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2008年7月27日 (日曜日)

Who cares?

poohさんのところで「自然と道徳」というエントリーが上がった。彼のブログではニセ科学問題と並んで環境問題も重要なテーマとして扱われているが、これもやはりオレの問題意識と重なる部分があるので、少し言及してみたい。

オレは以前仕事で環境広報やCSRに携わった経験があるが、日頃poohさんが仰っているように、この問題はイメージ論や個々人のちょっとした思い附きの創意工夫で何とかなるという問題でもないわけだが、それでも或る程度のマッスの社会行動として確立しなければ何の効果もないというところが窮めて厄介で難しい問題である。であるから、これは一種広報の問題であったり、コミュニケーションの問題でもあるわけである。

たとえば「マイ箸ってエコだよね」というようなことを考えても実質的な意味はまったくない。間伐材で作っている割り箸の使用量を幾ら削減したところで森林減少の問題とは関係がないわけで、寧ろ間伐を抑制することで放置される森林が増えれば環境悪化に繋がりかねないわけである。

現在本邦の国土を覆う山や森林はほぼすべて人の手が入った人工の植生のもので、原生林というのは数えるほどしか存在しない。森林のみならず、日本人の原風景などと称される田園風景なども人工の極みであり、その人工的な環境は不断に手を入れてやるという前提で成立しているものなのであるから、適切に手間をかけてやらないと本来の設計目的に反したものとなり、人間を取り巻く環境としては劣悪なものとなってしまうわけである。

しかし、これを別の観点で考えれば、「もしかしたら」ではあるが、まったく別の問題性に対して割り箸を削減することが有効な対処に成り得るかもしれないわけで、そのように多面的に考えた上で、すべてのアクションの及ぼす環境負荷を可能な限り統一的且つ並列的に比較可能な尺度で計算して、その環境負荷の総量の削減に対して実効的なアクションを考え設計していく、それが現在における環境問題への対処の手法である。

環境問題はマクロなシステムとして全体のプロセスを細々と計算し、チマチマと地道に手当していくしかない種類のもので、それは単に生き残りの為の戦略というものでしかないわけで、「地球の為に何かをしたい」というような問題ではない。人類社会が致命的なダメージを蒙らないように、少しずつ修整しながらパッチを当てていくようなものであるから、本来地球全体の為なんかではなくて人間の存続を目的とする問題である。

環境問題について一つ言えるのは、「地球環境の為」とか「地球全体の為」なんて、利他的な性格のお題目を一旦捨てることが必要なんじゃないかとオレは考えている。早い話が、これまで地球上では何度も大絶滅が起こっているわけであり、現在も連続的に生物種の絶滅は起こっているわけであるが、それは、言ってみれば地球の歴史の上では極自然なことなのである。その大絶滅の主因が人類の社会活動によるものであろうと、地球的な視点では何の違いもない。

たとえば、突然変異のインフルエンザウィルスによって地球全体の生物種の九割が死滅するようなSF紛いの大絶滅が起こったとしよう。その大絶滅は何か悪いことなのかと謂えば、そのように考えるのは人類の価値観においてのみであり、地球的なメタ視点で考えれば、これまで何度も起こったことがまた起こっただけのことである。

そのウィルスが、純粋な偶然による突然変異によってもたらされたか、或いはそれこそSF紛いに某大国の生物兵器研究によってもたらされたのか、人類の社会活動がもたらす環境改変がその突然変異に関連しているのか、そんなことは人類以外にとっては何の意味もない、価値を伴わない事実関係の差違でしかない。

数度に亘る過去の大絶滅が何によってもたらされたのかは、ハッキリわかっていないようであるが、少なくとも何度も大規模な絶滅が起こったことは疑い得ない事実のようである。それで誰が困ったかと言うと、誰も困ってなどはいないのである。勿論、その当時絶滅した生命種は困ったのだろうが、それは当事者的な問題であって地球全体の問題というような事柄ではないし、当事者となる生物種が滅んでしまった後は誰も困ってなどいないわけである。

つまり、環境問題と謂い、生物種の絶滅と謂っても、それは本来絶滅する生物種の当事者的な問題にすぎないという認識は必要だろうと思う。

極端な話、地球上の生命種がすべて滅び去り、大洋は干涸らび、大地は砂漠に覆われた不毛な広野となったとしても、絶滅した生物種以外の視点では何処も問題でなど在り得ないわけである。「地球全体が困る」なんていうのは逆に人間視点の考え方にすぎないわけであり、地球という惑星は、生命種が一切存在しない死の惑星になっても一向に困らないわけで、むしろこの宇宙の大半はそんな惑星ばかりである。

たとえば、過去の大絶滅をもたらしたのが巨大隕石のような天変地異や突然変異のウィルスや細菌だと仮定して考えてみよう。その大絶滅の「責任」は何処にあるのかと言えば、そんなものは何処にもない。隕石やウィルスなんていう事象に対して、人間的な観念である「責任」を問うたところで何の意味もないのだし、その結果99%の生物種が滅ぶ大絶滅がもたらされたとしても、その状況は「悪」なのかと言えばそんなことなどないのである。人間の存在しない世界においては、世界はただ在るが儘に在るというだけの話である。

だとすれば、現在進行している生命種の絶滅に対して人間は何ら手を打つ必要がないのかと言えば、それはそうではない。自然環境が激変し、多くの生物種が滅べば、人間が困るからであり、そして、独り人類のみが他の生物種の滅亡に関与することに対して罪悪感を意識することが出来る存在だからである。それは「人間にとって」愚昧で罪深い行いだから、人間が何とかしなければならない問題なのであり、それは人間が考える問題である以上無意味なことでは決して在り得ないのである。

それ故に、環境問題というのは、本質的に「人間中心主義的な問題性」なのだということをキチンと認識すべきなのだとオレは考えている。たとえば自然環境が或る特定の方向に激変することを、「環境が悪化した」と表現する場合、それは人間の視点に立った価値観に基づいている。

人間視点を離れて鳥瞰するなら、それは単に或る原因によって特定の方向に環境が激変したというだけのことであり、それによって特定の生物種が滅ぶことも別に悪などではない。繰り返すが、これまで地球上では何度も大規模な天変地異やその他のイベントによって大絶滅が起こっている。

現在進行しつつある生物種の絶滅やその頻度、進行の度合いを採り上げて視るなら、それは単に人類という現在の地球上のドミナントが活発に発展したことによって、他の生物種が圧迫を受けているという、「ただそれだけのことに過ぎない」という言い方も出来るのである。

では、所謂「地球環境問題」において何が重要なのかと謂えば、隕石やウィルスなどという無機物とは違って、人間は他の生物種の絶滅で自身の首が絞まることを認識出来る存在なのだし、それに対して知恵で対処可能なほぼ唯一の存在であり、他の生物種に対して共感や責任を感じることが可能な唯一の生物種だということである。

たとえば或る特定の環境系において、特定の生物種が繁栄しすぎると、その特定の環境系の生態系のバランスが崩れ、今度は減少に転じたり生物種の絶滅がもたらされるということになるが、人間はとにかく環境を改変することで苛酷な環境の淘汰圧に抵抗し、さらにそれが限界に衝き当たると、閉鎖環境系から外にエクスパンドすることで一方的な繁栄を謳歌してきたわけであり、環境を改変する能力で現在の生態的地位を占めることが出来るようになった。

地球環境問題というのは、そのエクスパンドが地球規模に達した時点で浮上してくる当然の問題である。歴史的に視て、地域的に区切られた小世界内でエクスパンドしていっている時点では、まだ発展の余地としての「外部」が存在したわけで、特定の小世界内での局地的な環境問題は地球全体の巨大なシステムの中で吸収・拡散されて深刻な破滅的状況には至らなかったわけだが、今や小世界の「外部」などは存在しない。

ほぼすべての小世界同士が連結を達成してしまったわけであり、科学技術の進歩が人類の環境改変能力を圧倒的に拡大してしまったわけだから、特定の環境系の環境負荷は地球環境全体に影響を及ぼしてしまう。人類という生物種の全体的なマッスにとって地球は確実に「狭くなった」のである。何かちょっとしたヘマをしてしまえば、たちまち人類全体の窮乏や文明の後退や、剰え種の滅亡に繋がりかねないデリケートな時代に踏み込んでしまった、そういう話なのである。

だから、これからはどんな無茶をしてもスケールメリットで緩衝してくれる「外部」などは存在しないのだから、可能な限り緻密に全体的プロセスを計算をして慎重に社会活動を展開して持続的な発展を考えていきましょうという問題、それが「地球環境問題」なのである。

これはつまり、滅び行く生物種に対する倫理的な責任の問題でもなければ、生物種レベルで利他的な善意の問題ではなく、自身の属する生物種や恩恵を受けている文明の存続に関わる問題なのである。

たとえば、環境テロリズムのような、「地球環境の為には人類が滅亡してもいい」的な極論というのは、地球環境問題の解法や結論では在り得ない。それは単に、地球環境問題が拠って立つ大前提を卓袱台返ししただけの話で、「人類やその文明には、人類以外の生物種を滅ぼしてでも存続するだけの価値がない」という、非常に奇矯で尖鋭な価値観を顕わすものでしかないのだから、環境テロリズム的な極論は憎むべき暴論である。

オレやあなたが今この世に存在するのは、人類とその文明が数万年に亘って継続的に発展してきたからであり、オレやあなたが今この地球上に存在することに何らかの意味を認めるなら、人類とその文明の存続の為に何が出来るのか、さらに他の生物種や環境系に対して不当な圧迫を加えずに多様性を確保し得る可能性はないのか、そのように考える問題こそが地球環境問題だと表現出来るだろう。

「人類や文明が滅んでしまえばいい」というのは、つまりオレやあなたが現在只今この地球上に存在する意味を否定する考え方であり、自身の存在よりも地球環境などというあやふやな言葉で象徴される「自分以外の他者」や「外部としての世界」の価値を重視する考え方なのであり、それはウロボロス的な循環論理でしかない。だからこそ、忌避されるべき愚昧な暴論なのである。

他の生物種という「自分以外の他者」や地球環境という「外部としての世界」の価値を認めるのもまた、自分自身の価値観でしかないわけであるが、自身が認めた他者に対する価値というのは、自身の価値判断に意味がなければ意味などないのであり、それは決着するところ、自身が今現在この地球上に存在することに価値を認めるという前提に立たなければ価値の拠り所をグルグルと先送りにした循環論理でしかない。

つまり、自分自身が属する生物種である人類の存続の否定を前提とする環境問題への対応は須く矛盾しているわけである。自分自身が滅んだ後に、その「人類が存在しない地球環境」の価値を認める主体など存在しないのであり、結局は人類の一員でしかない誰かがアタマの中で考えた矛盾せる価値観の実現でしかない。これも所詮は人間中心主義的な考え方でしかなく、しかも矛盾撞着した人間中心主義であるから、単にそのように考えない他人にとって迷惑な妄想だという意味しかないのである。

それはまあ、当たり前ではあるが莫迦な極論でしかないわけで、アタマが痛いのはアタマがあるからだし、腹が痛いのは腹の中に臓物が詰まっているからだが、誰も頭痛を鎮める手段として自分の脳みそを吹っ飛ばしたり、腹痛を抑える為に腹を捌いて臓物を掻き出そうなどという莫迦なことは考えないものである。

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コメント

環境問題を道徳・倫理的な問題として捉えることはほんとうに恐ろしい側面を内包していて。

それはうっかりすると、例えば自然災害なんかを「ある悪行に対する因果応報としての刑罰」みたいに捉える発想を可能にしてしまう。で、この発想はその災害に対する「原因となった悪事や、罰された主体」と云うものを必要とすることになる。
この考え方は絶対に許容されてはいけないんです。

投稿: pooh | 2008年7月27日 (日曜日) 午後 05時51分

>poohさん

>>それはうっかりすると、例えば自然災害なんかを「ある悪行に対する因果応報としての刑罰」みたいに捉える発想を可能にしてしまう。で、この発想はその災害に対する「原因となった悪事や、罰された主体」と云うものを必要とすることになる。

近代以前は、その原理で政治が廻っていたという歴史性は押さえる必要があるとは思いますし、「政」というのは基本的に「祀り事」なのですから、何処かに祭政一致的な側面を引きずっていて、ほんの一、二世紀くらい前まではそういう呪術的な世界観が主流的な説明原理であったとは思います。

それはたとえば御霊信仰であったり、易姓革命であったり、いろんな形をとって政治に影響を与えてきたわけで、為政者の徳性に照応して世界が廻っていくという呪術がほんの少し前まで割とリアルな世界原理ではあったわけですよね。そういう意味で謂えば、近代以前の権力というのは、環境問題に対して具体的な施策(実際には治水と開拓事業でしょうけれど)を実施しつつ、その結果責任を徳という観念の下に引き受けるという形で維持されて来たということではあるでしょうね。

ただ、やっぱりこれは近代以前の「外部」の存在を前提とした、割合緩い状況下における統治原理のようなもので、「地球環境問題」というステージでは「とにかくやってみて結果責任を被る」みたいな大雑把な方法論ではまず対処出来ないわけですね。

オレとしては、環境問題を道徳・倫理的な問題として捉えることの本質的な問題点というのは、環境問題というのはそれ自体を目的的に指向して解決しなければならない非常に実践的な問題であるにも関わらず、その困難に向かい合わず道徳・倫理の問題として解決しようという不毛で無意味な方向性に世論が流れることではないかと思います。

これが端的な形で顕れたのが、「琵琶湖の水を祈りで浄化する」という馬鹿げた呪術であることは論を俟ちません。大勢で祈るくらいならその人数で手を動かして浄化の努力をしろという話なんですが、祈るほうが圧倒的に楽で簡単なので祈れば水が綺麗になってくれるという言説は非常に魅力的なんですね。

水伝的な強い呪術ではないとしても、エコとかロハスとか地球に優しいというのが一種の呪術であるということは謂えると思うんですね。「おまじない程度の効果しかない」というような慣用句がありますけれど、ロハス的なファッションとしての緩いエコ意識というのは、まさしく言葉通りの意味で「まじない」なのだと思います。

たとえばマイ箸とかエコバッグ的な末端のロハス的なアクションと、全体的な地球環境問題の間の断絶というのは、多分想像力の欠如というより類感呪術的な原理で解釈したほうが妥当なんではないか、最近はそういうふうに考えています。「地球に優しい」アクションを行うことで、優しくされた地球の環境が改善される、この思考の具体的なプロセスの断絶は、それが呪術だと考えればわかりやすいのですね。

その意味で、イメージ論的なエコのまずい部分というのは、「実効や全体的プロセスを無視した目先のファッションでしかない」という言い方よりも、もっと踏み込んで謂うなら「相も変わらず世界の不都合に呪術で対処しようとする考え方」と表現したほうが妥当なのかもしれないと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年7月28日 (月曜日) 午前 03時27分

> 「相も変わらず世界の不都合に呪術で対処しようとする考え方」

これ、まだちゃんと考えてないんで、ちょっと端折った云い方になりますけど。

広告、と云うのが受け手のどの部分にアプローチするものなのか、と云うところから考えると、原理的にたぶん広告ってのはその多くの場合が呪術なんですよね。
ゆっくりにはなりますが、自分のところで最近出した話題の延長上にあることでもあるので、少し考えてみます。

投稿: pooh | 2008年7月28日 (月曜日) 午後 12時30分

細かい話で申し訳ないのですが、割り箸については、現在国内で流通するのもの90%以上が輸入箸(主に中国産)であり、それらは間伐材ではなく皆伐方式で生産されていることを考えると、まさしく森林減少に結びつく問題であり「マイ箸ってエコだよね」という行動には、実質的な意味があると思います。

日本における「放置された森林」は黒猫亭さんの言うところの「本来の設計目的に反したもの」となることが問題なのであり、世界的な森林減少とはレイヤーの違う問題です。
なお、日本の林業の崩壊については、それこそグローバリゼーションの中での競争力の問題に期する話であるので、今さら間伐材を割り箸にしましょうといったところで、国内に既にそのようなリソースがあるのか疑問に思います(これはこれで問題ですが)。

エコバックについても、レジ袋のロスやそれがペット再生品であることなどを考慮するならば、環境負荷を下げる効果はあると思っています。

>環境問題というのはそれ自体を目的的に指向して解決しなければならない非常に実践的な問題であるにも関わらず、その困難に向かい合わず道徳・倫理の問題として解決しようという不毛で無意味な方向性に世論が流れることではないかと思います。

これについては全面的に同意するものですが、実践的な問題解決を末端の個人のささやかな行為に求めたとしても、それを「水伝」と同じ呪術行為とするのには無理があるのではないでしょうか?
そして、個人の取り組みとして、他にどのようなものがあり得るのでしょうか?

「エコ」というだけで中身を考慮せずに拒絶反応を起こすことも、同じく暴論だと思っていますが。


投稿: くりず | 2008年7月28日 (月曜日) 午後 06時24分

>くりずさん

お返事が大変遅れてすいません。

実はこのエントリ、少し思うところあって割合ラフに書いています。細かいツッコミは大歓迎なのですが、思惑と違って体調を崩してしまったので、好いタイミングでレスポンスを返せなかったことをお詫びします。

まず最初に大枠の話からお答えしたほうがわかりやすいと思います。

>>「エコ」というだけで中身を考慮せずに拒絶反応を起こすことも、同じく暴論だと思っていますが。

「エコというだけで中身を考慮せずに拒絶反応を示して書かれた言説」が暴論であることにはまったく異論はありませんが、少なくともこのエントリで書いた内容はそのようなものではないつもりです。

このエントリに対するご意見としては、くりずさんのご意見は腑に落ちないロジックだと思ったのですが、少し考えてみると、もしかしたらくりずさんはオレが武田邦彦の言説を採用していると解釈されて、その前提でこちらの趣旨を敷衍されているのかもしれないと思いました。違っていたらすいませんが。

仮にそうだとすれば、多分「割り箸は間伐材で作られている」という辺りからそう思われたのかなと思いますが、これは一〇年くらい前は普通にそういうふうに謂われていたものでして、勿論武田邦彦が言い出したことではありませんから、武田説のような環境問題不要論を展開しているわけではありません。

更めてハッキリさせておきますと、オレは「マイ箸やエコバッグは実効がないからやめてしまえ」という趣旨を語っているわけではありませんし、それらのロハス的な消費行動に実効がないから呪術であるという論理を語っているわけでもありません。さらにまた、「割り箸を皆伐方式で生産された輸入品に頼るのはやめて、国産の間伐材を使うべきである」と主張しているわけでもありません。

>>これについては全面的に同意するものですが、実践的な問題解決を末端の個人のささやかな行為に求めたとしても、それを「水伝」と同じ呪術行為とするのには無理があるのではないでしょうか?
>>そして、個人の取り組みとして、他にどのようなものがあり得るのでしょうか?

このエントリで語りたかったこととしては、「地球環境問題は個人の取り組みでは解決不可能である」という結論になります。現状においては、地球環境問題への取り組みの多くは、企業や個人の自発的な取り組みを奨励するというボトムアップの形が多いと思うのですが、地球環境問題における各問題領域を子細に検討していくと、マクロなシステムに起因しているものが大半であり、企業や個人の個別発生的な取り組みでは本質的な解決をもたらすことは不可能だと考えています。

最も大きな要因は、それこそマクロ経済やグローバリゼーションの問題が大きいということになるでしょうし、循環型社会実現へ向けた具体的な課題としては流通の問題が大きいということになると思います。

さらに謂えば、地球環境問題への具体的取り組みというのは、「エネルギー・資源の無駄を削減する」「製品の実害を改善し高付加価値化する」という意味で、割合多くの場合経済的メリットをもたらしますが、マクロなレベルでは必ずしも経済的価値観と整合しない部分がどうしても出てきますし、そこが問題性の本質であったりするわけですから、必ずトップダウンのシステム整備が必要になってきます。

そして、今回エントリで触れたようなロハス的なエコ意識というのは、poohさんの顰みに倣って「これがマーケティング用語であることからもわかる通り」という言い回しを用いれば、地球環境問題への取り組みの経済的価値観と整合する部分のみを巧妙に利用する消費行動喚起型のイメージ操作ということになりますし、そのイメージ操作に対する「マイ箸ってエコだよね」的な応答の姿勢には類感呪術的な不合理が内在していて、それが最終的に問題性の本質を糊塗するという大きなデメリットがあると考えます。

今回のエントリにおける主張の重点はそこにあるわけです。

>>細かい話で申し訳ないのですが、割り箸については、現在国内で流通するのもの90%以上が輸入箸(主に中国産)であり、それらは間伐材ではなく皆伐方式で生産されていることを考えると、まさしく森林減少に結びつく問題であり「マイ箸ってエコだよね」という行動には、実質的な意味があると思います。

この問題については、「細かい話」は勿論大歓迎です。更めて調べてみるとまったくその通りの現状になっているようで、この辺のオレの状況認識が一〇年くらい前で停まっていたことは認めます。

この「一〇年くらい前の認識」というのは、一〇年くらい前の状況をディスクライブした情報に基づくものという意味ではなく、一〇年くらい前に流通していた情報に基づく認識という意味です。キチンと調べていませんが、一〇年くらい前にはすでに国内林業は衰退していましたから、その時点ですでに輸入品が主流であり、この情報自体がその時点の現状を正しくディスクライブしたものではなかったのでしょう。

ここ数年業務上で環境問題を扱う機会がなかったので、情報を更新していなかったという事情がありますが、要するに単なる怠慢ということですね(笑)。ただ、これは本文を補足する意味では恰好のとっかかりではあります。

まず、割り箸という「モノ」それ自体を視てみると、間伐材を使ったものも新規伐採の端材を使ったものも、見た目や機能には何の違いもありません。中国産の割り箸には漂白剤残留などの別の問題もあるわけですが、それを措くとすればひとまずは同じものと見做すことが出来るでしょう。

この割り箸というモノの環境負荷を考える場合、現物それ自体を幾ら視てもそれが及ぼす環境負荷の総体は見えてきません。たとえばオレがそう思っていたように、国内林業の副産物である間伐材を用いたものであれば、森林伐採の問題とは無関係でくりずさんが仰るように国内林業の問題や国土保全、治水の問題に関係してきます。

また、新規伐採の端材で生産されたものであれば、これはまさに森林伐採の問題に直接関係してくるわけで、「割り箸という用途」が存在するから、それまで伐採される必要がなかった半端な樹木まで伐採するメリットが出てきたわけで、それが他国の森林減少に少なからぬ影響を与えているという言い方が出来ますね。そして森林減少という問題性はCO2固定の問題という形でボーダレスな地球環境問題として我々にも当然関係してくるわけですね。

この二つのケースは、「建材等の用途には使えない端材を有効利用する」という、それ自体無駄のないエコロジー的な共通のプロセスに基づいていながら、一方では森林経営に必須の間伐を促進し、他方では森林減少に拍車を掛けているわけで、そこにはグローバリゼーションに基づくマクロな経済システムが関与しているという構図になると思います。

そして、この二つの状況設定においては環境負荷の性格はまったく異なりますし、問題性の在り方もまったく違います。我々の目の前にある、「割り箸というモノ」それ自体には何ら実態論的な違いはないにもかかわらず、です。

この構図は、たとえばバイオマスエタノールの問題なんかにも共通しているわけで、枯渇性資源から再生可能性資源への転換それ自体は大変結構な話ですし、CO2排出の面からも有効な選択肢と謂えるでしょう。その一方で、原材料の在来用途との競合やアマゾンの熱帯雨林伐採への深甚な影響などの問題もあるわけです。この問題も、バイオマスエタノールというモノそれ自体を幾ら視ていても、好いこと尽くめで環境負荷の実態は見えてこないわけです。

普通に考えて、トウモロコシ由来のバイオエタノールの利用拡大を推進していくとするなら、その為のインフラが必要となります。自動車のハードウェアに関してはひとまず措くとして、原材料の生産の側面を視てみますと、それまで世界的な穀物需給のバランスがとれていたのだとすれば、莫大なマッスの別用途が新規に発生するわけですから、食糧に使っていたトウモロコシを燃料生産に廻すか、燃料生産分のトウモロコシを増産するしかないわけです。

前記の問題は、そういう意味で完全に予想の範疇の問題性であり、バイオエタノールへのシフトを地球環境問題的な観点で考えるなら、そこのインフラをどう整備するかという問題とセットで考えなければ何の意味もないわけです。十分に予想される問題であるにも関わらず、それに十分な手当が為されていないのであれば、それは地球環境問題への取り組みではなく、何らかの別の動機に基づくエネルギー政策の一環に過ぎないという言い方になるでしょう。

たとえば地球環境問題というのは、環境負荷の性格に基づいて、CO2削減、廃棄物削減、化学物質管理等々、環境負荷単位で切り分けることが出来ますが、本質的には或る特定のモノを取り巻く全体的なプロセスの環境負荷を総体的に削減していくことを目的としているわけですから、資源枯渇の問題には有効であっても森林伐採を促進するのであれば総体的に視てCO2排出削減ではマイナスになっている可能性があるわけです。

地球環境問題が「細かい問題」だというのはそういう意味で、環境負荷単位で切り分けてそれぞれのステージで視てみると、特定の環境負荷を削減しようとすれば別の環境負荷が増大するという相補的な関係にある問題も多く、一つの環境負荷だけを削減すれば好いという問題でもありません。

また、環境負荷を総体的に削減することが重要と謂っても、環境負荷というのはモノや社会活動が環境に与える負荷の謂いですから、原理的に謂えば「在る」のが当然の属性であり、その中でどのように個々の環境負荷を評価して削減していくかを考える必要があり、切り分けられた個別の環境負荷それぞれの間にも優先順位の問題があるので、適切に重み附けを施して目標設定する必要があります。

さらに、机上で考えて「環境負荷が低減される『はずだ』」ではダメで、個々の環境負荷を事前にも事後にも適切に計測して比較する必要があります。本文中で「すべてのアクションの及ぼす環境負荷を可能な限り統一的且つ並列的に比較可能な尺度で計算」する必要があると陳べているのはその故で、これは「総体的に環境負荷が削減された」と判断し得る状態とは定量的には如何なるものなのかを決定する為に必要な条件です。

たとえば、マイ箸の問題で謂えば、割り箸を廃して塗り箸の繰り返し利用に転換すると洗浄の為に幾許かの水質汚染の問題が出てきますが、これはちょっと考えると他の繰り返し利用している食器の洗浄に箸の分が加わるだけですから、無視して構わないレベル「のような気がする」わけですが、実際に計測したり計算してみないとたしかなことは謂えないわけですね。もしかしたら、箸の洗浄には他の食器を洗浄するよりも余分に水質を汚染する個別の要件があるのかもしれません。

さらに、「箸」という食器の及ぼす環境負荷全体を考えたとき、外食産業において供されるのは割り箸が好いのか塗り箸が好いのかという問題は、適切に重み附けを施された個々の環境負荷ごとに為された細かい計算の綜合として最終判断される必要があるわけで、それもたとえば大半の割り箸が国産の間伐材由来であるか輸入品であるかというインフラによってまったく事情は変わってくるわけです。

そして、これらの計測と計算は刻々と変動していくダイナミックな世界情勢の中で適宜見直しを施して妥当な状況に近付けていかなければならないわけで、効果的且つ継続的にPDCAサイクルを廻していく必要があるでしょう。

その意味で、地球環境問題というのは「気は心」の問題ではまったくありません。結果がすべてであり、所期の結果を効果的に実現する為に実践的な対処を試みるべき問題領域で、だからこそ難しい問題だと謂えるでしょう。

地球環境問題に貢献したいという動機や所期の考え方が幾ら真正なものであっても、結果として環境負荷が増大しているなら、それはダメな取り組みであり、その取り組みが環境負荷そのものであるということになります。とは謂え、実のところ、マイ箸にしろエコバッグにしろ、おそらく環境負荷を低減する実効の幾許かはあるはずですし、その論点を争うつもりなど毛頭ありません。

このエントリで問題にしたいのは、「割り箸を使わない」「マイバッグを使う」という身近な象徴的行為によって地球環境問題に貢献しているという意識を持つという考え方のほうなんですね。ミクロな象徴的行為が中間項を飛躍してマクロな大状況に対する影響力を持つと信じること、これが呪術的思考なのだということです。

現在、マイ箸やエコバッグというモノにロハス的な価値を感じている人の多くは、中間項や具体的な環境負荷のプロセスを考えてそれを採用しているわけではないと思いますし、一通り省資源やリサイクルのお題目は考えているでしょうが、マイ箸やエコバッグが象徴行為として機能している側面は否定出来ないのではないでしょうか。これはたとえば、誰かを呪う場合にその誰かを代替する象徴的事物を傷害することでその誰か自身に傷害が及ぶと考える考え方と非常に近いわけです。

くりずさんが「マイ箸にはそれなりに実効あり」と仰ることが出来るのは、割り箸の背景にあるマテリアルフローをご存じだからですが、多くの人がそう考えるのは「割り箸というモノ」を「使わない」というミクロな象徴行為が、その「モノ」の削減というマクロな結果の成就に直結していると考えるからではないでしょうか。

そのように中間項を飛躍する象徴行為と願望の原理を、オレは呪術であると考えています。この思考法には、その割り箸が国産の間伐材由来であるか皆伐に基づく輸入品であるかというプロセスの違いはまったく関係しません。ミクロな次元で割り箸を使わないから、マクロな次元で割り箸がもたらす問題性は消失してしまうのだと考えるのです。

勿論、マクロな大状況はミクロな行為の積み重ねで影響されることは事実ですから、個人の取り組みが必要であることは論を俟ちませんが、中間項を飛ばすことでそれは呪術に堕してしまうということなんですね。中間項のプロセスというのは、割り箸の場合で謂えば、間伐材であるか輸入品であるかということで一八〇度意味が変わってくるわけで、個人レベルの取り組みであっても、そこを考えない取り組みには意味がないということです。

まあ、今回のエントリではオレ自身が怠慢で情報をアップデートしていなかったわけですから説得力は弱いですが(笑)、地球環境問題において重要なのはその中間項を考慮する為に必要な情報が絶え間なくアップデートされ続けることでしょう。

そして、これらを綜合して言えることは、地球環境問題というのは窮めて科学的に対処すべき問題であり、個人の価値観とは一旦切り離して考えるべき問題であるということです。この問題に関しては「喫緊の課題」という定型句が用いられますが、相対主義的な問題ではまったくないのだし、世界中のすべての人間が利害関係を持つ存続の問題であり、タイムリミットが割合具体的に決まっているということですね。

それは、個々人が持つ自然観とは本質的に無関係な問題ですし、人類がこの先も生き残るという割合身も蓋もない目的意識における問題であるはずです。だから、一旦は「地球環境の為」というような耳に快く響く理念的なお題目を捨てて考えるべきだということなんですね。地球の為や他の生物種の為なんかではなく、まず第一に自分たちの為の問題であり、自分たちが生き残れないから問題視されているのだということを認識する必要があるということなんですね。

その意味で、おそらくロハス的なるもの(曖昧窮まるマーケティング用語なのでこうとしか表現出来ません)というのは、地球環境問題に向けた取り組みではなく、個人レベルの価値観の提案なんだと思うんですね。それは多分本質的には地球環境問題とは別次元の問題なのであって、どちらかと謂えば呪術のほうにより近い観念なのではないか、そのような趣旨のことが言いたかったわけです。

また、武田邦彦の説の「巧みな」部分というのは、勿論「環境問題なんかない」という多くの人が安心出来る結論を一見科学的なデータに基づいて主張しているように見える部分であることは言うまでもありませんが、環境情報そのものが絶えざるアップデートを繰り返すものである以上、「昨日の常識は今日の非常識」的に無常な部分が常にあるわけで、「環境問題なんか存在しない」という非常識な卓袱台返しも一見議論の余地があるように見えるという部分もあるかと思います。

実際に、環境問題への対処は適切なやり方で為されなければ却って負荷を増やすという一般則は成り立つでしょうから、たとえばPETボトルをリサイクルするのは環境負荷が高いから燃やしてしまえ、というような意見も、何となく説得力があるように見えるわけです。

普通に考えれば、この論が成立するとすればそれは計測値の数字を絶対的な根拠にしていなければならないはずで、その数字が捏造であればその主張自体無意味なはずなのですが、多少数値が不正確でも大筋正しい洞察なのではないか的な理解をする人もたくさんいるわけですね。

このような考え方というのは、前述のロハスのような呪術的な考え方と根っこを共有しているわけで、エコ指向と環境問題不要論は正反対のように見えますが、結論を導き出す動機が違うだけで考え方の仕組みは同じなのだと思います。環境問題において重要なのは科学的な手法によって得られた定量的な数字なのであって、イメージや思想原理などではないということが周知されない限り、この手の欺瞞は大手を振って罷り通るわけです。

地球環境問題がニセ科学の問題と境界を接していると受け取る見方というのは、こういう部分から出て来るわけで、科学的でなければならない問題性に思想や道徳という価値観を持ち込むことで、逆に地球環境問題の解決とは逆のベクトルに向かう危険性があるということなんですね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年8月 2日 (土曜日) 午後 02時56分

丁寧な回答ありがとうございます。
回答が遅れたとのことですが、私もネットに頻繁にアクセスできる環境にありませんので、このペースがむしろありがたく思います。つうか、今頃コメントを書いているくらいですし。

>武田邦彦の言説を採用していると解釈されて、その前提でこちらの趣旨を敷衍されているのかもしれないと思いました。

武田邦彦氏というよりは、「間伐材の割り箸」「これまで地球上では何度も…大絶滅が起こっている」など、最近の環境問題不要論の論説で盛んに目にするワードに惑わされた誤読です。
また、環境テロリズムの極端な論を叩き台にしていらっしゃったのも、筋の悪さを感じた面があります。
ですが、poohさんのエントリのコメント欄に「人類がいなくなれば」的な意見を見て、それを受けてのエントリだったのだと了解しました。


ただ、「地球環境問題」と倫理の問題については、ちょっと異論があるのですよ。そもそも切り離して考えるというのがあり得ないか、と。

と、いうのも環境問題は、1972年の「人間環境宣言(ストックホルム宣言)」から既に、「(環境は)人間の福祉、基本的人権ひいては、生存権そのものの享受のため基本的に不可欠である。(前文)」とあるように人権に不可欠の問題としてとらえられています。
環境問題の中心的な概念である「持続可能な開発」が「将来世代の二一ズを満たす能力を損なうことがないような形で、現在の世代の二一ズも満足させるような開発」という定義であるように、生存権の享受を現在および将来にわたっていかに保証するかが、環境問題のスタンダードです。黒猫亭さんの言うところの「人間中心主義的な問題性」かと思います。

つまり、負荷に対する評価については自然科学としての厳密さが要求されますが、具体的な取り組みには対立するニーズの調整という側面が生じます。負荷削減の最大よりも(将来にわたる)人々の幸福の最大を模索することをベターとするわけです。何を持って最大幸福とみなすかは必ず異論が生じますが、どのような選択を取るにせよ倫理のない選択というのはあってはならないものなのです。

さらに言うなら、環境負荷の評価についても、「価値観」から自由であるわけではありません。

>切り分けられた個別の環境負荷それぞれの間にも優先順位の問題があるので、適切に重み附けを施して目標設定する必要があります。

「適切な重み付け」ですが、質の異なるそれぞれの要素に対してどのように優先順位を設定するかは、まさしく価値判断そのものです。
「すべてのアクションの及ぼす環境負荷を可能な限り統一的且つ並列的に比較可能な尺度で計算」とありますが共通の尺度の設定は難しいものがあります。環境経済評価がそれに近いかと思いますが、これは経済学である以上、価値判断を抜きにすることは出来ません。
何より自然科学が出来ることは、観測にせよシミュレーション予測にせよ現時点における事実の提示であって行動規範を示すことではありません。
「文明の存続」といっても、どのような文明を思い描くのかは科学では決められないことです。それこそ、価値観の擦り合わせの中でしか得られないでしょう。
価値判断でしかないものを、客観的な(科学的な)事実と思い込むことほど、結果を誤らせるものはありません。優生学がいい例です。

問題になるのは、倫理や価値観がからむことではなく、(自然科学が提示する)事実を顧みることなく己の願望だけで現実を判断しようとする行動様式でしょう。例えば、身体に良いことは自然にも優しいといったような。
その辺では「呪術的な考え方」という、黒猫亭さんの問題意識と共通するものがあると思っていますが。

投稿: くりず | 2008年8月13日 (水曜日) 午前 01時11分

はじめまして。以下の発言はちょっと見過ごせないので質問させていただきます。>それで誰が困ったかと言うと、誰も困ってなどはいないのである。勿論、その当時絶滅した生命種は困ったのだろうが、それは当事者的な問題であって地球全体の問題というような事柄ではないし、当事者となる生物種が滅んでしまった後は誰も困ってなどいないわけである。
普通ある種が滅びるとその周りの種も何らかの影響をうけます。たとえば草原、シマウマ、ライオンからなる単純な生態系があるとします。ここで何かの拍子にシマウマが絶滅したとします。そうなると、連鎖的にライオンも絶滅します。食べ物がなくなるのですからあたりまえですよね。こういったことは生態学の入門書に必ず書いてあるいわば生態学の常識です。
で、ここからが質問したいことなんですが黒猫亭さんはなにを根拠に上のような発言をしたのでしょうか。若干ラフに書いていることを考慮してもあまりにも粗雑な言論です。

投稿: | 2008年9月 3日 (水曜日) 午後 09時46分

>梨さん

はじめまして。ご意見有り難うございます。

>>普通ある種が滅びるとその周りの種も何らかの影響をうけます。たとえば草原、シマウマ、ライオンからなる単純な生態系があるとします。ここで何かの拍子にシマウマが絶滅したとします。そうなると、連鎖的にライオンも絶滅します。食べ物がなくなるのですからあたりまえですよね。こういったことは生態学の入門書に必ず書いてあるいわば生態学の常識です。

たしかにそれは常識です。ですから、その程度の常識を踏まえずに環境問題を語ろうとするほどオレも図々しくはありません。ご引用された文章やその前後をよく読んで戴けると有り難いのですが、

>>勿論、その当時絶滅した生命種は困ったのだろうが、それは当事者的な問題であって地球全体の問題というような事柄ではないし、当事者となる生物種が滅んでしまった後は誰も困ってなどいないわけである。

「誰も困らない」というのは、それが地球全体の問題かどうかという文脈上の言明でして、たとえばライオンがシマウマに一極的に食物を依存しているという生態系を想定する場合、それは他の選択肢がないということですから、過適応の例と言えます。特定の環境に過適応した生物集団は、環境変化に脆弱である、そういうことになりますよね。

そうでない場合、シマウマが絶滅してしまったらインパラやジャコウウシに食糧を求めるというのが環境変化への適応ということですね。で、或る日突然いきなりシマウマが存在しなくなるわけではないですから、その間に生態系内の個体数の調整が起こる。また、もしも或る日突然シマウマが全然いなくなるとしても、その生態系内のライオンは滅んでしまうかもしれないし、食糧を求めて別の場所に移動するかもしれない。生態系というのはそのようにダイナミックなものですし、そういう淘汰圧が進化と密接な関係を持っています。

で、元々生命が誕生してからこの方、世界というのはそのようなものとして続いてきたわけですね。当然、その過程で大絶滅というイベントも起こる。地質学的なスケールでごく短時間のうちに大半の生物種が絶滅するというのが大絶滅で、古生物学ではその原因をさまざまに推測しているわけで、たとえば恐竜の絶滅を巡ってもさまざまな原因説が語られています。とにかく、過去にこの地上や海中から大部分の生命が消えた時期が何度か存在したわけです。

で、それは「地球全体にとって」困ったことだったのかと謂えば、そうではないだろうというのがオレの意見の真意です。誰が困ったのかと謂えば、滅んでしまった当事者でしかないわけですね。「それは当事者的な問題であって地球全体の問題というような事柄ではない」というのはそういう意味で、地質学的なタイムスケールで環境が激変すれば、多くの生物種が適応出来ずに滅びるだろうというのは、単なる事実なのであって悪でも間違いでもないわけです。

さらに謂えば、前述の例におけるライオンも、シマウマが滅ぶという環境変化によって影響を蒙ることが「困ったこと」なのかと謂えば、そうではないという言い方も出来るわけです。自身の属する生物種が滅ぶかもしれないということを認識出来るのは人間だけで、他の生物種なら、飽くまで個体レベルでライフサイクルを経験するだけですね。

人間の目で視て健全で安定した生態系の中でも、個々の個体は厳しい淘汰に晒されているわけで、食糧が得られずに死んでしまったり、狩りに失敗して怪我をして傷病死したり、事故によって死んだりするわけです。それら人間以外の生物種の認識において、個体死は存在しても絶滅は存在しないわけで、たとえばその特定の生態系においてシマウマが滅んでしまったら、ひとまずは飢えて死ぬ個体が増えるということになるわけで、それを「特定の生態系内におけるライオンという生物種」という集合概念で捉えるのは人間だけです。

つまり、特定の生態系内でシマウマが滅んでしまえばライオンも影響を受ける、これは客観的事実ですが、それは「生態系内における環境の変化」という意味では日常的な世界の在り様だと言えるわけです。環境問題において問題になるのは、その原因に人間の営みが関係しているということで、これを問題性として捉える考え方というのは窮めて人間的な考え方なんですね。

たとえば嘗ての大絶滅の原因説として、巨大隕石説とかウィルス説などが唱えられていますが、普通の人は「隕石が原因なら誰が悪いということではない」「ウィルスが原因ならウィルスは裁けない」ということになるでしょう。で、たとえば今現在大多数の生物種を滅ぼすような巨大隕石が飛来するとか、大半の生物種に対して毒性を持つウィルスが発生するという話になったら、人間は全力でそれを阻止しますよね。

これはつまり、人間というのは人間全体を集合概念で捉えられる生き物で、人間という種の存亡という高次の問題設定が可能であり、その延長上で、今在る別の生物種についても集合概念として捉え、その存亡に思いを致して責任を感じられるだけの「余力」があるということです。

人間以外の生き物にとって、たとえば巨大隕石が飛来して環境が激変し、大半の生物種が滅ぶという事態が起こっても、それは個体の主観において自分が普通に死ぬということと何ら変わりはないわけです。自身の属する生物種が滅びるとか、況や他の生物種が滅ぶということを考えているわけではない。自分という個体が死ぬというだけですね。

で、これをさらに地球全体という、実のところよくわからない曖昧な概念に広げて考えてみましょう。梨さんが引用された前後でオレは、

>>「地球全体が困る」なんていうのは逆に人間視点の考え方にすぎないわけであり、地球という惑星は、生命種が一切存在しない死の惑星になっても一向に困らないわけで、むしろこの宇宙の大半はそんな惑星ばかりである。

というふうに言いましたが、それは、たとえば過去に何らかの原因で地球上の生物の大半が滅ぶような大絶滅が何度もあったわけですが、それで「地球全体」などという曖昧な概念が困ったかと謂えば、誰も存在しない世界では誰も困らないという非常に単純な話なんですよ。「地球全体が困る」というような言い方で謂うなら、では誰が困るという話をしているのか、という問題があるわけです。

環境破壊によって地球が困るというような考え方というのは、地球環境という曖昧窮まる概念を擬人化しているわけですし、その限りで意味の在る概念であるということくらいは謂えるでしょう。しかし、地球の生命環境は何度も安定しては何度も大規模な破壊を蒙ってきたのだし、それは悪でも間違いでもなかったわけで、単に「地球全体の環境が激変した」というだけの話です。

人間の環境破壊や生物種の絶滅が問題性として成立し得るのは、人間だけが自身の行いが他者に与える影響の責任を認識し得るからで、それがたとえばくりずさんが仰る環境倫理というものの根拠になっているわけです。で、それはそれで別段無意味な空念仏ではない。何故なら、それを考えているのが人間である限り、人間の規範において倫理というのは意味ある概念だからであり、倫理において責任が問われる以上は他の生物種の存亡に対して人間は絶対的な責任を持っているわけです。ただ、それが上記のような根拠を持つ以上、飽くまで人間中心的な概念なのだという話ですね。

そういう意味合いで、くりずさんへのお返事において「生物多様性の問題は倫理的な動機が大きいかもしれない」というお話をさせて戴いたわけですね。梨さんの挙げられた例で謂えば、特定の生態系においてシマウマが滅べばライオンが滅ぶかもしれない、しかし人間はライオンの絶滅によっては滅びないわけです。自身の属する種にとって存亡の問題ではないけれど、たとえばシマウマの絶滅に人間の営為が関係しているのだとすれば、それに罪深さを感じることが出来るわけで、それを食い止めようとする。

もっと謂えば、シマウマの絶滅に人間が関係していないとしても(これはエコロジー的には在り得ない条件設定ですが)、人間は自身が生きる世界に嘗て存在した生物が存在しなくなることを阻止しようと努めるもので、それもまた倫理の要請ということが出来るでしょう。勿論、シマウマやライオンが滅びることで、回り回って人間の生活圏に対して何らかの影響はあるかもしれない。しかし、それは相対的に謂ってそれほど大きな危機要素ではないはずですし、人間に対する影響が大きいからとか、困るから絶滅危惧種を保護しましょうという話があるのではないわけですね。

端的に謂って、自分の種であれ他の種であれ「絶滅すると困る」という考え方は、人間だけが為し得るものです。絶滅する当事者の問題でしかないと言いましたが、上記のように、人間以外の生物種にとって、自身の属する種の絶滅という問題性やその絶滅が何によってもたらされるのかという問題性は、そもそも存在しないわけです。

で、おそらくこれが一番誤解を招くのだとは思いますが、オレが地球環境問題を「人間中心的な問題」と規定するからと謂って、それを批判しているわけではないということは何度も強調しておきます。地球環境問題というのは、人類の存続において必要のある問題設定なのだし、くりずさんが仰るように倫理的な問題でもあるわけで、その意味で窮めて人間中心的な問題設定で在らざるを得ない問題性である、という話をしているわけですね。

ですから、「誰も困らない」という表現は、エントリ全体のコンテキストに沿ってご理解戴けると幸いです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年9月 3日 (水曜日) 午後 11時44分

ようするに黒猫亭さんは絶滅に対して良い悪いあるいは困った困らないの価値判断ができるのは人間のみであり、だから他の生物が絶滅に対して困った困らないの判断はできない。で、上記の文ではそういう意味で書いていたということですね。
すみません。どうやら誤読をしていたようです。
ただ、しつこいんですけど>つまり、環境問題と謂い、生物種の絶滅と謂っても、それは本来絶滅する生物種の当事者的な問題にすぎないという認識は必要だろうと思う。
についてですが現在の絶滅の多くは人間が滅ぼす側の当事者としてかかわるケースが多いので絶滅する種のみに着眼しすぎるというのも誤解を招きそうです(もちろん黒猫亭さんは認識しておられるのでしょうが)。

投稿: | 2008年9月 5日 (金曜日) 午後 09時48分

>梨さん

>>ようするに黒猫亭さんは絶滅に対して良い悪いあるいは困った困らないの価値判断ができるのは人間のみであり、だから他の生物が絶滅に対して困った困らないの判断はできない。で、上記の文ではそういう意味で書いていたということですね。

その通りです。そして、「他の生き物が困るだろう」「地球環境が困るだろう」というのは、人間が他の生物種や「環境」という曖昧な観念に対して自己を投影して対象を解釈するやり方であり、そういう意味でも、環境問題というのは徹頭徹尾人間的な問題性であって、人間の中にしかない問題性であるということなんですね。

その一方で、それが人間の中にしかない問題だからと謂ってどうでもいいとか間違っているというわけではなくて、我々が逃れ難く人間でしかない以上は、窮めて重大な問題であり、そこで過ちを犯すなら不利益を蒙るのは第一に人間であり、人間によって対処することが求められているということなんですよ。

環境問題の歴史においては、近代に至るまでに従来の意味における「人間中心主義=エゴイズム」が剰りに暴走した為に、「人間以外の視点を措定する」という相対化の手順が有効だった時制というのがあったと思うんですね。それは、まだ拡大・拡張型の世界戦略が有効だった時代性においての話で、今は拡張すべき外部など存在せず、その観点からの手詰まり感が問題の核心にあるのですから、再び認識を本質論に揺り戻す必要があるのではないかと考えるのです。

>>についてですが現在の絶滅の多くは人間が滅ぼす側の当事者としてかかわるケースが多いので絶滅する種のみに着眼しすぎるというのも誤解を招きそうです(もちろん黒猫亭さんは認識しておられるのでしょうが)。

生物種の絶滅に対する人間の加害者性というのは、人間中心的な視点においても大きな意味を持っています。生命倫理や環境倫理の観点における道義的責任ということもありますし、実利的な観点における一方的な環境資源の蕩尽という意味からも厳しく反省される必要があります。これは窮めて人間中心的な概念ですね。

近代までの生物種の絶滅の主原因は、人間の進出による生活圏の圧迫なんかではなくズバリ乱獲ですね。そのパターンは現在においても、いや、或る程度絶滅危惧種の保護が社会通念化した現在においては益々純粋に(他の要因を抑制する社会圧が以前より強いので)、人間による乱獲が希少種を絶滅に追いやっているわけですね。

特定の生物種は一旦絶滅してしまえば決して再び再生しませんから、乱獲による絶滅というのは、倫理的な観点においては、人間による種レベルにおける生命の抹殺という罪深さを内包しているわけですし、実利的な観点においては、生物資源(それを直接利用出来るかどうかは捨象するとして)の再生不能な形による一方的な蕩尽という不当性があるわけです。生物多様性の問題と一口に謂っても、さまざまなアスペクトでこれを視ることが出来るのですね。

いずれの観点においても、人間の手によって生物種を絶滅に追いやることは許されないという結論が採択されているわけで、嘗ての乱獲によって絶滅した生物種に対する人間の加害性というのは、如何なる観点においても反省されねばなりません。

ただ、その場合、倫理と謂い実利と謂っても、それは絶滅した生物種視点のものではありません。この事実を認識すべきだという話なんですね、そうでなければ、人間視点対他の生物視点という虚構的な対立の構図の中で、採択可能性が出てきます。人間の利害と他の動物の利害が対立しているのだから、両者を鳥瞰的に視て公平に調停すべきだ、という構図の設定は虚構的なものに過ぎないし、実は重大な欠陥が存在するとオレは考えています。

つまり、人間の利害と他の生物種の利害を公平に調停すべきだという概念では、動物の利害を相対化して否定することが出来るからです。そのような構図を想定する人間という集合概念は、その構図の中で一方の利害当事者として登場するわけですから、利害当事者として自身の利害を優先することが可能である、少なくとも、鳥瞰的な公平性に即して振る舞うことを拒絶する権利があることになってしまうのですね。

民事裁判の構造なんかを想定して戴くとわかりやすいでしょうが、この種の闘争構造を成立させてしまえば、人間が絶滅危惧種と同格で自身の利害を最優先に考えて少しでも自身に有利な主張を展開する正当性が成立してしまうわけです。

そういう意味で、オレは西表リゾート開発訴訟など、動物を原告とする動物訴訟というのは剰り筋の良い手法だとは考えていません。動物を人間と同格の利害当事者と規定してしまえば、逆に非常にベタな意味での人間中心主義を採択することが原理的に可能になってしまうわけで、法的な同格者同士の間で利害を巡って法廷闘争を争う以上、一方の当事者である人間は、法的な同格者である動物に対して最大限に自身の利害を主張する権利があるということになってしまうわけです。

そういう対立構造が法的に認められてしまうことによって、人間の側の利害に立つという姿勢が法的に認められてしまうという弊害があるわけで、まあ西表の例のように門前払いの結果に終わったのは却って幸いだったという話でしょう。

リゾート開発による人間側の経済的利害と、動物自身の生存権というのは、本来なら同じ天秤の上に乗せて量るべき事柄ではありません。人間以外の視点を措定するという虚構的手法というのは、割合そう謂った逸脱的な危うさを内包していると考えています。人間と絶滅危惧種の関係は実は公平なものではなく、人間が一方的な加害性を持っているわけで、本来利害調停の問題ではないはずなんですね。その人間の加害が妥当かどうかを人間の規範が裁くというのが問題性の核心なのであり、人間対動物の話ではないはずなのです。

この問題は、本来は人間対人間の間において、「希少動物を絶滅に追い込む行為は不当である」という、人間全体の行動を規定する上位のレイヤーの規範を巡って争われるべき理念的な問題なのであって、原告に当事者である動物を据えて公平に争うような利害調停の問題ではないはずなんですね。

また、これはくりずさんに申し上げたことの繰り返しになるかもしれませんが、人間以外の有形無形のものを擬人化し、自己を投影するという視点の措定、そしてそこから導き出される「他の生物種の為」という利他的な倫理の側面を強調することで、それが一種の思いやりや共感感情に基づく問題だと解釈されるおそれがあります。

そうなると、たとえば捕鯨問題なんかを語るのがえらくややこしくなってくるわけでして、鯨を殺してはいけないということと、鯨を絶滅させてはいけないということは区別して考えなければならないことなんですが、鯨視点を措定する利他の倫理で語られている限りはその両者を区別することが難しくなります。何故なら、利他の倫理では個体を殺害することと種を絶滅させることに大きな違いがないからです。

一方、捕鯨に反対している人々の大多数は牛や豚は殺して食べていますし、完全ベジタリアンの捕鯨反対者というのは全体の中では少数派と謂えるでしょう。この事実から考えると、牛や豚は殺してもいいけれど鯨を殺してはいけないという理由が必要になってきますよね。

そうなると、鯨は高等な知能を持った生き物だから、というような理由附けを行うことになりますが、では、高等な知能を持った生き物は殺してはいけなくて、牛や豚レベルの知能の生き物は殺してもいいのか、それは何処で線を引くのかという毎度お馴染みの水掛け論になってしまうわけです。また、他に幾らでも食肉用の家畜が存在するのに、わざわざ高等な知能を持つ鯨を捕獲して食べることはない、それは野蛮な行為である、という理由附けは、鯨を食べる食文化の全否定であって、これも不寛容な文化エゴでしかありません。

牛や豚を喰う文化は、たとえばヒンドゥーやイスラムから視れば野蛮な文化ということになりますから、鯨を食う文化だけが野蛮扱いされるのはただの文化エゴですね。そうなると、虚構的に措定された視点を排して捕鯨問題を考えるなら、捕鯨における合理的な問題性というのは、乱獲の問題であり特定の鯨種の絶滅可能性の問題だということになります。牛や豚のような家畜と同様に持続的に活用出来るなら、鯨を生物資源として採取することを禁ずる合理的な理由はない、ただ、特定の生物種の絶滅に寄与するのはよろしくない、そういうふうに言えるでしょう。

一旦動物側の視点という虚構を採用してしまうと、では、牛や豚は殺してよくて鯨を殺してはいけないのは何故だ、殺される側の苦痛は家畜と鯨で変わらないだろう、という話になってしまうはずですね。鯨を喰う必要はないというなら、牛を喰わない文化も豚を喰わない文化もあるのですから、牛や豚を喰う必要もないはずなのです。そして、牛も豚も実は相対的に謂って鯨ほどではないというだけで、かなり高等な生物のはずなのです。一時期ミニブタがペットとして流行していましたけれど、豚などは犬程度には知能があるらしいですね。

牛や豚は食肉をコンスタントに供給する為に人類がコントロールしている生物種で、それを家畜と呼ぶわけですから、家畜に関しては「絶滅」という概念を論じることがかなり難しい、というか、実質的にはナンセンスなわけですね。宗教的な理由でもない限りは、今の成熟した大人で牛や豚を殺して喰うことを過剰に倫理的な問題として捉えている人はごく少数派だと思いますが、それはつまり、人間が他の生物種を生物資源として持続的に活用することは、人間の社会的営みにおいて仕方のない常態であるということなのですね。

だとすれば、捕鯨問題も実は乱獲と持続的活用のフィールドの問題として把握すべきなのであって、それを倫理的に言い換えれば「敬意と節度の問題」である、ということになります。たとえば成熟していない魚や貝を無闇に獲ってはいけないとか、一年の漁獲高を計画的に割り当てるとか、そういう種類の問題だということでしょう。

鯨が高等な生物であり、その苦痛を考慮すべきだというのであれば、需要もないのに過剰供給となるような捕獲を控えるべきであり、節度ある捕鯨で可能な需給バランスにおいて、妥当な価格調整を行う(つまり捕鯨を織り込んだ食文化の享受に消費者がコストを払う)べきだということになります。要するに、他の生物種を資源として活用する以上、敬意と節度を持って行うべきだというのが倫理的な結論ということになります。

捕鯨問題と謂うのは、広い意味での環境問題全体の中でもかなりイビツな問題性だとオレは考えているので例に挙げましたが、オレが語りたいのは、人間中心的な問題性であることの指摘によって、人間の加害性や環境破壊を正当化することではありませんし、倫理的な側面を完全否定するわけでもありません。

利他の問題であるという視点は、或る特定の局面において意味を持つだけの方法論的な虚構であり、その本質は飽くまで人間を中心に据えた問題性なのだということを正しく認識すべきだろうということなんですね。

生物種を絶滅に追いやることや環境を破壊することが何故いけないのかといえば、それは滅ぼされる生物種が可哀相だからでもないし、破壊される美しい環境が無惨だからでもないのであって、倫理的な観点で謂うなら、それが人間の行いとして間違っているからだし、実利的な観点で謂うなら、それが環境資源の一方的蕩尽であり最終的には自分の首を絞めるからだ、ということになります。

ちなみに、人類と家畜動物の関係については、過去にこのような記事を書いていますので、かなり長いですがよろしかったらご一読ください。

http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2006/08/post_f818.html

投稿: 黒猫亭 | 2008年9月 7日 (日曜日) 午前 02時20分

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