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2008年4月10日 (木曜日)

塩梅よさげな話

そういうわけで、興が乗って参りましたので本日もヒマネタの漫談を一席。

先日久しぶりに郷里の妹と長電話で世間話をした。転居の案内がてらの連絡だったのだが、かなり長いこと無沙汰をしていたので、ついつい話が長くなった。実家の家族に対して冷淡な関心しか持っていないオレでも、この一番下の妹とは話が合うので比較的仲が好く、適当なインターバルで連絡する分には楽しく会話が出来る。

それはまあ、手前味噌ではあるがこの妹が他人様から視ても割合器量が良いという理由もあって、次男坊のお舅さんなど嫁に出した自分の娘よりも婿の妹にベタベタするので家庭争議になりかけたくらいである。まあオレ視点で言えば、目下の身内に一〇歳くらい年下の見場の良い女がいると、とくに気に入られようと努力や気遣いをしなくても仲良く出来て大きな顔が出来るので、何となく得したような気分になる(笑)。

歳が結構離れているのと、妹本人が剰り社交的なほうではなく社会的野心や向上心のカケラもない怠け者の専業主婦なので、ろくな稼ぎもなく年がら年中ピーピーしているような社会不適応者の兄を悪し様に罵ったりもしないので、お陰様で犯罪に趨ることもなく暮らしていかれるという次第である。昨今のリアル妹というのは、ダメな兄を口汚く罵って犯罪の引き金を引くものと相場が決まっているらしいので、こういう川原泉のマンガに出てくるような覇気のない女が妹で助かった。

とまれ、久しぶりということでいろいろ互いの近況を語り合ったりしたのだが、どうやら最近妹夫婦はカラオケにハマっているらしく、そこから最近のJポップの話題になった。で、非常に意気投合したのは、最近のJポップの小洒落た歌詞で、日本語と英語が入り交じりの複文になっているのが大変不愉快だという話である。

日本語の歌のサビの一部がカコイイ英語のフレーズになっている楽曲というのは随分昔からあるわけで、そんなのは別段気にはならないのだが、たとえば安室奈美江の復帰後の楽曲の歌詞などを視ると、日本語の一文の中にいきなり横文字や英語のイディオムがこれ見よがしに入り交じっているので、何だかインチキ外人の嘘くさい日本語みたいで甚だ滑稽に感じる。

たとえて謂えば、織田裕二のモノマネで識られる山本高広の持ち芸の「日本語は片言なのに英単語の部分だけ突然発音が好くなるケイン・コスギ」みたいな滑稽さを感じるわけである。

たとえば英語を交えるにしても、

「あなたの涙はもう見たくない、ドンクライモー、イッツオーライ

とか言ったのであればそんなに変ではないが、

ソゥ、お腹ハングリィだったからマクダナーダゥハムブヮーグヮテイクアウして近所のパークイーティング

とか言われた日には、何処のエド・はるみかと不審に思うだろう。昨日の話とも繋がることだが、全般に最近のトレンドはオレの感覚では何でもかんでも「やりすぎ」が高じて滑稽に感じられるものが多いように思う。安室奈美江辺りの楽曲については、わざとガイジンの片言日本語みたいな猥雑なセンスを狙っているのかと思わないでもないのだが、やっぱり単純に生理的な部分で好きではない。

妹が例に挙げたのは青山テルマの例のヒット曲だが、あれも日本語と横文字がごた混ぜになった歌詞で、楽曲の聞かせどころで日本語とシームレスな形でゴニョゴニョと横文字の歌詞になるので、残尿感にも似た不快感を催させる。

青山テルマは先週かなり連続して歌番組に出演し生歌を披露していて、その際に歌詞がテロップで出たものだから漸く何を言っているのか判明したわけだが、基本的に日本人がゴニョゴニョそれっぽく歌っている英語の発音はガイジンさんの英語よりも聴き取りにくいので、文字で直接読まない限り意味がわからない。

で、実はオレは随分長いこと「そばにいるね」の横文字のくだりが、

「塩梅よさーげ いーつでーも」

と空耳していて、今時「塩梅よさげ」などという言い回しは、東スポの風俗欄的な文脈で好き者のオヤジが下品な内容を表現する為に遣う場面しか思い附かないので、何となく下品な歌であるような気がしていた。実際に字面で歌詞を読んでみたら、遠く離れた若い男女が互いを思い合うという昭和歌謡曲のような内容のストーリーで拍子抜けしたのだが、それよりもっと気になったのは、

「ラップ要らなくね?」

ということである。もっと言うなら、ファンキーモンキーベイビーズのご陽気に踊ってるだけのDJは明らかに要らないだろうと思う。

そういう次第で、本日も「前置きばっかり勿体振ってる癖に、中身は一発ネタの与汰話でしかもオチがオゲレツな大人のジョークかよ」と思われたあなた、残念ながらその通りである。

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コメント

ご無沙汰お許し下さいませ。
興が乗っていらっしゃるところに来合わせてラッキー604です。何だか可愛らしい子猫まで生息していて身悶えするほど和みました(←微妙に語法が違うような)。次は記事中に絵文字が拝見できるのではないかと密かに期待致しております。

ここ二つの記事、私が抱いていた「近頃の若いモンは」的な感覚と似た部分があるような気がして、面白く読ませて頂きました(一緒にするなと思われたらすみません)。
前の記事に関連しているかも知れませんが、私の場合高校球児が眉毛を細く整えているのを見ると「お前はそんなところに個性を出さんでいいー!」とちゃぶ台を引っ繰り返したくなったりします。一本一本眉毛を抜いている暇があったら重いコンダラを引きずって走れよ、と。

ところで黒猫亭様はもしや「花ゆめ」読者でいらっしゃいましたか?

投稿: 604 | 2008年4月10日 (木曜日) 午前 09時27分

>604さん

どうもです。こんなヒマネタにお附き合い戴いて恐縮です。

>>ここ二つの記事、私が抱いていた「近頃の若いモンは」的な感覚と似た部分があるような気がして、面白く読ませて頂きました

歳をとってくると…というとそれこそオレみたいなオッサンと「一緒にするな」という話で失礼なんですが(笑)、各世代を相対化して視られる程度に長く生きていると、やはり若者の嗜好の異様さが意識されてきますねぇ。二十代半ばまでの美意識と四十代くらいの美意識の違いというのは、端的に謂って或る特定の時期の自分の美意識を他人の目で客観視した経験の有無が大きいと思うんですね。

それは年齢を重ねて成熟したということではなくて、たとえば三十代くらいになってから、過去の粋がっていた頃の自分の写真や映像を視ると軽く凹みますよね(笑)。若い頃は誰しも同世代の仲間達のセンスに合わせることに汲々としていて、それはつまり流行を追うということなんですが、同世代間で共有されていた場の空気のようなものの中では格好良く見えたことでも、そういう空気を離れて客観視した場合、たまらなく偏っていてみっともなく見えるということがあります。

これは多分、女性よりも男性のほうが強く感じるのかな、と思うところがあって、女性の場合は幾つになってもモードやファッションのトレンドを追うことに抵抗はないと思いますし、トレンドに乗って自己演出することでその時々の文脈で艶やかに見えるものだと思いますが、男性の場合、流行に乗って自己演出してもそんなに持って生まれた見場が底上げされるモンでもないんですね(笑)。

精々流行に乗って恰好附けたつもりで粋がっていても、一〇年も経って冷静に振り返るとたまらなく恥ずかしい(笑)。それはたとえば女性が一〇年前の自分の写真を見て恥ずかしく思うのとちょっと違うと思うんですね。女性の場合、今は廃れてしまってダサいものと見做されているファッションに身を包んで得々としている自分の姿が、今現在の主流的な流行の感覚に照らして恥ずかしいと感じるだけで、同じような恥ずかしさをまた一〇年後に同じように感じる可能性が高いわけで、それは流行というものがそういうものである以上仕方のないことです。

女性の場合、メイクやファッションで装飾的に自己演出するという行為は生涯不断に続けていく営みであって、その流行が風靡している時間的スパンの中で魅力的に見えればそれでいいわけです。ところが、大概の男性の場合は、流行に乗って過剰に自己演出したこと自体をみっともなく感じるという感じ方なんだと思います。

それは、端的に謂って、極端に突出した流行(というか、流行というのは何処かが極端に突出しているから流行たり得るわけですが)に乗って自己演出の趣向を凝らした自分の姿が、他者視点(つまり同世代的な空気を共有していない他者です)では普通に格好悪いことに気附くからなんですね(笑)。社会に出た大部分の男性はメイクなんかしませんし、身なりのセンスにおいては極端に突出したものは顰蹙され、第三者視点で見苦しくなくこざっぱりした服装を日常的に求められます。

成熟した男性の自己演出のセンスとしては、過度に装飾的ではなく実用的でありながらその端々に覗く美的センスの優れた感覚が推奨されるわけで、一般的に謂ってオーセンティックなトラディションに即したセンスが格好良いとされるわけですね。つまり、その時点における泡沫的な流行ではなく、どの文脈の伝統を選択するかという方向性に落ち着いていくわけです。

で、人間というものは、若い内はこの世の大部分が若い人間の為にあるように思い込むものですが、段々若くなくなってくると、世の中は若くない世代のほうが圧倒的に多いのが当たり前なのだし、若い人間向けに出来ているのは世界のごく一部だけ、つまり若さが経済に結び附く領域だけだということに気附いていくわけです。

人が物心附いてから大人になるまでの間に見聞きするものは、すべて初めて出会う斬新なものばかりだと思うんですね。流行という文脈において若くなくなるということは、一度すでに出会ったものが再び訪れる場面を目撃し、それが一定のサイクルで循環しているにすぎないことを認識することから始まると思うんですよ。天が下に新しきものなしという真理を思い知ることで、人は若くなくなってしまう。

そこから、それでも世の中には不断に新しいものが生まれ続けているのだという認識を獲得し、一定周期で循環する手垢の附いた旧いものに対して自身の手で何か新しいものを附け加える必要を引き受ける、オレは人間の文化的成熟のプロセスをこういうふうに視ています。

一定周期で何か旧いものが連綿と循環し続けているという認識とは、平たく謂うと世界は自分と同時に生まれたわけではなくずっと昔から存在するということを認識するということだろうし、それはつまり世界は自分の為に在るものではないという事実を受け容れるということだと思います。そこに新しいものを附け加える必要を認識するということは、そのような自分のものではない手垢の附いた既存の世界を引き受けるということなんだろうと思うわけです。

興が乗っているのでえらく大風呂敷を広げてしまいましたが(笑)、まあ要するに、若者は年寄りに比べて生き物としては大分美しいけれど、文化的には普遍的にみっともないものなのだし、それで当たり前として許容されている存在なんだと思います。自分の若い頃がみっともなかったのと同様に今の若い人々もみっともないのだろうし、歳をとってしまった人間は下手にそういうみっともなさに理解を示さずに「それってみっともないんだよ」と「無粋な」ツッコミを入れれば好いんだと思います(笑)。

まあオレは世代間のギャップの通時的な構造をこういうふうに考えているので、たとえば大昔の建造物や遺跡から「今の若い者はなっとらん」的な年寄りの繰り言が出てきたとしても、不思議だとも滑稽だとも思いませんね。その繰り言に間違っている部分があるとすれば、そう言っている年寄りも若い頃は「なっとらん」奴だったということを棚に上げているという部分ですが、まあ年寄りが自分の昔を美化して胡麻化すことも有史以前から普遍的な習性だということですね(笑)。

「オレらもダメだったがおまえらもダメだ」的な相対論ではお説教に有り難みが出ませんから、精々厳めしく勿体附けてるだけなんですねぇ(笑)。「若い者」に対するお説教に漏れなく「今の」という限定が附くことを真に受けちゃいけませんね。

>>一本一本眉毛を抜いている暇があったら重いコンダラを引きずって走れよ、と。

勿論604 さんはわかっていて使っているのだと思いますが、嘘か真か何処ぞの野球部出身者が言っていたことには、あのグランドローラーとかコートローラーとか呼ばれている地均し用の糞重いローラーの名称が、彼の出身校では「コンダラ」で通用しているそうです(笑)。

思うに、最初にそれを「コンダラ」と呼んだヒトは巨人の星の主題歌の洒落のつもりで謂っていたんだと思いますが、いつしか世代が移り変わるうちに元ネタの巨人の星自体が忘れられて、コンダラというネタ名称だけが残ったというパターンかもしれません。道具の正式名称なんて意外と識られていないモンですからねぇ。

>>ところで黒猫亭様はもしや「花ゆめ」読者でいらっしゃいましたか?

隔週刊誌を毎回買うほど熱心な「花ゆめいと」というほどではありませんが(笑)、それなりに講読していましたね。創刊号も書店で立ち読みした覚えがあります。川原泉もデビュー作「たじろぎの因数分解」の頃から愛読していましたが、休載がちになってからどうなったか識らないという程度の愛読者です(笑)。

どっちかというと、LALAのほうが月イチで楽だったという理由で定期的に講読していましたかね。他人にたかったり立ち読みしたりせず自分で買って読むようになったのは処天の頃からですが、LALA執筆陣の中ではかわみなみが好きでした。シャンペンシャワーからインナーカルテットまでは全部コミックスを持っています。

お陰様で京極堂シリーズを読んでいると榎木津探偵がジョゼとかミカエルでイメージされて困るんですが(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月11日 (金曜日) 午後 06時11分

「うんうん、その細眉の写真を破り捨てたくなる日がいつかキミにも訪れるんだよ、ふふふ」と穏やかに笑む一方、太い眉毛にソバージュ頭の過去の自分の写真を握りつぶすのが人間の営みであることだなあ、ということでしょうか。

コンダラはどうも「ローラー派」と「タイヤロープ派」に分かれるようですが、画像検索すると圧倒的にローラーの画が出てきますね。
個人的には確か吉田秋生の漫画で初めてコンダラ誤用ネタを知ったと記憶してます(←タイヤの画でした)。しかし最早ネタじゃなくなりつつあるとは夢にも思わず。

で、かわみなみですか!一瞬目を疑いましたが、黄金期の「花ゆめ」「LALA」「プチフラワー」は、そう言えば男性も結構読んでいましたね。「ノストラ」「ダイダイ」は家宝です。「シャンペン~」からは記憶が曖昧です。なので最後の2行の意味が少々取りづらいのですが……、京極堂シリーズというのは「ちょっとヘンな色男たちがワイワイ楽しくアホやってる話」なの…ですか?(いやそんなはずは)

以前「漢」バトンの記事に頂いたコメントで、菊パパも含めて「識っている」と仰っていたことをもう少し深く考えるべきでした。うーん、まだまだ修行が足りません。

さて全く話は飛びますが、蓮實重彦先生に関する過去記事を拝見したところ、どうやら黒猫亭様は先輩でいらっしゃるようで(まあ私的には師父なのですが)。これも何かのご縁、どうぞ今後ともご指導ご鞭撻賜りますよう。

長々だらだらと失礼致しました。

投稿: 604 | 2008年4月13日 (日曜日) 午前 02時28分

>604さん

>>「うんうん、その細眉の写真を破り捨てたくなる日がいつかキミにも訪れるんだよ、ふふふ」と穏やかに笑む一方、太い眉毛にソバージュ頭の過去の自分の写真を握りつぶすのが人間の営みであることだなあ、ということでしょうか。

全然不正確な連想ですが、なんか菱沼さんが泥棒髭のハリマオに仮装している写真を想い出してしまいました。まあ、昨今の八〇年代回顧ブームで、ゲジ眉+ソバージュおまけにボディコンという組み合わせもあんまり奇異には感じなくなってますけど、本人的には抹殺したい過去なんでしょうねぇ(笑)。

そう謂えば、キバの過去編のヒロインさんの前髪はちょっとあんまりだと思います。幾ら八〇年代でも、あんなに前髪を立てていたのはキャバクラのヒトかやくざの女房くらいだったのではないでしょうか(笑)。というか、あのお姉さん自体がちょっとあんまりだと思うので点が辛くなってしまうわけなんですが、どうも武部Pの女優のキャスティングセンスには納得出来ないものを感じます。男子のキャスティングに関しては、女子が判断することだと思いますのでとやかくやは申しませんが。

>>コンダラはどうも「ローラー派」と「タイヤロープ派」に分かれるようですが、画像検索すると圧倒的にローラーの画が出てきますね。

OPの映像から考えると、たしかタイヤロープとローラーが近接して描かれていますから、どちらが「コンダラ」なのか議論の分かれるところなのでしょう(笑)。しかし「重いコンダラ」と謂われる以上、どちらが「重い」のかという話になるので、その土俵で比べると圧倒的にグランドローラーが重そうです(笑)。

>>で、かわみなみですか!一瞬目を疑いましたが、黄金期の「花ゆめ」「LALA」「プチフラワー」は、そう言えば男性も結構読んでいましたね。

白泉社の漫画誌は典型的な隙間商売で、かなりとんがったマンガが多かったですから男性が読む少女漫画誌の草分け的な存在でしたね。いろいろ調べてみると、オレが白泉社系の漫画誌を纏まった形で読むようになったのは、八二、三年頃から一〇年間くらいのことのようです。「はみだしっ子」を本誌で読んだ記憶はないけれど川原泉のデビュー作を読んだ記憶はあるので、定期的に講読し始めたのがそのくらい、ぼく球のラストまで読んだ覚えはあるけれど、天禁を読んだ覚えはないのでその前後に読まなくなったと思われます。

LALAのほうは、処天の後半、しまりんごの最終章辺りから買って読んだ覚えがありますから、大体同じ時期に読み始めたということになりますね。

かわみなみが好きなのは、八頭身のマネキンみたいなキャラ絵のくせにギャグセンスが面白いからで、絵柄的には手抜きを覚えた頃のが丁度いい感じで、ちょっとノストラの頃の絵柄は硬くて好きではないですね。シャンペンシャワーの後半からまり子闘争くらいの頃の可愛い絵柄が一番好きでした。

>>京極堂シリーズというのは「ちょっとヘンな色男たちがワイワイ楽しくアホやってる話」なの…ですか?(いやそんなはずは)

いや、結果的にそんな話になってしまったのです(木亥火暴!!)。「姑獲鳥の夏」の頃はみんなそれなりにシリアスなキャラだったのですが、シリーズが進むに連れてどんどんキャラが崩れ始め、榎木津探偵は当初は他人の記憶が見えるという不思議な能力を持つ美形キャラだったのですが、徐々に出鱈目なキャラに変貌してしまいました。

まあ、「鉄壁の正論の上に最後は暴力で相手を従わせる」という意味ではジョゼ・オスカルにそっくりなキャラで、ジョゼは主人公のアドルを自分のオモチャだと思っているだけでしたが、榎木津探偵は京極堂以外のすべての人間を自分の下僕だと思っている日本語の通じない無敵キャラになってしまいました。

>>どうやら黒猫亭様は先輩でいらっしゃるようで(まあ私的には師父なのですが)

ああそうなんですか、あの学校のヒトでしたか。オレの在学当時は池袋でこじんまり纏まっていて、池袋自体もそれほど物価の高い街ではなかったので、横着して学校の近くに住んでいましたが、数年前、夜の夜中にあの学校の界隈を散策したときは流石に懐かしかったですねぇ。

今ではあの学校も、一部の学部について埼玉の田舎にキャンパスを移して大失敗したようですが…実はですね、今オレが住んでいるところからそこの新座キャンパスまで歩いて行ける位置にあるのです(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年4月13日 (日曜日) 午前 06時57分

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