猫の名附けは難しい
poohさんの「呪術と『人間の基本仕様』」経由でフレイザー卿の『金枝篇』を引いてわかりやすく呪術的論理を解説した「図説金枝篇を読んでニセ科学について考えた」という記事を拝読した。人間が心的現実に属する事柄については当たり前のように呪術を用いているという話はオレも以前したことがあるし、poohさんやFrancis さんとは呪術についての認識がかなり近いと思うのだが、今回はオレ自身の用いた呪術についての世間話を一席。
世間一般、子供やペットの名附けには呪術を用いるのが当たり前である。人や生き物の名前というのは、人と人の間でしか名の持つ意味が働かないのだから、これは完全に心的現実の領域の問題である。であるから、名附けに纏わる呪術は一定範囲でちゃんと効くのである。
たとえば黒猫亭の下の娘(スコティッシュフォールド・雌)の月夜が「つきよ」ではなく「つくよ」なのは、本当は「つくえ」という名前を予定していたからである。今は何だか姉の毛色が伝染したかのようにセーブルっぽい薄茶色になったが、犬猫病院経由で貰い子した当時は濃い目の鋼色だったので、鋼色で四つ足だから「つくえ」でいいだろうという窮めて粗雑な理由で考えた名前である。
これは明褐色や焦げ茶色でも通用する理屈なので、命名理由を説明するのが簡単で名案だと思ったのだが、それを聞き附けた親切な友人がすっ飛んできて羽交い締めで止め立てするので、一文字違えて「つくよ」になったのである。名附けというのは、自分以外の他者の生を左右する一大事なので、なかなか親や飼い主だけの独自裁量で行うのは難しいものである(笑)。
元々音としては「つくえ」でも字は「月枝」と充てるつもりだったので、この名附けの核心が月を「つく」と読むことであることには変わりがない。言うまでもなく「月読=ツクヨミ」のように月には「つく」という読みがちゃんとある。そもそも「机」の語源とは「突き枝」であると考えられているので、「つきえ」と書いて「つくえ」と読むのは音韻と指示する実体の相関にロジックがある。
最初は字面的に「月絵」にしようかとも考えたのだが、月の絵とは即ち玉兎である。玉兎とはつまり帝釈天に自らを食糧として捧げ焼身した兎が昇天したものであり、これは後で陳べるような意味で避けるべきだと考えて「月枝」にしたのだが、強硬に反対する友人がいたので、渋々ではあるがその諫言を容れて「月夜」という既存の一般名詞を指示する字面に落ち着いた。
命名理由も「灰褐色の上毛が縞状に割れて真っ白な下毛の筋が覗く様が月夜の叢雲を思わせるから」という風雅な口上に変わってしまったが、元々は「四本足なら猫でも喰う中国人にも喰われず恙なく長生きせよ」という魔除けの呪術である(笑)。大事な子供にポンション(うんこ)とか名附けるようなものだろう。
ここでナマハゲ扱いした中国人には失礼な話だが(笑)、オレの持論では飼い物というのは「喰い物ではない」と定義した瞬間に「殺すべき対象」ではなくなるので、その文脈上の呪術だということである。おそらく中国人(の一部)は伝統的な食習慣において猫を喰う民族としては最大のマッスだろうから、失礼ながら象徴的母集団として採用させて戴いた次第である。
伝統的に猫を喰う民俗においては、猫というのは飼い物であっても最終的には殺して喰うので、猫の飼育には殺害のプロセスが含まれている。世界中で猫を殺しても民族固有の倫理に背馳しないのは猫を喰う食習慣を持つ民族だけなので、原理的に猫は中国人に象徴される民族によって殺される呪術的な可能性を常に有している、というかその種の民族に対しては猫を殺害から保護する呪術的な力は発効しない。
しかし、そんな中国人でもどうやら机だけは喰わないらしいから、ウチに在る四つ足で灰色の物体は猫ではなく机ですから喰おうとしてはいけませんよ、と「言い張る」わけである。猫一般が中国人一般によって殺される原理的な可能性を有しているのなら、猫ではないと言い張ることで殺害の可能性を拒絶するわけである。つまり、濃い灰色の四つ足の獣を「足が四本あって灰色『だから』机だ」と言い張ることで他者の加える危害から防御しようとするのは窮めて呪術的なロジックだということである。
ただし、呪術や式というのは、その願望を特定の筋道の論理で根拠附けた言葉に過ぎないのであるから、勿論巷に大勢存在する「ショコラちゃん」や「ミントちゃん」や「あずきちゃん」たちのことを「殺すべき対象」と意味附けるものではないので、悪しからずご諒解戴きたい。そこには全然別種の式が稼働しているはずなのだから、式と式は通分可能である必要がない。
一方、上の子の摩耶(バーミーズ・雌)のフルネームは実は「まやぐゎー」で、これは琉球のウチナーグチの「猫ちゃん」に相当する言葉である。オレと猫の生活圏が沖縄ではなく練馬や埼玉だから固有名詞として機能しているが、本来は属を表す一般名詞であり、厳密に謂えば名前を附けなかったのに均しい。
さらに厳密に謂えば、この猫だけはCFA発行の血統書が附いているから、血統書に記載されている登録名称が真名で「まや」というのは通称だということになる。オレがこの猫を譲り受けた時点では、ブリーダーが里親の附けた名で協会に登録するサービスを実施していなかったので、実は割合小洒落た本名が附いているのである(笑)。まあこの場合は、気取って謂えば実名敬避俗の論理で「字(あざな)」を附けたようなことになるだろう。
この呼称の階層構造を解析すると、黒猫亭の家内には「猫ちゃん」が二匹いるが、そのうちの一匹には固有名詞が与えられていて、且つウチナーグチの一般名詞と関連附けられている「猫ちゃん」は真名で呼ばれない猫一匹だけなので、事実上その一般名詞が固有名詞を代替しているというややこしい指示関係になるだろう(笑)。つまり黒猫亭の家内に存在するのは「仮に『まや』と呼ばれている特定の猫」であって「『まや』という名の猫」ではないということになる。「摩耶」というのは、犬猫病院のような外部の場において固有名詞として機能する為に便宜的に充てた当て字ということになるだろう。
月夜を引き取る前までは、もっと簡単な指示関係だったことは言うまでもない。黒猫亭の家内に存在する「猫ちゃん」は一匹だけで、且つその猫はウチナーグチの通用圏に存在するわけではないので、ウチナーグチの一般名詞と黒猫亭の家内に存在する特定の猫が一対一で対応していたということになる。
また、この登録上の真名というのは、CFAという外部の権威組織が黒猫亭の宅内に存在する「仮に『まや』と呼ばれている特定の猫」を「どこそこのキャッテリーで其某を親として生まれた子供の中の特定の一匹」というふうに血統的に定義した名前である。
そしてその外部の権威組織と黒猫亭が扶養している「仮に『まや』と呼ばれている特定の猫」の生活圏は物理的に完全に断絶している。これは呪術的な観点では非常に安全な状態だということで、血統的な観点における彼女の存在を保証する真名は断絶した外部において系統的に厳格に管理されており、その外部組織から個別の真名と一対一で対応する特定の実体は決して見えない仕組みになっている。
勿論、黒猫亭自身はCFAが発行した血統書という形で「仮に『まや』と呼ばれている特定の猫」の真名をローカルに管理しているわけで、仮にCFAという外部の権威組織が何らかの事情で消滅したとしても、そのような権威組織が嘗て存在し、個別の猫の血統的実体を登録管理していたという歴史的な事実は保証されているのだし、その組織が過去に発行した正真正銘の証書の記述という形で猫の歴史的実存は保証されている。
この猫を飼い主のオレが真名で呼ばなかったとしても、真名それ自体は客観的に実在するのであるし、それによって「仮に『まや』と呼ばれている特定の猫」が黒猫亭の家内に存在し、生きていたという事実は揺るぎなく保証されているわけである。
それ故に、真名としての登録名称以外の固有名詞を付与することなく通称としての一般名詞で呼ぶことで、この特定の猫の実存は呪術的に防衛されているということになる。だとすれば、オレがたとえば当ブログでこの猫の「名前」を記述したとしても、誰もその「名前」に基づいて実体としてのこの猫の実存に対して呪術的攻撃を加えることは出来ないということになるのである。
ただ、彼女の飼い主のオレも、本名があんまり小洒落ている上に英単語四語にも亘る長い言葉なので、通称以外で呼んだことはないのだが、彼女がオレの言うことをちっとも聞いてくれないのは、登録上の真名で呼ばないせいなのかもしれない(笑)。
さらに註釈すると、幾ら彼女の真名が長いからと言って、「天地開闢、産声と怒号を聞きながら」とか「緋色の砂と難破船のある岬」とか「封印された化石、もしくは縫製機械」みたいなものではないので誤解のなきよう(笑)。
纏めて言えば、黒猫亭が扶養している二匹の猫は、「名前」に込められた呪術によって防衛されているということになる。「仮に『まや』と呼ばれている特定の猫」が何人にも呪術的に攻撃不能なのは、彼女の「名前」が通称としての一般名詞であって、その血統的実体を定義する真名は物理的に断絶した組織が管理しているからである。月夜が何人にも呪術的に攻撃不能なのは、「猫を殺す行為の正当性が成立可能な原理の適用可能性」を呪術的に完全封鎖し、名附けの呪術によって殺害不能な対象に擬態させているからであって、呪術的な意味では殺害不能な猫だからである。
本当なら「つくえ」でなければ完全な呪術とはなり得ないのだが、「つくよ」が「つくえ」の言い換えであることを保証する音韻的な痕跡が残されているから、この呪術は或る程度効くのである。
そして、最も重要なことは、呪術的な防衛が可能なのは呪術的な攻撃に対してのみだということで、物理的に誰かが我が家に侵入して殺そうと思えば、これらの猫は簡単に殺すことが出来る。呪術的に防衛するというのは、たとえば「おまえの可愛い猫たちを殺してやる」という「呪文」による攻撃が飼い主のオレに対して発効することに対して、猫の名前に込められた呪術が防衛的に機能するということである。
つまり、オレが養っている猫たちは少なくとも呪術によって傷害することは不可能だということであり、物理的な攻撃に対しては勿論呪術など何の効力もないが、幸いなことに物理的な攻撃に対しては物理的に反撃すればいいだけのことで、何の不条理も存在しないわけである。単に、呪術という得体の知れないものに対抗するには、こちらも呪術を行使するしかないということである。
オレの説によれば、勿論子供やペットの名付けというのは正真正銘の呪術なのであるから、これから子を儲けたり毛深い里子を迎えるという世の親御さんたちは、相手の一生を左右する大事なことであるから、精々大いに悩まれるがよかろうと思う次第である。
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コメント
…ウチの猫(バーミーズ・雄)は実は黒猫亭さんちの長女とは親戚関係なわけですが、そのような係累についてはやはり一般には閲覧不能の「血統書」がその事実関係を保障しているわけでw
ウチの場合「字」と「真名」は音は一緒です。しかし登録においては「横文字」であったというのが一種の呪的防壁になるわけですな?しかも真名には彼の来歴を示す血統名がしっぽとして付いているので、まやちゃんと同じく、それを他に知られることなく、呪詛を受けても効果はないはずw
おまけに八百万の神々のおわす土地の「枕詞」をその「字」としているので、防衛は完璧です。
…いやあ、どこまで後付なのかはアレだが、呪術って上手く説明できますなw
毛色によって「ミケ」とだけ呼ぶのも、個別性を隠蔽する手だし、可愛らしい本名を持っていても、略称や「ぬこ」とか「うちの」とか「ちみっこ」とか呼んでしまうのも、無意識下に愛猫を護る機微である、と。
投稿: shof | 2008年5月 5日 (月曜日) 午後 02時47分
>shofさん
>>ウチの場合「字」と「真名」は音は一緒です。しかし登録においては「横文字」であったというのが一種の呪的防壁になるわけですな?
これこれ、それを言ってしまったら何にもならないではないですか(笑)。真名というのはそれを隠すことでしか呪術的な攻撃を防げないのですから、たとえ字と真名の音が同じでもそれを黙っておかないと意味ないですよ(笑)。音を識ってしまったら綴りも自動的に判明してしまいますから。
そういう次第で、おたくの坊主については「ルンペルシュテルツヒェン」くらい元の綴りがわけわからんものでない限り、ネットで迂闊に名前を言ってはいけませんよ、いいですね(笑)。
>>…いやあ、どこまで後付なのかはアレだが、呪術って上手く説明できますなw
呪術というのは真理を解明する為のツールではなく、事象の説明原理ですから必ず後附けの部分があります。そして、飽くまで人にしか効きませんから、猫の名前に込めた呪術は猫それ自体には効きません。呪術で物理的に現実の猫を殺すことなんか出来ないわけですが、人の心に映る猫に対しては効力があるわけです。
オレが幾らオマジナイをしても、ウチの猫が変なものを喰ったり病気になって死んでしまう現実の可能性を拒絶することは出来ません。オマジナイが効くのは、ウチの猫が変なものを喰ったり病気になって死んでしまうことに対して飼い主のオレが抱いている恐れに対してです。
で、今時の猫はきちんと不妊手術を施して完全室内飼いに徹し、食餌に気を配りさえすれば二〇年くらいは普通に生きるわけで、ウチの猫が無事天寿を全う出来ればそれはオレの呪術が効いたということですし、不幸にしてもっと早く死んでしまったらそれは効かなかったということです。
つまり、この呪術は「効く」確率のほうが「効かない」確率よりも圧倒的に高いという言い方が出来るわけです。結局物理的現実の世界では呪術なんて何の影響力もないわけですが、呪術を施すことによって、不幸な偶然から望まざる事態が起こってもそれは不可抗力であったことを受け容れやすくなるわけです。
人間というのは弱いもので、どんなに意志の強い人間でも、望まざる不幸がその身に降り掛かってきた場合、条理を超えた得体の知れない超越力を想定して現実を解釈したくなるものですが、呪術によって式を打つことで、前もってそのような超越力に対して意思表示することが出来ます。
その場合、自分の打った式が効かなかったからどんな超越力も無意味であると考えるのか、それとももっと強い超越力を求めるかは人夫々と言えるのでしょうけれど、人間はそういうふうにしてしか、自身の力を超えた大いなる運命に立ち向かうことが出来ないのかもしれませんね。
それ故に、最も強力な呪術というのは「祈り」だということになります。これは、結果の如何に関わらず決して裏切られることがない最強の呪術でしょう。人知を超えた事態を前にして人が無心に祈るとき、決してその祈りの実現の確約までは求めていないのですから、祈りというのは決して裏切られないのです。
私見ですが、原始的な呪術から高度な宗教が発生した契機には、この「祈り」という最強の呪術の発明があったのではないかと思ったりします。
投稿: 黒猫亭 | 2008年5月 6日 (火曜日) 午前 02時26分