足り得るほどに堪能する
一つ前のエントリに戴いたTAKESAN さんからのコメントに漫然とお返事を書いていたら例によって長くなった。これだけ長くなると、一個人に対するお返事として位置附けると相手の方の負担になるので、お返事として書いた体裁そのままで恐縮だが、新しいエントリとしてアップすることにした。
>TAKESAN さん
気を附けていても、そもそもの最初から間違って覚えていて、疑うことすら出来ない言葉と謂うのも多いですよね。これはもう、人間が言葉を覚える一般的なプロセスを考えると、全部点検して正そうなんて考えても無理なんだろうと思います。TAKESAN さんはソシュールにもお詳しいと謂うことですので、更めてくだくだしく説明するようなことでもないんですが、ちょっと思うところがあるので長話を。
人間は言葉を覚える際に、語の成り立ちや語源、正確な意味、時代による語義や表記の変遷を一通り知識として覚えてから言葉を遣うわけではないですよね。本に書いてあったり他人が口にしている言葉の意味やニュアンスを直観的に類推して、自分で会話上で遣ってみて、それで意味が通るようなら、そう謂うふうに直観的に類推した意味やニュアンスが確定され、語彙として身に着いて行くわけですね。
勿論、教育や学習によってその言葉のブレが点検され修整されるプロセスもあるわけですが、人間がコミュニケーションによって貯め込んでいくすべての語彙に亘ってそのような点検と修整を施すことはほぼ不可能でしょう。ですから、普通の人間が蓄積している語彙中には必ず不正確な部分があるわけで、これは不可避的な性格なのだと謂えるのではないかと思います。
たとえば、所ジョージは「常夏の島」と謂う言葉を長らく「ココナツの島」だと勘違いしていたそうですが(笑)、これは自分で気附かない限り何となく通ってしまう間違いですよね。音として「と」と「こ」は会話上では聞き分けづらいですし、「常夏の島」と謂う言葉を予め識っている人は、相手が「ココナツの島」と言っていると謂う発想自体がないですから、自動的に補正して聞き取っていたりするでしょう。指示している内容自体はブレてないわけですから、会話の上では「ココナツの島」と言っていても何とか通じてしまうわけですね。
本人的にも「常夏の島」と謂う文字面を目にしたことがあったとしても、それを「とこなつ」と読むと謂う知識がなかったら、自分の間違いには気附きません。また、文章上で「ココナツの島」と書いたとしても、書き手がそれに「常夏の島」と同一の意味を担わせていると謂うことを読み手が諒解しなければ、そう謂う意味の言葉として通じてしまうおそれがありますね。「ココナツが生えている暖かい島」と謂う具体的な意味と慣用表現としての在り方の関係に立ち入って他人と対話しなければ、間違いに気附くことはまずないわけです。
「『ココナツの島』って謂うけど、ホントにココナツが生えているのかねぇ」みたいな話をして、「ココナツなんて何処から出て来たんだ?」と突っ込まれて初めて間違いに気附くと謂うことでしょうね。これは笑い話ですけれど、元々人間の語彙と謂うのはこう謂う不正確な揺らぎの部分を持っているのが当たり前なわけです。
また、オレが子供の頃、女子バレーボールの某解説者が「おしい」と謂う意味で「ほしい」と連発していたことがありまして、多分この方は「惜しい」と謂う言葉自体を「欲しい」と謂う言葉と完全に混同(つまりもう一つ何かが『欲しい』、転じて『惜しいことだ』と謂うニュアンス)していたんだろうと思いますが、当時は女子バレーの全盛期でしたから、オレの学校でも無闇矢鱈に「欲しい」が流行りまして、かなり耳障りでしたねぇ(笑)。
これなども、「惜しい」と「欲しい」と謂うのは音も似ていますし、「欲しい」でも一応謂わんとするニュアンスが通じるだけに、多分誰も間違いを指摘しなかったのかもしれません。ただ、「おしい」と「ほしい」は「常夏」と「ココナツ」よりはハッキリと音が違いますから、誰もその解説者が「おしい」と言っているとは考えていなかったと思うんですが、あんまり自信たっぷりに「ほしいっ!」と連呼するので、みんな「そう謂う言い回しもあるのかな」と思ったんじゃないですかね(笑)。
一方、「たり得る」の場合、「足り得る」と謂う表記を見た覚えがあるからそう書いたわけではないと思うんですね。「たりえる」と謂う言い回しを耳にしたり目にしたことがあって、それを自分で文章にする場面で、「たりえる」と謂う音から「足る+得る」だろうと類推して漢字表記を再構築しているわけですね。それはそれで無理もない間違いなんですが、これはこれまでに何例か目にしているところを見ると、ありがちな勘違いではあるわけです。
で、こう謂う表記例が増えてくると、今度はそのような表記の実例を文字面として見ることで「たりえる」は「足り得る」と表記するものだと謂う誤解が流布していくわけですね。歴史上では、そう謂うプロセスで本来の語義とは離れた所謂当て字の類が流布していった事例が豊富にあるわけで、表記が変わってしまうことで言葉のニュアンスそれ自体が変わることも在り得るわけで、それが言語の持つダイナミズムだと謂う言い方も出来るでしょうね。
ただまあ、現在進行形でそう謂う現場を目撃した場合に、歴史中の無名人はどうすべきなのかと謂えば、やっぱり一応は「そうではありませんよ」と謂うふうに指摘しておくことでバランスが保たれるわけで、言葉の表記や語義のブレが個人の勘違いの範疇に留め置かれるか、それとも言語の運動性によって言葉自体がブレて行くか、その部分はメタ的に考えて結果をコントロールしようとしても、個人には如何ともし難いわけです。
一例を挙げると、現在「堪能」と謂う言葉は「たんのう」と読まれていますね。この場合、「たんのう」と謂う言葉自体は「足んぬ」(もう一つ遡れば「足りぬ」)の音便ですから「満足した」と謂う意味で、「たんのうする」と謂うのはかなり特殊な形の言葉だと謂えますね。「『いただきます』する」みたいな複構造の言葉です(笑)。そして、これを「堪能」と表記するのは純粋に「間違い」です。
本来「堪能」は「かんのう」と読むべき言葉で、この語義は「語学に堪能」と謂うように「その道に深く通じていること」と謂う意味で、その語源は仏教用語で「『堪』え忍ぶ『能』力」と謂うまた別の意味があります。
つまり、「堪能=かんのう」の元の語義自体が「勉強」のようにかなり大本の語義から変化しているわけです。さらに、この用語が「たんのう」と謂う言葉の表記に充てられたのは、純粋に読み間違いからの当て字に過ぎません。「甚」と謂う部首の附く漢字には「湛」のような「タン」と謂う音と「勘」のように「カン」と謂う音の二通りがありますから、それを混同してしまったわけです。
元々「甚」と謂う部首の示す音は「ジン」で、「深甚」とか「左甚五郎」の「ジン」ですね。これは他の字では概ね「カン」と謂う音に転じていますから、「甚」を音素として持つ字は「カン」と読むほうが多く、手許の漢和辞典で調べたら、「タン」と読むのは「湛」だけでした。これも「ジン」が転じたもので、より「ジン」に近い別の音として「チン」があります。
そして、そもそも「堪」には「カン」の音だけしかなく「タン」と謂う音はなかったのですが、事実上「たんのう」が流通してしまった為に元々存在しない「タン」の音も慣用的に加わったようです。
ですから、本当なら「語学に『たんのう』」と謂うのは間違いで、この場合は「かんのう」でなくてはならないわけで、そもそも「たんのう」と謂う言葉と「堪能」と謂う表記には意味的な関係は一切ないわけですね。まず「たんのう」と謂う言葉があって、どうやらそうも読めそうな表記の言葉として別に「堪能」と謂う言葉があった、だから多分「たんのう」と謂うのは「堪能」と書くんだろう、これが「たんのう」と「堪能」が混同されるに至ったプロセスではないかと思います。
では、現時点において「○○君は語学にたんのうだからなぁ」と口にした人に「それは間違いだ」と指摘すべきなのか、「美食を堪能する」と謂う表記を間違いと指摘すべきなのかと謂えば、個人的な考えではそれは知識自慢と謂う以上の意味はないのではないかと考えます。
たとえば「彼は語学にかんのうだ」と口にしても今では誰にも意味が通じませんし、同様に「美食をたんのうする」と表記しても不審に思われるだけです。そこから一歩進んで「足んのうする」と書けば意味は通じるかもしれませんが、かなり癖のある用字と謂うことになって、意図以上に言葉の文学性が強調されてしまうでしょう。
つまり、「堪能=たんのう」のレベルの言葉と謂うのは、最早大本の語源や語義の観点から「かんのう」が読みとして正しいとか、そもそも「堪能」と謂う表記を遣うのは間違いだとか指摘すべき段階にはないわけですね。そのような記号として確定的な意味が共有されているのですから、それで問題なく機能していて、寧ろ語源や語義に則った正統的な意味性のほうが杜絶しているわけです。
ただまあ、そうなると「堪能=たんのう」と謂うのは、正当な論理的根拠から遊離した無根拠な記号として成立していると謂うことになるわけで、なんで「堪能=たんのう」と謂う文字と音が「満足する」と謂う意味と「その道に通じていること」と謂う無関係な意味内容を同時に示しているのかと謂うことには、整合的な理由附けが存在しないわけです。すると、この二つの語義の共通項を探って大本の意味性を類推すると謂う転倒したプロセスが生起して、「なんでも『堪能』と謂うのは『がっつりやり込む』みたいな意味なんだろう」と謂う話になりかねませんね(笑)。
これは今の複数の辞書を見ても「たんのう」と「かんのう」は別の言葉として挙げられていて、「たんのう」の意味で「堪能」を遣うのは正しくないと謂うことが断られていますから、辞書編纂者的にはまだ認めたくない段階の言葉なんですね。でも、おそらくすでに「かんのう」の読みと語源は死んでいて、「たんのう」と謂う音と「堪能」と謂う表記のセットで、本来相互に無関係な別の言葉である「たんのう」と「かんのう」の二つの言葉が包摂されてしまっているのが現状だと思います。
翻って「たり得る」を考えると、本来は「〜としてあり得る」と謂う意味の「〜とあり得る」が音便によって「たり得る」になったと謂うプロセスですが、「足り得る」と謂う当て字が一般化すると、「〜としてあることに・〜としてあるために」+「十分である」と謂う成り立ちの言葉になって、「〜としてあることに・〜としてあるために」を意味する要素が省略された形だと謂う別個の成り立ちが遡って生起するわけですね。
まあ、それはそれで論理的もしくは文法的に間違ってはいませんね。単に伝統的な慣用表現である「たり得る」の成立プロセスでは「ない」と謂うだけのことです。その音から連想された新奇な表現である「足り得る」がこの時代に成立したのだと考えれば、それほど目くじらを立てて「間違いだ」と力説するようなことでもないとは謂えます。
ただ、それを慣用表現の「たり得る」の正確な漢字表記なのだと思って遣っているのであれば、それを間違いだと指摘する手続は必要だろうと考えます。結果的に大した不都合はないとは謂え、間違いは間違いなので、間違いであること自体は識られるべきであろうと考えます。
その結果として、間違いとする指摘よりも用例の普及の勢いが上回れば、「堪能=たんのう」の場合のように「足り得る」が意味記号として一般に流通すると謂うことになります。これは、決して「結果的にそうなるかもしれないんだから、指摘しなくてもいいじゃん」ではないんですね。
ちゃんと指摘しても結果的に修整の努力が及ばず、事実上誤用のほうが一般に普及してしまったら、それは言葉と謂うものはそう謂うものなのだから仕方がない、そう謂うバランスの話なんだと思います。
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