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2008年11月17日 (月曜日)

filinionさんに応える 〈各論〉

本エントリーは当ブログの「教育と嘘事」というエントリーに対してfilinionさんの書かれた言及エントリーについての具体的な各論であるから、なるべく両方の原文を一読されてから以下をお読み戴きたい。

まず、オレの唱える仮説を要約されているのが、

 簡単に言えば、

「教師は子ども向けに簡略化して物を教えることに慣れている。

 それは言ってみれば半分嘘をついているみたいなものだ。

 だから、事実と異なることを子どもに教えるのも平気なのではないか」

 といったことかと思います。

この部分なのであるが、大筋ではそういうことだとしても、大本の発信者であるオレから視ると、微妙にニュアンスが変わっていると感じる。つまり、オレの論において重要なのは、「事実と異なることを子どもに教えるのも平気なのではないか」という部分ではなくて、「子供相手の教育においては、何が嘘で何が嘘でないのかという境界が曖昧化しているのではないか」という部分である。以下、当該箇所を再掲する。

つまり、初等教育の教育者は、悪い言い方をすれば、大人が考えるような意味で正しいことを子供たちに語らないという身振りに慣れてしまっているのではないか。つまり、子供向けの不完全な正しさで物事を語ることに鈍感になっているのではないか、このような疑いを抱き得るだろう。

これをもっと踏み込んで謂えば、子供相手の教育においては、何が嘘で何が嘘でないのかという境界が曖昧化しているのではないか、ということである。嘘という言葉を厳密に捉えるなら、中間項が抜け落ちて固定的な結論のみを伝える以上、子供に教えることはすべて嘘と明言しても差し支えないことになってしまうのではないか。逆に謂えば、子供向けの再構成され成形された情報を嘘と捉えないなら、大人が与える情報の何処からが嘘になるのかを明瞭に識別する客観的な基準が見失われてしまうのではないかと考えられるのである。

これはたとえば、fillionさんがコメント欄で仰っている、

例えば「日本の首都は東京である」というのは“狭義の真実”でしょうか。

という例を考えればわかりやすい。初等教育においては、まさしく「日本の首都は東京である」と教えるのではないだろうか。そして、それが真だとも偽だとも謂えないというロジックをfilinionさんは語られるわけだが、このコメント自体に関しては後ほど更めて論評させて戴きたい。この場合に肝心なことは、ご自身で指摘されているように、法的な観点から視て一概に真だとも偽だとも決定しにくいことを、初等教育では一旦方法論的に真として教えているということである。

論理的に謂うなら、「日本の首都は東京である」という命題が真偽の二択において単純に決定し得ないのならば、「『日本の首都は東京である』という命題は真である」という言明は明白に「偽」である。つまり、「日本の首都は東京である」という命題の真偽を二択の基準で判定することは困難でも、その命題を正しいこととして教えること自体は真偽の判定が可能で、詰まるところ偽であるということである。

オレが「とくに初等教育においては、複雑な問題は中間項がスッポリ抜け落ちた形で子供に伝わるということになる」と表現しているのは、そういうことである。その間の理路についてはfilinionさんご自身が詳述しておられるわけで、そもそも「日本の首都は東京である」とう命題を真偽の二択で問うという前提が設問の立て方として決定的に間違っている。

たとえば、これは大昔のダウンタウンの漫才のネタだが、「さて、問題です。最近、どう?」という質問に「正解」出来るだろうか? また、真・偽やイエス・ノーの二択が設定出来る設問の立て方だろうか?

filinionさんの設問の立て方を視てみると、「“狭義の真実”でしょうか」という形になっているのだから、この設問の構造においては、回答はイエス・ノーの二択ということになる。しかし、そもそもこれは二択では回答不能な設問の立て方であって、二択で問う以上は二択のいずれかが正解である必要があるだろう。

この場合は、「どちらでもない」という第三項を立てるか、記述問題として設問を設定するのが正しいということになるだろう。つまり、これはわざと破綻するように設定された合目的的な設問だということである。

オレがfilinionさんの教室にいる子供だったら「先生、ずるいや」と盛大に野次るところだが、残念ながらオレは子供ではなく大人なのだし、filinionさんの生徒でもない。それ故に、結論は「設問の立て方が間違っている」という指摘になるわけで、論述のプロセスがトリックだからフェアではありませんね、と指摘することになる。

オレはそもそも「日本の首都は東京である」という教え方自体が嘘事になるという意味で「嘘事」という言葉をローカルに定義しているのである。だとするならば、嘘事ではない「本当のこと」って何だよ、という疑問が在り得るだろうが、この例示自体に関しては前述の通り後ほどもっと突っ込んで論評させて戴く予定なので、それについてもそのときに詳述する。

とりあえず、ここでまず指摘しておきたいのは、「嘘を吐くことに抵抗がないのではないか」という指摘と「何が嘘事なのか境界が曖昧化しているのではないか」という指摘は全然別のことを言っているということである。

オレが指摘しているのは後者であって前者ではないのだし、そしてこの「嘘事」という言葉についても、オレは一応ローカルな定義に基づいて遣っているが、filinionさんのほうではローカルな定義も一般的な意味もとくに区別せずに両者を混同して遣っておられるように感じる。

オレは別段、「教師というのは嘘吐きな職業だ」なんてことを言っているわけではないのである。

次に、

 「小学校では天動説を教えている!」なんて、一時期話題になりましたが、そういう報道こそ事実に反するわけで。

 天動説(太陽は地球の周りを回っている)が書いてある教科書なんてありませんよ?

と謂う部分だが、これは端的に謂って「卓袱台返し」に感じる。もしかしてこれは、オレの論に対する論評というのではなく一般論として仰っているのかもしれないが、このような並べ方で語られると、モンタージュ的な意味附けというものが生起して、恰もオレがそのように主張しているかのように読めるだろう。

そして、オレが今回filinionさんのご意見に対して反論すべき必要性を感じたのは、このようにしてfilinionさんの反論から遡ってこちらの論に対してこの種のミスリードを招くようなご意見が多いからなのである。

コメント欄を全部読んでいるわけではないと仰っているにもせよ、これは一番最初の亀@渋研Xさんのコメントにおいて、

もちろん、実際には天動説と言っても「お日様は東からのぼって西に沈むね」という程度のことで、厳密に言うと「そのように見える」ということを、まず観察を通して確かめさせるということであって、天動説を教えているわけではありません。

というふうに前提が確認されていて、その前提において以下のコメント欄の対話は進められているはずである。亀さんもオレも、「教科書に書いてある」というレベルの意味でそう言っているわけではないし、天動説で教えていると謂っても「大地は不動で天体だけがその周囲を運動している」と教えているわけではないということは、何度も何度も確認している。

これは大前提のはずであるが、それが平然と無視されている。

で、何故それが天動説になるのか、ということに関して、kaqu11さんとの問答を通じてオレなりの考えを詳述しているわけだから、今更ここで繰り返す愚は避けたいと思う。要するに、そこをお読みになっていないというお話だろうと解釈しておくが、そういう意味でこの部分のご意見は、こちらの文脈を踏まえたものではまったくないということだけは謂えるだろう。

そしてそこでオレが語っている事柄のコアというのは、まさしくfillionさんが仰っているような「9年間に及ぶ義務教育カリキュラム」の総体の問題である。それ故に、

しかし逆に言うと、それは

「自分が今教えている内容には不完全な部分もある。

 しかし、自分が教えているのは9年間に及ぶ義務教育カリキュラムの一部であり、不完全な部分は上学年で補足されるので大丈夫」

 という確信(安心感と言っても良い)があるから可能なことだと思います。

というのは非常に違和感を覚える言い回しで、まさにそういう意味のことをオレのほうで申し上げているつもりなのだが、何故それが反論の形で「しかし逆に言うと」と接続されているのかまったく理解出来ないのである。まあ、それも結局この部分はお読みになっていないということだと解釈するのが相応だろう。

勿論、オレが「初等教育において、大人が子供に教えることは嘘事と表現し得る」として「しかし、それはそうあるべきものである」と結論附けているのは、「不完全な部分は上学年で補足されるので大丈夫」だからである。これは「逆に言うと」、上学年で補足されるまで暫定的にその知識は必ず不完全だ、ということでもある。

オレが考察において段取りや手順ということを重視しているのはそういうことで、それはたとえば、技術開発者さんが仰る「美しい言葉を遣いましょうという命題と、嘘を吐いてはいけないという命題の両方を教え、その命題間の軽重のバランスを取るのが本当の道徳だ」というような意見に対して、子供のキャパシティには限界があるのだから、それらを一つひとつ部分として教えていって、後段階で統合するという段取りを踏むしかないんではないですか、という文脈において出て来る概念なのである。

「嘘事」という強い表現も、その関係において出て来るもので、水伝を援用して語られるような道徳が「嘘」とされているのは、語られている科学的事実が嘘であるということもさりながら、その道徳律がそれ自体の論理として破綻しているから道徳教育として嘘になるという意味で嘘扱いされているのだとオレは理解している。

たとえば、小学生に対して「美しい言葉を遣いましょう」と教える道徳教育の場面を想定するなら、美しい言葉として「ありがとう」と謂う言葉を、汚い言葉として「ばかやろう」と謂う言葉を固定的に教えること、これは道徳教育として嘘だろうという意味合いの批判は根強く存在するし、それには相応の理がある。

しかし、たとえば対象が小学校二年生だったとして、「言葉には文脈次第で多様な意味附けが可能なのだから、『ありがとう』が美しい言葉で『ばかやろう』が汚い言葉だという固定的な教え方は道徳教育として間違っている」と謂う批判を、実際に小学校二年生を教えている教師の方が聴かれたらどうお感じになるだろう。

まず、小学校二年生には「文脈」という概念がわからない。一つの言葉に多様な意味附けが可能であることもわからない。つまり、これを小学校二年生に対する道徳教育についての実践論的な意味合いで考えれば、的外れな批判と解し得るわけである。

そういう意味で、「言葉には文脈次第で多様な意味附けが可能」というような高次の論理で水伝授業を道徳教育として「嘘」だと断じるのであれば、大半の初等教育の教育内容が同じような意味合いにおいて「嘘」となってしまうだろう、「嘘事」というのはそういう意味の表現である。

たとえば、「『ありがとう』は美しい言葉です」と教えることは、たしかに不完全な言明である。皮肉な意味合いで「ありがとう」と口にすることは幾らでも可能だし、実際に「ありがとうよ」という憎悪の籠もった皮肉を投げられて殺された人も実在するのである。

だから、水伝授業の問題点を「美しい言葉を一義的に決定すること」に置く批判というのは、義務教育における道徳教育の「総体」における最終到達点と謂う観点で考えれば正論ではあるが、初等教育という「部分」における過渡的段階に限定して謂えば実態に即していないという解釈が可能である。

小学校二年生の児童の平均的な発達段階においては、「ありがとう」という言葉は額面通りの意味しか持たないし、「ばかやろう」という言葉もまた同じである。それ故に、その発達段階を前提として「ありがとう」という言葉を推奨し「ばかやろう」という言葉を排除する、これは一種初等教育の実践としては整合しているわけである。

そのうちに、たとえば子供たちの中で増せた言語感覚の児童が発する「ありがとう」という言葉や、大人が日常的に口にする同じ言葉が、どうやら必ずしも額面通りの意味ではなく、何か厭な響きを持って口にされることもあることを薄々子供たちも感じ始めるわけであり、そこで高次の言語感覚の萌芽が生まれてくる。文脈や意味附けの論理はその発達段階において更めて教えられる教育内容だとすれば、それはそういう手順を踏まざるを得ないものであって他に有効な教育手法はない。

これはたとえば、前述の例で謂えば初等教育の授業で「日本の首都は東京である」と教えることと同じなのではないか、というのがそもそもこの論の出発点である。

filinionさんは、

例えば「日本の首都は東京である」というのは“狭義の真実”でしょうか。

という自ら立てた設問に対する自問自答において、「違います。」「……でもありません。」と二度否定を繰り返された。つまり、これが「狭義の真実」ではないと謂うことだけは少なくとも自らお認めになっているわけである。そうすると、問題は「狭義の真実」が成立し得るか否かということにかかってくるわけであり、その場合はこの設問の立て方自体が間違っていることはすでに指摘した。

この場合の「狭義の真実」とは、「日本の首都は諸外国と同様の意味では正規の法的手続に基づいて規定されていない」ということである。これは、filinionさんの検証の論理を適用すれば何処も間違っていない十全な言明である。つまり、これは別段、人間の知識の限界の話でも何でもないのだし、真実を名状することの不可能性なんて難しい話でもないのである。そういうストーリーを語る為に予め間違った設問の立て方が為されているだけである。

「首都」というのは、天然自然に出来上がるものを指す概念ではない。まず第一義的には国家において主権者が法的に決定するものである。その法的手続が相対的に謂って正当に踏まれていない場合、或る国家において或る都市が首都であるか否かという命題は真偽の二択によっては判別し得ない。それだけの話である。判別し得ない命題を判別し得るという想定で設問を設ければ、当たり前のようにその設問は破綻するのであって、謂わばこの設問は八百長の出来レースである。

それ以前に、我々は「日本の首都は東京である」という言明は、或るアスペクトにおいては事実であることを識っている。だから、そのレベルにおける知識として「日本の首都は東京である」と教えることは間違っていないと容認可能なのである。

ただし、「日本の首都は諸外国と同様の意味では正規の法的手続に基づいて規定されていない」という、それ自体破綻のない言明のレベルとの相対で謂えば、それは十全な知識ではないのだし、有り体に言えば間違った知識でさえ在り得る、そういう話である。

そして、たとえば水伝授業の道徳性の問題について謂えば、義務教育における道徳教育の総体というレベルの観点から謂えば、「『ありがとう』は美しい言葉だ」と一義的に規定する道徳律は不完全で間違っているが、小学校一・二年生の発達段階を前提にした初等教育のレベルで謂えば間違った言明とは謂えない。あえてこれを嘘事と表現するのであれば、「日本の首都は東京である」という言明も同様の機序で嘘事と見做し得ることになる、そういう理路に立った話なのである。

あれとこれとを弁別する基準となる客観的な原理というのは、実は明確な形で存在しないのではないかというのが、この問題提起の核心であり、「何が嘘で何が嘘でないのかという境界が曖昧化している」という表現の真意である。それは個々の教師の個人性の問題ではまったくないのだし、「嘘」に纏わる倫理的な感覚の問題でもなく、児童教育という領域が抱える問題性なのだとする所以である。たとえばオレや技術開発者さんでも、教師の立場に置かれたら同じ問題に直面するだろうということである。

これは、「教師は嘘を吐くことに慣れてしまって心理的な抵抗がない」という指摘とは大分意味合いが違うと思うがどうだろうか。

 

だから、教員が嘘を教えることに慣れている、というのは、ちょっと違うのではないかな、と、私は感じます。

あちこちでいろいろ多言を費やしていて、そういう方向にブレた発言も少しはしているかもしれないのでもう一度基本線を確認しておくけれど、そんなことを申し上げているわけではまったくないのでご安心ください。

後は細かい話になるが、

「良い言葉を使いましょう」

 といった話は、「水からの伝言」なんかに頼らなくても、小学生・幼稚園児にでも教えられることです。
「みんな、言われていやだった言葉はあるかな?」

「逆に、言われてうれしかった言葉はあるかな?」

 とか聞いてみればよいのです。

勿論、そう教えること自体は簡単である。困難なのは教えることそれ自体ではなく習慣附けという成果であり、詰まるところは教育の効果や子供に与える納得の深浅の問題である。TOSS辺りは向山教育法の本山だからその辺の客観実績的な基準に拘る教師が多かったとは言えるだろうけれど、水伝が道徳教育に援用されたのは、そのほうが効果的だと判断されたからであって、そのほうが簡単だからでも、それが欠くべからざるものだからでもない。

普通に教えても効果は薄いとか、習慣附けの成果がはかばかしくない、もっと謂えば子供たちの喰い附きが弱いと感じている教師たちが水伝に飛び附いたのであるから、このロジックは適用する尺度が最初からズレている。勿論、filinionさん個人が水伝的な投げ込み教材を用いて子供たちの耳目を惹くような奇策を評価せず、正統的な対話の積み重ねを重視されるのなら、それはそれで教育信念として正しいだろう。

しかし、すべての教師にとってそう感じられるというわけでもないだろう。これはオレの立ち入った憶測だが、filinionさんの文体が教室における授業の口調を多少なりとも反映したものであれば、filinionさんは実に子供たちの喰い附きが好い魅力的な話術を体得しておられる教師ではないかと思う。

それが工夫によるものか、生来の話し上手なのかは識らないが、そういう方向性では必ずしも子供たちの関心をコントロール出来ない教師というのも大勢いるはずだし、そういうふうに話術や対面的な魅力に恵まれなかった教師が、授業内容自体を工夫することで子供たちへの教育効果を向上させようと考えるのは、別段間違ったことではない。水伝授業の場合は、要するに選んだ対象が間違っていたのである。

また、オレが少し疑問に感じたのは、それに続く以下の箇所である。

少なくとも、

「なんで悪い言葉を使ってはいけないの?」

 という質問が、

「結晶って何?」

 という質問より難しいとは思えません。

思わず納得してしまいそうになるが、ちょっと待って欲しい(笑)。少なくとも、水伝授業のケーススタディ報告(の魚拓)を過去に何処かで読んだ際の記憶では、その部分がそれほど困難だったという報告は剰りなかったように思う。

ちょっと考えて腑に落ちたのだが、つまり、水伝授業において「結晶って何?」という質問が為される場面を想定すれば、その違和感の正体がわかるのではないか。水伝授業においてこれに類する質問が為される場合、「結晶って何?」というそのままの文言で質問が来ることはないだろうというふうに思うのである。

つまり、普通はこの場合、「結晶って何?」ではなく「『水の結晶』って何?」という形の質問を想定するのが一般的ではないかと思うのである。

たとえばこの場合、「塩の結晶って何?」と聴かれたのであれば、これに応えるのは大人でも相当難しい。まずは、この質問の原意図というものを、ちょっと子供の身になって考えてみよう。子供がこの質問で問うているのは、まず第一に「塩の結晶」と一繋がりで謂われる概念はどんな「モノ」を指しているのか、という疑問である。

要するに、「塩『の』結晶」というふうに「の」によって二つの言葉が連結された言葉というのは、小学生にとって「海苔『の』佃煮」みたいなものである。海苔に佃煮という言葉が附くことによって「ごはんですよ」とか「江戸紫」みたいな別の形のものに変わるということで、「塩『の』結晶」と謂う言葉であれば自分たちが識っている塩とは違う別のモノを指すのだろう、というのが子供の考えることだろう。

「海苔『の』佃煮」においては、「佃煮」というのが要するに「江戸紫」状態を意味するように、この場合「塩『の』結晶」という言葉において「結晶」という言葉は塩とは別のどんなモノの状態を指すのか、というのが子供たちの質問の原意図である。

しかし、これに応える場合、まず大人は「塩の結晶というのは、君たちがいつも目にしている食塩だよ」というふうに応えざるを得ない。塩というのは、日常的には結晶の形で存在しているのだから、「塩の結晶」というのは要するに「塩」のことなのである。

そうすると、子供たちは次に、では何故「塩」で済むところを「塩の結晶」というふうに表現するのか、と謂う疑問に思いが至る。だから、その場合は「結晶」という言葉それ自体に疑問の核心が移るので、最終的に大人は「結晶」が何であるかを説明しなくてはならなくなる。

そして、たとえばオレのようないい加減な人間だと、そもそも自分が子供に説明して羞じないレベルで正確に結晶と謂う概念を理解しているのかどうか自信がないし、それをクリアしたとしても、子供の理解力のレベルで「結晶」というのがどう謂う概念かを説明することは相当難しいだろう。

なので、filinionさんが

「結晶って何?」

 という質問より難しいとは思えません。

…と、「水の」を省いて仰ると、思わず納得しそうになるわけである。

しかし、これが「『水の』結晶」ならそのような困難はない。

何故なら、水は日常的には結晶の形で存在するわけではないからである。子供が「水の結晶って何?」と聴くならば、それに対して「雪みたいなモンだよ」と応えれば、平均的な子供の疑問はそれで完結するはずである。何故なら、水に結晶という言葉が附くことによって、雪と謂う水とはまったく別のモノ(のように見えるもの)に形状が変化するからで、子供の質問の原意図はそれで満足されるからである。

つまり、「水の結晶って何?」という質問は、直ちに「結晶って何?」という質問と等号で直結されるわけではないのである。filinionさんが意図的に「水の」を省いたのでなければ、これはおそらく妥当な比較ではないということになるだろう。そもそも水伝授業の報告例などを視ると、結晶云々に関する説明は全部このパターンで処理されているのであり、とくに困難だったという実例は聴いたことがない。

亀さんのご報告で、「結晶云々というのは小学校二年生には難しいのではないか」という保護者の方のご指摘があったというのは、水の結晶が何だかわからないから難しいという意味ではなく、言葉をかけた水が結晶の形になって、その形の美醜によって結果を判別する、そしてそれを道徳に応用するという一連の理路を理解するには或る程度の論理的思考力が必要だろうから、まだ小学校二年生には理解出来ないのではないか、という意味だと解した次第である。

後は落ち穂拾いということになるだろうが、たとえば、

 まあそれはその通りなのですが、高度な科学に関して「筋道論的なアプローチ」が可能か、と言えば個人のレベルでは難しいのが現実でしょう。

この部分については、紛らわしくて申し訳ないのだけれど、この場合の「これは筋論的な検証のアプローチではないですよね」というのは、科学的な事実の検証ということではない。亀@渋研Xさんの、

先のコメントでは端折ってしまいましたが、この水伝先生だって「教材として使いやすいか」だけではなくて、内容も評価検討してるんです。結論とか目的、効果だけじゃなくて、「こういう授業をやってもだいじょうぶか」というような意味でですね。

で、件の水伝先生は「本当にそういう現象が起きるのかという点では、正直言って半信半疑だった」にもかかわらず、「こうして本になって売っている」ということと、「先行する実践例がたくさんある」ということでだいじょうぶと判断したわけです。

というコメントを受けて、「それは筋論的な検証のアプローチではない」と指摘させて戴いたわけで、「本当にそういう現象が起きるのかという点」と謂うのは「こういう授業をやってもだいじょうぶか」という疑問のごく一部でしかないわけである。それに続く文章をも含めてオレのレスを再掲しよう。

これは筋論的な検証のアプローチではないですよね。書籍として売られている以上一定の見識の編集者の検証を通過し、社会的にも広く認知されている言説である、それ故に言説それ自体にさほどの反社会性はないだろう。そして、先行して多くの同業者が実践していて、大概の場合非常に良い教育効果の感触を得ている、これは経験共有的な効果の保障ということになります。

このような文脈において「筋論的な検証のアプローチではない」ということなのであるから、科学的な事実の検証という意味ではない。道徳教育の根拠としてこのようなアヤシゲな言説を用いることの理路の当否という筋論をちゃんと検証したのか、本になっているとか先行例があるなんてのは、みんな外側だけの傍証で自前で中身を検証してないじゃないか、という意味である。

また、これだけを切り出して云々するのはちょっと酷だが、

 

というか、個人のレベルでは、それこそ「天動説」とか、物理学で言えばニュートンどころかアリストテレスの時代(重い物は軽い物より早く落下する)に逆戻りせざるを得ない。

…という部分については、失礼ながら、これに近いことについては、すでにコメント欄にて、

これはやはりまずいことじゃないかと思います。学校で天動説的な段階の知識を教えるのは、それがやがて地動説によってアップデートされることが前提になるからで、地動説を教えないというのなら、精々ルネッサンス期までのレベルの天文学的知識しか持たない現代人が出来上がるということになります。で、天動説的段階の知識が地動説的段階の知識によってアップデートされるというプロセスは、現今の科学的常識から考えるとマストであって選択の余地のあることではないはずですよね。

と指摘させて戴いていることである。個々の現代人が古代人や中世人よりも少しはマシな知恵を持っているのは、マシな知恵を教育され学習するからであって、教育も学習もないなら古代人とそれほど変わる存在ではないだろう。何も教えない子供に更めて一から観測的事実に基づいて地動説に気附けと謂っても不可能な話である。

同じ論拠に基づいて、オレのほうは「何故地動説を教えないことが天動説を教えたことになるのか」ということを説明しているわけであるが、それについてはどうやらご理解戴けなかったようである。

以下、オレのエントリーに関する言及ではない、filinionさん個人のお考えについてもオレ個人のご意見を差し上げることは出来るけれど、それはいたずらに論点が拡散するばかりなので今回は控えることにしよう。

そういう次第で、どうも全面反論に対して全面再反論で応える形になってしまったのだけれど、そもそもオレ自身の総体的な所感として、filinionさんのご意見は少しトリビアルな線の細いロジックで、反論の為の反論になっているところがあるように感じる。

その為に、ざっと全体を通読しても、ではfilinionさんご自身の立ち位置とは奈辺にあるのかという論の全体像がサッパリ見えてこない。とにかくこちらの言説を否定しようという目的性ばかりが屹立して感じられるのである。少しキツい言い方だが、反論を目的的に指向する言説であるが故に、filinionさん一流のレトリックがややもすると詭弁に傾いている側面も否定出来ないのではないかと感じる。

filinionさんのご意見は、当たりこそ柔らかいが、内容的にはオレの言説の何処も認めていない全面否定の形になっているわけだが、オレも別段思い附きで語っているわけではないのだし、それなりに論旨の一貫性を意識して論を進めさせて戴いているつもりである。だからと謂って、自分の論に対して何らかの執着があるわけではなく、これはやはり考察を深める為の叩き台に過ぎないのである。

だから、こちらの論旨を踏まえた上で盲点や矛盾を指摘して戴いたり専門的な観点からの事実の指摘であれば大歓迎であるが、ハッキリ言って、どうも藁人形を叩いておられるようなすれ違いばかりが感じられる。そして、filinionさんほどのご見識の論者であれば、ご自身の身辺が慌ただしくてキチンと内容を把握する余裕がない言説について、軽々に言及されるというのも不自然だと感じる。

勿論、こんな長たらしいテクストを全部読めとは誰にも強制出来るものではない。しかし、正面から言及して反論する以上、普通なら大略なりとも正確に骨格となる論点を把握した上で論じられるのが筋だろうと思う。

しかし、今回のfilinionさんのエントリーを拝読すると、どうしてfilinionさんほどの方がこのように解釈されたのか、理解に苦しむ論旨のオンパレードで、それほどオレの語る言説は一般的に誤解を招くような代物なのかと心細くなった。

それには、filinionさんのほうに「嘘事」という表現に対する反撥があるのではないかと憶測するわけだが、どうもfilinionさんの論には前提として「初等教育で教えていることは嘘事と表現し得る」というこちらの論の裏面に「だから今の教育は悪い」という価値評価を想定しておられる節があり、「今の教育の在り方が悪いから、水伝なんかに引っ懸かるのだ」という言外の意を想定しておられるようなのだが、別段こちらの論には現在の初等教育全体に対する価値評価や批判は含まれていない。

別段、嘘事だから悪いとも言っていないのだし、寧ろ子供に物事を教える場合は原理的にどうしても嘘事を介して教えざるを得ないとさえ言っているのだから、これを悪いと断じてしまったら、オレの論は学校教育の全否定になる。そんなことを意図して論じているわけではないのは当然なのであり、これはもう、本当に何度も何度も読者が辟易するくらい確認していることなのであるが、やはり通じないときは何度確認しても通じないものらしい。

まあ、ただ嘆いていても仕方がないので、今回の件を踏まえて、次は本筋の考察のほうを進めてみよう。今回取り零した部分については、そこでまた出来るだけ拾っていくつもりではいる。

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