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2008年4月 1日 (火曜日)

情念の埋み火

前回のエントリーでは、香山リカ×菊池誠の「信じぬ者は救われる」を評した作家・瀬名秀明氏のブログのエントリーについて、没コメントを再掲するという横着をさせて戴いたわけであるが、今頃になって漸く当該書籍を読了したので、後れ馳せながら今回は一応纏まった内容のエントリーを起こそうと思う次第である。

先方のエントリー及びコメント欄のかなり膨大なテクスト群によって構成される、論点が拡散し錯綜した問題を論ずる都合上、時系列を行きつ戻りつしながらよろけ足で進めた考察なので、我ながら重畳的で未整理な文章になったと反省しているが、このうえ手を入れる余力も残っていないのでそのまま公開させて戴く。

まず、内容の如何はともあれ、十数年も前のことを当事者の実名を挙げて詰る形の瀬名秀明の物謂いは、やはりフェアではないということは押さえておくべきだろう。内容に関する判断は当事者しか識らないことであるから、本来判断を保留すべき事柄である。

瀬名秀明の言い分に対して当然菊池誠にも相応の言い分があるのが当然なのだし、瀬名さん(直接の識り合いではないが、知人の知人でありコメントの遣り取りを交わした相手なので、対面的な敬称で呼ばせて戴く)と菊池さんの夫々の言い分が出揃ったとしてもそれは双方の片口であるというに過ぎない。

今現在記憶している人間が限られる事柄を、一方の当事者が更めて言い立てるということは、所詮片口同士の水掛け論にしかならない。ネットの議論というのは、今、この場において、或る程度の拡がり(拡がりすぎると雑音が増大するが)を以て視られない限りは、フェアな落とし所には決着しないものなのだし、その意味では、パライブ刊行前後のネット状況において、一草の根BBSで起こった炎上事件の実態に関して、今現在当事者同士の間で言い分が対立した場合、妥当な落とし所は存在しない。

その時代性の事柄においては、すべての記憶に当事者性のバイアスが懸かっているという言い方が出来るからである。よしんば当時のログが残っていたとしても、当時のネット状況で謂えば「一バイトは血の一滴」の時代であるから、十分に言葉が尽くされた議論であるかどうかは保証の限りではない。つまり、どうしても語られた言葉に言外の文脈に依存する曖昧さが残っているはずである。

今は普通の一個人がネットの掲示板で発話する場合でも、「公の発話であることを意識しろ」「世界が視ているということを意識しろ」と言われるから、省略してもその場で通じることでも手続として一通り叙述するかリンクを掲示するというのが一般的な議論の作法であるが、一〇年前のネット状況では必ずしもそうではなかった。書き込む側の認識として、極端な話、その場のローカリティにおいて通じる言い方ならばそれで必要にして十分だったのであり、省略しても通じることまでわざわざ詳細に陳べることはマナー違反ですらあった。

オレの記憶で謂っても、あの当時はパソ通を始めたばかりの頃で、ニッパッパのモデムが最新、カプラーで通信していた人もまだいたくらいで、動画配信どころか圧縮画像を表示するにも長々と待たされ、一メガバイトの画像ファイルを落とすのに丸一晩かかった時代であり、ハードディスクも一〇〇メガバイト程度附いていれば天晴れハイエンドマシンだった時代である。

インターネットなどは民生機ではほぼ実用にならず、URLを手打ちで打ち込んでひたすらホームページが表示されるのを一服しながら待つ、スクロールしたら固まる、また読み直してひたすら待つ、運良くサブコンテンツのリンクをクリック出来てもまたひたすら待つという塩梅で、その程度の非力な回線とマシンスペックが常識だった時代だから、TTY通信だろうがインターネットだろうが、言葉を尽くした長文コメントは全体のリソースやトラフィックを圧迫するものとして、長いというだけで顰蹙されたものである。

まあオレの場合、長いと顰蹙されるのは今でも同じだが(笑)。

また、今でもそうだろうが、PCというのは五年やそこら型遅れの環境が現役で稼働していることも想定しなければならないもので、まして当時のPCは、用途が窮めて限られ高度な操作技術も要求された高価な先端機械であったのだから、現在のように気軽に買い換える生活に密着した「情報家電」ではなかったわけで、九〇年代初頭のレベルの環境でネットにアクセスしている人も少なくなかったわけである。

おそらくその当時の非力な回線とサーバで運営された私的掲示板というのは、2ちゃんと同様に可能な限り簡潔で省略の効いた短い文章が歓迎されただろうし、その当時のログは今の基準で読まれても当時の文脈が酌まれないだけ新たな誤解を招くことだろう。

つまり、あの当時の草の根BBSの炎上事件の本質的な実態など、それを目撃した当事者の主観的な記憶の中にしか詳細な意味性が保存されていないのだし、当事者の数だけ異なる見方が存在し、それしか史料が存在しないのである。

瀬名さんが、招かれたわけでもないきくちさんの掲示板に自ら進んで降臨したということは、瀬名さんご自身もハイスキルのベテランネットワーカーということになるだろうから、そういう事情はよくご存知のはずである。今更あの当時の話をして、当事者の一方の不当を詰っても、誰にもその論難の当不当や実否は判断出来ない。客観的な事実がどうであるかということが、不特定多数の読み手の間で共有されていないからである。

当事者しか語れない過去の事柄を今更ネット上に持ち出して一方の当事者を詰るという行為は、その意味で厳に慎重を期さねばならないだろう。ネット上で批判的に語り得る事柄というのは、飽くまで不特定多数の読み手が公平に判断可能で、自由に意見を言える事柄に限られるのである。

一応註釈するなら、当事者しか識らない事柄をネット上で語ること自体は問題ない。それは一種の歴史上の証言である。こういう事柄があった、こういう経緯であった、それ自体は過去に存在した現象に関する情報であるに過ぎない。それとは異なる記憶を持つ証言者が現れても、証言同士の詳細を突き合わせて合意点を探れば済むことであり、そのレベルにおいてたしからしい事実性は確保されると言えるだろう。

しかし、徹底して当事者性の文脈でしか語れない過去の事件を持ち出して、今現在の二者関係において一方を批判する行為は明らかにフェアではない。最初から過去の事件が対立軸として据えられているからであり、証言同士が対立した場合には、そのどちらがたしからしいかを客観的に判断することが窮めて困難だからである。

瀬名さんがこのように仰るのであれば、批判された当事者である菊池さんも「こちらの言い分はこうだ」と反論せねば公平ではないわけだが、前述の通りそれは二者関係における公平性が満たされただけのことで、第三者には事実性を検証しようのない水掛け論でしかない。そのようなデリケートなことを言い出して、瀬名さんは何を望んでいたのか、という話になる。

これはオレ自身の話になるが、オレもまた随分と容赦ない物謂いでこれまで数限りなく文芸作品を批評してきたわけで、十数年のネット歴の中ではネットの発話がきっかけになって何度かつくり手の方と直接お話する機会を与えられた。そこで感じたこととは、文芸作品のつくり手は、どれだけその批評に妥当性があろうが、自分が丹精込めて創り上げた作物を、他人様に得手勝手に語られるのは理屈抜きに不愉快だという当たり前のことである。

クリエイター諸氏には、「好意的な批評しか読まない」ということを口にされる方も多いわけで、実際批判的な意見を読んだとしてもそれが創作の現場にフィードバックされて有意義な影響を与えるかと謂えば、必ずしもそうではない。というか、大概の場合、受け手視点の意見というのは、つくり手の視点では何の役にも立たないものである。

そういう経験があるものだから、オレは文芸作品の批評においてはつくり手への提言というような意識は力めて持たないように心懸けている(まあ、或る人物を除いての話ではあるが(笑))。同じ受け手同士の間の読み解きの視点において有意義な批評を心懸けているわけで、「こういうふうにつくるのが良いだろう」と受け手が語って、「はい、そうですね」とその通りにして優れた作品が出来るはずなどはない。

そんなことが可能なら、今頃オレが文芸作品をつくっている(笑)。そういう意味で、創作の実践と受け手の読み解きというのは完全に別物であって、つくり手視点で謂えば批判的な意見など読んで不愉快になってモチベーションが下がるだけなのだから、最初から読まないほうがナンボかマシだという話である。

作品を講読した読者には作品を誤読する自由も許されているのだし、誤読に基づいて作家を批判する自由も許されている。これは、「それを禁じる手段がない」ということではなく、本来読者が作品を読み解く行為というのはそういう性格のものであるという意味である。作家はそれに対して「無視する」という身振り以外は許されていないし、逆に謂えば作家は読者の論評なんか無視する権利があるという言い方も出来るのである。

作家が小説を書く、映画監督が映画を撮る、俳優が役柄を演じる、その実践の現場に対して受け手がああだこうだとごちゃごちゃ口出し出来るものではないように(後から文句を言うのは自由だが、注文を附けて随わせることは出来ないだろう)、一旦世に出した作品を受け手が鑑賞しそれを論評する実践の現場において、つくり手の側がああだこうだと注文を附けられるものではないのである。

作家が読者の読み解きや論評にくどくどと注文を附けたり反論するというなら、ではあんたらは読者の注文を全部聞いてその通りに小説を書いてくれるとでも言うのかという話になるわけで、文芸においてそんなことはあってはならないのである。文芸における作家と読者の対等性は、そのような理路において成立しているからである。

そういう意味では、そもそも十数年前の瀬名さんが特定少数の読者同士の間の語らいに割って入って反論したこと自体が無益で筋違いな不作法だったと思うし、そこでたとえば菊池さんが瀬名さんの言い分を受け容れたとしても、瀬名さんの気が納まるというだけで、それ以外の何の意味もなかっただろうと考える。

実際には、そのとき菊池さんが瀬名さんの言い分を受け容れなかった為に今現在に至るも瀬名さんの気は納まっていないということで、職業作家が素人の読み手の語らいの場に踏み込むという異例の不作法が行われた結果、作家の側に十数年を経ても解消不能な感情的蟠りが残ったということで、大変素晴らしい成果である。

あの当時は、たしかに限定された対話の場に作家や専門家が降臨するということが頻繁に行われていたようだが、自作に対する批判に対して作家自身が自ら反論するというのは非常に無益な行為であり、瀬名さん自らそれを証明された形になる。

そのような異例のコミュニケーションに瀬名さんが何らかの特別な可能性を視られたのであれば、その対話を有意義に進行させる責任はそんな異例な対話を仕掛けた瀬名さんの側にあったはずで、これは自然科学や法律における証明責任に関する理路を参照すれば明らかである。その当の責任を負うべき立場の瀬名さんが、当時の騒擾を回顧して一方の当事者の姿勢を詰るとか批判するというのも間尺に合う話ではない。

瀬名さんのご言い分を視る限り「菊池さんがちゃんと受けてくれていれば有意義な議論になったはずなのに、そうしてくれなかったから不毛な罵り合いになった」と言わぬばかりの不満顔であるが、菊池さんの視点に立てば「何だその一方的な理屈は?」という話で、迷惑至極な言い懸かりである。

ただ、この事件に関しては、菊池誠という人物が当時SFファンダムにおいて名前のある所謂BNFだったことが少し話をややこしくしていて、当時SFの翻訳や書籍の解説を手がけたこともあったということであるから、新進作家・瀬名秀明対BNF・菊池誠の論争というのは一見して公的な性格を持っているようにも見えるが、公開のメディア上で行われていない以上、それはやはり私的な性格の対話に過ぎないし、内容が自作の酷評に対する反論というのでは論争自体が無意味である。

このベストセラー書籍が売れた膨大な数だけ全国で賞賛と酷評が語り合われていたわけで、そのかなりの部分が誤読や不当な論難、逆に誤読に基づく勝手な高評価だったりするわけだが、それに逐一作家自身が反論して廻るのか、自作はこう読むべきだと語って廻るのか、という話になる。

だから、作家は請われもしないのに一々自作を読者に講釈したり反論したりすべきではないのである。全国で何万、何十万、何百万とパライブを語った読者が存在したはずなのに、何故瀬名秀明は菊池誠の酷評だけは許せなかったのかという話になるのだし、何故読者の選り好みをするのか、という不公平を問われても仕方がない。

作家という職業的立場は、より多くの人々に作品を読んで貰うことだけを公的に望み得るのであって、不当な誤読をするなとか、酷評するなとか、正確に精読して欲しいなどと公に望むべきではないのである。それはつまり、お金を出して自著を買った読者に対して特定の読み方を強制する行為になるからで、そんなことは作者自身であっても読者に対して強制出来る筋合いではないからである。

読者の側から「瀬名さんはどういうおつもりでこういうふうに書かれたんですか」と質問されて初めて、それに対する一ファンサービスとして「私としてはこういうつもりで書きましたが、それをどう読むかは読者の自由です」と応えるのが模範解答の建前論である。作家の中には、作品の意味性は作品をして語らしめるのが筋であるという頑固な信念を持っている人もいるから、「どう読むべきか」「どういうつもりで書いたか」という種類の質問に対しては一切応えないというポリシーの人もいる。

なので、オレとしては、瀬名さんの言い分通り菊池さんが当時見当はずれの誤読に基づいて瀬名さんを酷評していたとしても、それは瀬名さんご自身が反論すべき事柄ではなかったと思うし、何故菊池さんたちの論評にだけ反論したのかという釈然としないものを感じる。繰り返すが、当時の非力で狭いネット世界に限って言っても、あのくらい売れた作品に関して、糞味噌の酷評が他の場所でもなかったはずなどはないのである。

菊池さんの掲示板の嘲笑・罵倒が許せなかったのであれば、他の掲示板や当時最大のパイを誇った商用ネット上の論評はどうなるんだという話になるし、菊池さんが一読者という存在感を超えたBNFだから噛み附いたのかという話にもなるだろう。

そういう意味では、菊池さんに反論するなら、可能な限りいろいろな場所で読者の酷評に反論すべきなのだし、そもそもそんなことは作家という職業的立場からすれば褒められた姿勢ではない。読者の反響に一々かかずらうくらいなら執筆活動で反撃すべきだというのが筋だろう。

誤読や酷評が気に入らなかったのであれば、次作において可能な限り妥当な読み方をされるように、もしくはそのように読む読者のマッスがそうでない読者のマッスを上回るような描写を心懸けるべきなのであって、一々特定の読者に噛み附いていたら作家という職業など成立しない。そもそも、瀬名秀明の著書を酷評したら本人が出てきて文句を言ってくるというのでは、ハッキリ言って圧力を掛けて批判を封殺しているのかという話になるだろう。

その意味で、瀬名さんは作家一般が読者に反論しない理由を誤解されている。

ただし、これは決して、この一件に関しては、瀬名さんが悪くてきくちさんはちっとも悪くないと謂っているのではない。物事には必ず具体的な文脈というものがあり、その文脈次第では、後から視て一見筋違いに見えることでも相応の理由があったり、悪くないように見えても何らかの落ち度があったりするものである。

しかし、それは飽くまで当事者同士にしかわからないことなのだから、両者の間で合意が得られた「解釈」こそが事実である、という話になる。今現在瀬名さんのこのエントリーを読んでいる方々がすべてその事件を直接目撃していたのであれば、それなりに話は通じるということになるが、その一方では今更事新しくこの一件を語り出す必要も薄い。実際には殆どの読み手がその事件を識らないのだから、何度も繰り返す通り片口対片口の水掛け論にしかなりようがない性格の事柄である。

論理的に謂って、この瀬名さんのテクストは菊池さんの対抗言説によって相対化されてしまい、絶対評価を可能とする第三者的な判断基準が存在しないという原理的な性格があるのだから、事実性の次元で瀬名秀明が正しいのか菊池誠が正しいのかまったく判断しようがない。

それでも敢えて水掛け論を仕掛けるのであれば、当時どのようなことが起こったのかという事実性とは微妙に遊離した問題性にシフトするわけで、つまり今現在の時制において当時の一件に言及する互いの片口の言い分同士を比較検証して、第三者がその言い分の当否を判断するという話になる。要するに、過去の事件自体を裁くのではなく過去の事件に関する現時点における言及を裁くという話になるわけである。

そのような種類の問題になってから「よく識りもしない奴が口を出すな」というのは通らない話である。そのような昔話を今更持ち出すということこそが、不特定多数の「よく識りもしない奴」に対して、今現在の言及に対する論評を委ねるという明示的なアクションになるからである。

前回のエントリーを書いた後、結局オレは瀬名さんのブログで直接コメントを書き込んだのだが、それは要するに「あなたの言い分に基づいて解釈すればこういう意味にしかとれないのだが、それでよろしいですか」という意味合いのものである。それに対しては、上記のようなオレの前提や憶測は事実と違っているから答えようがない、という旨のお返事のみが返ってきた。

だったら・何故・憶測でしか語れないことを・今更・言い出したのか?

話はそこに尽きるだろう。広く一般に周知されているわけでもない昔話を、一方の当事者が片口で語り出すということは、事情を識らない第三者はその言い分だけを聞いて当否を判断して構わないという意味になるのではないのか。それを今更、昔の事情を直接識らない者の意見を「憶測」呼ばわりするのなら、最初からそんな「憶測」でしか解釈しようのない主観的な昔話を言い立てるべきではなかっただろう。

オレは瀬名さんと菊池さん双方の言い分を聞いた上で、両者の事実認識の間でおおむね齟齬のない事柄だけを「事実」と受け取り、その「前提」においてご意見を陳べさせて戴いたわけであるが、その「前提」認識において陳べた意見の筋道が間違っているというのならまだしも、「前提や憶測事実には思えないので答えようがない」というのであれば、あれだけ詳細に語られたご言い分を伺っても、まだ第三者には把握出来ないような複雑怪奇な「事実」を持ち出されて、その「事実」に基づいて一方の当事者を批判しておられるということになる。

つまり瀬名さんは、今回のエントリー全体で、第三者には実否や当否を判断不能な事柄を根拠に一方の当事者を批判し、相手の今現在の刊行物を批判されたということになるわけで、さらには、ご自分の言い分から導き出される第三者の事実解釈をも「憶測」として退けられるということなのだから、それが批判相手に対しても第三者の読み手に対してもフェアな振る舞いであるとお考えなのであれば、瀬名さんのフェアネスに対する考え方がサッパリ理解出来ないと言わざるを得ない。

当事者の反論にも第三者の反論にも、何ら具体的な根拠を明示することもなく「自分が正しくて相手が間違っている」と言い張られるのみというのでは、誰に向けての発話だかまったくわからない、とんだゴルディアスの結び目だという話になる。

さらに瀬名さんは、

ジャンル性について考え方のフェーズが個々人で異なっており、それはコミュニケーション論につながるという話は述べてきました。こちらは広がりのある重要な課題だと私は考えていて、すでにこれまでの議論をもとに多くの講演・著作等で話を展開しています。ここでコメントしていることは、最初から一貫して、こちらの話です。

というふうにお答えになったわけだが、問題の在処を認識しておられないとしか言い様がないだろう。おそらく、大多数の人々がこのエントリーを読んで問題だと感じているのは、そのような瀬名さんの思想に基づく批判がこれまでの一連の活動と整合しているか否かや、その思想自体に妥当性があるか否かではないし、野尻抱介さんやオレのコメントはそのような話に関する言及ではない。

嘗て一読者としての菊池誠が職業作家である瀬名秀明の著作に対して酷評し嘲笑した昔話を今更片口で言い立てて、職業作家という立場から批判することの倫理的なフェアネスの問題を語っているのである。瀬名さん個人の思想がどうであるか、その批判がそのような思想に基づいているかどうかなどはまったく関係ない。

そういう一般論が論じたいのであれば、菊池さんが言及してもいないパライブ論争の昔話に触れる必要はさらさらないはずだが、瀬名さんは何でもかんでも必ずパライブ論争を引き合いに出すのだし、結論の部分では必ずパライブ論争においてご自分が正しかったという話にしかならない、それは第三者視点では整合している筋道ではないし、それが菊池さんに通じている節もない、それはおかしいのではないですかという話である。

この問題を「最初から一貫して、こちらの話」だと考えているのは瀬名さんお一人だけなのであって、菊池さんも含めた他の大多数の読み手は、この状況において瀬名さんがそんな話をすることが妥当であるかどうかを問題にしているのである。

その行いが第三者から視て倫理的にフェアであるか否かの問題であって、一方の当事者である菊池さんは、「最初から一貫して」瀬名さん個人の思想に基づくご意見には何ら触れておられず、作家対読者の一般則上の関係性の問題や客観的な事実関係の問題として捉えておられるのだから、瀬名さんが飽くまでご自身の個人的な思想上の根拠を持ち出されても何の意味もないだろう。

さらに言えば、パライブ刊行当時にSFファンダムでは知名度があったとは言え、マスメディア的な文脈では精々セミプロでしかなかった菊池誠が、一〇年前のネット状況における内輪の掲示板でベストセラーを酷評し作者を罵倒したからと謂って、社会全体に対する影響など皆無に均しいわけだし、そもそもその前提における私的な言及であるわけだが、「この分野」の第一人者と目されている瀬名秀明が今現在のネット状況において自身の公式ブログ上で「一学者の対談集」を不当に批判することは、公の公論であり前者とは比較にならないほど大きな影響力を持っている。

そもそもパライブ論争は、最初から社会とは切れた部分で交わされた私的対話であったということはすでに陳べたが、作家・瀬名秀明が自身の公式ブログで自身のフィールドに属すると一般に目される特定の書籍を批判するという行為は、社会に対して大きな開口部を持っている。

瀬名さんがご自身のこれまでの活動に何らかの社会的影響があると信じるなら、その影響力の範囲内で不当な言説を公に流布させたことになるのであり、それはパライブ論争の際の菊池さんの行いとは完全に似て非なるものである。

そして、社会の視る目としては、ニセ科学・スピリチュアルという非合理をテーマとして扱った書籍を論じるのに、理系作家の代表選手である瀬名秀明ほど恰好な評者はいないというふうに視られるだろう。

そして、世間では未だに価値判断による検閲を経ていないデジタルメディアに対して価値的な検閲を通過した活字メディアが優位であると視られているのだし、その意味で、ネット上の議論を主軸に展開されてきたニセ科学批判の活動は、活字メディアのそれに比べて軽視されてきた嫌いはある。たとえばメディア上の現象として、水伝なりゲーム脳なりの書籍がヒットを飛ばせば、その到達距離や伝播の範囲は、残念ながらネット上の批判的言説のそれとは比べものにならないほど大きいものである。

そのような状況において、活字メディアで第一線のインタープリターとして活躍する瀬名秀明が菊池誠の書籍を評するということは、自然科学の諸問題を読み解き得る専門的リテラシーを具えた活字メディアの論者によってニセ科学批判がどのように評価されるのかという関心を惹くわけであり、それによって鼎の軽重が問われる、という観点で瀬名さんの書評を視る読み手も少なくはないはずである。この書籍を語る瀬名さんの言葉は、菊池さんの存在や活動の実態を識らない読み手に対しては、割合強い説得力を持って響くわけである。

勿論、書評部分のみを抜き出して視れば、瀬名さんがそれほど変なことは言ってはいないことはたしかである。十分にニセ科学批判の議論の積み重ねを踏まえたご見識とは思えないが、この対談集に対して瀬名さん固有の思想性の文脈で希望を陳べられただけであるとは言えるだろう。しかし、このエントリーを一読した人々に最も強い印象を与えるのはその部分ではなく、「菊池誠という人物は、過去に瀬名秀明とその著作を不当に嘲笑・罵倒した」という、瀬名さん視点の個人的なルサンチマンにべったりと彩られたネガティブな人物観である。

それさえ持ち出さなければ、菊池誠と瀬名秀明の夫々の活動における目的性や思想性の違いとしてこの書評を読み解くことも可能なのだし、そのコメントの応酬のプロセスで菊池さんがこれまで通過してきた議論の総体に瀬名さんが関心を持ってくだされば、それこそ穣りのある対話と成り得ただろう。瀬名さんがこれまで科学の光の部分を強調する活動を進めてこられたのだとすれば、菊池さんは影の部分と真剣勝負を演じてこられたわけで、影を識らずして光を語る危うさが補完される事態も考えられただろう。

しかし、それに際して殆どの読み手が識らない昔の因縁話を持ち出して、自身を正当化し相手を不当と詰る言説を長々と詳細に語った為に、その評言は別の意味合いを持つようになってしまう。つまり、瀬名秀明視点における当該書籍に対する希望は、瀬名さんが読み手に与えた著者に対する不当な人物観の故に、読み手視点ではこの書籍の価値的な欠陥として見えてくるわけである。

さらには、その書評の結論として一種の「言い切り」としての具体的提言を求める瀬名さんの評言は、当該書籍が訴えている問題性と真っ向から対立するものであり、そのような天下りの明快な言い切りを安易に求める心性こそがニセ科学の温床となっているとする本書の問題提起を無視するものである。

そういう意味で、瀬名さんの大本のエントリーが剰りに一方的で不当なものであった為に菊池さんは反論せざるを得なくなったわけだが、こういう挑発を行ったのが瀬名さんの側である以上、パライブ論争の際と同様に議論を有意義に進行させる責任は瀬名さんの側にあったはずである。それなのに何故か瀬名さんは「最初から一貫して、こちらの話」を語るばかりで、ご自分が菊池さんに言いたいことだけを一方的に話しておられるわけである。

第三者から視ても、それは剰りにも一方的に過ぎるだろうと感じられるのが当たり前だから、瀬名さんの言動に対する批判は瀬名さんの言説の文脈を離れたメタ的なものにならざるを得ない。それに対して、飽くまでご自身の文脈上の論理で「事実とは違うから答えようがない」と応じるのでは、第三者に対しても一方的にご自分の文脈の問題性を圧し附けているということである。

これはつまり、喩えは悪いが、暴力を働いた者に対してその倫理的・法的責任が問われる場面で、その暴力の正当性を支持する個人的思想を語るようなものである。たとえば相手にその暴力行使に対して同じ土俵において受けて立つ、或る約束事においてその文脈上で相戦うという合意があるのならば、それは一種の闘技の体裁を為し得るだろう。

しかし、そのような合意なしに殴りかかれば、多くの第三者が共有している倫理の規範において、それは単なる一暴力として裁かれるということになる。

たとえば第三者のオレが、瀬名さんと菊池さんの議論の当否を判断する場合、瀬名さんの仕掛けたい議論は飽くまで菊池さんの側の合意がなければ最初から成立するものではないのだから、菊池さんが合意せず一般則上の問題として受けている以上、菊池さんの言い分のほうが正しいだろうという判断になる。

これに対してオレがコメンタリーするならば、菊池さんは一般則上の問題として瀬名さんの発話を批判しておられるのに、何故瀬名さんは相手の合意もないのに一貫してご自分のしたい話ばかりを一方的にされているのか、という話になるだろう。普通、このような場合に論じ合うべきは、彼我の間で共有されているべき条理であり、それはつまり単なる一読者と一作家という関係性一般に働く常識的な条理である。

だからオレもその条理に基づいて意見させて戴いたわけだが、瀬名さんはそれに対してご自分のしたい話をわかっていないということで門前払いを喰わせたわけで、つまり、当事者にも第三者にも通じない、ご自分にしかわからない、ご自分だけの動機に基づくお話を延々続けておられるわけである。

瀬名さんと菊池さんの議論を一言で要約すれば、瀬名さんは何故か相手が合意していない事柄を当然の前提と踏まえて一方的にご自分の思想を語っておられるのだし、その思想に基づいて過去の事件を裁いているのだし、菊池さんは一貫して、そんな合意などないのだからそういう前提で話をされても困る、自分とあなたの間で共有されているはずの普通の物差しで話をしてくれないか、というようなことを仰っているわけである。

そして、そういう議論を傍観している第三者は、「瀬名さんと違った前提や憶測」で物を言っても聞く耳持たないのだから今更割って入ろうとは思わないが、現在の姿勢から遡って、十数年前にもこれと同じような行き違いがあったのではないか、と「憶測」することだろう。つまり、当時も瀬名さんは、菊池さんが受け容れてもいない前提において一方的にご自分のしたい話をされたから衝突したのだろうと考える。

何故か瀬名さんは「菊池さんならわかってくれるはずだ、なのに何故わかってくれないのか」という、普通に考えれば循環的に矛盾した思い込みを抱いているように見える。つまり、オレたち傍観者にどうしてもわからなかったことの正体というのは、現時点における瀬名さんにとってのパライブ論争の実相とは、菊池さんが「罵倒・嘲笑している読者」だから抗議したのではなく、「菊池さんが罵倒・嘲笑しているから」抗議したのだということになる。

「罵倒・嘲笑」が強調される問題ではなく、「菊池誠が」に重点のかかる問題だったということになる。だからオレが作家と読者の関係性の一般則の文脈で批判しても、それは前提が違うから答えようがないという話になるのではないか。瀬名さんにとっては、パライブ論争というのは最初から瀬名秀明と菊池誠のサシの対話上の問題だったということになるし、その一方、菊池さんの認識では、職業作家と一読者の関係性の問題だったということになる。

瀬名さんは「自作を罵倒し自分を嘲笑した一読者」として菊池誠に議論を仕掛けたのではなく、飽くまで菊池誠という個別の論客と自作を軸に論じ合いたかったのだということだろうし、一方の菊池さんはそれを「自分が罵倒・嘲笑した作物の作者からの抗議」としてしか視ていなかった、そこに行き違いがあったということなのではないのか。

そういうふうに解釈すれば、何故他にもあった擬人化論争には反応せずに、一掲示板上の菊池さんの酷評のみを相手に論争を仕掛けたのか理解出来るし、それが職業作家と一読者の関係性の文脈において問題を含む行為であるというご自覚がないことにも一応の理屈は立つ。瀬名さんにとって菊池さんというのは単なる一読者ではなく、瀬名さんと有意義で発展的な議論を交わすことが可能な特別な論客なのである。

他の一般読者がどう読もうがどう罵倒・嘲笑しようが格別それに抗議するつもりなどはないし、それが読者の自由であることなど先刻承知なのだから、素人から職業作家としての心得を講釈されてもお門違いだよ、相手が菊池誠だからこういうふうに言っているんだ、というふうに解釈すれば、瀬名さんのコメンタリー姿勢が理解出来るだろう。

惜しむらくは、そんなことは第三者はおろか、お相手の菊池さんにすら通じない話だということである。瀬名さんが菊池さんのことをどう考えているかなど、オレや菊池さんを含めて瀬名さん以外の人間には識りようのないことなのだし、それは「そう解釈すれば無矛盾で瀬名さんの言動が説明出来る」というだけのことで、やっぱり「憶測」である。瀬名さんが菊池さんのことを特別視しているのだとしても、それに勘附いていない第三者は、普通は作家対読者の関係性一般の問題と解釈するのが当たり前なのだし、瀬名さんの読者観一般の問題だと解釈するのが最も自然である。

瀬名さんにとって菊池さんは特別な読者だという前提がなければ、誰でも一般論としてこれを読み解くのが当たり前なのであり、瀬名さんはそのようなご自身の菊池誠観を明言していないのだから(というか明言するような性格の問題ではないし)、すでにいいだけ誤解を蒙っているのだと断言しても好い。つまり、「瀬名秀明は意図しない読み方をされると激怒して抗議する作家である」という誤解である。

つまり、最初の最初から菊池誠唯一人が目的だったのだから、メールを送るなり面談を申し込むなりして、菊池さんとサシで直接対話していれば何の問題もなかったということである。いきなりご自分の公式ブログ上のエントリーとして挑発的な物謂いで個人的な喧嘩口論に過ぎない昔話を暴露し、菊池さんを誘い込むようにコメント欄を開放したのがコミュニケーションのやり方として幼稚だったということである。

こういうふうに挑発しなければ菊池さんが乗ってこないと思ったのかもしれないが、通常の穏健な手段で対話を呼び掛けて実現しなかったとすれば、それは畢竟それだけの縁だったという話でしかない。瀬名さんが、こんなつまらない子供じみたやり方さえなさらなければ、それなりに有意義な遣り取りが期待出来たのではないかと思うと残念でならない。おそらく、今の菊池さんなら、瀬名さんが極普通に自著を採り上げて書評を書かれたなら、必ずコメンタリーしてきたはずなのだから。

そして、菊池誠と瀬名秀明の間で発展的な対話が持たれていたら、当該書籍で語られているようなニセ科学やスピリチュアルを盲目的に受け容れる不特定多数の心性に、一般人への科学教育や情報発信という源流の部分でどのように対処するのか、そのような視点の問題性にも議論が繋がったことだろう。

おそらく、菊池さんや香山リカ氏が抱えているような悩みというのは、そのような心性が社会現象として現前した段階で対処するだけでは解消不能なのである。不特定多数の人々が理性や合理というものに根本的な信頼を持って受け容れねば、これらの非合理は決して解消しない。

それ故に、菊池さんが最下流のポジションですでに現前した非合理と真剣勝負を演じるだけでは足りないのだし、たとえば瀬名秀明と菊池誠がぶつかり合うとしたら、科学教育や情報発信という最上流に近い位置にいる瀬名さんが、流れの末端で現前しているそのような影の部分の発生に対して遡ってどう対処するのか、それとも視て視ぬ振りをするのか、そういう身振りが問われてくるのだと思う。

オレ個人の感想としては、この書籍を読んだ瀬名さんのご意見が「救いの部分がないではないか」「何も言い切ってはいないではないか」というものだったのは非常に遺憾である。それは末端で現前した非合理に対して、それが最上流に関与するご自身の立ち位置にも強く投げ返されるような、人と自然科学の関わり方全体の問題性であるという認識がないということであり、瀬名さんのニセ科学問題に対する他人事のような突き放し方には、正直言って一種の知的な鈍感さすら感じた。

本来この問題に関する「救い」とは、瀬名さんの立場により強く期待される種類のものである。「水伝を否定するなら反証実験をすればいいではないか」「それで実験してたしかめるという考え方が根付けばいいではないか」というような瀬名さんの語る考え方では、理系の学問に進む人々以外の多くの人々は「科学っぽい道具立て」に関心を持つだけで、自然科学が合理によって支えられているという部分がすっぽり抜け落ちてしまうのだから、これはニセ科学の発生原理そのものである。

さらに言えば、ニセ科学批判の論壇においては、この問題について一貫して「水伝は科学的な実験によって検証出来ないし、すべきでもない」という立場を採っているわけだが、瀬名さんの乱暴な反論はその理路すら踏まえていない。「すべきではない」という「べき論」の範疇だけならまだしも、「出来ない」という能不能の問題に対して剰りにも無責任な放言と言えるだろう。つまり、瀬名さんは「出来ないしすべきでもない」というニセ科学批判側の主張の理路をまったく理解していないし、調べてもいないとしか思えないのである。

瀬名さんのこのエントリーで最も問題だとオレが感じるのは、瀬名さんは基本的にニセ科学問題にも菊池さんの活動にもこれまでの議論の蓄積にも一切興味はないが、何故かご自分の考え方を菊池さんが理解して受け容れることに対してだけは異様な情熱を抱いておられるということである。つまり、言い方は非常に悪いが、対話における関心の方向性が剰りにも一方的で、恋愛妄想的ですらあるということである。

おそらく瀬名さんは、菊池さんの見識や知性、人格やパーソナリティに対してはかなり強い敬意もしくは憧憬を抱いているのだろうし、この一〇歳年長の手強い論客を自身のロールモデル的に視ているのかもしれない。ご両人の経歴を視る限り、そういうことがあっても不思議はないだろう。そのような一目も二目も置く相手に、自身の考えや活動を理解し受け容れてもらいたいと強烈に望んでいるかにも見える。しかしその一方で、菊池さんが行っている活動やその問題性の捉え方、さらには論の総体には一切興味も関心もないように見える。

つまり、瀬名さんの一連の言動を整合的に捉え得る「仮説」というのは、瀬名さんは菊池さんという特別な因縁を持つ論客にご自分を認めて貰いたいという窮めて情実的な動機に基づいて一連の論難を仕組んだという凡庸な「解釈」なのである。

デビュー作を糞味噌に嘲笑・罵倒されたことで、瀬名秀明は一度菊池誠によって「全否定」されたと感じているのだろうし、それを挽回し認めさせたいという情念が今に至って埋み火のように瀬名秀明の知性を発火させ、昔の悲劇を再演させたのだろう。それは当代の有能な一知性にとって無益で愚かしい情念の発露でしかないし、その特定個人に対する思い入れは相手にとって不当で傍迷惑なものでしかない…というか、そのような性格のものとしか成し得ていないと謂うべきだろう。

瀬名さんが菊池さんに抱いているような思い入れが、ご両人や夫々の活動領域にとってプラスに働く局面など幾らでも想定可能だからであり、単にそれが現状の瀬名さんのやり方では決して実現出来ないというだけの話だからである。

この上、オレのほうから言えることというのは一つである。

瀬名さん、どうしても話し合いたい人と腹を割って話し合いたかったのなら、ご自分の流儀や思い入れを一方的に圧し附けても絶対うまくいきませんよ。瀬名さんの一連のご発言には、ご自分が菊池さんとどんな話をしたいのかという希望ばかりが熱っぽく捲し立てられていて、菊池さんがどのような対話を望んでいるのか、また瀬名さんとの対話など望んでいないのか、そういう視点が欠けているのではないですか?

そのような冷静さを欠く対話姿勢は、瀬名さんご自身にとって危険であるばかりではなく、菊池さんが実践しておられる活動にとっても不本意な影響を招くでしょう。その動機が瀬名さん個人の菊池さんに対する思い入れだとすれば、そう謂うのを世間では破壊的なコミュニケーションと謂うのではないですか?

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コメント

たぶんお見通しだろうと思うのですが、この「個人から個人への発話」と云うニュアンスが匂っていたあたりが、ぼくがこの件に言及するにあたってなんだか歯切れが悪かった理由のひとつでした。

個人としての瀬名秀明、個人としての菊池誠に言及するときは、ぼくも「個人としてのpooh」でないと多分筋違いだし(と云うか「ずるい立場をとっている」ことになるし)、でもってその筋の上に乗っかってぼくが発話すべきことって本来なかったりしたわけでしたから。

投稿: pooh | 2008年4月 1日 (火曜日) 午後 10時36分

>poohさん

たしかにその辺の事情は察しておりました。poohさんの口ぶりでは、パライブ論争の実情を目撃した当事者であるはずなのに、当時の詳細について一切言及がないこと、このお二方と個人的な接点があることなどから、poohさんがこの件に言及するとなれば当事者としての発話になるだろう、それ故にこの件に関する言及を控えておられるのだろうと考えていました。

で、たしかにこの一件に関しては、何が問題なのかと言えば過去の事件の当事者同士の言い分が対立していることであって、本文で陳べたように、事実性の次元では最早落とし所が存在しないわけです。そこにもう一人当事者が加わったとしても、それは事実性を判断する材料が増えたというだけで、過去の事実が相対化されているという本質自体に何ら変わりはない。原理的にはpoohさん以外の当事者が現れればまたその証言をも加味して事実解釈が変わるというだけで、「あのとき何があったのか」という喪われた客観的な事実認識が明らかになることは決してないわけですね。

つまり、この問題に関しては当事者性の次元では解消しようがないわけで、幾ら当事者が増えても、過去のパライブ論争が再現されるだけだということになります。

もっとわかりやすい言い方をすれば、この論争にpoohさんが加わっても、個人としてのpoohさんが個人としての瀬名さんと菊池さんのどちらの味方をするのかという、問題の本質とは無関係なベタな話にしかなりようがない。この問題をメタ的に語るとすれば、飽くまで非当事者性の次元からアプローチするしかありません。

poohさんが大略このように考えておられるのではないかというのは、たとえばオレがそちらのブログでこの件に関してコメンタリーする場合、poohさんにとってその話は不愉快じゃないかという気はするのですが、捨て置いて好い話でもないわけです。だからこそ書評部分のみとは言えエントリーを立てて言及されたのだろうし、積極的に意見を述べることはなくとも、第三者の議論に対しては「その話はこの辺で」と止めることもなかったのだろうと思います。

菊池さんご本人が受けてくださったので、そちらでの対話も続いたわけですが、遺憾ながら瀬名さんの書評自体に問題があるばかりではなく、その後のコメント欄における瀬名さんの対処にも大いに問題があったわけで、エントリーを起こした時点での一過性の感情の問題ではなく、もっと根深く拡がりを持つ持続的な問題であることが露呈してしまいました。

パライブ論争の時の菊池さんに対する引っ懸かりが、ついポロッと出てしまったという簡単な話ではなかったわけです。問題がこれだけ拡大してしまった以上、何某かのコメンタリーは必要なわけですが、poohさんが個人性の関係の故にこの問題に対してメタ的に言及し得る立場にはないというのは理解出来ます。その一方、この一件に関して何某かのコメンタリーが必要だという動機を、poohさんほどお持ちの方もおられないのではないかと思います。

それに代わって、というほどのご大層な意識はないですが、自嘲的に謂うなら、状況の推移に随って問題が窮めて「黒猫亭向き」の性格を帯びてきて、問題性に呼ばれているような印象を覚えたことは事実です。最初はオレとは直接的な関係の薄い問題性だと認識していたのですが、瀬名さんのコメントの展開が、これまでのオレの文芸の受け手としての立場からすれば黙過出来ない方向に転がっていったということが、動機としては大きかったと思います。

表芸の文芸批評の観点から謂えば、作家が読者の読み解きに特権的に口出しをするというのはかなり重大な問題性なんですね。当ブログの言説の八割くらいは文芸批評に関係する記事で占められているわけですが、その根底にある信条や原則に反する由々しき作家的姿勢と感じられたわけです。

まあ、こんなことはまず在り得ないですが(笑)オレが一人の受け手として自由に語った論評に対して、もしもその作品の作家や監督が腹を立てて抗議してきたとしたら、オレは全力でその行為自体の非を鳴らし批判するでしょう。

だったらあんたらは、受け手の注文通りに作品をつくってくれるとでも言うのか、そうでない限り受け手の「勝手な」論評に文句を言うな。受け手の意見なんか一切聞かずに勝手に作品をつくる自由がつくり手に許されている以上、それをどういうふうに読み解くのも受け手の勝手ではないか、そういう理屈でつくり手と受け手は対等性を保証されているんじゃないのか。

これは文芸作品の送受においては、一作家が昨日今日思い附いた思想なんかでは小揺るぎもしない歴史的根拠のある一大原則なんですね。瀬名さんがオレの考えたように菊池さんという一人の読み手を特別視しているのだとしても、菊池さんの意識において単なる一読者として瀬名さんの作品を論評したのであれば、その論評は作者によって批判されたり抗議されるべきでは決してないのです。

ことが瀬名秀明と菊池誠という個人名で表される特定論者同士の議論となる為には、菊池さんの側に一読者という一般性の立場を放棄し、作者という特権的な立場を離れた瀬名さんと対等の個人同士として議論を交わすという合意が「必ず」必要だったのです。

しかし、この一件においては、菊池さんは昔も今も飽くまで一読者としての立場を堅持しておられるのですから、瀬名さんがどうお考えになろうと、瀬名秀明という職業作家が一読者の論評に対して理不尽な抗議を加えた、という大枠の事実性は揺るぎません。

或る種、ニセ科学批判の文脈における公益性の問題は、そこから芋蔓式に繋がってきたものだとすら言えるでしょう。オレは瀬名さんの著作や社会的な活動をそれほど詳細に識っているわけではないですから、瀬名さんの活動全体を全否定するものではないですが、この件に関しては全然ダメと言わざるを得ません。

瀬名さん自身の作家としての見識を貶め、これまでの科学者及びインタプリタとしての活動の信頼性を貶め、併せて菊池さんのこれまでの活動に対しても、無視出来ないネガティブな影響を与えたわけで、それが個人性の動機に基づく横紙破りの故であるなら、厳しく批判されるべきでしょう。これほど自他にとって否定的な影響しかない言説を、瀬名さんほどの人が後先も考えずに放言して好いはずはないんです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月 2日 (水曜日) 午前 03時45分

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