« 教育と嘘事(の※欄の続き) | トップページ | filinionさんに応える 〈各論〉 »

2008年11月17日 (月曜日)

filinionさんに応える 〈概論〉

ここのところ息長く考え続けている教育と水伝の問題だが、最初の記事である「教育と嘘事」に対して本職の小学校教師であるfilinionさんから言及を戴いた

この「小学校笑いぐさ日記」というブログは、以前から度々亀@渋研Xさんのブログで記事が紹介されていて、何度か記事を拝読したことがある。どれも興味深く読ませて戴いていたし、元々こちらの記事も一種の叩き台であって、小学校教師の方から専門的な観点のご意見を賜ることを望んでいたわけだから、本来これは望ましいことのはずなのだが、正直なところ、このエントリーの論旨にはかなり違和感を抱いた。

こちらの該エントリーに関しては、「一種の叩き台」と表現した通り、ここから議論が進んでいけば、という意味で、まずこちら側が抱いている最初の仮説を語らせて戴き、徐々に他の方とのコメントの遣り取りで詰めていく形を想定していたことも、違和感の原因としてあるのかもしれない。

filinionさんは、該エントリーのコメント欄に関して、

長文が多くて、全部は読めてません……。

と註釈しておられるので、ご自身の身辺が慌ただしいというご事情もあってコメント欄をも含めた総体としての論の進展をすべてご覧になったわけではないという理由もおありかと思う。これに関してはオレ個人の長広舌が物理的な障害になっているということで、不徳の致すところではあるのだが、しかし、どうも本筋はそこにはないのではないかという気がしている。

つまり、filinionさんのこのエントリーを拝読しても、ではfilinionさんはこの問題に関してどのようにお考えなのかが一向に見えてこないというのが、オレの感じた違和感の最大の原因である。お書きになったことを拝読する限り、一応の結論は明示されてはいるだろう。

……じゃあ、なんで「水からの伝言」が、学校の授業で取り入れられたりするのか?

 

 答えは一つ。

 

「その教師が信じているから」

 

 です。

これはつまり、一連の対話において技術開発者さんが最初に仰った結論と同様の趣旨であると謂えるだろう。これは教育者という職域固有の事情とは関係なく、個々の水伝教師個人の信念乃至信仰の問題である、そういう結論だということである。

しかし、現職の小学校教師の方のご意見として、この結論には相当の違和感がある。技術開発者さんがそのように仰るのは、或る意味で非常に理解出来る。技術開発者さんは職域の固有性や特定の事件の詳細、引いては水伝という言説固有の特質が問題なのではなく、そのような詐術的言説を受け容れる一般的社会性のほうを問題意識の中心に置いておられると考えられるので、特定の言説を巡る特定事件における特定職域の固有性を中心に置く考察に対してオレとは別の見解をお持ちなのは当然である。

しかし、小学校教師であるfilinionさんが同じことを仰るのであれば、また別の意味合いが生じてくるはずである。

つまり、水伝がまず教育現場において蔓延したことには、教育という領域固有の事情が関連しているのではないか、という仮説の立て方は、言い方を換えれば、これが偶然ではなく一種の必然であったという読み替えとして解釈可能である。

それをさらに言い換えると、この職域固有の事情が何らかの形で改善されない限り、第二、第三の水伝事件が教育現場で発生するかもしれない、という危惧を示唆していることになるわけである。これは、現職の小学校教師の方にとって看過出来ない言い懸かりと感じられる嫌いはあるだろう。まして、それを論述する為に「嘘事」という強い表現を遣っている。相応の反撥をお感じになったとしても当然である。

それ故に、filinionさんが職域固有の事情の関連を認めず、個々の教師の個人性に問題点を還元されたのだとしたら、「それは必然ではなく偶然だ」という主張として解釈出来るかもしれない。つまり、「教育現場において水伝事件的な問題が好発する」という考えには根拠がないという主張として読み替えられるかもしれない。

ただし、オレが該エントリーにおいて語りたかったのはそういうことではない。

最初の頃の技術開発者さんへのお答えと関連してくるが、少なくとも社会的な領域の事柄というのは、普遍寄りの方向に考察の軸を採ると「必然」の意味合いは重要性を喪ってくるものであり、具体寄りの方向に考察の軸を採ると「偶然」の意味合いが重要性を喪ってくるものだとオレは考えている。

つまり、普遍に軸を採って「人は騙し、騙されるものだ」という観念に沿って考察するのであれば、個々のニセ科学言説の固有性は重要性を喪うし、たとえば最初に水伝が蔓延したのが教育現場であるという事件の固有性もまた重要性を喪う。普遍に軸を採るということは、その具体から抽出される原理原則のような抽象概念を考察対象とするということだから、対象は水伝でなくても好いのだし、教育現場で起こったという事実にも固有の重要性はない。

対するに、具体に軸を採って考えるということは、水伝という特定の言説の固有性や教育現場という領域の固有性を視ていくという方向性である。この考察においては偶然性という概念は原理的に重要性を持たない。或る事件が起こったことにはすべからく固有の必然的な理由が存在するという軸の採り方であって、その意味で偶然が必然に変わるというだけのことなのである。

つまり、現実には教育現場において水伝が蔓延したという事実があったとしても、概念的にはそれ以外の領域において同じことが起こった場合も想定し得るのだし、いずれの場合も、その事件の個別の具体性の中に、そのような事件が起こるだけの必然的な理由がある、そういう意味において偶然が必然に読み替えられるというだけのことである。

それ故に、「水伝が教育現場において蔓延した事実には教育という領域固有の事情が関連しているのではないか」という考察は、直ちに「水伝蔓延のような事件は主に教育現場において好発する」という結論と直結するわけではない。

では、具体に軸を採って考察することにはどんなゴールが想定されているのか、と問うならば、それは個別の事件の構造を解析することである。たとえば、最大限に普遍に軸を採って「現代人には水伝的な言説に附け入られる欠落がある」と言明したとしよう。これは或る意味で正解ではあるだろうが、これだけでは具体性に欠ける空論である。

たとえば、年末年始に空き巣が頻発するという状況において「年の瀬は空き巣が多いから気を附けねばならない」と語ったところで、ここに含まれている情報は「年の瀬は空き巣が多い」という事実だけで、具体的な空き巣の手口や効果的な対策に関する情報は含まれていない。それは各自が考えることだという前提の言明である。

より効果的に空き巣被害を防止しようとするのであれば、過去の具体例に沿ってケーススタディを考え、現在一般的な手口を解析し、それにはどのような理由があるのかとか具体的にどのような効果的な対策を採り得るのかを考える必要がある。

たとえばこの場合、或る特定の一家が空き巣に入られたという事実は、一面では偶然でしかないだろう。何処其処で働いている何某さんを世帯主とする○人家族が住む何処其処の住所の特定の家屋において空き巣被害が発生したことは、謂ってみれば偶然でしかないわけだが、具体に軸を採って視ていくなら、その特定の空き巣被害がその特定の一家の特定の家屋で発生したことには必然的な理由がある。

地理的条件であったりとか、家屋構造であったりとか、生活様態であったりとか、家族構成やその他諸々、そのような或る特定の一家とその住居が有する固有性と、空き巣の常套的な手口という固有性のマッチングにおいて特定の空き巣被害というのは発生するわけで、その具体を視ていって具体的な対策を考えることで、空き巣被害という犯罪総体の未然防止に益することがあるわけである。

このような実効的な意味合いにおける目的がまず一つ挙げられる。

そして、いま一つの目的としては、具体的な事実の構造を明らかにすることで当事者である教師にとっての公正性を回復することも挙げられるだろう。

たとえば、これもまた犯罪絡みの比喩で申し訳ないが、ここに人を殺した人間がいると仮定しよう。一人の人間がもう一人の人間を殺害した、この事実には疑いがないという設定で考えてみよう。この想定において、その人物が一人の人間を殺害したという事実さえ明らかであれば、後はどうでも好いということには決してならないはずである。

何故、どのような動機において、どのようにして殺害したのか、これを明らかにする必要があるはずである。この比喩においては、それは主に殺害者の情状を勘案する目的の故であるが、より普遍的には、人が行った何某かの行為が裁かれるのであれば、それが量刑や情状とは直接の関係がなくとも、行為の実態や心情面の「真実」が最大限に正確に解明されるべきであるという公正性の観念が社会にはあるはずである。

殺人者に対して「人を殺したことは事実なんだから他のことを考える必要はない」と考えるのも間違いだし、殺人者自身が「殺したこと自体は認めているんだから他のことはどうでもいいじゃないか」と主張するのも間違っている。また、殺害者自身の自供さえあればそれで好いということでもない。最大限客観的に多くの人々が共有し得る真実として、実際にどのようなことが起こったのかを検証すること、これが社会的な意味での公正性というものだろうとオレは考えている。

水伝授業の一件においては、裁かれているのは少なからぬ数の教師たちである。水伝授業が批判さるべきであるという前提は疑いようがないとオレは考えるし、水伝教師たちが過ちを犯したことや社会に無視出来ない悪影響を及ぼしたこともまた擁護の余地はないと考えるが、その半面、それさえ明らかになれば他のことはどうでも好いという考え方は受け容れられない。

水伝なんて阿呆な代物を子供たちにバラ撒いたんだから、そいつらは阿呆だったんだというのは、単なる同語反復ではあるが、原始的な責任追及や応報の論理ではそれで好いのだろう。過ちを犯した者を罰する際には、別段相手の事情を斟酌する必要はないし、犯した過ちに応じて不利益を蒙ることが社会原理というものである。

しかし、その一方で、社会に不利益をもたらしたのだからその結果だけしか考えなくても好いというのは、不利益をもたらした者に対しても社会に対しても十分に公正な考え方ではないとオレは考える。当事者たちが望もうが望むまいが、可能な限り具体を視ていって実態を解明するという作業が一方であってこそ、公正性が保たれるのだとオレは考えている。

普遍一方でもダメなのだし、具体一方でもダメなのであって、その両方があってこそ十全に公正で在り得るのだと考える。つまり、或る問題性に対するアプローチを考える場合、それ一つだけですべてをカバーし得る万能の妙薬としての論はないということで、それを論じる者は、総体の中の一部分を担う意識が必要だということでもあるだろう。

また他方では、教師という固有性を個人に拡散することにオレが違和感を抱くのは、たとえばたしかにTOSSという集団は極端な性格を有しているとは謂え、そこで論じられているテーマは間違いなく「教育技術」だからであり、そこに集うのは紛れもなく教師として切り分けられる職業人だからである。そして、水伝授業はTOSS内部のみならず、燎原の火のようにその外部の教師たちにも伝わっていった。水伝授業に追随した外部の教師たちは、別段極端な人々でも何でもなかったはずである。

水伝の社会的な悪影響を語る場面で、主要な課題となるのは水伝が背景に背負う波動ビジネスの金銭的被害の問題ではなく、主に教育の観点における悪影響の問題で、水伝問題というのは一面では教育問題でもあるのである。さらに謂えば、水伝授業の問題は過去のものではなく今現在も継続している今其処に在る脅威なのであり、それはやはり教育現場においてなおも燻ぶり続けている。これを偶然と切って棄てるのは、少なくとも当の教育者の立場としては違うのではないか。

謂ってみれば、水伝問題の主要な舞台は教育現場なのである。これを偶然と見做すことは可能だろうし、それは軸足の採り方次第の問題であることはすでに語った。しかし、当事者である教師たちが、水伝授業の問題を「その教師個人が阿呆だった」で済ませることは、果たして妥当だと謂えるのか。既述の通り、水伝授業の問題を必然と捉え得る具体の視座というものもまた、偶然と捉える視座と同様に成立し得るのであり、それは主に当事者にとって切実な必要性を持つ視座のはずである。

極最近の女性校長会の問題を、当の教師が「世の中には阿呆が多いものだ」「その阿呆が偶々教師だった」で済ませるという姿勢は果たして正しいと謂えるのか。オレはこの女性校長会の件は、小学校学習指導要領解説・道徳編の改訂、つまり小学校の道徳教育における校長のリーダーシップの強調と密接な関係があるのではないかと推測しているが、もしもそうだとすれば、これは歴とした教育問題である。

たしかにこれは、「偶々」女性校長会という組織において起こった事件であり、それ故に妙な偏見が強調される畏れがあったわけだが、それが「偶々」だというのは、さらに大がかりな校長の組織で起こってもおかしくなかったという意味にすぎない。これは、水伝に批判的な現場の教師たちにとっても大きな脅威ではないのか。

おそらく、オレがfilinionさんのエントリーを拝読して感じた最大の違和感の正体はそれである。

しつこく繰り返すが、「水伝を受け容れたのが偶々教師だっただけ」と謂う言い方は幾らでも可能である。そして、それが「偶々」警察官だったという想定だって幾らでも可能であり、会社員だって幾らでも水伝に騙された人はいるし、主婦だって騙されるのは同じだろう。

しかし、教師が騙されたのは教師固有の隙があったからなのだし、もしも警察官が騙されるとしたら、それもやっぱり警察官固有の隙があったからであり、それは会社員が騙されるとしても、主婦が騙されるとしても同じことである。

そのようにして考えない限り、騙される教師は後を絶たないし、騙される警察官だって後を絶たないだろう。言ってみれば、人はそのように個人性の大きな一部として自身が逃れ難く属する個別の社会的領域性の故によって騙されるのである。

ざっくりと個人の問題だと謂ってしまえば、職域固有の騙され方や固有の隙や欠落はいつまで経っても見えてこない。しっかりしている人は騙されないし、ぼんやりした人は騙される、どんな職業や立場であってもそれは同じことである。それは真実ではあるだろうけれど、それだけでは何を言ったことにもならない最大限に曖昧な真実である。

幸いにしてfilinionさんは水伝に騙されなかった。だから騙された奴が阿呆だったという言い方で水伝教師を切って棄てることも出来るだろうし、おそらくfilinionさんのリテラシーならニセ科学言説に騙されることはまずないだろう。

しかし、この先もずっと何かに騙されないとは限らないのだし、可能性としては、オレだろうがfilinionさんだろうが、もっと謂えば菊池誠さんだろうが、騙そうとして騙してくる相手に対して鉄壁の無敵要塞だとは絶対に謂えないのである。

その場合、騙されるほうが阿呆だったと言ってみても意味はないのである。自分のことでも客観視して阿呆だと謙ることは出来るだろうが、それは単に「騙された」という客観事実を「阿呆だった」という主観的な定性評価に言い換えただけにすぎない。自分自身を含めて誰にとっても意味のない言明でしかない。

水伝に騙された人はたくさんいるが、事実として教師という職域の多くの人々が選別的に騙されることで主要な悪影響を社会に与えるに至った、そこには職域固有の事情があるはずだという考え方に、当の教師たちが関心を持たないというのは、少なくともオレにとっては大変奇異に感じられる…いや、もっと正直に言えば、一向に奇異には感じないが「それでいいのか」と大いに疑問に感じる。

たしかに、人は騙そうとする相手に騙される可能性を常に有しているし、そのような抽象的な事実自体は、教師であろうが警察官であろうが絵描きであろうが文筆家であろうが営業職であろうが研究職であろうが建築作業員であろうが工員であろうが、何処にも変わりなどはない。しかし、教師を騙す場合と絵描きを騙す場合は自ずと手口も異なるだろうし、それを逆に謂えば、同じ詐術的言説であっても職域固有の騙され方というものが存在するということのはずである。

その固有の騙され方を考察することは、少なくとも職域固有の事情が理由で騙されることを未然に防ぐ目的には有益なはずであり、職業人として意図せず何らかの不善を為すことから身を遠ざける為には有効な知恵となるはずである。それはたしかに、人が人に騙される理由一般においては一つの部分に過ぎないかもしれないが、窮めて大きな部分であることは間違いないとオレは考える。

今度はそれを別の観点から考えてみよう。

たとえば教師と並んで聖職扱いされていた(まあ過去形が相応だろう)警察官が犯罪等の不祥事を起こすと、一般人よりも強く非難される。それに対して「警察官だって聖人君子じゃなくてただの人間なんだから犯罪だって犯すだろう」と澄まして嘯く人もいるが、これは愚かな考えである。

世の中の人々は、警察官が人間として聖人君子だと考えているわけではなくて、犯罪を取り締まる目的から国家的な暴力を許されている立場の職業人なのだから、犯罪から身を清く遠ざけているべきだと強く期待しているからこそ、警察官の犯罪を「あるまじきこと」として憎むのである。犯罪と日常的に接している警察官には、犯罪への傾斜の誘惑があるかもしれないという固有の事情はあるだろうが、それだからこそ寧ろ犯罪に対して距離を取るべき職業上の強い義務が在るわけである。

個人として清廉潔白な聖人君子だろうが鈍物の野蛮人だろうが、犯罪を取り締まる立場の人間が犯罪に手を初めることは絶対に許されないから、警察官ではない一般社会人とは別の特別な意味で非難されるのである。つまり、そんなに犯罪がしたかったら警察官を辞めてからにしろ、というのが社会の期待であり、職域固有の条件である。

教師という職業人にも職業領域固有の社会の期待があるわけで、真っさらな子供にまず知識を教え込む立場の職業人だからこそ、取り立てて人並み以上に賢くなくても好いが変なことを教える「阿呆」であることだけは困るわけである。

filinionさんが仰る通りに水伝教師個人が「阿呆だった」ということであれば、阿呆であっては困る職域にそんなにたくさん阿呆がいたということになるし、そんな阿呆が現在も途切れることなく存在するということになる。これは、これほど蔓延した実態を前にして謂うなら、「教師も人間だから」では済まされない問題であるはずなのである。

たとえば、悪徳警官が常に一定数存在すること自体は個人の倫理の問題と言い得るだろうが、警察内部に無視出来ない程度悪徳が蔓延していれば、それは警察官という職業領域全体の信頼性に関する構造的な問題ということになる。水伝授業の問題で謂えば、一教師が水伝を真に受けて授業に使ったというだけであれば、それは職業領域の問題ではなく個人性の問題と言えるだろう。だが、より重大な問題は、それが教育現場に蔓延しているという事実なのであり、だからこそ職業領域全体の問題と見做し得るのである。

ただし、もしもその通りだとしても、それは教師たち自身に原因があるのではなく、社会風潮の変化や教育行政の在り方により大きな問題点があるからだろう。現場の教師たちが如何に苛酷な現状に置かれているのかは、ネットでも現実生活でも度々耳にしているし、それは本当のことだろうと思う。

ここでも何度か書いたように、如何なる体罰も許されず、子供の心を寸毫も痍附けることを許されず、さらに預かる子供たちは保護者の価値観の変化に伴って最初から尖鋭な権利意識を植え着けられて学校へ入ってくる。一人前の精神性も責任能力もない半出来の人間が一人前の権利だけは要求する状況というのは、それを教育指導するという目的においては一種最悪の条件附けである。

こんな状況に置かれた教師たちが「阿呆なこと」に手を出すのは或る意味では仕方がないという言い方も出来るが、一面ではそれは幾ら仕方がなくても一切免責されない類の事柄でもある。そして、何よりその実害は責任能力を持って然るべき大人たちではなく子供たちに対して及ぶのであり、これだけはどのような事情があろうと可能な限り阻止に努めるのが一人の大人としての絶対的な義務である。

たとえば、近所の有り難屋のオバチャンが水伝にハマった、波動ビジネスで搾り取られた、挙げ句の果てに片っ端から識り合いに波動水や波動関連商品を勧めて廻っている、これもまた大きな社会問題であるとは謂えるだろう。

しかし、教師がこれにハマった場合、最低でも一クラス数十人の児童の知的に無防備な心に水伝を刻み込むというもっと深刻な悪影響が考えられるわけで、これが校長ということになれば一学校数百人の児童に影響範囲が拡大するのであり、これは深刻な脅威と謂えるだろう。

校長に全教員の授業内容に対する実体的な影響力はないというご意見を戴いたこともあるが、前出の学習指導要領・道徳編を読む限り、二〇年度の改訂において、校長乃至教頭は、個々の学校における児童の実態や地域社会の実情に即して学校全体の道徳教育の具体的方針及び教育計画を策定し、道徳教育推進教師を任命し、これらの人々が教員全体の核となって一貫した道徳教育を推進すべきである、と明記されているのである。

そのような監督省庁からの指導は、現場においては実態論が優先され無視されるのが当然なのか。そうではないだろう。そうであれば、個々の教員がお上の無理解な施策の故に苛酷な現状に置かれているというロジックも成立しなくなる。そして、少なくとも管理職である校長は、その監督省庁からの指導を各教員の職業的実践のレベルで確実に徹底させる責任を負う立場である。

これは、filinionさんが仰る「義務教育カリキュラムへの信頼」とか「信仰」に近い部分とも関連してくるだろう。門外漢のオレが読んでも、学習指導要領解説の論理はおかしなものではないし、相応の学問的な根拠も踏まえている。道徳教育は総体として設計されねばならないものなのであるから、各学年の担当教員が部分として教えるだけではなく、学校全体を概観し監督し得る立場に在る校長乃至教頭が全体方針や教育計画を考え、中心となる専任者を決定して、一貫的な見通しや方針の下に計画的に道徳教育を実施する必要がある。これは正論である。

そして、普通に考えるなら、その学校固有の道徳教育の方針と謂っても、それはさほど学校毎に大きく変わるものではないだろう。言葉遣いの問題というのは、小学校教育においては必ず教師の頭を悩ます普遍的な問題点だろうし、それを訓練する現代的な意味での困難性というのはすでに指摘した通りである。

ここに、これまでは具体的な授業内容に関与して来なかった校長が、「これからは校長が指導的役割を担って道徳教育を推進しなさい」と言われたら、何らかの事前の情報収集のような試みを行う必要があると考えるのは自然だろう。別段に、二〇年度版の学習指導要領解説が刊行されるまで、改訂内容が一切識られていなかったわけではあるまいし、改訂内容に対応する為の準備期間もあったはずである。

そこで起こったのが、女性校長会における江本勝氏の講演だったのだとすれば、実はこれは、単に校長先生たちが個人的な見識を深める目的の集まりで間違った人を呼んでしまったという以上の大きな問題に発展した可能性があるということである。もしかしたら、当初ベタに危惧された通り、新たに要求されている「校長の中核的役割」の故に水伝が大規模に道徳教育に入り込んでいた可能性があるということである。

数千部の絵本は、単に校長先生たちが「是非子供たちに読んでほしい」と考えて発注したものではなく、filinionさんの仰る「投げ込み教材」として実際の授業に用いる目的で発注されたものなのかもしれないのである。何せ無料配布なのだから、お金もかからない、試してみる分にはタダである。

hietaro さんが紹介されているNさんの質問状によって、或る程度の抑止効果はあったのではないかと思うのだが、実際に学校のホームページ上で水伝を肯定的に採り上げている校長先生もおられるかに仄聞する。これまでの推測を踏まえれば、それは当初考えられていたように「校長先生が訓辞の小ネタとして水伝を拾ってきた」という軽いものではない可能性が考えられるわけである。

女性校長会の一件の一報に接したとき、我々は「なんで今頃?」と耳を疑ったが、それはこれまで具体的な授業内容には関与してこなかった立場の教職者が、最近になって全体的な道徳教育をリードすべき立場に置かれたが故の認識上のタイムラグだと解すれば辻褄は合うだろう。

この推測が当たっているかどうかは別として、そういう危惧が在り得たことは調べてみない限りわからなかったことである。調べてみなかったら、このような大きなリスクが鼻先にぶら下がっていたにも関わらず、我々のような非専門家はそれに気附くことすら出来なかったわけで、コトが表面化し問題化してからようやくそれに気附かされるという、いつも通りの後手に回らざるを得なかったかもしれないのである。

女性校長たちが教師としての見識を深める為の単なる教養講座の一種として江本氏の講演を聴いたというだけなら、それはたしかにイカサマ坊主の空念仏を有り難がって聴く愚昧と何ら変わりはないから、「阿呆だった」で終わりの話である。しかし、その背景に道徳教育における指導的役割を果たす為の情報収集という具体的目的があったのであれば、事の重要性は果然変わってくるはずである。

そして、この推測が当を得ているのかどうか、オレには判定出来ない。filinionさんのような現場の方にお伺いして、実際にはどうであるかを注意深く確認しない限り、推測は推測であるにすぎないわけである。

そして、オレが現場の教師の方々から伺いたいと望んでいるのはそういうファクトの部分に関する専門性の高いご意見なのだが、そのような種類の情報はいつまで経ってもお伺いすることが出来ていない。一つには、オレの聴き方が悪いということもあるのだろうが、非常にもどかしさを感じるところである。

言い方は悪いが、「教師という立場」に伴うスタンスに立った合目的的なご意見ばかりだったと感じているし、申し訳ないが、それは今回のfilinionさんのご意見にも感じた感触である。

では次に、一旦エントリーを分けて、実際にfillionさんのエントリーの論旨を逐次的に視ていくことにしよう。

|

« 教育と嘘事(の※欄の続き) | トップページ | filinionさんに応える 〈各論〉 »

コメント

>黒猫亭さん「水伝に騙された人はたくさんいるが、事実として教師という職域の多くの人々が選別的に騙されることで主要な悪影響を社会に与えるに至った、(後略)」

「選別的に騙される」の意味するところが不明瞭で、その点がはっきりしないと、おっしゃりたい事がうまく理解できそうにありません。下手な憶測を膨らませながら長文を何度も読み返した揚げ句、藁人形論法に陥る──という事にならないために、まずその点の含意を明確にして欲しく思います。

以下、私の「事実認識」です。
(1)教員とそれ以外の人(例えば主婦や会社員や警察官など)とで、「水からの伝言」への「騙されやすさ」(極めて単純化して言えば、その言説に接したとき、その言説を「信じる」人の割合)は大して変わらない。
(2)道徳教育の内容に直接明示的に関わるその主張およびTOSSの存在によって、特に教員がその他の人に比べ「水からの伝言」に曝される頻度・強度が大きい。
(3)教員とそれ以外の人(例えば主婦や会社員や警察官など)とを比べた場合、教員が「水からの伝言」を信じた場合のほうが社会的問題として顕現しやすい。

もし(1)の認識が誤っているという意味で「選別的に騙される」とおっしゃっているのならば、それはそもそもの論の立脚する前提自体が、おそらく多くの教員の認識とは強く対立しているので、教員の見解をうかがいたいという事が目的なのでしたら、まずその点の見解の齟齬にまで立ち戻って議論をやり直すほうが良いと思います。

もし(2)の意味で「選別的に騙される」とおっしゃっているのならば、それは当然教員コミュニティの間で問題視されていますし、さまざまなレベルで議論もされています。昨今の道徳教育に関する各所での議論(迷走?)はマスコミにも大きく報じられている通りです。
この点に関しては、例えば「100匹目のサル」が労務管理に都合が良いので船井総研の存在を介して全国の経営者たちに広まったのと同じ構図の現象であって、黒猫亭さんがおっしゃる「職域固有の事情」は、端的に言って「需要と供給の問題」でしかないように思います。
で、繰り返しになりますが、コミュニティ内の切実な「需要」に対して、その「供給」について真剣に考えようとしないコミュニティはないわけです。その構図(そこに「ニセ科学」が忍び込む構図)が、教員とそれ以外の人(例えば主婦や会社員や警察官など)とで大きく変わると考える理由は、ちょっと私には思いつきません。

もしも黒猫亭さんの問題提起が、「教員コミュニティは、誤った“供給”がされている時に、それを問題視する声が内部からまったく挙がらない職域コミュニティである」という主張だとすれば、これは教員にとってはとても看過できない重大な指摘ですので、まずその点をできるだけ単刀直入に直截に述べるべきだと思います。
できるだけ了解が容易な問題提起から説き起こして、徐々に段階を踏んでゆっくりとその論点まで連れて行く……という論法を採用したとしても、提起されている主張はとても強いものですので、「まさか私たちはそこまで酷い状況なのか?(状況だと疑われているのか?)」という認識に当事者が到達する(その認識を直視する)のは心情的にとても難しく、結局、当事者は黒猫亭さんが何を問題視しているのか分からないで終わる──つまり教員サイドからの有益な回答が得られない──という可能性はとても高いような気がします。

投稿: 田部勝也 | 2008年11月22日 (土曜日) 午後 09時17分

>田部勝也さん

ちょっと考えてみましたが、田部さんがお訊ねの事柄に答えるのはけっこう難しいことだな、と思いました。

一つの質問への答えが別の質問への答えと重なる部分があることもあって、例によって少し繰り返しが多くくだくだしくなるかもしれませんが、何とかやってみます。また、同意・不同意では簡単に切り分けられないことなので、具体的に説明させて戴きます。

まず、(1)についてですが、一個人としての教師がニセ科学の真偽を識別出来るような知的能力の面で、他の職業の人々より優越しているかと謂えば、これはfilinionさんが仰るように、「ちょっとだけマシ」レベルなのだろうな、とは思います。

知的能力のベースを考えてみても、普通に大学四年間で教育を受けるだけで、教育学部が物凄い超難関と謂うわけでもないですから、そう謂う意味で知的選良と謂うことにはならないですよね。大学を卒業して教員試験に合格しても、実際に教師になれる人が少ないと謂うのは、それこそ単に需給バランスの問題ですし、教師と謂う職業人が他の職種よりも知的に恵まれているとすれば、それは学問を教える以上その教育内容をしっかり把握していることが最低条件であるから、と謂うところでしょう。

普通の一般的な勤め人なら、学校を卒業して就職してしまったら、ひどい場合は小学校で習ったことすらあやふやと謂う人はザラですから、そう謂う意味で教師の場合にはそれよりも基礎的知識に日常的に接していてしっかり銘記している分だけ「ちょっとだけマシ」なことはたしかだと思います。

しかし、知的能力の面で格段他の職種の人々より優越しているわけではないと謂うことが、ニセ科学に対する騙されやすさにストレートに出ているのなら、これはやっぱり問題だろうと思いますし、そうあるべきではないと思います。

何故なら、教師と謂うのは、判断能力の未熟な未成年に知識を教える職業だからで、そのような職業固有の注意義務と謂うものがあるはずだからです。で、これがあるかないかで騙されやすさは格段に違うはずなのです。

たとえば、ぼんやりと「何か美味しい話が向こうから転がり込んでこないかな」と隙だらけの態度の人なら、騙そうと謂う悪意を抱いて近附いてくる人に簡単に騙されてしまうでしょう。しかし、「世の中油断も隙もないから、美味しいことを口にする人は簡単に信用出来ない」と考えている人は、それに比べて格段に騙されにくいはずですね。

勿論、最終的にはどちらの人も程度問題で、狡猾な詐術には誰だって騙される可能性自体はあるんです。ただ、騙されやすさと謂う尺度で考えるなら、注意しているかいないかで格段に騙されやすさは違うはずですよね。

で、教師と謂う職業には、大人ほどには判断能力のない子供たちに知識を教えると謂う職業固有の注意義務があるわけですから、他の職種の人よりは真偽定かならぬ新説に対して警戒心があって然るべきだし、まして授業に用いるとなるとよほど注意して検証すべき義務があるわけですね。それだけでも随分結果は違うはずなんです。

人々が水伝に騙されるのは、ざっくり謂えば「世界がこうであったらいいな」「これが本当のことであったらいいな」と謂う潜在的な願望があるからだと思うのですが、その点では教師といえども変わりはないでしょう。しかし教師以外の人々が信じる場合は、自分が騙されるだけの話だし、精々親類縁者に勧めて廻って嫌がられると謂う影響範囲なわけですね。

このレベルの影響範囲で、しかも職業固有の倫理的責任がなければ、割合に騙されるまでの心理的なハードルが低いと謂えるでしょう。所詮は自分一個が信じるか信じないかの話で、影響と謂うのはそれに伴うものにすぎません。しかし、これが教師の場合、水伝のような公的にプルーフされていない不確かな言説を、実際に授業に用いるまでには何段階もの心理的ハードルがあるはずなんです。

さらに謂えば、自分が個人として何を信じているかと、授業に何を持ち込むかと謂うのは、普通に考えれば全然別立てであって然るべきなんですね。

授業内容に何を盛り込むのかと謂う部分に関しては、filinionさんが「真偽の定かならぬ投げ込み教材なんて怖くて使えない」と仰っているのが当たり前の感覚だと思うんですよ。それは穏健な保守性と謂うものだと思うし、それはやっぱり教師と謂う職業においては必須の職業的要件だと思うんですね。

そう謂う意味で、教師と謂う職業人が、他の職種の方と同じくらいニセ科学に騙されやすいのだとしたら、それはそれで重大な問題なのだし、そうではないと考えたい、と謂うのがオレの考えです。ですから、水伝が授業に採用されただけではなく、それが蔓延したと謂う事実自体は、物凄く異常な事件だったと考えています。

他の職業で喩えてみましょう。たとえば警察官ですが、警察官だって人間だから犯罪に傾斜する事情からフリーなわけはないんです。金銭欲だってあるだろうし性欲だってあるだろう、暴力衝動だってあるだろう、それは人間なんだから同じです。

しかし、一般人における犯罪者の割合がそのまま警察官における犯罪者の割合と重なるようであれば、それは大問題と謂えるはずです。それは、警察官には犯罪から積極的に身を遠ざけるべき職業的注意義務があるからで、理想的にはゼロであるべきなんです。その意味で「警察官だって人間なんだから」と謂うのは、犯罪を犯す警察官がゼロでない理由として語る分には好いけれど、警察官でも犯罪を犯すのは自然で一般人と変わらないと謂う趣旨の論理としては的外れなわけです。

次に(2)ですが、オレが水伝に関心を持ったのは昨日今日の話なので、リアルタイムの事情は少し疎いところがあります。そう謂う次第で、

>>もし(2)の意味で「選別的に騙される」とおっしゃっているのならば、それは当然教員コミュニティの間で問題視されていますし、さまざまなレベルで議論もされています。昨今の道徳教育に関する各所での議論(迷走?)はマスコミにも大きく報じられている通りです。

これは寡聞にして存じませんでした。と謂うか、教員コミュニティの間で活発な議論がなされていると謂う事実自体聞いたことがないので、もう少し詳しくご教授戴けると有り難いです。つまり、TOSSの存在が問題視されていると謂う意味なのか、水伝授業の蔓延が問題視されているのか、それとももう少し大括りな道徳教育を如何に為すべきかと謂う問題が議論されているのか、それはどの程度の拡がりを持った動きなのか、それによって少しこちらの意見も違ってくるかもしれません。

それと、オレも水伝について語られた過去の言説には気を附けて目を通しておくようにはしているのですが、それでも教員コミュニティの間においてそれが活発な議論の対象になっていると謂う話は聞いたことがないわけで、実際にそうであれば、一般的な水伝授業批判の傾向にも少し不備があって、やっぱり現場の教師コミュニティに対して若干公正性を欠く形だと謂うことになります。

さらに謂えば、それほど議論されていたのであれば、おそらく全国的にも学校数が集中しているであろう関東地方において、関東女性校長会のような一件が何故起こるのかがわからなくなります。現場と校長の間にはそれほどのコミュニケーションの断絶があると謂うお話なのでしょうか。

また、道徳教育に関する議論がマスコミで大きく報じられていると謂うのも、浅学にして少しピンと来ないところがあります。

とにかく、それに関してはお話を伺って認識を正確にしたいと思いますので、お手数ですが少し詳しくご教授戴ければ幸いです。kikulog 辺りのログにそう謂う情報があるのでしょうかね。

また、後先になりましたが、

>>(2)道徳教育の内容に直接明示的に関わるその主張およびTOSSの存在によって、特に教員がその他の人に比べ「水からの伝言」に曝される頻度・強度が大きい。

これには特段の異論はありません。ただ、TOSSの影響と謂うのは少し微妙かな、と謂う感触はあって、TOSS外への水伝授業の拡がりは、TOSSを介したものではなく、教員同士の実体的なコミュニケーションの影響ではないかと謂うふうに推測していますが。

>>この点に関しては、例えば「100匹目のサル」が労務管理に都合が良いので船井総研の存在を介して全国の経営者たちに広まったのと同じ構図の現象であって、黒猫亭さんがおっしゃる「職域固有の事情」は、端的に言って「需要と供給の問題」でしかないように思います。

これは少し事情が違うのではないかな、と思います。この論理で謂えば、教師たちは道徳教育に都合が好いから水伝を採用したと謂う話になりますが、経営者が労務管理に都合の好い言説を利用するような意味で、教師が道徳教育に都合の好い言説を利用したのだとすれば、それ自体が大きな問題でしょう。

つまり、経営者と謂うのは労働者とは利害が対立する立場にある存在で、別段被雇用者に対して児童教育と同様な意味合いでの教育的な義務はありません。ですから労務管理に都合の好い言説がインチキだろうが何だろうが、それは別段どちらでも好いと謂うことになりますし、それを批判するのはニセ科学批判とは別の観点の話になるでしょう。

これらの経営者については「騙された」と謂う表現が妥当かどうかも怪しいわけで、最初からその言説の真偽自体はどうでも好いと謂う言い方が出来ます。本当だと信じたほうが他人に語る場合に抵抗がないと謂う潜在的な理由で信じたのかもしれませんが、当人たちに「あれはインチキですよ」と指摘したところで、「あ、そうなの?でも便利な喩え話だよね」でオシマイの話です。

真偽などどうでも好く、単に便利な喩え話だから需要に従って広まったのであって、それを便利な喩え話を探していた人たちの需要と供給の論理で解釈するのは、たしかに符合しています。

しかし、これが教師の場合、同じ論理は通用しません。同じ論理を適用する以上、教師たちも真偽などどうでも好かったのかと謂う疑問は必ず出てくるわけで、その部分に関しては教師固有の職業的要件に鑑みて、どうでも好いと謂う判断を下すこと自体が異常に感じられるわけで、一連のオレの考察は、この異常な事態はどのようにして生じたのかと謂うことを巡るものです。

それは教師たち自身がよくご存じのはずなので、本人が信じているから、とか、道徳教育に都合が好いから、と謂う単純な理由だけで、何重もの心理的なハードルがクリアされたと謂うこと自体が不可解な話ではあるのだし、それが真相だとしたら、それこそ大問題なんだから考えましょうよと謂う話になります。

普通に考えれば、「100匹目の猿」を受け容れた経営者たちは、それが結果的にインチキになったとしても「嘘も方便」だと考えていた人が大半だろうし、それはそれで一向に構わない種類の事柄です。しかし、教師はそうではないでしょう。

たとえばfilinionさんにしても、もしもご自分が水伝を信じていたとしても、それを授業に使うかと問われたら、かなり強い抵抗を感じるはずです。と謂うか、多分ご意見を拝読すると使わない可能性が高いでしょう。繰り返しになるかもしれませんが、オレはこの論において教師としてのfilinionさんを一切批判しておりませんし、その職業者としてのお考えは正しいと思います。

オレの論は、そこの断絶を橋渡しする為のものなのですから、田部さんのこの部分のご意見には同意しかねます。

>>で、繰り返しになりますが、コミュニティ内の切実な「需要」に対して、その「供給」について真剣に考えようとしないコミュニティはないわけです。その構図(そこに「ニセ科学」が忍び込む構図)が、教員とそれ以外の人(例えば主婦や会社員や警察官など)とで大きく変わると考える理由は、ちょっと私には思いつきません。

これは、需要と供給の内容如何によって変わることだろうと思います。道徳教育に有効な教材は何かと謂う需要に対する供給を考えるのはあって然るべき考察ですが、教師は経営者が「100匹目の猿」を受け容れるのと同じ機序で「水からの伝言」を受け容れてはいけないはずなのです。少なくとも筋論から謂えば。

極論すれば、経営者は被雇用者に対して管理上の方便としての嘘を吐いても構わない立場であるうえ、被雇用者は全員成熟した判断力を具えていて然るべき成人ですが、教師は一般に子供に対して嘘を吐いてはいけないものだと考えられているのだし、生徒は全員成熟した判断力など持ち得ない未成年です。これを同じことだと見做されても、社会一般の期待として大いに困るわけです。

結論を言うなら、オレは現場の教師たちが、「100匹目の猿」を受け容れた経営者たちと同じ感覚で「水からの伝言」を受け容れたとは考えていませんし、本人が信じていたから、と謂う理由附けも真に受けていません。それでは結局、教師と謂うのは日常的に方便としての嘘を平気で吐いていると謂う、オレの論が蒙った誤解と同じ内容をもっと悪い意味で言っていることになります。

また、自分が信じていれば教師は授業に水伝を使うのですか、と謂う問い掛けが必然的に出てしまいますが、これはたとえば、教師個人が何らかの新宗教に被れていたらそう謂う教えを授業でも持ち出す(期せずして影響が出ると謂うレベルを超えて)のですかと謂う話にも繋がりますから、信教の自由にも関係してきます。多分、マトモな教師なら出さないでしょうし、そんなものが出たら大問題です。

これでは結局のところ、教師と謂う職業人一般は信用ならないと謂う話になってしまわないでしょうか。

filinionさんのところのお話で謂えば、教頭先生個人が岩盤浴に被れてデトックスとか嘯いている分には個人の自由なんですが、それを正規の授業の内容として子供たちに吹き込めば、それは大きな問題になるわけです。これは、経営者が100匹目の猿がどうしたとか言っているのとは全然次元の違う問題です。そこを弁別するのが教師と謂う職業固有の注意義務のはずなんですが、本人が信じているから、と謂ってしまえば、そこの弁別が崩壊していると謂う話になってしまうんですね。

それが真相なら、それでも好いんです。ただ、他の職業と条件は同じだと謂う論理だけは通らないし、外部の目で謂えば、教育現場に水伝が蔓延したと謂う事態は明らかに異常なんですから、そいつらがアホだったと謂う説明で世間は納得しないんです。納得するとすれば、それは必ず幾分かは学校教育全体に対する不信を伴うわけで、何度も繰り返しますが、そう謂う意味でアホであっては困る職業が教師なんですね。

>>できるだけ了解が容易な問題提起から説き起こして、徐々に段階を踏んでゆっくりとその論点まで連れて行く……という論法を採用したとしても、提起されている主張はとても強いものですので、「まさか私たちはそこまで酷い状況なのか?(状況だと疑われているのか?)」という認識に当事者が到達する(その認識を直視する)のは心情的にとても難しく、結局、当事者は黒猫亭さんが何を問題視しているのか分からないで終わる──つまり教員サイドからの有益な回答が得られない──という可能性はとても高いような気がします。

こう謂う不信感自体はあるんだと思います。それは最初に申し上げたように、教師と謂う職業者の知的能力に対する失望と謂うより、職業に伴う個別の要件として教師はそう謂う妄説に最大限に警戒すべきである、少なくとも、本人が騙されてもそれを子供に吹き込むことだけは許されない、それだけの責任が伴う職業なのだ、と謂う強い期待があると謂うことなのだと思います。

たとえばfilinionさんのような現職の教師以外の方も、「水伝教師個人がアホだったんだよ」と謂う言い方をする方もいるでしょう。しかし、それはつまり、アホであっては困る教師と謂う職業にはそんなにアホが多いのか、と謂う教師一般に対する不信感と表裏一体の認識だと謂うことでしょう。一例や二例の事件があったのではなく、蔓延したのが問題だと繰り返す所以です。

数年前がピークだったとは謂え、水伝授業が蔓延したと謂う事件は、深刻な教育不信に繋がりかねない一件だったとオレは思いますし、それはたとえば水伝の危険性を世に訴えていくと謂うニセ科学批判の言論の目的が或る程度進展すれば、当然水伝授業の蔓延と謂う事件は教育界の汚点として新たに印象附けられることになるでしょう。

たとえば、少し前にミヤネ屋で水伝授業が批判的に採り上げられたこともあり、マスコミ上での水伝批判はまだまだこれからの話ですから、今更ながら昔の古傷も含めて総ざらえされるおそれはあるわけです。そして、個人がアホだったと謂う論理は、或る時期の教育界には洒落にならない数のアホがいたと謂う、それ自体憂うべき汚点を刻み込むわけです。

とくにネット言論では、一般的に知的な失態に厳しい傾向がありますから、教師の間で水伝授業が蔓延したと謂う事実は、そのまま教師一般に対する見下しに繋がっている部分はあるんではないでしょうか。そして、ネット言論に関与している現職教師はまだまだ少数派なんじゃないかと思いますが、児童の保護者なら幾らでもいるわけですね。

実際的に謂っても、filionさんが「そんなものは怖くて教材として使えない」と仰ったような穏健な保守性と謂うものが教育現場で崩壊しているから、われもわれもと水伝授業に追随する教師がいたのだ、と謂う解釈も可能です。

厳しい話ばかりになりましたが、水伝授業に意識的な方で教師一般に対して僅かな不信も持っていないと謂う方は少ないと思いますし、「それでも教師が全部ダメなわけではない」と仰る方もいらっしゃいますが、それは「そうであるべきだ」と謂う期待の表明なんだと思います。

そして、以前「教師にとっての社会とはまず第一に保護者だろうし、地域社会と謂うことになるだろう」と申し上げましたが、これは教師の言論が剰りネットに顕れないことの理由附けとして語ったことで、ネット言論に関与している教師の方は、この問題に関するネット言論に対する説明みたいなものを、もう少し継続的に展開してくれればいいのに、と思います。

投稿: 黒猫亭 | 2008年11月23日 (日曜日) 午前 02時48分

パソコン、壊れました。
いろいろ試してもどうもダメっぽくて、OSを再インストールしても動作がかなり不安定です(この文章もびくびくしながら打ってます)。書きかけのコメントやそのための資料もバックアップを取っていなかったので吹っ飛んでしまいました。
そんなわけで、さんざん思わせぶりなコメントを残したまま心苦しいのですけど、仕事のほうの年末進行もあって、ちょっといろいろと余裕がありません。私のコメントはたぶん忘れた頃に突然アップされると思うので、なにとぞお許しください。

(補記)以上は「PSJ渋谷研究所X」への投稿のコピペです。事情に鑑み、お許しください。

投稿: 田部勝也 | 2008年12月 5日 (金曜日) 午後 08時03分

>田部勝也さん

ご事情については諒解しました。亀さんも仰っていますが、この問題についてはとにかく性急な応酬は避けて気長にじっくり考えていきたいと思っておりますので、お気になさらずに。

勿論、また更めてお考えが煮詰まって(正規表現です(笑))纏まった文章を起こせるようになれば、喜んで読ませて戴きますので、忘れずにお報せくださいね。

どうもですね、オレはニセ科学問題においていちばん重要なのは、実は教育問題じゃないかと思っているんですよ。それはニセ科学が教育現場に浸透して子供たちを…みたいな負の側面だけの話ではなくて、ニセ科学のような不義を許さない社会を作るのはまず第一に教育の力だろうと謂う意味も含めての話ですが。

突き詰めて考えれば考えるほど、三〇過ぎた成人の物の考え方と謂うのは、一朝一夕に変わるものではないと謂うことを痛感せざるを得なくなります。ですから、ニセ科学を批判する行為がもしも僅かな実を結ぶのだとしたら、それは次代において、人々の考え方の何かが幾許かでも良い方向に変わったと感じられることくらいしかないのだと思います。

なのでまあ、我々はまだもう暫くはそこそこ元気に生きていられると思いますので、急くことなく気長にやっていきましょう。

投稿: 黒猫亭 | 2008年12月 7日 (日曜日) 午前 12時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/43138681

この記事へのトラックバック一覧です: filinionさんに応える 〈概論〉:

« 教育と嘘事(の※欄の続き) | トップページ | filinionさんに応える 〈各論〉 »