者、納入業者等に向けたものでしかないわけです。そうなると、「メールで済むことで電凸するな」というような言い方も出来なくなるわけで、まあ、学校なんだから学生とその関係者しか意識しないのは自然なのかもしれませんが、大学という組織も社会に領域を占めている以上は、社会を意識した広報対応のチャネルがなければ、容易くこういう事態に発展してしまいます。

今はどんな組織体であろうとも、簡単なきっかけで社会全体と向き合うべき立場に立たされてしまう可能性があるわけですから、ネット上に公式サイトを立ち上げるなら、表面的でもいいので、不特定多数からの意見を現実の業務遂行に支障のない形でプールして一括対応する仕組みを備えておかないと、連絡手段が電話しかないから電話した、その結果向こうが困ろうがこっちの識ったことではない式の理屈を大きな声で言われてしまいます。

現今のネット社会においては、一対多のコミュニケーションが爆発的に発生する局面というのが不可避的に生起するわけで、大学組織といえども例外ではありません。そういう局面における対応の如何によっては、学問の府としての大学の「程度」というものが問われることも在り得るわけで、一種社会とのコミュニケーションをどれだけ重視しているか、双方向の情報発信をどう捉えているのかの指標とも言えるわけです。

つまり、瀬尾さん個人の私的発言を巡って所属先に電話という現実的な手段で圧力を掛ける行為が筋違いだとしても、青学レベルの規模と性格の組織体が不特定多数からの意見を吸収する仕組みを電話以外に備えていないことも変な話だということなんですね。

一方、教育者の私的発言を巡って所属先の教育機関がどの程度の責任を負うべきなのかというのは、ここでこれだけ活発に議論されているくらいですから、社会に周知されている定説とまでは言えないわけで、よく考えればそれは筋が違っているんじゃないか、という性格の問題であるわけですから、その論点において大学側が意見を問われるということ自体はそれほど間違った成り行きではないわけです。

しかし、これも「たまたま」青学はメールや掲示板という業務に支障のない手段でその種の問い合わせを吸収する仕組みを備えていなかったわけで、通常は学生とその関係者との間の事務的コミュニケーションだけを想定していれば用が足りるから電話対応という手段に一極的に頼っていたわけです。で、そのような貧弱なインフラに爆発的に連絡が殺到すれば、通常業務に支障を来すわけで、それを意図的に狙って大量電凸というDOS攻撃を仕掛けることはいろいろな意味で正しいとは言い難いわけです。

この部分は青学の側の落ち度もあるので、話がちょっと微妙になってくるわけで、条理で言うなら、「間違った手段以外に採り得る有効な手段がないならその手段を採択すべきではない」ということになるわけなんですが、「間違った手段以外に採り得る有効な手段がない」という現状それ自体も間違っているのですから、スッキリした話にならずに議論が重層化してしまい、各階層の主張がすれ違ってしまうわけですね。つまり、一旦その現状の間違いを解消してからでないと本論に辿り着けないわけで、そのプロセスにおいて論点がズレたり抗議対象がスピンアウトしまう懼れがあるわけです。

つまり、社会的な認知の現状として教員の言動に関して大学側に問い合わせを行うことそれ自体が議論の余地なく間違っているとまでは言えないのであれば、その個別の問題領域に関しては大学が当事者なのであって、正当な問い合わせ手段がないからマスコミに投書するということになると、大学を当事者としたそのコミュニケーション姿勢を巡る問題として公に問題提起せざるを得ないわけです。そうすると、結果において瀬尾さん個人の私的な言動を巡る問題が正式に大学を巻き込んだ問題として発展するという、わけのわからないフィンガートラップがあるわけです。

この問題が何故これほどややこしいレアケースと成り得るのか、それに答えを見出すには、大変煩瑣で多岐に亘る問題に根気良く附き合っていくしかないと思うのですが、この騒動の初期にapj さんが仰っていたように、一般則の限界ギリギリの部分で展開した陰画のような状況で、表現者側にとって考え得る限り最悪の条件附けが施されているわけです。

普通危機管理というのは、悲観的な「もしも」の積み重ねで最悪を予想して対処を考えるものですが、この件では考え附く限りの最悪の条件が積み重なっていて、一般則が現実に適用される場面での例外的事例を形づくっています。この問題を考える場合には、これが一般則の矛盾を剔抉する反証として機能すると考えて議論するのではなく、正しいはずの一般則が何故この個別事例に関してはスッキリ適用出来ないのか、これらの事例を包括的に記述可能な形で法則性が成り立たないか、という特殊性を詰めていく必要があると考える次第です。

一方、瀬尾さんの言説それ自体や表現の自由に関しては、譲歩に附け込むような形で恐縮ですがオレはapj さんよりも寛容ではないと思いますし、田部さんの主張に近い立場と言えるかもしれません。やはり自由というのは自律や義務と表裏一体のものであって分けて考えることは出来ないと思います。

社会というのは建前としては相互信頼の信義則で成り立っている部分があって、そういう信頼に基づいて自由が許されているもので、その自由に乗じて信義に反する行いがあれば厳しく責任を問われるという性格があります。

たとえば瀬尾さんの言説を「変なことを言って他者を痍附ける自由もある」というふうに認めるのであれば、「筋違いの電凸を仕掛けて言論弾圧する自由もある」というふうな理屈も成り立ってしまうわけで、自由によって自由が圧迫されついに自由が弾圧されてしまうという事態に発展します。諧謔を弄して謂えば「自由の縊死」とでも表現出来るでしょう。自由の無制限な適用は自由の自壊に繋がります。甘んじてその社会的責任を引き受ける覚悟があれば、どんな非理をも行使するのは自由だという話になってしまうわけです。

無制限な自由という観点においては、瀬尾さんが変なことを言うのも、イナゴが大量電凸を仕掛けるのも等価になってしまうんですね。以前何処かで語りましたが、たとえば「ゆきゆきて神軍」の奥崎建三が「外に刑事がおるから呼んでもいいが、それでもオレはあんたを殴る」と言ってしまうと、彼が他人に暴力を揮うこと自体は止められないわけです。で、相手を殴った上で奥崎建三がその刑事責任を引き受ければ、それは自身の自由意志を通す手段として何の問題もないということになってしまいますが、これはやはりおかしいわけですね。

他人に暴力を揮うと捕まるのは、それが悪い行いだからであり、何よりそれを未然に抑止する為であって、警察に捕まって裁かれるという代償を払えば行使して構わない権利ではないわけです。

オレも表現の自由というのは最優先で護られるべき権利だと思いますが、それが無制限のものだとは思いません。公益や社会性との兼ね合いで或る程度制限を受ける部分があるのは他の権利と同等だとは思いますが、それでもその権利を制限する場合には「かなり強い理由」があって、さらに制限された部分が将来において原理的に回復可能であることが絶対的に担保されなければならないと考えています。

何故なら、表現の自由さえ確保されていれば他の権利が不当に制限された場合でも妥当に回復することが可能ですが、表現の自由が不当に制限されてしまえば、他のさまざまな権利が不当に制限されても回復する手段が存在しなくなるからです。

その意味で、昨今頻出する表現の自由を圧迫する数々の法律の制定には積極的に反対ですし、以前話題になった児ポ法改正にも全面的に反対です。こういうことが法的に規定されてしまえば、制限された部分が原理的に回復不能になる懼れが強いですので、ああいう機会主義的な法律で表現の自由を規制するのは愚の骨頂だと考えています。

それ故に、表現の自由には他の権利よりも特権的な有意性があると思いますが、それが何故優先的に保護されるのかと言えば、公益の観点でその権利に特権的な意義があるからであって、個々人の私的な人権とはあんまり関係ないと思うのですね。

オレがネット言説において、二言目には「公論、公論」と中公の回し者のように口にするのは、表現の自由や言論の自由というのは、公益に強く結び附くことで特権的な有意性が保証されている権利だと考えるからで、私的な憂さ晴らしで他人を痍附けたとしても、それも「自由」だから、自分の「権利」だから、という理由で表現の自由を振りかざすような人間は、結果的に表現の自由という尊い権利を粗末に扱っていると感じるからです。

オレが「言説と心中する覚悟」と口にするときに想定しているのは、たとえば一時の私的な憂さ晴らしの為に不当に他者を痍附ける言説を弄するなら、圧倒的に多くの人々の憂さ晴らしの為に現実的な不利益を蒙ることも甘受すべきだということですし、もしも一握りの少数者が痍附くことを超えた公益があると強く確信するならば、その公益の為に言論で戦い抜いた上で、さらに少数者を痍附けた痛みや道義的な責任をも甘んじて引き受けるべきだということです。

ブログ言説というのは本質的に一対多のコミュニケーションですから、そもそも対応関係が公平ではありません。他人に対して理不尽な言論の暴力を揮えば、自分が行ったよりもかなり多くの理不尽な暴力で応報されるわけで、その「理不尽」の射程には言論弾圧という選択肢も含まれているわけです。

公的な妥当性というのは、所詮は多くの人々が最大限に納得し得るという程度の確度でしかありませんから、原理的には個別の言論弾圧が社会的に許容される領域というのが存在し得るのですね。たとえば2ちゃんで「あぼ〜ん」されるというのは、これもまた議論抜きの言論弾圧ではありますし、犯罪予告や特定個人の個人情報や肖像を晒すという行為などが弾圧の対象となります。或る程度言説の内容が野蛮に亘れば、弾圧も視野に入れた野蛮な対応を受けるし、そのような弾圧は社会から許容され期待すらされているということだと思います。

この場合も、実害の有無で線引きしようとするとやはりグレーゾーンが出てくるのですよね。個人情報を晒すというならその時点でわかりやすく損害が発生しますので削除という形の弾圧で対抗することはわかりやすいですが、犯罪予告というのは実害の有無は文脈に依存することであって、大半のコメントは捕まえてみたらただの煽りだったという話になりますが、ネオ麦茶事件のように本気かどうかわからないから一律に現実に対応する、その為に業務遅滞や警備コストという損害が発生するということで、実はこれも線引き自体が便宜的なものでしかありません。

そこは言論活動が具える本質的に野蛮で理不尽な部分だと思いますから、理性的な人間は自身の言論を野蛮な領域に落とさないように気を遣うものです。何の公益もないのに実害だけはあるような表現は、これは弾圧やむなしと視られているわけで、何の為にそのような弾圧が為されるのかと言えば、それは言論の自由の理念的正当性を防衛する為なのではないかと思うのです。

言論の自由が最優先で保証される権利であることには疑いの余地なく正当性が存在するのだという条理を護る為に、無制限な自由の履き違えは厳しく批判され理不尽な弾圧を受けているわけで、その個別の現実的な弾圧が不当だと思うのであれば、当事者が飽くまで正当性を主張して「言論で」戦うべきであり、弾圧が視野に入れられている一方でそのような正当性回復のプロセスが織り込まれていることが言論の自由の本来的な在り方である、という階層性になると思います。

たとえば瀬尾さんのブログ上の発言で問題視されているものは、学問領域の言説のように真理を考究する為の思考言語という性質のものではなく、まあオレの個人的な見方で言えば、当該ブログの性格から考えても、私的な感情の鬱積を言語化することで処理する為の憂さ晴らしのツールでしかないわけで、公益という観点では視るべきところがありません。

これをたとえば気の置けない二者間の世間話としてぶちまけたなら何の問題もないわけで、相手が瀬尾さんの口汚い愚痴を聞いてあげるだけの好意と我慢強さを持っていればその場限りの私話の問題です。これをブログという一対多の情報発信のツールでぶちまけたことが問題なのであって、そのことがこの言説を言葉の暴力にしているわけですから、この理不尽な暴力に対してそれを上回る理不尽な暴力が返ってくるということもまた、野蛮な社会原理として織り込まれているわけです。

瀬尾さんも、大学側も、電凸した人間も、それ単体で視れば誰一人正しいことをしていないわけですが、全体的にそのような社会原理が働いて瀬尾さんの言論が理不尽に弾圧されることで、結果的に言論の自由の理念的な正当性が防衛されている、そういうことなのかもしれません。瀬尾さんの言説が言論の自由の建前から「アリ」だということになってしまえば、では言論の自由って何の為にあるんだという根本的な問題が発生するわけで、最終的に言論弾圧に発展する一連の野蛮なプロセスが、不適切な自由の行使を排除し抑制しているということなのではないかということです。

たとえばapj さんや町村先生は、「弾圧すべきかどうかを、誰が、どんな基準で判断するのか」という辺りに為政者に附け込まれる危惧を覚えられると思いますが、ここが漠然とした公衆感情に委ねられている辺りが文明の知恵だと思うんですね。

厳密に線引きして基準を定義してしまえるようなことではないし、それを決定してしまえば或る基準に則った弾圧は「正しい」ということになってしまいますが、言論弾圧というのは常に「間違った野蛮なこと」として行われる必要があるのであり、常に議論の余地が保証されていなければなりません。その意味では、曖昧で漠然とした人々の感じ方の総意によって決定されていて基本的にそれが「正しいこと」とされていないことが、逆に柔軟性を保証しているのだと思うのです。

或る種の社会的な不利益を伴う言説は、言論の自由の意義を損なうものとして排除されるべき「必要性」があるわけですが、それを曖昧で漠然とした社会原理に委ねていて、尚且つ「正しいこと」として行わないという、一種のダブルスタンダードが文明の知恵ではないか、ということです。それが「正しいこと」として行われないことで、すべての言論弾圧は、原理的に言論によって正当性を回復することが可能になる余地を残しているわけです。

田部さんが仰りたいことも、おそらく技術開発者さんの持論の影響下の発言でしょうから概ねそういうことなのではないかと思うのですが、言論の自由というときに、言論の発信者が野蛮な領域に落ち込まない為の理性的な配慮を怠ってしまえば、言論は容易く野蛮で理不尽な暴力闘争の具に一変してしまうわけで、それがブログ言説である以上、戻ってくる応報が理不尽さも暴力性も圧倒的に増幅されたものになるのが或る種当然と言えるわけです。

また、apj さんはこの件に関して当事者性というものが唯一コンクリートな基準であるとして着目しておられますが、この件に関するいろいろな論者のご意見を拝読すればわかるように、当事者性と一口に言ってもさまざまな階層性があるわけで、直接的な当事者性に限るというのは、「それ以外だと収集がつかない」という現実的な都合以外あんまり論理的な必然性がないのですね。

というのは、この問題はそもそも特定の利害衝突を巡る社会闘争ではなく、特定の言説に付随する反社会性とそれに対する公衆感情の問題なので、当事者性を突き詰めていくと際限なく拡散して行ってしまうのがむしろ筋であるわけです。で、これが学問的な思考言語の問題ではなく一対多のコミュニケーションの問題である以上、やはり公衆感情という曖昧な基準は無視して好いファクターでもないんですね。

すべてのネット言説というのは、その言説が発信される意義と社会的不利益のバランスが原理的に問われているものだと思います。たとえば毒にも薬にもならない日記ブログというのは、意義も不利益も殆どないから誰も評価しないけれど(モヒカンは積極的に狩りにいきますが(笑))、ネット上に存在することを弾圧する理由もない。むしろブロガー個人に対する好き嫌いという個人的な嗜好で楽しく読めるという読者が或る程度は想定出来るから、その分だけ僅かにプラスです。

そういう意味で、大概のブログ言説というのはプラマイ大体とんとんで、ちょっとプラスに傾いているということでこれだけネットが活況を呈しているわけですが、その収支が極端にマイナスに傾いていると、やはりその存在を許さないという社会圧が働くと思うのですね。で、この収支は公益の観点でも評価されますし、公衆感情という観点でも評価されるわけで、どうしても、人の言葉である以上、それを読む個々人の判断の漠然とした総合という曖昧な部分を含んでいるのは仕方がないと思うのですね。

ですから、たとえばapj さんがご自身の訴訟との連続性で当事者性における利害を基準に据えたとしても、多くの人が納得する基準とはならないという問題があるわけで、それは別の部分に問題性を視ている方がかなりたくさんおられるからでしょう。

apj さんは一度瀬尾さんの言説を犯罪に喩えたことがありますが、事実において法律上の犯罪ではないけれど、公衆感情や反社会性の面では窮めて犯罪と近縁の社会原理が適用される問題なのだと思います。それを表現の自由・言論の自由ということに絡めて言うならば、現代人は基本的に行動の自由を保証されていますが、その一方で法律によってさまざまな事柄を禁じられている不自由な存在でもあります。

理念上の原始状態においては「完全に」自由であるべき人間が、社会を前提とすると何故無数の行為を決め事によって禁じられなければならないのか、それは自由を法的に保証するということは自由を定義するということであり、自由である為に何をしなければならないか、何をしてはいけないか、ということがさまざまな禁止事項の形で法的・理念的に定義されているということでしょう。

これは言論の自由も同じことで、表現や言論が自由であるということは、何を公に書いても言っても好いということとイコールではないと思います。ただ、言論というのは基本的に信義則に基づいて最大限に自由を保証されるべきものであり、他の領域に関する法律のように細やかな決め事や定義で運用することには向いていません。だから多くの人々が論じ合ったり感じ方を持ち寄ったりして、或る程度の振れ幅を残しながら自治的に運用していく必要があるわけです。

実害の有無というのは勿論大きな判断基準ですが、対象が言葉という捉え所のないものである以上、そこで厳密に線引きすることには無理があって、やはり不特定多数の受け手の感じ方という曖昧な基準を採用することになるわけですし、異論を含みながらも多くの人が納得出来るような結論を採用するしかないことです。

そこでたとえばapj さんが瀬尾さんの言論が弾圧されたことに対して強い反撥を表明され、一方でそれを正当視する論者も存在するという多様性が確保された上で、現実問題として瀬尾さんの言論が弾圧される、こういう成り行きであることが重要だということなんだと思うんですよ。どんな言論も曖昧な基準では弾圧を受けないということになると現実問題として不都合が発生するが、誰も異論を挟まない公の決め事として言論弾圧が行われればこれほどおそろしいことはない。

その必要と危惧の総合として、一種理不尽で野蛮な事件として事実上の言論弾圧が行われるということになるわけです。常に曖昧で議論の余地を残しながら社会的な不都合が解消される、そういうプロセスであることが重要であるわけです。

これがたとえば改正児ポ法のように法律によって厳しい規制が行われる場合、その取締対象として相応しいかどうかには議論の余地があっても、或る特定の対象を丸ごと違法と定義附けて一律に禁止するわけですから、言論によって正当性を回復する余地がほぼ残されていないわけです。

それ故に、或る表現を巡って是非を論じる際に、安直にその基準を定義したり法律で禁じたりすることは適切ではないわけで、或る程度振れ幅を残した曖昧な基準において適用される必要がありますし、特定の言論が事実上排斥されたとしても、それは必ず回復の余地が残されていなければならない。

たとえば児ポ法で言うなら、その時代性において何かを新たに作り出さないし流通させないということまではその時点の社会的合意において為されても好いけれど、過去の文化遺産を一時の価値観に基づく雑駁な決め事によって回復不能な形で抹殺することが、この特定の時代人に許されるのかという歴史的な相対視点が欠けている。焚書坑儒や文化大革命の故事から何も学んでいないと言われても仕方がないでしょう。

言論弾圧というのは、単なる社会的不都合に基づく野蛮な行為ですから、常に「正しいこと」とか「しても好いこと」として行ってはならないわけで、議論の余地を残しながら社会的合意という曖昧な基準に基づいて行われる必要があるわけです。

何度も申しあげている通り、瀬尾さんがご自身の言論に自信や信念がおありなら、ご自身の言論によって飽くまで世論と戦うなり大学当局の圧力と戦うなりすれば好いことであって、大学側が下す処分に不服なら言論によって社会に信を問えば好い。そういう余地を残しながらも、瀬尾さんの言説のもたらす不都合が回避されるのが社会の柔軟性だと思う次第です。

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コメント

アップした後で更めて字面を視てみると、たしかに先方のコメント欄では失礼を顧みずに長文コメントを連投した前科はあるが、本気でこんなに長い文章をコメントとして書き込もうと思っていたのかと思うと、ちょっと反省してしまった。

先方から来られた方は、何かご意見があればこちらに書き込まれても構わないし、向こうでリンクを挙げて言及されても構わない。可能な限り先方のコメントの流れは追うようにしているので、どちらでもご対応致します。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月30日 (水曜日) 午後 08時44分

黒猫亭さん、

 私のblogのコメント欄にもこのエントリーの内容をコピーして下さるとありがたいです。
 まだ重いかも知れませんが、隙を見て(って?^^;))書いていただけないでしょうか。明日の仕事を始めるまでは、一応httpdは止めない予定でいますので。

 なお、私の方でも理由を説明するために追加のエントリーを上げました。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=9350

投稿: apj | 2008年4月30日 (水曜日) 午後 10時34分

>apjさん

では、一応冒頭の部分に但し書きを入れた上で、当該エントリのコメント欄にも書き込ませて戴きましょうか。apj さんのところが、日中は概ね停止しているようですので、こちらが一種のミラーみたいな形になりますね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月30日 (水曜日) 午後 11時02分

黒猫亭さん、書き込みよろしくです。
 この手の炎上ぽい騒動は、落ち着いて対応し、それ以上の燃料投下をしなければ、1週間程度で収まるのが普通です。
 今日のエントリーが新たな燃料投下になるかどうかは何ともいえませんが、論ははっきりしていると思うので、多分大丈夫かなぁ。

投稿: apj | 2008年4月30日 (水曜日) 午後 11時29分

>apjさん

お言葉に甘えて書き込みさせて戴きました。長いですが、最後まで読んで戴けば何故オレの論がapj さんのご主張と相反するものではないのかが、多くの人にわかって戴けるのではないかと期待します…いやまあ、apj さんが瀬尾さんを擁護していると誤解するような粗忽な人は「またこいつ、長々と変な屁理屈で反論してやがるぜ」としか思わないかもしれませんが(笑)。

世の中の秩序を形作っている社会秩序の原理と、個別の領域に関する正当性は違うアスペクトの問題だということですから、apj さんのような方が黙ってしまえば「それでは格別のご異存もないようですので」ということで、所属組織が職員の言論について干渉しても好いことになってしまうわけです。それでも多くの人々が当たり前だと思ってしまえば、多分「誰も困らない」のです。

これこれの客観的に揺るぎない基準があるから自動的に正義は護られるなどということは、少なくとも言論の世界に関してはないのだと思います。「これが正しい」と思うのなら、その正しさを可能な限り多くの人々に納得出来るように語り続けることでしか正しさは樹てられないのではないかと思います。

それ故に、世の中はこういうメカニズムで動いているというオレの論でapj さんを説得しようなどとは露ほども考えていません。こういうふうに動いている世界の直中で言論の権利を自身の手で打ち立てようとする試みは、誰がその意義を否定出来るものでもありません。少なくとも、憂さ晴らしの為に罵詈雑言を垂れ流すのが、誰かが天下りに与えてくれた自分の権利だと思っているような愚劣な輩に、言論の自由を主張する資格などはありません。

オレたちはついつい簡単に「先人が血の犠牲で購った尊い権利」というふうに語ってしまいますが、言論の自由というのは「今でも」犠牲を払って自力で勝ち取る必要があるものだと思います。くだらない雑言をぶちまける為にこの権利があるのではないし、たとえばネットの自由な言論が煙たい人々は、着々とネット言説を一律に規制する法律を整備しています。

その規制の根拠となるのが、たとえばねらーの一部に確実に存在する心ない人々による流言飛語であったり、たとえば瀬尾さんのような罵詈雑言だったりするわけで、このような放埒な言説が野放しになっているのは社会の為にならないということで多くの人々が合意してしまえば、それらが存在する場の言説全体を弾圧することは「正しい」ということにされてしまうのです。

それがネット規制法のような形で法制化されてしまえば、法に背馳することは社会的には紛れもなく「正しくないこと」なのですから、事実において言論弾圧が正当化されてしまうことになります。オレ個人の立つ見地においては、瀬尾さんは言論の自由の正当性を踏みにじったのであり、この尊い権利に重大な脅威を与えたわけで、それが「理不尽な暴力」によって「不当な弾圧」を受けたということになります。謂わば毒を以て毒が制されたわけで、おそらく社会はこういうバランスで廻っているのだと思います。

しかし、こういうことが数限りなく積み重なれば、ネットで自由な言論を謳歌すること自体が一律に社会的な圧迫を蒙るでしょう。人と人の間の正しさとは、誰かが現実に主張し実証することで多くの人々が納得しない限り、自動的に成立するものでは決してないし、アプリオリに存在するものでもないとオレは考えています。

マクロな社会原理を想定している時点で少し神懸かりに聞こえるかもしれませんが、オレは言論の自由というのは個別の言説毎に時として試しを受けるのだと考えています。その言説が公衆感情を刺激するものである場合は、それが正しかろうが間違っていようが、その言説は弾圧を含む暴力的な圧力を受けるのですが、その言説に自由に値するだけの意義があるのであれば、その弾圧を撥ね退けられるはずです。

当人がその正当性を訴えて飽くまで言論で戦って、その正当性に多くの人々が共鳴すれば、弾圧の不当さを撥ね退けることが出来るのであり、それが許されていることこそが言論の自由ということなのではないかと思います。言論の自由は天下りに与えられ個人の恣意に任された慰み物ではないのだし、いつでも戦い取られるべきものなのだし、誰かが自分の為に護ってくれるものでもない。逆に謂えば、戦えない者は自身の自由の限界を斟酌し公衆感情に最大限配慮する必要がある。

瀬尾さんはそのどちらも怠り無責任に放埒の限りを尽くしたから、自身の言説の存在意義を自他に対して樹てることが出来なかった、野蛮で理不尽な社会感情に負けた、それだけのことではないかとオレは考えています。戦えもしないのに、正しさを主張することも出来ないのに、誰かを不当に痍附けてまで公に野放図な物謂いをする権利が誰にでも無前提で与えられているというわけではないということでしょう。

>>今日のエントリーが新たな燃料投下になるかどうかは何ともいえませんが、論ははっきりしていると思うので、多分大丈夫かなぁ。

大丈夫でしょう、2ちゃんねらー辺りはスクロールするようなテクストの読解は苦手ですから、全部読んでから発言しないと恥を掻くような長文には、あんまり反応しないものです(笑)。昨晩はエントリーでもコメントでも飛びきり長いのが連続投下されましたから、少なくとも燃料にはならないと思いますよ。

オレのところが割合挑発的なことを書いていてもねらーに荒らされないのは、まあそういうところもあるのかな、と。数回晒されたことがあるんですが、誰もコメントすらしませんでしたから(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月 1日 (木曜日) 午前 04時59分

 黒猫亭さん、ありがとうございます。
 朝出るときは忙しいので、cronで出勤時間前後に止めるようにしているので、まだ書き込みを見ていません。午後の会議が終わったら動かします。
 今回書いていて思ったのは、大学が学問の自由とか言論と表現の自由において、一種の特権階級だと思いこんでいる人達が相当数居るということです。実際にはそんなことはなく、だからこそ吉岡と裁判所でやり合ってるわけで、法の側で学問の自由や言論と表現の自由に積極的に制限をかけるのは憲法訴訟につながるからそれなりに敷居が高いにしても、実際にその権利を行使するには、やっぱり不断の闘争が必要なんです。この場合の闘争とは、表現の正当性をめぐって裁判所で法的紛争を行うということなんですが。
 だから、私が「象牙の塔の住人」と言われたのには苦笑するしかなかったです。社会の側が象牙の塔に住居をあてがってくれて、社会から隔離してそれでヨシとしてくれるんなら、今の裁判は発生してないはずです。でもって、目下、私に対する正しい呼び名は「裁判所に通う人」なので。

投稿: apj | 2008年5月 1日 (木曜日) 午後 12時44分

>apjさん

昨日は殆ど動きがなかったですね、2ちゃんとかは最近覗く気が失せていますので動きがわかりませんが。今そちらが停まっている時間帯なのでここで書いてしまいますが、昨晩の田部さんのコメントはなかなか面白い論点でした。

>>でもって、目下、私に対する正しい呼び名は「裁判所に通う人」なので。

ちょっと田部さんの論と直接繋がる話ではないですが、自分の論やpoohさんのところの「人間の基本仕様」論辺りの流れと綜合して考えると、たとえば2ちゃんのapj さんのスレで訴訟狂だの正義の人だの何だのと法廷闘争自体をお気楽に罵倒している連中は、apj さんの闘争が巡り巡って、自分たちがそうやってお気楽なお楽しみとして他人の行為を匿名で揶揄する自由の保証に繋がっているということなど、ちっとも考えたりしないのだろうなぁとか思ったり。

勿論、広大な2ちゃんの世界では意義深いコミュニケーションもたくさんあることは事実なのですが、言論の自由が闘争抜きで確保されている当然の私的権利だと考えているような輩が後先考えずに自由を濫用することで、「下凡の民草には言論の自由なんて勿体ない」という暴論が幅を利かせるわけで、情報発信手段を寡占したいという動機を持つマスコミ人や為政者がネット言論全般を叩く口実を与えるわけです。

瀬尾さんと魂の双生児と呼ばれている某神楽坂の師匠などは、「愚民は物を言うな」と公然と発言して生温くヲチされているわけですが(笑)、誰もが公平に発言権を持ち情報発信するツールを持った社会が、面倒くさくてややこしい世の中であることは間違いないわけで、そういう世の中は厭だ、「選ばれた人々」が物を言うだけでいいんだ、と考える勢力が一定数存在することは事実なのですよね。

昨夜友人と電話していて話題に出たのは、「ナチスドイツは暴力革命で政権を奪取したわけではなく、形式的には飽くまで総選挙で合法的に政権第一党となり、他の政治組織を着々と合法的に弾圧して独裁政党となった」ということでした。この辺がドイツ民族らしいところと言えるかもしれませんが、まあ裏ではいろいろ血腥い不正な画策があったにせよ、一応形式的には一党独裁国家への筋道を法的に根拠附けているのですね。

これまでのapj さんの行いを揶揄したり罵倒したりして満足して玉子丼を喰って寝てしまうような連中は、たとえば2ちゃん的なる場が丸ごと違法化されたりしたときに初めて騒ぎ出すのでしょうが、それでは遅いんですね。まさに「私を弁護してくれる者は誰もいなくなっていた」ということになるわけです。

万人に言論の自由を許すことなどは百害あって一利なし、という極論が事実によって裏附けられ、公衆の間のコンセンサスとして罷り通ってしまえば、言論の自由は無前提に正しい権利だとは言えなくなります。社会的な正しさの基準とは、いつも多くの人々の間の漠然としたコンセンサスによって振れ幅が左右されるものだし、寧ろそう在るべきものだと思いますので。

或る種、自由を履き違えた暴論は許さないという健全な公衆感情に基づく社会圧が必要であり、ノイズ混入比を低減する抑止力として働く必要があるのですが、権利の正当性に悖る言説を圧迫する社会的圧力は常に「正しくない」言論弾圧の形でもたらされ、常に言論によって正当性回復の可能性が残されている必要がある、というのが、オレの論の倒錯的でわかりにくいところかもしれません。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月 1日 (木曜日) 午後 03時11分

こんにちは
黒猫亭さんには、以前、海外在住某ホラー作家についての記事を興味深く読ませていただきました。

今回の騒動は、ブログ炎上に止まらず、活字媒介に載り、実社会に広まるのではないかと予想しています。

青学の幼稚園、付属、系列校のPTA、OB、教会関係者、信者を含む利害関係人は相当な人数に上ります。
電話で抗議をした人は、一般人よりも関係者が多かったのではないかと考えます。

准教授を処分すべきかどうかは、おわび文を出す前に、大学内できっちり決めておくべきだったと思います。

世間を騒がせたというのは理由になりません。
処分しないと決めたのなら、ブログは削除せず、今までどおり、准教授の自由な表現活動を続けさせるべきでしょう。

大学が、それに耐えられるのかは疑問ですが。
(批判の矢面に立つ学長や学部長が、辞任したくなるのではないかと・・・)

高学歴で高収入、おいしいものを食べ、海外旅行を楽しみ、高級外車を乗り回す「勝組」の准教授が、なぜ、生活保護受給者などの「負組」を、かくも執拗に攻撃するのか?
公式HP内の記述と過去のブログ記事は、ほとんど読みましたが、さっぱり理解ができませんでした。

投稿: さびねこ | 2008年5月 3日 (土曜日) 午前 02時48分

補足:訂正します。(誤)活字媒介 (正)活字媒体

国立大学なら、明白な犯罪行為が立証されない限り、准教授を処分することはできないでしょう。
しかし、キリスト教に基づく崇高な教育理念を掲げる学校ですから、内部から厳しい処分を求める声が出てきて当然だと思います。

投稿: さびねこ | 2008年5月 3日 (土曜日) 午前 10時20分

>さびねこさん

初めまして。たしかハンドルに覚えがあるので、以前何処かでお会いしているかもしれませんが、ひょっとしてオレがROMしていただけのところかもしれませんので、記憶が曖昧ですいません。

某ホラー作家さんの件については、その後の続報が一向に聞こえてこないのが気になりますが、その代わり活発に文壇で活躍しているという話も聞こえてこないので、まあもう暫く様子を見守りたいと思います。あの一件がなかったかのように元気で活躍していたら、腹立たしいですからね。あのような騒ぎがあったのですから、監視の目もあるでしょうから新たな子猫殺しは発生していないと信じたいところです。

>>准教授を処分すべきかどうかは、おわび文を出す前に、大学内できっちり決めておくべきだったと思います。

>>世間を騒がせたというのは理由になりません。
>>処分しないと決めたのなら、ブログは削除せず、今までどおり、准教授の自由な表現活動を続けさせるべきでしょう。

仰る通りで、オレの意見としては学長は謝罪すべきではなかったと思います。この件に関しては大学側も被害を被ったわけですし、瀬尾さんの発言が建学の精神に反することや大学としてその発言内容を支持しているわけではないということを明言し、現在ブログに書かれた内容の事実関係を調査中であり、その結果大学に損害を与えていることが確認されれば厳しい姿勢で処断する、これだけアナウンスしておけばそれでよかったはずで、後半の無責任なお詫びが丸ごと邪魔ですね。

大学当局に監督責任を追及するというのであれば議論の余地はありますが、少なくとも大学組織が職員個人の責任を被ることが出来るとは考えられません。その意味で、大学当局は、組織の側もまた信用失墜をもたらす職員個人の言動で被害を受けた立場であるということを主張すべきだったろうと思いますし、その一方で職員個人の言論が飽くまで自由であることも押さえておけば、叩かれる筋合いはなかったでしょう。

職員個人がブログ上で何を言うのも自由だが、その自由な言論の結果として大学に損害を与えたのであれば、内規に則って厳正に処分する、このくらいがバランスというものではないでしょうか。また、ブログ上に大学当局に対する不正行為を示唆する記述があるのなら、飽くまで実態を調査確認した上で適切に処分する、こういうラインで良かったのだと思います。

一方、瀬尾さんを即刻解雇せよという世間の主張は、感情論であって現実的ではないとは思います。人一人を解雇して収入の道を絶つ場合には、かなり慎重にならねば不当解雇ということになりますし、不当解雇の是非を争うという名分の下に不潔に混濁した持論正当化の論陣を張られても不愉快が増幅するばかりです。

そういう意味で、現代社会は平安時代と同様になるべく致命的な処分を下さず段階的な処罰で対応するという傾向にはあると思います。殺してしまうと御霊と化して祟りを為すというのは、実は今でも通用する呪術的な論理なんですよね。

大本の光市の問題でもそうですが、処罰が厳正なものになればなるほどそれを正当化し得るほどの大きな根拠が求められるわけで、生命を抹殺する死刑よりはよほど軽いと言えますが、社会的な観点では解雇処分というのは死刑判決に相当しますから、よほど重い根拠が要求されます。社会通念として、雇用者が被雇用者に解雇という処分を下す場合には、かなり大きな根拠がなければ不当であるという感じ方もあると思うんですね。

学長さんが無思慮に謝った背景には、やはり少子化に伴う大学のサービス業化という傾向もあるのではないですかね。団塊世代の頃のように、受験者が殺到して倍率がとんでもないレベルだった頃なら、もう少し学問の府として毅然たる対処をしたんではないかと想像したりしますが、今はこんなことで大学のブランドイメージが下がってただでさえ苦しい経営が圧迫されるかもしれない、そういう弱みがあるのかな、と。

青学はたしか以前の法制度の改正でキャンパスの一部を厚木に移転して以来、オシャレな町場の大学というブランドイメージを喪失して苦しくなっているはずですので、あんまり世間に対して突っ張る余裕もないのかな、と少し思いました。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月 3日 (土曜日) 午前 11時38分

件のホラー作家ですが、「梟森」と名前を変えて文壇に再デビューしたようです。
最近も大手出版社から、新刊を発表しています。
言論活動は自由ですが、道徳心の欠如した人が書いたものが世に出るというのは、あまりうれしくないですね。

投稿: さびねこ | 2008年5月 4日 (日曜日) 午後 02時18分

>さびねこさん

情報ありがとうございます。ああ、なるほどたしかに。

http://www.kadokawa.co.jp/sp/200802-02/

「謎の覆面作家」「坂東眞砂子のままでは書き得なかった」というのが、何というか苦笑してしまいますね。梟森南溟ねぇ…大森南朋のパクリみたいな筆名です。

ただ、上記の紹介文を見ると新たな筆名のように読めますが、調べてみたら二〇〇四年から使っている筆名のようです。ということは、当時は坂東眞砂子であることを隠して作品を発表していて、今になってから正体を明かしたということですかね。

http://homepage2.nifty.com/te2/j/j56.htm

何にせよ、図々しいこと窮まりなしです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月 4日 (日曜日) 午後 03時18分

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