a landlady
実は今季は一月期に比べて連ドラをよく観ているほうで、一応今季オレが観ているドラマは以下の通りである。
NTV
おせん
ごくせん
TBS
ROOKIES
CX
CHANGE
絶対彼氏
ハチワンダイバー
テレ朝
7人の女弁護士2
君犯人じゃないよね?
TX
ケータイ捜査官7
秘書のカガミ
予定ではTBSは全滅のはずだったのだが、新枠の「ROOKIES 」が意外に健闘しているので、これだけは残した。またテレ朝はABC枠の「パズル」も視聴する予定だったのだが、一話を観た段階で切った。もうね、イヤな奴しか出て来ないドラマは、観ていても心が寒くなるだけですよ(笑)。設定上は結構イヤな奴のはずの主人公を可愛げのある莫迦に見せている山本裕典の柄は悪くないと思ったし、石原さとみは本来こういう役のほうが合っていると思うのだが、如何せんそれだけで視聴を続けるのはしんどい。
テレ朝に関しては、7弁もキミハンも脱落寸前というかすでに脱落している感じではあるのだが(笑)、まあ惰性で毎週録画しているので数に含めている次第である。なのでそろそろドラマのレビューも再開しようかと思っていたのだが、今回いの一番に採り上げるのは、チャンネル別・曜日別でソートしてトップに来る日テレの「おせん」で、個人的な嗜好としてもこれがいちばん楽しめている。
正直言って、お話自体は窮めてつまらないと思うが、蒼井優の本格的な連ドラ主演作ということで、彼女の魅力を堪能する作品だろうと思う。原作コミックスをいろいろ調べてみると、ほぼ別物と言って好いくらいキャラも設定も変わっているようだが、要するにこれは内博貴の本格復帰を演出する企画なのだろうから、ドラマ化としてはこんなものだろうと思う。
テレ朝の「めぞん一刻」のような原作ありきの企画というのは今時珍しい部類で、小説やコミックスを原作に据えたドラマというのは、キャスティングを中心にした基本コンセプトに基づいて容れ物を物色したというだけのものだろう。取材に基づく情報性やプロットに力のある原作なら比較的原作に近くドラマ化されるし、設定の奇抜さやキャラの魅力に頼った作劇なら、美味しいところだけ戴いて後は割合奔放に脚色されてしまうという、それだけのことだろう。
原作は読んでいないからたしかなことは言えないが、主人公・半田仙のキャラの魅力で見せる物語であることは間違いないだろうし、そんな劇画中の個性的な人物そのままの柄の女優を探したり、原作キャラの柄に合わせて演技の方向性を模索するという手間を掛けるより、既定の主演女優の柄に合わせてキャラを改変するほうが製作の実態として合理的である。
無責任な言い方だが、原作コミックスは未読で蒼井優に興味がある視聴者としては、とにかく蒼井優のおせんが可愛いからそれだけでいいという性格のドラマである。同局制作の「バンビ〜ノ!」に比べると板場の雰囲気も家族的で、バンビで言うと鬼軍曹的な先輩料理人・香取望に当たる二番板の竹田留吉も、なんとなくよっちゃんさんのペースに載せられ気味で完全にナメられている。
寡黙な板長・藤城清二も、凶暴な異常者を演じることが多い杉本哲太が演じている割りには、バンビのオーナーシェフである穴戸鉄幹辺りに比べるとトメさんやよっちゃんさんに甘いというか優しい印象がある。
これは元々原作ではよっちゃんさんが板前見習いではなく帳場係だから、ということもあるだろう。本来は板前見習である主人公の成長物語ではないのだから、板場に主人公の人間的成長を促すような緊迫した厳しさは要らない。ドラマのほうでは、主に年若いロリ系女将のおせんとよっちゃんさんの附かず離れずの尻こそばゆい関係性のほうに焦点が当たっているので、よっちゃんさんのいい加減で軽薄で無駄に前向きな性格が治ろうが治るまいがどうでもいいという見え方になっている(笑)。
設定的に視るといろいろアレな部分はあって、当初よっちゃんさんの初任給が五万円なのは、経営者ががめついという設定なのかそれともそういう教育方針なのかと思っていたら、物語を続けて視ていくと単に儲かっていないからだとしか思えない辺り、何というか、そうまでして続けるのは商売としては正しいのか、という疑問がないでもない。
おそらく金銭的満足感や社会的価値とは別種の価値観を提起した物語なのだろうし、その意味で完全な御伽噺ではあるわけだが、もてなしの商売だってもてなしそれ自体が目的の趣味道楽なのではなく、採算の合う商売として継続していくのが健全だろうし、そういう意味では金銭的な収支が不健全な商売をリアルに肯定されても困るわけである。
この作品では、要するに主人公・半田仙の天才的な美的感覚を絶対的価値観に据え、経済を超越した価値基準に基づいて満足感の得られる内面的なライフスタイルのようなものが描かれていると思うのだが、言うまでもなく「天才的な美的感覚」というのを説得力のある本物の映像で見せることは難しい。そもそも現実の絵面としては、舞台となる壱升庵の老舗料亭としての格式など表現出来ていないのだし、おせんのもてなしや美意識も趣味の素人料理の感覚を出ていないのだから、まあそれを問うのは野暮である。
そういう意味で、お話自体は御伽噺として視るべきだろうし、成長物語的な興味も薄いわけだから、いっそ他愛のないキャラクタードラマとして視るのが正解だろうと思うのだが、おせんというキャラ自体の造形はそれほどしっかりしたものではない。おせんというキャラを透かして見えてくる女優・蒼井優の柄の可愛さが魅力的、というのが正確なところだろう。
そもそも第一話からして、何故かおせんはよっちゃんさんに好意的に見えるし、彼が考え方の違いから壱升庵を辞めると告げた時の受けの芝居は「やる気のない奴は辞めろ」というような恬淡としたものではなく、少し未練や戸惑いを覗かせているようなものになっている。
諄いようだが原作は未読だから、これに類するエピソードがあるのかどうか、あったとしたらどのような描き方になっているのかは知らないが、少しはにかんだように伏し目勝ちに「短気な人ね」と怨ずるセリフ廻しには、「もう少し我慢してわかってほしかったのに」という底意があるわけだが、普通、相手が辞めると息巻いた場合に上位者が下位者を諭すなら、冷たく突き放すのがセオリーである。
成るも成らぬも本人が自己責任でその道を選ばなければ何事も始まらない。辞めるというのはそれを半ばにして放棄するということだから、そこを自身の意志で更めて選び直させる為にも引き留めずに突き放すのが成長物語のセオリーである。しかし、ここでおせんは引き留めないまでも突き放しもせずに短慮を詰っているわけで、本人の成長を見越した上位者の発言というより、自分の気持ちとして未練を覗かせているわけである。
この段階ですでに、おせんのほうでよっちゃんさんを憎からず思っているというニュアンスが醸し出されているのだし、さらに原作と違って彼は旅館の倅の帳場係、つまり経営者層の側に属する人間ではなく、数人いる板前の一人、つまり従業員の側に属する人間なのだから、女将と二人だけで行動する表面的な名目がない。辛くも追い回しの新人を使い立てしているという形でおせんとよっちゃんさんのツーショットが頻出するわけだが、おせんが原作のキャラのようなグラマラスな美女ではないから、貫禄のあるリーダーが下っ端を連れ回しているというより、何となく初々しいカップルのような雰囲気が濃厚に絵面に顕れる。
第二話の味噌造りの話のように、二人で夜なべ仕事をしている場面でのポツポツとした会話などは、よっちゃんさんが基本的にタメ口ということもあって、おせんが憎からず思う相手とはにかみながら言葉を交わしているような尻こそばゆい雰囲気が出ていて、しかもよっちゃんさんのほうはおせんを女将として、もしくはただの年下の女の子としてしか視ていない辺りが妙なバランスで面白い。
最初に言ったように、このドラマはお話としては割とつまらない作品で、それはおそらく脚本が弱いからだと思うのだが、演じている蒼井優のつもりでは、おせんはよっちゃんさんのことが好きでそういう自分の気持ちをよくわかっていないし、よっちゃんさんのほうではおせんのことを何とも想っていない、という想定で演じているのではないかと思う。
そういう意味では先週の第六話の見合い話などはかなり微妙なのだが、ギリギリ普通の年相応の女の子の楽しみを識らないおせんの、凡庸な少女性に対する憧れとして意味附けている辺りで何とか整合していると言えるだろう。おせんの中では、千堂保に対する好意はハンバーグという下世話な料理を楽しむデートと一体不可分なものであり、それが千堂がおせんに視ていた理想とすれ違っている故に、結局この縁談は互いが互いに視た幻想でしかなかったことが最終的に判明する。
そういう構造の作劇として視た場合、やはりけっこう雑な脚本だと感じてしまうのではあるが、蒼井優の芝居を観るのが眼目の作品なのだから、脚本が整合していなくても蒼井優の芝居が整合していればそれで好いという言い方も出来る。これまで六話を視てきて、どうも制作サイドにはおせんとよっちゃんさんの関係性に関してそれほど緻密な計算はないのではないか、もしくはバラバラな脚本陣の意思統一が上手く行っていないのではないかと思うのだが、多分、演じている蒼井優の中には割合一貫した情感のストーリーがあるのではないかと思う。
このドラマにおいて蒼井優の芝居を観るということは、彼女の中にしかないそういうストーリー性を視ていくということでもあるだろう。そういう意味で、ピリッとしたところもないし制作サイドのコンセプトワークもふらふらしたこのドラマを、蒼井優の芝居が保たせている部分はあると感じる。
で、第六話で視ていけば、おせんとよっちゃんさんの関係性のドラマとして視た場合には何となく曖昧で焦点のボケた話にしか見えないが、蒼井優の中にある物語性はバランスがとれていると感じるわけで、千堂とのデートや大詰めの失恋は凡庸な少女性への憧れの破綻として抑揚を抑えておいて、そんなおせんの失意を慰めようと自前のアイディア賄いで奮闘するよっちゃんさんとのハンバーグ作りを情感の頂点に設定している。
ただ、エピローグでよっちゃんさんがおせんをデートに誘うくらいなら、賄いのくだりは要らなかったということになるのだから、これは蛇足ではないかと思うのだが、このドラマの脚本はどうもそういう計算の出来ていない部分が目立つ。
常日頃のおせんとよっちゃんさんの間柄で言えば、おせんが一度ハンバーグを食べてみたいだけなのなら、世慣れた遊び人のよっちゃんさんが一言「今度一緒に行こう」と言えばそれで話は終わってしまうわけで、実際大泉洋がゲスト出演した第四話の話では、台場建二に唆された思惑絡みとは言え、よっちゃんさんはおせんを二人だけの待ち合わせに誘っていて、いつもよりめかし込んだおせんがいそいそと店を抜けるのだから、おせんがそれで喜ぶのだと思えば、よっちゃんさんの性格ならおせんがそう言った瞬間に何の下心もなく気軽に誘ってもおかしくないわけである。
では何故そうは行かないのかと言えば、それが「デート」だからであり、「洋食は結構食べる」わけだから、ハンバーグを食べたことがないという話ではないのである。そういう形のデートに憧れている女の子を、そういう形で誘ったら、それは必然的にデートになってしまうから誘えなかったはずなのである。ラストでデートに誘うのであれば、そういう組み立ての話になっていなければおかしいのだが、どうもその手順がぎこちなく感じる。
本来、この二人の間柄では、デートという直接的な形で今回の話にケリを附けられないから、よっちゃんさんの提案によるハンバーグ賄いというイベントが山場になっているはずなのである。普通の女の子の生活への憧れを、皮肉な失恋という形で否定されたおせんの失意をよっちゃんさんが気遣って、日々の賄いというおせんが今生きている壱升庵の日常の形で慰撫しようと考えたからこそ、このイベントがクライマックスになっているのではなかったか。
直接的なデートの形で決着させるなら、最初から誘ってやれよという気がしてしまう辺り、どうもよっちゃんさんの性格造形をよく把握していないように思うし、冒頭でよっちゃんさんにハンバーグデートの話をしたのも、可愛い謎かけというニュアンスが「ない」ように見えるので微妙な話になっている。
で、このエピソードに関しては演出も妙に釈然としないところがあって、定石通りなら千堂とのデートに心浮き立つおせんを視て、表面的にやきもきするのは正面切っておせんへの想いを隠さないトメさんの役回りだが、よっちゃんさんはそれを常識論で制しながらも内心は心穏やかではない、程度の芝居は附けるはずなのだが、それが殆ど視られない。それらしい呼吸の段取りはあるのだが、そういう意味性の演出なのかどうかが視ていても全然わからない。
ただ、これは脚本にそう書いてないからそういう演出がないということなのかもしれないし、賄いの場面で嬉しそうによっちゃんさんの横顔を見詰めるおせんのアップを何度も繰り返しインサートしているのは、おせんにとってよっちゃんさんの発意になるこの賄いこそが憧れのデートに代わり得るものなのだという底意を踏まえているとは思う。
ここは明確に、「みんなの」気持ちが嬉しいから失意が晴れたのではなく「よっちゃんさんが」おせんを気遣ってくれたから嬉しいのである。第六話の挿話構造では、それ以上にこの関係は進展しないはずなのだが、なんというか、それがアリなら冒頭のくだりで話が終わっていたはずのエピローグが附いているわけであり、挿話全体はそれを阻んでいた障碍が解消されるような性格の物には決してなっていない。
毎回そういうぎこちない部分が気になる作劇ではあるのだが、とにかく蒼井優の芝居が魅力的なので、そういう「萌え」をモチベーションとして観ている。普通一般の女優と比べて、造作の幾何学的フォルムが美しいというタイプの容貌ではなく、一種の皮膚感や表情の動き、発声や身のこなしなどに独特の面白さがある女優だけに、歳をとってくると微妙だとは思うが、今のところ顔を見ているだけで或る種のムードが伝わってくるという、割合他の人にはない資質を持っているので、その意味では好い女優だと思う。
で、先ほど今週の第七話を観たのだが、これまで観た中では最もエピソードにブレがなくて安心して観られた。先週のハンバーグデートを冒頭に引っ張っておせんとよっちゃんさんの気持ちの問題は一旦脇に退け、おせんを一途に慕っていたトメさんの料理人として、男としての焦りを軸に据えた展開がオーソドックスに好かった。
新入りのよっちゃんさんにおせんとの恋愛レースでは一歩を先んじられ、しかも相手は必ずしもおせんに気があるわけではないというのがちょっと癪に障るし、料理の腕においても明確な形で優越している部分があるわけではない、加えて、地下の味噌蔵から出てきた塩麹を巡るエピソードでトメさんの疎外感や焦りを表しておいて、憂さを晴らす為に立ち寄った小料理屋で、板前としてやってはならないことをやってしまうまでの成り行きにも不自然さがない。
こういう、過ちと赦しを巡るエピソードというのは、やはり淀みなく語られると胸を打つものである。たとえば先週のエピソードの賄いのくだりは、通常は客をもてなす側である女将のおせんが、家族的な紐帯に結ばれた仲間たちとの日常の食事風景において、憎からず想う相手からもてなしを受けるという逆転があるわけだが、今回の話もまた、板長である清二が座敷に上げられ、一度は見捨てた二番板のトメさんから心を込めたもてなしを受けて、その結果女将の取りなしもあって赦しがもたらされる。
海苔と蒟蒻で包丁の技を試すというのは、嘘かホントかは識らないが、最初に提示された場面では、よっちゃんさんもトメさんも出来ないということで二人の等価な未熟性を表現する小道具として用いられるが、終盤では何心なくトメさんが出来てしまうというところで、料理人として一応よっちゃんさんの前を歩くトメさんが心映えの部分で吹っ切れた証しとして覚えたたしかな実感として活きていて、エピローグで茶にしてしまう呼吸も気持ちよい。
いやまあ、一度出来たんだからいいじゃないか。一度でも出来たのなら、この先も出来る可能性があるんだからさ(笑)。そういう意味で、心映えと精進次第で清二の域に達することが出来るかもしれないという未来像の先取り的な意味もあるわけで、これまでのエピソードのぎこちない筋運びから考えると、今週の話は出来すぎなくらいである。
無心に豚肉を炙り、心を込めて包丁を引く向井理の邪念のない表情を視ていたら、ナイショだがちょっと泣けた(笑)。
今回の話は、主役の二人を脇に回して、清二とトメさんの間の厳しい師弟関係や板前としての心映えの問題を中核に据えて描いていて、飽くまでトメさんを思うよっちゃんさんと冷たく辞意を受け止めるおせんというふうにまったく逆の立ち位置に立たせているわけだが、一見正反対に見える立場でありながら、やっぱりよっちゃんさんはおせんを信じていて、おせんもそんな信頼に応えて清二とトメさんの間を取り持ち、二人の振る舞いがそれぞれトメさんの復帰に効いている辺り、よく出来た話だったと思う。
ただ、「来る者拒まず、去る者追わず、よっちゃんさんの時もそうだった」というのはちょっと違うんではないかと思ったが、それを言うとトメさんが剰りにも不憫過ぎるので黙っておいてあげよう(笑)。まあ、ただ辛抱が続かなくて辞めるのと、やらかしてケジメを附ける為に辞めるのでは事情も違うしな。
まあ、こんなシリーズも半ばを過ぎた辺りでやっとマトモに観られる話を書いても今更遅いとは思うのだが(笑)、クレジットを視たら第四話や第六話を書いた高橋麻紀という人の脚本で、多分このドラマの脚本陣の中ではマシなほうだと思う。
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コメント
コメントを連投するのもどうだろうかと思ったのですが、黒い猫に思い切り泣かされたので勢いで。
えーと、蒼井優ちゃんが黒猫亭様の目下の癒しになっているらしいという解釈でよろしいでしょうか。今から「おせん」を見るのも難しいので、セクスィー部長が三鷹さんを演じるらしい「めぞん一刻」続編を頑張って見ることにします。
それだけなのです、すみません。
おやすみなさい。
投稿: 604 | 2008年6月 4日 (水曜日) 午前 03時46分
>604さん
>>黒い猫に思い切り泣かされたので
なんかこれだけ聞くとえらい人聞きが悪いですね(笑)。バンチキは2ちゃんでは人気の高いユニットかもしれないですね、「K」だけでも何種類もフラッシュを見た覚えがあります。総じて2ちゃんは口汚い文化という印象がある一方で、「泣ける」話が滅法好きだという一面もありますね。
>>えーと、蒼井優ちゃんが黒猫亭様の目下の癒しになっているらしいという解釈でよろしいでしょうか。
その解釈で結構です。ただ、CMではよく見掛けますが、実は出演作は殆ど観ていないのですよね、好みに合わなくて。ハチクロ辺りはハマり役なんじゃないかと思うんですが、観ていないので何とも言えません。少なくとも、最近チュートリアルの福田に何となく似てきた成海璃子よりはいいんじゃないかと(笑)。
本文でも書いたことですが、立体的な造形が美しいというタイプの容貌ではないのがいいですね。ただ、CMではあんまり歯を見せて笑うところをアップで見た覚えがなかったんですが、よく見ると歯列弓がV字型で物凄く小さい(大きめの浅蜊くらい)のがイビツな感じです。あれではご飯食べるのに時間かかるだろうなぁ、と(笑)。
あと、前から何となく瑛太と顔の印象が似ているなと思っていたので、ドコモのCMで共演した上にカップルの役になった時はちょっとアレだと思いました(笑)。
こういう骨格に依存しない造作の容貌というのは、歳をとると結構印象が変わったりするらしいですが、オレが心配することではないですね(笑)。その意味では少女萌えに近い部分があるんですが、中学生に間違えられるほどの童顔ではありながら、もう二二歳なんですね。ですから、二一歳の内博貴より実は年上でして(笑)。
ところで、ウィキで調べてみたら面白いことが書いてあって、
>>宮崎あおいとは仲が良く、映画『害虫』やドラマ『青と白で水色』、CM『ファイブミニ』、雑誌、など多くの機会で共演しており、お互いを「あおい」、「優」と呼び合っている。
「お互いを『あおい』、『優』と呼び合っている」って、紛らわしくないのか(笑)。これはお互いを「宮崎」、「蒼井」と呼び合ってもやっぱり同じことですね。
それから、「めぞん一刻」の続編情報ありがとうございます。オレの中ではすっかりあれはもう終わったものになっていたので、危うく見逃すところでした。早速本文にリンクを埋めておきましたが、昨年同様「この夏続編放映決定」としか確定してない辺りにやる気のなさが伝わってきます。
最新情報によるとスペシャル一本で完結してしまうみたいですが、いっそのこと不振のABC枠で連ドラとしてやればいいのに、とか思うんですが、まあ多分例によって主演女優のスケジュールがとれなかったんでしょう(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2008年6月 4日 (水曜日) 午後 03時19分
先日、ようやっと全10話を見終わりました。
黒猫亭さんの分析の確かさに唸っております。
脚本の弱さがいろいろな場面をぶち壊しておりました。
原作ファンとして言わせてもらえれば、本枯節は鹿児島に行って「ちんこさん、ちんこさん」と連呼して欲しいし、毎朝誰かにちゅーして欲しいし、いなせな啖呵も切ってほしいわけですが、蒼井優のキャラクターを一番に考えれば、そうせざるを得なかったのでしょうね。
この間「フラガール」を見て、ファンになったばかりの私が偉そうに言える事じゃありませんが(^^;
投稿: 山形ミクラス | 2008年7月 8日 (火曜日) 午後 10時35分
>山形ミクラスさん
なんというか、蒼井優は可愛かっただけに、むず痒い出来のドラマでしたね。最終回も窮めて微妙な感じで、まあ原作附きだけに難しいところはあるんでしょうが、人間ドラマのドラマツルギーを置き去りにして、変に思想に偏重したような印象を覚えました。
思想で言うなら、このドラマで語られた食の思想なんて浅薄なセンチメンタリズムでしかありませんし、内藤剛志の社長やその息子の心をもてなしで動かして地域開発から撤退させるというストレートな落とし所を選ばなかったのも、なんだか変な挫折のルサンチマンというふうに感じられて、戴けなかったですねぇ。
そもそもこのドラマで語られた壱升庵の経営状況も健全とは言えなかったですし、そういう意味では、自身の優れた美意識に正直に生きるおせんの壱升庵の暮らしを、人間の食の本然のような位置附けに置くのは違うんじゃないかという気がします。こういうのは飛びきりの贅沢なんであって、二重の意味で非日常の世界(ドラマと老舗料亭)だからこそこういう贅沢が許される、客にせめて日常の世界の命を繋ぐ為の食の在り方を忘れて本物の贅沢を味わう機会を提供することこそが老舗料亭のもてなしである、そういう視点で作ったほうが面白いドラマになったんじゃないかと思います。
オレの感覚からすると、食というのはそうそう楽しい・素晴らしいばかりのものではないはずなんですよ。生き物が連続的に生を繋いで行く為には、美味かろうが不味かろうが何かを喰って命を繋いで行かなければならない。インスタントラーメンであろうが、吉野家の牛丼であろうが、マクドナルドのハンバーガーであろうが、働いて稼いだお金でいつでも命を繋ぐ為の食料が容易に入手可能である、これがまず食の基本なんであって、安全だとか美味いとか本物だとかいうのは、敢えて誤解を恐れずに言うならば、やはり本質的に「贅沢」なのだと思います。
で、贅沢は贅沢で好いんですが、それは日常ではないわけで、どうも一般的な食の思想においては、その辺が峻別されていない嫌いがあると思います。常に日常的に本物の美味や食品のゼロリスクを要求する考え方は、食の思想としてどうなんだろうという疑問を感じるわけです。
この手のグルメ物では、現代社会の合理性が食の豊かさや安全性を脅かすものとして描かれますけれど、昔の人が今の人より安全で美味いものを喰っていたなんて幻想に過ぎないと思います。食の安全・安心と本物の美味、人間の暮らしぶり、そういうものが円満に調和していた時代なんて何処にもないのだし、過去にあったかのような前提で語られる思想にはいつも胡散臭さを感じます。
そういう意味で、この種のドラマは思想を語り出すと途端に胡散臭くなるわけで、所詮ドラマに求められるものと思想に求められるものは位相が異なって当たり前、ドラマは受け手の置かれた社会状況を取り巻く諸要素に十分な配慮を払いつつも、やはりドラマとして求められるものに重きを置くべきではないかと思います。
第弐、参話と最終二話の前後編を担当したのは「神ひとえ」というふざけたPNの脚本家ですが、噂ではどうもこれまで聞いたことのない名前だから、Pの変名ではないかということですが、そうだとすれば最終二話のちぐはぐなドラマ構造こそが、この番組の変な生硬さを象徴しているんではないかと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2008年7月10日 (木曜日) 午前 10時59分