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2009年1月23日 (金曜日)

現地で大流行が見込まれるネタ

ぼんさんが しおまいた

「霊が見えた」とか言い出すくらいなら、最後まで言い張ればよかったのに(笑)。捜査員に怒られてペラペラ自供する坊主ってのも、ちょっとアレだなぁ。調べてみると寺格は相応に立派みたいなんだが、歴とした普通の坊さんが「霊視」とか言い出すのは、言い訳とは謂えアリなのかね。

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コメント

時事通信社の記事では寺院名が載っていたので、当初は当該寺院がどこだか判別出来るリンクを張ってしまったが、書類送検相当の事件でほぼ実名を晒すと謂うのもあまり適切ではないと思ったので、すぐ削除した。悪しからず。

投稿: 黒猫亭 | 2009年1月23日 (金曜日) 午前 09時45分

>最後まで言い張ればよかった
我が家でも、そういう結論になりました(^^;;
「おまえ、ふざけたこと言ってんじゃねえぞ」ぐらい言われて自白しちゃったんだろうか、とかつうて。

>言い訳とは謂えアリなのか
いま公式に霊魂の存在を認めている仏教の宗派はないと思うんですけどね。仏教由来のカルトとかならともかく。
それとも霊魂と幽霊は別ものなのかしらん。

投稿: 亀@渋研X | 2009年1月23日 (金曜日) 午後 04時31分

>亀@渋研Xさん

なんと謂うかですね、宗教者一般がそんなに大した人格者だとも思わないですし、とくに寺と謂うのは地域機能のほうが大きいと思いますので、殊更な宗教臭も感じないですから、生臭坊主とか困った坊主がいても特段不思議にも思わないですが、つまんない器物損壊で俗人の警察官に一喝されて恐れ入ると謂うのが大変情けないですね。

だったらいっそ最後まで言い張ってくれれば、「ああ、そう謂うオカシイ人がやらかしたオカシイ事件だったんだな」と納得が行くんですが、坊さんのくせに近隣トラブルで直接相手と交渉することもなしに短絡的にセコいイヤガラセに走ったと謂うのがさらに情けないです。

>>それとも霊魂と幽霊は別ものなのかしらん。

仏教も宗派によっていろいろですから一口に括るのも乱暴かとは思うのですが、表向きには人間の霊魂が現世に化けて出ると教える教義はないと思うんですね。

以前hietaro さんのところで少しそう謂うお話が出ましたけれど、人間の幽霊が化けて出ると謂うのは近世以降の発想らしくて、どの辺から出て来た考え方なのかはよくわからないです。

ちょっとソースは失念しましたが、かなり古い幽霊画や黄表紙の類を視ると、幽霊と謂うのは焼け焦げた経帷子を着て煙を上げる姿で描写されているらしく、これは地獄にいる亡魂が現世に迷い出たものと見做されていたようで、今の幽霊観とはだいぶ違うようです。つまり、地獄思想の成立とその普及の過程において、地獄の恐ろしさを強調する道具として幽霊の原型となるイメージが発生したようです。

元々アニミズム的な日本の民俗では、狐狸や妖怪の類が祟ると謂う俗信はあったみたいですが、人間が化けて出ると謂うのは、強い怨みを呑んで死んだ者が共同体全体に祟ると謂う考え方はあっても、そこら中に個人の亡霊がフラフラ歩いていると謂う考え方はなかったはずですね。

つまり、人間が死んで化けて出る、人間に祟ると謂うのはかなり特殊なことで、殆ど神に近い存在になると謂うことだったので、特別乃至異常な人(異常出生、異常人、異常死等、常ならぬ者)しか化けて出ることはなかったわけですね。近世の怪談文学に出てくる幽霊も、半ば神に近い存在と謂うか、個人性から遊離した一種の妖怪だと謂うのが京極夏彦辺りの見方ですね。

アニミズム起源の狐狸や自然霊的なものの祟りを調伏すると謂う機能は古来から寺社にあったようですが、個人の幽霊や水子霊のようなものを供養して鎮めると謂うのは極々近代になって出て来た機能だろうと思います。

霊視云々のような、成仏しきれない不可視の霊魂がそこら中にうようよいると謂う考え方は、おそらく完全に近代以降の発明でしょう。つのだじろう的な心霊科学とかあの辺の考え方ですよね。

で、仏教の教義としてそのようなものの存在を認めていないとしても、寺や住職には地域機能と謂うものがありますから、たとえば現代においても心霊写真や不幸の手紙の処分を頼むとか、水子供養を頼むとか、呪術的な領分の俗信のもたらす恐怖に対する防衛線として機能している部分がありますよね。

これは、寺が心霊写真に写ったものを幽霊だと認めているとか、不幸の手紙を回送しないと不幸になることを認めているとか、水子の祟りを認めていると謂うようなことではないですよね。心霊写真や不幸の手紙のような、人間の精神性に纏わるものの専門家だから、その処分を宗教者が引き受けると謂うことで、俗人だと「祟りなんかあるかよ」とか思っていてもやっぱり気持ちが悪いものだし、それで何か悪いことが起こればその祟りだと考えてしまいがちですね。

で、そう謂う個人的な感じ方に関しては坊さんだって同じなんだと思いますが、自分が宗教者であると謂う自負があれば少なくとも俗人とは感じ方が違うはずですね。自身が受け容れた教義において「ない」とされているものは断固としてないわけで、そう考えるべき理由があるわけです。

そう謂う意味で心霊写真にしろ不幸の手紙にしろ、それが呪術である以上は坊さんには祟らないわけで、祟られないから坊さんがその処分を引き受けている。これが寺の持つ一つの地域機能ですね。

そう考えていくと、この事件の住職が「霊が見える」とか言い出したことの何が異様なのかと謂うと、普通、歴とした寺格の寺の住職が自分からそんなことを言い出すのはおかしいからだと謂うことになります。寺の在り様から考えると、「霊が祟っているから祓ってください」と謂われて供養するとか、「念の籠もった器物」を供養すると謂うことまでは寺のオーセンティックな機能と考えられますね。

幽霊とか祟りに悩まされるのは俗人の煩悩なのだから、それを宗教によって救済すると謂うことまでは寺の領分だと思うんです。ただ、坊主のほうから「霊が見える」と言い出したら、それはもうアヤシゲな修験者とか乞食坊主の強請の部類の話になってしまうわけで、個人の幽霊の発生に纏わる民間宗教者の存在と謂うのは、hietaro さんのところの議論でも少し触れられていました。

坊主が自ら変なことは言い出さないけれど、在家の信徒が変なことを言い出したらそれに対しては真摯に対応する、これが寺のポジションだと思うんです。で、坊主のくせに自分から「霊が見えるから祓ってやる」と言い出すと、それはすでに伝統宗教の教義から離れた心霊科学の類の妄説を前提にしているわけですから、アヤシゲな新宗教の類になってしまうのかな、と。

投稿: 黒猫亭 | 2009年1月24日 (土曜日) 午前 12時13分

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