教育と嘘事
自慢ではないが、オレは人にものを教えるのが苦手である。
「教える」という以上、デフォルトの理解レベルにおいてそれは決して対等なコミュニケーションではない。理解レベルの劣る相手に、そのキャパシティーに合わせて物事を説明するということが苦手なのである。
どうしてもオレは、教えるべき情報を出来る限り詳しく具体的に正確な形で伝えようとしてしまうので、理解能力の劣る相手の場合、そのような情報はそもそも受容キャパシティーを超えているということになる。
これが、単に相手がその情報を識らないだけで、リテラシー的には対等以上である場合なら話は簡単である。オレの拙い説明でも、可能な限り情報が減衰したり劣化しないように努めることで、相手は説明の不備を補って理解してくれるからである。
であるから、リテラシーの低い大人が相手なら「なんでこんなこともわからない?」と苛立つことも出来るが、相手が子供の場合だと完全にお手上げである。そもそも知的能力や経験的実感において対等な相手ではないのだから、わからなくて当たり前だからである。今時の子供に勉強を教えられるほど物を識っているわけではないので、まあハナからオレに教えてくれと頼む奴もいないのが救いだが、少ない経験ながら子供に物を教えて上手く伝わったという記憶がない。
こういう枕を置いて何を語るのかと謂えば、タイトル通り「何故教育現場には虚偽が蔓延り易いのか」という問題である。
念の為に言い添えておくと、この問題性の立て方自体が乱暴であることは十分に自覚している。そもそも「教育現場に虚偽が蔓延り易い」という前提自体何ら根拠のない言明である(笑)。真面目に教育を考えておられる職業者の方からお叱りを受けても仕方がないだろうし、こういう言明は体感治安の問題と同様に単なる印象論でしかないことは事実だろう。であるから、実はこう特定して言い換えたほうが正確である。
「何故水伝の蔓延はまず教育現場から火が点いたのか」
これも「教育現場」と一般化しているが、要するにTOSSのような問題が何故発生するのかということである。ただ、今回のテーマに関しては、オレは教育学や教育問題にそれほど詳しくはないので、何分にも手持ちの考察材料は相当乏しい。遵って、かなりユルい考察である。その前提で、ちょっとした試論を語ってみようという趣向である。
たとえば以前リンクさせて戴いたFSM さんの「ほたるいかの書きつけ」でも、女性校長会問題の続報に絡めて、
私の狭い範囲の経験ですが、教師って、ウソを教えてはいけないということはとても強く思っているんですよね。
というふうに語られているが、何故「嘘を教えてはいけない」立場の職業者が易々と嘘そのものを教えてしまうのか、その辺のところを考えてみようということである。
冒頭で語ったように、理解レベルの劣る相手に物を教えるということは、当然ながら対等なコミュニケーションではない。であるから、教育というもの一般には通常のコミュニケーションスキルとは別のノウハウが必要になってくる。筋論としてはそうなるはずであり、教育学というのはそういうニーズに基づいた学問のはずである。
教育者ではないオレが最も間合いを取りにくいのは、子供の理解能力に合わせて期待される理解の程度を想定するということである。たとえば、小学三年生の子供に対してこれこれの事柄を教える場合、これこれこの程度に理解していればそれでよい、それ以上の事柄はこれこれこういう時期になってから更めて教えればよろしい、そういうふうに相手の理解レベルを設定して教えるのだろうから、年齢毎の子供の発達度のアベレージや一定のスパンにおける全体的な教育の体系を把握していなければ、子供に物を教えることは難しいはずである。
そこに何らカッチリした体系的なノウハウがなく、個々の教師の発意に一任されているのであれば、教育者というのは他の職種に比べて専門性の低い一般職にカテゴライズされる職業だということになるが、一応そんなはずはないと考えるべきだろう。子供に何かを教えるという行為は、大人に物を教えることと根本的に質の違うコミュニケーションであり、遵ってその為の専門性が要求されるはずなのである。
たとえばオレは一時期環境広報の仕事に携わっていたが、具体的な環境問題の知識なんか普通の人は識らないから、基礎から噛み砕いて説明する必要がある。それでも想定読者は大人なのだから、想定されるリテラシーを奈辺に設定するかというターゲット設定はそれほど難しい問題ではない。
オレと読者の間の相違は、それを識っているかいないかだけであって、文章読解のリテラシーそれ自体ではないからである。勿論、その範疇においても細かいリテラシーのグラデーションはあるが、それは大人の読解力というベースからの偏差でしかないから、根本的なコミュニケーションの質の違いというほどではない。何ら専門性を要求されずに妥当な推論が可能な事柄である。
しかし、これが子供相手ということになると、リテラシーの在り方が根本的に違うということになる。だから、大人に話すように子供に話すことは概ね効果的ではない。子供に対して大人の話をすると当然「よくわからない」という反応になるが、「よくわからない」ながらどの程度わかっているのかが問題になる。それはつまり、完全にはわからなくても、どの程度わかっていればよしとするのか、という問題でもある。
これを煎じ詰めれば、子供に物を教えるということは、子供にわかる意味内容を予め想定してそのように成形した情報を教えるということである。設定されたレベルの範囲内で理解していればそれで好いということである。これは、その理解度の設定が妥当であるのか、所期のレベルで理解しているかどうかをどのように判定するのか、そういう問題にも繋がってくるだろう。
それは「オレはこう思う」というオレ基準の価値観の問題ではなく、客観的な根拠に基づいて或る程度カッチリ体系立てられていなければ意味がない。それ故に、教師というのは、理想的に謂えば一種の専門職であるべきなのである。
以上の考察を踏まえて謂えば、教師が子供に教える情報は必ずオリジナルよりも劣化しているということになる。物事に関する情報というのは、客観的な根拠があって理路があって証明があって初めて真であると言い得るものである。しかしこれは知的・情緒的に成熟した大人の理解力が前提となるものであるから、子供に対してそのまま教えることは不可能である。それ故に、子供の理解力というものを前提にして、子供のキャパシティーに納まるように再構成した情報を教えるということになる。
まずそのような劣化した情報を教えておいて、子供のキャパシティーの拡張に応じてその劣化した情報を追々補完していくという形になるわけだから、そういう意味では当然ながら子供に複雑な情報を伝達することは出来ない。複雑な情報は、まず単純化して教えてから、子供の発達度に応じて詳細な細部を補完していくという形になる。
これはつまり、とくに初等教育においては、複雑な問題は中間項がスッポリ抜け落ちた形で子供に伝わるということになる。中間項が抜け落ちて至極単純化された結論が目的的に伝えられるわけである。ここまで語れば、言わんとするところの察しが附くだろうと思うが、中間項が抜け落ちて結論だけを伝えるという意味では、呪術やオカルトはとても重宝な喩え話として機能するということになる。
たとえば水伝で謂えば、「言葉を大事にしましょう」という至極単純化された結論さえ伝わるのであれば、何故大事にしなければならないのかという理路は一旦捨象されるのではないか。その理路がたとえ呪術紛いで問題含みの嘘事であったとしても、それはそれで問題とは見做されないのではないか。
それは、子供たちがもっと成長してからじっくり考えれば好いことだからである。況や言葉が現実に水に影響を与えるのかどうかなどは、かなりどうでも好い瑣事であるということになるだろう。それは子供達がもっと育ってから自然科学を学ぶ過程で批判し得る見識を身に着ければ好いことである。そういう意味で、水伝を採用した現場の教師たちは、水伝の内容が事実であるか虚構であるかには、殆ど関心を持たなかったのかもしれない。
水伝の場合、悪い言葉と良い言葉という対比があって、それが水という心のない物質に対しても物理的な影響を及ぼすという言説であり、それが写真という形で実感的にわかりやすく提示されている。これは、初等教育の実践においては非常に好都合であり、別段それで不都合はないと考えられているのではないだろうか。
初等教育の場合、たとえば児童に「正しい言葉を遣いましょう」「美しい言葉を遣いましょう」と呼び掛ける場合、何が正しい言葉で、何が美しい言葉なのか、また、何が間違った言葉で、何が汚い言葉なのか、これを同定するという作業が必要となるわけで、大人に対するように「言葉は文脈次第で意味が変わる」というデリケートな機微を教えようと思っても、そのような判断力はそもそも児童にはない。
であるから、予め概ね一般的に正しい意味を持つ言葉、美しい響きを持つ言葉というものを選別して、具体的にそれを推奨するという形にならざるを得ないだろう。要するにそれが「ありがとう」という言葉なわけで、逆に汚い言葉、悪い言葉は一般的に罵倒の言葉として遣われる「ばかやろう」という言葉となるわけである。
初等教育の段階では、とにかく具体的に指定された美しい言葉を遣い汚い言葉を避けるというトレーニングが必要とされるわけで、それが美しい言葉や汚い言葉である理由や場面によって意味合いが逆転することなどを教えるのは、もっと子供が成長してからの話と考えられる。一般的に美しい言葉・汚い言葉とされている言葉の弁別を覚えさせるということが、目的的に指向されるわけである。
また、水伝を道徳教育に用いる弊害もさまざまに論じられているが、そのような理路も一旦捨象して考える。とにかく、この場合に目的視されているのは、「言葉を大事にしましょう」という単純な意味内容を、間違いなく実感的且つ効果的に伝えることなのではないだろうか。
その意味では、とくに初等教育において用いられるレトリックというのは方便の塊のようなところがあるのではないか。さらに言えば、人間の教育は十数年の長期に亘るわけだから、特定の発達段階の子供を相手にする教育者は、その段階において設定されている目的性という限界を抱えている。初等教育に携わるものは中等教育や高等教育に関与することは出来ない。その逆もまた然りである。
であるならば、初等教育の教育者は、まず第一段階として想定されている事柄を教えることに特化して目的視し、そこに内在する倫理的な矛盾や理路の混濁を教えることは、もっと後の段階の教育が担当すべきことだと考えているのではないか。
つまり、初等教育の教育者は、悪い言い方をすれば、大人が考えるような意味で正しいことを子供たちに語らないという身振りに慣れてしまっているのではないか。つまり、子供向けの不完全な正しさで物事を語ることに鈍感になっているのではないか、このような疑いを抱き得るだろう。
これをもっと踏み込んで謂えば、子供相手の教育においては、何が嘘で何が嘘でないのかという境界が曖昧化しているのではないか、ということである。嘘という言葉を厳密に捉えるなら、中間項が抜け落ちて固定的な結論のみを伝える以上、子供に教えることはすべて嘘と明言しても差し支えないことになってしまうのではないか。逆に謂えば、子供向けの再構成され成形された情報を嘘と捉えないなら、大人が与える情報の何処からが嘘になるのかを明瞭に識別する客観的な基準が見失われてしまうのではないかと考えられるのである。
前述のTOSSというのは、現場の教育者たちが教育を実践する過程で子供たちに効果的に伝えるテクニックやアイディアを持ち寄って共有化しようという趣旨のものだそうで、オレも一度水伝関連の部分を目にしたことがあるが、授業のシミュレーションや想定問答集が多数掲げられていて、下世話に謂えば、教師の手の内が垣間見られて結構面白かった。
しかし、筋論的に考えれば戴けないような内容のものが殆どで、大人が普通に考えたら「その結論は正しいとしても、そこに至る筋道としてはおかしいだろう」というような内容のプレゼンテーションがかなり多いわけだが、これはもしかしたら現場の教育者の感覚では剰り抵抗がないのかもしれない。
我々大人は、結論だけが独立して正しくても、そこに至るプロセスに矛盾があったり飛躍があったり、またその対象に適用する妥当性に欠ければ、その言説は総体として正しくないと判断する。正しい結論というのは幾らでもどうにでも言えるものだが、正しい結論に繋がる正しいプロセスを準備することや、対象に対してその結論を適用することの妥当性という上位レベルの正しさを保障することこそが、その言説の総体的な正しさを決定すると考えている。
そのような手続が欠けたスタンドアローンの正論など、プロセスの検証に支持されていない不完全な正しさであり、妥当に適用すべき対象も欠いた遊離せる正しさだからである。大人同士のコミュニケーションにおいて、それは実質的には何の意味もない空疎な正論でしかないのである。
しかし、もしかしたら教育者が子供たちに語りかける場面では、その種の空疎な正論を語ることに何ら抵抗がないのかもしれない。そもそも初等教育の段階で子供たちに教えていること自体、対象から遊離した不完全な正論でしかない。それが何故正しいのか、どのような場合に正しくてどのような場合に正しくないのか、そのような複雑なことは教えない。まさしく中間項がスッポリ抜け落ちている結論を教えているわけである。
たとえば水伝の説話構造は、「何故美しい言葉・正しい言葉を遣わなければならないのか」という命題の根拠附けとしては完全に間違っているし、そこで語られている説話自体が事実ではない。さらに、それが事実であると主張することで偽りを陳べてすらいるわけである。そこが水伝を道徳教育に用いることの問題点として論じられているわけだが、もしかしたら現場の教育者レベルの感覚では、教えるべき意味内容を導き出すプロセスが出鱈目であり虚偽ですらあることなどは何ら問題と映らないのかもしれない。これはつまり、そもそもナマハゲに忌避感がないということである。
その意味内容を教える為に効果的な説明構造を具えていることだけがまず重要なのであり、結論を導き出すプロセスが間違っているとすれば、子供たちがもっと成長してから更めてそのプロセスの間違いを指摘して棄却すれば好いと考えているのではないか。そして、これは御伽噺やファンタジーをツールとして同様の内容を教えることと何ら変わりがないことと見做されているのではないか。御伽噺を例にとる場合も、それはもっと後の教育段階で虚構であることが明かされ、棄却されるわけであるから、差引勘定として教えるべき意味内容だけが残ると考えているのではないか。
勿論これは、現場の教育者に聞いてみなければわからないことである。教育者をマッスとして捉える総論なのだから、当然個々の教育者には異論もあることだろう。
ここで無用の議論コストを回避する為の予防線を張っておくなら、オレは屡々この種の考察、つまり何らかの対象を批判するという言説構造においては「敵」と見做される側の立場に立った考察を提示することが多いのだが、これが割合リスキーであることは認識している。
一定の割合でそのような考察に「そのような擁護では免責されない」「悪しき相対主義である」的なリアクションを返す論者が存在する。その都度オレは「擁護が目的の論考ではない」と釈明する羽目に陥るのだが、では何故屡々このような考察を提示するのかと謂えば、現代的な問題の多くは、対象となる個人の責任を糾弾し断罪し、責任者を裁くことでは解決しないと考えているからである。
一方では責任者の責任を明確化しその罪を問うことも重要な手続ではあるのだが、それは大抵の場合問題の解決には益しない。単に人は自らの言動の責任を自ら負うべきだからこそ、責任の在処を明確にし断罪することが必要とされるだけで、糾弾と断罪は問題の解決とは別次元の事柄だと考える。そして、オレが関心を持っているのは常に問題の解決であって責任者の断罪ではない。
その意味で、「何故そのようなことが起こるのか」に対する考察は問題の解決を前提とするなら必須の手順であると考える。この場合で謂えば、TOSSにかぶれて水伝を流布した教師を悪者視してその責任を追及するなら、そこで考察は終わりということになるが、では何故そのようなことが起こったのかは決して明らかにならない。
「現場の教師が愚かだった」「怠慢だった」として荷担した個々人の倫理を糾弾するというのは、そこで行き止まりの方向性である。そして、その認識は水伝が一世を風靡するほどに、かくも多くの教師たちが愚かで怠慢であったという、ちょっと信じ難い結論を要求する。個々人の愚かさや誠意に原因を求めるなら、相当多くの教師が断罪の対象になってしまうのだが、これは直観的に正しい認識であるとは認め難い。
もしも個々人の知力や誠意が原因だと仮定しても、それがこれだけ多くのマッスを形成する以上、断罪や糾弾のロジックではなく、構造的な問題性として捉える視点もまた必要なのではないかと思う。「何故嘘を教えてはならない教師たちがかくも易々と嘘を教えることになったのか」という問題性の捉え方はこのような動機に基づくものである。
また一方では、このような考察が、当事者である教師たちから視て悪意的な忖度であるというふうに受け取られるおそれもあるだろう。つまり、このような考察は批判者からも批判される側からも噛み付かれるおそれがあるわけで(笑)、教師たる者なら、大多数の人々は持てる限りの知恵を凝らし、誠意を持って教育に当たっている、そのような反論を戴くことは自然だろうと思う。
しかし、では何故水伝という明らかな虚偽が教育現場から社会に浸透したのか、ここを考えない限り、教育における水伝の問題は解決しないのではないか、それどころか何が解決と見做し得るのかという地平にすら到達しないのではないか、そのように危惧する次第である。
もとよりこれは門外漢が大した知識も情報もなく机上で考えたユルい考察なのだし、そのことは冒頭でもお断りしたのだから、たとえば本職の教育者の方からのご反論やご意見は是非頂戴したいと思う。その上で、何故このようなことが起こったのか、その考察に対する有益な示唆やご指導も戴ければさらに幸いである。
試論であると断った以上、オレはこの論考それ自体に固執はしない。「何故起こったのか」という真相に迫ることが出来ればそれで好いのであるし、その理解を踏まえて何らかの提言に繋げることが出来れば尚良しというところである。
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コメント
こんにちは。
おっしゃるように、現場の教員の方に、ご意見をうかがってみたいですね。
>初等教育の教育者は、悪い言い方をすれば、大人が考えるような意味で正しいことを子供たちに語らないという身振りに慣れてしまっているのではないか
教職経験はありませんが、ある程度、そうしたことはありそうに思います。というのは、数年前、教育内容の厳選にからんで「小学校で地動説を教えない」という報道があったときに、むしろ「ある学年までは天動説で教えている」というようなことをおっしゃった教員がいたからです。
何年生のことだったか記憶にないのですが、まず現象の観察を重視するということを前提にすると、そうならざるを得ないというようなことでした。
もちろん、実際には天動説と言っても「お日様は東からのぼって西に沈むね」という程度のことで、厳密に言うと「そのように見える」ということを、まず観察を通して確かめさせるということであって、天動説を教えているわけではありません。
ここには2つの特徴があって、学校でそのように扱うということと、それを「天動説で教える」とオトナにも説明してしまうということ(後者は「わからせる技術」「わかりやすく説明する技術」というのは、そういう危うさを常にもっている、という話でもあります)。
>その意味内容を教える為に効果的な説明構造を具えていることだけがまず重要
イコールな話ではないのですが、裏付けるかもしれない談話を一例聞いています。その、小2に水伝授業をやっちゃった先生は、「だけ」とまでは考えていませんでしたけれども、かなり近いことを言いました。教材としてのインパクトがあり、また、自分自身がその写真の美しさに感動した、そここそが最大のポイントだった、というようなことです。
当時、きくちくんにこのインタビュー内容を伝えたときには、「ビジュアルにやられた」という言い方をしていたのですが,わかりやすいビジュアルを備えているため、小2向けの教材にしやすかったということが、かなり大きな魅力だったようです。
投稿: 亀@渋研X | 2008年10月 4日 (土曜日) 午後 11時33分
>亀@渋研Xさん
>>というのは、数年前、教育内容の厳選にからんで「小学校で地動説を教えない」という報道があったときに、むしろ「ある学年までは天動説で教えている」というようなことをおっしゃった教員がいたからです。
大変興味深い談話ですね。これは要するに、或る学年までは古代の天文学同様に地上に視点を据えた「見た目」の天体の動きを教えるということで、子供の理解力や基礎的な学習の進展に沿って、地上視点の「見た目」を中心に据えた認識に対して「実は地球のほうが動いているからそう見えるんだよ」というふうに補足するということですね。
ですから、その段階では、地上からの「見た目」の天文学ではカバー出来ない周差や歳差という問題性の存在は教えないわけで、天動説的な認識でカバー出来る範囲の知識しか教えないということになります。これは、この段階だけ取り出して判断するなら、やはり不完全で不正確な知識ということになりますよね。
しかし、やがて順を追って後に地動説以後の知識を教えていくという前提で謂えば、この段階ではこのような教え方しか出来ないということになります。それ故に、学校教育の内容というのは、各段階で個別に切り出して考えるのではなく、或る程度全体的な体系を考える必要があるということになるんではないかと思います。
この話を伺って、もやもやと考えていたことが形になったような気がするんですが、それというのはつまり、教育というのは学問の史的な進展に沿ってカリキュラムが組まれているのではないか、ということです。
人間の学問や社会活動というのは、古代の単純明快な段階から時代が下るに連れて次第に複雑難解化していくわけで、それはつまり、先人の遺した実績に対して批判や修整を加えながら知を追加し蓄積していく形で学問が進歩していくからですが、それは一人の人間の知的発育のプロセスとも近似しているわけで、それ故に一般的な教育の体系は学問の歴史をなぞるような形で構成されていると思うんです。
ここで「個体発生は系統発生を繰り返す」と謂うのもちょっと喩えとして妥当かどうかはわかりませんが、概ね教育というのは学問の史的な進展のプロセスを繰り返すようなところがあるわけで、そういう観点から亀さんの挙げられた「天動説」のお話を考えるなら、或る学年までは天動説の時代までの知識を教えるわけで、さらに学年が上がることでコペルニクス的転換のプロセスを迎えて地動説の段階に移行する、というふうに視ることが出来るでしょう。
ですから、当然学校のカリキュラムで地動説を教えないということになれば、それまでに教えられた天文学の知識は天動説の時代までのものなのですから、そこから学問の歴史がアップデートされないままに教育を終えるということになります。その教員の方が「天動説で教えている」と仰ったのは、大略そういう意味だろうと思います。
これはやはりまずいことじゃないかと思います。学校で天動説的な段階の知識を教えるのは、それがやがて地動説によってアップデートされることが前提になるからで、地動説を教えないというのなら、精々ルネッサンス期までのレベルの天文学的知識しか持たない現代人が出来上がるということになります。で、天動説的段階の知識が地動説的段階の知識によってアップデートされるというプロセスは、現今の科学的常識から考えるとマストであって選択の余地のあることではないはずですよね。
世界の物理的実体がどのように在るかという事柄は、人間同士の間の事柄のように人それぞれ真実が異なるわけではありませんから、少なくとも現時点で人間が識っている最新の知識が真であるということになります。その前段階までの知識は不完全であるということになりますから、何処かで適当に恣意的な基準で区切ってその段階までの知識でOKというわけにはいかないはずですよね。
「いや、人それぞれルネッサンス期のレベルに留まるか現代のレベルに進むのか、選択する権利がある」というのは、かなり教育や自由というものを履き違えた意見ということになるでしょう。天動説というのはその時代の科学の限界だったわけで、その時代の人々は誠実な知的探求の結果としてそれを信じていたわけですし、地動説が登場した後はそれを受け容れることが知的な誠実性というものでしょう。
地動説が登場し天動説の誤りが実証された後も天動説に固執するのは、それは要するに知的不誠実というもので、教育というものの本質を考えるなら、知的不誠実を児童の選択肢の一つとして与えるということは在り得ない話だと思います。
ではこれが水伝授業とどう関係してくるのかと謂うと、
>>教材としてのインパクトがあり、また、自分自身がその写真の美しさに感動した、そここそが最大のポイントだった、というようなことです。
つまり、この方は水伝という説話における理路の検証はさほど重要ではなく、結論をどのように実感的且つ効果的にプレゼンテーションし得るのか、という部分にのみ注目していたということになるかと思います。
これはつまり、変な喩えですが、水伝の理路というのは児童教育において「詰め物」の役割を果たすということじゃないかと思うんです。
低年齢の児童に「美しい言葉を遣いましょう」というトレーニングを施す必要はたしかにあるんですよ。子供と謂うのは抛っておけば「うんこ」とか「おなら」とか「ちんちん」というような下品な言葉が大好きで、一言「うんこ」と口にするだけで五分くらい笑い転げていられるようなところがありますから、そういう下品な言葉を遣わないようにするトレーニングは必要なんですね。
先日TVを観ていたら、未修学くらいの年齢の子供が普通に「ブタ野郎」とか言っていて、これはにしおかすみこのギャグで覚えたんでしょうけど、大人の感覚からすると、いきなり子供が「ブタ野郎」とか言うとぎょっとしますよね。そういう言葉を遣わせず丁寧な言葉遣いを心懸けさせる、これは家庭の躾けの領分でもありますが、やはり「教える」という意味では学校が担うべき教育内容の一つではあるわけです。
しかし、何故そうしなければならないのか、何が美しい言葉なのか、その理路を本当の意味でそのまま児童に伝えることは難しい、というか、子供のアベレージのキャパで考えるとほぼ不可能に近い。しかし、子供と雖も或る結論を強制され楽しいことを禁じられるのであれば、「何故そうしなければならないのか」という納得がなければ簡単には盲従出来ないと思うのですね。
この場合、そうしなければならない理由というのはちゃんとあるんです。しかし、子供に対しては極単純化した形でしか教えられないということになりますから、子供相手でさえ説得力に欠ける空疎で不完全なロジックにならざるを得ない。この場合、目的視されているのは、「何故そうしなければならないのか」の理路を教えることではなく、結論を納得して受け容れさせることそのものなんだと思うんですね。
ですから、現実的なテクニックとして子供が納得するような当座凌ぎの理由附けを施すという選択肢も在り得るのでしょう。これは、本来プロセスが在って結論がなければならない命題の、単純化した結論だけを受け容れさせる為に、抜け落ちている中間のプロセスの代替と成り得るものを一時的に措定する、つまり結論を支える為の「詰め物」を入れるということなんではないかと思います。
それによってその結論が子供に受け容れられ、トレーニングが定着したと考えられる段階になり、子供たちがやや複雑なことを考えられるようになれば、その詰め物を抜去して段階的に正しいプロセスを代入していき、「人間は美しい言葉を遣うべきである」という命題を完全で正確なものにする、おそらくそういうアップデートの段取りが想定されていたのではないかと思います。
そこで外部の視る目と教育者たちの物の見方に乖離が生じるわけで、善意に解釈すれば水伝授業を採用した教師たちの多くは、水伝の説話をそのまま子供たちに教育しているつもりはなかったんではないかと思うんですね。目的視されているのは、汚い言葉を禁じ美しい言葉を奨励するというトレーニングそれ自体で、水伝の説話内容が正しかろうが間違っていようが、それがどの程度の効果を持っているかという観点でしか視ていなかったのではないかと思うんです。
それは、外部から視れば「子供たちに嘘を教えている」「呪術を教えている」ということに他ならないわけで、道徳教育として考えても完全に理路が間違っているのですからお話にならない愚行としか見えないわけですね。しかし、現場の教師の感覚からすれば水伝が嘘だろうが呪術だろうが理路が間違っていようが、それは重要な問題ではなく、或る特定の実際的なトレーニングにとって有効か否かという視点だった、そういう考え方も出来るんではないかと思います。
勿論、水伝授業というのは現場の個々の教育者の発意になるボトムアップ型のムーブメントですから、すべての教師がそう考えていたというふうに一律に語ることは出来ないわけで、水伝をすっかり真に受けて「とても良い話」として子供たちに教えていた教師も大勢いるのではないかと思います。
また、現場の教師たちがどう考えていようと、やはり水伝を学校教育に用いることには大きな問題が山ほどあることは事実です。人文科学サイドからの批判では、そのような教育的問題を提起した優れた言説がたくさんありますよね。現場の教師たちの意図がどうあれ、そのような批判は考慮に値すべき識見ですし、実際にそのような問題性が潜在することは紛れもない事実です。
オレのほうでも幾つか問題点を挙げさせて戴いたこともありますが、これはつまり、水伝というのは現場の教師たちがもしかしてそう考えていたような無害な詰め物としては不適当で、トレーニングそれ自体の意義を無効化しかねないような毒性を秘めているという指摘に当たるのかもしれません。子供たちの理解力が進歩して、いざ詰め物を抜去して正しい理路を代入しようとしても、詰め物の毒性が無視出来ない害悪をもたらしている可能性がある、そういう話になるんじゃないかと思います。
では、教師たちの「つもり」や意図を忖度することに何の意味があるのか、という疑問も当然出てくるでしょうが、オレが思うに、それは水伝批判の言論はいずれ当事者である教師たちと対話する必要があるからだと思います。何度も繰り返しますが、糾弾して断罪するのは責任関係の論理であって、問題解決の論理ではありません。責任関係と問題性が密接に関連している問題ならば、糾弾や断罪で解決がもたらされますが、現代的な問題性の多くはそうではない。
水伝授業の問題もまた、現場の教師たちを裁いて責任を追及すれば、また妥当に罰すれば問題が解決するのかと言えば、そうではないと思うんです。水伝授業のような愚行に対して教育者がその全体として取り得る責任の在り方というのは、教育によってニセ科学の社会的蔓延を抑止し、その犠牲者の低減に努めるということだと思うんですね。
poohさん辺りとよく話しているコモンセンスの問題というのは、やはり教育が果たす役割がかなり大きいと思うんです。人間の常識というのは、人間の本然に逆らう部分が多分にありますから、教育がなければやはり育たないものだろうと思います。そして、ニセ科学の社会的蔓延に対して、最終的には人々が全体的に一定の常識を持つということしか解決の道がないのであれば、教育者の果たす役割は大きなもののはずなんです。
その教育者が率先してニセ科学の蔓延に荷担したという意味で、水伝問題はかなり深刻な脅威と言えるわけですが、それはきくちさんのところや亀さん、poohさんのところでも話題になっている「善意」の問題と絡んでくると思うんですね。悪意を持って水伝授業を行った教師というのは多分いないのであって、やはり善意を動機として普通より教育熱心な教師が引っ懸かったのだろうと考えられるわけです。
で、そちらでも論じておられるように、善意が動機なら何をしても好いということにはならないわけですし、「美しい言葉を遣いましょう」というトレーニングを施すなら何もニセ科学や呪術に頼る絶対的な必要はないわけで、むしろその種の社会悪を積極的に忌避し、子供たちの批判精神を涵養していく、そういう役割を教師に期待するということになるんじゃないかと思います。
そういう意味で、児童教育、就中初等教育の現場の人間を敵視したり糾弾してもニセ科学批判の言論には何も益するところがないわけで、むしろ教育関係者の中にニセ科学批判の言論を浸透させていく、ニセ科学のような非合理に対抗し得るような健全な批判精神を定着させることが重要な教育の目的の一つである、という意識を啓発していくことが必要となってくると思います。
そして、他者を裁く、糾弾するという論理においては、相手の身になって考えない、相手のロジックを否定する、そういう手続が必要になりますが、対話においてはそうではないわけで、逆に相手とロジックを共有し共通の前提に立った上で批判し提言する手続が必要になってくると思うんですね。
そういう意味で、現場の教師が何を考えて水伝を授業に採り入れたのか、そこを考えずに外部のロジックで結果責任ばかりを追及していても話はすれ違うのだろうし、穣りのある対話は成立しないと思うんです。相手のロジックに則った上で、やはり水伝授業はこれこれこのような危険性がある、問題性がある、であるから、教育現場では形ばかりでも水伝を肯定的に扱うべきではない。むしろ、そういう社会悪とも言えるような詐術的な言説の蔓延に対して教育に何が出来るのか、それを考えて欲しい、そういう形で対話を持つべき段階に来ているのではないかと思うんですよ。
たとえばhietaro さんやFSM さんのところで女性校長会問題の続報が語られていて、それに対してオレは、今回の件を奇貨として個々の教師の指導方針に対して影響力の強い校長先生の組織と対話が可能になれば、教育現場から水伝の脅威を一掃することが可能になるのではないか、さらにはニセ科学批判の言説を紹介することで目的的に子供たちのリテラシーを底上げするムーブメントが形成出来るのではないか、そこまで先走ったことを夢想してしまったわけですが(笑)、いずれにせよニセ科学批判は最終的には教育の問題に関わっていかざるを得ないだろうと考えています。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月 5日 (日曜日) 午前 04時13分
>現場の教師が何を考えて水伝を授業に採り入れたのか、そこを考えずに外部のロジックで結果責任ばかりを追及していても話はすれ違う
そういう側面はあると思います。善意や熱意を明示的に認めてプラスに評価した上でないと、警戒されかねないということとも関連しますが、一方通行にしないためには聞く姿勢が欠かせないだろうとも思います。
先のコメントでは端折ってしまいましたが、この水伝先生だって「教材として使いやすいか」だけではなくて、内容も評価検討してるんです。結論とか目的、効果だけじゃなくて、「こういう授業をやってもだいじょうぶか」というような意味でですね。
で、件の水伝先生は「本当にそういう現象が起きるのかという点では、正直言って半信半疑だった」にもかかわらず、「こうして本になって売っている」ということと、「先行する実践例がたくさんある」ということでだいじょうぶと判断したわけです。
たった一例ですが、「現場の教師が何を考えて水伝を授業に採り入れたのか」のサンプルとして、ちょっと情報を追加してみました。
また、このときの水伝授業は道徳の地区公開授業だったかという研究授業形式のもので、いろいろな方が見ているのですが、事後に寄せられた感想は、ぼくを除くと「小2には難しいのではないか」というものだけだったそうです。この「小2には難しい」という指摘は、黒猫亭さんの指摘と符合するようでもあり改めて興味深いとも思います。確かに「この学年に、こういう内容で受け止めきれるか」というような視点が、常に(ではないかもしれませんが)あるということですね。
ところで。本筋ではないのですが。
>個々の教師の指導方針に対して影響力の強い
これはどうなんだろうなあ。ぼくの知る限り、小学校では学級経営は(問題が起きていない限り)担任の専任事項です。授業内容ややり方についても、「成果が上がっていないよ」といった指摘はあるかもしれませんが、上級職が具体的な内容まで口を出すことは考えにくいです。「担任は教室の王様」みたいなことをいわれることもあります。初任者指導などの例外はありますが。
この点、中学校も同じかもしれません。
また、中学校は教科担任制ということもあって、校長や副校長(教等)は自分の専門の教科以外については口を出さないのが通例のようです。道徳は教科ではないですし、近年は「心の教育」がやかましく言われることもあって、学年で共同で指導案をつくることも多いように見受けられます。いわば、担任まかせではなくなってきている。でも、上級職はせいぜい学年主任ぐらいまでしか関わらない(東京都で言うと、たまたま主幹[近年新設された中間管理職]が入っているといったことはあるかもしれません)。
いずれにしても、校長が直接的に指導力を発揮するということは考えにくいんじゃないでしょうか。ただ、全教職員や全保護者、全校児童・生徒、地域に対して話をする機会は多い。そこで、どういうふうにこうした話題を採り上げるかは問われると思いますし、教員に対しては問題提起をすることはできる立場だとも思います(もっとも、校長が何を言っても「これ以上、あれこれ考えろ、やれって言われても無理だよ」という現場教員の悲鳴が聞こえるような気もしますが)。
投稿: 亀@渋研X | 2008年10月 5日 (日曜日) 午後 01時58分
こんにちは。
小学校ではありませんが、現役の教師として、まずは手短に書きます。
「なぜ水伝授業は学校に受け入れられたのか」を考える際に忘れてはいけないことは、初発の動機は理屈ではないだろうこと、だと思います。
「子どもたちの使う言葉が汚い」「子どもたちの言葉遣いを何とかしなくてはいけない」という認識または情緒が、動機なのだと私は考えます。
そこには、「理論的にどういう言葉がどう汚いか」という話が介在する場所はありません。「汚い言葉は例えばあれとこれ」という「事例」と、それに対する教員の「感覚」があるだけです。
だから、その部分を理詰めで追っていっても、すれ違いになる可能性が高いと思います。
また、
>「こういう授業をやってもだいじょうぶか」
というのは非常に大きなポイントです。
「道徳」や「総合的な学習」の授業では、正直何をやったらよいのかわからなくて困っている教員と学校が多数存在します。
そんなときに他の学校で実施してうまく行った授業、というのは、非常に魅力的に思える情報です。
また、TOSSの情報が利用されるのも、「大丈夫な授業」を向山先生がお墨付きをつけて示してくれるものですから、使いやすいわけです。
毎日の仕事に追われている上に、「創意工夫を凝らした授業」を要求される「道徳」や「総合的な学習」は、かなりの負担増を教員に強制しています。
などという物言いは、前の国土交通大臣が忌み嫌う「日教組」も使っているのですが、間違いのない事実でもあります。
その負担を軽減した上に、(一見)道徳的に正しいことを教えることができる授業、というのは、強い誘引力をいまも持ち続けているのでしょう。
投稿: 憂鬱亭 | 2008年10月 5日 (日曜日) 午後 04時59分
>亀@渋研Xさん
どうもです。オレは子供もいませんし、教育学について詳しいわけでもないし、教育現場と何らかの接点があるわけでもないので、いつもよりちょっと及び腰で上げたエントリーだったので、いろいろ具体的な情報を戴けて有り難い限りです。
>>先のコメントでは端折ってしまいましたが、この水伝先生だって「教材として使いやすいか」だけではなくて、内容も評価検討してるんです。結論とか目的、効果だけじゃなくて、「こういう授業をやってもだいじょうぶか」というような意味でですね。
なるほど、そういう意味では「プレゼンテーション効果『だけ』にしか関心がない」ということを剰り強調するのも得策ではないかもしれませんね。勿論、現場の教員の方々は親御さんから子供たちを預かっているのだということを意識させられる機会も多いでしょうし、教育内容の安全性には常に慎重に配慮しているとは思います。
とにかく今回のエントリーでは、水伝授業を行った教員の善意や誠意を疑わないというのが大前提ですから、安全性への配慮が一切なかったと取られかねない表現は自重すべきだろうと思います。
ただ、水伝の危険性というのは、「こういう授業をやってもだいじょうぶか」的な観点では思い至らない部分があるのかもしれないとは思います。水伝授業に対して教育的な観点から批判を加えている論者の方々のご意見は、おおむね道徳教育としての筋論から出発していますよね。で、今回申し上げたような事柄(子供たちに本当のことを語らないという身振りの問題)は、現場の教員が教育を実践する場面での実態論の範疇の事柄だと思うんです。
おそらく亀さんのお話の教員の方も、現場で子供たちに直面しておられる職業者ですから、「こういう授業をやってもだいじょうぶか」というのは非常に実態論的・実践論的な観点でお考えになったんではないかと思うんです。
>>で、件の水伝先生は「本当にそういう現象が起きるのかという点では、正直言って半信半疑だった」にもかかわらず、「こうして本になって売っている」ということと、「先行する実践例がたくさんある」ということでだいじょうぶと判断したわけです。
これは筋論的な検証のアプローチではないですよね。書籍として売られている以上一定の見識の編集者の検証を通過し、社会的にも広く認知されている言説である、それ故に言説それ自体にさほどの反社会性はないだろう。そして、先行して多くの同業者が実践していて、大概の場合非常に良い教育効果の感触を得ている、これは経験共有的な効果の保障ということになります。
しかし、これは筋論的に考えるなら何の保障にもならないわけで、そもそも水伝というのはほぼ江本氏の自費出版ですから、何ら上位のチェック機構を通過しているわけでもないですし、本が売れているということが内容の妥当性を担保するものではないということは、さまざまなニセ科学関連の書籍の例で実証済みですね。
また、先行する実践例での好感触も、たとえばその授業の悪影響が速効的に表面化するものではなく、或る程度潜伏するような長期的なものであるのなら、短期的且つ表面的な成果だけで視ても可否の判断は出来ないはずです。そういう意味で、その教員の方の検討というのは、やはり表面的なプレゼンテーション効果というものに大きく評価軸を置いていて、その範囲内での評価検討だったと言えるでしょうし、「やってみて不都合はないか」的な、実施を前提としたバイアス含みの検討だったと言えるでしょう。
ただ、このように申し上げたからと言って、その教員の方のご意見に今更直接反論しているわけではなく、これは教員という立場の方の考え方の一つの傾向を示しているのではないかというふうに思うんですね。
前述の通り、多くの論者の方々が指摘されている水伝授業の現実的弊害は、筋論的なアプローチに基づく結論です。そういう弊害が現実に顕れているという指摘ではなくて、条理の筋道に則って影響を考えるなら、そのような問題性が生起する大きな可能性があるという指摘です。今は表面化していないけれど、やがていずれ問題として浮上するのではないかという推論を語っているわけですね。そして、その推論には強い説得力があるわけです。
たとえば、ご飯を炊いて保存する実験で、ヒトラーやキリストという有名人ではなくクラスメートの名前を貼ったらどうなるのか、その結果がどのような悪影響を及ぼすのかという批判は、おそらく実態論としても強い説得力と妥当性を持っています。これは教員の実践の具体を識らない外部の論者が、純粋に筋論で検証して考えた可能性ですが、水伝授業を実施された現場の教員の方々には、この種の筋論的な検証の視点が欠けていたとは言えるわけです。
たとえば、前述のように水伝は江本氏の自費出版で何ら上位のチェック機構を通過した言説ではないという話も、限られた調査手段しか持たないし、ネットにそれほど親しむ時間もない教師たちが、そのことを識るのは割合難しいでしょう。しかし、そもそも本になっているからと謂ってその内容が信用出来るとは限らないというのは筋論であり、実態的な妥当性を持つ認識でもあります。
もっと謂えば、水伝のようにファンタジーに擬態した口当たりの良い言説ではなく、そのものズバリの波動説絡みの神懸かりでエモーショナルな江本氏の著作も、水伝以前に大手の出版社から幾らでも刊行されているわけです。そういう意味で、本になっているから大丈夫、という考え方は、実は言説の内容が信用出来るという意味ではなくて、本の形になっている以上、多くの人々がその内容を受け容れているのだろうという意味に限りなく近くなってくるわけです。
これはつまり、世間でイカガワシイ妄説として扱われている言説を教育で採り上げるのは現実的な意味でまずいけれど、一定の社会的認知が為されている言説なら、内容の如何にかかわらず不都合ではないという判断基準だったと考えられるわけです。亀さんが仰ったように、ご本人の内容についての判断は「正直言って半信半疑」だったわけですから、それはいずれ後のプロセスで棄却される空疎な詰め物として考えられていたということでしょうね。
そして、現場の教師たちのそのような判断基準に対して、前述のような教育的観点における批判が在り得て、それが一定の実態論的説得力を持つ以上、教員視点の実践主義的な観点一辺倒では、実態論的な問題性すら剔抉することは出来ないということになるのだと思います。
その一方で、筋論的批判の言説が教員視点の実践論を踏まえていないのであれば、教員視点ではその批判は無理解なものと感じられるわけですし、初等教育の専門性の観点から視て見当外れの批判にも繋がるでしょう。現実的に考えると、児童には常に本当のことばかりを説明するわけにはいかない局面というのがたしかにあるんだと思うんです。詰め物と表現したような方便が必要な局面がたしかにあるんだと思います。
たとえば、亀さんのところのエントリーで挙げられていた「何故人を殺してはいけないのか」という疑問に対する答えは、実は知的・情緒的に未成熟な相手に対して説得力を持って説明することは難しいわけで、おそらく今現在初等教育で語られているような殺人に対する倫理的な理由附けというのは、大人の観点で謂えばすべて嘘だと断言して差し支えないのではないかと思います。
殺人禁忌の話を始めると長くなるので、もしかしたらそちらにコメントさせて戴くことになるかもしれませんが、さまざまな局面を考え合わせると、未成熟な相手に対して何かを教えようとする場合には、それより重要性の劣る事柄に関して虚偽や虚構を語るべき実際的な必要性、伝えるべき意味内容の取捨選択というのがどうしても出て来ると思いますし、その判断の妥当性を巡る議論は常に附き纏うのだと思います。
そういう意味で、実は教育的観点の批判と現場の教員視点の実践論的な感覚とは、現状ではうまく噛み合っていない部分があるのではないかという危惧を抱いていて、それに対する問題意識もいろいろな方が言及されていますよね。「何故本筋の教育学の方面からの批判や言及がないのか」という苛立ちもその一つでしょうし、オレが今更指摘するまでもなく、現場の教育者との対話というのも多くの方が必要性を感じておられるのだと思います。
>>これはどうなんだろうなあ。ぼくの知る限り、小学校では学級経営は(問題が起きていない限り)担任の専任事項です。
少し表現が強すぎたかもしれませんが、オレも概ね亀さんが仰ったようなことを想定してそのように申しました。虚構性の強い学園ドラマのように、校長先生が学園の専制君主として個々の教員に強制力を持っていて、具体的な教育方針全般を決定しているという意味ではなく、まさしく亀さんが仰ったような、
>>ただ、全教職員や全保護者、全校児童・生徒、地域に対して話をする機会は多い。
そこなんですね。校長先生というのは、上級管理職ですから各方面の対象に対して部分ではなく全体に対して情報を与え得る立場にあり、その言葉に説得力があればかなり効率的に集団全体に動機附けを施すことが出来ますし、それは十分強い影響力と謂えるのではないかという観点でそのように表現させて戴いたわけです。
それというのも、たとえば我々がネットでニセ科学批判の言説を語っているのは、別段ネットワーカー同士の対話や親睦や大同団結が直接目的ではなくて、ROMのような不特定多数の読み手に対して有益な情報が効果的に伝播することを第一義的に目的視していると思うんです。で、たとえば今回のように教員のマッスに呼び掛けるとして、現実的な意味で個々の教職員が私生活でネットを渉猟していてニセ科学批判の言説に強い関心を持って注視しているという事例など、ほんの数えるほどでしかないと思うんです。
そういう意味で、ニセ科学批判のネット言説は、少なくとも教育現場に対して浸透するチャネルをそれほど持っていないわけで、前述の通りニセ科学批判の論者の多くはその現状に苛立ちを持っています。
一方、教員視点で物を考えるなら、たとえばFSM さんや亀さんが仰っているように、現場の教員がニセ科学批判に関心を持っていないとしたら、それは情報に接するチャネルがないからで、水伝に引っ懸かる教員というのは概ねそんなものに無関心な教員よりは授業の効果を上げたいと望むだけ熱心で善意を持った相手だと思いますから、問題性の存在を識ったら積極的に動く階層の人々だと思うんですね。
しかし、たとえば現在のネット言論の限界として、ネットに親和性のない階層に対する伝播効率が窮めて悪いわけで、教育現場に対してニセ科学批判の言論を届かせようと思うなら、教職員より生活背景のバラエティに富む親御さんの見識に期待するという形になっていると思うんです。
で、この情報の伝播の効率性というものを考えるなら、或る特定の教師というのは、自身の担当教科や担任のクラスに対してしか影響力を持っていないわけで、さらに一人ひとりの親御さんとなると、一クラスの一人の児童の親という立場で、しかも保護者全体の数十分の一の発言力でしかないわけです。これは教育現場における水伝の蔓延という全体的な問題性に対抗する勢力としては圧倒的に影響力が弱いと謂わざるを得ません。
おそらく保護者同士の間でも、水伝について「ええ話やないかい」という反応もあるでしょうし、親御さん全体が一致して水伝を批判する形にはなりにくいでしょう。そうすると、それが担任教師に伝わる段階ですらすでに両論併記という形になるわけですから水伝授業の脅威に対する手当としてはイマイチ弱いと謂えますよね。おそらくそれでもそれなりに問題意識を伝えることは出来ると思いますが、とにかく効率が圧倒的に悪いことはたしかです。
対するに、たとえば女性に限定されるとはいえ、一校の校長先生というのは、全職員や全保護者、全児童に向けて学校を代表して発言し得る立場にあるわけです。そういう意味で、校長先生という立場の方々に組織的に水伝やニセ科学の問題性を認知させることが出来れば、情報の伝播という意味で比較にならないくらい強い影響力を期待出来ると思うんですよ。
たとえば水伝授業を試みてみようと思い立たれるような熱心な教員、こういう存在を仮定するなら、ニセ科学に代表されるような非合理に対する社会の抵抗力の低さやその弊害という問題性の存在を識らしめることが出来れば、それはその教員個人が抱える教育上の大きな問題意識の一つになりますし、それを効果的な実践に繋げるのは、ネット言説の力ではなく教員個々人の信念の力ということになるでしょう。
それが大きな問題性であることを識らないから、「美しい言葉を遣うようにトレーニングしよう」という目的の為に、それよりもっと大きな問題性を侵犯してしまうわけで、教育現場の抱える諸問題に関しては、まず問題性の存在を識らしめるというアクションが大きな効果を持つと思うんですね。
別段校長先生が何らかの「権力」を揮わなくても、田崎先生のコンテンツや亀さんの労作などの刷り出しをレジュメとして全教員に廻せば、疲弊したサラリーマン教師はともかく、授業に工夫を凝らすような熱心な教育者なら必ず感じるところがあるはずです。
それは今回の考察の「教員の善意や熱意を疑わない」という大前提と大きな関連を持つ認識でして、そのような善意や熱意を基本的に信用し、そこから生まれる発意に大いに期待するということなんですよ。で、そのように考えるなら、情報チャネルとして校長先生という上級管理職の持つ影響力は大きいだろう、一旦重要な問題性として個々の教員に認識が根付けば、必ず大きな効果を持つのではないか、そのような意味で申し上げたことでした。
そもそも、ニセ科学に対抗し得るような常識を涵養するような教育が、トップダウンのお仕着せのカリキュラムを工夫して何とかなるとは思えませんし、教育に何某かの期待を掛けるなら、ここはやっぱりシステムではなく人の力に期待すべきところなんではないかな、と思います。ニセ科学にどう対峙するのか、というのは、小手先の知識というより、非常に全人的な観点の教育の問題ではないかな、と思いますので。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月 5日 (日曜日) 午後 07時01分
>憂鬱亭さん
>>「道徳」や「総合的な学習」の授業では、正直何をやったらよいのかわからなくて困っている教員と学校が多数存在します。
>>毎日の仕事に追われている上に、「創意工夫を凝らした授業」を要求される「道徳」や「総合的な学習」は、かなりの負担増を教員に強制しています。
なるほど、そういう事情もあるのですね。総合学習の授業で水伝が採用されることが多いというような話も聞いておりますから、仰るような動機も大きいのでしょうね。そういうことであれば、お上の教育行政の無軌道さというものも大きな要因ということになりますでしょうか。
>>また、TOSSの情報が利用されるのも、「大丈夫な授業」を向山先生がお墨付きをつけて示してくれるものですから、使いやすいわけです。
この辺、いろいろ批判もあるところなんでしょうけれど、向山洋一の教育法の「パッと視て目覚ましい成果がある」というのがアピールするところなんでしょうね。とかく教育論というと抽象的な事柄ばかりが言われがちですが、現場の教育者の立場では具体的な指導法のノウハウに対するニーズがあるということだろうし、それこそ著作などを通じた知名度が信用に繋がっている部分もあるのかもしれません。
ただまあ、憂鬱亭さんは同じ教員ということで現実をご存じだからこういう言い方も出来るのでしょうけれど、これは一歩間違うと「水伝なんかに手を出したのはお上の行政が間違っているからだ」という責任論や「教師も実際のところは大変なんだ」という都合論になってしまう可能性もありますので、慎重に考えたいとは思います。
悪い言い方をすると、憂鬱亭さんのご意見は「教師が過剰な負担に耐えかねて安易にアリモノに手を出して筋の悪いものを掴んでしまった」という解釈も可能ですから、それはやはり外部の論者から視れば斟酌の対象とは視られないでしょう。
繰り返し申し上げていますが、今回このようなお話をさせて戴いたのは、解決を前提として問題の構造を考える為で、責任論や都合論が介在するとそこが見えにくくなってくるおそれがある、つまり糾弾や責任追及の論理における擁護意見と混同されるおそれがあると思うんですね。行政の問題も教師の置かれた現状の問題も、つまりは大人同士の間の事柄で、子供とは直接関係はありません。突き詰めて謂えば教師という職業者の労働待遇の問題というふうに謂えるかもしれません。
今回問題にしたかったのは、むしろ子供に真摯に向かい合う教育者が児童教育というシステムそのものに内在するネックを抱えているのではないか、それ故に水伝の問題性に気附くことが出来なかったのではないかという疑問ですので、教師たちの現実的な都合も考えるべきだという話とは少し違うんですね。教師には教師だからこそ不可避的に盲点となる部分があるのではないか、という問題提起なんです。
>>だから、その部分を理詰めで追っていっても、すれ違いになる可能性が高いと思います。
ということなんですが、やはり外部からの批判は筋から謂って理詰めであるべきではないかと思うんですね。憂鬱亭さんのご意見でも、やはり現場に欠けているのは理詰めの部分ではないかと思いますので、おそらく理詰めの検証を呼び掛けるというのは方向性として間違っていないと思います。
勿論、憂鬱亭さんが指摘されたような現実的な都合があるのだろうというのは、直観的に理解出来ますので、参考にさせて戴きます。ただ、たとえば教育者と対話する場面を想定して、「先生方も大変だから水伝なんかに手を出しちゃったんですよね」という切り口ではなく、「真面目に教育を考えたから水伝に魅力を感じたのですよね」という切り口で論じ合ったほうが妥当なんではないか、ということですけれど。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月 6日 (月曜日) 午前 12時21分
黒猫亭さん、こんばんは。
実はいま、中間考査の採点地獄の中にいるので、また手短に書きます。
(できれば、じっくり書き込むゆとりがある、ほかの現場の教員の民さんにも参加していただきたいのですが)
まずは、「水伝が科学的に正しいかどうか」ということを教員自身が判断するゆとりそのものが、制度的に奪われかけている、ということを私は主張します。
前国土交通相の問題発言の際に、彼が実態を無視して攻撃した「日教組」の現状など、実はほとんどの国民が知らないし、興味もありませんでしたよね?
例えば、「日教組」と政党との、現在の関係を知っている国民もほとんどいないんじゃないでしょうか?念のために確認ですが、都道府県レベルの団体で、「日教組」が共産党を支持しているところなど、1つもありませんが、ご存知でしたか?
教員がおかれた現状を無視して、「教員はかくあるべきだ」といわれ、それが正しい意見だと認識しても、そこに近づくことさえ困難な事態があります。そこは教員自身の健康や家庭生活をなげうっても、教員としての理想を追うべきなんでしょうか?
いささか感情的になっていますが、たとえではなく現場で過労死したり家庭崩壊したりしている教員のことを思い出すと、言わずに入られません。
もう1つ。
非常に残念かつ恥ずかしい話ですが、血液型性格判断を心から信じたりする教員は少なくありません。
教員に知識としての教養が必要であることは皆が認めますし、勉強もします。(教員採用試験に出ますから)
が、科学的リテラシーとなると、教員として生活する際にチェックを受けませんから、かなり怪しい人が現場には散見されます。中には各種ビリーバーも含まれています。
そういう教員と、「話せばわかる」教員とは、必要な説得の仕方が異なるかもしれません。
理詰めの検証を行うこと自体には、私は賛成なのですが、理論も答えも複数必要、ということになるかもしれませんね。
投稿: 憂鬱亭 | 2008年10月 6日 (月曜日) 午前 01時16分
つらつらと考えているのですが、やはり違和感があります。
黒猫亭さんの危惧を思い切り単純にすると「早い段階では『厳密には正しくない』という程度の間違いが混入していてもしかたがない」というような心理が、教える側には避け難いのではないかということですよね。
これはぼくの個人的な癖なのですが、概略だけ伝えようとしても「できるだけ、厳密に正確という線をはずれたくない」という思いがあるのです。かなうことなら自分が知っている限りの知見を伝えたいなんて、無茶な欲望が内心にあるのではないか、なんて考えてしまう。説明したがり教えたがりの人の心理って、そういうものですよね。むしろ、単純化して教えることに抵抗感があり、そこに足を取られて話が長くなったり、伝える力が弱くなったりする。そして、それが悩みの種だったりする。
教員だってみんなそうだなんていうのは、無茶な一般化なのですが、教員をしている人には、概して教えたがりの傾向があるように思います。自分から進んで教えるような人ではなくても、質問されたりすると喜んで語り始めるような人。少なくとも、教えたり説明したり、そのために工夫したりすることが苦にならない人(あるいは、相手を見て、この人にならどう説明すれば伝わるのかと、ひとしきり悩んでしまう人でもあるかもしれません)。
そうだとすると、カリキュラムとして用意されているものでさえ、懐疑的に「だいじょうぶなのかな」と考えるようになるでしょう。「いまは天動説」も、中学で上書きされると知っていても、安心できない。理系の方々は「その段階まで天動説のままでいいのか」と考えて、「やっぱりダメだよ」と言い出したりするわけです(お上に楯突くようなことを言い出す教員は、総じてあまり多くないのですが、それでも一定数は出て来てしまうほどに問題視するわけです)。
いわんや自前で用意する教材については、「こういう説明で、本当に大丈夫か」という抑圧というか臆病さが、最大限に発揮されやすいだろうと考えられます。
繰り返しを含みますが、こんな構図を考えています。
「あとで上書きするので、早い段階では不完全な説明でもよしとする」という構造は、確かにあるでしょう。それに対する慣れも、生じるに違いありません。しかし、「正確に教えたがる性癖」のために抵抗感は残り、上書きされる保証があるか、保証のない安易な単純化をどうやって避けるか、それがどうしても気になる。それを考えはじめると、おそろしいコストが待っていることもわかっている。むしろそのことが(労働量の過多や、実際に児童と向き合う時間を確保したいという思いなどとあいまって)、「自力で教材を作りたいが踏み切れない」というボトルネックとなって、「安心であるはず」の市販の指導案や誰かの実践例の採用などに走らせる。
そのときこそ、「これを使ってだいじょうぶか」というセンサーは働くのをやめてしまうでしょう。そうした指導案や実践例は、すでに淘汰されて生き残って来たものだということを、体験的に疑わないからです。
本題とは違うのですが、こうした考えに至ったのは、kikulogでの次のやりとりがヒントになっています。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/%7Ekikuchi/weblog/index.php?UID=1223170745#CID1223178637
そこでぼくが書いた「伝言ゲームの可能性」と同様に、「アップデートされることに慣れてしまって、不完全な説明で満足してしまう可能性」はあるでしょう。しかし、それは構造を広く一般化して考えた場合には強く懸念される問題点であっても、教育現場において起きやすいと言えるかというと、関わる人間の特性から言って、そうではないのではないか。
むしろぼくは、別に教えたがりでもないために、職業的に要請された「わかりやすいプレゼン」を追い求めることに慣れてしまうような現場(たとえばマスメディアの一部や、営業職の一部、望まずに後進の指導役にされた人など)にありそうなことに思います。親も似た立場ですね。いかにも深く考えずに「うまい説明(表現)を見つけたぞ」と飛びつきそうではないですか?
その意味では、一部のサラリーマン教師的な人には起きる可能性があるでしょう。しかし、彼らは自発的に教材をどうこうなんてしません。彼らがそうした「安易な単純化という誤り」をしでかしやすいのは、その場しのぎ的に行う対面指導の場でしょう。
また、サラリーマン教師が、なんとかしてやりたくもない独自教材を用意しなければならない場があるとしたら、やはりその場しのぎに、どこかかからの安易な借り物で済まそうとして、はまりこむかもしれません(たとえば道徳の研究授業を思い描いています。ただし、先の水伝先生がサラリーマン教師だったわけではありません)。
ただし、こうした例は教育現場全般からいえば、むしろ例外に属することのように思われます。
十分な根拠もないし、自分の性癖からの類推なのですが、いかがでしょう。黒猫亭さんも「教えたがり、説明したがりの心理」については思い当たる部分があるのではないでしょうか。
投稿: 亀@渋研X | 2008年10月 6日 (月曜日) 午前 09時10分
長々と書いた後でまたおジャマします。すいません。
hietaroさんちでの黒猫亭さんの下記のコメントを読みました。
http://taizo3.net/hietaro/2008/10/post_413.php#comment-4515
かなりグラグラしちゃいました。
が、踏みとどまってみます。こういう「方便」への慣れは、おとな一般に確かにあると思います。で、これもまた「安心なはずのもの」「習ったことへの安心感」だろうと思っちゃうんですよねえ。こりゃあ、ぼくの思い込みなのかもしれませんね。
ちなみに、「子ども」という表記、まさに「児童の権利」という文脈から生まれた詭弁、俗説、誤謬だと認識しています。「人という字は」という金八式の説明に似ているとも思います。
そういえば、こんなエントリを読みました。
◆ぜろだまBlog: 疑似科学と金八式
http://zerodama.seesaa.net/article/107246250.html
この手のご都合主義的な説教は、一昔前の教育者に顕著にあった印象がありますよね。いまではむしろ、教師よりもどっかの社長とかコンサルがやってそうに思います(が、どういうわけでそういうイメージになるのか、自分でもよくわかりません)。好まれるのでしょう。現在でも多くの教員が、「よく聞く説明」ということで比較的安心していそうな気もします。
この辺、やはり「方便」に対する慣れがあって、ことの真偽(事実に対するこだわり)よりも方便(物語)の効用を重視してしまうのかもしれないとは思います。漢字の解釈について言えば「国語学者になるわけでもないんだから」みたいな意味では、「必要になれば、正しい知識で上書きが行われる」という思いもあるのかもしれないですね。
ああ、踏みとどまれなかった。先のコメントと思い切り矛盾していますね。かなりグラグラして怪しくなってきました(^^;;
それでも、なんとなく「上書きされることに対する慣れ」はあまり深い傷ではなさそうな気がする。せいぜい、方便を採用する際の「わきがため」ぐらいのものではないか(ひょっとすると、これも前言と矛盾しますが、方便の有用性の前では、後で上書きされるかどうかは、気にならないことさえあるのではないか、という気さえしてきます)。
むしろ、ちゃんとだいじょうぶな素材を選ぼうとしているのに、ニセ科学的なものや方便的説話に対しては「安心」を評価するフィルター(判断基準)が有効でなかったということが問題なんじゃないか、という気はしているんですけどね(その克服を個々の教員のリテラシーに求めるのが正しいのか、というと、そこはまた別の話になりますが)。
どうやら、ぼくの意見は、「気がする」以上のものではない、弱い弱い主張だという結論になってしまいました。とほほ。長々と失礼しました。
投稿: 亀@渋研X | 2008年10月 6日 (月曜日) 午前 10時15分
お邪魔します。
この辺りの問題は、僕が今抱えている問題とやや層をずらしながらよく似た構図を持っています。
僕が相手にしているのは、大人でありながら様々なリテラシーレベルがあり、それをこちらが飲み込んだ上で理解度を一定レベルまで持って行くことが求められるという集団です。
しかし、今はある程度慣れてしまったためか、相手に合わせて流す、というような気持ちも少々持つようになってしまっていて、このエントリーに少々刺激を受けて、気合いを入れ直してます(^^;。
もう二度と、自分が担当する産地から「出荷停止」を出したくないので・・。
投稿: がん | 2008年10月 7日 (火曜日) 午後 08時06分
黒猫亭さん
はじめまして、kaqu11と申します。こちらのエントリーを興味深く拝読しまして、自分のブログにエントリーをアップしました。
あまり纏まったものではなくてぐだぐだと思い悩んでいるだけなんですが、よろしければごらん下さい。
http://discontinuous.blog44.fc2.com/blog-entry-20.html
投稿: kaqu11 | 2008年10月 7日 (火曜日) 午後 11時04分
>憂鬱亭さん
>>まずは、「水伝が科学的に正しいかどうか」ということを教員自身が判断するゆとりそのものが、制度的に奪われかけている、ということを私は主張します。
このご主張そのものは尊重したいと思います。現場の教師がどのような苛酷な現状に置かれているのかは、局外者としての範囲内で認識してはいるつもりでおります。
後段で仰っている、
>>教員がおかれた現状を無視して、「教員はかくあるべきだ」といわれ、それが正しい意見だと認識しても、そこに近づくことさえ困難な事態があります。そこは教員自身の健康や家庭生活をなげうっても、教員としての理想を追うべきなんでしょうか?
これに対しても、教師であろうが宗教者であろうが警察官であろうが、自分自身の健康を防衛し家族生活の充実に努め、引いては当たり前の一人の市民としての幸福を追求する権利は当然あると考えます。
前回申し上げたように、憂鬱亭さんが仰っているような事柄が大きな要因であることもたしかに事実であると考えています。これは無視されて好いことではないし、教育行政が問題含みであったり、現在教育現場を取り巻くさまざまな問題に対して教師個人に許されている自己防衛手段が圧倒的に限られていることも事実でしょう。
たとえば亀さんが触れられた「天動説」のお話も、別の方へのお返事で重ねて論じるかもしれませんが、本質的には教育の問題というより行政の問題でしょう。行政の都合に教育が振り回されているというお話なのだと理解しています。
憂鬱亭さんが仰っていることそれ自体を否定する材料は何もありません。それはその通りなのだと思いますし、憂鬱亭さんのような方が自ら感情的だったと自省されるような意見を仰るというのはよくよくのことであろうと思います。幾度かの対話と日頃お書きになられていることを拝見するに、ときにシニカルな物謂いをされることがあるとしても冷静な方だと認識しておりますから、安易に感情論に奔っておられるわけではないと思いますし、基本的に論者として信頼しています。
そのような意味と、そしてまた、これはこの考察の根幹に関わる問題ですから、第三者の読み手に対する基本的な前提の提示も兼ねて、ちょっと長くなりますが、可能な限り説明を試みさせて戴きます。お仕事がお忙しいようでしたら、早急なお返事は必要ありませんので、一段落してからでもお読み戴ければ幸いに思います。
まず第一に、オレは憂鬱亭さんのご主張を否定しているのではありません。第二に、そのようなご意見は仰るべきではないと批判しているのでもありません。第三に、そのような問題は如何なる場所においても一切論じられるべきではないと主張しているのでもありません。
オレが今回提起させて戴いた文脈において、憂鬱亭さんの仰るような現状を勘案するのは妥当ではないのではないかという、窮めて限局的なことを申し上げております。
まず、この問題の中心軸を教師が置かれている現状に据えるとすると、その想定される解決の在処というのは現状の改革ということになります。これは平たく謂うと憂鬱亭さんが仰るように「教師が立ち止まって物事を考えるゆとりを得るにはどのように教育現場を改革すれば好いか」という問題性ということになります。さらにこれを具体的に特定するなら、「教師の待遇改善」という問題になるわけです。
つまり、ここで中心的な課題となるのは、教師一般が理不尽で苛酷な現状に置かれていることの労政上の不当性ということになります。水伝の問題は、それに付随して起こった理不尽な振る舞いということになります。そしてこの文脈で考えるなら、それは教師が心ならずも過ちを犯さざるを得ない状況に追い込まれた(教師にとっての)不当性という問題になります。
つまり、この文脈で問題を論じる以上、水伝授業において教師が子供たちに及ぼした不当性という観点が抜け落ちてしまい、それを論じ得なくなるのです。
たとえば、そもそもの最初から教師の現状を問題視する議論があって、教育現場の改革や保護者たちの意識改革を呼び掛ける文脈の議論があったとすれば、その中心的な課題に絡めて水伝授業の問題にも言及する、これならば妥当でしょう。
水伝授業はまず疑問の余地なく大人が子供に施す教育の内容としては間違っているのですし、そのような誤った教育を実践した教師もまた、或る意味で水伝の被害者ではあるでしょうし、そのような過ちを犯すに至る外的な要因があったのだとすれば、教師もまた或る不当性の犠牲者であるということは謂えるでしょう。ならば、それを解決する為に改革を訴えることにもまた理があります。そして、教師が特殊な職業と視られているからと謂って、それを論じることは禁じられるべきではありません。
あらゆる問題は、妥当なやり方で自由に論じられ、解決を目指すことを許されるべきであるとオレは考えます。この「許される」というのは、オレが許すわけではないしお上が許すわけでもない、誰かが許すわけではなくて、正当な権利の所在を認める社会的な理によって原理的に許され保障されている事柄だということです。
ただ、オレたちはニセ科学を批判する文脈で水伝の問題性を認識しているのだし、その文脈で水伝授業を論じているということになりますから、まず水伝授業の子供に対する不当性や社会への蔓延の契機をつくったという問題性が中心的な課題になるということです。同じ一つの事柄を論じるのであっても、それが中心軸であることは見失われてはならないと思うのですね。
だとすれば、憂鬱亭さんが仰ったような事柄は、水伝授業を中核に据えた問題性を考察する場合に核心的な要因としては扱い得ない事柄だと思うんです。何故なら、憂鬱亭さんが提起された論点は、子供たちや社会に対する不当性を中心的な問題として扱い得ない手筋だからです。その論点は、一人の労働者としての教師の正当な権利を全うする為の議論には繋がっても、子供たちや社会に対する不当性をどのように解決するのかという問題は脇に追いやられてしまうからです。
今回オレは水伝授業を中核に据えてこの論を展開しています。それはつまり、子供たちや社会に対する不当性を中心的な問題として扱うということですし、その前提において「何故このようなことが起こったのか」ということを考えています。その場合、当事者である教師の方々には冷淡に感じられるとしても「大変な状況に置かれているから仕方なく過ちを犯した」という論点は捨象して考えるということになります。
勿論、教師がどんな不当な現状に置かれていてもそれはどうでも好いと考えているわけではありません。しかし、教師に対する不当性ではなく、子供たちや社会に対する不当性を中心的な問題として論じるのであれば、「大変だから過ちを犯した」という観点は考慮に値しないものだと謂えるでしょう。何故なら、それは原理的に「大変なら過ちを犯しても好いのか」「大変な人は世の中にもっとたくさんいる」という反論に常に曝されているからです。
これは、オレが反論するというのではなくて、原理的に必ずそのように反論されるんです。この場で誰もそのように反論しなかったとしても、そういうふうに考える人が必ず大勢を占めるわけです。そして、オレの感覚で謂うなら、「大変な状況に置かれているから過ちを犯した」という意見に対して「大変なら過ちを犯しても好いのか」と反問することは、さらに苛酷な成り行きであると感じます。
何故なら、如何にそれが冷酷だろうと「大変だったら過ちを犯して好い」ということには決してならないと殆どすべての人が考えていて、大変な現状に置かれていることと過ちを犯すことは別々の事柄だと大多数の人々が信じているからです。そして、それは苛酷な現状に置かれている人々の心からの訴えに対して、他人として冷酷且つ苛酷に応えることに他ならないでしょう。しかし、それはそういうものでしか在り得ないのだと思います。
たとえば、中小の弱小食品企業というのは現在非常に苛酷な経営状況に置かれていることは間違いないわけで、その主要な原因の一つは行政の失態ですが、だからと謂って特定の業者が食品擬装や杜撰な食材管理などの非行に手を初めてしまえば、それは現状が苛酷だから仕方がないとか同情すべきであるという話には決してならないわけです。中小企業が置かれている不当な現状の救済と、そのような苛酷な現状から惹起された不当な問題性についての議論は、必ず分けて考えるべき事柄だということになります。
水伝授業と食品擬装を同列で語ることに抵抗を覚えられるかもしれませんが、この喩えの暗示する原理というのは、或る苛酷で不当な現状と、それによって惹起された過ちは決して同時に論じてはいけないということだと思います。これはつまり、教師であろうがなかろうが、人はどんなに苛酷な現状に置かれようとも、それを理由に過つことは許されないという冷酷な社会原理を語っています。
或る不当性が中心的な課題で在り得るのは、その不当性を理由にして過ちが免責されないという大前提に依拠するというのは、どんな問題にも通底する普遍的な原理であろうかとオレは考えています。どんなに不当な現状でも、それが原因で過ちを犯せば冷酷にその責任は問われるわけで、だから或る不当な現状は放置されてはならないのです。
憂鬱亭さんが仰る通り、オレもまた局外者としての範囲ではありますが教師一般は苛酷な現状に置かれていると認識していますし、それは現状の制度に多大な責任があるのだと思いますし、学校経営の問題や保護者の質の問題もあるのでしょう。しかし、苛酷な現状に置かれている人々一般にとって最も苛酷なのは、どんなに現状が悪くてもそれを理由に過ちを犯すことは許されないということだと思います。
どんな職業であれ、その普遍の原理原則が底の底の部分で職業倫理を下支えしているのだとオレは考えていますので、その底が抜けてしまったらそもそも特定の職業者に対する不当性をどのような尺度で考えれば好いのかわからなくなります。
或る過ちを論じる場面では、必ずその直接行為者の次元で区切りを附けなければ、有益な議論にはなり得ないと思うのです。たとえば、苛酷な状況に主要な原因を求める観点というのは、論理的に謂ってその状況が改善されない限り抜本的な解決策はないという結論を指向しているわけですから、それは「人は苛酷な状況において意味ある何事も為し得ないのか」という疑問に繋がるわけです。
そして、オレが今回の問題提起で期待しているのは、このような現状を前提としても為し得る何事かがあるのではないか、という方向性の議論です。その観点においては現場の教師たちを一方的な論理で糾弾することには意味がない、寧ろ何故水伝教師たちは水伝を素晴らしいものだと考えたのかということを考えるべきではないか、そこにこそ何某かのヒントが隠されているのではないか、という問題提起なんです。
さらに謂えば、オレが憂鬱亭さんのご主張をこの場で扱うつもりがないのは、それは或る意味で従来的な水伝教師批判と前提を共有しているからなんです。つまり、憂鬱亭さんのご意見に基づくなら、水伝教師たちが水伝を採用したのは「怠慢」だったからだということになります。
それが状況に強制された無理もないものであるか、それとも無知や自堕落に基づく単なる手抜きであるか、その違いだけで、必要な検証の手続を怠ったから水伝授業は行われたのだということになります。
これは従来的な水伝教師批判と、前提は同じだということになります。それが怠慢であることが大前提で、その怠慢を教師たちに強いたのは制度や外部の環境である、そういう論理になりますが、従来的な水伝教師批判との相違は、それが無理もないものであるという主張のみであるということになります。
一方、オレが今回提起させて戴いたのは、教師たちが水伝を採用したのは手抜きや怠慢の故ではなく、教育者という職業に固有の或る考え方の傾向に基づくものではないかという疑問なんですね。たしかに、検証の手続という意味では飛躍や欠落があったことは事実なのですが、それは教育者が教育者である限り不可避的に持ち合わせる一般的な傾向の故なのではないか、という着想なんですね。
これ自体は机上の空論でしかありませんし、その結論に固執するつもりがないというのは最初に申し上げた通りです。要するにオレが提起させて戴いたのは、教師が水伝授業を採用したのは「怠慢」が理由であるという従来的な非難の論理を疑ってみませんか、ということなんですよ。
それが「怠慢」であるという大前提は、無理もない理由があるかないかという違いがあるとしても、個々の教師がそれを採用するに至るプロセス自体はいい加減な手抜きの非行であったこと自体を否定しないわけです。
憂鬱亭さんのご意見でも、只でさえ余裕のない教師が総合授業という新たなお荷物を背負わされ切羽詰まってお手軽にアリモノに手を出して失敗したというストーリーですから、或る意味では夏休みの宿題の自由研究を安直なパクりで済ませようとした子供と同じような成り行きを語っていると謂えます。これ自体、水伝教師の不倫な怠慢というものを前提視して、それが無理もないものだということを語っておられるわけですね。
一方、オレが論じたいと思っているのは、それが怠慢ではなかった可能性を考えてみませんかということで、それは前提として個々の水伝教師の熱意や誠意を疑わないという条件附けに基づくものです。
勿論、単なる手抜きや怠慢で引っ懸かった教師も大勢いたことでしょう。ただ、それはどうも実際に水伝教師と対話された人々の心証とは整合しない。多くの方は彼らが寧ろ普通より教育熱心で真面目に子供たちのことを考えているという印象を覚え、そのように報告されています。
何ら客観的な根拠はないですが、直観的な認識として、実は水伝教師というのは普通に考えられているようないい加減な教師ばかりではなく、寧ろ真面目で教育熱心な教師も多かったのではないか、という疑問が生まれます。いや、本職の教師の方からすれば、教師というのは保護者と面談すると普段より数倍お行儀が良くなるものだと喝破されてしまうのかもしれませんが(笑)、必ずしも保護者向けのポーズと決め附けたものでもないだろうと思います。
仮にそれが半々だったと見積もっても、実に半数もの教師が現実の行為責任だけではなく、教師としての適性や熱意、誠意という半ば人間性とさえ謂える資質をも非難されているのだということになります。これは憂鬱亭さんが仰ったこととは別の意味で大変不当なことではないでしょうか。
それが水伝という社会悪の蔓延に荷担した報いだというのであれば、それこそ苛酷に過ぎるのではないかと思うのですね。勿論、行為責任というのは何をどう擁護したところで消失するものではありません。それは皆さんが「善意から発したものであれば何をしても好いというわけではない」「地獄への道は善意で舗装されている」と仰っている通りです。しかし、その善意そのものを疑うのは、社会的応報という原理では当然であっても、事実に相違した認識であることは間違いないですよね。
で、現実的な問題解決というのは、方便としての応報に安住することなく正確な認識を得ることから出発するのだとオレは考えていますから、正しく事実を認識したいと考えているわけですし、その一方では、論理的に考えて行為責任の免責に発展する可能性を内包している憂鬱亭さんの観点は採用したくないということになります。
オレの論が擁護論的な視られ方をするだろうというのは予想が附くのですが、行為責任に対する擁護は一切するつもりはありませんし、その行為責任を順送りにして問題を拡散するような観点はこの考察において採用したくありません。人はすべてから切り離されて独立に存在するものではないのですから、何らかの行為責任を問う場合、幾らでも外部や上位階層に問題を波及させることは可能で、「政治が悪い」「社会が悪い」「世の中が悪い」という話に幾らでも拡散可能なのだと思います。
憂鬱亭さんがそのようなことを仰っているというわけではなくて、憂鬱亭さんが提起された論点の先には必ずその陥穽が手ぐすねを引いて待ちかまえているという指摘です。
これはオレの個人的な認識なんですが、憂鬱亭さんが提起された論点というのは、何故か現状の改革という実際的な問題を巡る有益な議論から必ず逸脱して、行為責任の免責や正当化、その対論としての苛烈な糾弾や断罪に向かうという一般的な傾向があると思うんです。つい最近も、憂鬱亭さんもよくご存じの非常に印象的な議論の実例がありましたが、その種の逸脱は現実的な問題性それ自体からどんどん遠ざかって議論を不毛化するダイナミズムを具えています。
そして、或る特定の行為者の行為責任を問う議論というのは、その行為責任が認められればそれで終わるはずの問題でありながら、決してそこで終わらないという不思議な力学によって動いています。大勢として行為責任が認定された瞬間から、その議論はその非難の「強度」を巡る問題にすり替わってしまうのですね。
つまり、どれだけ殴ったらその責任に相応しい応罰となるのかという、人それぞれ感覚の違う問題になってしまうのです。で、この場合多く殴ったほうがインパクトが強いから、殴るほうの声のほうが段々大きくなってくるのですが、それに比例して「殴りすぎだ」という声も大きくなってきて、必ず本質を逸脱するのですね。それは、この問題がこの段階で「殴った者」の行為責任の論点にスライドするからです。
それ故に、今回の考察では個々の教師の熱意や誠意を疑わないという大前提を置かせて戴いているわけで、つまり是非を問わずとにかく「殴る・殴らない」という構造を出発点において捨象するということで、これもまた一種の「方便」ではあります。
一方、憂鬱亭さんの提起された論点は、この比喩で謂えば「殴るのはおかしい」という意見だと大別されてしまう可能性があります。これは「もっと殴れ」という意見と同一線上でその対極に在る意見ですから、「殴る・殴らない」という問題性の構造に基づく論点だと謂えるわけですね。
オレは今回、その構造を捨象したいと考えていますから、「もっと殴れ」という論点を採用しない以上、「殴るのはおかしい」という論点も採用出来ない、そういうバランスの話になりますので、ご理解を戴けますと幸いです。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月 9日 (木曜日) 午後 01時51分
>亀@渋研Xさん
>>教員だってみんなそうだなんていうのは、無茶な一般化なのですが、教員をしている人には、概して教えたがりの傾向があるように思います。自分から進んで教えるような人ではなくても、質問されたりすると喜んで語り始めるような人。少なくとも、教えたり説明したり、そのために工夫したりすることが苦にならない人(あるいは、相手を見て、この人にならどう説明すれば伝わるのかと、ひとしきり悩んでしまう人でもあるかもしれません)。
たしかに、そういうところはあるんじゃないでしょうか。
これはオレ個人の昔話になりますが、実はオレは、物覚えが悪くて手が懸かる割には概ね教師にはウケの好い子供だったんです。六・三・三の一二年で(大学は殆ど出席しなかったもんで)折り合いが悪かった担任教師というのは二人しかおりませんで、それは美術教師と体育教師でした。そういう意味で、オレは教師という立場の職業者にルサンチマンが殆どないんですね。
で、なんで教師から気に入られるかと謂うと、別段従順だとか優秀だとかいうんではなくて、生来のウケたがりの性質が子供の頃はもっと暴走していて、授業中に「誰がうまいことを言えと」なツッコミを入れることに命をかけていたからです(笑)。
で、教師というのは、教育熱心な人ほど割合そういう「マセたガキ」が嫌いではないんではないですかね。そういうマセた口を利くガキというのは、大人と知的に対等なところを見せようと背伸びしますから、逆に謂うと大人の言葉を懸命に理解しようとするし精一杯高踏な話をしようとするところがあります。それを教師視点で視ると、ガキの考えたツッコミなんて穴だらけですから逆にツッコミ甲斐があるとか、大人視点で教えられるのが楽しいというふうな見方になるのかもしれません。
そういう意味で、亀さんが仰るように教師には教えたがりな人が多いでしょうし、子供向けの方便としての簡略化された知識ばかりではなく、その先にある大人が共有しているような知識も教えたい、語りたいという欲求それ自体はあると思うんです。
たとえば亀さんが挙げられた天動説の例なんかで謂うと、今後必修教科では地動説を教えないということに決まったら、殆どの理科教師は初等教育の段階でも、教科内容から逸脱した余談として「太陽や星が動いているように見えるけど、実は地球が動いているからそう見えるんだよ」というふうに言い添えると思うんです。
普通に考えて、真面目な教師が「後のことなんか識ったことじゃない」として決められた教科の内容だけ教えて愧るところがないなんてことはないでしょう。少なくとも地動説が正しいのだということくらいは伝えようと考えるでしょうし、地動説が選択的な教育対象となるとしても、地動説の存在すら識らないのではいけないから、それを学ぼうというモチベーションくらい持って欲しいと望むでしょう。
ですから、教師一般が子供向けの簡略化された知識、この文脈で謂う「嘘事」に対して心理的抵抗がないということはないだろうと思いますし、本当は定められた教科内容以上のことにも興味を持って欲しいと望んでいるだろうし、授業内の「余談」として啓発的な話は常にしているのだと思います。
ただ、実際にはやはり、子供の理解力というのはアベレージで謂うと大人よりも絶対的に劣るわけで、キャパ的に受け容れられない情報はどうやっても入りません。一部の早熟な子供や知的に優越した子供以外の平凡な子供たちは、普通に決められている教科内容すら理解が難しいわけで、もっと噛み砕こう、もっと細部を削ぎ落とそう、という方向性でさらに簡略化して説明しなければ理解してもらえないというのが現実でしょう。
なので、亀さんが仰ったような教えたがりの欲と嘘事への慣れというのは、どちらが本当か、ではなく、やはり「鬩ぎ合い」なんではないかと思うんですね。理想を言うならその年代の子供のアベレージのキャパで規定されている内容よりも、より正確で詳細な情報を伝えたい、「本当の」知識を教えたいという欲はあると思うんですが、現実で謂えばアベレージ以下の伝わり方しかしないわけで、それをどうやって平均値まで引き揚げるか、という理想を遙かに下回るレベルで苦闘しなければならない。
頭が良いとか悪いとか謂う以前に、子供の理解力は大人とは根本的に位相が違う、その現実と日々向き合っていると思うんです。つまり、平均的な大人が相手の場合、普通に説明すれば伝わって当たり前的な思い込みがありますし、伝わらなかったらそれは相手のリテラシーが低いか、もしくは自分の説明スキルが低いのだ、と思うものですよね。
ところが、子供相手の場合、普通に大人に話すように伝えても伝わらないのがまず自然だということになりますね。だからこそ、マセたガキが生意気なコトを口にしても世間の人とは違って「あ、まだこいつなら普通の大人みたいに話せるかも(伝わるかどうかは別にして、そういう対話のモチベーションがある)」という反応になるわけで、それは逆に、普通の子供には如何に普通の大人の言葉が伝わりにくいのか、ということを暗示していると思うんです。
たとえば、ニセ科学批判の言論では最早常識に属する認識ですが、情報の正確さとわかりやすさは必ず相補的な関係にあり、わかりやすい言説というのは、わかりやすさの度合いと不正確さの度合いが常に相関しているものだと思います。
それ故に、ニセ科学批判の言論において「人々の常識のレベルが底上げされなければならない」というふうに語るのは、今の現状では一般的に、情報を劣化させ時には虚偽を交えることすらわかりやすさと直結しているからで、これはメディアリテラシーなんかがそうですね。「あるある」の問題なんてのは、とにかく「わかりやすい」とは如何なることなのかということを下劣なまでに剔抉した事例だと思いますし、それはつまり、大人同士の文脈で謂えば「わかりやすい」ということは大概それが「嘘」だということを暗示しているということだと思うんですよ。
ですから、真面目な教師であればあるほどそこは鬩ぎ合いではないですかね。真面目な大人である以上は、子供に嘘なんか伝えたくないわけですが、嘘にしないと子供の小さな耳には届かないし、小さな頭には入りきらない、そもそも小さな心が動かないわけです。だから「この嘘はいずれアップデートされ正しい知識に置き換えられるのだ」ということを強く信じて嘘を吐き続けるしかないのでしょうね。
こういう考え方というのは、オレが元々はトクサツという幼児向けコンテンツのヲタだからそのように考えるようになったということもありまして、以前実写版セラムンのレビューに絡めて「子供に美しい嘘を語る勇気」というようなことを語ったこともあります。大人が子供に向かい合うとき、一番簡単な身の処し方は、大人が識っているような本当のことをそのまま語ることなんだと思います。
世の中の人は大概信用がならないとか、あくせく働いてもそれが報われるとは限らないとか、正義が必ず勝つとは限らないとか、人生は辛いばかりでちっとも素晴らしくないとか、そういう類の「本当のこと」を語るのは簡単なんですね。
しかし、人間というのは、世界が美しくあるべきだと信じて努力することが必要ですから、まず信頼の美しさとか、努力がもたらす成功とか、正義の勝利をまず子供たちに教えたい。これはたしかに絶対的な基準では嘘なんですけど、ではオレたち今の大人がなんで世界はそうあるべきだと信じて頑張れるのかと謂えば、子供の頃にそういう嘘を教わったからなんですね。
そして、たしかに信じて頑張ればちょっとくらい素晴らしいこともあるわけで、そういう意味では子供の頃に大人たちが未来への祈りを込めて吐いた「嘘」のお陰で、実際にオレたちの人生は多少は素晴らしいところがあるものになっているわけです。ここでオレが嘘として語っているのはトクサツ番組のことなんですけど、それは大人が子供に教えること一般がそうだと思うんですね。
これは何度も強調しますけれど、オレは教師が子供に対して劣化した情報、つまりここで嘘事と表現したことを教えることを間違ったことだと思いません。大人とは違って、平均以上の知能に恵まれた者以外の極普通の子供たちは、どんなに努力しても子供として許された範囲の理解力しか持ち得ないのが当たり前ですから、知的に成熟するまでに最低限必要な知識を、嘘を用いても教え込む必要があります。
こういうふうに、虚偽に亘っても即効的なわかりやすさを追求しても好いのは児童教育においてだけで、やはり大人相手の場合は対等のコミュニケーションであるという筋を外してはいけないのだと思いますが、少なくとも児童教育において教えられる教育内容が嘘事の性格を帯びるのは不可避的な事情だとオレは考えています。
人間は本当のことを最初から細大漏らさず正確に学ぶことは出来ないわけで、まず本当のことを識る為の準備が必要です。初等教育というのは、まあ黒か白かという二分法ではないですが、その為の準備をするという側面の割合が比較的大きい。スポーツを窮める為には、まずその為の身体を作る基礎訓練が必要なのと同様に、それは地道な知的トレーニングという側面があります。
ですから、習得すべき内容がかなり直截且つ具体的に決まっているわけで、それはたとえば読み書き算術の類であったり、社会の基本的な仕組みであったり、物事がどのように成り立っているのかという大まかなイメージであったりと、つまり「本当の知識」から比較すると貧弱なものでしかありません。それでも本当の知識を習得する為には必須の材料なのだから、それは具体的に目的視して覚え込ませる必要があります。
憂鬱亭さんが最初のコメントで書いておられるように、非常に即物的な目標を定めてそれをクリアするというのが現実的な形でしょう。そして、教師という職業の即物的な本質というのはまさにそこにあるわけで、基本的には具体的に設定されている目標としての知識を一人でも多くの児童に習得させるということがマスト要件で、学園ドラマの熱血教師のように教科以外のことにばかり熱心でもしょうがないわけです。先生というのは近所の面白いオッサンやオバサンではなく、子供に必要な知識を教える専門家という側面が本質ですから。
そういう意味で、非常に効果的に子供に届く授業アイディアというのは、大変魅力的に映るのだろうとは思うんですね。子供に届かせる、わからせる、それ以前に興味を持たせるということは、我々のような非専門家が想像する以上に難しいんだと思いますが、水伝というのは、実感的な感動とわかりやすい理路と興味を惹く実演効果という三拍子が揃っているという意味で、非常に魅力的な教材なのでしょう。
そして、その場合に水伝授業の弊害の有無を検討するというのは、おそらく科学的な正確さや道徳教育としての理路の真正さを検証することではなかったのではないかと思うんですね。変な遊びが流行ったり、生徒の素行に影響が出たり、他教科の授業に支障が出たり、そういう非常に具体的な問題を検討することだったのではないかと思います。
これを以て知的な部分で不誠実だというのは少し違うのかな、と思うのは、これが主に道徳教育に用いられたことと関係していて、これが理科教育だったらそもそも科学的に正確なのかという点は当然検討されたでしょうが、道徳教育であったからこそ、目的とする「言葉を大切にしましょう」という教育内容以外には「積極的な意味がない」ということだけが検証されたのではないでしょうか。
たとえば、御伽噺や寓話には必要な教訓以外の「積極的な意味」がありませんね。科学的な事実や政治的な思想を語っているわけではなく、単にお話として面白いという以上の「積極的意味」はないわけです。そういうふうに、余計な意味がないということは、見方を変えれば教材として安全だという認識なんじゃないでしょうか。水伝を教材として検証するということは、つまりそういうふうな無内容性が検討されたということなんではないかと思います。
たしかに水伝は、水に言葉をかけることによって水の結晶に変化があるという「面白い物語」しか語っていません。だから検証はここでオシマイです。理科教育ではないのだから、科学的正確性は問題ではありません。物語の語る意味として有害なものが含まれていないかどうかが、非常に具体的な観点で検討されたのだと思います。
しかし、水伝には「いじめ」に繋がるのではないかという問題が指摘されています。これは教育現場では具体的に大問題ですよね。水伝には、間違っているという以外に非常に具体的な意味で教育的に不都合な部分があったわけです。オレも以前一つの理路を挙げてそれを指摘しましたが、別の理路に基づいてそれを指摘された方もおられます。
これ自体は可能性の問題であって、実際にそういう報告があったわけではありませんけれど、未然の可能性としてそれがどの程度現実的な説得力があるのか、ということが問題となるわけです。そして、何故この可能性を教師たちが抽出出来なかったのかというのは、つまりいじめの問題というのは、水伝を道徳教育に用いる理路の筋論的検証から演繹される可能性であって、水伝それ自体にはいじめを教唆したり扇動するような意味内容が積極的に語られているわけではないからだと思います。
現場で大人とは明らかに違う生き物である子供たちと向かい合って、通じないのが当たり前の対象に通じさせる具体的な手法を日々検討している教師たちと、主に大人同士の間において、通じるはずの言葉が通じない事態に直面して多くの言葉を積み重ねているニセ科学批判者とでは、やはり感覚面で違いがあるのではないかと思います。
>>黒猫亭さんも「教えたがり、説明したがりの心理」については思い当たる部分があるのではないでしょうか。
それは当たっていますけれど、子供には大人と同じやり方は通じないんですよ(笑)。ですから最初に、子供に物を教えるのは苦手だと申し上げたわけでして、そもそもこんな真っ黒なエントリーやコメントを書いている人間が、子供に物を教えるのが上手いわけはないんですけど(笑)。
なので、オレの教えたがり、説明したがりの対象というのは大人に限られますし、教師が直面しているような鬩ぎ合いのジレンマに取り組むのが面倒だから大人にしか語りかけていないということなんですよ。説明の対象を選んでいるわけですし、すべての読み手に伝わることを意図しているわけではない、そういう意味では対象を選ばずすべての生徒に平等に伝えることを理想とする教師たちとはまた別の位相にいるわけで、たとえばがんさんなどはもっと教師の立場に近いのかなと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月 9日 (木曜日) 午後 05時44分
>がんさん
TBを戴いたブログの記事、拝読しました。なかなか苦労しておられるようで、それはそれで大変なのだろうなあと思います。
亀さんへのお返事で少し触れましたが、がんさんのようなケースというのもなかなかシビアですね。そちらのブログでも触れておられましたが、「わかる奴だけがわかれば好い」という切り捨てが許されない事柄で、しかも安全性や法律などが絡んでくる問題だと、本来は全員が一定の理解に達していないといけないわけですよね。
一種、児童教育というのは、子供が大人になって社会参加するまで、時によっては社会活動の中核を担う年代に達するまで、少し時差があってから、教育の問題点が露呈します。それ故に、成績という具体的な基準以外には、実践によって得られた結果を臨機応変に全体的なカリキュラムの体系に反映させるのが難しいところがあるでしょうね。
がんさんの場合のように、成人の教育講習というのは、その点かなり早いサイクルで問題が顕在化してくるわけで、フィードバックもしやすいだろうけれど、結果がすぐに目の前に突き附けられる、それもかなり責任関係が明確な形で、というのもかなりキツいですよね。がんさんが何らかの具体的な責任をとらされるわけではないのだろうけど、ご自分の地区から出荷停止が出たら、ご自分にも責任の一端があると考えないわけにはいかないのだろうし、かなり心理的にプレッシャーがあるのではないかと思います。
本文のほうでは、「大人が相手なら或る程度のグレデーションはあっても大人のリテラシーを基準に据えれば好いから」的なことを書きましたが、それは言い方を換えれば、或る一定のリテラシーのボトムラインを想定して、それ以下のリテラシーの受け手を切り捨てる、それで構わないだろうという見切りを附けるということです。大人相手のコミュニケーションでは、最終的に誰しも自己責任で情報を取得するしかないのだから、大人に呼び掛ける場合はそれで好いのだという言い方も出来ます。
しかし、子供相手の場合はそういうわけにはいかない。一定のレベル以下の児童を切り捨てるというのは、筋論的には良くないわけです。最終的には現実的なコスト対効果比で、教員のリソース配分の効率から判断するしかないことですが、許された限度内で児童全員が一定の水準の理解を得られるように努力すべきだと考えられている。こういうことを言うと、また憂鬱亭さんにお叱りを頂戴するかもしれませんが(笑)、まあ世間的にはそのように期待しているわけですね。
がんさんの講習も、基本的には受講者全員が平等に一定の理解に達することが期待されているという意味では、児童教育とたしかに通底する部分はあるでしょうね。そして、人が人に物を教えるという行為一般には、究極の処方箋というものは存在しません。相手あってのことですから、常にコストを強いられますよね。
また、成人の科学リテラシーに関係してくる問題ということで、方便を用いることに対して慎重にならざるを得ないという、児童教育とは極性の異なる問題点が出てくることと思います。おそらく、がんさんが考えておられるのもその点じゃないかと思うのですが、成人が相手の場合、講習で教わった事柄はそれっきりアップデートされません。それはそのようなものとして受け取られたきり、そのまま情報として扱われるわけです。
児童教育の場合のように、体系立った一二年に亘るカリキュラムの総体を期待出来ない以上、一回一回の説明にどれほどの方便を用いることが許されるのか、ここはかなり考え込まされるところではありますね。一種の科学啓蒙を担っている立場でありながら、即効的なわかりやすさを追求する剰りに、下手をすればニセ科学に陥りかねない嘘事を語ってしまったのでは意味がない、可能な限り科学リテラシーの底上げそれ自体を図っていって、農家の方々が自発的な判断が出来るように持っていきたい、そういう欲も出てきますよね。
そこはたしかに悩ましいところです。それに対しては何の助言も出来ませんが(笑)、がんさんのように考え込まれることが重要なんだと思います。「あるある」打ち切り問題を語った際に触れたことですが、ああいう悪質な番組を製作していながらスタッフたちはそれを誰に愧ることもない誇るべき仕事だと考えていたわけで、世間に対して有益な情報をわかりやすく提示し得ていると思っていた、少なくとも製作スタッフの一人はそのように語っていました。
やはり、大人相手の情報コミュニケーションでは、わかりやすさという基準を金科玉条のように奉ってはいけないんだと思います。児童相手なら、わかるべき内容を単純化して想定しているし、そのようにしか相手が受け取れないのだから、それはそれでいいんですが、大人の場合は「この程度わかれば好い」と一旦設定したら、それ以下になることはあってもそれ以上のことは決して伝わらない。
それではダメなんだと思います。他の方へのコメントで、わかりやすさと情報の精度は相補的な関係だと言いましたが、現実的にはその間でバランスをとっていかねばならないのだろうし、それには正解がない以上、かなりストレスフルな仕事になると思いますが、その葛藤から解放されて楽になってしまった者は、「あるある」に気味が悪いほど酷似した情報発信に手を初めてしまうのでしょうね。
ですから、甚だ無責任な言い方ですが、頑張ってください。がんさんが悩んでおられる事柄は、考えるだけの価値のある問題なのですから。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月10日 (金曜日) 午前 12時46分
>kaqu11さん
はじめまして、コメントありがとうございます。どうやらそちらからのTBが通らなくなっているようで、申し訳ありませんでした。多分、プロバイダの相性の問題とかそういう理由でしょうから、暫く待ってみると大丈夫かもしれません。
さて、kaqu11さんがそちらのエントリーで語っておられる内容についてのお返事をここでレスするのもアレですが、どうもオレのコメントスタイルは或る特定の感受性の方にはナチュラルに勘に障るところがあるようでして(笑)、初めての方のところで込み入ったことを長々書くと、割合荒れるパターンが多いのでこちらにて。
エントリーを拝読して、なるほど、そういうこともあるかと思いました。そういう意味では「最新の知識」という表現は誤解を招くところがありますね。オレの言わんとするところというのは、「現時点で概ね正しいとプルーフされている知識」ということなんですが、ちょっと曖昧な表現ではあります。
たとえば、最近ノーベル賞受賞の話題で出てきた「対称性の破れ」なんてのは、科学啓蒙書が好きな人でもない限り聞いたこともない話ですよね。TVでも、クラゲから抽出した発光物質の話では解説も歯切れが良かったですが、先行する三名の研究内容については「どうせわからないだろうと思いますが、わからなくても恥ずかしくないですよ」的なニュアンスが感じられました。
キャスターや司会者が自ら「ちんぷんかんぷんでわからない」的なポーズをとってみせるというのは、そういう意味なんではないかと思います。たしかに、わからなくても恥ずかしくない内容ではありますし、それはつまり、現在最も正しいだろうと見做されている物質観ではあるけれど、普通の人は識らないし識らなくて当然のレベルの知識だということですね。
kaqu11さんがお書きになった喩えで考えても、たとえば「物質の最小の単位は原子である」という言い方をすると厳密には間違いということになりますよね。しかし、物質というものが原子で構成されているという認識は間違いではありません。で、
>>自分の経験から言えば、たとえば原子の構造なんかですと、中学生の時は惑星に似たような形で習ったと記憶しているんですよね。原子核の周りの決められた軌道内に電子がいくつかずつ存在しているという形で。
これも、概念モデルという意味では間違いではないのではなかったでしたっけ? 単に原子核の中に、マクロな現実レベルで考えるような円い球のような堅い物質が具体的な位置に局在して核の周りを規則的に周回しているというふうにイメージすると、それは正確な認識ではないということになるんだと思います。
これに続けて、
>>このモデルだと、電子と原子核の距離は一定で変化できないように思えてしまいます。が、量子論の議論によるとそうではなくて、電子と原子核の距離はいくらでも変わることが出来るがその確率に違いがあり、確率がもっとも高いところを中学ではその軌道として習った、ということになるはず……です。確か。違っていたらすみません、ですが。
ここで「思えてしまいます」と書かれているように、実はこの惑星型の概念モデルというものの問題点は「そう見える」ということであって、緩い意味では間違った知識というものではないですよね。量子論まで理解していないと間違って解釈する可能性が多分にあるということが問題なわけで、今でもこういう概念図を用いて量子論を解説している概説書とかありますよね。
で、やっぱり量子論でも「軌道」とか「スピン」とか謂うタームが出てくるので、概念的な比喩としては惑星の軌道とのアナロジーでは考えられていると思うんですが、マクロなレベルの物質の振る舞いとまったく同じではないわけで、正確を期すならミクロレベルにおける物質の奇妙な振る舞いまでを教えないと、最先端の知識を教えたことにはならないということになると思います。
そして、kaqu11さんがエントリーでお書きになっている線引きというのは、本来こういう「これ以上正確且つ詳細に理解しようとすれば専門的な知識が必要となるが、概ね一般的な成人の知的能力で理解可能な範囲で正しいとプルーフされている知識」までを教えるということになるんではないかと思います。
だとすれば、地動説を教えないとなると何が問題かと謂うと、天動説というのは「正しくないとプルーフされた知識」だからなんですね。先の原子の喩えで謂えば、物質は原子で構成されているということまでは正しいわけですから、これが物質の最小の単位だとか余計な間違ったことを謂わない限り、とにかく物質を切り分けていくとかなり先のほうで原子という単位になるんだということは間違っていないわけで、さらにその先に進むとクオークのような素粒子になるわけですが、原子の段階で教育を止めてもそれは間違った知識にはならないわけです。
ただ、天動説的な観点で成立した天文の基礎知識を教えておいて、それは実は地球が動いているから相対的にそう見えるだけなんだということを教えないとなると、正しくない知識だということになるわけです。
ちょっとここまで天動説・地動説の喩えを便利に遣いすぎましたが(笑)、実際に亀さんのお話の教師の方が仰ったことは、「天動説が正しい」と教えているという意味ではないことはもう一度強調しておく必要がありますね。基礎的な天文学というのは、地上から天球を視た視点で説明されることが多いわけですから、地球が動いているから相対的にそう見えるのだという説明を省くと、地上からの視点で天球を視た場合のように宇宙の構造を誤解する可能性がある、それをして「天動説で教えている」という表現をされたわけですね。
つまり、地動説すなわち地球もまた他の天体と同様に運動していて、しかも他に比べて視た目通り巨大なわけではないというのは、天文学的な世界観の根底となる認識ですから、これを教えない限りその天文学は正しくないということになります。だから地動説を教えることは、教育の内容が正しく在る為には欠くべからざる必然だということになります。
一方で、原子構造や量子論の話なんですが、これも線引きの基準は割合明確なんではないかと思います。つまり、われわれがイメージしている原子のレベルまでは、マクロな現実のアナロジーで実感的もしくは視覚的にイメージ可能ですから、特定の専門知識や学問の基礎的トレーニングがなくても理解可能です。
ところが、量子論のレベルになると、本当の意味で理解する為には数学と物理を一通り大学レベルまで修めて、数学の記述できちんと個々の学説を理解する必要があるわけです。マクロな現実とのイメージのアナロジーでは理解出来ないんですね。
そもそも観察的な事実に基づいて考えられたことではなく、数学的な記述から出てきた学説ですから、マクロな現実のアナロジーである視覚的イメージで考えても不正確な理解だということになります。これを比喩で謂えば、リンゴが地べたに落ちるのを視て量子論が発見されたわけではないんですね。
量子論のレベルで提示される視覚的イメージというのは、実は数学的に記述されている学説のイメージ的な比喩にすぎないですから、概説書を読んで理解出来る程度の知識というのは、実は「専門家がそう言っているんだからそうなんだろう」という受け取り方しか出来ていないわけです。
で、素人が何の学問的訓練もなく量子論を理解したつもりになっても、それこそ江本氏が量子論を素人目にも甚だしく誤解しているようなことになるわけで、厳密に謂えばわれわれのように数式レベルで量子論を理解していない者は、量子論がわかっていないと表現するのが正しいのだと思います。
ですから、一般教育で量子論を教えない線引きの根拠は非常に明快で、それを正確に理解するには専門教育と長年月のトレーニングが必要だから旧い原子構造モデルの段階までしか教えないわけです。
ところが、たとえば「円周率は大体3の近似でいいじゃん」とか「平方根なんて要らなくね?」「天体の見た目の動きさえ理解していれば一般生活に不便はないじゃん」というのは、そういう意味での明確な根拠というのはないんですね。極論すれば、そういうふうに言い出した人間がそういうふうに考えているというだけのことで、学問的に視れば不完全で正しくない内容だということになります。
で、何故そんな無理無体な刈り込みをしなければならないかと言うと、学ぶことがあんまり多いと子供が勉強漬けになって有意義な子供時代を送れないから、という、非常に恣意的且つ便宜的な理由に基づいているわけです。でも、オレなんかもう大人だからこの際暴言吐いちゃいますけど、子供なんて勉強漬けで構わないですよ(笑)。
子供時代に「さあ豊かな子供時代を過ごしなさい」みたいに言われて育った子供が有意義な子供時代を過ごしたかと言ったら、そんなことないんですね。単に大人になってから困った(周りも自分も)子供が増えただけで、「ゆとり教育の弊害」なんてフレーズがギャグで遣われるような世の中なわけです。
まあ、その辺の話を始めるとまた論点が逸脱しますから自重しますが(笑)、「児童教育において何が必要とされるのか」という観点ではなく「児童には何が必要なのか」という、それこそ人それぞれで価値観によって違う事柄をお上の天下り式で制度に反映させようとするから、可能な限り明快な根拠が必要とされる「線引き」の問題に不合理が介在するのだ、そういうふうに思います。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月10日 (金曜日) 午前 02時07分
黒猫亭さん
レスありがとうございます。TBは黒猫亭さん以外のところでも何箇所かで最近失敗しているので、FC2の問題のような気がしています。
さて、ちょっと私が混乱しているので整理させてください。亀@渋研Xさんが出された天動説の例ですが、黒猫亭さんのご意見としては
1. 亀@渋研Xさんに話をされた先生は、「まず地上から見たときの太陽や星の動きをしっかり観察・理解させる」という意味で「天動説」という言葉を使った(だろう)
2. 「まず地上から見たときの太陽や星の動きをしっかり観察・理解させる」という教え方自体には特に問題はない
3. ただし、うっかり「地面は動きません」などと言ってしまうと問題がある
4. また、「太陽や星の動きを観察させる」だけでなく、いずれは地動説まで教えないとそれは天文学としては正しくない
ということでしょうか。もしこうだとすれば、ちょっと違和感があります。というのは、次の原子の構造の例と比較して、
2. 「とにかく物質を切り分けていくとかなり先のほうで原子という単位になる」という教え方自体には特に問題はない
3. ただし、うっかり「これが物質の最小の単位だ」などと言ってしまうと問題がある
4. また、「原子という単位になる」だけでなく、いずれはクォークのような素粒子まで教えないとそれは物理学としては正しくない
ということになってしまわないか、と思います。
天動説の例でも、地上から観察される太陽の動き、星の動きを教えるだけならそこで教育を止めても間違った知識とはいえない気がするんですよね。
ただ、黒猫亭さんの仰るとおり天動説の場合と原子の構造の場合で大きく異なるのは、直感などの諸々の力を動員してイメージできる範囲の問題で、
・地動説で語られる惑星の動きはイメージしやすい
・量子論等で語られる素粒子の振る舞いはイメージしにくい
ということがあると。
あまり専門的になり過ぎない範囲、習得に時間の掛かり過ぎない範囲で可能な限り正確なことを教育課程に盛り込もうとすると、地動説は(習得にそれほど負担がかからないので)入ってくるけれども、量子論は入ってこない。ただし、より正確さを求めるため、たとえば原子のモデルの中では最も現実に近いと思われる惑星モデルを使い、それ以前に提唱されていたプラムプディングモデル(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90の右側に絵があります)などは使わない――ということでしたら、確かにかなり明確な線引きと言えるかもしれないですね(習得に時間が掛かりすぎる、のところでどうしても曖昧さは残ってしまいますが)。
>オレなんかもう大人だからこの際暴言吐いちゃいますけど、子供なんて勉強漬けで構わないですよ
そんな、引退した途端に練習メニューをもっと増やさないとだめだと言い始める部活の先輩のようなことを。……というのは冗談ですが。
投稿: kaqu11 | 2008年10月10日 (金曜日) 午後 10時44分
>kaqu11さん
これはやっぱり、こちらの説明の問題ということになるかもしれませんね。亀さんのところでも言葉を多義的に用いた為に混乱が出てきましたけど、kaqu11さんの疑問もそういう問題なのかな、と。
というのは、
>>4. また、「太陽や星の動きを観察させる」だけでなく、いずれは地動説まで教えないとそれは天文学としては正しくない
>>4. また、「原子という単位になる」だけでなく、いずれはクォークのような素粒子まで教えないとそれは物理学としては正しくない
この二つの結論で用いられている「正しくない」という言葉の意味は、実は厳密に謂うと違いますよね。
前者の場合は、「命題として偽となる」という意味で「正しくない」ということになりますが、後者の場合「知識として完全ではない」という意味で「正しくない」ということになります。
一見して両者ともに、「或る段階以上の知識を教えない」ことが条件となるにもかかわらず、前者が「命題として偽となる」と考えるのは何故かと謂うと、
>>1. 亀@渋研Xさんに話をされた先生は、「まず地上から見たときの太陽や星の動きをしっかり観察・理解させる」という意味で「天動説」という言葉を使った(だろう)
このプロセスの中に、かなり積極的に「地球は動いていない」という意味性が潜在しているからだろうと思います。何故地動説が現れる前まで広く天動説が支持されていたかと謂うと、人間が眼前にある現象を感覚的に捉えて考えるなら、地球が動いているというふうにはまず考えられないからですよね。
つまり、地動説という形で積極的に新知見が提示されない限り、普通の人間は天球上の天体の動きを観測するだけだと「観測者であるわれわれがいるこの地上の世界は動いていない」という観念が自然に前提視されるということで、それは中世の人間だろうが現代の人間だろうが同じだということです。地動説というのは現象の日常的な観察的感覚からはまず出て来ない結論だからですね。だから視差の問題なんかがイレギュラーで不思議なこととして考えられていたわけです。
なので、件の先生が仰った「天動説で教えている」というのは、「地動説まで教えない限り天動説を教えている『ことになる』」という、もっと強い意味があるわけですね。普通の人間なら、地動説を教えられない限りごく自然に天動説を前提視して考える、積極的に「地球は動いていない」と教えない限り、「地球以外の天体のみが動いている」という認識を支持していることになる、つまり天動説を教えていることになる、ということです。
たとえば、われわれ地動説を識っている大人が「太陽は東から昇り西に沈む」と言ったとしても、その言明は暗黙裏に「地上から観測した場合の天体の見掛け上の動きを表現した説明である」という認識を前提視しています。しかし、その前提を共有していない子供にとってはそうではありません。その言葉通りに受け取るわけですが、それは天体の実体的な運動を説明する言葉としては正しくないわけです。
勿論、今時の子供たちが、学校教育以外の文芸作品や教師の余談として地動説の存在を識っているという可能性は高いですが、原理的に言えば、地動説を教えずに天体の動きを説明する以上は、「地球は動いていない」という感覚的に自明な前提を支持して、天体がその見掛け通り不動の大地の周りをグルグル動いているのだと教えていることになるわけです。
さらに謂えば、見掛け上の天体の動きをしっかり教えてから地動説を教えるという段取りにも意味があって、まず天体という概念を教え、一般的な天体が宇宙空間を規則的に運動していることを教えた上でないと、「地球『も』動いている」という言明の意味が理解出来ないからではないでしょうか。
宇宙や天体やその運動という大雑把な概念の枠組みがない段階で、たとえば「地球は動いている」と教えたとしても、普通の子供は地震のような実感的に把握可能な感覚に基づく現象しかイメージ出来ないのではないでしょうか。なので、天体の運動という枠組みを与えておいてから、「地球『も』動いている」と教え、地球が動いていないように見えるのは、たとえば一定速度で動いているクルマに乗っているときに他のクルマを視るときのような理屈でそう見えるのだと説明する。
ですから、同じ「或る段階以上の知識を教えない」ことではあっても、地動説の場合と量子論の場合はかなり明快な違いがあると謂えるわけです。天動説というのは、人間の感覚からして自然な考え方ですから、地動説を教えない限り前提として誰でもそう考えるだろうと考えられます。しかし、それは誤った認識なわけで、その誤りを正す為には地動説を教えることが必要になります。それは、それまで教えた知識を正しいものとする為には必須のプロセスと謂えるわけですね。
しかし、量子論の場合は単に原子から先の物性を識らないというのみに留まります。それは物理学の網羅的な知識として「完全ではない」という言い方は出来ますが、原子レベルまでの知識しかないとしても、その原子に関する知識自体は誤ってはいないわけです。
だからそこで区切りを附けても問題はないわけで、それ以上の知識を識らないと、現有の知識が誤りになる場合とならない場合があるということですね。
で、これが言葉の問題だというのは、たとえば先ほど触れたように、「正しい」と一口に謂っても、或る体系的な知識が一通り網羅されていることを「正しい」という言い方をすることもあれば、或る知識が真であることを「正しい」と言う場合もあるわけで、この二つを分けずに「正しい」という言葉を遣うと説明が混乱します。
また、「完全・不完全」という言葉も、「或る命題を真とするには不完全である」という言い方もあれば、「知識を網羅していないから不完全である」という言い方もあるわけで、幾通りも意味がありますよね。
で、今回の文脈で謂えば、一般的な児童教育では、各方面の知識の体系をすべて網羅的に完全なものにすることは出来ませんし、その必要もありませんから、網羅的な意味での体系の完全性は求められないわけです。したがって、体系を網羅しているという意味での正しさも求められない。それ故に、何処かで区切りを附けてそれ以上のことを教えないという選択は必要であり、そうしても差し支えはないだろう。
ただし、その限られた教育内容が知識としてそれ自体が真であるという意味での正しさは求められるわけだから、地動説は必須だが量子論は必須ではなく、専門教育に一任しても構わない、そういう筋道になります。
ちょっと前回の説明は、オレのほうで言葉の意味を多義的に遣ってしまったので、意味が通りにくかったのかな、と思います。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月12日 (日曜日) 午後 12時09分
一つ書き漏らしていたことがあったので、念の為に追加です。
天動説と地動説というのは、天文学を考える上でそれだけを切り出して考えるわけには行かない根本的な世界観の問題ですよね。ですから、天球の天体が不動の大地の周りをグルグル動いているのか、それとも宇宙空間における地球と他の天体の運動に基づいて相対的な位置関係でそう見えるのか、というのはすべての天文学の知識に関係する認識であって、それだけを切り分けて考えることは出来ないわけです。
そう見えているだけなのか、見えている通りのことが実態なのか、これは全然違うことですから、これはすべての天文学に関わってくる認識と謂えるでしょう。そういう意味で「それまでの知識を真とする為に必須の知識」と申し上げたわけです。
そういう次第で、なかなかこれは説明するのが難しい事柄ですね(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月12日 (日曜日) 午後 12時29分
黒猫亭さん
あ、なるほど。ちょっと分かったような。天動説の例の場合には、余計なことを言わなかったとしても聞いた生徒の側は「地面が止まっていて星が動く」と勘違いしてしまうので、より誤り(多義的な言葉ですが)を正す必要性が大きくなる、という感じでしょうか。
そして、「勘違いされることが多いなら最初から地動説で教えればいい」かというとそうでもなく、生徒の理解を助けるためにはまず(天文学で言うところの)天体の動きというものを理解させるためには有効であるから、天動説的な教え方→地動説的な教え方というセットで進むのが効果的であると。
> ただし、その限られた教育内容が知識としてそれ自体が真であるという意味での正しさは求められるわけだから、地動説は必須だが量子論は必須ではなく、専門教育に一任しても構わない、そういう筋道になります。
これも、分かるんですが。分かるような気がするんですが。ただ……、これは私の科学に対する理解力の問題なんですが、
・地動説についてはそれなりによく理解している(つもり)
・量子論についてはあまりよく理解していない(これは自信を持って)
という事情があるものですから、地動説は天文学の知識を真にするために必須で量子論は必須ではない、という判断を私が下すときに、
「地動説はよく知っていることだから必須だと感じてしまい、量子論についてはよく知らないから必須ではない、という判断をしているんじゃないの」
という疑念が拭えないんですよね自分の中で。よく知らないことなので自信を持って必須ではないとは言い切れないといいますか。
とはいえこれは私個人の理解力の問題ですから、ちょっと自分であれこれと考えてみたいと思います。どうも、色々とありがとうございました。
投稿: kaqu11 | 2008年10月13日 (月曜日) 午前 10時12分
>kaqu11さん
>>「地動説はよく知っていることだから必須だと感じてしまい、量子論についてはよく知らないから必須ではない、という判断をしているんじゃないの」
ご自分でお考えになられるということですが、オレが自分の考えを整理する意味で、もう少しだけ説明させて戴きますね。この問題については、kaqu11さんが仰った「地動説はよく知っている」「量子論についてはよく知らない」という事実それ自体が考察のヒントになるんではないかという気がします。
地動説は一通り説明されれば大略がわかって、それで割合正確な認識を持つことが出来ますよね。勿論、専門教育を受ければもっと深い理解が可能ですが、われわれ非専門家が理解しているような大略の説明それ自体が不正確だとか間違っているということはないと思います。
しかし、量子論というのは専門家からどんなに丁寧に説明されても今ひとつよくわからないところがあって、多分あらましのところを掻い摘んで理解したつもりになっていても、その認識は正しくないでしょう。
たとえば、量子論では「電子雲」なんて用語を遣いますね。これ、ベタに解釈すると原子の中で電子が雲状に拡がっている状態というイメージを持ちますけど、これはおそらく正しい認識じゃないんですよ。科学番組なんかでは、そのまんま雲状に拡散したCGの模式図とか見ますけれど、これは多分概念図で、実際に原子の中で粒子が実体的にこういう状態になってますよ、という意味じゃないと思うんです。
そもそも量子論の理屈で言えば、雲のように拡がっている状態の電子を視ることなど誰にも出来るはずはないんですから、そんな視覚的イメージ自体が一種の「喩え話」であり電子雲というタームを正確に表現したものではないと思うんですよ。普通の人間は、確率分布としてしか存在しないものを実体的にイメージすることが出来ないから、多少の不正確さに目を瞑って雲のように視覚化しているわけですね。
所謂観測者問題というのがありますから、観測した瞬間には必ず何処か特定の位置に存在するわけで、観測以前の電子を雲状に拡がった状態として視覚化するということ自体が不正確な表現であると謂えるでしょう。そのビジュアルは誰の見た目なんだという話になりますから、わかりやすい雲状の模式図自体が素人に対しては不確定性原理を誤解させる効果を持っているわけです。
では、どのように認識するのが正しいのかと謂うと「粒子は観測されるまで明確な位置に存在せずそれぞれの位置に対して確率的に存在する」という、そのまんまの形で理解する必要があるわけです。確率という数学的な概念に依拠する存在の在り様を、喩え話や視覚的イメージに加工するのではなく、そのまま受け容れる必要があるわけですね。電子雲という概念図で雲状に拡がっているのは、粒子それ自体ではなく「粒子の存在」という概念的なものなんではないかとオレは理解しています。
で、不確定性原理に対しては波動関数による重ね合わせなんて考え方もあるらしいですが、これは大略どういうことなのか、ではなくて、波動関数という数学的な記述を理解していないと正しい理解とは謂えないわけで、それを噛み砕いて説明すると全部不正確な「喩え話」になってしまうわけですね。「観測による波動関数の収縮」なんて謂われても数学的記述を理解していない人間の認識は概ね間違っているはずです。
アインシュタインの相対性理論と量子論を併せて現代物理学と称し、それまでの古典物理学と区別されるらしいですが、現代物理学の領域というのは、非専門家に対して簡略化してわかりやすく説明すると、「大略どんな原理なのかというイメージを与える為の喩え話」にしかならないわけで、それは必ず一定の(しかも大きな)不正確さを孕んでいるわけです。
そして、イメージや喩え話を教えるのはさすがに教育の役割ではないでしょうから、非専門家に対しては、教育の対象とするのは不適当だと謂えるでしょう。ただ、非専門家がそのような専門的な知識について大略のイメージを持つことそれ自体は教養の範疇の事柄ですから、不必要だとまでは謂えない。だから現代物理学についての噛み砕いた概説書などが存在するわけで、それは一般教養書などの「読み物」が担うべき役割だと思うんですね。
そのような「読み物」が存在するお陰で、kaqu11さんにしろオレにしろ、量子論については不正確だけれど素人相応の「イメージ」を持てているわけです。で、多分、オレにしろkaqu11さんにしろ、その量子論の理解は必ず「間違っている」わけで「量子論を理解している」なんて到底言えないわけですね。
理解の程度で謂えば、江本氏の「波動」の理解と大差ないわけで、この種の知識というのは、「或る決められた手順」で正確に理解しているのでない限り、専門的訓練を受けていない素人がどんなに頑張っても正確な理解の近似にしかならないわけです。江本氏の間違いは、正確に理解出来ているはずのない知識を、正確でなければならない事実を語る自説の説得力を増す為に援用しているということで、本来、科学者でないのであればそういういい加減なことはやっちゃいかんわけですね。
一口に知識と謂ってもそういう階層性があるわけで、わかりやすく説明されれば一般人でも間違いのない範囲で簡略化されたところが理解出来る知識と、原理的に簡略化出来ず専門的訓練を受けていない限り決して正確に理解出来ない知識があります。
前者は或る程度詳細を間引けば一般的な教育の対象に出来ますが、後者は必ず専門的教育の分担となり、そのあらましを語ることは教育ではなく教養を深める為の自発的読書の分担となる、そういう分類になるのではないかと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月15日 (水曜日) 午前 08時59分
こんにちは、黒猫亭さん。
あまり意味があるかどうかわからないけど、私は悪徳商法批判とかの中で。「2つの学習」という話をしていました。発達心理学の知識と社会心理学の知識を混ぜ合わせた話なんですけどね。2つの学習というのは、言い換えれば「知識の教育」と「態度のしつけ」と分けても良い話です。
幼児は「快」を求めて様々な事をして叱られる訳ですが、その時2つの学習をすると説明する訳です。一つは「やったこと」が何故いけないのかという「知識」です。もう一つは「叱られる」という「不快」を与えられる事で、今度、快を求めて何かを為しかけた時に「不快がやってくるのでは」と不安を感じる条件反射付けです。
私は幼児のお絵かきを良く例に出しました。エンピツでもクレヨンでも良いのですが、紙にすりつけると線が描けるという事に幼児は夢中になる訳です。でもって、紙からはみ出しても最初は止めることができないのです。運動能力的に止められない面も有りますが、それ以上に線を描くという事に夢中に成るので「止める」という事は意識にも浮かばないからです。そして、一度、「紙の上に描きなさい」と教えられ、厳しくしかられる事で、2つの事が教えられはするんです。一つは「紙の上に描かなくては成らない」という知識であり、もう一つが「叱られて不快であった」という感覚です。
でもって、この2つの学習の困難さはずいぶん違います。知識は直ぐに覚えられるのですが、叱られるという不快さが、何か「快」を求めて行動する前に「不安感」として発動する様になるのは条件反射付けですから、何度も経験する必要がある訳です。そのためお絵かき好きの幼児は何度も紙からはみ出して下のテーブルや床を汚してしまいます。紙からはみ出しそうに成ったときにまず条件反射的に「不安感」が出て、その不安感に後押しされて、「紙からはみ出して描いてはいけない」という知識が出る様に成るものだからです。
私はこの話を内職商法に騙されて消費者センターの指導で「契約の経緯書」を悩み悩み書いている主婦の方なんかにしていた訳です。「あなたは今、難しい、辛いと思いながらそういう手続きをやっている。その辛さが大事なんです」なんて説明ですね。「あなたが勧誘された時、あなたの頭の中は『それだけ副収入があれば』という夢で一杯になり、『大丈夫だろうか』という不安感は入り込む余地が無かったのですよ」とお絵かきを覚えたばかりの幼児のたとえ話をして、「幼児が繰り返さない様になるには、快に心を奪われそうに成るとき、不安感が出るように条件反射付けされなければならないのと同じように、今あなたが『辛い』と感じることで条件反射が発生するのだから」とね。
変な話を書きましたが、我々はこの2つめの学習というのを良く忘れているのではないかと思うんですね。そして一つめの「知識としての学習」に全てを求めすぎているのではないかと思うんです。そのため、知識としての学習を強くインパクトづける事ばかりに意識が行った結果として水伝なんかも有るような気がするんです。
投稿: 技術開発者 | 2008年10月27日 (月曜日) 午前 09時42分
>技術開発者さん
>>幼児は「快」を求めて様々な事をして叱られる訳ですが、その時2つの学習をすると説明する訳です。一つは「やったこと」が何故いけないのかという「知識」です。もう一つは「叱られる」という「不快」を与えられる事で、今度、快を求めて何かを為しかけた時に「不快がやってくるのでは」と不安を感じる条件反射付けです。
これは興味深い論点ですね。重要なヒントを戴いた感じです。
というのは、たとえば技術開発者さんが仰るような、
>>変な話を書きましたが、我々はこの2つめの学習というのを良く忘れているのではないかと思うんですね。そして一つめの「知識としての学習」に全てを求めすぎているのではないかと思うんです。そのため、知識としての学習を強くインパクトづける事ばかりに意識が行った結果として水伝なんかも有るような気がするんです。
というようなこと、これが何故横行するかというと、一つには今の教育現場では「子供に不快を与えること」それ自体が忌避されるという状況があるんではないかと思うからです。こういうことを軽々に言うと、たとえばfillion さん辺りにまたお叱りを頂戴するかもしれませんが(笑)、大丈夫です、fillion さんはまだこの辺は読まれていないはずですから(笑)。
たとえば、今の教育現場では、勿論体罰は大きな問題になります。でも、子供に肉体的な暴力を揮ってはいけないというだけではなくて、精神的な暴力を揮ってもいけないという風潮が今はあります。そのことの是非については、オレはまだ確定的に判断する材料を持っていませんが、たとえば教師が子供に対して、躾けの為の不快を与える目的で痍附けたとしたら、それもまた大きな問題となるでしょう。
幼児の躾けにおいて最も効果的な不快感というのは、「屈辱感」ですよね。恥ずかしい振る舞いをしたのだということをわからせようとして、その恥ずかしさを実感としてわからせるような指導をしたとします。それは子供にとって大きな不快感として感じられるわけですから、技術開発者さんが仰るような躾けに必要な不快感としては最大限に効果的な感情です。
しかし、今の幼児教育では、子供に強い屈辱感を与えることは、それだけで精神的な暴力と見做される傾向があるように思うんです。たとえば、旧くからある言葉にフールスキャップというのがありますよね、いけないことをした子供に被らせる滑稽な帽子のことです。また、いけないことをした子供の胸に「ボクは、ワタシはこれこれの恥ずかしいことをしました」と大書したプラカードを提げて廊下に立たせる、そういう躾けも昔は行われました。
今はそんなことをすると大問題になります。いたずらに子供のプライドを痍附け精神的外傷を与えたとして、それは深刻な精神的暴力と見做されます。これは古典的躾け術の解説にすぎないですが、類似の行為をしてTVのバラエティショーで見世物にされた教師は枚挙に暇がないですよね。
オレは教育については素人ですから、子供に屈辱感を与えることが本当に忌避されるべき暴力なのかどうかについては確言出来るほどの知識はありません。一方では、幼児に対する躾けには不快感が必要だという技術開発者さんのご意見には賛成です。しかし、おそらく今の教育者は、子供の頬を殴ってはいけないのと同じくらい、子供の心を殴ってはいけないという重い枷を負わされているのではないかとも思います。
その故に、どうしても一つめの学習に力点が入ってしまう。現在の教育システムにおいては、子供が何かを学ぶ為には子供の自発的学習意志というものがかなり重要視されていて、大人の圧し附けが最大限に排除されている。そうすると、アメとムチが成立しなくなって、どれだけ甘いアメを与えるかという問題になる、それが問題の一端としてあるのではないか、と思いました。
その一方では、たしか一昨年くらいだと思いましたが、総合的な学習のアイディアについて物凄い話も聞いていて、食育の一環として児童にブタを育てさせて、好い頃合いになった時点で、そのブタを殺して喰わせるということをやった学校があるというんですね。
子猫殺しの某作家の件に関連してちょっと小耳に挟んだことですから、真偽のほどはわかりませんし、具体的な内容も識らないのですが、これが本当だとすれば、「みんなで分担して生き物を育てる」という、子供にとっては飛びきり甘いアメで釣っておいて、情が移った頃合いでその生きを殺して喰わせるというのは、飛びきり苦い不快感ですよね。それこそ、子供の情操の発達に悪影響を及ぼしかねない。
大人だってその辺のことはきちんと「心に棚をつくって」整理していて、生の形では対峙出来ないような、飛びきり苦い生の真実なのですから、それを無防備な子供に生の形でぶつけるのは、ちょっと行き過ぎでしょう。
これはちょっと、剰りにも極端すぎるのではないかと思いました。
たしかに子供には受け止めきれない現実というのは世の中にあるのだし、それをどう教えるかということでみんな悩んではいるんだと思います。子供は痍附くことなしに世界を学ぶことは出来ないけれど、痍附くことで潰れる子供もいる。今の世の中は、子供を潰さないことを最重要の目標とする社会なのでしょうけれど、その結果として今は幼形成熟じみた不気味な大人が氾濫している。
だから、教育の問題というのは難しいんだと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月29日 (水曜日) 午前 12時21分
ちなみに、
>>食育の一環として児童にブタを育てさせて、好い頃合いになった時点で、そのブタを殺して喰わせる
この話を聞いてオレが真っ先に連想したのは、福井晴敏の「亡国のイージス」だったんですけどね。この小説では、自衛隊の特殊部隊で、サバイバル訓練の一環として兵士一人ひとりに子犬を預け、苛酷を窮めるサバイバル訓練の間中その子犬と共に助け合って行動することを命ずる。
そして、訓練の仕上げとは、苦楽を共にしたその子犬を自らの手で殺して喰うことだと謂うんですね。そこまで非情に徹しなければ、極限状態で生き残れない、そういう作家的想像力なんですが、まさか現実の小学校の教育でそんな訓練が行われていたとは、さすがの作家先生も想像すら出来なかったんじゃないでしょうか。
一応お断りしておきますと、小学校の授業のほうでは子供たちにブタを殺させたわけでは決してありません。子供たちが育てたブタを業者に渡して精肉させたような話を聞いていますが、なかには「このブタはボクたちが殺さなくちゃいけないんだ、それが責任なんだ」と思い詰めた子供もいたとのことです。
投稿: 黒猫亭 | 2008年10月29日 (水曜日) 午前 12時39分
こんにちは、黒猫亭さん。
>幼児の躾けにおいて最も効果的な不快感というのは、「屈辱感」ですよね。
う~ん、このあたりかなり相対的なのね。お絵かきの話で言うと、たいていその時期は乳児から幼児への移行期の話だから、いつでも「ほほえみかけ、あやしてくれる」親がお絵かきで床を汚したときは怒った顔をして「駄目でしょ」と少しきつめの言葉を発するだけで、その年代の幼児にはかなり大きな「不快」だったりするんですね。でもって、だんだんと幼児が「自分でする」とか言い始めて親の微笑みとかを常に必要としなくなる時を経たら、単に微笑みが無くなっただけだと「不快」の効果は弱くなって、「親は怒っている」をきちんと感じる事で「不快」の伝達ができるようになるって感じですね。
屈辱感に関して言うと小学生に成った頃くらいから「自分は色々できるんだ」みたいな自尊心みたいなのが芽生えてくるのね。それとの対比として「不快」の伝達となる訳です。
理解して欲しいのは発達段階だけではなくて、普通の状態とのギャップこそが「叱る」という事の「不快感」を決定する訳ね。「大きくなったね、もういろいろな事が自分でできるね」と普通に言われている子にとっては「きちんとできない」と言われるだけで大きな「不快」となるし、「いつもいつもきちんとできない」と言われていたら、あまり大きな「不快」にはならないという事ね。
私は自給性の強い田舎で育ったから、小学生くらいから労働力として期待されていた訳ね。その環境で「きちんとできない」と言われると不快であり、それが今でもかなり強い影響を私に及ぼしている面があります。鶏を絞めて肉にするなんてのを中学生の時にはやっていましたからね。
投稿: 技術開発者 | 2008年10月29日 (水曜日) 午前 08時44分
>技術開発者さん
>>う〜ん、このあたりかなり相対的なのね。お絵かきの話で言うと、たいていその時期は乳児から幼児への移行期の話だから、いつでも「ほほえみかけ、あやしてくれる」親がお絵かきで床を汚したときは怒った顔をして「駄目でしょ」と少しきつめの言葉を発するだけで、その年代の幼児にはかなり大きな「不快」だったりするんですね。
この辺、発達心理学なんかでチラッと聞いたことでは、言語獲得以前の乳幼児は母親と自分を別のものとして認識していないということですね。母子一体の未分化状態というような言い方をするようですが、母親も子供は自分の肉体の一部(つい最近まで腹の中にいたわけだから自分の肉体の一部と視ても間違いではない)という感覚があるし、子供のほうは終始自分にくっついて自分の面倒をみてくれる母親を自分の外部にある別個の存在とは認識出来ない。
母親が自分の意志の通りに動いてくれないと、たとえば自分の手が自分の思い通りに動かないような不快感を感じるわけで、別個の他者に対する敵対的な感情というより癇癪に近い苛立ちや怒りを感じるわけですね。また、自分を取り巻く環境もまた自分の外部に存在する自分とは切り離された実体であることを認識出来ないので、普通に母親に守られて育つ乳幼児は一種の全能感のようなものを持っている。
しかし、乳幼児が徐々に言語を獲得し躾けの為に厳しい言葉を掛けられるようになってくると、母親と自分が別々の存在であることや、世界が自分とは無関係に存在する実体で必ずしも自分は全能ではないことを識ってくる。そのようにして、母親や世界から切り離されることで、自分の内と外の境界が成立し、自我というものが形成され始める。
フロイティズムなんかでは、この時期から言語獲得の時期にかけての段階で父親が果たす役割を、外部から禁止の言葉を発する存在と位置附けていたかと思います。父親というのは、子供を腹の中で育てたわけではないから、子供が自分の肉体の一部であるという意識がない。自分の身体から乳を与えるわけでもないから、子供とは言語を介してしか関係することが出来ない。
母子一体の未分化状態にある母親と子供の間を切り離し、子供の意志に対して否定的に働き掛ける外部の命令者として父親が立ち現れることで、子供は母親と世界が自分とは異なる別個の存在であることを認識する、そんなふうなストーリーだったかと記憶しております。
このようなプロセスを経て、外部の世界と対峙する自分という人格が形成され始めるわけで、幼児的な全能感は一旦挫折をみるわけですが、自我の形成が進行するに遵って、嘗て喪った無根拠な全能感に替わって自分自身の力で外部の世界に働き掛けることが出来るという実感を積み重ねることで強靱な自我が形成されていくわけですね。
このストーリーに則って技術開発者さんのお話を再話すると、乳幼児にとっては当たり前に自分は全能なのであって、世界は自分の意志の通りに動くのが当たり前だと所与の前提として感じているわけです。で、自分に附ききりで世話をする母親は自分の一部だと感じているわけですから、その自分の肉体の延長にあるものが自分の意志に逆らうということは、一種許し難い裏切りとして感じられるわけです。
その不快に対してどのように反応するかというのは人それぞれですが、母親の叱責が有効な躾けと成り得るのであれば、それはつまり乳幼児が自分を裏切る自分の一部に対して、抵抗して従わせようとするのではなく自分の意志のほうを摺り合わせることで全能感を防衛するということだというふうに説明されていたかと思います。
>>屈辱感に関して言うと小学生に成った頃くらいから「自分は色々できるんだ」みたいな自尊心みたいなのが芽生えてくるのね。それとの対比として「不快」の伝達となる訳です。
この段階にある子供は、「自分は色々できるんだ」という確信こそが、喪った全能感と引き替えに出現した外部の世界に対抗し得る力となるわけで、逆に謂うとそういう自信を実感として獲得していかない限り、世界とは終始自身を脅かす恐ろしいものでしかないわけです。何故なら、自分を取り巻く世界が自分の意志通りに動かないものであることをすでに子供は識っているからですね。
>>理解して欲しいのは発達段階だけではなくて、普通の状態とのギャップこそが「叱る」という事の「不快感」を決定する訳ね。
逆に謂うと、個々人の発達段階に応じて不快の質も変わっていくということでもありますね。小学校の高学年になっても、自分の思い通りにならないとヒステリー的な苛立ちを示して暴れる子供がたくさんいますよね。というか、好い歳をした大人でも思い通りにならないと苛立って出口のない感情を爆発させるという原始的な反応しか示せない人がたくさんいます。
おそらく、技術開発者さんの人間の基本仕様説や社会のダイナミズムに関するお話というのは、そこに関係してくるのかなとオレは捉えていて、たとえば小学校の高学年にもなって、自身の全能感が危機に瀕すると感情的に爆発するという対処しか出来ないという子供は、本人の資質や家庭環境などが理由で適切な人格形成の階梯を踏むことが出来なかったわけですが、それに対して教室という小社会が教育的に働くという側面もあるわけです。
たとえば教室で「○○君は気に入らないとすぐ怒るから遊びたくない」というような社会性が保たれていれば、教室の社会性が子供の人格形成に対して矯正的に働くことも期待出来るわけですね。そういう未熟な発達段階の子供が少数派であれば。
ところが、学齢期の児童を持つ友人知人に話を聞いても、今はどうもそういう子供が少数派ではないようなのです。無視出来ない割合の子供が、意に染まぬ現実に対してそのような原始的な対応しか出来ないという現状があるようです。これはつまり、その子供の親もまた成熟した情操や人格形成を獲得していないということを示唆していて、親御さん同士の附き合いでも、その種の基本的な成熟した常識の感覚に関する確執や悩み事が異様に多いらしいのですね。
で、技術開発者さんの人間の基本仕様説を敷衍していくと、たとえば乳幼児的な全能感の危機に対する不快感というのは、発達したからなくなるというものではないはずなんですね。子供が育っていって、無根拠な全能感に替えて自身の努力や実力で世界に対して働き掛けることが出来るという実感を積み重ねていくとしても、だから自身の意志の通りに世界が動かないことに対する不快感というのはなくなるわけではないですよね。
誰だって、物事が自分の思い通りにならなければ苛立ちを感じるし、裏切られたように感じるわけです。成熟した自尊心というのは、その幼児的な心性に乗っかる形で、そのような未熟な機序の儘では外部の世界に対応出来ないから、上位的なシステムとして下位の原始的で未熟な心性を制御しているわけですよね。
そして、技術開発者さんの持論を敷衍すれば、この世界というのはまず成熟した人間の良識によって未熟な心性によっては太刀打ち出来ない状態を維持することが必須となるはずなんですね。そのような社会圧があるからこそ、否応もなく人は成熟することを迫られるわけで、成熟した人間によって社会が営まれなければならないのは、それが原始的な秩序の混乱や暴力的な闘争を回避し、一種の社会的な効率をもたらす為ということになるでしょう。
これは逆に謂うと、成熟した人間の良識というのは、そもそも人間にとって剰り心地よいものではないし、好んで身に着けたいと思えるほど魅力的なものではないということです。それこそ人間の基本仕様として、気持ち好いことを追及し自己中心的な考え方を持つほうが簡単で楽しいのですから、個々の人間を成熟するように強いる圧力のようなものが必要とされるわけです。
成熟を強制する社会的な圧力があると同時に、成熟した良識に則った行動が、未熟で原始的な振る舞いよりも最終的に良い結果を生むという社会的な仕組みを維持すること、これも重要ですね。おそらく、そういう社会のほうが効率的だし、理不尽な暴力や卑劣な悪を駆逐するという健全性はそれ以外に維持することは出来ないでしょう。
で、今は社会全体の傾向として、未成熟でもそんなに損はしないし、成熟していてもそんなに得をしないという仕組みになっていると思うんですよ。ホリエモンや村上世彰のような人のベタで幼児的なぶっちゃけ論が持て囃されたりしますし、そういう意味では社会的な良識の旗色は大変悪い。社会全体が未成熟性に対して悪く寛容になってきているわけで、技術開発者さんの危機意識はオレも共有しているつもりです。
そういう意味で、教育現場の果たす役割というのはとても大きいと思うのですが、現実問題として子供を痍附けないという過剰な福祉要件がかなり重視されていて、それが教師の手足を縛っているという現実もあるわけです。
たとえば、三発殴るのは好くないが一発殴るのは好いという話でもないし、子供のプライドを踏みにじるのは好くないがちょっと痍附ける分には構わないという話でもないわけで、客観基準はないわけです。本来は程度問題として解釈すべき事柄なんですが、現実的には程度問題ではなく全面禁止になってしまっているわけですね。教師が何心なく言った言葉でも、子供が痍附いて登校拒否ということになれば、その子供の未成熟性が問題視され解決の方策が考えられるのではなく、その言葉を発した教師が親御さんから怒鳴り込まれたり、職務上の責任を問われたりするわけです。
つまり、教育について謂えば発信者の論理ではなく受信者の論理が一方的に重視されているという現実がある。モンスターペアレンツやモンスターチルドレンの問題なんかもそういう文脈の話ですよね。不当な不快感を与えるのは好くないけれど適切な不快感なら与えても好いということでもないんですね。飽くまで子供のリアクション次第で、さらに謂えば親御さんの理解度次第というところがあります。
親御さんのほうで教師が厳しく子供を教育することに理解があれば、子供がかなり痍附いたとしても理解してくれることで問題視されない、むしろ子供が育ってから感謝するということも考えられるでしょう。ところが、今はそういう教師と保護者の間の双方向の信頼関係や共に協働して子供の成熟を助ける意識というものが希薄化しているから、教師のほうでも怖くて子供を痍附けることが出来ない。
保護者の間でも成熟した良識が働きにくくなる傾向があって、たとえば学校サイドは子供を預かっている責任があるから保護者は一種のクライアントの立場でクレームを入れることが出来ますが、保護者同士の間ではそういう関係性がないですから、非常識な保護者がいても、自分の子供が学校で何をされるかわからないという弱みがあるのでなかなか意見を言えない。これは、非常識な保護者が大半である必要すらなく、無視出来ない割合で混入していれば、そっちの圧力のほうが原理的に強くなってしまうわけです。
そういう次第で、世間には状態の悪い学校ばかりではないですが、それは割合条件の良いところということになるわけで、保護者集団の間でも良識的な意見が支配的で教師の質も悪くない、そしてこの両者の間で適切な信頼関係が維持されている、そういう条件が揃っていないと、なかなか今の世の中で子供を適切に教育することはかなり難しいと謂えるでしょう。
なので、割合教師という職業は、社会的には孤立無援ではあると思うんですね。社会は教師という職業に対する尊敬は喪っているのに、要求は益々過大になってきているうえに、保護者が教師に協力するという意識が希薄化しているわけで、少子化の流れを受けて学校もサービス業化していくのだとすれば、親と教師の役割を切り離して、親のほうから学校に所定の目標を要求するが、自分からは一切協力しないという流ればかりが先鋭化していくかもしれない。
たとえば、文脈は違いますが、医療の世界で小児科医や産婦人科医の現場が荒廃しているような状況が教育の分野でも進行していくんじゃないか、いや、もうすでにその種の荒廃が蔓延しているのではないか、という危惧を覚えています。
投稿: 黒猫亭 | 2008年11月 2日 (日曜日) 午後 09時29分
こんにちは、黒猫亭さん。
少し社会の方から考えてみますね。最近、ウルトラリベラリズムなんて言葉を知ったんですね。私なりに理解すると「社会のあらゆる規範を選択可能なものと見なすリベラル主義」とでも言うべきでしょうかね。私はいろんな所で「共同体と機能体」という事を書いています。人が何となく「その方が心地よくかつ生き延びやすい」と集まってできる群れが共同体であり、その共同体に何らかの利便性をもたらす目的で組織化されたものが機能体なんて話です。原始の村は共同体でそのなかにできる「巻き狩りのチーム」が機能体なんて説明するんですね。でもってそれぞれが規範を持つわけです。
「人を害するな、盗むな、騙すな」なんてのは共同体規範であり、「狩りの間は持ち場を離れるな」は巻き狩りチームの機能体規範だということですね。でもって、実のところどちらの規範が分かり易いかというと機能体規範なんですね。機能体は目的がハッキリしていて、その目的を果たすための規範だからとても分かり易い。それに対して共同体というのはもともと本能的な集まりだから目的というのが論理的なものではなく、その集まりの維持のための規範だから比較的曖昧なんですね。そのため、歴史的には良く機能体による共同体の侵略みたいなことが起こるんですね。例えば国家システムという機能体が「戦争の維持」という目的のための様々な規範を強く出した時に、共同体の方でその規範に不服従な雰囲気の者を「非国民」としていじめるみたいなのが、機能体規範による共同体の変質なんですね。
私なんかは割と自分をリベラリストの様に感じて生きて来たんだけど、私がウルトラリベラリストではないのは、私がリベラルに「その規範は自分が選択可能な規範」と考えるのは、機能体規範についてのみだからです。仕事場に勤め、仕事場の目的を自分もその中の1人として果たすことに同意するから就業規則に従うという選択をしているし、規則そのものでなくとも「勤勉であるべきだ」みたいなモラルの部分についても選択として自分に科す訳です。一方の共同体規範については、まあ、無人島で一人暮らしするという選択まで含めれば選択可能では有るけど現実的に言うなら私は否応なしに共同体の一員であり選択の可能性は無いと考えて来たわけですね。
実のところ、機能体規範による共同体の侵略みたいな事が背景にあってリベラリズムというのは生まれた物の様に感じている訳です。「規範といえども無造作に従うのでは無く、それは何らかの選択を含んでいないか」なんてね。でもって、今の日本というのが、機能体規範による共同体規範の侵略という現象と、「規範は全て選択可能」というウルトラリベラリズムが同時進行している様な気がするんですね。それが教育において「共同体規範に従う」という事を教えることに困難をもたらしている感じを受けるわけです。
投稿: 技術開発者 | 2008年11月 5日 (水曜日) 午後 01時37分
>技術開発者さん
技術開発者さんが仰るようなお話というのは、学校教育ではゲマインシャフトとゲゼルシャフトの関係として教えられている事柄ではないかと思います。懐かしいと感じる方も多いタームだと思いますが、自然発生的な地縁・血縁的集団がゲマインシャフトで、ゲゼルシャフトのほうは利害関係に基づいて人為的につくられた社会集団というほどの意味ですね。
仰る通り、「人を害するな、盗むな、騙すな」というのはゲマインシャフトのほうの規範であるとオレも考えています。亀@渋研Xさんとのお話でも「何故人を殺してはいけないのか」ということについて、それは共同体を維持する為の決め事だからだ、というようなお話をさせて戴いたこともあります。これはそもそも倫理に根拠を持つものではないのだから、倫理で根拠附けようとしても無意味なんですね。
その集団内において、人が人を自由に殺して好いのであれば、人は自分以外のあらゆる他者に対して自衛の労力を強いられるわけで、そうすると複数の人間が行動を共にするメリットよりもデメリットのほうが上回ってしまい、集団が協働して何事かを為すということが出来なくなってしまいます。だから、自然発生的な人間集団の中で、とにかく一旦互いに殺し合うことを放棄するという約束事が生まれるわけで、これは倫理の要請でも何でもない。そうしない限り社会は維持出来ないからそう決まっているということなんですね。
盗むこと、騙すことも同様で、偶発的な要因によって自然発生的に成立した集団の中では、集団としての秩序を維持し一致協力して事に当たる体制を構築することが第一義となるのですから、他人のものを取らない、他人を騙さない、そういう最低限の協定を決め事として確立する必要があるわけですね。倫理というのは、その身も蓋もない決め事の運用や細則を巡って成立している側面があるわけで、倫理の理念があるから殺人や窃盗や虚言が禁じられているわけではないわけです。
これが技術開発者さんの仰る機能体集団、一般的に謂うとゲゼルシャフトということになりますと、そもそも人員構成からして選択の結果としてあるわけです。ゲマインシャフトの構成員は、共同体側でも構成員側でも選択の余地はないわけで、優秀な人材だからとか集団の目的に合致した人材だからそこに属しているわけではない。無能な人間もいれば有害な人間もいる、それをどう調整して集団としての秩序を安定させるのかということになります。
対するにゲゼルシャフトでは、集団の目的に合致した人材を採用するわけで、本来的には無能な人間や不必要な人間はいるはずがないということになります。ですから、集団の目的に合致しない、貢献出来ない人間はバッサリ切られるということも起こり得るわけです。で、構成員の側でも集団の性格や目的を理解した上で、自身の自発意志で集団に参画するということになりますから、集団内部のローカルな決め事に対して自発意志で服従するということになります。
ですから、ゲゼルシャフトの規範のほうは自発意志によって選択可能ではあっても、ゲマインシャフトの規範はそうではないというご意見も理解出来るのですが、現代社会においてはゲマインシャフトが徐々にゲゼルシャフト化しているという事情もあるのかなと思います。
たとえば、近代以前までは文明国家でも一般庶民は妄りに転居する自由はなかったわけですね。この意味で、地縁共同体というのは一種逃れ難いものではあったわけで、そこに生まれついてしまったら、容易に自身の帰属する地縁共同体を取り替えることは出来なかったわけです。そういう意味で、技術開発者さんが仰る機能体的なわかりやすい合理的な規範よりも共同体規範のような「都合」の規範が強力だったわけで、それが今では一種の前近代性として捉えられているところはあるでしょう。
地域社会のローカルルールとか旧弊な村落の因習とか、そんな感じですね。そういうふうに選択の余地のないもの、自発意志によって選び取られたのではないものを強要されることは間違っている、こういうふうに戦後民主主義は一貫して訴えてきたわけで、それはそれで正論ではあるわけです。
今ではどんな国民にも自由に転居する自由が認められていますから、そこの地縁共同体が厭だなと思ったら堂々と転居すれば好い。そこから一歩進んで、目的意識や価値観を共有する住人のみで構成された人為的な地縁共同体のようなものも成立するわけで、広い意味では郊外に開発されたニュータウンなんてのは、人為的に作られた機能体的な地縁共同体だと謂っても差し支えないでしょう。
開発業者や行政によってターゲティングされた特定の人間の層が一定の地理的範囲を占有して町を作っているわけですから、緩やかな意味ではそこは人の自由意志によって選び取られた地縁共同体と謂えるわけです。現代の人間が土地や血縁によって物理的に拘束されているのは、精々成人までの二〇年前後で、成人に達すれば誰にも何も強制されることなくすべてを自由意志によって選択出来るわけです。
そうなると、どういう社会になるのか。地縁共同体は嘗てのように逃れ難く強制される桎梏ではなく、一種自由意志によって選び取られる帰属社会に変容していますが、地縁共同体の規範というのは、特定の理念や目的達成の為ではなく、安定的に存続する為の規範であって、謂うならば曖昧な「都合」を重視する論理のままです。無駄な構成員や有害な構成員を包含しつつ、全体として安定的に存続する為の「都合」というものが最大限に重視される共同体であるわけです。
で、その種の共同体は一種最大限に寛容な小社会だとも表現出来るわけで、無駄飯喰らいやならず者も、共同体全体の安定を脅かさない限り包摂して集団の安定というものが考慮されるわけで、では共同体全体の安定を脅かすまでに至った存在はどうするのかと謂えば、共同体が結束して追放したり、最悪の場合全員で密殺したりするわけですね。
嘗てはそれが、旧弊な因習に縛られた封建的共同体の恐ろしい闇として文学のテーマになったりもしましたが、しかし、それが規範として有効であるのは、人一般が地縁共同体に逃れ難く拘束されるという条件があってこそで、そこから逃げも隠れも出来ないからこそ、共同体全体の安定の為にその小社会を構成する個々人がいろいろなことを堪え忍び、理念的な意味での不正や合目的的な意味での非効率性にさえも或る程度目を瞑るわけですが、今は厭だったらそこから離脱すれば済むわけですし、共同体の不正を暴いても別段不正の当事者以外の誰も困らないことになっているわけです。
これでは地縁共同体的な規範が成立する余地はないわけで、或る個人が厭だと感じても共同体全体の安定の為には堪え忍ばなければならないというのは、その個人が逃げも隠れもならずその土地や血縁に拘束されるからなんですね。自由に離脱出来るのであれば誰もそんな不合理を忍ばないわけで、誰も我慢しないから共同体的規範は遵守されずその間隙に機能体的な合理的規範が入り込んでくる。
今では、昔のような意味での地縁共同体というのは殆ど存在しないでしょうし、共同体独自のローカルルールが昔のように強力な拘束力を持つことはないでしょう。それもまた、自発意志によって選択可能な相対的な規範としてしか見做されていないのだし、それは一面では事実でもあります。
ただし、どんなに時代性や社会的傾向が変わっても、当面変わりようがないだろうと思われる事柄が厳然として在るのであって、それは「特定の共同体」が安定的に存続する為の規範ではなく、「共同体一般」が成立する為の規範であって、それこそがたとえば今では理念的な倫理要項と見做されている基本的な人倫の要件でしょう。
たとえば「人を殺すな」という禁忌、「嘘を吐くな」という禁忌、「盗むな」という禁忌が存在するのは、それは共同体一般が成立する為に欠くべからざる基本的な決め事だからなんですね。共同体の性格がどんなに変わっても、人が人を殺しても構わないのであれば、そもそも人の集団は維持し得ない。嘘を吐いて人を欺いても構わないのであれば、そもそも人が人を信頼して背中を預け、一致協力して大きな何事かを為すことは叶わない。盗みによって他人の権利を侵しても構わないのであれば、人は誰も努力して社会に富をもたらそうとは思わない。
我々は今や、無能な人間であろうが有害な人間であろうが、偶然その場に居合わせたすべての人々を包摂した小社会を安定的に存続させる為に何か現実の不合理を耐え忍ぼうという気にはなれないのかもしれないけれど、そういう不合理な我慢をしなくても好いように人の知恵は進歩してきたはずなので、或る種、地縁共同体が泥臭い不合理と共にもたらしていた安定を懐かしんでも仕方がないのかもしれません。
しかし、今なお厳然として残っているのは、人が人と共に在る限り、社会を成り立たせる為の最低要件として在る決め事には絶対的に従わなければならないという事実なのですし、人は絶対的な意味では完全に自由ではないという事実でしょう。
投稿: 黒猫亭 | 2008年11月 9日 (日曜日) 午後 04時51分
こんにちは、黒猫亭さん。
>しかし、今なお厳然として残っているのは、人が人と共に在る限り、社会を成り立たせる為の最低要件として在る決め事には絶対的に従わなければならないという事実なのですし、人は絶対的な意味では完全に自由ではないという事実でしょう。
話を教育とか「しつけ」の事に戻すと、「この社会を成り立たせる為の最低要件として在る決め事には絶対的に従わなければならない」という部分の認識が薄れていると思うんですね。まあ、それでも幼児がお友達を滑り台の上で突き飛ばして怪我をさせそうになれば、親は血相をかえて「決してやっちゃ駄目」と叱るし、お友達の玩具を家に持って帰って仕舞えばやはり「これは幼いうちにしつけなければ」と「返してきなさい」と叱るという形で「しつけ」そのものは存在するんですけどね。
ただ同じような「社会を成り立たせる為の最低要件として在る決め事」ではあるけど「絶対的」ともいえない部分なんかは共同体意識が薄れるとなかなか「しつけ」にくくなるんですね。代表的なのが「見苦しくない服装を心掛けて、人に不快と思われない言葉遣いをしなさい」なんてね。共同体がしっかりしていた時には「世間様が許さない事だから」なんて言い方で充分にしつけることができたんですよ。
こういった比較的ゆるやかな共同体ま規範というのは、よく考えるとやはり共同体が安定に存在する上で必要な決め事ではあるんだけど、それがなかなか簡単に説明出来ない事でもあるんですね。
なんていうか、その部分を失っておいて、それを別なものに求めようとする感覚を水伝なんかには感じるんですね。
投稿: 技術開発者 | 2008年11月10日 (月曜日) 午前 11時43分
>技術開発者さん
少しコメントツリーが長引いて重くなりましたので、今回のお返事は新エントリーの形で上げさせて戴きました。
http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/11/post-9ba6.html
今後のご意見はそちらにてお願い致します。
投稿: 黒猫亭 | 2008年11月12日 (水曜日) 午後 06時30分