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2008年5月 6日 (火曜日)

夜露死苦を来夢来人する

別段無理矢理「水からの伝言」の話をするつもりもないのだが、あのヒトたちの説ではお水は漢字が「読める」ことになっているのだろうか、とふと疑問に思った。ご存じの通り、水伝によればお水というのは相当お悧巧で、少なくともその辺のボンクラな人間よりも賢いらしい。人間の歴史や風俗を熱心に勉強していなければ判断の附かないようなことでもちゃんと判断出来るし、芸術等の善し悪しにも一定の持論があるらしい。

たとえば、ジョン・レノンの楽曲では美しい結晶を作るが明石家さんまの楽曲では半分だけ美しい結晶を作るというような、非常に細やかな判断基準があったりするようである。なので、多分漢字を読むことなど楽勝に違いない。そもそも平仮名や英語を読むことが出来る水が漢字を読めないはずなどはない。

詳しい方に聞いたところ、どうやらあのヒトたちの説によれば、水は文字を読んでいるというより言葉の持つ波動が水に伝わっているらしいし、実験をセッティングする人間や観測者、撮影者等のアレがナニして影響を及ぼすこともあるらしい。

というわけで今オレが興味を持っているのは、たとえば現代ニッポンの誇る文化として「当て字」というものがあるが、お水様にはその波動がどのように伝わるのかということである。現在代表的な当て字の流派としては、「夜露死苦」流と「来夢来人」流があると言えるだろう。

前者の夜露死苦流は、この荒廃した一億総下流社会においては一定の市民権を得たセンスと言えるだろう。前掲リンクによれば、以下のような類例があるらしい。

夜露死苦(よろしく)
亜離獲那威(ありえない)
那具瑠底螺ぁ(なぐるぞこらぁ)
愛羅武勇(あいらぶゆう)
愛死天流(あいしてる)
仏恥義理(ぶっちぎり)
鬼魔愚零(きまぐれ)

「麗泥栖(れでぃーす)」なんて例もよく見掛けるが、麗と泥の組み合わせは大体共通している一方、「す」には寿、州、棲などバラツキがある。「れでぃー」を麗+泥で表すのは「華麗に泥にまみれる」というアンビバレンスのイメージが、女子暴走族のガテン系のセンスにヒットして漠然と共有されているからだろう。この当て字のイメージ的な核心は麗+泥という部分にあるわけで、「す」というのはイメージ形成において中核的な部分ではないからオマケ的に扱われているということだろう。

変わったところでは「麗霆゛子」というのを見掛けたが、「霆」に濁点というのが少し苦しかったのか、このVシネ以外では見たことがない。この「霆」というのは雷霆というふうに使う文字で、雷がピカドンの「ドン」で霆が「ゴロゴロ」という意味である。つまり、雷霆という言葉は神鳴りの音響的な特徴を表す言葉である。

大昔は暴走族のことを「カミナリ族」と謂ったものだが、それに引っ掛けてレディースの当て字に「霆」という字を混ぜてみたのだろうが、見慣れないこともあってか字面に凄みを感じないし、あんまり理に落ちる当て字は流行らないということではないかと思う。さらに謂えば、「霆に濁点」とか「子」と書いて「す」と読ませるのは、寧ろ法則的には後述する来夢来人系のロジックなので、あまり巧い当て字ではない。

夜露死苦系のロジックでは、「子」と書いたら辞書的に「こ」か「し」としか読まないのであり、それが「す」と読めるはずだという一般的な文芸の教養に基づく自己判断を下さないのが夜露死苦の夜露死苦たる所以なのである。少なくとも、一般的にはそのような淘汰圧があるので、人口に膾炙することはないだろう。

一方、来夢来人というのは実際のスナックの店名が元になっているようで、全国に無数の同名店があるそうな。「来る夢、来る人と書いて」という例のヒット曲のお陰で爆発的に流行したものだろうが、基本的にポエミーでありながら、水商売特有の若干の下品さやいかがわしさを漂わせているのが特徴である。前掲リンクでは電話帳でスナックの店名を探したそうだが、実例として以下のものが挙げられている。

来夢来人(らいむらいと)
歌楽人(カラット)
奏音(かのん)
婦蘭紅(ふらんく)
客楽多(きゃらくた)

オレが見掛けた例としては「多恋人(たれんと)」とか「洒麗人(しゃるまん)」というのがあった(笑)。「人」が末尾に来るの同じでも前者は「と」と読ませ、後者の例ではいきなり英語を混じえて「マン」と読ませるのが小粋である(笑)。夜露死苦系の如何にも漢和辞書の索引で画数の多い文字を調べました的な機械的用法とは違い、来夢来人系の場合はそれなりに柔軟で頓智が効いている場合が多い。

「奏音」などは、危うくオレの友人が子供の名附けに用いそうになったことがあって他人事ではないのだが(笑)、奥さんが羽交い締めで止めたので「かのん」という読みだけは回避したそうである。まあこれなどは「藤村甲子園」を「ふじむらきねくに」と読むような一種の妥協に過ぎないのだが、出生届を持っていったのが発案者本人でなくてよかったという話である(何の話だかわからなくなってしまったが)。前回のエントリーでも同じような話をしたが、名附けの場面で親御さんや飼い主一人だけの意見が通らないことには、一応悲劇を予防する意義があると言えるだろう(笑)。

とまれ本題に戻ると、前者は画数が多くて武張った不吉な文字を好む傾向があり、漢字辞書だけが頼りだから字面と音の結び附きは基本的に機械的な対応関係にある。対するに後者は、全般的に割合画数が少なくて見た目の印象が柔らかく恋愛要素を連想させるロマンティックな字面を好み、古典の引用や外国語や謎かけ等も交えた捻りの効いた読みが多いが、その半面何処か水商売の匂いが漂う安っぽさがある。

さらに水伝の話に戻ると、たとえば夜露死苦流の当て字は見た目が如何にもネガティブな印象を与えるが、言葉の意味としてはたとえば「夜露死苦」というのは「よろしくお願いします」という低姿勢の挨拶である。「那具瑠底螺ぁ」辺りは言葉の内容と見た目のネガティブさが対応しているので、お水様は判断に困らないと思うが、「愛羅武勇」や「愛死天流」辺りになると、「あなたが好きです」というとてもステキなことを言っているのであるから、かなり判断に困るだろう。ただまあ、「愛」という最強の一文字が入っているので、大概のことは許されそうな気がする。

その点、来夢来人流になると、語義が「ライムライト」という機器名称だから良いも悪いもないし、それに「来る夢、来る人」というステキな当て字が施されているのであるから、プラマイで言ったら若干プラスかもしれない。「多恋人」というのも語義としては「才能」という意味だし、それに「恋多き人」という小粋な当て字が充てられているのだから、何となく全体的にはプラスかもしれない。

ただ、全般的に「カラット」とか「カノン」とか「フランク」とか曖昧でロマンチックな言葉が多いので、価値的なプラマイを判断することは難しい。勢い、内容がなくて字面的に綺麗だからお水様は微妙にプラスに判断されるのではないかと思う。

お水様がこの件に関してどのような公式見解をお持ちなのかをはっきり判断する為にはどうしたらいいだろうと考えていたのだが、言葉の内容と字面にギャップがあれば対照実験が可能なのだから、今回のタイトルのように「夜露死苦を来夢来人」してみたらどうだろうと考えてみた。

たとえば「喧嘩上等」みたいなヤンキー用語があるとする。これを夜露死苦流に表記すると、多分「剣華攘刀」みたいな感じになるのだろうが、仮にこれを来夢来人流に表記してみたらどうだろうか。

献花嬢投

これなんか、ちょっと来夢来人流というのも苦しいが、イメージ的には「木蘭の涙」みたいな感じである。愛する人を亡くしたお嬢さんが、恋人を失った断崖の頂に立って一本の白百合または可憐なひなげしのブーケを無情の海に捧げる…ロマンチックである。

お嬢さんの清楚な喪の衣裳の裾が海風に翻る様子や、不意の突風に吹き飛ばされそうになった帽子をレースの手袋に包んだたをやかな指で押さえる様などが目に浮かぶようである。しかし、これは死せる恋人を悼むという段階で、ちょっとネガティブと感じてお水様は気に入らないかもしれない。

では、前掲の「那具瑠底螺ぁ」辺りはどうであろうか。

凪留像湖裸ぁ

波一つない鏡のような湖面に映ずる裸身の女神という感じで、ちょっとアーサー王伝説の湖の貴婦人のような幻想的なイメージを喚起する。ただ、お水様は何となく風紀には煩瑣いかもしれないので「裸」という文字が気に入らないかもしれない。「螺」でも好いのだが、これは「にな」という意味なので、湖の泥中に生息する「にな」というのではちょっと風情がない。「羅」だと語義的には「あみ」という意味だから、静かな湖に小舟を漕ぎ出してすなどるというイメージだが、「羅刹」とか「羅生門」とかに用いられている字だから剰りお気に召さない可能性がある。

では、とびきりのヤンキー用語である「鏖」はどうだろうか。

美菜頃詩

あ、これはいいかもしれない。なんというか、「いちめんのなのはな(ry」という感じで爽やかだし、見渡す限り鮮やかな黄色に彩られ噎せるような馥郁たる春の香が漂う田園の直中で詩想に耽るというイメージが、如何にもお水様好みの健全な詩情と言えるだろう。これなんか「美菜頃詩」対「鏖」で対照実験が可能かもしれない。

さらに夜露死苦の夜露死苦たる所以に迫るなら、たとえば夜露死苦の不吉な部分というのは「死苦」に負うところが大きくて、「夜露」自体はそんなにネガティブな意味はない。無理矢理ストーリーを考えるなら、深夜の河原で対抗する集団と血みどろの抗争を命懸けで戦い、払暁、夜露に濡れて死屍累々の凄惨な情景が眼前に現れるという血腥い詩情が「夜露死苦」の一語に込められていると視ることが出来るだろう。

先ほど視た「麗泥栖」と同じで、麗しいお嬢さんたちが特攻服に身を固め、蝶よ花よと持て囃される世間の軟派な少女たちの軽薄な生き様には目もくれず、ひたすら硬派な掟と仁義に生きて泥にまみれるという、如何にもな美意識に合致する詩情があるのだと視ることが出来る。

ならば夜露死苦を来夢来人することはそれほど困難ではない。

夜露詩貢

嗚呼、何んとロォマンチィックなのでありませうか! 想ひ人の窓下に立つて夜露に濡れつつ愛を讃える詩を一句吟じる紅顔のますらをひとたり有り、其れを窓辺で繻子のカアテンにくるまれ頬を染めて羞らう憧れの貴婦人に捧ぐので有りますから、浪漫的なる詩情此処に窮まれりと申せませう!

であるからして、水伝の中の人たちには、是非とも「夜露死苦」と「夜露詩貢」の二枚の紙を「お水様に見えるように」裏返しに貼って対照実験をして戴き、音としても意味としてもまったく同じ言葉が、当て字の違いによってまったく別の詩情を醸すことを証明して戴きたいものである。

どっとはらい。

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コメント

…いや、この問題性それ自体は「シネ=SHINE 」の思考実験でカバーされているんだけどね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月 6日 (火曜日) 午後 09時52分

仏教のお経には、インドのサンスクリット語の当て字がいっぱいあります。漢字に意味がないから、我々が法事で『般若心経』の最後の「掲諦掲諦波羅掲諦波羅僧掲諦菩提莎婆呵」(ぎゃーていぎゃーていはらぎゃーていはらそうぎゃーていぼでぃそわか)を聴いても何も起こりませんが、コップの水を置いておけば、たちまち悟りを開きます(未確認)。
ということはともかく、実は今回のエントリーを読んでいて『なめくじ長屋捕り物さわぎ』の初期のころ「才気照突」(さいけでりっく)「巣乱」(すらむ)「脱奴」(ぬーど)「倶游夫」(ぐるーぷ)などと、凝った当て字がいろいろ出たのを想い出しました。それで、今さら言うのも気が引けますが、黒猫亭さん、ずっと「都築」と書かれてますが「都筑」道夫ですので(笑)。
で、黒猫亭さんの都筑評は「眼高手低」ということでよろしいでしょうか(話がぜんぜん違う方向へ)。

投稿: Leo16 | 2008年5月12日 (月曜日) 午後 08時05分

>Leo16さん

教典には梵語の音写がけっこうありますから、意味がわからないだけに有り難いという部分はありますね。漢語なんかも結構お経に使われていますが、全然意味がわかりませんよね。まあ、仏教の経典というのは音読されてもまず意味がわかりませんが、お水様は語学に堪能であらせられますから、古代サンスクリット語であろうがギリシア語であろうがラテン語であろうが、立ち所に読み説かれて判断されるに違いありません。

水伝を信じておられる方の中には、お水様が言葉の音響によって影響を受けているのではないかとなかなか穿ったことをお考えになる方もおられますが、江本さんのお話によると音波とか震動とかそんな普通の物理学で測定可能なものではなく、「言葉の持つ波動」とやら謂う謎めいたナニが影響を与えているらしいので、やはり言葉の音響学的側面だけではなく字面も影響しているに違いありません。

世界的には圧倒的に表音文字の言語が多いようですが、表意文字も抜かりなくカバーしている辺りがお水様の侮れないところです。これほど賢いお水様だからこそ、我々愚かな人間がわざわざ七重の膝を八重に折って道徳を学ぶ意義があるわけですね。

それはさて措き、

>>それで、今さら言うのも気が引けますが、黒猫亭さん、ずっと「都築」と書かれてますが「都筑」道夫ですので(笑)。

ぅおう、失礼致しました。人間とはかくも愚かな生き物だからこそ、水のような単純な物質にも劣るシロモノと謂われてしまうわけですねぇ。早速認識を改めた上、地下に眠る都筑道夫さんにもお詫びを申しあげます。

>>ということはともかく、実は今回のエントリーを読んでいて『なめくじ長屋捕り物さわぎ』の初期のころ「才気照突」(さいけでりっく)「巣乱」(すらむ)「脱奴」(ぬーど)「倶游夫」(ぐるーぷ)などと、凝った当て字がいろいろ出たのを想い出しました。

そういえばそうでしたね。「なめくじ長屋」は飽きっぽい都筑道夫にしては長持ちしたほうですが、概してシリーズ初期はキャラ描写や文体に凝っていても、段々飽きが来ると普通のパズラーになってしまうのがパターンですね。比較的主人公の設定が地味な雪崩連太郎シリーズにしても、オカルティックな事件を扱って結末をホラー風味で〆るというコンセプトが守られていましたが、主人公の設定も地味ならお話も地味なのが「退職刑事」シリーズで、これなんかはごく短命に終わりましたね。

>>で、黒猫亭さんの都筑評は「眼高手低」ということでよろしいでしょうか(話がぜんぜん違う方向へ)。

高い低いという価値判断を下すのはちょっと気の毒な気がしますね。何というか、ご本人の人柄からは決して出て来ない味わいに憧れておられて、それがどうしても出せない上に、出せないことをご本人も自覚しておられた辺りが不遇だったのかな、と。

以前例に出した「新顎十郎捕物帖」辺り、パスティーシュなので意図的に文体を似せてはいるのですが、同じ言葉を遣っても、久生十蘭の洒脱な文体とご自身の色気のない文体の剰りの落差が嫌でも意識されて、最初は意欲的だったにせよ結局辛くなったんではないかと想像していたりするのですが、どうなんですかね。なにせ都筑道夫という人はかなり狷介な人柄だったようで、剰りその人となりを親しく識るような人がいなかったようなので、飽くまで想像ですが。

しゃばけのエントリーで語った畠中恵も、一方的に都筑道夫に私淑していますが、実際には池袋西武コミュニティ・カレッジの創作講座という、金銭を介した師弟関係でしかなかった辺り、弟子と謂ってもファンのようなものですし。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月13日 (火曜日) 午後 03時05分

都筑道夫さんのファンなので(笑)もうちょっと書きますね。

>『退職刑事』シリーズ
>これなんかはごく短命に終わりましたね。
いや、『退職刑事』は、第1巻が1975年、最終巻が1996年刊行と、断続的に20年も書き継がれていて、たぶん『なめくじ長屋』に次ぐ息の長さだと思います。中期からは、作者が退職刑事の口を借りて、消えつつある昔の東京の風俗や文化を、息子の現職刑事(読者)に語って聞かせるようになって(『半七捕物帳』の冒頭で、半七老人が「私」に「今の人は知らないでしょうが」みたいなことを言う、あの感じを狙ったのかとも思いますが)作者も次第に愛着が湧いてきたみたいですよ。

退職刑事もなめくじ長屋も、長い目で見ると、本格パズラーと、シメノンあたりを意識したストーリー本位の作品や、幻想小説の方向との間を行ったり来たりしていて、黒猫亭さんの「段々飽きが来ると普通のパズラーになってしまう」という評価は、私の印象とはちょっと違うかな。

>ご本人の人柄からは決して出てこない味わいに憧れておられて
>出せないことを本人も自覚しておられた辺りが不遇だったかな
たぶんそのことを暗に証明するのが『新顎十郎捕物帖』文庫版の「あとがき」だと思います。「これは、パロディではない。文体模写のあそびでもない。久生十蘭が、顎十郎というキャラクターにあたえた魅力を、状況設定もそのままに、私の文体で、継承したものなのである」と書かれていて、つまり「文体模写の遊び」(パスティーシュ)ではない、と作者は明言している。ところが実際には、黒猫亭さんが書かれているように、本家の文体をかなり意識していた痕跡が見受けられます。つまりこのあとがきは「やっぱりパスティーシュは無理だった」という無念の気持ちで書いた敗北宣言ないしは自己弁護と取れるわけで、まあ、そっとしておいてあげてください(笑)。

私なりの理解で言うと、この人は視覚的なイメージが先に立つタイプの作家です。小説の冒頭は具体的な情景描写から始まることが多いし、叙述トリックにさえ、本の白紙ページを利用した演出を施しています。そのため、文章がしばしば、ヴィジュアルを説明する道具になってしまい、文体そのものの魅力で自立しきれなかった。それが黒猫亭さんのおっしゃる「色気」のなさという問題に通じると思うのですが、長くなってしまったのでこのへんで。

話を強引にテーマに引き戻すと、『しゃばけ』の作者同様、都筑道夫に私淑して、弟子を自称する人に、疑似科学なんでも信者の高橋克彦先生がいらっしゃいますね。ってホントに強引だなおい。

投稿: Leo16 | 2008年5月14日 (水曜日) 午後 02時06分

>Leo16さん

どうも、お返事が遅くなりました。Leo16 さんのご指摘に沿っていろいろ調べて確認していたものですから。

>>いや、『退職刑事』は、第1巻が1975年、最終巻が1996年刊行と、断続的に20年も書き継がれていて、たぶん『なめくじ長屋』に次ぐ息の長さだと思います。

すいません、これは完全にオレの勘違いでした。オレが退職刑事を読んだのは七〇年代末から八〇年代初頭にかけてで、単行本にして一、二巻程度ですから、シリーズがそんなに長い間継続しているとは思いませんでした。まあ、氷河は一見停まって見えるが長い時間のスパンでは活発に動いているということですねぇ。二〇年掛けて創元社文庫で全六巻だから、これはかなり蝸牛の歩みということになりますね。

人によってはこれを都筑道夫の代表作と視る方もおられるようで、返す返す不見識なことを申しあげました。序でに告白しておくと、なめくじ長屋シリーズもすべて読んでいるわけではないんですよ。精々三巻前後ですかね、基本的にオレは作者が飽きてきて中だるみする頃合いに自分も飽きてくるというパターンのようですから、都筑道夫の個人史上の小説観の変遷を語るにはちょっと怠慢ですね(笑)。オレは世間の愛書家の方に比べると結構蔵書を頻繁に処分するほうなので、実はこの歳になってくると何をどの程度読んだのかたしかなことがわからなくなってきています。

ですから、「段々飽きが来ると普通のパズラーになってしまう」というのは、そのくらいの段階でこっちが飽きてきて真面目な読者ではなくなる、というのが正確な言い方になりますかね。まあ纏まった形ではないですが、近作もちらほらとは読んでいるので、評論の考え方などから類推して「気持ちはわかるが、やっぱりこのラインには勘のない人だな」という印象にはあんまり変わりないですが。

>>たぶんそのことを暗に証明するのが『新顎十郎捕物帖』文庫版の「あとがき」だと思います。

ああこれ、なんかLeo16 さんらしい心情推理だなぁ(笑)。なるほど、と思わせるところがあります。ただ、Leo16 さんが引用された部分では「パロディではない」となっていますので、パロディとパスティーシュの峻別ということを語った都筑道夫の論に倣って別に論じましょう。

パロディというのは、たとえば有名なホームズの例で謂うと、シャーロック・ホームズという原作を崩していくもので、たとえ便宜上変名で書かれていてもホームズだという前提でその原典の様式を崩していくものですよね。で、パスティーシュというのは必ずしもホームズでなくてもいいわけです。

「文体模写」とも「贋作」とも訳語が充てられていますが、パスティーシュというのは基本的に崩していくものではなく似せていくものですよね。一頃ポストモダン批評ではコピーとシミュラクラという対比が語られましたが、基本的にパスティーシュというのは違うものをシミュレーションによって近附けていくものですから、必ずしもホームズそれ自体でなくても好い。

たとえばルブランのルパン物に出てくるホームズは、本邦では平気でホームズと呼ばれていますが、実は現時点においては「エルロック・ショルメス」という別人であるということになりますよね。これは発表当時は本当にホームズだったわけで、ドイルサイドから抗議を受けて変名にしたのだから、最初はパロディでもパスティーシュでもない単なる「キャラの無断借用」だったのが、名前を変えて別人にしたことでパロディとしての性格にシフトしたということになりますか。

そもそも愛国者ルブランが書きたかったのは、シャーロック・ホームズという英国随一のクライムハンターがアルセーヌ・ルパンという仏蘭西随一の職業的クリミナルに知恵比べで敗れた、という「小説的事実」であって、パロディでもパスティーシュでもないわけですね。謂わば犯罪の英仏戦争というわけです(笑)。モリアーティなんか「犯罪のナポレオン」だなんて仏蘭西の英雄を僭称しているが、英国人だからホームズにも勝てなかったんだというわけですね(笑)。

ルブランの底意としては、狭い島国の中で世界一の大探偵でございと大きな顔をしていても、ドーバーを渉ったらそうはいかないぜ、この仏蘭西国には世界一の犯罪王とまで謳われた大悪漢がいるんだぞ、という、割合大人げない(笑)動機で書いていたわけで、最初の意識では、小説内現実で実際にホームズという人物がルパンという人物に一本取られたという話だったわけです。

しかし、ドイル側の抗議を容れて名前を変えることで、ショルメスは名実共にルブランの創造に成るオリジナルキャラとなったわけで、ホームズを基にしてルパンサイドの都合でドイルオリジナルのホームズ像を崩しているわけですから、パロディとしての側面を持つようになった、という成り行きになるかと思います。

新顎十郎に関しては少し事情が複雑ですね。本来これはパロディでもパスティーシュでもなく、ルパンとかボンド物、少し性格は異なりますがペリー・ローダンシリーズのように「複数作家によって書き継がれるキャラシリーズ」を日本でも出来ないかというコンセプトで書かれていて、十蘭遺族の許諾を得て書かれている以上、「正統的な顎十郎物の続編」ということになります。

その前提で謂えば、設定とテイストさえ継承すれば、比較的自由に書いて好いはずなんですね。この例で謂えば、まさにいつもの都筑道夫の文体で書いて都筑道夫の作品として発表しても好かったはずなんです。

本来的には、ペリー・ローダンや、たとえばアメコミのヒーロー物のように、誰それの書いた顎十郎にはこんな味わいがあって、彼それの書いた顎十郎には別のこれこれの味わいがある、就中嚆矢となった十蘭の顎十郎は格別だ、というふうに、キャラをベースに多様性を考えるのがコンセプト上の在るべき形ではあるでしょう。

しかし、実際には都筑道夫の意識として文体模写の企図がまずあったんじゃないかと思うのですよね。彼自身が三一書房版の解説で「『りゅうれんこうぼう』か『るれんこうぼう』か」と論じたこともある「流連荒亡」という語句をはじめ、原典で印象的な形容詞を交えたり、言い回しや比喩の含意が十蘭式発想を意識している部分があったり、常日頃に増して音読した場合の文章のリズムに気を遣っていたり、都筑道夫自身が指摘した十蘭文体の要諦を盗もうという意識が見えると思います。

これはまあ、最初の企図が挫折した結果現状のものになったと視るべきか、元々の意図に反して十蘭の文体に引き寄せられたものかは、実はハッキリしませんよね。そもそも顎十郎捕物帖自体、都筑道夫式の「論理のアクロバット」式のパズラーとは全然方向性の異なるミステリで、有名なトリックなんかもありますが、寧ろ「奇想」の面白さが眼目になっている部分があり、あの時代の作家らしく或る程度海外の名作トリックの翻案という部分もあるし、顎十郎の語る推理に穴のある部分も目立つ。

だから、方向性としては仙波阿古十郎や藤波友衛、ひょろ松、花枝、雷土々呂進というようなレギュラーキャラの設定を崩さずに、都筑式のキャラ描写で別の魅力を描き本来の都筑式ミステリを展開するというのが相応なんだと思いますが、多分続編を書くに当たって原作を読み返すうちに、顎十郎物の魅力は一に掛かってあの文体に拠るという事実の重さに抗えなくなったんではないですかね。

つまり、いろいろ考えるうちに、やっぱりああいう文体でないと顎十郎の世界ではなくなるのだし、精一杯模写するとしても遠く十蘭には及ばないのは判りきっている、だから模写はしたくないし出来るわけもない、でもそうせざるを得ない、困ったな、そういう心境に至ったのではないかと想像するわけですね。

ですから、Leo16 さんが引用されている述懐も、パロディのつもりで顎十郎の世界を崩そうだのからかおうだのと不遜な気もなかったし、かと言って、「文体模写だ」と言ってしまうのも烏滸がましい、本物は到底こんなものではないのだから、という敗北感の顕れであろうというのは妥当なご推察だと思います。最初は「俺の手で顎十郎が書けるのだ」と逸ってはみたが、決着するところ「どうすれば顎十郎になるのか」という文体上の問題に終始振り回された、そんなところではないかと想像します。

顎十郎物がミステリとしても割合ちゃんとしているという一般的な定評に異論はないのですが、種が割れた上で読み返してもその都度面白いし、何度読み返しても文体に酔うという陶酔的な魅力があります。これは、文体の性格は全然違いますが、同じく都筑道夫が尊敬する岡本綺堂の半七捕物帖や怪談小説にも通じることで、オレは顎十郎と半七を生涯で大体平均して五回くらい読み返していますが、その都度巻を措くことなくマイブームとして最終話を読み終えるまで暫くの間小説の世界に没入することが出来ます。

或る種、娯楽小説の要件はアイディアやプロットだという一般則の対極にある、文章それ自体の魅力を具えているのですよね。誤解を恐れずに謂えば、落語や講談のような魅力が文字に宿っているわけです。都筑道夫が憧れたのは、半七や顎十郎で書かれている小説内事実の世界ではなく、そのような小説内事実を書く際の言葉それ自体が醸し出す洒脱な魅力だったのでしょうし、たとえばそれは綺堂が芝居語りの中で「むかしの芝居者は芝居に文学性やテーマなんか求めなかった」と語ったような感覚に近いのかな、と思います。

だから、多分都筑道夫の憧れと失望というのは、たとえば落語の才能を巡る芸談なんかに近いのかな、という気がしないでもないです。都筑道夫は類稀な才人ではあったのだろうし、古今の名作に通じた研究家ではあったのだろうけれど、落語に喩えればその芸にどうも華がない。彼ほどの才気や博覧強記がなくても、生まれつき華がある芸は理屈抜きに面白いのだし、考えて努力して確立した芸は結局生まれつきの華にはかなわないし真似が出来ない、そういう芸談に近いものがあるのかな、と思います。

で、芸事のアナロジーで謂うなら風姿花伝みたいな考え方もあるわけで、生まれつきの華がすべてというわけではない。しかし、都筑道夫が文体の色気や「うまい小説」に憧れを持つのは、おそらく小説家という社会的な立場に関する動機ではなく、寧ろ東京人としての自己規定に関する問題なのではないかというふうにも思うわけで、自分は江戸から東京へかけての時代性を辛うじて直接体験として受け継いでいるのだから、綺堂や十蘭のような粋で洒脱な芸風を継承すべき立場にあるという、東京人としての自意識の問題だったんではないかな、と思います。

ただまあ、これはオレが都筑作品をあんまり好きではない理由と重なるんですが、なんというか、都筑作品には妙に下世話に人が悪い部分があるんですよね。こういう人の悪さというのは、後代の小説家だと赤川次郎なんかにも感じる部分なんですが、真相の意外性や読者の裏切り方に妙にニヒルな人間観が顕れている部分がある。

その辺、十蘭も綺堂も畑は違えど両方本業は劇壇のほうですから、ベタな人情を怖じずに語る部分がある。綺堂などは、半七や怪談では抑制が効いているのに、劇作の小説化においては寧ろそのセンチメンタリズムが剰りに過剰で辟易するくらいです。

たとえば十蘭の顎十郎を洒脱に見せている要因の一つに、そういうベタな人情のツボを「世話に長けた」語り口で突く部分があって、「氷献上」や「丹頂の鶴」なんてのはベタベタの人情噺だったりするわけですね。

綺堂の半七だと、実はもうちょっとエグい猟奇犯罪的な話(獣姦とかSMとか)が多いんですけど、そういう猟奇談に対する興味が下品ではないという育ちの良さ(旗本の倅ですから)が、実はかなりえげつない三面記事的な事件を抑えた筆致の話芸として成立させている。人間というのはこういう下世話な生き物だよなぁ、という部分が変に近代に毒されずにハードボイルドに語られているという言い方も出来ますかね。

ですから、実際にその方向性を受け継いだのは、一貫して独自の語り口と文芸的なアクチュアリティに基づく世話を語り続けた池波正太郎辺りであるということになるわけですが、どうも都筑道夫の人間観というのはそれらのベタなラインに比べると七〇年代的にモダンでニヒルな感じがするわけです。

しかし、その辺の都筑道夫観というのは、実際に七〇〜八〇年代に書かれた作品から受け取った印象が強いわけですから、もっと九〇年代以降に書かれたような作品も読んでみないとたしかなことは言えないですね。近代から取り残された封建社会の因習を描く作家と思われている横溝正史や、見世物小屋的な泥臭い猟奇譚を得手とすると思われている江戸川乱歩にしても、出発点においてはモダンな軽薄才子的なラインで売っていたわけですから、活躍期間の長いベテラン作家を一時期の印象だけで語るといろいろ間違いの基になる。

機会があったら、都筑道夫の小説作法の変遷を探る意味で、なめくじ長屋や退職刑事など長年月に亘って書かれた作品の続刊を読んでみようかと思います。畠中恵も談話中でなめくじ長屋シリーズの質的な変遷に触れていますし、これは京極夏彦の巷説シリーズにも影響を与えていると思いますので、文芸の世界において継承されるそういう線的なレガシーの部分を考察する意味でも通読する価値はありそうですね。

また、最後の最後にこういうことを言うのもアレですが、オレ自身が久生十蘭と岡本綺堂を偏愛するのは、これはまさしく都筑道夫の評論を読んで、彼のこの二人の作家に対する強烈な憧憬からモロに影響を受けたせいではあります(笑)。ミステリ批評の分野で影響を受けたのは、都筑道夫と各務三郎の評論ですかね、ですから、実はこの分野における評論の師匠の一人は都筑道夫だということになります。

都筑道夫が賞賛する「うまい小説」の書き手でオレが殆ど読んでいないのは、シメノンくらいですかねぇ。これは、オレが小説を愛する場合に重要なのは文体なので、翻訳物では今ひとつピンと来なかったのと、河出から出た一連のメグレシリーズの新書が妙に高かったので貧乏人には手が出なかったということもあります(笑)。都筑道夫の紹介なんかでは「シメノン」表記が多かったのでこの文脈ではシメノンで通しましたが、ウィキによるとやっぱり「ジョルジュ・シムノン」が正しいみたいですね。

「1956年に木々高太郎がシムノン本人に会ってシムノンが正しい発音であると確認」ということですから、オレが生まれる以前にはすでに発音が確定していたわけで「シメノン」表記というのは、「俺はそれ以前からシメノンを愛読していたんだぞ、今更シムノンなんて呼べるかよ」という底意の、ちょっと厭味なスノビズムということになりますでしょうか(笑)。

そういう次第で「シメノン」は全然読んでないんですが、池波は一時期かなりハマって鬼平などは長短編併せて全巻読みましたね。

「『たまらなくうめぇ』                  のである」

とか言って遊んでいましたよ(笑)。その影響から牛縄の一節で「男ぶり、女ぶり」なんてことを語りましたが、これは池波の表題の本歌取りであると同時に、教養文庫版傑作選の解説において十蘭の小説をこの言葉で表現したのは他ならぬ都筑道夫ですから、その影響とも言えるわけです。

そういう次第で、何とかLeo16 さん宛てのお返事をセラムンネタで締めくくることが出来ましたので、今回はこの辺にて(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月16日 (金曜日) 午後 04時17分

当局査察が終了したものの、報告書書きに忙殺され中なのに、「シメノン」と来ては…w

メグレシリーズは一時期とてもハマって、ほぼ全部読みました。ワタシの場合はドイル→クロフツ→クリスティ→シムノンって感じでしょうか。そしてその頃の本邦の探偵小説は全く読んでないんですな。ここでの主題、都筑先生の御作は一冊も読んでいないのです。

メグレシリーズは何と言うか「上品」です。メグレ警部(警視)のご家庭描写は、特にその「食事」が美味そうで、それだけをピックアップした料理本まで出てました。牛すね肉のワイン煮とかを作ってみたなあ(遠い眼)。

綺堂先生は確かに読み飽きないですね。そして池波先生のそこはかとない下世話さとはまた違う「上品さ」が実に他には無い味だと思います…とか言って、一番印象的なフレーズは、

「とうから情交(わけ)があったんです」

だったりする訳ですがw その一言で動機説明ですか先生!とw

「しゃばけ」シリーズは楽しく読んだので、その流れで都筑先生の代表作も行ってみようかなと思う今日この頃でございます。

投稿: shof | 2008年5月17日 (土曜日) 午前 11時49分

>shofさん

池波とか綺堂を語り始めるとキリがないですが、綺堂と十蘭は全巻手許に残してあるというのに、池波作品は十数年前に処分したきり買い直していません(笑)。その辺、何度読み直しても面白いと感じる二人に比べて、池波正太郎は一回読んだらもういいやと思わせる部分があります。

短編主体の綺堂、十蘭に比べて池波のは新聞や雑誌連載の大長編が多くて、その辺やはり一々プロットなんて考えてねーだろうという部分はありますね(笑)。二〇〇頁前後なら話がなくてもいいんですが、上下巻で数百頁ということになると、ちょっとプロットの弱い小説だとキツいものがあります。

ただ、その分鬼平や剣客商売のような連作短編はいいですね。キャラで引っ張れる部分がありますから、とくに話がなくても構わない。池波の世話は思い切り下世話な生世話ですから、劇中時間の進行に沿って劇中の人々の生活に触れるだけで楽しめる部分があります。まあこれは、殆ど「美味しんぼ」なんかに近い感覚ですが(笑)。

メグレ警視シリーズは、最初に触れたのは原作ではなくTVドラマの「東京メグレ警視シリーズ」ですねぇ(笑)。これはおそらく唯一にして無二の愛川欽也主演のシリアス連続ドラマシリーズと言えるでしょうから、本人の意気込みもかなりのもので、放映当時は自身がパーソナリティを務める深夜放送のパックインミュージックで頻繁に話題にしていました。

これは、更めて調べてみるとABC制作ということなので、部長刑事辺りの刑事ドラマの連続上の番組ということになるのでしょう。愛川欽也のメグレ(目暮)役起用に対する不満は当時からあったようですが、原作を読んでいないオレは割合目暮警視のキャラ自体は悪くなかったと思います。愛川欽也にしてはダンディでしたし、寡黙なキャラなんであの暑苦しい声もあんまり気になりませんでした(笑)。

原作は読んでみたいとかねがね思っているんですが、何分シリーズの大半が河出から出ていて、古書でもあの薄い本が一冊一〇〇〇円前後ですから、ちょっと手を出す気にもなれないというところです。

>>「とうから情交(わけ)があったんです」
>>
>>だったりする訳ですがw その一言で動機説明ですか先生!とw

似たようなパターンとして「手早く関係をつけてしまったというわけです」というのもありますね(木亥火暴!!)。

半七捕物帖は大体深刻な動機なんか描かれませんね、復讐とか思想とかそういう重い動機はほとんどない。動機の謎を扱ったもの以外では、大半の動機が色かカネ、まあその意味でも事件自体は下世話なものが多いですね。半七で動機の説明によくある言い回しとしては、

「まだ肩揚げの降りない頃から色っぱやくて」

「まだ小娘のくせに増せた娘で」

「お定まりの色と欲との二人連れで」

この辺りが代表格ですね、やっぱり金銭目的か痴情沙汰のどっちかが多い(笑)。でも有無を言わさぬ最強の説明はこれですね。

「こいつがまあ、悪い奴で」

悪い奴なら悪いことをするのも仕方ありませんなぁ(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月19日 (月曜日) 午前 09時56分

はじめまして。

>「藤村甲子園」を「ふじむらきねくに」と読むような一種の妥協に過ぎない

というのは、黒猫亭さんの記憶違いではないかと思います。
Wikipediaでの記述(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E3%81%A9%E3%82%A2%E3%83%9B%E3%82%A6%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%9C%92)もそうですし、私の記憶にも

球乃進:初孫の名前を強硬に「甲子園」にしようとする
秀人:妥協案として「甲子国」を提案する
球乃進:「こうしくにやて~」と嘲笑する
秀人:憮然として「これはきねくにと読むのです」

というシーンがありありと残っています。
「男どアホウ甲子園」が段ボールの奥底ですので確認は困難ですが。

以上、重箱の隅突付きでした。
今後とも黒猫亭さんの文章を楽しみにしております。

投稿: 山形ミクラス | 2008年5月27日 (火曜日) 午後 08時36分

>山形ミクラスさん

いらっしゃいませ。

>>>「藤村甲子園」を「ふじむらきねくに」と読むような一種の妥協に過ぎない
>>
>>というのは、黒猫亭さんの記憶違いではないかと思います。

あ、ホントだ、ウィキにもそう書いてありますし、間違いないでしょう。ご指摘有り難うございます。どうもこのエントリーはツッコミを戴く隙が多いなぁ(笑)。

オレもご紹介戴いたような場面を想い出しました。その遣り取りよりも、爺ちゃんが役所で「甲子国」と書こうとして一瞬迷って、「許せよ」とか言いながら「こうしえん」とフリガナを振る場面のほうが印象が強かったものですから、フリガナのほうは覚えていたんですが、一文字違うことは忘れておりました。

それ以前に不思議なのは、オレは別段水島新司の野球漫画のファンでも何でもないのに何故そこだけ覚えているのだろうということなんですが。思うに、オレも子供の頃は自分の名前が好きではなかったので、「甲子園」という恥ずかしい名前を附けられた主人公のことが他人事には思えなかったのでしょう。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月27日 (火曜日) 午後 09時35分

>どうもこのエントリーはツッコミを戴く隙が多いなぁ
とのことですので、「パスティーシュ」の定義とか「シメノン」のこととか、いろいろ教えてもらっておきながら何ですが、ついでに。『半七』も『顎十郎』も『新顎十郎』も「捕物帖」ではなくて「捕物帳」でした。これは私の書き込みにも誤記があります。やっぱりお水様のことを悪く書くと、バチがあたるなあ。
「水よ、水星よ、私に力を!」(Final Act)

投稿: Leo16 | 2008年5月29日 (木曜日) 午後 11時43分

>Leo16さん

>>『半七』も『顎十郎』も『新顎十郎』も「捕物帖」ではなくて「捕物帳」でした。

これも紛らわしいですねぇ。たしかに表記上は仰る通りですから、書題としてはそれが正解ですね。ですから、一応捕物帖ミステリの嚆矢は「半七捕物帳」ということになっているのですからみんな「捕物帳」で良さそうなものですが、むっつり右門とか若様侍とか伝七とか岡っ引きどぶとか安吾捕物帖辺りを視ても、主流的なのは「捕物帖」のほうなんですよね。

で、捕物帖とは何かというと、半七の「石灯籠」によると、「捕物帳というのは与力や同心が岡っ引きらの報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に当座帳のようなものがあって、書役が取りあえずこれに書き留めて置くんです。その帳面を捕物帳といっていました」とありますから、まあ帳面の意味です。

で、綺堂が言うような意味であるなら、本当は「帳」ではなく「帖」のほうが正しいだろうというのがありますので、作家によっては半七に倣って「捕物帳」とはせずに「捕物帖」というふうに表記しているんでしょうね。本来「帳」というのは「帳幄」というふうに遣う漢字で「とばり」という意味なんですね。何故か今では「帳面、帳簿」という意味で遣われていますが、本当ならその意味であれば「帛に書き記したもの」という意味の「帖」の字でなくてはならないわけです。

時代小説を書く作家なら、まして今のようにIMEが自動的に変換してくれるわけではなく、一画一画自分の手で書いていた時代においては、その辺の字解にも拘りがあるでしょうから、結果的に「捕物帖」表記のほうが多くなったのでしょうね。勿論、そうは言っても綺堂や十蘭が「捕物帳」と書いているのですから、書題としては「捕物帳」が正解であることは当然です。言い訳をするわけではありませんが(笑)、「捕物帖」という変換のほうが自然なのはそういう理由があるということでしょう。

>>「水よ、水星よ、私に力を!」(Final Act)

…すいません、それってオマジナイ程度の効果しかなさそうな気がするのはオレだけなんでしょうか(笑)。つか、微妙にオレには効いてますが(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年5月30日 (金曜日) 午前 12時46分

「話芸“きまり文句”辞典」編者で「ナンドク」著者の松井です。リンクありがとうございます。
高輪に「火鳥夜狩」(多分「ひとりよがり」)というスナックがあるようです。軽くご報告まで。

投稿: 松井高志 | 2008年9月14日 (日曜日) 午前 08時51分

>松井高志さん

はじめまして、コメント有り難うございます。情報を利用させて戴いただけで本文については言及していないので、TBをお送りするのも却って図々しいかなと思いまして無断でリンクさせて戴きました。最近のネチケットも一律ではないので難しいですが、ご気分を害しておられないようでホッとしております。

>>高輪に「火鳥夜狩」(多分「ひとりよがり」)というスナックがあるようです。軽くご報告まで。

こ…これは凄い(笑)。

最早この域になると、夜露死苦なのか来夢来人なのかすら判然としないハイブリッドのパターンですね。思うに、高輪という土地柄から考えて、数十年前に大森から高輪一帯の第一京浜沿いでブイブイ言わせていた暴走族の一人が、俗世間の荒波に揉まれて苦労した末に開店資金を貯めて念願だった店を持つことが出来た、そんなベタベタなストーリーを思い附きました(笑)。

なんというか、元々の体質的には夜露死苦系のセンスの持ち主が無理をして来夢来人系の当て字を考えた、しかし哀しいかなその夜露死苦な本性が滲み出て微かに血腥い臭いがする、そんなイメージがあります(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年9月14日 (日曜日) 午後 03時25分

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