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2008年7月19日 (土曜日)

月の裏側で

お馴染みのpoohさんのブログのコメント欄で陰謀論の話題が出て、小ネタに絡めて少しだけコメントさせて戴いたのだが、どうもオレは現時点で陰謀論に対してはかなり悲観的な見方をしている。

まあ、これまで微力ながらニセ科学批判の言論にコミットしてきた身としては、ここで腰が引けるのは不徹底ではあるのだが、ニセ科学とは少し位相の異なる問題とは言え、おそらく陰謀論というのは、不合理批判一般が捉える射程においては、ラスボス級の強敵と言えるだろう。

学生時代に一連のサンリオのP.K.ディックを全作通読した身としては、どうも人間とは陰謀論を語る生き物だと思えて仕方がない。勿論ディックは元々メンタルが不安定なタイプの人間で、ドラッグの常用やメンタルの疾患を経験しているわけで、数多の結婚歴の引っ懸かりで有名な家宅捜索事件という衝撃も経験し、一時期の作物はすべてこれ徹底した陰謀論と断言して差し支えないだろう。

さらに、ディックの活躍した時代は専ら冷戦期で、現実世界の陰謀が史上最も活発化した時期だったという事情もある。現在、情報公開の関連で旧時代のCIAやFBIの機密資料がどんどん公開されているが、そこで明らかになった「陰謀」とは、実践的な諜報戦略から荒唐無稽な誇大妄想や法螺話に近いものまでまさに玉石混淆で、たしかに歴史には現実に「大陰謀時代」とでも呼ぶべき時代が存在したわけである。

9,11陰謀論に代表される現在一般的な陰謀論の言説には剰り詳しくないのだが、やはり陰謀論の「本場」はアメリカではないかと思う。それは、実際に最も現実の陰謀が跳梁跋扈したのがアメリカだからで、対外的にはCIA、内政的にはFBIという巨大な組織が、膨大な資金と人員を投入して実際にさまざまな陰謀を巡らせ、冷戦期の世界をアメリカという国家の思い通りに動かそうとしていたからである。

陰謀論というのは、一種「世界は見た目通りのものではない」という、割合妥当な認識に根を持っていて、世界を動かしている一握りの権力者に対する一般市民の強烈な不信感がそれに妄想のバイアスを掛けているものである。冷戦期のアメリカは常に戦時下の状況に置かれていたのであるから、当然政策のトップレベルには膨大な国家機密が存在する。

つまり、当時のアメリカ国民は自国の殆どの政策の実情について情報を与えられていなかったわけで、本来知り得るべき情報が隠匿されていて、現実にアメリカ国内や世界各地で非合法の陰謀が常態化していたのであるから、それは人間の妄想を喚起するのが当然である。

冷戦期には夥しい数の陰謀小説が書かれたわけで、アクション物やポリティカルサスペンスでも、悪役を演じるのは、他国の諜報機関であったり自国の国家権力であったり、とにかく世界の裏面で暗躍する巨大な勢力というものが現実世界に存在したわけであるから、さまざまな想像を喚起してさまざまなストーリーが生み出された。

現在の陰謀論というのは、その時代の想像力の申し子だろうし、さなきだに一般庶民というものは、何処の国でも何時の時代でも一握りの強大な為政者が行う公の政の裏面の事情を下世話に勘ぐるという習慣を歴史時代全般を通じて習慣化してきたものであり、それはその限りでは別段何処も批判を受けるべき筋合いの事柄ではなかった。

為政者一般が自身の階級に都合の悪い事実を公にするわけはないのだし、実態が世間でバレバレであっても公には別の説明をするのが当然だったのだから、つい最近まで一般庶民が世界を認識するやり方として「為政者の裏事情を下世話に勘ぐる」という手法は有効だったわけである。

しかし、冷静に考えるなら現在一般に流布している陰謀論というのは、非常に荒唐無稽で明らかに不合理なものであり、「一般庶民が世界を認識するやり方」というような穏健なものではあり得ない。

近代以前の「陰謀論」というものは、たとえば何処其処の藩において、表向きは先殿亡き後に相次いで長子が急逝し非嫡出子が家督を継ぐという次第になった場合、あれは側室の何某の方を担ぐ一派があってさまざまに運動していて、長子の病死というのもどうやら本当かどうかはわからないとか、そういうレベルの下世話な噂話程度のものでしかなかったわけである。

で、庶民レベルではそれはどうでも好い上つ方の噂話相応の扱いの事実であり、単に人間には世界とはどんなものかを一応確認したいという普遍的な欲求があるから、見え見えの作り話の裏事情を勘ぐって満足していたわけである。

しかし、たとえば現在の9.11陰謀論などを視るに、普通に合理的に考えれば妄想でしかない「真相」を想定して、その「真相」の想定上の黒幕を現実に糾弾するという種類のものであるわけで、これは一種常軌を逸した糾弾の論理である。

普通に合理的に考えれば、或る現実の対象について無根拠に裏面の事情を妄想するのは幾らでも可能である。たとえば、隣の誰それさんが実は連続強姦魔で、夜な夜な遠くの町に出掛けて人気のない場所で女性を強姦しては殺して遠くの山に埋めている、という妄想は、たとえば行方不明になる女性が一定数存在するという一般的な事実があって、その誰それさんが夜な夜な何処かに出掛けていくということと、屍体を運べそうなクルマを持っているという条件が揃えば無理なく成立する。

しかし、行方知れずの女性が一定数存在するのは当たり前だし、今時のヒトが夜な夜な出掛けたりクルマを持っているのは極めて当たり前の話なので、それを言い出したら誰でも連続強姦魔であると決め附けることが可能になってしまう。だから、普通は事実の裏附けもなく、何の根拠もないのに、勝手な妄想が無矛盾で成立するというだけで、赤の他人を連続強姦魔だと糾弾したりはしないものである。

ところが、何故かこれが国家レベルの話になると、妄想が無矛盾で成立するというだけで為政者を糾弾するということになる。たとえば面白半分に9.11は国家の陰謀じゃないかという噂話をするのは、不謹慎ではあるがそれだけの妄想に過ぎないが、一般に陰謀論と謂う場合は、強固な妄想の狂信と国家糾弾がセットになっている辺りが奇妙にねじれているわけである。

それは、現実的なレベルでは国家不信という性格のものだろうし、理念的には現実不信とでもいうべき性格のものではないかと思う。隣の誰それさんという、非常に具体的な対象については日常的な人間観が連続しているが、国家レベルになるとその日常的な感覚が断絶して、一挙に世界認識のレベルの話になる。それも、おおむね対象となるのはアメリカであって、たとえばスーダンで国家転覆の陰謀やそれに伴う大虐殺があったなどという噂話は真剣な狂信や糾弾のマッスとは結び附かない。

アメリカが実際に大陰謀時代の過去を持つ陰謀論の本場だという事情もあるが、それ以上に重要なのは、新興国の勃興によってその力にもやや翳りが見えたとは言え、やはり今の世界戦略の趨勢を動かすのはアメリカという巨大国家だからであり、日本という国家はその大国の直接の影響下にあるからだろう。

一般的な日本人にとって実感可能な「世界」のコアというのは、実体的には日本とそしてアメリカという国家なのである。つまり、陰謀論というのは、たとえば9.11なら事件の実態という割合現実的なレベルの具体的責任問題を超越した、一般人の世界認識レベルの問題という側面があるわけである。

9.11というのは、南北戦争以来久しぶりにアメリカが国内で経験した「戦争」であり、アメリカの世界政策の結節点であり、この事件にはアメリカの世界戦略の歴史が密接且つ複雑怪奇に絡まり合っているわけであるから、そこにさまざまな妄想の入り込む余地がある。それはそのまま、一般人が「世界」という薄気味悪い外部の総体的環境の在り方をどのように視ているのかという問題と関連してくるわけである。

そして、陰謀論が象徴しているのは、自身を取り巻くこの世界には、表面に見えている現実とは別のレベルの裏面の現実という上位のレイヤーがあって、それが自分にはわからないような目的に則って、自分とは無関係に勝手に世界を動かしているという疎外感や憤りに根を持つ感じ方であり、それは多分誰でも割合に普遍的な感じ方なのではないかと思う。

冒頭で触れたディックのSFにはこの構造の作品が多く、無自覚な一般市民が自明視している世界の在り様は、トップの階層の人々が演出した虚構であり、世界には表面的な虚構の階層と、一握りの人々しか識らない真実の階層がある、そのような構造の世界設定の作品が無闇に多い。

これは、有名な神秘体験を通じて晩年の「ヴァリス」三部作のような形而上の概念に位相を転換するわけだが、非常に雑駁な言い方をすれば、陰謀論者が神秘主義者に宗旨替えしたということになる。この神秘主義者としてのディックも、陰謀論者時代と一貫して「世界には表面的な虚構の階層と真実の階層がある」という認識を保持しているわけで、つまりディックという作家は終始、この世界には普通では到達出来ない真実の次元があるという構造の認識を持ち続けたわけである。

そして、この認識が厄介なのは、客観的妥当性の次元では不合理思想にしか辿り着き得ない出発点であるにも関わらず、人間の一般的な形而上的思索のモチベーションと根っこを共有しているということである。敢えて俗悪な表現を用いれば、ディックという一人の低俗SFの作家は、哲学的なメンタリティから逃れられなかった作家であり、低俗な人間が経験する低俗な哲学の遍歴を残らず辿ったわけである。

しかし、オーセンティックな学問の体系から切り離されて、一人の生活人が哲学的探求に身を投じてしまうなら、現代においてディックの思想遍歴は極めてカジュアル且つポピュラーな一典型を象徴している。

そういう意味で、たとえば菊池誠氏のニセ科学批判の闘いは何とも皮肉で苛酷なものだと思うのだが、彼はご自身が生え抜きのSFプロパーであり、就中P.K.ディックに関しては手ずから翻訳まで手懸けている。そして、彼が現在相手取っているニセ科学的言説というのは、下世話な言い方をすれば「SFを真に受けた愚か者」の言説であり、陰謀論というのは「ディックを真に受けた愚か者」の言説である。

これは、相互にそういう一般的な近似性があるという話ではなく、SFはニセ科学言説の発生と歴史的関連性を持つのだし、陰謀論はディックが生きて作品に反映させた時代性と密接な関連を持っているという話である。そして、SFも陰謀論もアメリカが本場であることには理由がないわけではない。

だから、ニセ科学批判の旗手である菊池誠氏がSFファンであり、取り分けディックのファンであることにも、おそらく理由がないわけではないのだろう。彼がニセ科学批判に乗り出すきっかけとなった事情も、おそらく無関係ではないのだろうと思う。だから菊池誠氏がニセ科学や陰謀論を批判するのは、一種の必然と言えるだろう。

ただ、どうもオレがニセ科学はともかく陰謀論を手強く感じて萎縮してしまうのは、勿論陰謀論の個別の言説や個別の論者が手強いからではなく、その頑迷の在り方が剰りに強力で差し当たり言論をツールとしてとりつく島がないからである。

ニセ科学のビリーバーが説得出来ないとしたら、陰謀論者は尚更説得出来ない。ニセ科学的言説を弄する人々が漏れなくビリーバーとは限らないが、真顔で陰謀論を語る者は漏れなく狂信的なビリーバーであり、それはそれらの人々の世界認識と一体不可分だからである。

陰謀論を批判することは、彼らの世界を否定することなのだし、世界の見方に容喙することになる。そして、どうもオレはニセ科学批判言説について得ている自身の言論の立ち位置のようなものを、陰謀論批判に関しては得られていない。

つまり、ニセ科学批判というのは、ニセ化学的言説の流通やその一般的受容を問題視する視座においては、必ずしも発話者の説得を必須としない言論である。しかし、陰謀論批判というのは、相手を説得しなければ意味がないと感じるのである。これは間違っているのかもしれないが、少なくともニセ科学批判と陰謀論批判は同じ言論の手法で可能であるとは考えていない。

陰謀論の言説というのは、客観的妥当性の観点では正しくないことはわかりきっているし、これには誤解の余地はない。陰謀論に与しない人間から視れば完全に勝手な妄想である。その意味で、ニセ科学言説のように虚偽情報がリテラシーの低い人間を騙すという構造の問題ではないのである。陰謀論に与しないような人々は陰謀論に接しても受容しないし、与するような人々は何がどうあれ受容するのである。

であるから、陰謀論の問題は情報の流通や受容やリテラシーの問題ではなく、陰謀論的に世界を視る人間が一定数存在するという事実を示しているだけであり、陰謀論者と戦うということは、その相手のかなり本質的な部分と闘争するということである。

その言論闘争は、おそらく社会的な意味では必要なものなのだが、如何せんオレ個人としてはどのような言論の立ち位置があり得るのか、現時点では皆目見当が附いていないのである。

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コメント

どうもぼくも陰謀論者との議論に腰が引けてしまう部分があって。それは、どうすれば意義のある対話ができるのか、と云うのがよく見えない、と云うあたりから来ています。あの(あれだけの論者が揃っている)kikulogでさえ、陰謀論者相手には「理詰めで潰す」以外の有効な戦術がないように見える。

ただ、陰謀論が人口に膾炙する背景、と云うのはすこしずつ考えていかなきゃならないんだろうな、とは思ってます。

投稿: pooh | 2008年7月19日 (土曜日) 午前 07時19分

こんにちは、いろいろとある理解しにくいもののなかで、陰謀論は理解しやすいように見えるのに理解できないという、個人的にはかなりイヤ〜ンな部類のものです。最初から理解しにくいとわかっているもののほうが、まだしも距離の取り方の見当がつきます。

投稿: 亀@渋研X | 2008年7月19日 (土曜日) 午前 10時58分

>poohさん

>>あの(あれだけの論者が揃っている)kikulogでさえ、陰謀論者相手には「理詰めで潰す」以外の有効な戦術がないように見える。

オレが「少なくともニセ科学批判と陰謀論批判は同じ言論の手法で可能であるとは考えていない」と言うのはまさにそういうことで、ニセ科学批判のノウハウが陰謀論批判では通用しない部分があると思うんです。

たとえばニセ科学言説というのは「ないもの」を語って意図的に人々を欺いているわけですから、それが「ないもの」であり欺瞞であることを説明すればひとまずはその言説に一定の意味を付与することが出来ます。たとえば、マイナスイオンなんてものは、少なくとも科学の土俵で言うならば「ないもの」ですし、水伝で謂えば、言葉の意味性と水の物性を媒介する物理力なんてものはこの世に存在しないわけですね。

勿論、悪魔の証明というのがありますから、「ない」ということは証明出来ないわけですが、それが「ない」という前提で成立している学の体系を標榜していながら、それが「ある」と主張するのは論理的に謂って間違っているわけですから、ニセ科学批判というのはニセ科学を相手にする限り最初から意味的に正しいことが保証された言説です。

ところが、陰謀論というのは「ないもの」を語っているわけではないから批判するのが面倒なのですね。「国家的陰謀」というのは一応実在した・するわけですし、普通に考えたらあり得ないような突飛な陰謀が実際に計画され実行されたこともあるわけです。そして陰謀論を批判し得る根拠というのは、陰謀論という結論に至る推定の材料が無根拠であったり推定のプロセス自体が矛盾撞着しているという部分ですから、「事実としてそのような陰謀が存在しないこと」は誰にも保証出来ないわけです。

たとえば911陰謀論を否定する説得力のある言説は幾らでも語れますが、あれが国家の陰謀では「ない」ということは誰にも証明出来ません。ニセ科学の場合なら、推定のプロセスが間違っていれば、結果が正しいことが事後に証明されてもその時点ではニセ科学だというふうに謂えますが、そもそも陰謀論はその論証規範の土俵に立っていないので、結果的にもしも陰謀が存在したとするなら、「それみろ」ということになってしまうわけです。

ニセ科学言説は、飽くまで「科学を装っている」から科学の規範で批判し得るわけですが、陰謀論は違うんですね、科学なんてどうでもいいのだし、科学の規範に説得力を借りているわけでもないですから、科学のサイドから矛盾点を指摘されても本質的にはダメージを蒙らないのです。

おそらく、陰謀論における説得力の根拠というのは、非常にあやふやで曖昧な洞察的想像力というものなんだと思います。つまり、ありそうかありそうでないかが基準なのであり、その「ありそう」という判断基準は客観的妥当性では「ない」のです。何かしら個人の世界認識に不可解な情報の欠落があったとして、その欠落を最も気持ち良く埋め得るピースであることが重要なんだと思います。

科学的・合理的な論考によって、陰謀論の瑕瑾を指摘したとしても、陰謀論的世界認識を抱く人々にとって、科学的アプローチというのは陰謀という世界の裏面の真相に迫る為の手法の一つであるにすぎないわけで、唯一無二の方法論ではないわけです。

陰謀論者は、科学という比較的新規の規範で定められた手順に則って得られる限定的な正しさが欲しいのではなく、納得可能な形で世界を包括的に説明し得る「物語」を求めているわけで、それは一種神話や伝説と似たような構造を持っています。絶対基準は、正しいか正しくないかではないんですね。重要なのは、何が最も自分を納得させるかであって、これは菊池さん辺りが仰る納得力と近いのかもしれません。

>>ただ、陰謀論が人口に膾炙する背景、と云うのはすこしずつ考えていかなきゃならないんだろうな、とは思ってます。

poohさんのほうで何かしらお考えが煮詰まるのを期待しています。どうも陰謀論というのは、言論でどう対抗出来るのかが現時点でまったく見えないところがあります。ニセ科学言説に関しては、情報の流通と受容のプロセスを考慮することに一定の意義があるわけで、poohさんやオレのスタンスはその辺を重視したものと謂えるでしょうけれど、陰謀論に関しては情報の流通がどの程度の重要性を持っているのかすら見えないところがあります。

たとえばニセ科学言説なら、その流通と受容の間にはおそらく正の相関があると考えていいはずですよね。「リテラシー的に普通の人」というものを想定した場合、一定の割合でニセ科学言説に「騙される」人がいるのが自然だろうな、と予想出来るわけで、だからニセ科学言説という情報の流通に介入して、それが正しくないことを注意喚起する対抗言説をぶつけるということにも或る程度の意義は出て来るわけです。

しかし、陰謀論というのは、情報の流通と受容の間にどういう関係があるのか少し見えにくいところがあって、その情報が正しくないという注意喚起にどの程度の効力があるのかも現時点では見えていないと思うんですね。

何かこう、ニセ科学のような詐術の構造とは別の原理が働いているのではないか、つまり陰謀論にかぶれる人というのは陰謀論的言説に「騙されている」わけではないんではないか、自ら進んで陰謀論を狂信しているんではないか、と思うんですよ。

本文で「説得出来なければ意味がないんじゃないか」的なことを書いたのは、たとえばpoohさんやオレのスタンスでは「正しくないことは注意喚起したから、後は自己責任で判断してください、常識ある大人なんだから」という、「騙されないように注意する」言論しか発信出来ないわけですが、そういう意味において正しいプロセスを踏んで得られた結論ではないことは、陰謀論では大前提ではないかと思うんですね。

すでに彼らは自己責任で陰謀論という「正しくない可能性が絶対的に高い」空想論の立場を選んでしまっていると謂えるわけで、それは騙されているからというより、かなりリスキーな博奕に近い感覚じゃないかと思うんです。これに従来のスタイルの言論で立ち向かうことは出来ないだろうし、最終的には陰謀論を語る個々人の説得というところに収斂するのではないかという懸念を抱いているわけです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年7月19日 (土曜日) 午後 04時28分

>亀@渋研Xさん

>>いろいろとある理解しにくいもののなかで、陰謀論は理解しやすいように見えるのに理解できないという、個人的にはかなりイヤ〜ンな部類のものです。

これはオレ個人の考えている一つのストーリーに過ぎないですが、たとえば911同時多発テロが何故一部の人々にそんなに不快な欠落をもたらすのかと謂えば、要するにこの事件は、アメリカの大国エゴの世界戦略で軍事的に蹂躙されている被害者であるはずのレジスタンスが、アメリカ国内において大規模で残虐な無差別テロを実行して無辜の市民を大量虐殺したからだ、という言い方が出来ますよね。

これは、取り分けアラブゲリラや民族主義運動にシンパシーを感じるような政治信条の方々にとっては、支援すべき「被害者」の立場と視ていた少数弱者が残虐な「加害者」の立場に立ったということで、受け容れ難い事実であると感じられる部分もあるでしょうし、アメリカ中心主義的な世界戦略を諸悪の根源と見做すことで安定していた世界観が、その報復とは謂え生々しく虐殺されるアメリカ人の映像を見せ附けられることでガラガラと崩壊した人もいるかもしれません。

そんな人々にとって911陰謀論というのは、「やっぱり諸悪の根源はアメリカ」という都合の好い物語を提供してくれるわけですから、そもそもこれは科学や妥当性の問題ではないんだと思います。kikulog の錚々たる論者の方々でさえ陰謀論者を相手にすると手詰まり感が否めないというのは、ニセ科学論者と違って陰謀論者はルールを共有していないからではないかと思います。

彼らは、それが正しいからそれを主張しているのではなく、自分たちにとって都合の好い世界の見方を防衛する為に陰謀論を主張するわけです。だからそもそも矛盾点を指摘されたからと謂って、ニセ科学論者や批判批判者とは違ってまったく困らないという言い方も出来るでしょう。ニセ科学論者や批判批判者は正しさに拘りがあるわけですし、正しさを防衛する為に討論するわけですが、おそらく陰謀論者はそうではないんです。

ニセ科学論者や批判批判者たちは、その言説が科学の規範において正しくないと論証されることを嫌うから、苦し紛れの詭弁に走るわけですが、陰謀論者は最初から何がどうあれ自身の主張を防衛して押し通すことしか考えていないので、最もタチの好くないビリーバーと同列に一方的に力押しすることしか考えていないのだと思います。

たとえばしばしばこの界隈で話題になる有名人の方々(笑)、血液型のあのヒトとかマイナスイオンのあのヒトとかですが、kikulog の論者の方々も最初からそういう扱いではなくて、一定の手続に則って議論することで、あの方々がアレな方々であることを自他に示してきたと思うのですね。

ニセ科学論者と一口に謂っても、欲得絡みの関係者とか頑迷なビリーバーとか批判批判者とかさまざまな動機があって、そこを探りながら議論を重ねていって、手続として必要な或る程度の議論を積み重ねることで「このヒトはアレなヒトですから、言説を読まれる場合はご注意くださいね」的な縄張りを張ってニセ科学情報の流通に対抗するわけですよね。

しかし、どうも陰謀論者というのはそういう手続で対抗可能には見えないですね。或る種議論を物理的闘争と同列に捉えているような気がします。どういう議論が持たれても多分交わされる言葉に意味なんかないし、自説の正しさを賭けて議論に臨んでいるようには見えないんですよ。意志を疎通しようなんて動機はサラサラないのだし、単に自説に反することを言わせまいとする実力行使の妨害行為としか考えていないのではないかという気がします。

投稿: 黒猫亭 | 2008年7月19日 (土曜日) 午後 04時29分

こんばんは。

 20年以上前に、陰謀論的発想をする同僚に、
なぜか「話が通じる相手」と思われて、
毎日のように議論を吹っかけられていたことがあります。
(その彼も、いまや某高校の校長で、先日テレビに映ってましたけど)

 その経験以来、陰謀論的名考え方をする人たちと話すと、
(ネット上の議論も含みます)
彼らにとって、その陰謀論を信じることは、自己の存在理由や信念と固く結びついているのだな、と強く感じます。

 彼らにとって、自己が信じていた論理(私から見たら「陰謀論」に分類するしかない考え方)を手放すことは、世界観の放棄とほぼ同義なのです。

 したがって、自己の存在理由を守るためには、こじ付けだろうが、意図的に見える見落としだろうが、頑張るしかないのです。

 それから、彼らは自己と同じ世界観を持つ人間を探し続けています。
 話題になっているNPO法人の件等は、まさしく出来るべくして出来た組織、といえるでしょう。
 ただし、今後、その組織の中の各人の微妙な世界観の違いが表面化したときには、最悪、犯罪につながるような内部分裂がおきる恐れがあります。

 陰謀論を信じる人々にとっては、マスコミなどで報道されている常識は大きくゆがんでいる、間違ったものにしか思えません。自分たちは不当にだまされ、虐げられ、分断されているとしか思えないのです。

 これまで皆さんが上で書いていたように、
陰謀論信者が擬似科学信奉者よりも説得が難しいのは、
事実なのだろうと思います。

 でも、「信者」にとっては、説得されるということは、「生きる理由」をなくすことに似た、非常につらい経験になると思われます。

 それは、所謂「カルト教団からの救出」にも似た、人生をかけた作業になってしまうのかもしれません。
 なので、そこまでの覚悟をもてない場合、無理に深追いすることは、誰にとっても良くない結果になるのではないか、と思うのです。

まとまりがない話ですみません。

投稿: 憂鬱亭 | 2008年7月27日 (日曜日) 午前 01時23分

メーサー殺獣光線車の話題は出ていませんね…。

失礼いたしました<空気嫁

投稿: 山形ミクラス | 2008年7月27日 (日曜日) 午前 11時48分

>憂鬱亭さん

いつぞや某所でお話をして以来ですね、いらっしゃいませ。

>>それから、彼らは自己と同じ世界観を持つ人間を探し続けています。

ああ、なるほど、それがありましたか。本文で書いたようなことから、陰謀論者との議論には積極的な興味が持てなかったので、彼らが主張を譲らない理由については何となく理解出来ると思ったのですが、では何故執拗に議論を展開するのか、その動機については考えていませんでした。

憂鬱亭さんの仰るのは、つまり、後段で触れておられるように宗教やカルトと同様の原理が働いているということですね。まあ、陰謀論というのが世界観であるとするなら、それも当然のことということになりますが、大概の人間は世界観というものを自分だけが抱いている段階ではリアルなものと確信出来ないものでしょうね。

自分と同様の世界観を抱く者が一定の勢力を形成して、始めてその世界観はパブリックなリアリティを獲得するものなのでしょう。やはり、どんな常軌を逸した妄想に基づいていようとも、世界というのは個人の中に思念として在るだけではリアルなものではないのだし、その思念が一種パブリックに共有されてこそリアリティを獲得するわけで、だから彼らは陰謀論を否定する論者とわざわざ議論して、決して陰謀論的世界観を放棄しない者が存在することをアピールするわけですね。

>>陰謀論を信じる人々にとっては、マスコミなどで報道されている常識は大きくゆがんでいる、間違ったものにしか思えません。自分たちは不当にだまされ、虐げられ、分断されているとしか思えないのです。

この辺も厄介なところですね。本文で触れたように、陰謀論の大本それ自体は割合普遍的な懐疑精神を出発点としていて、マスコミの報道を信じないということそれ自体はさほどおかしなことではないですし、ニセ科学批判の言説でもそうですが、社会的な問題性を論じる場面では、マスコミの大本営発表や個々のコメンテーターの非常識な珍説奇説を懐疑することは大前提とすら言えるでしょう。

陰謀論批判が難しいと感じるのは、陰謀論という一定の傾向を持つ言説に結実した段階ではその奇矯性が割合わかりやすいのですが、原理的な側面では別段おかしな出発点からおかしな方向性に向かって推論が働いているわけではないですし、単に懐疑の程度が病的にドライブする(つまり推論の過程で実態と乖離した短絡が起こる)ことで常軌を逸した妄想に成り果ててしまうという部分ですね。

つまり、陰謀論というのはスケプティックな精神が病的に歪んで現実不信にまで昂進したものと言えるわけで、世界全体が悪意的な詐術によって真実のレイヤーを隠蔽されているというふうに妄想がドライブするわけですね。

これをわかりやすく謂えば「程度問題」という凡庸な言葉になってしまいます。

ニセ科学の問題と陰謀論の問題の共通項を抽出するなら、「科学の方法論を籍りていながら、科学の提供する正しさを保証する最も重要な要件を欠くこと」というふうに表現出来るでしょうし、陰謀論もまた科学の方法論の幾許かを籍りていることは事実だと思います。大本の精神がスケプティックな実態検証の推論だということでも、それは謂えると思います。

但し、その相違点を抽出するなら、ニセ科学言説は意図的に科学の持つ正しさの印象を騙るわけですが、陰謀論は外向けの正しさの印象を騙る為に科学の方法論を籍りているわけではない、そういうことになりますでしょうか。陰謀論においては、他者を騙る為ではなく自身を納得させる為に歪んだ形で合理が用いられている、そういう印象を覚えます。陰謀論が拘るのは、他者に対する客観的な説得力ではなく、自身を納得させる為の仮説の整合性ではないかというふうに思います。

つまり、「正しい言説」よりも「強い物語性」を求めるようなところがある。陰謀論という言説それ自体が強い物語として自己完結していることを第一義に求めるから、実態との乖離が起こり、科学の方法論から逸脱してしまうわけですね。

だから、陰謀論もまた起源説話や妖怪と同様に世界についての説明原理ではあるのだと思います。「真実のレイヤーが巨大な力によって隠蔽されている」という抽象的な観念を具体化する形で世界を説明する言説として陰謀論が語られるわけですから、それはその言説自体の内部で客観的な妥当性とは別次元の合理性を持つのかな、というふうにも思うわけで、ここにも陰謀論批判の難しさがあります。

ただ、やはり陰謀論というのは何かしらの病理的な心性を反映した言説であることは間違いないわけで、誤解を招く言い方かもしれませんが、「健全な懐疑」というものが在り得るとしたら、やはり「病的な懐疑」としてネガティブに位置附けされるものであることは疑い得ないと思います。

そして、それにはやはり、社会に対しては何らかのネガティブな影響力があるのだろうと予想されるわけで、方法論的に批判が難しいからと謂って座視して好い言説ではないのではないか、という気も一方ではするわけですね。

>>ただし、今後、その組織の中の各人の微妙な世界観の違いが表面化したときには、最悪、犯罪につながるような内部分裂がおきる恐れがあります。

それもおそらく陰謀論のもたらす悪影響の具現形の一つでしょう。被害妄想的な世界観の持ち主が同志を募って現実に組織化され、一定の社会的影響力や影響行使手段を得ることで、現実に何が起こるのか、ここも考えどころではあります。

まだ現実に何も起こっていない段階でこのように比定することが妥当かどうかに躊躇があるので、少し腰が引けた言い方になりますが、十数年前の大規模な宗教テロを起こした集団との間に共通項を抽出しようとすれば幾らでも可能であるわけです。

ただ、あの事例においても、何も起こっていない段階では、少なくとも何らかの反社会的な実態が表面化する段階までは、公に批判することがかなり難しい状況にあったということは謂えるでしょう。そのような世界観を共有しないマジョリティにとっては奇矯で実態と乖離しているとしか見えない世界観を抱く集団の存在は、概ね何らかの病的な行動に結実するという経験則からの予感が兆すわけですが、仰る通りそれは生半可な覚悟で批判が可能なことではない。

>>なので、そこまでの覚悟をもてない場合、無理に深追いすることは、誰にとっても良くない結果になるのではないか、と思うのです。

こちらも抽象的な言い方しか出来なくて申し訳ないのですが、この問題はどうしても言説批判というような、批判対象の自己責任を要求するレイヤーの議論では対処し得ないのではないかという気がするんですね。関与することで何らかの当事者性と結果責任が付帯する問題性であるような予感がします。

だから、現段階では性急に批判のアクションを起こすよりも、とにかくいろいろもやもやと考えるしかない事柄なのかな、というふうに思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年7月28日 (月曜日) 午前 03時25分

>山形ミクラスさん

どうもです(笑)。

>>メーサー殺獣光線車の話題は出ていませんね…。

いや、勿論、東宝自衛隊が何故レーザーではなくメーサーという中途半端なものが好きなのかとか、電子レンジ方式の電磁兵器に拘りがあるのは何故なのかとか、そもそも何故に「メーザー」ではなく「メーサー」なのかとか、おそらく世間一般で謂うところの「メーザー」と東宝自衛隊の「メーサー」は微妙に違うものなんじゃないかとか、それが証拠に最早メーザーでも何でもないものにまで「メーサー」の名を冠しているんだから、殆ど自衛隊内部のペットネームのようなものなんじゃないのかとか、そういうお話をしてくださっても一向に構いませんのよ、いや、ホントに(笑)。

そもそもここのブログの表芸は本来トクサツ批評みたいなものですから、どんなシリアスな話題でもトクサツ方面への逸脱は全然オッケーでございますよ。

個人的には東宝自衛隊のメーサー兵器についてはそんなに疑問を感じないのですが、むしろマーカライトファープのほうが「相手の光線兵器を反射する」というパッシブな原理なのが後ろ向きの発想でよろしくないですね(笑)。

メーサー同様に平成シリーズでもスーパーX2とかMGに搭載された熱線反射兵器の形で延命していると思うんですが、これも大概ゴジラの熱線の凄さを表現する為の咬ませ犬的な扱いで、ダイヤモンドミラーオープン→いいぞ効いてるぞもっといけ→隊長、出力オーバーです→なにぃ?→どっか〜ん→うわー的な、コントのような天丼を視る度に爆笑してしまいますね。

そもそもオリジナルのマーカライトファープの最大の戦果というのも、「自重でモゲラを圧し潰したこと」くらいだと思うのはオレだけでしょうか(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2008年7月28日 (月曜日) 午前 03時26分

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