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2008年11月12日 (水曜日)

教育と嘘事(の※欄の続き)

以前書いた教育と嘘事というエントリーのコメント欄で、技術開発者さんと地道に対話を継続していたのだが、オレが長文のレスを書きすぎるせいで段々読み込みが重くなってきた。ついては、最後の技術開発者さんへのお返事を新たなエントリーの本文とすることで、読者の閲覧の便宜を図る意味でエントリーを分けたいと思う。

技術開発者さん並びに数少ない読者の方々にはご理解を戴いて、今後は続きの対話をこちらにて継続致しますのでよろしくお願い致します。

また、該エントリーに関しては、「小学校笑いぐさ日記」のfillion さんに言及を戴いていて、それに対してお答えしたいと考えているのだが、ご本人が今はご多忙ということで、先方での議論は避けてこちらで新たにエントリーを起こす予定である。

>技術開発者さん

いろいろ論点が拡大していきましたけれど、最終的には議論が一回転してこちらの手許に戻ってきたような感触を覚えます。これまでの議論が、結論に至るプロセスの詳細な開示として機能してくれれば、と思いますので、これまで以上に長くなりますけれど、一応の総まとめ的なコメントにしたいと思います。

>>ただ同じような「社会を成り立たせる為の最低要件として在る決め事」ではあるけど「絶対的」ともいえない部分なんかは共同体意識が薄れるとなかなか「しつけ」にくくなるんですね。代表的なのが「見苦しくない服装を心掛けて、人に不快と思われない言葉遣いをしなさい」なんてね。共同体がしっかりしていた時には「世間様が許さない事だから」なんて言い方で充分にしつけることができたんですよ。

そうなんですね。「世間」という概念について、たしか京極夏彦の小説でも論じられていたような記憶がありますけれど、人と人の間が「世間」だというような話だったかと思います。世界や国家や地域社会や共同体のような人的集合それ自体ではなく、その間に発生する言説の空間が「世間」だというのですね。だから、世界のレベルでも世間はあるのだし、国家のレベルでも世間はある、地域社会や共同体のレベルでも当然世間はあって、それは「あなたと私」という二者関係の発生に端を発するというのです。

一人の人がいて、二人目の人がいる、そこに「間」が生じて「世間」が発生するという機序ですね。つまり「世間が許さない」というのは、その人物が関係している人々との間において、そういう行為や姿勢が許されないという意味になるわけです。自身の関係する人々の間において、多くの人々がそれを不快に思ったり許し難いと感じたりする、これが根拠としての説得力を持って人の行動を律していた時代もあったわけですね。

そして、たとえば「社会を成り立たせる為の最低要件として在る決め事」ではありながら「絶対的ともいえない部分」の一つとして、技術開発者さんが仰るように「人に不快と思われない言葉遣いをしなさい」というような躾けもあるわけですね。

そしてこの躾けが困難となっている要因が説明原理の不在によるもので、その欠落を埋める為に水伝のような言説が代替されているという、ここまでの認識についてはオレも同意しております。

>>こういった比較的ゆるやかな共同体ま規範というのは、よく考えるとやはり共同体が安定に存在する上で必要な決め事ではあるんだけど、それがなかなか簡単に説明出来ない事でもあるんですね。

結局、水伝が道徳教育に援用される背景には、この「説明の困難さ」という事情があるわけで、これはニセ科学一般に多かれ少なかれ通底する事情ではあります。本筋の部分で説明することが困難だから、本来無関係な原理であっても道徳の徳目を肯定するものであれば「根拠」として採用するというわけです。

で、これは大人同士のコミュニケーションであれば議論の余地なく間違っていて、如何に困難だからと謂って、本筋を迂回してただ何となく目的とする観念が肯定されていれば根拠と見做すという考え方は、論理として破綻しているわけですね。

水伝に書かれている「ポエム」がすべて「事実」だと仮定しても、これは「美しい言葉を遣いましょう」というような徳目を根拠附ける論理には成り得ないはずで、仮に水が美しい言葉に反応して美しい結晶を作るとしても、それは美しい言葉を使うことが道徳の観点から視て正しいということの根拠とは成り得ないのは当たり前の話なんですね。

それ故に、大人同士のコミュニケーションにおいては徹底した筋論で語るということが本道なのであって、「科学的に間違っていても良い話なんだからいいだろう」というような論理も成り立たないわけです。これは「良い話」でも何でもないし、美しい言葉を遣うことが良いことであると訴えるロジックとしても破綻している。

たとえば仮に、水が汚い言葉に反応して美しい結晶を作るという水伝とはまったく逆の結果が顕れたのであれば、では「美しい言葉を遣いましょう」という徳目は間違っていて、これからは汚い言葉を遣うことを推奨すべきなのかと謂えば、それは全然関係がないわけで、水がどんな結晶を作ろうが本来人間の道徳とはまったく関係ない。そういう当たり前の筋道が「美しい言葉が美しい結晶を作る」という特定の「結果」によって覆い隠されているわけです。

水伝の「ポエム」が一応実験の体裁を取っている以上、至極単純化して謂えば「美しい言葉に反応して美しい結晶が出来る」という結果と同程度に「汚い言葉に反応して美しい結晶が出来る」という結果も予期し得るわけですね(美醜という恣意的価値観と科学的実験の相性の問題は閑却するとして、の話ですが)。そして、水伝を道徳の根拠附けとして援用する以上、遡って同等の可能性が在り得る実験の結果如何に徳目の是非を賭けていることになるはずなんですね。

つまり、水伝を道徳の根拠附けに用いることは「下司の後知恵」ということになるわけで、世界はこのように出来ている、然るに拠って人間の道徳は正しいという牽強付会に成り果てるわけですから、これは正論で相対すべき詭弁ということになるわけですね。

一方、では何故本筋で語ることをせずにこういう詭弁を遣うのかと謂えば、本筋の論理が身も蓋もない都合論であるからで、「美しい言葉を遣いましょう」という徳目を根拠附ける本筋の論理は「美しくない」からだと思うんですよ。この種の徳目の大本を探っていくと、いずれは身も蓋もない都合論に辿り着くわけで、社会や共同体を成り立たせる為の都合しか根拠がない。倫理的な理念ではないんですね。

理念として根拠附けることが出来ないことに、多くの人々は不安を感じるわけで、そんなことで好いのかと思うでしょう。また、もっとありそうなのは、徳目の根拠を倫理の理念に求めて見当違いの方向を探し続けるということで、当然倫理的な理念には基本的な徳目を根拠附ける論理なんかないわけですから、説明原理が不在だと感じることになるでしょう。

随分前に「何故人を殺してはいけないのか」という疑問に対してどう子供たちに応えれば好いのか、ということが話題になったとき、やっぱり倫理的な理念に根拠がないことが問題だったと思うんですね。このテーマで前出の京極夏彦は一本ラノベを書いたのですが、そこで謂われていた結論は「そう決まっているからだ」というものだったと記憶しています。

殺人には感情や理屈の面で反撥が付随するけれど、それは殺人が悪であることの理由ではなく、殺人を禁じる法律が出来た理由である。そして、殺人は法律で禁じられているから悪なのであって、悪であるから法律で禁じられているわけではない。

これはこれで理屈ですし、殺人禁忌は個人の観想によって根拠附けられるものではなく社会的な契約として禁じられているのだという論点を出したことは新鮮でした。たとえば思い遣りや共感のロジックで殺人の悪を説明しても、では殺される相手を可哀相だと思わなかったり、自分も殺されても構わないなら殺しても好いのか、という反論には対抗し得ないわけです。

そう決まっているから、という論理は、個人の観想がどうであろうがその禁忌を犯すことは社会において許されないという意味で、或る程度妥当な説明ではあると思います。ただ、これは子供に教える説明としては十分ではないわけで、大人同士の間において殺人禁忌に対する認識を共有するロジックとしては成立しても、依然として子供に対してどのように説明するのか、という問題は残るわけです。

何故なら、子供は「そう決まっているから」という理由で殺人が悪であると規定されていると説明されても、ではそう決まっていなかったら悪ではないのか、ということを考えるからですね。それはそうなんです。そう決まっているから悪なのであれば、そう決まってさえいなければそれは悪ではない。

ただし、一方では子供たちに決め事に盲従するのではなく、その根拠を考えるように教育する必要も厳然としてあるわけです。何故そう決まっているのか、それは何故正しいのか、それを考えなさいと教えることも教育の使命ではあるわけです。そして、たとえば殺人禁忌であれば、行為としての殺人を犯さないだけではなく、殺人を悪として憎み積極的に悪を忌避するモチベーションを持つ人間を育てるという目的もあるわけです。

その場合、「そう決まっているから」という説明は十全ではなく、決め事の是非を自身の意志において考察し判断するということを別立てで教える必要がある。そうすると、やはり「何故人を殺してはいけないのか」という設問が再び立ち戻ってきて堂々巡りになってしまうわけですね。

整理して考えてみましょう。

まず、「何故人を殺してはいけないのか」という疑問があったとして、これに「そのように決まっているからだ」と応えるとします。これはこれで最初の設問に対する答えとしては成立しますよね。しかし、それだけでは「決め事に盲従する」というミスリードが在り得るわけですから、この応えが十全である為には「決め事の是非を自分の意志で判断する必要がある」と教える必要がある。そうすると「何故人殺しは決め事として禁じられているのか」という設問が生起するわけで、これは結局実質的には「何故人を殺してはいけないのか」という設問を言い換えたものにすぎません。

ですから、このプロセスが循環しないように、さらに説明を補ってやる必要が出てくるわけですね。これが大人同士の場合なら、最初のプロセスだけで応答が完結することも考えられるでしょう。それは、大人は「何故人殺しは禁じられているのか」という設問に対して言語化以前の豊富な観念を予め持っているからで、それを謂うならそもそもの最初から大前提として「殺人はいけないことだ」という結論を強く共有しているわけですね。

これは、「殺人がいけないことかどうかわからない」という前提の相手に対しては通じない説明になる可能性が高い。加えて、大人は一方ですでに「決め事に盲従することはよくないことだ」という概念も持ち合わせているわけですから、そこを補完する説明の必要がない。で、殺人を禁じる決め事は疑問の余地なく正しいわけですから、それ以後のプロセスは丸ごと不要になります。しかし、予め何も持っていない相手に対する説明としては、それが妥当に成立する為に煩瑣で膨大な補完が必要になる。

問題になるのは、やはり子供相手の場合なんですね。殺人禁忌を巡る上記の説明は、これ全体でワンセットとして機能する不可分の概念となるわけですが、子供相手の場合はこれを全体として一時に理解させることが不可能なわけです。これに対して、たとえば小学○年生の子供ならそのくらい理解出来るよ、というふうには謂えますが、それは根拠のある推定なのか、という疑問がまずあるわけです。

そう考えるに至った根拠というのは、自身の漠然とした経験からのフィードバックだろうと思いますが、その漠然とした経験というのは根拠として採用するに足る知見なのかという疑問は問われて好いでしょう。

これに対して、概ね多くの人が確からしいと感じられるのは、専門家による学問研究の成果であるとか、客観的な統計データであるとか、経験論の範疇なら、実際に子供たちと相対している教育者の証言、それを数多く採集してその平均的な見解を抽出する、ということになるのではないかと思います。

ですから、最初に申し上げたように、何故か教育に関しては専門家である教師に対して何ら客観的根拠もなく一般人が自身の限定された経験論を根拠として批判しても好いと考えられているのはおかしいのではないか、ということを申し上げたわけで、そういう意味で教育者の専門性を尊重しようという話をさせて戴いたわけです。

で、これまでに数少ないながら教育に携わる方々とお話する機会があって、そこで得られた感触としては、やっぱり小学生は複雑な概念を同時に包括的に理解する能力はないということで、そういう包括的な理解力は中学校と接続する高学年くらいになって初めてようやくその萌芽が芽生えるというふうに認識されているようです。

で、そのような「どの程度の学齢から包括的な概念を理解出来るのか」という設問を別の角度から視れば、それが具体的にいつであろうが、或る程度の発達段階に至るまでは包括的な概念の個々の断片を教えていくしかないという段取り論で、その特定の発達段階に至るまでにはやっぱり何かを教える必要があるのだし、不完全な断片を一つひとつ教えていかない限り包括的な判断力も育たないという、堂々巡りの循環論なんですね。

それについて「嘘事」という強い表現を遣うことの是非もありますが、それが総体の中の断片でしかなく、総体としてしか妥当性を持たないものである以上、或る一定のスパンにおいては説明原理として十全であるとは謂えないことも事実であるわけですね。

一方では、たとえば「美しい言葉を遣いましょう」という基本的な躾けを施す段階において、「世間様が許しませんよ」という有無を言わさぬ都合論が身も蓋もない形で機能していた時代というのがあったわけで、これはその言葉遣いに不快感を持つ多くの人が有形無形の形で圧力を加えてくるという形の躾けです。

母親の叱責は脅しでも何でもなくて、実際に世間様はそういう言葉遣いをする子供をダメな子供として冷遇するわけですし、場合によっては世間において他者から暴力を蒙ることもあるわけですから、そのような形の教育機能が嘗ては存在したわけです。

服装なんかもそうですね、子供は概して「服装や外見で自分を判断するな」というようなことを言いたがりますが、多くの人を不快にする服装は、その共同体内において社会的な圧力を受けるのは当たり前の話であって、その程度の規範さえ遵守出来ない人間を誰も信用しないのは当たり前のことです。これは一種の暴力による強制であって、随分以前にその辺の問題を巡って技術開発者さんとお話をさせて戴いたこともありますね。

こういう社会圧、「世間様」という暴力的な教育の圧力が消失した背景には、相応の理もありますし社会の変容という不可避的な事情もありますから、軽々にこれを是とすると「昔は好かった」式のノスタルジーと誤解される弊もありますが、共同体を維持する為の規範をまず共同体全体の社会圧によって暴力的に叩き込むというのは、一種整合した論理ではあると思います。

その種の規範は、そもそもその共同体を、最大多数の構成員にとって心地よいものとして維持する為にあるのですから、かなり直接的な形でロジックが整合していると謂えるでしょう。ただ、やはりそれは子供という弱者に対する無視出来ない不合理や暴力を内包していたことは事実であって、何らかの形で是正する必要自体はあったわけです。

これは以前に指摘したことですが、現在は子供に対して暴力を揮うことが厳しく禁止されているわけで、それは精神的な暴力をも含んでいる。子供に触ってはいけない、心を痍附けてはいけない、教育現場にはこういうふうな厳しい制約があって、地域社会の社会圧の教育機能自体も消失しているわけですね。子供に対して、その意に反して何かを教育的に強要する圧力は、事実上存在しないと謂っても過言ではない。

そうすると、昔は暴力が担っていた教育機能を詐術で代替することになる。

今は子供に何かをさせる場合、本人の納得と自発的意志が厳しく求められるわけで、これは本来は成人でも子供でも同じなんですが、成人の場合なら良識や見識を所与の前提として求めることが出来ます。

一人の成人として、良識や見識に欠けること自体が責められるべき欠落ですから、これを批判することは可能だし正論に対する納得を理念的な義務の履行として期待することも許されます。だから、本来は敢えて騙す必要などはないわけで、そういう理路においてニセ科学の詐術性なんかも批判の射程に入るわけですね。

他方では、某所で盛んに論じられている愚行権というものがありますから、愚昧に甘んじる権利は誰にでもあるけれど、それは社会において責任在る大人として生きる正しい姿勢とは謂えないわけで、そういうアスペクトにおいて愚行を排することを期待することが出来るでしょうし、説得することも出来ます。

しかし、子供はそうではないんですね。一社会人としての良識も常識も期待するほうが間違っているのだし、理解能力にも発達段階毎の限界が確固として在る。つまり、子供の納得や自発意志なんてものは、実は途轍もなくあやふやなものであって、それを所与の前提として期待するのは、間違った意味での性善説に過ぎないということですね。

それなのに、現在では成人の社会人と同様な意味での納得や自発意志に基づかない限りは子供に何かを強制することは出来ないということになっているわけで、現在の教育はきちんと説明すれば子供が納得して自発意志に基づいて大人の強制に従うだろうという非常にあやふやな前提に立たざるを得ないわけです。で、多分これは間違っている。

子供の納得や自発意志なんて信用出来ないし、そういうものは大人になってから問うべき事柄であって、大人になってからそういう要件を問い得る為の訓練として児童教育があるわけですから、ときには納得抜きの強制を強いる手段もあるべきなのだろうと思います。しかし、それでいて、教室の絶対権力者として教師が暴力的強制を許され、弱い子供が弱い立場に置かれるなら、さまざまな悪徳が蔓延るだろうことは容易に想像出来るわけで、それを抑止する為の過渡期として今の不安定な現状が在る。

規律に違反する子供をどのようにして遵わせるのか、躾けにおいて甘いアメと表裏一体であるべき痛いムチが禁じられ、不快を与えることそれ自体が禁じられるなら、どのようにして未訓練の子供に訓練を施すことが出来るのか。不快によって駆り立てることが禁じられているならば、快感によって惹き附ける以外の選択肢はないのだし、何かを強制する為の手続として信頼性のない納得や自発意志が必ず求められるなら、それを目的的に獲得する以外にはないわけで、その総合として子供の納得や自発意志の重要性は形骸化するわけですね。

オレが水伝授業の問題において、教育という領域の個別性を重視するのは、たとえば成人同士のコミュニケーションにおいて、一般的な意味での言葉の乱れというものを批判するのであれば、子供相手の場合のような煩瑣な困難はないのではないかと思うからなんですね。

大人相手であれば幾らでも強制の手段はあるわけで、自発意志に基づく服従にも一定の信頼性がある。その信頼性に疑問符が附くのならば、その責任は服従する側にも相当程度求められるわけで、強制される側にもその強制の可否を公正に論じる手段がある。その限りでは納得と自発意志はその通りの意味として受け取り得るわけで、謂わば、その時々の趨勢がどうであれこの闘争は公平性を前提として期待し得るわけです。そんな場面で水伝のようなインチキな論拠を持ち出せば、明確な詐術として裁かれるわけです。

しかし、子供相手の場合は、すでにしてさまざまな意味で公平な立場ではない。子供には教師と公平な立場で強制の可否を検討し得る知的能力はないわけです。であるにも関わらず、教師には「人に不快と思われない言葉遣いをしなさい」という規律の遵守を子供たちに強制する必要があるわけで、しかもその強制について、子供たちから納得と自発意志に基づく遵守を引き出しなさいという制約が附くわけで、これは普通に謂って相当な困難であると謂えるでしょう。

昔なら、「今はわからなくてもいいからその通りにしなさい」で通じたこと、規律に違反すれば体罰や不名誉という不快を与えることで統制が可能であったことが、今では子供たちが納得して自発的に遵うのでなければ許されない、そうなるように教員各自が工夫しなさい、という突き放した(一種無責任な)目標が課せられているのですから、現場の教師たちが大きな困難に直面するのは当然です。

で、「規律に遵わせる」とか「善いことと悪いことを弁別させる」という目標が課されているのは、たとえば道徳の教科の小学校学習指導要領を視ると、小学校一・二年生だとされているんですね。この学齢における発達段階としては、規範意識の萌芽や善悪の初歩的な弁別が可能になってくる、と規定されていて、それに合わせてそういうことを教えなさい、というふうに要求されているわけです。

これは亀@渋研Xさんのお話で、水伝授業が小学校二年生に対して行われたという話と符合するわけで、つまり、普通に考えて、これらの低学年の児童に規律の遵守や善悪の弁別を教えるのであれば、理解を求める以前に、或る程度の体罰や不快な罰則による訓練乃至強制以外に手段はないだろうと思うのですが、それは現実問題として出来ないということです。

子供の納得や自発意志など、実質的な人権の意味合いでは何ほどの意味もないものでしかないにも関わらず、子供という社会的弱者が強者による不当な暴力に曝されない為の予防的手続としてそれが要求されるのであれば、それは単なる形式的な手続にすぎないわけです。それ故に、子供に何かを強制し、訓練するという場面においては、目的的に納得と自発的服従を得るという手続が求められるわけで、これは実際的な場面を考えると限りなく詐術に近くなってくるわけですね。つまり、不完全な知的能力や批判能力しか持たない子供の納得と自発的服従というものを効果的に得ようとすれば、それは限りなく詐術に近附いていくということです。

そして、たとえば先日TBを戴いた「小学校笑いぐさ日記」のfillion さんなどは、水伝のような投げ込み教材の誤りを指摘する役割は家庭や地域社会に求めるしかないが、fillion さん個人は家庭や地域社会にそれほどの信頼は置けない、それ故にそういうアヤシゲな投げ込み教材は怖くて使えないと仰っているのですが、それはfillion さん個人のお考えであって、教師全体の考えや感じ方を代表したものであるかどうかはわからないわけです。

しかし、オレ個人は、知的能力において不完全であることが当たり前である子供の納得や自発的意志を尊重する(もしくはそれ以外に児童を服従させる手段がない)という建前自体が方法論的で過渡的な欺瞞にすぎないと考えますから、強者による不当な暴力を排除するという目的でそのような建前上の手続が要求されているのなら、逆に謂えば、形式的にその手続さえ遵守していればそれは教育において何ら不当な行為ではないという考え方も同様に成立するのではないかと考えます。オレ自身がその考え方を支持するという意味ではなく、そういうふうに考える考え方があっても不自然ではないという意味ですが。

たとえばfillion さんがそのようにお考えにならないとしても、fillion さん以外の教師がそう考えないという根拠にはならないわけで、そういうふうに考えた結果として水伝授業は蔓延したのではないか、というのがオレの作業仮説であるわけです。

たとえば、全国の小学校教師の総数に対して水伝授業を行った教師の割合は微々たるものでしかないのかもしれないが、水伝授業の及ぼす影響という観点における数量の評価としては端倪すべからざる数に上るわけで、この二つの評価基準にはズレがあります。

そのズレというのは、たとえば現場の小学校教師の感じ方として、「大勢はこうであるけれど、少数の例外としてそういうふうに考える教師もいるかもしれない」という感じ方があるとして、その割合が実際の小学校教師と水伝教師の割合に近似していれば、オレの作業仮説が間違っていないかもしれないし、それによって小学校教師が置かれている現状のディスクライブとしての妥当性を獲得出来るかもしれないということは謂えると思うんですね。

本音を言えば、以前技術開発者さんが仰った「これまで教師と話し合って納得のいく説明がもらえたためしがない」というご意見を、ちょっと技術開発者さんとは違う意味かもしれませんがオレも感じていて、この種の事柄について教師と対話するということには固有の困難があるのではないかということを感じ始めています。

オレが必要としているような情報は、たとえば現場の教師の方々に「どうですか?」と正面から伺っても応えてはもらえない筋合いの事柄なのかもしれない。どうもですね、こういうふうに正攻法で議論を詰めて行っても、その前提を共有した上でご意見がもらえたという手応えが一向に得られないんです。

ちょっとその辺については、今後は戦略を考えて考察を進める必要があるのかな、と考えています。

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コメント

こんにちは、黒猫亭さん。

まず発達過程における「しつけ」において、禁忌感というのが条件反射付けされる必要がある訳です。この禁忌感というのが無いと、いくら論理で「こういう事はしてはいけない」と教え、それを覚えていても、現実の必要なシーンでその論理が出てこないからです。これが「お絵かきのしつけ」のたとえ話で言った話ですね。

でもって、発達段階で考えると次は「禁忌感の調整」の段階があるはずなんです。つまり、お友達を階段の上から突き落とす様な事には強い禁忌が、お友達に「バカ」と言うのはそれよりは弱い禁忌が働くように調整するということです。大人はこれを自然にやっている面がありますね。「汚い言葉をつかうな」ったって、昔の悪友に会えば言葉遣いも悪くなったりするものです。

なんていいますか、おそらくうまくいって居ないのは、「禁忌感の調整段階」ではないかと思うんですね。親や先生の世代が、世の中を2分法的に捉える風潮がどうもある感じなんですね。そのため、「汚い言葉を使うな」みたいなどちらかというと弱い禁忌感に支えられなくてはならない部分というのがうまく行かなくなっている感じを受ける訳です。

私は水伝に関して「道徳の強弱を乱す教え方である」という反対論を時々書きます。ひとを傷つけるのも人を罵倒するのもどちらも道徳的ではないけれども、そこには自ずと強弱がある。口べたで直ぐに人を殴る子供に「言いたいことがあるなら口で言いなさい」と教え、たとえ汚い言葉でもその子が手を出さずに口で抗議をするようになったら、「手を出さなくなったね」と褒め、それが常にできるようになってから、「もっと綺麗な言葉で言いなさい」にしなくてはならない訳です。水が言葉で影響を受けるという話を「人の身体の大半が水分である」という話と共に教えるのは、手を出すのも汚い言葉で言うのもどちらも相手の身体に傷を付ける事と教える事になり、道徳の強弱を乱して教える事になる訳です。

或る意味、教師が「この話は言葉遣いを良くさせるのに効果的だ」と感じる理由は、この道徳の強弱を乱しているためです。子供は全く「しつけられていない」のではなく、強い禁忌である「人を害するな」という禁忌は幼児期にしつけられているのだろうと思います。だからこそ、その禁忌に持っていくことでインパクトが発生する訳です。でも、それは、道徳の強弱を乱して教えているのに過ぎないわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008年11月13日 (木曜日) 午前 09時05分

>技術開発者さん

お返事が遅れましてすいません。通常は、エントリーの更新よりも戴いたコメントへのお返事を優先させるのですが、今回はちょっと纏まったテクストだったので、時間が限られているという条件の中でそちらのほうの作成を先にさせて戴きました。

>>なんていいますか、おそらくうまくいって居ないのは、「禁忌感の調整段階」ではないかと思うんですね。

そうですね、言葉の暴力を諭すロジックとして、「言葉で痍附けるのは暴力で痍附けるのと同じことだ」と謂う持って行き方があることはたしかですね。で、仰る通り、これは厳密に謂えば筋が違うわけで、その前段階として「言葉で交渉するか、暴力で交渉するか」という二択の設問があります。言葉の暴力も肉体的暴力も同じことだ、と謂う論理は、この設問の重要性を閑却したものだと謂う指摘はあるでしょうね。

「美しい言葉を遣いましょう」と謂う道徳律を教育する場面で、習慣附けという成果を目的的に指向するという方法論が在り得るとして、その成果を得る為の感覚的なインパクトとして何らかの空疎な詰め物を入れるという手法も在り得るとしても、道徳教育の総体として、互いに相矛盾するような観念を便宜的に用いるというのはやっぱりまずいわけですよね。

少なくとも、不完全ではあっても互いに矛盾しない観念を部分として順序立てて教えていくことが望ましいわけで、たとえばこれは「なまはげ論理」なんかもそうだと思うんですよ。「悪いことをするとなまはげが来る」というのは、まあ悪いことをさせない方便としてはアリなんでしょうけれど、道徳教育としてはダメですね。

悪いことをするとなまはげが来るというのは道徳律ではないわけで、ではそれが何故悪いことなのかと問う場合に、なまはげが来るから悪いことだという循環論理にしかならないわけです。

本筋に戻るなら、「言葉の暴力も肉体的暴力も同じことだ」というのは、その両者に質的な違いがないと謂うロジックで教えられてはいけないわけで、別の道徳律と齟齬を来すわけですね。人を痍附けるのは肉体的暴力だけではなく、言葉の暴力でも人を痍附けることが出来る、というふうに両者を弁別した上で、暴力一般を否定する必要があるわけです。

この両者は質的にはまったく別なのだけれども、暴力と謂う意味では同じなんだよ、と謂うことで、まず暴力一般と謂う概念があって、そのサブカテゴリーとして肉体的暴力と言葉の暴力がある、そしてその両者の間には軽重の別がある、そういうふうに概念の階層構造に基づいて説明するのでなければいけないわけです。

従って、児童がそのレベルの概念の階層構造を理解出来る発達段階になければ、「言葉の暴力と肉体的暴力は同じだ」と謂うロジックを遣ってしまったら、この両者を単純に等号で結んでしまうわけですね。

そして、技術開発者さんが仰る水伝の道徳教材としての問題点というのは、これが教えを受け取る児童の側で混同されるばかりではなく、教える側のほうでも言葉の暴力を肉体的暴力に要素還元してこの両者を等質のものと謂う前提で教えることになる、と謂うことなのだと思います。

言葉の暴力が何故いけないのかと謂えば、それは相手の心を痍附けるからであって肉体を痍附けるからではない。肉体の暴力が何故いけないのかと謂えば、それは肉体を痍附けるからである。まずはこれが本筋ですね。そこから、痍附いた心が肉体を損なうことがあること、痍附いた肉体が心を損なうこともまた同様にあること、これを教えて、暴力一般という上位の概念に統合していく、本来そう謂う構造になっているべきだと謂うことではないかと思います。

水伝の場合、そこの階層構造を一気に飛び越えて、言葉が何らかの原理を介して直接的に肉体を痍附けるというロジックになっているわけで、おそらく技術開発者さんが仰っている、

>>或る意味、教師が「この話は言葉遣いを良くさせるのに効果的だ」と感じる理由は、この道徳の強弱を乱しているためです。

と謂うご意見は、そう謂うことなのだろうと思います。道徳の強弱を乱していることも事実なんですが、より正確に謂うなら、道徳律の各概念の階層構造を無視して、言葉の暴力が指向する対象を肉体に直結しているから混乱があるんだと思います。

本来なら、「言葉の暴力→心の受傷→肉体の受傷」と謂う経路を辿るべき事柄が、一足飛びに「言葉の暴力→肉体の受傷」と直結して教えられている。これはつまり、人間の心のレベルの現実と、肉体のレベルの現実を短絡的に直結して教えているということですから、世界観の問題が根底にあることは事実で、そこから言葉の暴力と肉体的暴力、そして暴力一般という概念構造を根本から破壊して一元化するわけですね。

ここが無理矢理一元化されているから、「言葉で交渉するか、暴力で交渉するか」と謂うレベルの道徳律と矛盾撞着してしまうんですね。水伝を受け容れてしまったら、この両者は別のものだと謂う階層構造を前提にした道徳律が成り立たないわけです。

その意味で、水伝を道徳教育に持ち込むことは間違っているわけで、水伝にはこのようにして本来は別の概念であるもの同士の境界を曖昧に混濁させるという、非常に呪術的な本質があるわけで、これは反科学であると同時に反教育であると謂っても好いのではないでしょうか。

何故なら、児童教育と謂うものが単純な部分を教えていって、発達段階に応じてより高次の複雑な概念を教えていくものであるとすれば、水伝は複雑な概念構造を成立させる立体的な構造や階層を破壊して、極端に単純で平面的なものに一元化していく論理に基づくものだからで、これは本質的に教育とは逆のベクトルを強力に指向していると謂えるわけですね。

投稿: 黒猫亭 | 2008年11月18日 (火曜日) 午後 12時12分

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