妖怪と科学
田舎に引っ込んだ関係上、都心へ稼ぎに出る場合は一時間くらい電車に揺られる羽目になったので、本を読む時間が増えた。しかし、手許不如意な折柄仲々新刊本を買うというわけにも行かず、しょうがないので生涯何度目かの半七通読モードに入ったのだが、流石にこれまで一〇回近く読んでいるものだから、四巻くらい読んだら飽きが来た。
一冊くらいならいいだろうと思って書店に飛び込んで、一番レジに近い棚の文庫本を視たら、ちょうど尼からのお知らせメールを読んで買おうかと思っていた京極夏彦の新刊が出ていたので、それをそのまま買って出た。
新刊と謂っても小説ではなく『対談集 妖怪大談義』というもので、雑誌『怪』など雑多な媒体上の誌上対談を纏めた対談集である。目次をパラパラとめくってみると、いやもう、養老猛とか中沢新一とか手塚真とか、厭な感じの人選が目立つので、どうやら面白い本ではなさそうだとか思ったのだが、まあ上記の人々との対談は予想通りあんまり面白いものではなかった。
対談集とは謂え京極夏彦の未読のテクストということでは、中身が面白かろうがつまらなかろうが義理合いからしてしょうがない、と諦めかけたのだが、三分の一くらい過ぎた辺り、大極宮の一人である宮部みゆきとの対談が俄然面白く、ニセ科学批判の観点からも参考になる意見が多かった。
それまでの対談が何故つまらなかったかと謂えば、妖怪というお題に沿う形で京極夏彦がホストとなり夫々のゲストの話を聞き出す体裁なのだが、当然夫々のゲストは妖怪の専門家ではなく、個別の専門分野の観点から妖怪を語っているだけなので、お題が何であれ予想通りの筋道の話しかしないわけである。
トップバッターの水木しげる辺りは、何せ京極夏彦の師匠筋の人だから、弟子としてはキッキュウジョとしてご高説を承る形になるわけで、水木しげる自身が変な爺さんだからその意味では面白いのだが、有り体に言えばやっぱりボワイアンの譫言みたいな話である(笑)。で、養老猛は、まあ誰でも予想するような話をするだけだし、中沢新一もまた然りである。夢枕獏辺りから段々話が面白くなり始めるのだが、時系列順とはいえこういう内容的に面白くない対談を頭に持ってくるのは、構成としてどうなんだろうと思わないでもない。
で、京極夏彦という人は作家として世に出る前に長らく業者として周辺職種にあった為なのか、小説家にしては変に如才のない好い人なので(笑)、他人の顔を潰したりその言説を面と向かって批判したりしない人である。対談でも、自分の話を相手に聞かせたがるのではなく、相手の話を大人しく聞いていることが多い。そういう人がホスト格で他人の話を聞くわけだから、つまらない人はつまらないことしか言わないのでつまらない対談になる。
宮部みゆきとの対談から俄然面白くなるのは、今更この二人の間で改まって宮部みゆきの話を聞いてもしょうがないので、京極夏彦が自身の考えを陳べる形の対談になっているからである。で、オレが思うに、現役小説家の中で最もニセ科学批判的な観点の問題性と問題意識を共有している作家が京極夏彦だと考えていて、ひょっとしたら関連するネット言説の存在を識っているのかもしれないとすら思う。
ただ、この人の場合は情報を得るならネットよりも紙媒体を重視するのではないかと思うので、単なる偶然ということもあるのだが、少なくとも菊池誠×香山リカの対談集で提起された辺りの事柄と同じようなアスペクトで問題性の存在を認識しているように思う。勿論、前述の通りの人柄なので積極的にニセ科学や不合理言説と戦うというスタンスではなく、注意深く一般論として語る配慮はしているが、京極堂シリーズなどもそのような視座に基づいた作品であることは言うまでもない。
だからこそ塗仏で扱われている題材が新宗教やマインドコントロールであったりするわけで、元々妖怪好きが高じて小説を書いているわけだから、妖怪なり怪異なりという不合理を生じさせるメタ的合理のようなものに目端が利いている。つまり、一件不合理な存在と見える妖怪というのは、社会的な意味で窮めて合理的な概念であるということが語られているわけだが、そういうお約束が現在は一旦反古にされ、それに替わる有効なシステムが存在しないと語られる。
江戸時代後期には世相も安定してきて不安を嗤う余裕が出てきた、解釈不能な不可解な事柄をそのまま怪異として捉え、妖怪という形でキャラクター化することで、怪異を怖いものでなくするシステムが出来上がっていたわけだが、そのシステムが近代に至って反古にされ、たとえばその代替となる説明原理として入ってきたのが自然科学の言葉であったりするわけだが、自然科学だろうが何だろうが、本来なら怪異は怪異として認めるのが当たり前なのであるし、自然科学が持ち合わせているのはそういう説明原理でしかないはずである。
語り得ないことは語らないのが科学である。しかし、それが形骸化して俗化する時、怪異の説明体系として心霊現象だの超常現象だのという疑似科学が発生する。これは妖怪というキャラクター化のシステムよりよほど不細工で胡散臭いものである。少し飛躍するけれども、ニセ科学の発生原理も、昔なら「妖怪だ」で済ませていた事柄に対する、不細工で詐術的な説明原理として自然科学が用いられた結果ではないかと思わせる。
オレ個人のニセ科学に対するスタンスの大本の拠り所となっているのは、実は京極夏彦のこのような思想であったりするわけだが、ニセ科学批判の論壇と知遇を得た後に改めて京極夏彦の思想に触れると、驚くほどこの領域の問題性を的確に捉えていることに気附かされる。
なんというか、ニセ科学批判と一口に謂っても物凄く間口が広くてアスペクトも一様ではないわけで、非常に多面的な問題である。これまでいろいろな方々の言説に触れてきたのだが、夫々の論者の問題意識の在処は勿論かなり違う。しかし、この対談集を読むと、その広い間口のかなりの部分が京極夏彦の視野に入っていて、それがあの小説世界を生み出していることに気附くわけである。
つまり、ニセ科学批判というのは、一般に科学者が始めた言論のムーブメントだと考えられていて、科学者という合理の申し子がニセ科学という不合理を徹底批判する言論だと解釈されているのだけれども、京極夏彦という作家は、妖怪という不合理は社会的・文化的合理の産物であるというスタンスの論者なので、その言論はちょうど形としては不合理から出発した不合理批判という転倒した見え方になるわけである。
そういう次第で、まあつまらない対談も多いのだけれど、オレの識るニセ科学批判界隈の論者の方々には故障なくお奨め出来る。全部が面白いとは謂わないけれど、どんな方でも確実に面白く感じる部分が何処かにあるはずだという自信があるので、是非ご一読をお奨めする。
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コメント
以前FateがらみでコメントしたT_Uです。おひさしぶりです。
で、、、なんと言うシンクロニ(略
職探し中で手元不如意なため(笑)人生何度目かの京極小説再読中でした。うぶめが出版されたころからの愛読者ですから、僕もニセ科学批判に触れる以前に京極小説を読んでいるわけで、今回のエントリで黒猫亭さんがお書きのことはいちいち腑に落ちました。
特に鉄鼠での京極堂のせりふは(こちらにニセ科学批判の知識がついてきているせいもあり)ニセ科学批判の骨子そのものに読めましたし。
無事就職が決まったら(明日面接です!)お勧めの対談集を手に入れてみたいと思っています。
投稿: T_U | 2008年7月 4日 (金曜日) 午前 01時07分
友人宅で見せてもらった、京極夏彦脚本のアニメ版ゲゲゲの鬼太郎がじつに凄まじい話だったのを思い出しました。
投稿: pooh | 2008年7月 4日 (金曜日) 午前 07時47分
>T_U さん
お久しぶりです、その節は長話にお附き合い戴いた上にいろいろ教えて戴いて、ありがとうございます。
いきなりですが、T_U さんの読みは「てぃーゆーさん」でよろしいのでしょうか。オレには同じイニシアルの友人がいて、しかもその人がFateに絡んでいるので、最初は彼が変名でオレをからかっているのかと思ったのですが(笑)、おそらくT_U さんのハンドルの由来はイニシアルではなくて顔文字なんですよね?
>>職探し中で手元不如意なため(笑)人生何度目かの京極小説再読中でした。
>>無事就職が決まったら(明日面接です!)
ななななななんというシンク(ry 実はオレも、四カ月ほど出向・常駐で取り掛かる案件について、昨日先方担当者と面談してきたところでした(笑)。
あなたはオレか? オレなのか?(木亥火暴!!)
…というネタはさておき、同じ「潜在的失業者」として面接が上手く運ぶように祈っております。良いご報告をお待ちしております。
>>特に鉄鼠での京極堂のせりふは(こちらにニセ科学批判の知識がついてきているせいもあり)ニセ科学批判の骨子そのものに読めましたし。
元々京極堂シリーズは説明原理という主要な装置を巡る作品で、京極堂も単なる探偵役のように真相を看破してオシマイというのではなく、当事者の抱える問題性を解消する為に説明の技術を尽くすというメタ的なヒーローですし、京極夏彦の妖怪観自体が一種の社会的・文化的な説明原理というものですから、自然とニセ科学批判の言説と近似してくるんですよね。
また、京極夏彦は「多様なカチカン(主にヘンタイさんですが(笑))」を迫真の筆致で描出することに長けていますが、その中心軸に一種の凡庸なコモンセンスを配置して、そこからの距離で異端を位置附けるという意味で非常に強靱な健全性を具える作家だと思うんですね。
dlitさんのところで以前語ったことですが、京極堂ほどの悪魔的技術を具えた人間が何故ヒーローの側に立てるのかと謂えば、彼が「凡庸な善人」だからなんですね。本来なら、京極堂ほどの卓越した言語能力や異端の背景を持つ人間は堂島大佐になるのが当たり前なんですが、その境界で踏み留まって、「つまらない平凡人」で在り続ける強さが京極堂にはあるわけです。
こういう凡庸に踏み留まる強さというものがオレのニセ科学批判に関する考え方の根幹にある関係で、たとえばpoohさんが仰るような「コモンセンス」に重きを置くというスタンスになるんだと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2008年7月 4日 (金曜日) 午後 01時29分
>poohさん
>>友人宅で見せてもらった、京極夏彦脚本のアニメ版ゲゲゲの鬼太郎がじつに凄まじい話だったのを思い出しました。
凄まじいですよねぇ、京極夏彦自身が京極堂を思わせる拝み屋を演じていて好き放題に能書きを語り散らすだけの話ですし(木亥火暴!!)。あの当時は京極ファンの一致した見解として「京極堂シリーズは映像化不可能(つか下手にしてほしくない)」というのが主流でしたから、スピンオフの別キャラとは謂え、初めて京極堂がビジュアライズされたということで、一種のファンサービス編という性格がありますね。
同時期に実写のほうでは「幻想ミッドナイト」というオムニバスホラードラマで、絡新婦からスピンオフした短編の「目々連」が映像化されていて、これはシュシュトリアンやウルトラマンティガで識られる石橋けいがバックショットとは謂え行水姿を披露しているという意味で傑作なんですが(木亥火暴!!)、あれには殆ど「愉快な仲間たち」が出ていないですからね。実際のドラマも、まあそれだけ単独で映像化する都合上、絡新婦の本筋を識らなくてもわかるように脚色されていましたから、シリーズの純粋な映像化とは謂えないでしょう。
閑話休題。鬼太郎のあのエピソードの凄みというのは、京極堂が存在する世界のリアリティにおいては、京極堂が一たび妖怪を語り始めたら、鬼太郎世界で実体として活き活きと活躍している妖怪という主体そのものが解体・消失してしまうのだという原理を、そのまま鬼太郎アニメのエピソードにしちゃったところですね(笑)。つまり、そもそも鬼太郎の世界に京極堂を放り込むというコンセプト自体が、メタメタで無茶の極みなんですが。
まあ、京極夏彦の妖怪観は「豆腐小僧」を経て「妖怪とはキャラクターである」という境地に辿り着いたので、今の段階で京極夏彦が好き放題に鬼太郎のエピソードを書けるとすれば、豆腐小僧と見越し入道親子が演じる黄表紙的貴種流離の人情譚(山椒大夫の下世話な翻案とか(笑))みたいなベタベタな鬼太郎的世界観のエピソードを書くような気がしますね。
投稿: 黒猫亭 | 2008年7月 4日 (金曜日) 午後 01時29分
黒猫亭さん。
こんにちは。
私も子どもが妖怪好きなので、つい日本の妖怪に詳しくさせられました、、、
と、言うことで記事を楽しく拝見いたしました。
以前妖怪を書いたエントリーがあります。
あなたのように格調高いものではない冗談のようなものですが、
ふと思い出して、なんとなく黒猫さんに読んでいただきたいと思ったのでトラックバックをお送りしました。
お時間のあるときでもご覧ください。
では、、、、またね!
投稿: せとともこ | 2008年7月 4日 (金曜日) 午後 05時27分
>黒猫亭さん
読みはティーユーであっています。イニシャル由来なのですが…
ななななんというシン<もうええって
dlitさんのところの京極論も読ませていただいています。京極堂の立ち位置の健全性について、今のところでは黒猫亭さんがおっしゃっているとおりだと思います。しかし、今まで語られてきた京極堂の履歴ではなぜ京極堂がこういった風になったのかが完全に明らかになっているわけではないので、もう少しシリーズが進んでいくととんでもないどんでん返しがあるのではないかな?などと妄想というか期待していたりもします。
なんといってもこれだけのシリーズですから、着地でものすごいアクロバットを見てみたい!ということで。
投稿: T_U | 2008年7月 5日 (土曜日) 午前 12時30分
>せとともこさん
いらっしゃいませ。ご紹介の記事、楽しく拝読させて戴きました。エントリーの日付から計算して息子さんの保育所時代と謂えば、八〇年代後半ということになりますから、京極夏彦のデビュー以前ですね。水木しげるの影響ということになれば、おそらくアニメ第三シリーズの戸田恵子版鬼太郎がきっかけですかね。
お子さんがご指摘された通り、「火の車」という妖怪はいませんが「火車」という妖怪は存在して、実は「家計が火の車」とか謂う場合の慣用的表現は満更火車と関係ないこともないのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%BB%8A_%28%E5%A6%96%E6%80%AA%29
この妖怪の成立事情については前掲記事に詳しいですが、このイメージの大本になったのは下記の仏教の説話であるようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%BB%8A
つまり、仏教の抹香臭い説話に「悪事を犯した亡者を乗せて地獄に運ぶ火車という燃え盛る車がある」というものがあって、それに屍体と猫に纏わる俗信のイメージが混入することで、「化け猫が罪人の魂を地獄に運ぶ」という妖怪としての火車のイメージに結実するわけですね。さらにこの屍体と猫に纏わる俗信には、屍体が勝手に歩き回るという意味で中国由来の「走屍」のイメージも混入していて、この「走屍」というのは「僵尸」、つまりキョンシーとも関係があるわけです。
http://www.geocities.jp/des_geistes/china-ministory-kai.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC
で、キョンシーというのは、本邦ではサモハンの霊幻道士シリーズやテンテンが主演した幽幻道士シリーズで識られているので、一種のゾンビのようなものだと見做されていますが、ウィキの記述では一種の屍蝋のようなものとされていて、出現原理としては、異邦で客死して正常に埋葬されなかった屍体が僵尸になるとされています。
さらに謂えば、元々のインド由来の仏教には地獄という概念がありませんから、地獄の使者が燃えさかる車で罪を犯した亡者を連れて行くという説話自体、精々中国ダネか本邦の創作でしょう。そこから、手許不如意でほうぼうに不義理を作ることを「家計が火の車だ」というふうに謂うようになったわけですね。京極夏彦の友人である宮部みゆきも、借金地獄に喘ぐ女性を主人公にした「火車」という作品を書いていて、流石に隠喩としては剰りにベタなのでちょっと嗤ってしまいました。
ですから、水木しげるが自作の中で活き活きと活躍させている火車という妖怪のキャラクターは、瀬戸家の父親が冗談めかして語った「妖怪ヒノクルマ」の正体でもあるわけでして、そうすると、石燕の図画で描かれている火車という妖怪のイコンは、そういう種々雑多な言説のアマルガムをビジュアライズしたものということになるわけで、この一枚の図像の中には、瀬戸家の親子の微笑ましいエピソードの全体像が包摂されていることになるわけですね。
投稿: 黒猫亭 | 2008年7月 5日 (土曜日) 午後 06時25分
>T_U さん
>>読みはティーユーであっています。イニシャル由来なのですが…
そうなんですか、いや、幾らなんでもそんな「なななんという(ry」な偶然が山ほど転がっているはずはないので、これは実はハイフンではなくアンダーバーになっているのが味噌で「泣いている顔文字」なんじゃないかと考えたわけでして(笑)。
>>dlitさんのところの京極論も読ませていただいています。
どうもありがとうございます。あんな長いものを読んで戴けるとは恐縮ですが、考えてみるとT_U さんは、糞長いテクストが多いオレの言説の中でも取り分け長いものばかり選んで読まれているような気がします(笑)。勿論、あそこの議論はkillhiguchi さんという得難い相手がいたからこそあそこまで続けられたわけですが、あの議論は自分でもかなり楽しませて戴きました。
そう謂えば、話題に出たdlitさんという方のハンドルも、或る成句のイニシアルを繋げただけの文字列に過ぎなくて、正式な読みが存在しないらしいですよ(笑)。ご本人のイメージでは「ドゥリット」というふうに考えておられるらしいですが、確定しているのは文字列だけなので、どういうふうに読んでもいいそうです。
>>しかし、今まで語られてきた京極堂の履歴ではなぜ京極堂がこういった風になったのかが完全に明らかになっているわけではないので、もう少しシリーズが進んでいくととんでもないどんでん返しがあるのではないかな?などと妄想というか期待していたりもします。
京極堂の過去話って、何だか語られれば語られるほど、小説的現在において関口や榎木津とタメの立場で莫迦話をしている平凡人の古書肆としての中善寺秋彦と乖離があるように見えるんですよねぇ。小出しにされた情報を継ぎ接ぎすると、妹の敦子や奥さんの千鶴子との関係も曰わくがありそうに見えますし、中善寺家の血脈にも勿体がありそうなイメージがあるんですが、それでもそういう非凡な背景が生身の中善寺秋彦に仲々繋がってこないところがありますね。
それは折り返しを迎えた京極堂シリーズの中で開示されることなのかどうかも現時点ではハッキリしないんですが、作者が意図的に第一シリーズを別の方法論で語り直しているところを視るに、陰摩羅鬼以降の作品は一種の職業作家としてのファンサービス的な側面もあるかに見えますから、まあそういう個々のキャラの背景も描かれるんじゃないかと期待出来ますね。
オレ的には、もう京極堂シリーズは塗仏までの諸作品で完結ということにしてもいいんではないかと思いますが、京極夏彦の資質的に「書けない」ということはないのではないかと思いますので、一通り塗仏までのプロセスを現段階の職業作家としてのスキルで語り直すのではないかと予想しています。
投稿: 黒猫亭 | 2008年7月 5日 (土曜日) 午後 06時26分