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2008年10月18日 (土曜日)

技術開発者さんへのお返事

前回のエントリーに積極的にコメントしてくださった亀@渋研Xさんのところで、こちらにも時々書き込みして重要な示唆を与えてくださる技術開発者さんと、一連の教育問題に関して少し見解の相違をみた。

「発達段階に応じた指導」とニセ科学2

オレは技術開発者さんという方は、一種ニセ科学批判者として経験に裏打ちされた完成した型を持っておられる論者だと視ているが、それ故に技術開発者さん固有の問題意識というものが確固としてあるのだろうと考えている。いわば信念の人であって、その信念は何事があっても揺らがないだろう。

この場合に「完成した型」というのは、技術開発者さんがこれまでの豊富な経験を通じてご自身に固有の問題意識に特化した考察のスタイルを完成されたということで、現実の経験によって検証を経た知恵であるから、これは傾聴に値する識見である。

ただ、この一連の教育問題についての考察に関して、余人にあらず技術開発者さんだけはオレの疑問に対する答えを持っておられないのは明らかであって、それは何故かと謂えば、この考察は技術開発者さんの問題意識とはまったく別の論理的枠組みに基づくものであり、寧ろ技術開発者さんの依拠する枠組みを一旦離れて考えてみようという試みだからである。そして、オレが識りたいと思っているのは、技術開発者さんがご存じである理由がないと考えられる情報だからである。

オレはこの問題を論じるに当たって、最初から「責任関係の論理は捨象する」と断っている。その論理に則っていては決して見えないものを視ようとする考察の試みなのである。そしてこの種の「枠組みを変えて考えてみよう」という呼び掛けは(類似の経験が多々あるのだが)、残念ながらオレの説明能力では一発で万人から理解を得られる事柄ではないらしい。

そもそも別の枠組みに則った考察なのだから、この両者間で意見対立というのは在り得ない。考察の枠組みが最初から異なっているのだから、対立が在るように見えるとしたらそれは概ね誤解である。そういう意味では、見解が相違をみたからと謂って反論する必要はないのだが、枠組みが違うことを説明する必要はあるだろう。

そのような動機から、リンク先のコメント欄に投稿しようと一旦テクストを起こしたのだが、例の如くというか(笑)かなり長くなったので、こちらで引き取るのが相応だろうと考えた。以下は、読者の理解を補助する為に若干のリンクは埋めたが、基本的に先方に投稿しようとしたコメントそのままのテクストである。前掲リンクでそれまでの経緯を確認されたうえでお読み戴ければ幸いである。



>技術開発者さん

剰り反論するような内容でもないのですが、この一連の議論の論点が何処にあるのかを明確化する意味でやはりコメンタリーしたほうが好いだろうと思いますので、かなり長くなりますが、もう少しだけ続けさせて戴きます。

>>なんていうかな、確かに専門家の専門性により、専門家でない人からまともな事なのに「おかしい」と言われることはあるんだけど、非専門家はそれをあまり意識せずに「おかしい」と言って良いと思うんです。

言って好いでしょう。これは前回のコメントで、

>>多分、そういうふうに考えて意見を語ることも、道徳教育のゴールに対する社会の要請としては決して間違いではないんだと思いますが

と留保を置いている通りです。これは、特定の専門性に対して抱く疑問を非専門家の立場で専門家にぶつけることは当然の権利だろう、という意味です。これはつまり、疑問をぶつける立場に在る者は自身の非専門家としての立場を自覚し、専門家の専門性を尊重すべきであるということでもあります。これは、今回の議論の一つの前提となる姿勢ですね。

常々dlitさんが「言語論は誰にでも出来ると思われているから勝手な『オレ学説』が横行している」とこぼしておられますが、言語と並んで教育もまた、誰でも論じられる問題でさして高度な専門性もない対象と考えられているのではないか、その故に専門的な実情を踏まえない「オレ教育論」が横行しているのではないか、何故誰も教育の専門性が如何なるものなのか識ろうともしないのか、という疑問もあります。

>>なぜなら、専門家は非専門家にそれが専門のうえでまともな事なら「おかしくないですよ」と説明する能力も含めて専門性だと思うからです。それが説明出来ないならやはり専門家として駄目だと思うんですね。


ここは少し論旨が喰い違っていると思います。この場合に基準となるのは、「専門家としてダメかどうか」ではありません。技術開発者さんが仰っているのは、アカウンタビリティ、すなわち説明責任・開示責任ということですよね。それは特定の専門領域と一般社会との接点における普遍的な責任関係の論理です。

これまで教師サイドから、就中実際に水伝授業を行った教師からのまともな説明らしい説明がほとんどなかったことは事実でしょうから、そういう意味で教師一般が専門家として社会に対する説明責任を果たしていないという批判は在り得るし、そこに関してはオレのほうでも何ら異論はありません。異論があるのであれば、当事者である教育関係者の方が堂々と主張されるべきことでしょう。

しかし、そもそも専門的実践と説明責任というのはまったく別の問題領域です。たとえば、一昔前の医師一般というのは殆ど社会や患者に対して満足な説明責任を果たしていなかったわけですが、それは医師の専門的実践とは別の問題性だったはずです。これはつまり、或る時期までの医師は現在の職業的基準で謂えば「専門家としてダメだった」ということになるでしょうが、説明責任を果たしていないからと謂って医師の専門性すなわち医療行為の有効性自体が疑われるということはありません。

この場合疑われているのは、医師の専門領域については同業者の医師しか本当のことはわからないのだから、医師がどんな変なことをしていても社会や患者には実情がわからないということです。医師が一定の実効を持つ高度な専門性を具えているという信頼自体はまったく疑われていないわけですし、その専門性が高度だからこそ一般人にとってはわかりにくいという事情があります。しかし医師と患者という二者関係において、直接当事者として医師と等分の権利を持っているはずの患者のサイドが殆ど情報を与えられないのは不公平だという意味で説明責任が求められるわけです。

そういう意味で、オレが今問題にしているのは、教師の専門性それ自体であって専門家としてダメかどうかとか、専門家に求められる社会責任の問題でもありません。それに関しては幾らでも批判が在り得るでしょうが、今この場ではそれを論じているわけではないのだから、それを指摘されても議論が噛み合わないということです。

さらに謂えば、教師という職掌において最も重要な社会との接点は、まず第一に児童の保護者であり地域社会であって、ネット社会ではありません。そして、保護者や地域社会に対する説明責任ということでは、今教師たちは懸命に出来る限りのことをしているはずですよ。単に、ネット社会の問題意識が伝わっていないから教師サイドの反応が薄いのではないか、これは随分以前から言われていることだと思います。

当然、ただ単にダメな教師という特定個人は幾らでもいるでしょう。ダメなサラリーマンがいたり、ダメな医者がいたり、ダメな警官がいたり、ダメな政治家がいたりするのと同じことで、ダメな先生だって当然いる。しかし、ダメな教師の事例を教師一般に拡張して考えるのは、ダメなニセ科学批判をニセ科学批判一般の問題と拡張してニセ科学批判批判を行うようなものでしょう。

そして、水伝授業を行った教師をそれを以てダメな教師と認定するのは容易いが、ダメな行為はダメな人間がやると決まったものではないし、それほど単純なものではないとオレは考えます。水伝授業というのは勿論ダメな教育ですが、そのダメな教育を行ったからダメな教師だ、この種の問題は結果責任がすべてだろう、という価値判断がある一方で、本来資質や姿勢面でダメでないはずの教師がダメな教育を行ったとしたら、それは何故か、と仮定する考え方もあるはずなんですね。

そして、そう仮定する根拠というのは、水伝授業がTOSS会員を超えて一般の教育現場に浸透し、さらに一般社会にまで拡散したという、アウトブレイクのプロセスそれ自体です。これを「ダメな教師だからダメな教育をするのだ」と考えるなら、日本中の学校に、それこそ無視出来ない数のダメ教師が溢れかえっているということになります。

それは流石に現実的な認識ではないだろう、これがまず直観としての出発点ですね。

直観とは申しましたが、「そんなことがあるか、今の世の中の教師なんてみんな腐っているんだ」なんて暴言を、教師一般の実像を識りもしないで個人的な体験を根拠に仰る方がいるとすれば、申し訳ないですが対話する意味を見出せませんので、まあ最初から決まった道筋ですが(笑)。

つまり、或る社会的な領域の中で大きな拡がりをみせた問題は、それを個人的な悪徳の問題に還元するよりも、構造的な問題と仮定したほうが結果の歩留まりが良いという経験則に基づいて立てた作業仮説だということです。

>>でね、今までどうやら教職にあるらしい人と議論してみた結果からは、「おかしくないですよ」となっとくできるだけの説明を聞いた事はない気がしますね。

これも当然でしょう。結論として、水伝授業は「おかしい」んです。この結論を確認する為に多くの方々が膨大な議論と検証を積み重ねてこられたのだし、技術開発者さんもその積み重ねに貢献された重要な論者の一人と謂えるでしょう。この結論は誰が一から考えても揺るぎません。たとえば、たった一人の教師が、これまでの議論の総体を踏まえることなくこの揺るぎない結論に反駁することは到底不可能ですし、今回の議論はこの結論自体を疑えという話ではありません。

水伝授業は「おかしい」のだから、「おかしい・おかしくない」という設問の立て方をすれば、納得の行く反論が得られないのは或る種当たり前のことでしょう。技術開発者さんも、これまでそのような設問の立て方に基づいた説得の姿勢で教師の方と対話してこられたはずですね。

オレが問題にしているのは、たとえば水伝授業批判というのは一種の教育批判で児童教育という特定の専門領域を対象としているわけですが、従来の批判においてはこの専門性はさして重要な要素と見做されてこなかったと思うんです。技術開発者さんも詳しく教育者の事情をご存じではないのに説明責任に言及される以上、これを識ることはさして重要だとは感じておられないはずです。

批判において重要だ・必要だと考えるなら、専門家が自らの責任において釈明すべき事柄についてその説明がないのだから、それが考慮されないのは専門家のほうの責任だ、と主張する以前に、非専門家である批判者の側がその専門性の一端なりとも識る為に可能な限り事前調査を行うはずです。技術開発者さんほどの論者が、その手続を怠るとも思えませんから、つまり技術開発者さんの問題意識における批判では教育者の専門性はそれほど重要性を持たないということではないかと思います。

基本的に技術開発者さんの問題意識は、或る社会的な事象における人と人の間の責任関係を足掛かりにした論理に基づいているものだとお見受けしておりますので、そういう意味では教師が自身の説明責任において明示すべき情報が議論のテーブルに上っていないのであれば、その情報は考慮に値しない、捨象して差し支えないとお考えになったとしても、それは何の問題もないでしょう。それが技術開発者さんの問題意識の在り方である以上は、それはそれ自体充足し完結している批判姿勢であると謂えるでしょう。

一方、オレが今回論じているのは、それとはまた別の観点のアプローチが在り得るのではないかという可能性です。責任関係のロジックではなく、問題性を構成する概念構造を考えてみようという提案ですし、教師の専門性がこの問題において積極的な考慮に値しないという前提を疑ってみようということです。そして、或る対象を批判する場面において、その対象に対する十全な知識を持って臨むというアプローチも有効なのではないかという問題提起です。

たとえば、hietaro さんのブログのコメント欄で、あのNさんから非常に参考になる資料の存在をお教え戴いて、現在、時間を見繕って読み込んでいる最中なんですが、これで視ると実際の道徳の授業というのは、技術開発者さんがイメージしておられるものとは大分違ったもののようなのです。

つまり、実際問題として小学校教育においては、技術開発者さんの仰るような徳育のプロセスは段階的に施行されるのであって、それ自体が倫理命題として円満に整合するようにいっぺんに教えられるのではないということです。全学校・全学年を見通した教育計画の下に、児童の発達段階に応じてコツコツと積み上げていくように六年間の計画が設計されるわけです。そして、幼時教育や中学校教育との連絡も考慮した上で小学校教育というのは総体的に設計されています。

さらに謂えば、平成二〇年に改訂された小学校学習指導要領解説の道徳編では、新たに小学校の徳育における校長・教頭のリーダーシップということが強調されていて、全学年を通じた総合的な道徳教育の指導計画において、校長や教頭が明確な道徳教育の方針を策定すべきであることが要求されています。その意味で、実は先だっての女性校長会の問題も、その背景にこうした事情があってのことではないかという推測も可能なわけです。

そうだとすれば、女性校長会の件について「何故今頃水伝なのか」という当然の疑問にも一定の解答が得られるわけで、「校長が学校のホームページで水伝を」というような事例にもそうした背景があると考えられるわけです。これはまだ「そうだとすれば」の段階に過ぎないわけですが、少なくとも対象の専門性について積極的に考察することは問題の構造の理解に繋がるということは謂えるでしょう。

たしかに、その種の専門領域に属する情報は、社会や利害関係者に向けて積極的に開示すべき責任を専門家サイドが持つものではありますが、非専門家が特定の専門領域の問題を論じる場面で、専門家が開示するまで専門的な事情を考慮しないというアプローチだけが在り得るわけではないということなんですよ。それは同時に、責任関係のロジックだけが社会的な問題への唯一のアプローチ手法ではないということでもあります。

少なくとも、オレは「何故教師たちは水伝授業のおかしさに気附かなかったのか」という疑問に強い関心を持っていますし、それに対する解答が「愚かだったから」という単純なものであろうとは信じていません。そして、それを明らかにすることが水伝授業の問題性に対して、何らかの有益な情報と成り得るのではないか、という見通しを持って考察を進めています。

そして、それは教師サイドが責任関係における免責を得る為や社会に対する責任を果たす為に「釈明」すべき事柄というより、そのような関心を持つオレが自身の責任において積極的に情報を収集し、得られた客観的な情報に基づいて考察を自己検証し妥当性を高めていくべき事柄だということになります。

つまり、或る特定の対象について疑問を覚えたなら、その疑問を解消する為の情報を積極的に収集して考察の妥当性を担保するというのが「科学的な態度」ではないかと思います。人と人の間における社会的な問題だからと謂って、相手に説明責任があるのに説明しなかったというだけで考察対象となる領域固有の事情を考慮しないという立場は、間違ってはいないがそれしかないのでは十分ではないと思うわけですね。

問題を考える際に必要な情報を相手が持っていて、開示すべき責任もあるのに、それを開示しないというのはたしかに相手の落ち度ですが、それが問題になるのは「どちらにどの程度落ち度があるのか」を問う論理においてのみでしょう。

一応確認させて戴きますが、技術開発者さんは、オレが「ひょっとして水伝授業には一理があるのかも」「水伝教師たちは責められるべきではないのかも」と思い始めたとお考えになって、それは間違っていると説得されているわけではないですよね?

もしもそうだとすれば、それについては、最初の最初から「水伝授業の有害性は疑い得ない」「水伝教師は免責されるべきではない」「それとはまったく別の観点から考察している」という前提を再三再四確認していますし、もしもこの先も何らかの誤解があるのであれば、何度でも確認すべき事柄だと考えています。

以前apj さんの旧ブログで別の問題を語った際にも同じような経験がありますが、社会的な問題に関して責任関係の論理から離れて問題性の構造を考えてみよう、というアプローチの提案は、どうも理解されにくい弊があります。

ともすれば責任関係の論理の下に忖度されて擁護や免責の主張と誤解されがちではありますし、それが悪しき相対主義と捉えられて反撥を蒙ることもあります。しかし、人の利害が絡む問題である以上はそう考えるのが或る種自然ではありますから、それに対しては粘り強く説明を繰り返すしかないと思っています。

これが水伝教師擁護の為の考察でないというのは、たとえば水伝教師を免責したり擁護したりする為に、「教育という行為にはこれこれの構造がある、だから教師が水伝の危険性に気附かなかったのは仕方のないことなんだ、無理のないことなんだ」、これを結論として指向するのが擁護の論法です。

しかし、オレの考えにおいては、そのような無理からぬ構造が在るのだとしても結果責任は免れ得ないのだし、善意やイノセンスは何事をも免責しないというのはpoohさんや技術開発者さんが常々仰っている通りです。

単にオレは、
人間の社会活動において責任能力と責任関係は必ずしも整合しているとは限らない、それ故に責任関係の論理だけを追及しても問題が解決するとは限らないが、にも関わらず問題は必ず解決される必要があると考えているだけです。

原理的に不可能な事柄であってもそれが出来ないことで責任を問われることは、人間社会では幾らでもありますよね。だから、責任関係の論理だけでは十分ではないと考えるわけで、問題性それ自体を相手取る観点の考察もまた必要になってきます。責任関係の論理とは、誰にどれだけの責任があって、何を果たすべき責任があるのかを明確にし、それを正しく履行させるべく努めるという論理ですが、これは必ずしも責任能力と整合していないわけです。

たとえば、政治家が失政の責任をとって辞任する、これは問題性という観点ではちっとも責任を果たしたことにはならないわけです。それに取り組んでいた人間が失敗して手を引いたというだけで、本来的にはその取り組みを完遂し問題性を解決することが責任の取り方というものですが、そもそもその問題を解決出来なかったから責任を問われているわけで、これは堂々巡りの矛盾となるわけです。

「本来の責任事項を完遂する能力がないという責任」というのは、罰される(辞任というのも一つの自罰の形でしょう)以外に誰にもとりようがないわけですが、その人物を罰しても問題性自体は依然として目の前に存在し続けるわけです。このようにして責任能力と責任関係が整合していない問題領域において、責任関係の論理のみを採用することはマンパワーを無意味に蕩尽するやり方であって、社会的に窮めて非効率なやり方だとオレは考えています。

世の中のややこしい問題の大半というのは、この責任関係と責任能力の不整合の故に起こるのだとオレは考えていて、この不整合を解決するには、一旦責任関係の論理を離れて問題性それ自体に向かい合う必要があると考えています。何故なら、技術開発者さんの日頃の持論に照らしても、人間の責任というのは問題性を解決する為に生起した実利的な概念なのであって、責任関係の論理が問題性を解決し得ないのであれば、問題性の解決それ自体が人の行いの目指すべき本質的目的性として立ち現れてくるのは当然のことだと考えるからです。

問題となる領域にどのような構造があって、それがどのような機序で問題を起こしているのかを明らかにすることは、そこまでなら擁護の論理と同じ筋道ですから誤解を蒙ることも故なしとは謂えないわけですが、そこから先を考えるならやはり同じ道筋を辿る必要があるわけです。これもまた、何某かの不整合の故に蒙る誤解ではあるわけで、とにかく粘り強く説明を続けるしか今のところ解法はありません。

何の為に「何故教師たちは水伝授業のおかしさに気附かなかったのか」ということを考えるのかと謂えば、それを逆に謂うなら「教師たちが水伝のおかしさに気附く為には何が必要なのか」を考える為です。必要なものが見附かったなら、それを一人でも多くの教師に訴えていく。こういう迂遠で非力な形であれ、それは問題性の解決に何某かの意味を持つはずです。

責任関係の論理においては、「教師たちにはそれを考え実現する責任がある」という指摘から先には道筋が続いていません。そこまでで留めるというのが他者批判としての節度だという考え方もあるでしょうけれど、単にオレはそう考えない、多分それだけの違いなんですよ。

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コメント

こんにちは、黒猫亭さん。

なんていうか、私はニセ科学批判を始めた当初に「私の様に自然科学の研究に携わる者の責任」ということを考えたわけです。私の場合は「マイナスイオン批判」から始めた訳ですが、それを一般の人に話した途端に「なぜ、あなた方学者はこんなに流行る前に『あれは嘘だ』と言わないのか」みたいな意見にサラされた訳ですからね。

もちろん言い訳は充分にあるわけです。「社会の健常な保守性論」なんて言っているけど、本来、社会が新規な物に対してがっちりとした保守性を持っていてくれるという事を前提として、我々、自然科学の研究者の行動規範やとりまくシステムは「新規で正しいことなら、自分たちで結束して保守性に穴をあける」という形で構築されていた訳です。その社会の保守性が簡単に崩れ去ったなら、我々の行動規範やシステムはなすすべも無く取り残されてしまう訳です。

そういう意味では教師が、なぜああも簡単に騙されるのか、の答えは簡単です。社会が健常な保守性を持たなくなってしまったから、としか言い様は無いわけです。教師といえども社会の一員であり、その雰囲気には当然の如く流されるだけです。そういう意味では教師にも我々、自然科学の研究に携わる者に対して言える面があるわけですよ、「あなた方が、社会が求めているときにきちんと『あれは嘘だ』と言わなかったからだ」ってね。

なんていうか、私はまだ考えているのですよ、「この社会の保守性の崩れは一過性のものなのだろうか、それとも歴史的必然として長期的なものなのだろうか」なんてね。残念な事に今のところ、私の考察は「長期的現象」という方向に傾きつつあります。そうだとすると、社会の「科学者なら偽物を見たとき直ぐに流行る前に『ニセ物だ』といえ」というのは、実は時代の必然性があることになります。我々の行動規範やシステムもその時代に対応して変わって行かなくては成らないのだろうと考えています。

投稿: 技術開発者 | 2008年10月21日 (火曜日) 午後 01時25分

>技術開発者さん

ご意見、ありがとうございます。

いや、技術開発者さんのお立場ではそれで好いのではないでしょうか。技術開発者さんのご主張については、何も批判的なことは申し上げてはおりません。一口にニセ科学批判と謂っても、論者によって問題意識の在り方は違います。問題となる領域をどの角度からどのようなやり方で切り取るのか、それは人それぞれズレがあって然るべきではないかと思います。

たとえば、

>>そういう意味では教師が、なぜああも簡単に騙されるのか、の答えは簡単です。社会が健常な保守性を持たなくなってしまったから、としか言い様は無いわけです。

この技術開発者さんのお答えより、もっとシンプルで普遍的な答えがあります。「人は騙すものであり、騙されるものだから」というのがそれです。しかし、これでは人が人を騙す行為を問題視する視点が成り立ちませんし、ニセ科学を相手取るのに適当な切り取り方でもないわけです。問題性それ自体が消失してしまうわけですから。

そして、こういう考え方に則る限り、技術開発者さんが仰るような、

>>「この社会の保守性の崩れは一過性のものなのだろうか、それとも歴史的必然として長期的なものなのだろうか」

というような問題性は見えてきません。なんだかんだ変遷はあっても人間は他人を騙すもんだし他人に騙されるもんだ、それは何をどうしようと、これまでもこれからも全然変わりはない、そう言い切ってしまえば、技術開発者さんがお考えのことは重要な問題ではないという言い方も出来ます。そして実際にそういうふうに空嘯く人は世の中に幾らでもいますよね。

オレはそういうふうに何でも「そういうもんだ」で片附けるやり方は、社会的な問題性に対峙する姿勢として妥当なものだとは思わない。ですから、技術開発者さんが抱えておられる問題意識は意義深いものだと考えるわけです。しかし、それは唯一無二の問題性へのアプローチではない。飽くまで技術開発者さんという個別の論者の拠って立つ個別の立ち位置だということです。

それ故に、技術開発者さんはご自身の問題意識の在り方に沿うように、問題との距離やその切り取り方を調節するわけですね。つまり、「社会が健常な保守性を持たなくなってしまったから」というのは、技術開発者さんがご自身の問題意識においてニセ科学を相手取るのに適した問題性の切り取り方だということです。そして、その問題意識の在り方は、当然オレを含めた他の論者とは必ずズレを持っています。

今回のエントリーにおいて、オレが最初に「技術開発者さんだけはオレの疑問に対する答えを持っておられないのは明らか」と述べたのは、おそらく技術開発者さんはご自身の問題意識に対して経験と知識に裏打ちされた強い信念をお持ちだろう、だからそうではない問題意識の在り方に対しては関心を持たれないだろう、その意味で、技術開発者さんの問題意識の延長上にはないオレの問題性の切り取り方にはまったく関心を持っておられないのは十分予想出来たし、技術開発者さんのご意見を拝読する限り、その予想の通りだったからですね。

そして、それはそれで、オレが技術開発者さんに対してオレの疑問への答えを要求していない以上、何の不都合もないわけです。

ただし、オレのコメンタリーに対して技術開発者さんがご自身の問題意識においてご意見をくださった以上、一見同一線上の問題意識において意見が対立しているという表面上の印象が発生するわけで、そのように視る第三者が出てくるかもしれない。それは不都合ですので、更めてこちらの問題性の切り取り方を提示させて戴いた、そういう成り行きだということです。

先ほど何故オレが「人は人を騙し騙されるものだ」という、何を言ったことにもならない喩えを持ち出したかと言うと、人間というのは自分が重視していない疑問に対して、幾らでも簡単な答えを用意してその論点を捨象することが出来る、ということが言いたかったのです。

オレの疑問に対する技術開発者さんのお答えは一段レイヤーが上のものですから、メタ的な観点からその疑問の重要性自体を否定したということになりますが、これはたとえば技術開発者さんのお考えに対して、「人は人を騙し騙されるものだ」と数段レイヤーが上位のメタ的な意見を加えて技術開発者さんの問題意識を捨象するのと同じことになります。

技術開発者さんが、「答えは簡単です」と仰ったことで何が表されたのかと言えば、技術開発者さんはその問題性の切り取り方に何ら関心を持っておられないし、ご自分の考察にとって何ら益する視点でもないから、その論点を捨象しておられるということだけなのですね。それさえはっきりすれば、このエントリーの目的は十分達せられたということです。

投稿: 黒猫亭 | 2008年10月21日 (火曜日) 午後 05時11分

こんにちは、黒猫亭さん。

おっしゃっている意味はよくわかるんですね。なんて言うか、私は将棋の「味が悪い」とそこから先の読みは捨てるという事を実際の自分の思考でも良くやっています。それはあくまで、私が捨てるだけの事であって、他の人に捨てろというものではありません。ただ限られた能力の中でできるだけ先を読もうとすると「枝切り」は必要に成ってしまう訳です。ついでに言うと将棋である手の数手先の盤面を描いて「味が悪いな」と評価する事自体も「暗黙知」の果たす役割が大きくて、なぜ味が悪い、つまりその先に勝ち筋が見えないかを説明出来るものでは無いわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008年10月21日 (火曜日) 午後 05時30分

>技術開発者さん

今日は仕事が休みでしたので、回転の速い対話になって申し訳ありませんが、そういうふうに仰って戴けると助かります。これで技術開発者さんが何を仰っているのか、第三者に対して誤解のないところが伝わると思いますので、オレのほうからこれ以上附け加えることはありません。

拙い議論にお附き合い戴きまして、有り難うございます。

投稿: 黒猫亭 | 2008年10月21日 (火曜日) 午後 05時48分

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