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2008年8月20日 (水曜日)

くりずさんへのお返事

このところ仕事が立て込んでおり、且つは連日猛暑続きで体調も思わしくないということで、エントリーの更新も滞り、コメントへのお返事も伸び伸びになっているが、今夏はまあそんな調子で続けていくしかないので、ご了承戴きたい。

さて、先月末に上げた地球環境問題に関するエントリーのコメント欄で、くりずさんと仰る方から本文の不正確な記述についてご指摘を戴き、さらに遣り取りを続けさせて戴いているのだが、二度目のコメントにお返事を差し上げるとコメント欄に書き込むには長すぎるテキストになるのではないかと思ったので、新たにエントリーを起こしてお返事させて戴くことにした。

まあ、議論が続けば続いたでまたテキストが長くなるのだから(笑)、あまり意味はないだろうとは思うのだが、この問題に関しては、単にくりずさん個人と対話するのが目的ではなく、なるべく多くの方に読んで戴きたいと考えているので、試みにこういう形をとってみた次第である。


※以下くりずさんへのレスである。

そういう次第で、かなり長くなりますが、宜しかったらお附き合いください。地球環境問題に剰り詳しくない方に対する説明も兼ねていますので、くりずさんにはくだくだしく感じられるかもしれませんが、ご容赦戴ければ幸いです。

そういう次第で、まず不特定多数の読者と前提を共有する為に、ウィキの環境問題の項目へのリンクを掲げておきます。

ただ、「地球環境問題」と倫理の問題については、ちょっと異論があるのですよ。そもそも切り離して考えるというのがあり得ないか、と。

この点については、少しくりずさんとオレの間に対話の齟齬があるのではないかと考えています。そこを順序立てて説明させて戴きますので、ちょっと長い話になりますがご容赦ください。

オレはそれが「地球環境問題」である以上は、本質的に倫理に起因する問題ではないだろうと考えていて、前回のエントリーではそのような考えについて語らせて戴いています。勿論、「環境問題」全体の中では倫理の絡んでくる問題というものも存在するわけで、たとえば自然環境保護や生物多様性の保存というのは割合倫理的な問題であり、価値観の関係してくる問題性でもあろうかと思います。

無限定で「自然環境保護」という場合、それは別段人類の存続や利害と直截の関係を持つとは限らないわけですね。一般的な自然環境保護活動と謂えば、生物多様性の保存とセットで、人類の社会活動や開発によって生態系が破壊され希少種が絶滅に追いやられることを抑止する活動というふうに見做すことが出来ると思います。

これは、巨視的に視れば持続可能性の問題と何処かでリンクしてくる問題ではありますが(というか、地球環境問題において相互にまったく無関係な問題性というのは殆ど存在しないでしょう)、問題性の次元で切り取るなら、人類の傲慢なエゴによって他の生物種が危害を被り絶滅することや、豊かな自然環境が欲得絡みで破壊されることを忌避する倫理感情が根本にあるでしょう。

非常に古典的な意味でのエコロジーというのは、このような自然環境保護活動や絶滅危惧種の保護という性格のものでしょう。この種の自然環境保護活動の反対側に想定されているのは、乱開発や乱獲の問題ですね。社会活動や経済活動の発展に伴ってどんどん未開地が開発されていくわけで、野生生物の生存環境が脅かされていく。国土全体の近代化に伴って、在来的な自然環境が破壊され、人間の勝手なニーズによって種が絶滅するまで乱獲が横行している。「はたしてそれでいいのか」という問題意識は、たしかに倫理や価値観の問題ではあるでしょう。

何故未開地が開発されるのか、何故に野生生物が乱獲されるのかと謂えば、人間の生活を豊かにする為です。しかし、その豊かさは、自然環境を破壊して多くの生物種を滅ぼしてまで満喫することが許されるものなのか、また、破壊された大自然の豊かさと、その破壊によって得られた物質的な豊かさは、はたして引き替えにして好いものなのか、本当の意味で引き合うものと謂えるのか、という問い掛けは、まさしく倫理や価値観から導き出される観念と謂えるのではないかと思います。

人類の存続という観点で視れば、別段ベンガル虎が絶滅しても構わないわけですし、この世の何処かで細々と生息している繁殖力の弱い希少種をわざわざ保護する必要もないわけで、人類にとって有用性の認められる生物種が存続すればそれで好いわけです。ただし、そうは謂っても、人間の限りある知恵で、複雑な地球規模の生態系のメガシステムが十分に解析出来て自在に操作出来るものではないですから、何処までの範囲が「人類にとって有用性の認められる生物種」と見做すことが出来るのか、というのも難しい問題ではあります。

しかし、そもそも自然環境保護活動というのは人類の存続が動機ではありません、というか、むしろそれとは逆のベクトルの動機に基づくものでしょう。オレが指摘する地球環境問題の人間中心的な性格とは逆に、人間中心的な考え方に不可避的に伴う不倫なエゴイズムに対するアンチテーゼとして、措定的に人間以外の存在の視点を設ける考え方に立脚していると思います。

そして、人間が人間という特定の生物種でしかない以上、種や文明の存続を人間中心的な視点で考えることは、非常に現実的な利害の問題ということになりますが、それに対するカウンターとして人間以外の視点を設けて行動する以上、現実的な利害の要請ではなく、世界がどのようにあるべきかと意志する倫理や価値観という「観念」が動機だと謂えるでしょう。

そこから、たとえばシンガーのアニマル・ライツのような考えも出てきますし、環境テロリズムのような考え方も出て来るわけで、それが極端化すると「人類が滅びても地球環境が守られればそれでいい」的な極論も出て来るわけです。普通に現実的に考えるのであれば、地球環境が守られても人類が滅びてしまったのでは、それを守るべきだと意志する主体自体が消滅してしまうので無意味なわけですが、これが成立するのはまさしく倫理や価値観という観念に起因する考え方だからでしょう。

たとえばこれを個人の次元にスケールダウンして考えれば、自分が死んだ後のことを考えて行動しても、そのときには自分は死んでいるわけだからメリットともリスクとも無縁となって、現実的な利害の観点では意味はないという言い方が出来ますが、自身の死後の現実がどのようにあるべきであるかを想定し、かくあるべく意志する価値観という観念があるから、自身の死後を想定して行動することにも意味が出て来るわけですね。そこから自己の生存を超越した自己犠牲のような行動も導き出されるわけで、これは窮めて人間的な行動様式であると謂えるでしょう。

おそらく多くの自然環境保護活動は、専ら個人の価値観や倫理的な動機によって実行されているのだと視て好いと思いますが、だからこそ、至極穏当で妥当な活動もあれば、先般のグリーン・ピースの窃盗事件のようなものまでの大きな振れ幅があるわけです。

人間中心的な視点を離れて、倫理や価値観によって行動する場合、何をどの程度重要視するかというのは個人の判断に投げ返されるわけで、目的の為には手段を選ばないということも、それが個人の倫理や価値観の問題である以上は、原理的に謂って相対的な問題であるということになってしまうわけです。

つまり、窃盗よりも捕鯨のほうが普遍的な尺度で重大な悪であると考える人は必ず存在するわけで、そういう人が、如何なる思想信条も法規範や社会の倫理感情を尊重する限りにおいて許されるものでしかない、という穏健な弁えや、巨悪を懲らす為なら小悪を行っても好いというわけではない、という健全な秩序意識を持っているとは限らないわけですね。さらに謂えば、人間中心的な考え方を忌避して人間以外の視点を措定する場合には、法秩序や社会倫理のような「人間中心的な規範」よりも自身が意志する観念のほうを重視するという陥穽に陥りやすいという傾向もあるでしょう。

ただ、そのような極端な行動はやはり広汎な支持は得られないわけで、誰にでも程度の差こそあれ規範意識というものがあり、それとバランスしながらかくあるべき世界の実現を目指すというやり方が一般的であるが故に、現実の自然環境保護活動の大半は穏健なものであると謂えるでしょう。

それはそれで、一つの倫理や価値観としては在り得るだろうと思いますし、これ自体には原則的には何ら異議はありません。このような倫理感情や価値観の持ち主が、ボトムアップの形でこんにちの環境保護活動をリードしてきたのであるということは論を俟ちません。そのような方々の努力があったからこそ、イケイケどんどんの勢いで乱開発が進んだ昭和三十〜四十年代の間に荒廃した国土が、現在のレベルにまで回復したのだと謂えるでしょう。

ただ、地球環境問題というのは、そういう性格の問題ではないのだと思います。そして先進国の間で環境破壊が最も進行した最悪の時代よりも、一応それなりに環境保護の為の法規制が整備され、市民の意識も向上している現在のほうが、より地球環境問題が重要視されるようになったのは、問題の位相が変わったからではないかと考えています。

かつてはオレも、社会の発展に伴って、かつては顧みる余裕のなかった環境倫理のようなものに真正面から取り組むだけの体制が整ったからではないかと考えていましたが、いろいろ勉強していくと、どうもそうではないと思うようになりました。

地球環境問題というのは、社会をより倫理的に素晴らしいものにしていく為に設定された問題意識ではないと考えるようになったわけです。そういう意味では、古典的な環境保護活動をリードした価値観が主要な位置を占める問題でもなくなっているというか、価値観の問題でも倫理の問題でもなくなっているのだと考えています。

たとえば、物質的な豊かさよりも生物多様性の確保された自然環境の中で暮らすことこそが真の豊かさだという価値観、これは特定の価値観である以上は、特定の人々の間でしか有効ではないごく限定的な理念体系と謂えるでしょう。少なくとも現代社会においては、如何なる価値観も自由意志によって採択したり拒絶したりすることが出来ます。

これは倫理においても同様で、この現代における倫理というのは自由意志によって採択したり拒絶したりすることが可能なものでなくてはなりません。倫理というのは徹底的に文化に依存するコードであり、この現代においては自身の帰属する文化や規範は自由意志によって選び取ることが出来るという建前があるからです。

近代以前には、基本的にそのような自由はありませんでした。おおむねどのような文明圏、文化圏においても、個人は自身の属する社会集団の倫理規範に一義的に従属を強いられていたわけで、個人が自身を律する規範を意志的に選択するということ自体おおむね許されていなかったわけです。

現在は、一応原則的に個人は自身の帰属する規範を自由意志において選択する自由があることになっています。倫理規範というのはおおむね宗教に根拠を持っているものが多いと思いますが、現代においては神道を信奉しようがキリスト教を信奉しようがまったく自由ですし、どのような政治思想を抱いてもそれだけで咎め立てを受けることはありません。従わねばならないのは国家の定める法規範のみであり、それとても納得出来なければ異議を申し立てたり国籍を取り替える自由が許されています。

それ故に、価値観や倫理規範というのは、原則的に謂って、採択することも拒絶することも可能でなければなりません。逆に謂えば、現代において採択・拒絶の自由のないものは価値観や倫理規範ではない何ものかであるということになります。

たとえば、人を殺してはいけないという決め事はあらゆる倫理規範の大本になっていますし、如何なる規範においても拒絶することが許されていませんが、これ自体は倫理によって規定されている観念ではないでしょう。原則的に同種族を殺してはいけないということは、倫理以前にすでに決定されている事柄です。

個々の倫理規範はその具体的な適用を規定しているだけで(それは逆に謂えば「人を殺しても好い場合」を規定していると謂う意味でもあります)、人を殺してはいけないという観念自体を規定しているわけではありません。もしも人を殺し放題で何の規律も抑止力も存在しないのであれば、そもそも共同体や社会というものの安定秩序が成立しないから、倫理以前にそれは決定されている事柄だと謂えるでしょう。

同様に、盗むな、嘘を吐くな、他者の権利を侵害するな、そういう決め事もまた個別の倫理が規定したものではなく、倫理規範に先駆けて共同体内に存在する決め事だと謂えるもので、むしろ法の発生に関係する事柄だと謂えるでしょう。

元の話題に戻りますと、古典的な自然環境保護活動というのは、環境倫理と謂うような倫理規範や個人の価値観に根を持つ活動であったことはたしかですから、それを逆に謂えば、物質的な豊かさよりも自然環境の豊かさが尊重されるべきだ、という価値観は採択することが出来ると同時に拒絶することも出来るわけです。そして、エコロジカルな価値観を拒絶して物質的な豊かさを選んだからと謂って、鳥瞰的にはそれを誰が否定することも出来ない筋合いのものであると謂うことになるでしょう。

同様に、その豊かさを実現する為に他の生物種や自然環境を犠牲にして好いのかという倫理に基づく問い掛けには、「して好い」と応えることも可能なわけです。勿論、それを「してはいけない」と考える価値観も同様に許されているわけですから、この二つの価値観の間には利害の対立があるわけですし、両者間に不寛容な闘争があるわけです。

もしも自然環境の豊かさよりも物質的な豊かさを是とする価値観を批判し得るとするなら、それを批判する人間はそのような物質的な価値観と対立する価値観を採択するという手順が必要になります。だからこそ価値観の問題は相対的な問題にならざるを得ないわけで、それを価値判断する人間の価値観によって結論が異なるわけです。

古典的な環境保護活動というのは、イデアルに図式化するとこのような形のものだと謂えるでしょう。開発を是とする価値観と非とする価値観の間の、互いに相容れない利害に基づく不寛容な闘争である、そういうふうに謂えるわけです。この問題性の位相が変化しない限り、どちらを採択する人間が多いのか、はたまた社会的な影響力が大きいのかの問題に留まるわけです。

そして、それを窮めて現実的に考えるなら、自身の生活の利便を犠牲にしても他の生物種や自然環境が尊重されるべきだと考える、少なくともそのような価値観を採択して積極的に活動する人間が窮めて少数派に留まるのは目に見えています。これに関しては、なまなかな幻想を抱いても仕方がないわけだし、それもまた個人が採択し得る価値観であると謂えます。たとえば、大規模な開発を伴う施設誘致に際して、環境倫理を動機として動いているのは外部から介入してきた活動家だけで、現地の住民は現実的な利害を動機として是非両派に別れるのが普通なわけです。

開発対自然保護という図式が古典的な環境保護活動のパターンだとすると、では、公害問題というのはどういうものなのかを考えてみましょう。公害問題においては、基本的に企業の違法行為やエゴイズムが直接的な加害性を持つが故に、企業倫理や社会正義の問題と関係してきますから、公害問題への取り組みというのは糾弾型の闘争形態になります。

そして、問題性の核心においては、公害による健康被害が抑止されることが最終目的となりますから、公害を垂れ流していた悪徳企業が左前になろうが潰れようが構わないという意味で地球環境問題よりも問題性の構造は単純なものです。自然保護活動と公害問題は、似ているようでまったく性質の違うもので、後者の場合、人間の社会活動や企業活動によって煤塵やスモッグ、汚染物質が環境中に放出されて、周辺住民に健康被害が及ぶという加害性が問題の核心になります。

つまり、特定の場所に工業施設や幹線道路が存在することで、不特定多数に対する健康被害という形の重大な権利侵害が起こるわけで、その権利侵害が抑止されすでに行われた被害が正しく回復されねばならない、というのが公害問題の本質です。それ故に、公害問題の本質とは、最終的には人間の組織的活動に伴う人権の公正な調停ということになるわけです。

勿論、企業や行政の法規制を無視した汚染物質の放出やもろもろの不倫が原因であることはたしかであり、それは正しく罰されるべき社会悪ですから、だからこそ糾弾型の活動形式になるわけですが、本質的には健康や生存の維持という基本的な人権が理不尽に侵害されることが問題なわけで、周辺住民の真っ当な経済活動に影響しなければ、水質や土壌が汚染されたことや他の生物種に被害が及ぶことそのものが問題ではないわけです。そういう意味では、公害問題というのは社会正義の問題であると共に人間の社会活動に伴う権利調停の問題でもあったわけです。

公害問題と地球環境問題の相違点というのは、極単純化して謂えば悪者が存在するか否かだということだと謂えるでしょう。公害問題には必ず悪者が存在するし、その悪者を正義に則って滅ぼすという目的も視野に入っています。多くの場合、排出規制という法秩序を無視していたり、規制そのものが生臭い事情で骨抜きにされていて実効を伴わないものであったり、要するに企業の利潤追求活動が優先されて不特定多数の周辺住民の人権が蹂躙されている問題ですから、その原因を作った「悪者」が存在するわけです。

明確な悪者が存在する以上は、利潤追求の為に公害を垂れ流して周辺住民の生存権や基本的人権を脅かすような悪者は正しく制裁を受けて滅びるべきである、このような倫理感情が問題性の根底にあるでしょう。

では地球環境問題はどうかと謂えば、公害問題のような意味での単純な悪者は存在しないわけです。同じロジックで悪者を探すなら、それは人類の社会活動そのものだということになってしまうわけで、特定企業でも特定国家でもないし、何処かの国のアタマのおかしい独裁者が地球を危機に晒すような悪行を行っているわけでもない。その主体は我々一人ひとりであるということになってしまうのですね。

公害問題の場合には、「悪者」なのだから厳正に罰された上で滅びようが消滅しようが構わない、自業自得である、という糾弾型の問題性であったものが、地球環境問題の次元になると、「悪者」を追及するならそれは人類全体であるということになるのだし、特定の悪徳企業ではなく企業活動それ自体が不倫であり、もっと謂えば人類社会の存在自体が不倫である、より具体的に謂えば一人ひとりの人間はすべて自然環境を害する悪者であるという極端な結論になってしまう。

そこから、最初に言及した環境テロリズムの問題も出て来るわけですし、一人残らず人間が滅びてしまえば環境問題は解決する、という本末転倒のグロテスクな逆説も出てくるわけで、地球環境問題は勧善懲悪の糾弾型の問題ではないということなんですね。それはそもそも人間中心的な問題性なのであって、人類が滅びてしまえば解決するという極論は単なる卓袱台返しの間抜けな結論だ、という当たり前の前提を確認しなければならないような倒錯した必要も生じてくるわけです。

従来の常識で考えれば極普通の社会・経済活動が、近代に至って加速され飛躍的に規模が拡大し、最早エクスパンドのツケを吸収すべき「外部」が存在しなくなった、これが問題の核心にあるわけです。

勿論、くりずさんはご了承のことと思いますが、オレは地球環境問題を自然環境保護の立場ではなく、持続可能性の観点で捉えていますからそういう結論になるわけで、自然環境がどのようであるべきかという強固なイデアも持っていないし、その意味では中庸で特定の価値観の故に地球環境問題に関心を持っているわけでもありません。

ストックホルム宣言と同年に発表されたローマクラブの「成長の限界」では、地球という「環境資源」の有限性が更めて確認されたわけで、現在の地球環境問題の枠組みはこの両者の影響の下にあるわけですが、この部分に関してはくりずさんも、

環境問題の中心的な概念である「持続可能な開発」が「将来世代の二一ズを満たす能力を損なうことがないような形で、現在の世代の二一ズも満足させるような開発」という定義であるように、生存権の享受を現在および将来にわたっていかに保証するかが、環境問題のスタンダードです。黒猫亭さんの言うところの「人間中心主義的な問題性」かと思います。

と仰っていますから、見解の対立はないと思います。ただ、続く箇所で、

つまり、負荷に対する評価については自然科学としての厳密さが要求されますが、具体的な取り組みには対立するニーズの調整という側面が生じます。負荷削減の最大よりも(将来にわたる)人々の幸福の最大を模索することをベターとするわけです。何を持って最大幸福とみなすかは必ず異論が生じますが、どのような選択を取るにせよ倫理のない選択というのはあってはならないものなのです。

と仰っているのは、少しロジックがズレているのではないかと思います。元々の本文で陳べられているコンテキストにおいては、倫理と地球環境問題の関係性は、「地球環境問題への取り組みは倫理や価値観を動機や根拠とした問題ではない」ということであって、実践に際して倫理が求められるか否かという問題ではありません。

そこを問うのであれば、如何なる実践にもそれが人の行いである以上は一定のフェアネスという形で大まかな意味での倫理が求められるのは当然の話ですから、文脈が変わってくるでしょう。オレがここで問題視しているのは、地球環境問題というのは利他の動機の問題性ではなく、人類という集合名詞を想定した場合、その生き残りという身も蓋もない利己の動機に基づく問題性である、そこをまず認識するべきではないのか、ということです。

その意味で、地球環境問題や持続可能性というのは倫理の問題でも価値観の問題でもなく、現実的な喫緊の危機状況を如何に回避するかという性質の問題であり、そのような認識が周知されるべきである、少なくとも、如何に下々の草莽であろうが自らが行うべき事柄に関してはその条理を十分に理解した上で意志的に行うべきであり、他者に使嗾される形で動くべきではない、というのが単純化した趣旨です。

たとえば「環境の為」とか「地球に優しい」というフレーズに込められているのは、自然環境保護的な意味合いでの古典的なエコロジーのイメージですよね。そして、ロハス的な観念に込められているのは、コンクリートとアスファルトしかない殺風景な空間で人工的に作り出された食品や工業的に作り出されたモノに囲まれて暮らすよりも、豊かな大自然に囲まれて自然に産生された食品やモノを享受するほうが本当の意味で豊かな暮らしであるという「価値観」のイメージですよね。

それが価値観であるからこそ、「環境貴族」のような存在も出て来るわけで、たとえば大規模集約農業の産生物や近代的な大量生産や流通のシステムを否定して、高付加価値を目指して投入されたマンパワーが生み出す自然食品や有機栽培農法による「本物の食品」を享受しようとか、環境を破壊する「危険な」プロダクトを市場から一掃し日常生活の中でゼロリスクを要求するような行動様式に結び附くわけですね。

実は持続可能性の観点で謂えば、この種のライフスタイルは贅沢なものでしかないという言い方も出来るわけで、こういう言い方が誤解を招くことは承知していますが、敢えて謂うなら、近代のテクノロジーがなければこれだけ多くの人口を賄うだけの食糧生産は不可能なのだし、テクノロジーが低減した致死的なリスクに比較してテクノロジーがもたらしたリスクが高いとはとても謂えないわけです。

オレもここ暫くニセ科学批判者の論壇に接してきましたから「現代文明社会はテクノロジーの恩恵に多くを負っている」という指摘が、感情的な誤解や反撥をもたらして真意を見失わせるリスクがあるということは承知しておりますが、地球環境問題に関してはその事実を前提として出発するしかないのだと思います。

多くの場合、テクノロジーのもたらした繁栄を否定する立場の人々は、テクノロジーが人類の社会活動を飛躍的に発展させたからこそ現代的な諸問題が発生するのだと主張しますし、テクノロジーを肯定する論者がそれを指摘するのは、現代人が当然のように享受している豊かさを質にとった脅迫的言辞だととられることも多いですが、その現実を出発点にしない限り、非生産的な結論にしかなりません。

そういう意味では、環境貴族が主張しているようなロハス的なライフスタイルは一部の高所得者しか享受し得ない「贅沢」でしかないのだし、その中でもゼロリスクというのはほぼ人間の望み得る最高度の贅沢でしかありません。持続可能性の観点で謂うなら、おそらく人類が存続する為に真っ先に犠牲になるのはその種の豊かさや安全性だろうという予感がありますし、環境貴族的な価値観を突き詰めるなら、冒頭で掲げたウィキに挙げられている「自然回帰・文明否定」の方向に向かうしかないでしょうが、それは寧ろ生存・健康リスクを高め、生産性の低い世界人口の大半が間引きされなければならないでしょう。

自然に回帰するということは、身も蓋もない現実的利害や偶発的な危機要素がもっと直截の形で我々の上にのし掛かってくるという意味であって、「不便」どころか多くの人は生き延びることすら出来ない苛酷な状況を招来するということです。そんなことを唱えるのは、自分だけは生き延びて豊かな暮らしを享受出来ると考えられる想像力のないお気楽な方だけでしょう。

しかし、くりずさんが仰る「負荷削減の最大よりも(将来にわたる)人々の幸福の最大を模索することをベターとする」というのは、要するに環境負荷を最大限に低減することを絶対目的視すれば、人類社会は今よりもリスクが高まり貧しく不便で殺伐としたものにならざるを得ないのであるが、何の為に地球環境問題に取り組むのかと謂えば人間の生活における幸福や安全を可能な限り損ねない為である、という意味だと思います。

地球環境問題の解決には、突き詰めて考えれば非情で殺伐とした選択肢も在り得るのだし、持続可能型社会・循環型社会をモデリングした場合に最も現実的に在り得るのは、おそらく多くの人々が幸福とは感じない社会形態であろうかと思われます。

たとえば、一〇年くらい前なら「世界人口の間引き」などと物騒なことを言うと、核ミサイルでも飛ばしてアフリカの貧乏国を吹っ飛ばすような大袈裟なイメージがあったと思うのですが、この現在においては「救うべき人を救わなければ人口なんか簡単に減らすことが出来る」というのが非常にリアルに実感出来ます。つまり、福祉の貧弱な貧しい世界になれば、あっという間に人間は減っていくわけです。環境負荷の低減だけを純粋に目指すのであれば、一般庶民の致死リスクを高め生活を窮乏させる方向で幾らでも選択肢が考えられるわけです。

この辺の問題に関しては、以前言及したエントリーがありますのでご参照戴ければ幸いですが、地球環境問題を解決しさえすれば好いというのであれば、現状のような豊かさや安定を部分的にもしくは全面的に放棄する必要があるが、それでは何の為に地球環境問題の解決に取り組むのかが見失われてしまう、地球環境問題の取り組みは人類全体の将来的な存続と福祉を目的としたものなのだから、ラディカルな急進策ではなく可能な限り現状の福祉を損ねない形のソフトランディングが模索されねばならない、オレはそういう意味なのではないかと解釈しています。

つまり、これもまた地球環境問題が窮めて人間中心主義的な課題であり、理念や観念の問題ではなく現実的な問題性であることを示していると思います。

そして、くりずさんが仰っているのは、解決の方向性を考える際に「多くの人々が幸福であると考え得る形」を模索する必要がある以上、「幸福とは何か」という問題が不可避的に付随するのだし、そこに倫理や価値観が介在するのは当然だろうというご意見だと思いますが、オレも別段そこを否定しているわけではありません。

そうではなくて、何故そのようなことを考えねばならなくなったのかと謂えば、それは人類の存続を脅かす危機状況の回避という現実的な利害の要請があるからである、そういうことを主張しているわけです。つまり、現状よりも正しくて幸福なより良い世界の在り方を実現する為の動機で地球環境問題が考えられているわけではなく、従来的な世界像では危機状況を回避出来ないから、その現実から遡って世界の在り方や人々の考え方を変えていく必要がある、そういう問題性だという指摘です。

そこで原因と結果を取り違えると、要するに従来的な物質主義的な社会規範がすべて間違っていた、それ故に酬いとして危機状況が出来したという極端な「倫理的糾弾」か、環境貴族的な「自身にとって快い世界像」の実現を目指すべき「価値観の問題」であるというような、地球環境問題の本質から考えれば誤った認識にミスリードされるのではないかという危惧があります。

オレは前者のような人類史に連なる夥しい人々の尊い営為を結果論で遡って丸ごと断罪するような超越的な思想は陋劣で矛盾した愚論だと考えていますし、後者のような特定の価値観の実現が目的となる問題性であるという認識は単なるエゴイズムに基づく問題の矮小化だと考えています。

そして、オレとくりずさんの間で意見の違う部分があるとすれば、オレは地球環境問題をどのように捉えるかという場合、飽くまで危機回避を問題性の核心に据え、世界デザインにおける価値観や倫理の絡む次元の問題は、そこから派生する副次的な調整の問題として捉えるべきだろうと考えているということがあります。

仰る通り、持続可能な世界モデルを模索する場合、文明圏や文化圏、共同体や個人というさまざまなレベルにおいて存在する多様な価値観や倫理規範の対立を調停し、人類全体の最大幸福とは何かを探っていく必要があるわけですが、ではそのように考える場合の出発点や立脚点として、或る程度の普遍性や蓋然性を持って万人が共有可能な前提とは何かと謂えば、現実的な利害の問題であろうかと考えます。

つまり、この問題は飽くまで客観的に存在する危機状況を如何にして回避するのかという現実的な課題なのであり、その危機状況は誰か特定の悪者がもたらしたものでもないのだし、人類全体が間違っていたから劫罰として下し措かれたものでもない、単に従来型の社会活動が迎えた限界に過ぎないという認識ですね。

まず世界をどのようなものにするのか・したいのか、という理念が出発点に据えられると、それは譲歩不能な不寛容な理念対立の泥沼にはまりこんでしまう危険性があるわけで、そもそも人類の争い事一般がそのような理念を巡って争われているわけですから、グローバルな問題性においては、そこは出発点と成り得ないわけです。

ですから、まず危機状況を回避する為に現実的に何が必要なのか、そのような客観的なファクトの次元から出発して考えるのでなければ、理念を巡って血みどろの争いが繰り返された人類史の負の部分が濃縮して再現されるだけの話でしょう。

地球環境問題は倫理や価値観の問題ではない、自然科学的な問題性である、というのはそういう意味合いの言明で、自然科学の規範が万人にとって共有可能な客観的現実を或る程度の蓋然性を以て記述し得る共通言語と成り得るからこそ、客観的な現実とそれを記述し得る科学の問題として地球環境問題を捉えることが必要だと考えるわけですね。

別段オレは科学万能主義者ではありませんが、少なくとも、或る現実的な課題の解決を目指す場合、仏教徒とキリスト教徒とイスラム教徒が、或いは右翼思想家と左翼思想家が共通言語と為し得るツールは自然科学しかないわけですね。「自然科学」と限定することに語弊があるなら、「科学」と言い換えても構いません。要するに客観的な現実世界を蓋然的に記述し得る学問の体系であればそれで構わないわけです。

以上の考えを踏まえた上で、極単純化して謂えば、「地球環境問題とは窮めて現実的な課題の解決を目指す科学的な問題である」それがオレの結論であると謂えるでしょう。

それから、細かい各論になりますが、

「適切な重み付け」ですが、質の異なるそれぞれの要素に対してどのように優先順位を設定するかは、まさしく価値判断そのものです。
「すべてのアクションの及ぼす環境負荷を可能な限り統一的且つ並列的に比較可能な尺度で計算」とありますが共通の尺度の設定は難しいものがあります。環境経済評価がそれに近いかと思いますが、これは経済学である以上、価値判断を抜きにすることは出来ません。

オレが「適切な重み附け」と謂う表現で謂っているのは、価値判断に基づくものというよりは、現実的な実効性の問題です。また、環境経済学が経済学である以上限定的なものでしかなく、経済活動の範囲でしか有効ではないのは当然の話ではあります。

しかし、環境経済学にせよその手法としてのCVMにせよ、価値観に「基づいた」ものではなく、価値観という理念的なものを「どのようにして科学的に扱うか」という考え方に基づくツールであることは、混同されてはならないと思います。まあ、経済学であるというのが科学的合理と折り合いの悪い部分ではありますが(笑)、少なくともそのような合理を目指した学問であることは間違いありません。

つまり、或る事象を価値観に基づいて判断するのではなく、或る事象に関する価値観を可能な限り定量的に把握し、科学的に分析する手法だということで、ここを混同すると人文科学や社会科学全般が科学的ではないという話にもなってきますが、くりずさんのご意見は少しここの認識が混乱しているのではないかと思います。経済というのはモノの価値という理念に起因する要素を巡る社会活動ですから、客観的・科学的合理とは少し折り合いが悪い分野であるということは謂えますが、だから結局価値観の問題なんだというのは筋道が違うと思いますよ。

人間の社会活動のリソースというのはおおむね経済に依拠しているわけですから、地球環境問題に対するアクションの中に経済のシステムを科学的に織り込まねばリソースが破綻する、そういう必要からCVMのようなものがあるわけで、価値観やそれに基づく価値判断それ自体が求められているわけではないはずです。

たとえば、今現在のボトムアップ型の環境取り組みにおいては、人々の自発的労働が持ち出しのリソースとしてアテにされているわけで、わかりやすいのが自然環境保護や清掃活動等のボランティア活動ですが、実はゴミの分別廃棄に伴う手間やエアコンの温度設定に伴う不快や、その他諸々の「環境に優しい」行動に伴う労力は、本来コストとして計上すべきものです。それを細かく分散することで、一人ひとりが無償で負担しても構わないものになっているだけで、実際には労力を無償提供しているわけです。

これはつまり、元々環境問題への取り組みというのは経済活動に織り込むのが難しい一方的コスト負担となるからで、本来経済の観点では一つの価値単位と見做されるべき労働を細分化して無償で提供することで、一旦経済活動の範囲から環境への取り組みコストを控除して考えているわけですね。

しかし、地球環境問題への取り組みに際して大規模なコストが必要となってくれば、サビ残紛いの持ち出し労働だけでどうにかなる問題ではなくなるわけですから、経済活動の中に環境への取り組みを織り込んで収支を換算する必要が出てきます。たしかに経済活動においては曖昧な人間の観念や理念が大きな要素となりますが、地球環境問題への取り組みのように従来的な価値体系の中では見返り価値として換算不能なものも換算してバランスしなければリソースとしての経済が破綻するわけで、環境経済学はそのようなニーズの故に現れたものと謂えるでしょう。

つまり、目に見える形のリソースの投下によって、経済活動に織り込みにくい環境の改善という効果が得られるわけですが、それは経済の観点から視て引き合っていると謂えるのかどうか、また、引き合う形のリソース投下とはどのようなものなのか、それを客観的且つ定量的にデザインする為の学問と謂えるでしょう。

これは、特定の価値観に基づく価値判断ではなく、不確定な価値観をどのようにして科学的合理の下に扱って引き合うシステムを構築する、つまり持続可能型のシステムを構築するのか、という科学的な問題なのではないでしょうか。その学問の実効を信用するか否か、またどのように評価するのか批判するのか、それはまた別の話になりますが、その如何によってこの学問の科学性を疑うのは筋が違うのではないかと思います。

また、地球環境問題に関する優先順位や重み附けというのは、LCA的な観点における個別の環境負荷の重大性を相対的に勘案した基準で設定されているはずですが、現在はまた違うのでしょうか。

オレの識る限りでは、環境負荷というものは、まず定量的に把握されなければならないけれど、定量的な数値だけを視ても個別の問題領域における環境負荷の作用実態がわからないわけで、社会活動や企業活動のプロセスの総体を勘案した上で適切に重み附けを施す必要がある、そうでなければ総体的な環境負荷がむしろ増加するおそれがある。そういう意味で重み附けの係数が必要とされているはずで、それは価値観の問題ではなくリソース配分の問題であり、科学の問題であると思います。

たとえば個々の社会活動や企業活動において最も重大な環境負荷は何か、それを科学的な手法で分析・決定し、地球環境問題全体の中でより深刻さや緊急性・重大性の大きい問題領域に関してはそれを優先的に位置附け、個々の活動の及ぼす環境負荷とそれに対する取り組みに重み附けを施し、相対的な優先順位を決定する、それは価値観の問題ではなく、マネジメントの客観的な実効性に関する問題であるはずです。

そして、地球環境問題の各領域に対する優先順位というのは、何らかの価値基準に基づくものではなく、代替手段の有無やタイムテーブルの緊急性、影響の広汎さなどの窮めて現実的な諸条件を定量的に勘案したもののはずで、その意味では観念的な価値観ではなく科学的な事実認識に基づくマネジメントの要請に従っているはずです。

つまり、たとえば地球温暖化の問題のほうが生物多様性の問題よりも或る価値観に照らして重要だから優先するという話ではなく、人類の存続においてどちらがより深刻且つ重大な問題性であるかという客観評価によって優先順位が決定されているはずですよ。

個々の企業や組織体が採用している独自の環境係数のようなものというのは、ほぼすべてそのような科学的なプロセスで決定されているはずで、「我々はこのような理念に基づいてこれが優先的に解決されるべき問題であると考える」というような価値観や理念が打ち出された重み附けというのは聞いたことはありません。人間や社会が絡む問題にしても、社会科学や人文科学という科学的合理が基本となっているはずで、理念や価値観の問題ではないはずです。

企業や組織体の理念や価値観というのは、むしろ地球環境問題ではなく、CSR的な企業責任の文脈で提起されているはずで、それはサイトの存在する地域や国家に対する組織の貢献やウェルネスの文脈で強調されている問題であると思います。それは所謂「組織体のコーズ」というもので、企業という組織が何を目指すのか、何を自身の存在価値として主張するのか、これは人間や共同体が対象である以上、且つは組織体の存在価値に関する問題である以上は、当然特定の価値観や倫理に則ったものです。それと地球環境問題はまた別の問題であろうかと思います。

地球環境問題に対するアクションとして、たとえばペットフードの会社が、企業の性格から考えて生物多様性の問題に対して優先的に取り組むということはあるでしょうし、それはまさに価値観の問題ですが、それは環境負荷の問題とは無関係に、企業のコーズや存在価値の問題となってきて、地球環境問題や環境負荷の重み附けとは別立てで企業社会責任の範疇においてマニフェストされているはずですよ。

つまり、ペットフードの会社が生物多様性の問題に優先的に取り組むことに、環境負荷低減活動の観点における必然があるわけではなく、それは企業の振る舞いに社会的価値を持たせる為の社会行動の問題であって、生物多様性の問題はその問題において対象化され選択されたテーマであるという関係になり、生物多様性それ自体の問題性からその行動が導き出されたわけではないということになります。

ややこしい言い方になりますが、オレが「地球環境問題とは、○○○○○の問題ではない」と言う場合、そういう概念の相互関係を前提にして言っているわけです。

何より自然科学が出来ることは、観測にせよシミュレーション予測にせよ現時点における事実の提示であって行動規範を示すことではありません。
「文明の存続」といっても、どのような文明を思い描くのかは科学では決められないことです。それこそ、価値観の擦り合わせの中でしか得られないでしょう。
価値判断でしかないものを、客観的な(科学的な)事実と思い込むことほど、結果を誤らせるものはありません。優生学がいい例です。

おそらくここにくりずさん個人の主張があるのだと思いますが、一応ミスリードを防ぐ意味で、オレのエントリーの問題意識はそこにはないのだし、価値観の領域の事柄を科学の問題とすり替えているわけではない、ということを更めて指摘させて戴きますね。

「『文明の存続』といっても、どのような文明を思い描くのかは科学では決められないこと」という問題意識というのは、少なくともオレの文脈では地球環境問題固有の問題性ではありません。どのような文明を次代に継承するのか、どのようにして滅亡を回避し存続するのか、そういう問題は地球環境問題が発生する遙か以前から常に文明の前に横たわっている普遍的な問題性です。

オレが「地球環境問題は倫理の問題でも価値観の問題でもない」と謂う場合に想定しているのは、地球環境問題という個別の課題に固有の問題性です。それが文明の興亡に纏わる問題である以上、必ず普遍的な問題は関係してきますし、そこに倫理や価値観が介在する余地は十分にありますし、自然科学が人の歩むべき道を指し示すものではないのはオレも常々申し上げていることで当然の筋道です。

ですから、冒頭で引用したくりずさんのお言葉、

ただ、「地球環境問題」と倫理の問題については、ちょっと異論があるのですよ。そもそも切り離して考えるというのがあり得ないか、と。

というのは、要するに人の行いに纏わる普遍的な階層の問題性について、倫理や価値観を抜きにして語るということは在り得ないという話だと思うのですが、それはオレの言説が依拠するコンテキストではないということです。

そもそも「倫理や価値観の問題であるか否か」を論じている以上、前提として倫理や価値観の問題では在り得ないという結論が原理的に成立し得る階層において問題性を論じているのであって、その為の説明も尽くしているのですから、コンテキストを無視して人の行い一般という普遍の次元に論点を投げ返されても対話の位相が整合しないわけです。その次元においては倫理や価値観とは無縁な事柄というものがそもそも在り得ないわけですから、そういう次元を基準にして「在り得ない」と仰られても、まったく議論が噛み合わないわけです。

勿論、この問題を人の行い一般に纏わる普遍の次元に還元して語ることも可能ではありますが、そのようにしか語ることが出来ないとか語ってはいけないというわけではありませんし、そのコンテキストでは語り得ない問題性が具体の次元で出来するわけで、オレが語ったのはそのような次元の問題性です。

くりずさんが仰っているのは、地球環境問題の解決には倫理や価値観を以て当たらなければならないというお話ですし、オレが語っているのは地球環境問題というのは倫理や価値観を動機や根拠とする問題ではないという話です。その意味で、まったく無関係ではないけれど全然噛み合わない話をしていると謂う言い方が出来るでしょう。

オレの提起する問題性の文脈では地球環境問題と倫理や価値観は切り離して考えねばならないのだし、くりずさんの提起する文脈では切り離してはいけないという話で、そもそも語っている内容や階層性が全然違うのだから、異論があったり噛み合わないのは当然ではないかと思います。

そういう意味では、別段に見解の相違などはないのだし、対立点も存在しないわけですが、オレはオレの提起する問題性を語りたいのだし、それを指摘することがこの場合重要なのですから、第三者に対するミスリードを防ぐ為に反論するという形になるわけですね。要するに、この議論で語り合われているのは、大本の言説で提起された問題性そのものではなく、「議論の仕方」に起因して発生した問題であるということです。

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コメント

傍から見ると黒猫亭さんとくりずさんのあいだで基本的な認識の相違はほとんどないように見えるんですけど、どうでしょう?

どうもなんか倫理って云う、スケールの違いで極端に意味合いもスコープも変わってくる(私的なニュアンスも公的なニュアンスも持ちうる)鵺みたいな言葉をどう捉えるか、扱うか、と云うお話のような。

投稿: pooh | 2008年8月21日 (木曜日) 午後 11時18分

>poohさん

ああ、やっぱりpoohさんもそう思われましたか。実はオレも、対立点らしきものが何処にも見当たらないのに、何故それが「異論」として提示されたのかがよくわからないのでこういうことを書かせて戴いたわけです。

たとえば「あなたの意見には異論がある」という形で提示された意見は、要するにそれとは対立する意見に対する反論という意味になりますから、遡って言えば、元々の言説がその意見とは対立する内容を陳べているという印象を与えますよね。

そして、その意見が「○○○は○○○ではありません」「□□□は□□□ではありません」という否定形の繰り返しで語られると、恰もそこで否定された事柄をこちらが肯定しているような印象を第三者に与えるわけで、端的に謂ってミスリードを誘うわけですね。ですから、ちょっと強引に舵を切り返してみたということになります。

くりずさんのご意見を拝読する限り、別段オレの意見と対立するようなお話はされていないわけですし、くりずさんが否定されたようなことをオレが肯定しているわけでもないので、どうも対話が噛み合っていないような気がしたわけです。なので、おそらくこの議論の焦点というのは、地球環境問題それ自体ではなくて、それを語る言説のコンテキストの問題なのだろうと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年8月22日 (金曜日) 午前 12時08分

そういうことだとすれば、有意義な相違点ですね。

投稿: pooh | 2008年8月22日 (金曜日) 午前 08時07分

>poohさん

>>そういうことだとすれば、有意義な相違点ですね。

環境問題一般がかなりセンシティブなテーマだと思うんですが、廻り廻って何にでも必ず繋がっている辺りが論じにくい部分だと思います。今回の「倫理」や「価値観」なんかもそうですなんけど、くりずさんの語られているフェイズではたしかに重要な理念になってくる事柄ではあっても、「それとこれとは話が違う」というふうに考えていくべきフェイズも一方ではあるわけでして。

ただ、それらはやっぱり地球環境問題を論じていくと何処かで接点を持ってくる事柄でもありますから、同じことを話しているつもりでも全然違うことを話し合っているということが往々にしてあります。

それから、ニセ科学問題なんかもそうですが、環境問題にも夥しい数の紋切り型思考が存在するわけで、たとえば大本のオレの言説が紋切り型の環境問題不要論と誤解されたように、第三者が或る言説に接して「こいつは、要は何を言っているのか」と考える場合、既存の紋切り型に類別されがちだということもあるのかもしれません。

まあ、このほうは議論一般に附き纏う普遍的な問題かもしれませんね。つい最近も某所で議論をしていて、第三者から「肯定論者対否定論者」という紋切り型の鋳型で捉えた反論を戴いたことがありますし。

投稿: 黒猫亭 | 2008年8月23日 (土曜日) 午後 08時41分

あ~、いつも友人から、あんたの言い方はキツいって言われるんですよね。
すみません。書き方については不快感を与えないようなるべく気をつけます。

それにしても、「鵺」ですか~。
う~ん、「環境問題を道徳・倫理的な問題として捉えることはほんとうに恐ろしい側面を内包していて。」とおっしゃる方にそのような表現をされると、少し萎えますね~。
いや、中傷していると取らないでほしいのですが、コンテクストの問題なのだといわれればそのとおりなのでしょう。

しかし、黒猫亭さんのいう「人類の存続」という「人間中心主義的課題」という視点は、いわゆる「世代間倫理」とどう違うのですかね?
資源の有限性をめぐる「世代間倫理」が「持続可能性」の倫理的根拠になっていると思っていたのですが。
つうか、「持続可能な開発」は,「社会的持続可能性」「経済的持続可能性」「環境的持続可能性」(これに「文化的持続可能性」を含む場合もあるようですが)を含む包括的な概念であり、だからこそ、その後の国際社会が取り組むべき環境行動の基本理念になっているんじゃないですかね。

つまり、私が感じているのは、持続可能性というきわめて倫理的な価値観を含む概念について言及しながら「地球環境問題や持続可能性というのは倫理の問題でも価値観の問題でもなく」というロジックが語られることについての違和感です。
これが、環境問題において「中間項を飛躍する象徴行為と願望の原理」を排除すべきだ、ということであれば違和感は感じなかったと思うのですが。

>オレとくりずさんの間で意見の違う部分があるとすれば、オレは地球環境問題をどのように捉えるかという場合、飽くまで危機回避を問題性の核心に据え、世界デザインにおける価値観や倫理の絡む次元の問題は、そこから派生する副次的な調整の問題として捉えるべきだろうと考え

>地球環境問題の解決には、突き詰めて考えれば非情で殺伐とした選択肢も在り得るのだし、持続可能型社会・循環型社会をモデリングした場合に最も現実的に在り得るのは、おそらく多くの人々が幸福とは感じない社会形態

繰り返しますが、「持続可能性」は環境・経済・社会・文化を包括する総合的概念です。したがって、「持続可能型社会」から導かれるものが「非情で殺伐とした」「多くの人が幸福とは感じない社会形態」というのは「環境のために人類が滅んでも良い」と同じくらい論理矛盾があるんじゃないか、と。
ですから、私が言っているのは、人類一般の普遍的原理ではなく、まさしく「地球環境問題」という位相における話なんですが。

>現実的な喫緊の危機状況を如何に回避するかという性質の問題であり

>つまり、たとえば地球温暖化の問題のほうが生物多様性の問題よりも或る価値観に照らして重要だから優先するという話ではなく、人類の存続においてどちらがより深刻且つ重大な問題性であるかという客観評価によって優先順位が決定されているはずですよ。

う〜ん、だから、それが誰に取って重要なのかという問題点をはらんでいるんだっていっているんですがね。

リスクを引き受けるのは空間的座標で見れば途上国の貧困層であり、時間的座標で考えれば将来世代ですよ。
我々世代のリスクではないんですよね。我々は、他者のリスクを評価しているんです。
その上で「客観性」を「地球環境問題」という多元的な問題においてどこまで確保できるのかってことです。
例えば、温暖化の予測で確実性を得られるわけではないですよね。同様に失われた生物多様性の損失について我々は正当な評価を出し得ませんよね。
どちらも可能性でしかないのなら、我々に取っては地球温暖化よりも資源保存の観点から生物多様性の保全の方が重要だという選択肢だって客観評価といえなくもない(どちらも関連しあう問題ではあるんですが)。
まあ、それは無理があるとしても、温暖化問題にリソースを割くよりも途上国における貧困の解決が優先だという議論は、絶えず国際協力における対立点になっているんで(ストックホルム会議以降の「環境問題」の国際的な主要テーマの一つは「貧困」ですよ)。
それは、あくまでも将来予測が本質的に持つ不確実性からくるものであって、必ずしも科学的思考の欠如からくるものではないんですよ。

だから、温暖化対策の根拠は予防原則に基づくわけですが、それは「世代間倫理」、つまり将来世代の生存権に対する責任という「倫理的動機」から導かれているんじゃないんですかね。
もしかしたら、黒猫亭さんは、人間中心主義といいながら、自然対人間の問題としてしか環境問題を見ていないんじゃないかな?
人間中心主義というなら、世代間調停、世代内調停という問題設定は避けられないと思うんですけど。

ついでにいえば、予防原則による政策決定プロセスは定量的リスク評価法による政策決定プロセスの限界から生まれたもので、科学的評価では十分な科学的確実性をもってリスクを決定できないという場合においての公共の政策における倫理的指針でして。
定量的リスク評価法は、企業の製品開発や、それこそ割り箸の環境評価のように不確実性が比較的小さく、利害関係が限られている場合においては有効なんですけれど、地球環境問題のような、多元的で、かつ不確実性の大きな問題での政策決定プロセスとしては、科学的な確実性の欠如を理由に予防措置を遅らせる要因にもなってきたという指摘があるんですね。
もちろん、予防原則は科学の放棄を意味するものでもないし、特定のイデオロギーによって政策決定を行うべきだと主張するものでもありません。

と、まあ長々と書いてしまいましたが、これも、おそらく言説の階層の違いからくる齟齬なのでしょう。
この問題についてはこれでお終いにしておきます。
噛み合ない話におつきあいさせてしまって、本当に申し訳ないです。

投稿: くりず | 2008年8月24日 (日曜日) 午後 04時36分

>くりずさん

お返事ありがとうございます。

>>あ〜、いつも友人から、あんたの言い方はキツいって言われるんですよね。
>>すみません。書き方については不快感を与えないようなるべく気をつけます。

ああ、いやいや、別段書き方が不愉快だとかキツいと感じたわけではありません。単に前回戴いたコメントが第三者に与える印象について、ミスリードを危惧したということですのでお気になさらずに。今回のように詳細にご説明戴ければ、くりずさんのコメントが遡ってオレの言説の内容を誤読させるということはないでしょう。

ただ、そういうふうに仰ると、今度は相手の発言がくりずさんのご意見に対する感情的反撥を動機としたものであるという印象を与えますから、そういうふうには仰って戴きたくなかったですね。前回と似たような話ですが、一般論として、相手の発言を意味附けるような発言には慎重なご配慮を戴きたいと思います。

>>しかし、黒猫亭さんのいう「人類の存続」という「人間中心主義的課題」という視点は、いわゆる「世代間倫理」とどう違うのですかね?
>>資源の有限性をめぐる「世代間倫理」が「持続可能性」の倫理的根拠になっていると思っていたのですが。

おそらく、その辺りが論点になってくるだろうとは予想していましたが、この「世代間倫理」というのが最も鵺的な曲者でして。

二〇年くらい前の話ですが、その当時の友人が「こないだ電車の中で若い女が『あと何十年かしたら日本が高齢化社会になるんだってさ、イヤだねー、あたし年寄りって嫌いなのよー』とか言ってやがってな、『莫迦じゃねーか、その年寄りってのはおまえらのことだよ』とか思わず言いそうになったよ」と言ったことがありまして(笑)、まあ要するに想像力の問題ですわね。

高齢化問題といっても、自分が年寄りになるなんて想像することすら出来ない若い女性にしてみたら、数十年後の時制における年寄りというのは自分だという当たり前のことすら気附かないわけで、まあ莫迦は莫迦ですが、割とそんなモンですね。

で、世代間倫理というのは将来世代に対するフェアネスという意味で一見して他者に対する倫理のように見えますが、この「将来世代」というのは誰かと言うと、まるっきりの他人じゃないんですね。オレやあなたの子供や孫のことです。つまり、将来世代に対する責任とかフェアネスと謂う場合、他者に対する倫理という側面と、自分の家族や血脈に関する血族エゴという二つの側面があるわけです。

で、くりずさんが仰った「途上国の貧困層」というのは、これはもう誰憚ることなくまるっきりの他人ですね。現在世代も将来世代も、どちらも当事国民以外にとっては赤の他人です。それ故に、

>>リスクを引き受けるのは空間的座標で見れば途上国の貧困層であり、時間的座標で考えれば将来世代ですよ。
>>我々世代のリスクではないんですよね。我々は、他者のリスクを評価しているんです。

>>だから、温暖化対策の根拠は予防原則に基づくわけですが、それは「世代間倫理」、つまり将来世代の生存権に対する責任という「倫理的動機」から導かれているんじゃないんですかね。

この二者の対置は、空間的座標と時間的座標の違いだけではなく、まるっきりの他人の問題か、自分の血族の問題か、そういう違いがあるわけです。なので、「世代間倫理」という場合は非常に鵺的側面が拭い去れないわけで、「将来世代」という存在をどう捉えるかで意味が違ってくるわけです。

つまり、現在世代と将来世代を混同しているわけではなく、世代間倫理という概念自体に多分に鵺的な性格があるということなんですよ。「人類の存続」と謂った場合には、まず「困るのは我々自身ではなく、将来世代である」という形で一旦他者性に振れて利他的な性格を帯びるわけですが、「その将来世代というのは、我々の子や孫である」という関係性を介して、結局は現在世代の当事者的な利害に問題性が投げ返されて利己的な性格が再来するわけです。

共時的な意味での現在世代の興亡の問題からは一旦離れるわけですが、通時的な意味での個人の存続、つまり血脈の持続や肉親の情という意味での当事者的な問題が絡んできて、これは一筋縄ではいかないわけです。

>>まあ、それは無理があるとしても、温暖化問題にリソースを割くよりも途上国における貧困の解決が優先だという議論は、絶えず国際協力における対立点になっているんで(ストックホルム会議以降の「環境問題」の国際的な主要テーマの一つは「貧困」ですよ)。

何故対立するのかと謂えば、途上国の貧困問題というのは、当事国にしてみれば現在只今の直接的な存続の問題ですし、現在只今存続出来ないならば将来世代もへったくれもないわけですから、今すぐに何とかしなければならない。しかし、地球温暖化の問題というのは、それが実現すれば或る程度のスパンの後に全世界遍く影響を受けるわけで、途上国の貧困層の子孫も先進国の富裕層の子孫も直接存続の危機に晒されるわけです。

では、温暖化の問題を脇に退けて貧困問題の解決に注力するとすれば、来るべき将来の危機的状況に対してはどう対処すべきなのか。予想される温暖化のタイムリミットが限られている可能性があるとすれば、今すぐそちらにリソースを集中して注力しなければ元も子もないのではないか、その問題に対処出来なければ先進国も後進国もひとしなみに存続の危機に晒されるのではないか、そういう考えがあるわけですね。

それ故に、途上国問題対温暖化問題という枠組みを想定するとすれば、何れを優先すべきなのかという問題は、倫理の問題ではなく、予測される温暖化の危険性はどの程度現実的なものなのか、温暖化によって危機的状況が出来するまでどの程度の余裕があるのか、途上国問題に取り組んだ後に温暖化に取り組むことで間に合うのか、そういう実際的な観点が重視されるということになります。

これが倫理の問題であるなら、どちらに先に取り組んでも同じことであるという自由度があって、それを価値的に勘案して諸国間の利害を調停した上で決定すべき問題であるということになりますが、そうではないはずですよ。どちらに先に取り組むかという事実性の次元における自由度は本質的に存在しないのであって、それを正しく見極めなければならないということだと思いますし、そういう観点において意見が分かれているのだし、議論が為されているのだと思います。

誤解のないように言い添えておきますが、オレ個人としては、途上国の貧困問題なんか他人事だからどうでもいい、それよりも先進国の生き残りが血族の問題なんだからもっと重要だ、という話をしているわけではありません。また、地球環境問題がくりずさんの仰ったような多面的な性格を包括していることも承知しております。

オレが一貫して申し上げているのは、倫理の問題というのは、少なくとも現代においては他者に強要出来ないという原理的な性格を有しているということです。たとえばくりずさんが倫理的な観点から、かくあるべきだ、かくすべきである、そのように考えたとしても、それを他者に強要することは出来ません。他者に強要出来ないというのは倫理それ自体が自己を規定している命題で、他者に強要する倫理はすでに不倫ですね。倫理というのは、納得して受け容れる規範だから倫理たり得るわけです。

たとえば誰かから倫理的な命題に関して非難されたとしても、その倫理規範を共有していなければ痛くも痒くもないですし、その非難に遵う必要すらないわけです。たとえばオレとくりずさんの倫理や価値観が違うとすれば、オレがくりずさんに、

>>う〜ん、「環境問題を道徳・倫理的な問題として捉えることはほんとうに恐ろしい側面を内包していて。」とおっしゃる方にそのような表現をされると、少し萎えますね〜。

と言われても痛くも痒くもないわけですね。まあこれは、poohさんに仰ったことなのでしょうけれど、倫理観や価値観の異なる人からどのように言われても別段痛痒を感じないし、その意見に賛同すべきだという話にもならないわけで、価値観や倫理の問題というのは、原理的にそのような不寛容で相対的な性格を有しています。

それでも当然大まかに共有されている「人道的規範」というものがありますが、これは個々の倫理規範の最大公約数でしかないわけで、それはそのようなもので十分であり、それ以上踏み込んで一義的に決定するほうが間違っているとも謂えるわけです。

そのような最大公約数的な「人道的観点」から視れば、途上国が先進国の収奪を受け貧困に甘んじることはよろしくない、幸福な生活を享受していながら他者の貧困に起因するさまざまな悲惨な状況を黙過することは人倫に悖る姿勢である、これはまあ、世界的に多くの人々が共有可能な倫理感情ですね。ただし、そこから具体的なアジェンダのステージに具体化すると、それをどのように実践するのか、どのような達成度をゴールと見做すのかという部分で、さまざまな階層の倫理や価値観に基づいて無限の階調が出てくるわけですね。

貧困問題の解決には先進国のリソースが必須なわけですが、国家というものの性格を考えれば、まず先進国の国民が、その国民がアベレージだと考えるレベルの生活や福祉を確保しつつ、余剰のリソースを利他の観点において配分すべきだということになりますから、言い方は悪いですが、まず自国の安定を確保した余力を利他的な目的に配分するということになります。たとえば先進国の謳歌している繁栄が途上国の不当な犠牲の上に成り立ったものだとしても、国民生活を窮乏に晒しても途上国問題に取り組むべきだという話にはならないわけで、それは極論と見做されると思います。

しかし、世代間倫理に基づいて持続可能性を模索するということは、要するに他人事ではなくて自分の足許の問題であるわけです。前述の通り、途上国の貧困層は他人ですが将来世代というのは自分の子や孫ですから、自身の子や孫の安心立命を確保した上で他国の貧困問題に取り組むのが順番だという話になるのが自然でしょう。

一口に同じ「他者」と謂っても、実は将来世代は関係性の文脈で謂えば「他人」ではないのですから、貧困国への人道支援と将来世代への責任を並べれば、おそらく優先順位はすでに決まっているんですね。これは倫理や価値観の問題かと謂えば、そうではないと思います。

今回コメントを戴いて、オレとくりずさんの意見の何処が対立軸としてあるのかが見えた気がするんですが、くりずさんは地球環境問題とは世界が如何にあるべきかの問題だと捉えておられるようですが、オレは人類が現有するリソースを如何に持続的に確保するかの問題であり、最低限度万人が共有可能な出発点となる前提条件を抽出することが重要であると捉えています。

当然オレにも世界が如何にあるべきかというイデアはありますし、それはくりずさんのそれと大差ありませんが、それはこの場では語らないし、今この場においては別のレイヤーの話をすることが肝要だと考えているということですね。

>>つうか、「持続可能な開発」は,「社会的持続可能性」「経済的持続可能性」「環境的持続可能性」(これに「文化的持続可能性」を含む場合もあるようですが)を含む包括的な概念であり、だからこそ、その後の国際社会が取り組むべき環境行動の基本理念になっているんじゃないですかね。

この三つ乃至四つの持続可能性というのは、リソースの持続的確保の問題であってそのリソースを如何に用いるべきかの問題ではないとオレは捉えています。だからこそ地球環境問題の非当事者というのは事実性の次元において存在しないと考えているわけで、世界が如何にあるべきかという出発点から考えるなら、理念的な面においてそのような価値観や世界像を共有する者にとってしか当事者性は発生しません。

もしも地球環境問題が倫理や価値観の問題であるなら、国際人道協力なんかどうでもいいし、どんな非道が行われようと所詮自力救済しかない、世界は弱肉強食だ、という極端な価値観の持ち主にとっては、地球環境問題は当事者的な問題ではないということになってしまいます。グローバル経済がこのようなものである以上、強者に収奪される弱者は常に存在するわけですが、それはそれでいい、それで仕方ない、という価値観の持ち主が無視出来ないレベルで存在するからこそ現状があるわけです。

その価値観は間違っているという言い方は出来ますし、筋道を立てて批判することも出来ますね。オレもそのような価値観は間違っていると考えます。ただ、その拠って立つ根拠となるのは、やはり個人の倫理や価値観だということになりますから、メタレベルでは批判している相手のそれと等価であるということになります。

事実性のレベルで不当性がなければ、他者の倫理や価値観をかくあるべきだと強制することは出来ません。この不当性というのは、倫理や価値観によって規定されているのではなく、人間の社会において秩序をあらしめる為の決め事によって規定されているような性格のものです。

オレ個人の倫理や価値観は、地球環境問題に関してはくりずさんとそれほど違うものではないと謂えるでしょうし、世代間倫理には純粋倫理としての性格もあると考えていますが、そうでない倫理や価値観の持ち主もまた存在するのだし、論点が個人の倫理や価値観の次元に至ってしまえば、それ以上立ち入ることも変えることも出来ないと考えています。

オレ個人の倫理や価値観に則って、エゴイスティックな考え方をする人々を非難したり批判したりすることは出来ますが、その相手がそのような倫理や価値観を持つことそれ自体を禁じたり価値観の転換を強制したりすることは出来ません。向後一〇〇年経とうが一〇〇〇年経とうが、人が存在する限りそれはまったく変わらない事柄だと思いますし、それはそう在るべきものだと考えています。

しかし、地球環境問題は倫理や価値観の如何によらず万人がひとしなみに当事者性を持つというのは、この問題が提起する諸問題は「自分さえ良ければ好い」というエゴイズムを事実において許さないという性格があるからであると考えています。

現状の世界像を支えるだけのリソースが確保されていれば、「他人が困ろうが死のうがオレには関係ない。オレさえ良ければそれでいいんだ」というような極端な価値観やそれに則った行いも、法に背馳しなければ強制的に変えることは出来ません。単に多くの人々が共有する倫理感情に背く行いには社会感情としての抵抗が存在するという、事実性の次元における暴力のダイナミズムがあるばかりで、この辺のお話に関しては技術開発者さんという方の持論に詳しいでしょう。

しかし、地球環境問題というのは、個別的な価値観の自由を制限するような客観的な事実性の次元における制限要素があるわけです。つまり、そういうやり方ではリソースが持続的に確保出来ないという現実的な事情ですね。これは、相手がどんな価値観の持ち主であろうが、秩序維持の観点において特定の行動を要求し得るわけです。個人の価値観や倫理の自由を保障しているのは社会秩序ですから、自由な倫理や価値観に基づく行動を行う為には社会秩序の維持に対して逃れ得ない責任が生じるわけです。そして、責任の履行を求める原理は、倫理や価値観ではなく秩序の条理ですね。

たとえば世代間倫理という言い方で、将来世代に対する責任を倫理の観点で語ることも出来ますが、他者に対する倫理という振れ幅の大きな尺度で語る以外にも、「オレさえ良ければ他人はどうでもいい」という価値観の人間であろうが、普通に妻子を持っていれば自分の子や孫が滅んでも好いというわけにはいかないでしょう。それは事実性の次元における「都合」という性格も含んでいるわけです。

そして、極め付けのエゴイストなら「オレさえ好ければ子供や孫がどうなっても知ったことではない」「オレには子供なんていないから将来どうなっても構わない」という価値観を持っている可能性もありますが、人間のマッスが消滅してしまえば社会そのものの存続が危殆に瀕するわけで、社会秩序の観点で謂えばそれは許されない考え方であるわけです。勿論、腹の中でどんなことを考えていようが構わないけれど、その考え方に基づいて行動する自由は原理的に許されていないわけですね。

どんな自由も社会秩序によって保証されているものなのですから、これは倫理の問題でも価値観の問題でもなく、事実性の次元においてそのように行動することは許されないという話になります。

誤解のないように繰り返しますが、オレが申し上げているのは、オレ個人の倫理や価値観において国際人道支援や貧困問題がどうでもいいとか、将来世代に対する責任というのは単なる人間の本能に根差した都合論に過ぎないということではなく、倫理や価値観の問題であれば原理的にそれを拒絶することが出来るという話ですし、実際に拒絶している人がいるから問題の解決が遅れている側面もある、それを非難したり説得したりすることは出来るが、最終決定を下す自由は個々人に許されている、ということであり、しかし地球環境問題は万人にとって自身の自由意志に基づいて拒絶可能な問題ではないということです。

或る特定の倫理や価値観に照らしてそれが許されないのではなく、倫理や価値観の自由を保障する原理がそれを許さないのだという話をしているわけです。その為に、拒絶することが許される倫理や価値観という「自由」によって保証された理念の枠組みを外した上で地球環境問題を捉えることが必要だろうという話なんですね。

だから何度もくりずさんの認識とオレの認識の間にそれほどの違いはないと申し上げているわけで、今回のくりずさんのご意見で語られたような思想を別段否定しているわけではありませんし、オレ個人の倫理や価値観のレベルではほぼ同意見ですが、最も強調したいのは、くりずさんの考え方では、そのような理念を共有しない相手は拒絶する自由があるという話なんですよ。

あなたはそう考えるということはわかったが、しかしオレはそう考えない。たった一言そう口にすれば話は終わってしまうわけです。将来世代が滅びようが、途上国の貧困層が餓死しようが、オレに関係あるとは思わない。そう言い切ってしまえば終わってしまうわけです。おそらく、そんなことを平気で口にする相手を、くりずさんはご友人に諫められるほどの強い口調(笑)で非難なさると思いますが、倫理や価値観の問題であるのなら、くりずさんと価値観を共有しない相手は別段何ら痛痒を感じないわけですし、くりずさんには何の強制力も権利もないわけです。

将来世代に対する責任が倫理に基づくものであるなら、「オレはそんなことは知らないよ」と言ってしまえばそれで終わりの話なんですよ。倫理を前面に出す限り、「それはあんたの考え方だろう、オレはそう考えない」と言う自由が許されているし、その考え方の正当性をたとえばくりずさんに対して証明する義務すらありません。

誰にでも自分の自由意志に基づいて行動する自由が、社会秩序によって保障されているわけです。後は、どれだけ多くの人がその考え方を非難するか、その非難によってどれだけの現実的な不利益があるかという力関係の問題だけであって、原理的に言えば、どのように考える自由も個人には保障されているはずなんですよ。

オレが申し上げているのは、その相手が自由に倫理や価値観を選び取る権利を保障している大本の原理が、「そんなことは知らない」とは言わせないのが地球環境問題だという話なんですね。

オレの基本的な考え方として、人間というのは社会秩序がその権利を保障しているからこそ自由でいられるのだと考えていますし、その自由には義務が伴うのが当然なのであり、それは個人の自由や個別の理念を超越したものであり、自由意志によって拒絶することが許されていないものであると考えています。そして、これはオレ個人の倫理や価値観ではなく、客観的な社会原理であると認識しております。

そのような義務に背馳しない限り、あらゆる個人は、愚かである自由もありますし、間違う自由もありますし、悪い人間である自由もありますし、個人の価値観や倫理に対して他人が立ち入って何かを強制することは出来ないと思います。筋論としてしてはいけないという意味と、現実において不可能だという両方の意味がありますが。

たとえば、くりずさんは国連のストックホルム宣言を非常に重視しておられるようですが、国連の決定が重視されなければならないのは、それが正しい倫理に基づいているからではなく、理念的には超国家的な世界秩序を担うものという期待があるからだと考えています。個別の国家においては、その国家の法規範が個人の人権や自由を保障していますが、為政者の倫理や価値観が間違っていた場合にはその限りではない。

その意味で超国家的な世界秩序というものが必要なわけで、人類の理想としての倫理を体現する為に国連があるわけではなく、おおむね多くの人々が享受することが許されているアベレージの権利や自由を保障する、国家を超越した上位の秩序維持機構として期待されているから国連の決定には影響力があるわけです。

何をどのように考えようとオレの自由だ、そういうふうに考える人も、その自由を保障している原理に対してはひとしなみに責任を持っているのだし、地球環境問題というのはその責任に関わる問題である、そういうことになりますでしょうか。

結論を繰り返します。くりずさんのご意見が間違っているとオレは思いませんし、倫理や価値観としてはそれは正しいだろうと考えていますが、決定的なことは、倫理や価値観に基づいた思想に対しては、反証抜きで拒絶する自由が万人に許されているということです。国連がどのように決定しようが、先進諸国の思想的なメインストリームがどうであろうが、それが倫理や価値観の問題である限り、「オレは、私は、そう思わない」というたった一言で拒絶可能なものです。

だからオレは地球環境問題に関しては、万人が当事者性を持つという前提においては倫理や価値観の問題ではないと考えているわけです。あなたの倫理や価値観がどうであろうが、その倫理や価値観を保障する根本原理が危殆に瀕しているのだから、そう思わなかろうがどうだろうが、拒絶することは許されない、そういう話をしているわけです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年8月24日 (日曜日) 午後 09時06分

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