Pot-Healer
前回のエントリーのコメント欄でalice さんにお話ししたことと関連してくるが、水伝は強力な呪術装置であり、それがかくも広範囲に蔓延していることには、提唱者の江本勝氏一個人の思惑を超えた、人間一般の基本的な資質が関係しているのではないかとオレは考えている。
江本氏は自身が極端に呪術的な物の考え方の持ち主であるが故に、たまたま自分の中からその普遍を掴み出してしまったわけで、そのことをオレは「掘り当てる」と表現したわけだが、これはつまり、水伝というのは新しく創られた物語が新しい力を及ぼしているのではないということである。人間の内には水伝的なるものを受容する認識のシステムが予め存在していて、江本氏はそれに強力に適合する水伝という言説構造を掘り当ててしまっただけなのだと考えている。
謂わばこれは、神経ホルモンと受容体と麻薬のような関係だと言えるだろう。人間の中に予め受容体がなければ麻薬は作用しない。麻薬に酷似した物質が人間の神経作用において用いられていて、それを感受する受容体があるから麻薬は人間の神経作用を攪乱するのである。
何度か語ったことがあるとは思うが、この場合に神経ホルモンと受容体に相当するのは人間の呪術的な認識システムであり、麻薬に相当するのは水伝である。人間と呪術的な認識システムの間の関係に関しては、お馴染みのpoohさんをはじめとして多くの方が考察を試みておられるが、共通認識として得られているのは、呪術という原理は呪術が機能する領域においては窮めて有用で強力であるということである。
それを嘗てオレは、心の内と外の問題として考察したことがある。心の内側の問題については呪術は力を持っている。それ故に、呪術は人に対してのみ有効である。この知見は京極夏彦の著作で初めて接したのだが、逆に謂えば呪術は人以外の対象に対してまったく無力だということである。
以前この問題を語った際に、オレは雨乞いと巫覡の例を挙げた。雨が降れば巫覡に力があるということであり、降らねば力がないということであり、力を持つ新たな巫覡を探すことで雨を降らせる可能性は温存される。つまり、降っても降らなくても「巫覡が雨を降らせることが出来る」という命題自体は結果によって検証されないシステムになっているわけである。
人間は何らかの正しい方法によって雨を降らせることが出来る、これ自体は疑い得ない前提として検証の手続が捨象されているわけである。我々現代人が普通に考えるなら、雨乞いという一連のプロセスにおいて最も重要な関心事は「巫覡が雨を降らせることが出来る」という命題の真偽である。最早雨乞いを信じない現代人にとっては、何故肝心要のそこを疑わないのか、というのは普通に抱く疑問ではあるが、これは雨乞いというシステムの目的性を考えればナンセンスな疑問である。
雨乞いという呪術の隠蔽された真の目的性とは、祈りによって雨を降らせることそれ自体ではない。「人間は天候を左右することが出来る」という観念を信じさせることがその目的なのであり、だから「巫覡が雨を降らせることが出来る」という命題は前提視され疑われないのである。それを信じることが目的なのであるから、懐疑しても意味はないのであって、これは当たり前の理屈である。
この場合に重要なのは「正しい方法」ということで、普通に祈ったって雨なんか降るわけがないし、これは大昔の人だってそのように考えていたはずである。何故なら、雨乞いが実施されるに至るまでには、必ず多くの人々によって「雨よ降れ」と切実な祈りが捧げられているのが当たり前だからで、普通に祈ったって絶対に降らないということは経験則で誰でも識っていたはずなのである。だからこそ、特別な専門家による雨乞いが行われるのである。
巫覡は呪術的な力を持っていると信じられており、雨を降らせる「正しい方法」を識る存在だと認識されている。普通の人がただ祈ったところで雨は降らないのである。巫覡のように、正しい力を持った者が正しい方法で祈るから雨は降る、そういうことになっているのである。
しかし、雨乞いという呪術は相対的に謂ってかなり早い段階で信用を喪っていたのではないかとオレは考えている。つまり、雨乞いというのは普通に考えてかなり需要の多い呪術であるにもかかわらず、それを行うメリットが少ないからである。日本のような農耕定住社会において、降って欲しいときに降らないという事態は常態として頻繁に出来したはずであるから、本来この呪術はその現実的な困難を回避してこそ意味があるはずなのだが、それに対して雨乞いは無力なのである。
常識的に考えるなら、雨乞いが行われて雨が降るのは単なる偶然であり、祈りと降雨の間には何ら因果関係はない。降らないには降らないだけの現実的な理由が他にあるのであるから、そのような偶然が起こる確率は低いと言えるだろう。だから、賢い巫覡はその確率を高める為に雨が降るまで待つのである。
雨乞いが有効だと信じられるのは、たとえどんなに日照り続きでもいつかは必ず雨が降るからである。呪術の効力が発効するまでの猶予期間を一週間程度と見積もれば、その間に雨が降ることもあるだろう。非常に具体的なことを言うなら、雨乞いを頼まれてから出来るだけ実施を引き延ばして頃合いを見計らえば成功の確率は高くなる。
何やかにやの理屈を並べれば、前後併せて一カ月程度の時間を稼ぐことは出来るだろうし、明日雨が降りそうだと思えばその機を逃さず急遽儀式を執り行えば好い。降りそうもなければ、出来るだけ時間を稼げば好いのであって、どうせいつかは必ず雨が降る。
そして、通年なら降るべき時期に一カ月もの長期間一滴も雨が降らないというのは、よくよく異常な気候である。そのような「よくよく異常な気候」に運悪く当たってしまったなら、「我が法力も及ばず」と負けを認めれば好い。何とか降雨が間に合ったのであれば、堂々と成果を誇れば好い。
善くも悪しくも、呪術というのはこのようにして、人力の及ばぬ外部の対象を人力が操作しているかのように演じるまねびなのである。その場合、そのまねびを信じられることが重要なのであって、結果それ自体はそれほど重要ではない。
しかし、一方では、雨乞いを行うメリットが少ないという現実的な事情もまた存在するのであって、雨乞いのシステムが上記のようなものであるなら、つまり現実的には農耕の実態において何ら益するところがないということになる。雨乞いは、何もしなくても降る雨に儀式のタイミングを摺り合わせるだけなのだから、やっぱり降って欲しいときに雨は降らないわけであり、この事実自体は変わらない。結果的に言えば、やっぱり農作物にダメージは出るのだし、雨乞いをしたからと謂って農民に得るところはない。
雨乞いによって得られるのは成功の記録だけであり、「干魃に慈雨をもたらした霊験あらたかな巫覡」の伝説だけである。失敗の記録などそれほど残らないだろうし、霊験なき無名の巫覡の存在もまた忘れ去られる。
最終的に残るのは、「人間は正しい方法によって気候を左右することが出来る」という観念のみである。農作物の作柄という冷徹な現実に向き合っている農民には、「有効な雨乞い」で安心が得られても、決して作柄が確保されるわけではないという現実によって、雨乞いを行うメリットが剰りに少ないことを経験則から識るだろう。
それ故に、雨乞いというのは次第に「苛酷な現実に抗し得る力が人間にはあるという慰藉以外に望み得るものがない場合」にのみ行われるようになる。つまり、雨乞いは農作物を救う為に行われるのではなく、農作物の壊滅的な被害とそれによってもたらされる悲惨な現実に疵附いた人間の心を救済する為に行われるのである。
そして、その集団内において、このような苛酷な現実を納得して受け容れる為の手続ではなく、飢饉という現実的な結果自体を回避したいと望む者が在れば、そこから実証主義的な世界観が成長を始める。呪術とは、つまるところ悲惨な現実を納得して受け容れる為にこそ存在する原理であって、現実世界に対して力を及ぼし得るような原理ではない。ひび割れ無惨に枯れ果てた稲田がそのことを雄弁に物語っている。
たしかに雨乞いによって雨は降った、それは呪術的世界観においては紛れもない事実なのである。しかし、だからと謂って農民たちが丹精込めた作物は救われず、飢饉を回避することなどは出来なかった。実証主義的世界観というのは、現実的目的に即していようがいまいが、正しい方法で正しい祈りを捧げることによって雨を降らせることが出来るという観念だけでは満足せず、雨を降らせるべき現実的な目的性に拘った人間から生まれるものである。
人間の無力さに対する諦念を受け容れられるような儚い慰めではなく、飢饉の回避という現実的な目的の実現に拘った人間がいたから、実証主義的な世界観は今このようなものとして我々の前に在る。これが比喩であることは言うまでもないことで、農民が実証主義や自然科学を生み出したと言っているわけではない。
人はつい最近まで、現実の在り様に対して心の在り様を摺り合わせることでしか世界を受け容れられなかったのだが、心の在り様に合わせて世界を変えようと望むことから実証主義的な世界観は生まれるのである。前者の場合、世界を心の原理で読み説くことで心の内側と世界を合一させるということであり、後者の場合、世界の拠って立つ世界それ自体の原理を解明することで世界と心を分断する思考法である。そして、これは人間の内側から出てきた原理ではない以上、人間にとって異質な原理である。
人間にとって自然科学的な原理が異質なものであり、自然に感じられないのは、心の外側に存在する原理だからだとオレは考える。だとすれば、呪術的な原理が何故かくも強力に易々と人々の心に適合するのかと言えば、それが人の心の内側から出てきた原理だからである。
人は「自分の外側に在るもの」が世界であると大昔から認識してはいるのだが、その実その外側に在る世界とは自分の内側に在る心に映じた影でしかない。このような内と外を直結したようなクラインの壺的な人間の認識構造において、心の外側に内側を適合させる呪術という原理は窮めて強力であり、人間にとって窮めて自然な原理なのである。
実証主義が発達のプラトーを迎えた近代は、この内と外を接着した不思議な心の壺を毀して世界を心の外側に改めて置き直したわけであり、かくして内と外は神話的に分断されたわけである。その上で心の外側に在る他者的な原理を語り始めたわけで、それは未だ多くの人々にとっては異質な言葉であり異質な原理でしかない。
この現代においても、そんな不思議な心の壺を未だに保持している人は少なくないのであり、たとえば江本勝氏の壺はかなり強力で大きな壺である。彼はその壺の中から水伝という旧くて強力な呪術を取り出したのであり、その呪術に対するレセプターを多くの人々が未だ心の奥底に温存している。そのような壺の欠片は、心の外側に在る事象に対する表向きの発言権は喪ったとは謂え、心の内側の事柄に関しては未だ人々の日常生活において窮めて有用だからである。
旧い壺の欠片が未だ人々の心の内側で魔法の源泉として機能している以上、普通の人間なら、二種類の異質な原理を場面によって使い分けるというややこしく分裂的な生き方をしたいとは思わないだろう。呪術は効く。人と人の間の事柄において、呪術は未だ大きな力を持っている。だとすれば、この人間にとって窮めて自然で強力な原理一本で世界を視たからと謂って何処が悪いというのか。
悪いのである。最早世界は人の心の内側で円満に合一された優しくて残酷な実体ではない。実証主義的な思考法が成立し、心の外側に対する影響力を獲得した以上、心の内側と外側はすでに分断されているのであり、後戻りは決して出来ないのである。最早、それが如何に人間にとって自然に馴染む原理だからと謂って、心の外側の事象に対して心の内側の原理を適用することは不可能である。
これまでの話の連続上で謂えば、たとえば自然科学の原理は、旧い時代に巫覡が識っていると目された「正しい方法」に類似したものである。しかし、いにしえの巫覡たちの識っていた「正しい方法」とは、心の内側に映じた世界の影に対して働き掛けるものであったわけだが、自然科学の原理とは、心の外側の世界に直接働き掛けるものである。
我々は、善くも悪しくも、そのようにして内側に生じた影ではなく本当の外側に在る世界に生きるようになっている。
心と世界はすでに分断されてしまっているのである。
ニセ科学一般を考察する場面で呪術に対する考察が欠かせないのは、科学では在り得ない言説が表面的に科学を標榜し擬態するというその在り様が、窮めて呪術的だからではないかとオレは考えるようになった。
ニセ科学言説というのは、心の外側の世界を司る異質な原理を、再度心の内側に在る自然な原理で再話した人間主義的な言説なのではないか、つまり、実証主義や自然科学によって分断された心の内と外の世界を再び合一させようとする心の内側の原理の巻き返しなのではないか、と思うわけである。
それは、自然科学の原理がすでに存在し、心の外側の世界を記述する異質な原理が領する分野もまた、心の内側に映ずる影として再度心の内側に包摂し、全体性の合一に回帰しようとする人間性のダイナミズムなのではないか。
「十分に発達した科学は魔法と区別が附かない」というクラークの言葉ではないが、巫覡でも科学者でもない市井人から視れば、呪術も科学も「正しい方法」という意味では大差なく見える。そして、呪術における「正しい方法」というのは、心の内側に働き掛けるものでしかない以上、実は外側の世界における実体がないものである。
それ故に、呪術における「正しい方法」は科学の道具立てと置換可能であり、それは呪術における最重要な要素が個々の原理原則ではなくその容れ物であることを示唆している。心の外側に対して影響力を持たない原理原則を如何にして発効しているかのように擬装しまねぶのか、これが呪術の持つ本質だとオレは考える。であるから、科学もまた呪術の言葉で語り直され、心の内側でしか発効しない紛い物のガジェットとなる。
おそらく、ニセ科学とはそのような呪術なのである。
そのようにして、人は人にとって自然で馴染み深い世界を生きようとするわけで、そうだとすれば、ニセ科学を批判する言論はいずれ、人間が心と分断された世界をどのように生きるべきなのか(価値観の問題としてではなく、方法論の問題として)という問題に直面せざるを得なくなるような予感がする。その答えが呪術への回帰ではない以上、かなり難しい問題にはなるだろう。
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コメント
こんにちは。
拝読して、先日テレビでこんなエピソードが紹介されていたのを思い出しました。
おそらくしばらく前のアメリカでのこと。戦前かも知れません。
干ばつが続いた田舎町が「雨を降らせることができる」という在野の研究者(確かヨウ化銀を使うタイプ)を呼んだ。研究者があれこれやった後、見事に雨が降った。
しかし、今度はいつまでも大雨が止まなかったために大きな被害が出た。ここで彼を呼んだ町の当局は、彼を訴える損害賠償請求を起こした。
被告である研究者は、明らかに破産することを覚悟したうえで自分の責任を認めた。ただし、裁判所は因果関係を認めずに無罪。研究者は、以後その技術を封印した。
細部が間違っているかもしれませんが、まあ、およそこんな話。番組では、いつどこでのことか、研究者の名前も含めてちゃんと示されていました。ヨウ化銀を使った人工降雨技術は、一定の効果があった可能性があることも説明していました。
このケースでは「科学的な推論に基づく試行錯誤」という側面ももちろんあるんですが、せいぜい20世紀半ばとかだと民間の研究者にできることは「実際にやってみた」の繰り返しだけです。閉鎖環境をこしらえて条件を区切ってみたり、コンピュータによるシュミーレーションとかはできないわけです。いわば未科学の段階だった。
この研究者も、実際うまくいかなくて詐欺師や嘘つき呼ばわりされたりすることが多々あったというようなことも紹介されていました。それなのに「できる」と言い切っちゃって請け負ったりする。こりゃもう信念の問題であって、この段階で晴れてニセ科学の仲間入りを果たしちゃってる。
しかも、ただ待ってれば願いは叶うかもしれない状況が常にあるってことなどを考え合わせると、やっぱり呪術とほとんど区別がつかないと言ってもいい。
呪術も技術のひとつーー「望んだ結果を得るための技術」というよりは、「納得を得るための技術」のひとつーーではあろうかと思ったりもするのですが、実行しちゃうと因果関係が確認できるかどうかってところで、常にこんな悲喜劇も起きうるわけですよね。こういうのは、呪殺なんかにより典型的に現れるわけです(まあ、いまどき「呪殺だ」という訴えが受理されることはないと思いますが)。
このようなとき、どの関係者にとっても、なにが僥倖かというのはかなり難しいですよね。水伝だってなんだって、いい結果を呼ぶこともなかにはあるに違いないのだけど、それをもって何かを語ることの危うさも、ここにはあるような気がします。
投稿: 亀@渋研X | 2008年9月28日 (日曜日) 午前 09時56分
おや、類似のテーマで新しいエントリが立てられていることに気づきませんでした。
基本的に、黒猫亭さんの本エントリに私は異論はありません。
私は、前回の黒猫亭さんのエントリを読んで以来、水伝はニセ科学の害よりもカルトの側面を強く示しているという気がしてきました。
特に、黒猫亭さんの“江本氏は人々を金儲けのためにだまそうとしているわけではなく、本当に心底自分の発見したものを信じているのではないか”という趣旨の発言を見て、ますますそう感じます。
カルトと呪術を同列に扱っていいのかどうか今の自分には考慮不足ですが、結局のところ水伝は、ニセ科学をはみ出し、宗教、カルト、信仰、スピリチュアル、そういった面で人の心をとらえてしまっているように感じます。
私がどうしても考えてしまうのは、適当な道具を使って江本氏自身がニセ科学を信じ込み、結果的に人々を騙しているのではないかということです。水伝や水伝ビリーバーだけでなく、江本氏に対する批判が、もっと行われても良いのではないかと、考えるようになってきました。
じゃぁ、たとえば細木和子氏はどうですか?と言われると、あの辺はビリーバーの自業自得な気がします。
やはり水伝の問題は、教育現場に持ち込まれることが問題なのですかねぇ。
あと中国での人工降雨についてご参考までに載せておきます。
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080111/chn0801112306007-n1.htm
投稿: alice | 2008年10月 3日 (金曜日) 午後 08時41分
>亀@渋研Xさん
お返事が遅くなりました。
>>拝読して、先日テレビでこんなエピソードが紹介されていたのを思い出しました。
これは存じております。「奇跡体験!アンビリバボー」ですね、たしか。以前語ったように、オレは割とゲテモノ好きでして、小林麻央が好きなので、この番組は毎週録画して観ております(笑)。このエピソードは、チャールズ・ハットフィールドという人の話だそうで、人工降雨の歴史では割と有名な人みたいですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89
参考資料としてちゃんとアンビリバボーが挙げられていますが、オレの記憶でも大体そんな話でした。録画はしているんですが、MCが目当てですから、スタジオトークだけ纏めて本筋の再現Vは捨てちゃうんで、詳細は確認出来ません(笑)。大筋のところは亀さんが仰った通りだと思います。
>>ヨウ化銀を使った人工降雨技術は、一定の効果があった可能性があることも説明していました。
過日の北京五輪で、開会式当日に会場周辺に雨を降らせない為に、前日まで北京郊外でガンガン人工降雨を行ったそうですね。これは雨雲の中にミサイルを撃ち込んでヨウ化銀を主成分とした薬剤を散布するというもので、随分以前にもふしぎ発見だか何だかで紹介されていましたから、中国では割合普通に行われているようです。
治水事業に詳しい友人に聞いたら、日本でも奥多摩湖の小河内ダムには人工降雨実験装置があるそうで、これは流石にミサイルみたいな物騒な代物ではなく、アセトン燃焼による上昇気流にヨウ化銀を混ぜて撒き散らすという方式のものだそうで、一応年間数%程度は降雨量が増えているというデータがあるそうです。
>>この研究者も、実際うまくいかなくて詐欺師や嘘つき呼ばわりされたりすることが多々あったというようなことも紹介されていました。それなのに「できる」と言い切っちゃって請け負ったりする。こりゃもう信念の問題であって、この段階で晴れてニセ科学の仲間入りを果たしちゃってる。
ハットフィールド氏の場合、時代性などを考えると微妙ですね。ビジネスの具体の部分次第でニセ科学だったり呪術だったりするわけで、ウィキでやり方を読むと、
>>その方法とは、地上約6メートル程のやぐらを組みたて、その上から薬品を調合してできる煙を空中散布して雨雲を発生させ、雨を降らせると言うものであった。
とありますから、小河内ダムの方式に近かったのかもしれません。ヨウ化銀を散布することで雨を降らすことが出来るというのは、確実性に欠けるとはいえ一応現在その可能性が認められている技術だったりするわけですが、実際にはどういう方法だったのか、本人が技術の詳細を墓の中まで持って行ってしまったのでわかりません。どういうつもりだったか識りませんが、莫迦なことをしたものです。資料による検証のしようがない以上は、自動的に隠蔽の作為を疑われるのは当然のことですから。
ただまあ、現在の技術の本質から考えると、散布する物質は別段ヨウ化銀でなくてもよさそうですし、雨と土埃の関係からヒントを得たそうですから、満更的外れな研究でもなかったんではないかという気がします。現在の人工降雨技術も科学的な原理自体は至極単純で、それを可能にする技術的な側面が問題のようですから、科学と技術の関係で言えば専ら技術の問題ではないかと思います。だとすれば、割合原始的な試行錯誤で何らかの方法を見出すというのは、ない話でもなかろう、と。
一方、今現在の降雨技術の理屈から考えると、降りそうで降らない雨を雨粒の芯になる物質を散布して無理矢理降らせるというものですから、ハットフィールド氏の技術がどのようなものであれ、一旦降らせた雨が洪水になるまで降り止まないということは在り得ないのではないかと思います。なので、サンディエゴの洪水と彼の人工降雨技術との間には直接の因果関係はなかったのではないかと思いますから、自身の責任ではない自然災害の責任を一身に引き受けることで彼の技術を法的に認めさせる捨て身の戦略だったんではないかと思います。
彼の技術がどんなものであったとしても、人工降雨技術がもし在り得るならそれは魔法で天の蛇口を捻るようなものとは違う理路のはずですし、「魔法使いの弟子」ではないんですから、一旦掛けた魔法を止めることが出来ないというような成り行きにはならないでしょう。ですから、裁判で自分の責任を認めたのはハッタリの面があったのではないか、そうでなければ自身の技術の科学的な理路をよく理解していなかったのではないかとは思います。
また、時代性から考えて彼のビジネスが科学を詐称したものと呼べるかどうかは微妙なところで、経験的な試行錯誤から少なくとも本人が実効ありと確信出来る程度の手法を見出したという意味では、むしろ民間療法に近い未科学の技術だったと言えるかもしれません。
時代性から考えて、というのは、この当時のアメリカ人一般が自然科学を詐称することに何らかの信頼性を感じたのかということと、菊池さんの定義における所謂ニセ科学という概念とは大きな関係があると思うからなんですが、農民相手の商売ということをも考えると、ニセ科学と呼ぶのは少し違うのかな、という気もします。
おそらくこの時代性においては、自然科学に裏打ちされていない技術をビジネスに用いることについて、それが悪いことであるという認識は、商売人の側にも買い手の側にもほとんどなくて、いちばん大きな問題は、実効があるかないか、もしくは実効があると納得出来るか否かにあったのではないかと思います。おそらく、この当時のアメリカでも、呪術はまだ生きていたんじゃないかと思うんですよ。
そういう意味で、チャールズ・ハットフィールド氏のビジネスは、科学以前の呪術師の正統を継ぐものでしょうし、彼の技術は科学ではなかったかもしれないが呪術師のみが識る「正しい方法」の一つだったと言えるでしょう。問題があるとすれば、二〇世紀初頭の時点でも十分に発達していたはずの自然科学によって実効がプルーフされていない方法で「出来る」と言い切った商倫理の面ですが、ウィキを読むと失敗したら一銭も貰わいという約束だったそうですから、その当時のビジネスの倫理をギリギリでカバーしているとは言えそうです。
そのビジネスとはつまり「山師商売」ということなんですが。
いやに擁護するようにも思われるかもしれませんが(笑)、多分亀さんとオレでは彼の技術の実効に関する認識と、時代性についての考え方が少し違うんだと思います。オレは多分、ハットフィールド氏の技術は「割合いい線まで行っていた民間療法」程度の具体的な中身があったんではないかと思いますし、そうだったとしても、現在の人工降雨技術の水準から視ても、よっぽど確実性に欠ける原始的な手法だったのではないかと想像しています。
で、その程度のものでしかない頼りない技術で商売をすることは、現在と当時では意味合いが違うわけで、ニセ科学というのは割合現代という時代性に多くの根拠を負う概念だと思うんですね。ハットフィールド氏がこの現代に生きていて同じことをしていたのであれば、それは疑問の余地なくニセ科学だと思いますが、彼が一九世紀末に人格を形成した人間であることや、彼が生きた時代の科学啓蒙の水準から考えるならば、おそらくこれはギリギリニセ科学ではないんですよ。むしろ、未科学の時代に自然科学の推進を担った錬金術師なんかに近いのかもしれませんね。
ただ、彼の技術にどれだけの中身があったにせよ、一〇〇%の実効がなかったことは疑いの余地はないと思いますし、現有の技術よりも優れたものであったとは到底思えません。昔のSF小説に出てくるような「惜しくも人知れず破棄されてしまった現有技術を凌ぐ画期的な大発明」なんてのは、まあまず存在しないと思いますので、大した技術でもなかったのでしょう。
その程度の技術では、どれだけの割合の降雨が彼の技術によるものだとしても、全体的に視て彼の商売が呪術師としての雨乞いであったということだけは言えると思います。
単に、昔の呪術師の儀式はまったく降雨と因果関係がないにも関わらず、そのまねびによって天候を操っていたかのように見せていただけなのに比べて、ハットフィールド式の降雨術は、条件さえ良ければ成功することもあった、そのレベルの違いでしょう。これは自然科学の規範で言えば、「雨を降らせる技術の実現可能性」を証すのみに留まるわけですが、彼はこの段階で実用に踏み切ったわけで、そこで名声を得たことで、科学技術の萌芽は結局雨乞いの呪術に留まってしまったと言えるでしょう。
つまり、彼の技術がもたらしたのは、「ハットフィールドは『正しい方法』によって雨を降らせることが出来る」という観念だけだったということです。彼の方法に幾許かの実効があったとしても、それはその観念を支持する役にしか立たなかったわけです。
想像を逞しくするなら、彼は自身の技術の確実性を底上げする為に(明白な失敗が二例だけというのは、やっぱり少なすぎますので)、まさしく昔の巫覡が雨乞いを「成功」させる為に使っていたような「知恵」をも拝借したのではないかと思います。その意味では、彼の技術が数%でも雨を降らせることが出来たかどうかというのは、実質的な意味ではまるっきりどうでもよくなってしまうわけです。
中国式のミサイル散布方式や航空機からの散布でも確実性は心許ないのですから、地上で櫓を組んで煙を立ち上らせる程度の散布方式では、かなり条件が良くなければ何の効果もないでしょう。大昔の雨乞いとの違いは、まったく実のない真似事であったのか、それとも運が良ければ成功することもある程度の不確実な方法だったか、そういう違いではないかと思います。ですから、「正しい方法」に若干自然科学に近似した中身があるだけで、全体的な形としては雨乞いの呪術なんですよ。
>>呪術も技術のひとつーー「望んだ結果を得るための技術」というよりは、「納得を得るための技術」のひとつーーではあろうかと思ったりもするのですが、実行しちゃうと因果関係が確認できるかどうかってところで、常にこんな悲喜劇も起きうるわけですよね。
チャールズ・ハットフィールド氏の「呪術」に古代から続く単純な雨乞いの呪術との違いを探すのであれば、それは「人間は雨を降らせられるという可能性」というだけの観念ではなく、「雨を降らせる技術の実現可能性」という、若干具体的な観念を広汎に信じさせる役に立ったということでしょうか。
そういう意味では、科学技術のトバ口まで来ていた呪術だったのだと思いますし、産学の連携が未だ未熟だった時代性が、別段非難さるべき筋合いのない彼の動機を結果的に呪術に導いてしまったのではないかと思いますので、多少同情の余地はあるのではないかと思います。
二〇世紀初頭の自然科学と謂えば、アメリカにおいてすらアカデミズムか国策に沿った技術開発でなければ正道を歩むことは難しかったと思いますので、そこから外れた出自を持つ技術の多くは、ハットフィールド氏のそれと似通った道を辿ったのではないかと思います。要するにこの時代における民間発祥の技術の多くは、コカ・コーラのレシピと同程度の扱い方をされたということだろうし、ホメオパシーレベルのものと一定の科学的根拠を持つものが同列に混在したということなのでしょうね。
いや、勿論まったくのインチキだった可能性もありますけどね(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月 3日 (金曜日) 午後 11時46分
>aliceさん
どうもです。続いてこちらにもお返事を。
>>私は、前回の黒猫亭さんのエントリを読んで以来、水伝はニセ科学の害よりもカルトの側面を強く示しているという気がしてきました。
たしかに、「科学ではないのに科学を装う」という意味では、割合水伝の誤りを指摘するのは簡単なんですよ。小学生レベルの理科の知識があれば、水伝で示されている現象が単純な誤認に基づくものであることには何の疑問の余地もありません。その辺のところは、非常に初期の段階で田崎先生が「信じないでください」という良質のコンテンツを用意しておられますね。
そして、水伝は本質的には波動理論で、江本氏は元々波動論者ですから、バリバリのカルトに傾斜する危険性もあるわけで、その方面の害が無視出来ないことは事実ですね。実際、江本氏の支持者が数百人琵琶湖浄化の祈りの儀式に参加したという江本サイドの発表もあるわけですから、カルト集団的な性格もあると思います。
ただ、オレが個人的に水伝固有の問題性として注目しているのは、江本氏個人の責任や実体的な支持者集団の危険性、そのカルト的な波及性ではないです。むしろ水伝という言説そのものの言説構造に、江本氏という主唱者個人を離れた不思議な呪術性があることに注目しています。
つまり、この言説それ自体に不可解な伝染性があるんですね。そして、その伝染性がもたらすのはカルト的な小集団の害悪というより、人間の世界認識にもたらす観念的な害悪なんではないかと考えています。
普通なら、「信じないでください」のようなコンテンツが用意され、一通りの水伝批判は為されているんですから、それでこの問題は沈静化するはずなんですが、今回の一件の如く、一向に終熄の兆しを見せないわけです。それは水伝の言説構造それ自体に呪術的な力があるからではないか、とオレは視ているわけで、主唱者の江本氏の責任を糾弾することは、この問題の解決に関してはそれほど重要ではないと考えているんですね。
たとえばalice さんが水伝に興味を持たれるきっかけとなった一件、まあ今更蒸し返すべき事柄ではありませんから詳細は省きますが、水伝という言説の構造には不可避的にあのような混乱と対立をもたらすような不可解な特性があります。以前「自らの伝言」というエントリでもその辺のところを少し語っていますので、よろしかったら目を通して戴けるとより伝わると思いますが、さまざまなレベルの受け手がさまざまな形で引っ懸かるように出来ているわけです。
http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/01/post_d362.html
たとえば、前述の通りこれが小学生レベルの理科知識で見破れるはずのインチキであることはかなり明白なんですが、だからこそ、真に受けてしまった人がそれを指摘されたら「引っ込みが附かなくなる」んですね。まず水伝の一番大きなフックというのはそこだと思うんですが、何というか、眉に唾して向き合うのでなければ、大の大人でも割合感覚的に真に受けてしまうようなところがあります。
大人が情報を無批判に受け容れてしまうようなコード(科学の道具立てと写真)を採用している為に、ニセ科学批判や非合理批判の言説を認識していない大人はうっかり騙されてしまうようなところがありますし、大の大人には面子というものがありますから、ついうっかりと雖も子供騙しの幼稚なトリックに引っ懸かったということをなかなか認めたがらないものです。ですから、割合多くの人が他者の批判に対して意固地になる。
水伝という言説構造は、かなり多重的な階層で人を困らせるところがあって、一旦無邪気に「ええ話やないか」的に言及してしまうと、結果的に自分が「子供騙しに引っ懸かるような、ぼんやりした鈍物」であると自ら磊落に認める度量のない人にとっては出口の見えない恥辱の体験となってしまいます。
誰にだって自己愛やプライドがありますから、小学生レベルのインチキに引っ懸かるのは莫迦だと自分自身でも思っているのだし、自分がそんな莫迦の一人だと認めるのは、大変な勇気の要ることです。だから、大概の人は大本の水伝という言説そのものを擁護する立場に立たざるを得なくなるわけですね。水伝のようなアカラサマな非科学が未だに大手を振って幅を利かせているのは、こういうふうに関わった人間を否応なく巻き込んでしまうような構造を具えているからだと思いますし、それは江本氏が意図的に仕掛けた詐術ではなく、この言説構造の本質に内在する特質だと思うんです。
また、知的な水準が高くて水伝の科学的な無根拠性を見破れるようなリテラシーの持ち主からすれば、これが普通の人でも割合あっさり騙されてしまうような深刻な脅威であることをなかなか真に受けられないわけで、勢い「騙されるほうが莫迦だ」的なリアクションになることが多い。結果的に「水伝はもう終わった問題」というふうな認識にもなるわけですし、また水伝を真に受けてしまったことで引っ込みが附かなくなった人の心情にも不寛容になるわけです。
ですから、江本氏のことを「たまたま掘り当ててしまった人」と視ているわけで、ここまで厄介な構造を持つ言説を目的的に編み出したのだとは考えにくい、それは人知を超えているだろうとオレは思うわけです。
人間の概念規範というのは、本来混ぜては危険なものなんですが、江本氏がたまたま息をするように自然にいろんな規範をごた混ぜにして考えるような人だからこそ、そのごた混ぜ思考の中からたまたま物凄く危険な構造が出来してしまったとオレは考えているわけで、江本氏が社会的に制裁を受けたとしても、水伝という言説が一人歩きをするだけだと思うんですね。
江本氏自身、確信的ビリーバー体質の人ですから、社会的に何らかの制裁を蒙って悪者扱いされたとしても頑としてその非を認めないでしょうし、一種の殉教者として振る舞うことでしょう。
おそらく江本氏個人の責任を追及することにも意味はあるし、江本理論の狂信者の集団が引き起こす実害や布教活動的な迷惑も無視して好いことだとは思いませんが、オレ個人は、関わる人をすべて不幸にする厄介な言説構造としての水伝それ自体に対抗することが先決ではないかと考えています。少し観念的だと思われるかもしれませんが、言説それ自体が人と人の間で一種の自立的な生命を持って、人の精神活動に対する脅威と成り得るということもあるんじゃないかと思うんです。
>>あと中国での人工降雨についてご参考までに載せておきます。
亀さんに対するお返事でも触れましたが、中国では割合ポピュラーに実践されている技術のようですね。食糧自給に対する考え方が日本とは違うんでしょうけれど、干魃や異常気象が国家を傾けかねない深刻な危機として認識されているのでしょう。
昔フレデリック・フォーサイスの「悪魔の選択」というポリティカルフィクションが流行りましたけど、これも大本は当時のソ連の農業政策の失敗とそれによる不作が発端となっていますから、何でも外国から輸入すれば好い、戦争なんか他人事だと思っている日本とは受け止め方が違うのでしょうね。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月 4日 (土曜日) 午前 01時34分