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2009年2月22日 (日曜日)

けーさん違い

ああ、なんだ、三話持ちじゃなくて二話前後編なんだね>DCD

つまり、最初から最後までクライマックスだぜってことか(笑)。そうすると、第一話が設定紹介で後は二話ずつ九つの世界で一九話、そうすると最終回まで残り一一話もあるんだねぇ。二話前後編の短い尺で、それぞれのシリーズのクライマックスの美味しい所をコンデンスして異化すると謂うことになると、やっぱりかなり二次創作色と謂うか批評的セルフパロディと謂う性格の強い作品だと謂えるだろう。

順番のほうも、クウガ、キバと来て、次は龍騎か。単純に非白倉作品ばかり続けるつもりではないだろうとは思ったが、ストーリーの進行に従ってこの順番に何某かの意味が立ち上がってくると面白いんじゃないかな。単に玩具展開の都合だけだったらガカーリだが(笑)。

中身については、そう謂えば會川昇ってOVA版「吸血姫美夕」を担当しているから吸血鬼ネタには拘りがあるはずだ、と謂うことを想い出した。そう謂う意味でも、この番組は白倉カラーと會川昇の拘りがかなり拮抗しているように感じる。

人間とファンガイアが共存する社会と謂うのは、正規シリーズの結末を引き継いでその結果出来する世界像を提示しているわけだが、ここでキチンとワタルがヴァンピールであることを中心軸にしてドラマを構築している辺り、去年はそんなことをそっちのけにして女の子の取り合いとかつまんないメロドラマを描いていたのは、一体何をしていたんだと思わせる。

人と異形の境界にある異端の存在の孤独と葛藤ってのは、井上敏樹の十八番のテーマだと思ったんだが、どうせアリモノを拡大再生産するなら、カブトのサソードを主役に据えたドラマ性を追及するだろうと予想していた。

キバのデザインの「鎖で縛められた悪魔」と謂う意匠から考えても、天使と悪魔の内部葛藤を抱えるデビルマン的なヒーロー像が中心軸になるじゃないかと予想していたんだが、ただいい男なだけで何も考えていない無害な善人の主人公の周りで変な連中がどぎついメロドラマを演じるだけの番組だったので落胆したわけである。

今回の前後編は、「本来キバってこう謂う話だろ?」と謂うかなり挑発的なメッセージがあるように思う。

また、この前後編は士とユウスケのWヒーローと謂う構造になっていたが、これはたとえばquonさんが仰っているように、士が在り得べき天道総司の姿を提示しているのと同時にユウスケが在り得べき加賀美新のポジションを顕わしていたようにも思う。

さらに謂うと、「少年の成長を導く大人としてのヒーロー」と謂う構造のストーリーは響鬼のそれをなぞっているわけで、ここでも「會川昇が響鬼を書いていたら」と謂う感慨があることは事実なのだが、これは各シリーズのテーマ性のシャッフルもあると謂う可能性を示唆している。そうでないと、このキバ編でワタルが少年に設定された意味がわからないわけだが、そうすると、将来的に響鬼の世界で同じテーマ性は描かないと謂うことになるのだろうか。

まあ、たとえば今回とは逆に響鬼の世界では成長した明日夢自身が響鬼を務めていると謂う設定も想定可能だが(まあ、名前の法則はこの際無視するとして(笑))、それはそれでアリかもしれない。多分、會川昇が響鬼の世界に感じている魅力と謂うのは世界観そのものであって、たとえば「妖奇士」なんかを観ると「少年を導く大人としてのヒーロー」と謂うテーマ性ではないと思うので。

あと、これは余談だが、元のシリーズでは瀬戸康史がルックスだけは甘い二枚目だったので、狙いとしか思えない腐臭の漂うシチュエーションが目立ったが、ディケイド世界で異化されたキバ世界のワタルが金子修介みたいな顔した深澤嵐(ゲキレッドの子供時代とかを演じた子役)と謂うのは、何だか連続性がないなと思ったのだが、今回のエピソードを観て、ああこんな話では、たしかに瀬戸康史に似た美少年をキャスティングしていたら、あんまり腐臭がきつくてかなわんかったな、と思った(笑)。

昔の白倉作品であるダイレンジャーでも、少年戦士であるキバレンジャー・コウを同年代の少年幹部である阿古丸が美少女に化けて誑し込むと謂う話があって、正体を顕わした阿古丸が「あっはっはっは、僕の手を握ってドキドキしたかい?」と美少女に心をときめかせたコウを嘲る描写があって、カッとなったコウが阿古丸に殴り掛かって取っ組み合いになると謂う場面があるのだが、両方とも小綺麗なちょっと可愛い子役だったので、何だか妙な半ズボン趣味の腐臭を感じた記憶がある(笑)。

その経験から「今回は美少年はやめとこう」と思ったわけではないと思うが(笑)、まあジャガイモ顔の子役でも撮り方に物凄く腐臭が漂っていたように思うから、現状のキャスティングで正解だったろう(笑)。

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コメント

先生このはなしでワタルが子供だったのは、同世代だとユウスケとワタルの腐臭がシャレにならないからだと思います。←それは言っちゃダメ。
東映公式のうらばなしも今年はかなり面白いですね。どういう視点の再解釈であるかを示唆する内容に見えて、裏の裏を読む白倉ヲッチャー的にはなかなか楽しい年になっていてうれしいです(笑。

投稿: quon | 2009年2月22日 (日曜日) 午後 05時10分

>quonさん

>>先生このはなしでワタルが子供だったのは、同世代だとユウスケとワタルの腐臭がシャレにならないからだと思います。←それは言っちゃダメ。

それはそうかもしれませんねぇ。でも子供にしたらそれはそれでシャレにならないような気が…いや、なんでもありません(笑)。會川昇は、何度も引き合いに出している「妖奇士」でも、当たり前のような顔をして「衆道」の話をしていましたから、ほっとくと子供番組でも何を書くかわかりませんねぇ(笑)。

>>東映公式のうらばなしも今年はかなり面白いですね。どういう視点の再解釈であるかを示唆する内容に見えて、裏の裏を読む白倉ヲッチャー的にはなかなか楽しい年になっていてうれしいです(笑。

いやホント、今年は「文芸的にはうんたら」とか「ドラマツルギーがかんたら」とか堅いことを言いっこなしで、白倉PDと會川昇のトクサツヒーロー観のガチンコ勝負が楽しめそうで、その序でに面白い話になればいいや的な関心ですね。

これまでのライダーのライターの中では、小林靖子と並んで文芸の勘のある會川昇がこう謂うメタ的な題材の作品で初めて白倉PDと組むと謂うのは、何だか凄く勿体ないような気がしますが、PDや監督とちゃんと喧嘩の出来る人材なので、なかなか面白いコラボレーションになると思います。

このヒトがハガレン辺りまで長いこと低迷していて、あのよく通る渋い声で他人の仕事を貶してばかりいた時期があったと謂うのも、今は昔の話ですねぇ。

そちらでquonさんも書かれているように、今回のキバ編を観ると、カブトとか響鬼とか勿論キバもそうなんですが、「ああ、マトモに行っていれば、こうなった可能性もあったんじゃん」的な感慨を催させますね。それが間接的に、或る種ライダーと謂う長丁場の番組を成功させる難しさを語っているとも謂えるかもしれません。前後編の短い尺でコンデンスしているから、そう謂う中心軸のブレない描き方が出来るわけですから。

ああ、東映公式と謂えば、以前読んだときにツッコミを入れるつもりで忘れていたネタが一つありました。

>>かつて「エキゾチックジャパン」という名コピーがあったように、そこには、新発見も多々。

白倉PD、それを謂うなら文脈からして「ディスカバージャパン」だと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2009年2月22日 (日曜日) 午後 06時18分

一応、世界を回る順序は意識はしているようで

先ずは平成一号であるクウガの世界
次いで、回る世界はパラレルであると言う事を視聴者に示すために、記憶に新しいキバの世界
(ワタルが子供だったのはパラレルを強調する意味合いも有ると思います)
そしてカードを使って戦うライダーである龍騎の世界

こんな感じで序盤は設定紹介みたいな流れになっています、これ以降の順番に何か意図が込めてあるかは不明ですが、電王の世界だけは大人の事情により「超電王&ディケイド」公開次期に調整されています。

玩具に関しては回る順番にリリースされるだけなのでそこに大人の事情は無いのですが、あんまり玩具情報を漁り過ぎるとネタバレになってしまい悲しい思いをするかもしれませんw

投稿: うに | 2009年2月22日 (日曜日) 午後 07時38分

黒猫亭さん、今、U局系で放映中の「屍姫」は御覧になってます?

漫画の原作もあるし、物語自体は当然別ものなんですが、ずっと好きで見ていて、少し前に「あー、これってつまり會川版『響鬼』なんだ」と思い至りました。詳しいことを書くとネタバレになるし、それ以前に大変なんで(笑)詳細は省きますが、もしも未見であれば、見て損はないと思いますよ。

投稿: マサキ | 2009年2月22日 (日曜日) 午後 11時17分

今週はカイザさんがめだか師匠ネタやってましたね。

EVEやSPIRITSでもあった「いざというときには俺が殺してやる」ネタ(クウガでもありましたっけ)や分身が6人とか、オマージュネタ満載で楽しめました。
そういえば漫画版のほうで一文字が「ゆがんだ文明(ショッカー)の破壊屋だ」って言ってるんですよね。


投稿: B助 | 2009年2月23日 (月曜日) 午前 12時35分

>うにさん

>>一応、世界を回る順序は意識はしているようで

なるほど、そう謂われてみればそんな感じかも。

そうすると、飽くまで説明手順としての観点で廻る順番が考えられていると謂うことですかね。まあ、何処から廻らねばならないと謂う必然的な決まりはないですから、プレゼンテーション効果の観点で順番を決めると謂うのも一法でしょう。まあ、何を言うにもお祭り企画ですし。

>>(ワタルが子供だったのはパラレルを強調する意味合いも有ると思います)

なんでワタルが、と謂うのは、初期の頃にそう謂う異化の設定を強調しておく意味もあると思いますが、このサブエピソードの構造自体は「ユウスケが家出少年を諭して戻らせる話」なんですよね。つまり、白倉PDが「ヒーローと正義」で変な拘りを見せていたクウガの「EP25 彷徨」「EP25 自分」をなぞっていると言えるでしょうね。

つまり、こう謂う構造の話を一度やっておきたかったのだと思います。白倉PDがやりたかったのか、會川昇がやりたかったのかはわかりませんが。

>>電王の世界だけは大人の事情により「超電王&ディケイド」公開次期に調整されています。

そうすると、電王の最初の劇場版みたいなTVシリーズとのリンクを考えていると謂うことかもしれませんね。まあ、映画の公開に合わせて電王の世界を持ってくると謂うのは、大人の事情と謂っても興行デザインの問題ですから、そんなに生臭い話でもないかもしれないですね(笑)。

>>あんまり玩具情報を漁り過ぎるとネタバレになってしまい悲しい思いをするかもしれませんw

オレは基本的にネタバレを全然気にしない人間なので、ミステリでもない限り先々の展開を識っても「ああ、そうなの」としか思わないので大丈夫です(笑)。まあ、他の方はそうではないでしょうから、ブログで不意打ちのネタバレはしませんので、ご安心くださいと謂うところですが。

しかし、玩具系のネタバレって別の商売の論理で動いていますから、本編なんかおかまいなしで容赦ないですよねぇ。戦隊なんかだと間のCMで何週間も前から先が読めていてハラハラドキドキに水が差される場合が多いです。

投稿: 黒猫亭 | 2009年2月23日 (月曜日) 午前 10時06分

>マサキさん

>>黒猫亭さん、今、U局系で放映中の「屍姫」は御覧になってます?

折角埼玉在住なんですが、住居にUHFのアンテナが立っていないらしくてテレ玉が綺麗に映りません。基本的に録画の対象にならないものは観ていないので、アニメ版のほうは観ていないですね。

ただ、フィギュア絡みで一度調べたことがあったので、作品の設定や世界観は或る程度識っていますが、原作も読んだことがないんですよ。DVDをレンタルしていたら観ようかなとも思ったんですが、調べてみたら「赫」の第一巻がリリースされたばかりみたいで、まだまだ先のことになりそうです。

>>少し前に「あー、これってつまり會川版『響鬼』なんだ」と思い至りました。

公式の紹介が物凄くアッサリしていて、アニメ版独自の方向性がよくわからないので具体的にはわからないんですが、妖奇士が會川版響鬼に感じられるのと似たような意味でそうなんだろうな、と謂うふうに推測しています。普通に「似たような話」と謂うんではないんだろう、と。

會川昇が響鬼に魅力を感じている部分と思しき要素が、その物語の世界観を通じて間接的に浮かび上がってきて、それが響鬼に由来する要素であることを直観的には否定し難い、と謂う感じなのかな、と。

投稿: 黒猫亭 | 2009年2月23日 (月曜日) 午前 10時08分

>B助さん

>>今週はカイザさんがめだか師匠ネタやってましたね。

ああっ、たしかに!(木亥火暴!!)

散々ボコられたくせに「今日はこのくらいにしといたるわ」ってのが何か引っ懸かるなと思ったら、クウガ編に引き続きのめだか師匠ネタだったのか(木亥火暴!!)。

なんですかねぇ、この番組を挙げてのめだか師匠プッシュは(木亥火暴!!)。

>>EVEやSPIRITSでもあった「いざというときには俺が殺してやる」ネタ(クウガでもありましたっけ)や分身が6人とか、オマージュネタ満載で楽しめました。

流石「仮面ライダーを語る仮面ライダー」だけあって、マニアックな擽りが満載でいろいろなレベルで楽しめますね。何というか、ハタで想像するほど楽しいものではないんでしょうけれど、この番組の打ち合わせや台本検討のプロセスを想像すると、濃ゆい特ヲタが雁首揃えてネタバトルを繰り広げているような微笑ましい風景を想像してしまいます(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年2月23日 (月曜日) 午前 10時08分

確かに、特撮ニュータイプの別冊のインタビューで白倉氏が『(描くライダーの順番を)かなり戦略的に考えてやってるんですよ』とおっしゃってましたね。龍騎編と、その次に来るブレイド編は、同じくカードを使うディケイドとのシステムの違いを明確化させるために早目に持ってきたとか…キバを早目に持ってきたのは、瀬戸くんも出しといてオリジナルと違うワタルも出して『こりゃ何かカラクリがあるのか?』と視聴者に思わせる触媒か(まあこれは結果論ですが…)とか…ちょっと思ったんですが、白倉氏の高寺氏へのこだわりというか愛憎(?)というか、その辺はどれくらい関係してますかねぇ?響鬼前半のころは高寺氏のことを普通に『高寺』と呼ばれておりました(もちろん社内の人間なので呼び捨ては当たり前)が響鬼前半の体制が壊れてからは高寺氏のことを聞かれても『偉大なるアマチュア』等と揶揄したりインタビューによっては名前も言いたくないといった感じで『前任者』という言い方で通した回もありました。今回クウガを一番にしたのはクウガに対するリスペクトもあるのかと思われながらも意地悪な見方をすれば『高寺がやったライダーだから早目に済ましちゃえと思ったんじゃないの?』という(ホントに意地悪な見方ですね(^_^))しかしクウガ、響鬼と続ければ高寺氏を意識してるのがあからさま過ぎるし(白倉氏自身そんなに拘ってなくても少なくとも視聴者がそう思うんじゃないの?とは想像したんじゃないかと…)なのでディケイドとは『白倉氏と平成ライダー』(まあその登場順を見ることで、白倉氏の各ライダーに対するスタンスが占える、という意味で(^_^))なんですが、僕的には裏の楽しみ方として『白倉氏と高寺氏』というのが(^∀^)しかし響鬼を最後に持って来たら『意識してること』をバリバリ認めてしまうので、白倉氏的には『響鬼』は結構真ん中あたりのどこでも良かった的にみえる位置に配するような気がしますが…

投稿: SHUZO | 2009年2月23日 (月曜日) 午後 07時07分

>SHUZOさん

いらっしゃいませ。

>>白倉氏の高寺氏へのこだわりというか愛憎(?)というか、その辺はどれくらい関係してますかねぇ?

この辺については、何度も引き合いに出している「失はれた週末」のAct.47で語っていますが、白倉PDの高寺成紀に対する感情と謂うのは、単純な好悪で切り分けられないだろうと思います。

勿論、主人公の一人が異化された世界のクウガであることは、PDの一存でそう決定したわけではないだろうし、一〇周年のお祭り企画で原点に当たるクウガを顕彰することは当然だと謂えますが、事実としてシリーズを通じて白倉PDが高寺PDの作品であるクウガを語り直すことには違いがないわけです。

これは別の方へのコメントでも触れましたが、「ユウスケが家出少年を諭して戻らせる話」と謂うのは、白倉PDが自著で変な搦み方をしたエピソードですし、そう謂う観点で視てみると、実は白倉PDが指摘した「問題点」についてはこのエピソードでもそのまま持ち越されていると謂えるでしょう。

それが自覚的なものなら自著の強弁を事実上撤回したと謂うことですし、わかっていないなら所詮白倉PDからの問題提起など皮相的なものにすぎなかったと謂うことになります。で、オレの白倉観からすると、流石にそれは前者であるべきだろう、そうであって欲しい、と謂うことになります。

たしかにワタルの「家出」は、平凡な少年の家出に比べるとキバ世界の命運を左右する神話的な廃嫡劇ですが、ユウスケは別段ワタルがいないとキバ世界が困るからワタルを連れ戻そうとしたわけではなく、ワタルが自分の生き方を決定することから逃げているのはワタル自身にとって正しくないと感じたから説得しているわけですね。

これがユウスケとワタルの関係性の本質であるなら、平凡な家出少年を懸命に探して説得した五代雄介の場合と本質的には何処も違わないわけですし、白倉PDが自著で指摘したような「大人による子供の管理」への問題意識なんかそこにはまったく存在しないわけですね。

白倉PDは嘗て自著で「子供が常日頃と違う行動をとったからといってそれがそんなに大事かよ」みたいな強弁をしたわけですが、これは子供っぽい物の見方で、大人から視ればやはりそれは大事であるべきなんですね。

何故なら、クウガのエピソードの中でもその少年は理由もなくそんなことをしたわけではないからで、本人の意志がどうあれ本質的には大人からの導きを必要としていたからです。そして、「様子がおかしい」「いつもと違う」と謂うのは、単に大人の側がそれを感じ取っていることを示す控えめな表現にすぎないからです。

そして、そこで必要とされていた導きと謂うのは、子供の側の甘えでもないし大人の側の過保護でもない。これはまさに大人が責任を持って子供にキチンと教えるべき事柄なんですね。で、オレの見方では、白倉PDにとって不愉快なのはそう謂う真っ当で当たり前な主題を高寺成紀のような人物が語ることなんだと謂うことです(笑)。

>>今回クウガを一番にしたのはクウガに対するリスペクトもあるのかと思われながらも意地悪な見方をすれば『高寺がやったライダーだから早目に済ましちゃえと思ったんじゃないの?』という(ホントに意地悪な見方ですね(^_^))

なので、まあ半分冗談ではあるのでしょうが、オレ個人としてはちょっとそう謂うふうには受け取りません。クウガから始めて、ユウスケと謂う人物をシリーズを通じて自分でも描いてみないと、平成ライダーに対する自己認識が完結しないと謂う複雑な想いがあるんではないでしょうか。

SHUZO さんが初めに仰ったように、まさに白倉PDの高寺成紀に対する感情は愛憎ただならぬ複雑なものがあると思いますよ。

>>しかしクウガ、響鬼と続ければ高寺氏を意識してるのがあからさま過ぎるし(白倉氏自身そんなに拘ってなくても少なくとも視聴者がそう思うんじゃないの?とは想像したんじゃないかと…)

これは、別の意味でそう謂う考え方もあるかな、と。あの騒動の折には、白倉PDはやはり対外的な見え方を意識せざるを得なかったわけで、そう謂う外野の騒動に視聴者の関心が集中することはいろいろな人間を傷つけることに繋がります。なので、響鬼の扱いについては、やはりあの騒動を記憶している人々からの見え方を配慮するだろうし、それは逆に変な意識をしていないような見え方を考えると謂うことでもあるでしょう。

その結果として、外部からの見え方を一切意識せずに物語の要請に従って配置すると謂うやり方もありますし、これはまあウロボロス的な話になりますので、下手に考えすぎても仕方ないだろうと謂うところに落ち着くんではないか、と(笑)。

>>しかし響鬼を最後に持って来たら『意識してること』をバリバリ認めてしまうので、白倉氏的には『響鬼』は結構真ん中あたりのどこでも良かった的にみえる位置に配するような気がしますが…

結果的にはそんなところではないですかねぇ。真夏の伝奇オカルト編とか(笑)。夏場が舞台だと、今年も河童を退治したせいで変な声になっているかもしれません(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年2月24日 (火曜日) 午前 05時28分

黒猫亭さま、こんにちは。先日はいきなりの来訪にてぶしつけな、そして破綻した文体の拙文に丁寧にお答え頂きありがとうございました。SHUZOと申します。あらためてよろしくお願い致します。自分は所謂、この世界で謂うところの“高寺信者”ともカテゴライズされる人間でございます。ですので高寺氏の、あの独特の世界観の構築の仕方、比較的破綻の少ない設定、ちょっとくさいぐらいにピースフルな人間関係と共存する『寄生獣』のごとき残虐な世界観の隣り合わせなどに魅力を感じている人間であります。しかし僕は白倉氏の、あの(設定的な)破綻は多いけども派手で山師的な仕掛人ぶりも好きな人間です。なんなら仮面ライダー的なドラマドラマしたカテゴリーは高寺氏より白倉氏のほうが向いてるかも…とも思います。ですのであの響鬼騒動を冷静に分析された『高寺騒動におけるリスクマネジメント』は非常に感銘を受けました。『冷静に考えればそうだよな…』と。で、僕は白倉氏の『ヒーローと正義』もたしか購入していたはずなんですが(^_^;)クウガのあのエピソードに言及していたことは全く覚えていなかったです…。これは某掲示板にも少し書いたんですが、クウガの後に白倉氏が担当された「仮面ライダーアギト」その後半に差し掛かった頃に、番外編的な一篇が放送されました。アギトのメインライターは井上氏ですが、この時だけは小林靖子さんが担当されたのです。(後に小林さんは後番組の龍騎のメインライターに…後の響鬼後半でもスポット的に米村正二氏を起用し、それは後番組のカブトへの布石であったと…白倉さんはたまにこういう人事をしますね。)テレビ雑誌などの掲載サブタイトルは「あの夏の日」だったと思いますが…とても切ない物語ですごく記憶に残っておりまして…僕が今回のキバ編を見て真っ先に思い出したのがこのエピソードです。仮面ライダーギルスである芦原涼は何かから逃れようとしている少年と出逢います。(たしかアンノウンに両親を殺された現実を受け止められなかったのだと思います)少年は涼に言います。『どこでもいい。遠くに連れて行ってよ!。いまがウソになるくらい遠くに…』涼は言います。『何処まで行ったって今はウソになんかならない』『じゃあどうしたらいいの?』『ただ生きるしかないんだ。終わりの時が来るまではな。』(←これ、子供番組にしては凄いこと言ってるなあ!と当時感銘を受けましたが…)後に両親のみならず少年をも殺そうとするアンノウンに涼はギルスに変身して立ち向かいます。涼の脳裏をよぎる、今までのつらかった出来事…ギルスは悲しみの咆哮を上げながらアンノウンにとどめをさします。変身を解き、フラフラになりながら少年のもとへ…少年は泣いています。涼『どうした?(変身した怪人同士の戦いを見て)怖かったのか?』しかし少年は言います『戦ってるお兄ちゃんが…すごくつらくて、悲しそうだったから』少年は涼のセリフ『辛くてもただ生きるしかないんだ。終わりの時が来るまではな』を涼が身をもって示しているのを見て泣いたのでした。そんな風に自分の不遇に対して誰かが泣いてくれるようなことが今までなかった涼はぶっきらぼうに『お前…俺の為に泣いてるのか?バカか…』といい放ちますが、次第に涙が溢れます『ありがとうな。』僕が『アギト』で唯一泣いたエピソードです。(大の大人がね(^_^;))白倉氏が會川昇氏のことを『會川さんとは初めてなんですが、全ての平成ライダー見ていらして、ライダーに愛を持っておられるんですよ』とおっしゃっていたのを見て、今回のワタルとユウスケのやりとりは、『アギト』の小林脚本作品を見た會川氏のオマージュだったのかな?と勝手に想像してしまっておりました。しかしクウガの『彷徨』とかその辺に白倉氏が変なこだわりがあるなら、白倉発信のエピソードなのかも…うーん…聞いてみたいですね(^∀^)しかしアギトのあの話は自然に観れたんですが(あのとおり涼の態度がぶっきらぼうなこともあり)しかし今回のユウスケとワタルは若干腐臭が(^∀^)髪をなでるな髪を(^∀^)ホントワタルがジャガイモ顔で良かったですね。すんでの所でしたよ(^∀^)

投稿: SHUZO | 2009年2月24日 (火曜日) 午後 04時17分

>SHUZOさん

どうもです。まあ、人によっては気に障るような能書きもゴチャゴチャと書いておりますので、楽しんで戴けますと幸いです。

>>これは某掲示板にも少し書いたんですが、クウガの後に白倉氏が担当された「仮面ライダーアギト」その後半に差し掛かった頃に、番外編的な一篇が放送されました。

ああ、あの話ですね。忘れもしない、「あの」佐藤健光監督の平成ライダーデビュー作でもありますね(木亥火暴!!)。

あれは例の「ギルスの川流れ」のプロセスにおける回想と謂う扱いだったかと思いますが、たしかに少年に対して大人が何かを語ると謂う部分は共通しています。ただ、正直オレはクウガのエピソードと類似を感じなかったんですが、それはつまり、死に瀕した大人の側の回想として語られていると謂う性格と、多分この頃の白倉・井上組は最も人間の成長物語と謂う虚構に懐疑的だったと謂うことだと思うんです。

何のインタビューだったか忘れましたが、アギトを手懸けていた頃の井上敏樹は「人は成長しない。変わっていくだけだ」と謂うようなことを言っていました。つまり、昨日に比べて今日の自分がマシになっているなんて幻想で、ただ変わっただけだと謂うような認識が、アギトの頃は極端だったと思うんですよ。

で、多分そんなことを考えていたのは、物語の成長発展も認めない立場だったからと謂うことなんじゃないかと思うんですね。一旦始められた物語って、進展するに従って成長したり発展したりするじゃないですか。

でも、アギトの物語って積み重ねで成長発展するような物語じゃなかったですよね。何も積み重ねないで、次の瞬間にどんなイベントが起こってもおかしくないような余地が常に確保されていました。それは、現実的な制作事情の要素もあり、作り手の作劇観の要素もあり、と謂うところでしょう。

その傾向は平成三部作の頃に顕著で、普通の物語ならストーリーの進展に従って前に起こったことを踏まえて今があり、過去の積み重ねで物語が動いていき、こうでなくてはならない、と謂う筋道が自然に出来てくるものですが、平成三部作当時の作劇では、今起こっていることしか重視されていない。

所謂白倉PDのライブ感覚と謂うやつですね。で、白倉・井上組のそう謂う作劇観や成長物語に対する懐疑が顕れているのが、

>>『ただ生きるしかないんだ。終わりの時が来るまではな。』

…と謂うセリフなんではないかと思います。いや、小林脚本ですけどね(笑)。これはもう、彼女が井上敏樹の紹介でライダーに試用された際のエピソードですから、比較的白倉PDや井上敏樹の意見や要望が反映されていると思います。

初期の白倉ライダーと謂うのは、まさにそう謂う性格のドラマだったわけで、以前龍騎を語ったエントリでも「終わるべくして終わったのではなく、終わりの時間がきたから終わった」と指摘しましたが、大雑把に一口で表現すると「最終回が来るまでなんやかんやイベントが起こるドラマ」が初期の白倉ライダーだったんだと思います。

で、この場合にクウガの当該エピソードとの決定的な違いとなるのは、作り手が成長物語を否定している以上、葦原涼と少年は社会的な役割論の上で違う存在ではないと謂うことですね。葦原涼が少年に語った言葉は、大人が子供を導くと謂う意味での言葉ではなくて、辛く孤独な生を生きる者同士の束の間の慰め合いと謂う性格を帯びています。

>>『戦ってるお兄ちゃんが…すごくつらくて、悲しそうだったから』

大人は子供に対して自分の辛さや哀しみをさらけ出しません。葦原涼は大人として少年を導いたわけではなくて、自分と同じように辛い生を生きる他者を不器用な言葉で慰めただけなんだと思いますし、誰かが自分の為に泣いてくれることで、自身もまた慰められている。クウガとアギトの物語のトーンの違いはここにあると思うんです。

葦原涼は、一人の大人として少年を成長に導けるほどに、この世界を我が物として引き受けているわけではありません。むしろ異形の存在に変身したことで、この世界から異端として排斥され、持てるすべてを喪ったアウトサイダーなのだし、それでも不意に関わり合ってしまった誰かの為に戦わざるを得ない心性の持ち主だからこそ戦っている。これは大人では在り得ない立ち位置なのですね。

この当時の白倉ライダーたちは、そうした先の見えない生の暗闇を抜け出したところに何があるのかを誰も識らない。昨日も、今日も、そして明日も同じように堂々巡りの悩みを悩み続けて成長も発展もせず、同じ戦いを戦い続けて足掻いていく、そして死ぬときが来たら死んでしまう、それが人の生の在り方だと謂う認識の下に生きているわけですね。分けても、葦原涼=ギルスは変身ヒーローの異端性を一身に背負わされている役回りであるだけに、劇中で何度か死に、そして再生しています。

今回のユウスケとワタルのエピソードが、アギトの頃と同じ人によって描かれたわけではないな、と思うのは、このユウスケもまた五代雄介と同じように、よりよい明日を信じているからですし、人はよりよく変われると謂うことを信じているからです。

たとえば「終わりの時が来るまで、ただ生き続けるしかない」と謂う哲学の持ち主が描いた物語であれば、ワタルは逃げたっていいんです。この哲学に基づくなら、何かの困難から逃げなかったからよくなるわけでもなければ、逃げたから悪くなるわけでもないんですね。それが「終わりの時が来るまで、ただ生き続ける」と謂うことですし、それはそれで一面の生の真実ではあります。

アギトの頃の物語は、逃げなかった奴を正しいとも言わないし、逃げた奴を間違っているとも言わない、逃げなかった奴が報われるとは限らないし、逃げた奴が報いを受けるとも限らない、ただみんなが同じ生の辛さや哀しさを分け合っている、そう謂う性格の物語だったと思います。

人は成長しない、ただ変わっていくだけだ、そう謂う思想に基づくなら、人が或る日或る時にどんな行動をとろうと、それは同じ人間によっては裁けないのです。人の生の意味とは、ただ懸命に生きているかどうか、それだけの問題になります。

ただ、人間は長く生きていると、ただ懸命に生きているだけではダメだと謂うことを痛感するわけですね。たとえ成長が虚構だろうと、よりよく変わろうとしなければダメだと謂うことを痛感します。たとえば、誰かを心底守りたいと思ったとき、もっと謂えば守りたい誰かを守れなかったとき、人間は成長も発展もしないと考えても、何の意味もないと痛感します。

よりよく変わらなければ誰も守れない。昨日犯した失敗を今日もまた犯してはダメなのであって、昨日誰かを守れなかったとしたら、今日もまた同じように守れないのでは生きている意味がない。「それが人生と謂うもの」なんかではないんですね。

だからヒーロー物語で「人は成長なんかしない」なんて言ってもダメなんです。

逃げてはいけないときに逃げたやつは大切なものを喪うのだし、少なくとも逃げないで立ち向かうことでしか大切なものを守るチャンスは生まれない。これをどちらも等価だと嘯くのは青臭いニヒリズムでしかないのですね。

今回のエピソードを視ると、これは紛れもなく成長物語であって、成長物語と謂うのは更めて強調するまでもなく虚構でしかありません。ただ、その虚構には大きな意味があります。ワタルが逃げずに留まって強敵に立ち向かったことで初めて守り得たものはたくさんあったはずですね。逃げなかったことによって守り得たものの価値を認めることで、成長物語と謂う虚構は意味を持つわけです。

で、會川昇についてはまあ措くとして、白倉PDにとって成長物語に対するスタンスが変わる契機となったのは、やっぱり響鬼の経験が大きかったのかな、と思います。響鬼それ自体が成長物語であると謂うことは言うまでもないですし、成長物語に対する批判的言及をやっていた人間が正面から成長物語を着地させると謂う使命を課されたことも大きかったでしょうが、やはり響鬼騒動において物凄くリアルに誰かを守る立場に立たされたと謂うことも大きかったのではないかと思います。

>>しかしアギトのあの話は自然に観れたんですが

一部では腐臭を指摘されることの多い小林脚本でも素直に観られたのは、多分葦原涼が早い時点で「女殺し」として印象附けられたからなんではないかと思ったり。井上敏樹曰く、葦原涼は「死に神」と謂う位置附けの存在だそうで、「あいつに関わった女はみんな死ぬ」んだそうです(笑)。

最終回に一緒にいた犬も、あれは雌犬だからあいつのせいで死ぬんだとか言ってましたから何処まで素面で言ってるのかわかりませんが(笑)、葦原涼の場合、とにかく行きずりの女性との因縁の上でドラマが語られることが多かったですから、何にでも受けと攻めを見出す真の腐女子でもない限り、葦原涼のキャラで普通は腐臭を感じないのではないかと思います。

まあ、福澄美緒の元カノだけは命が助かりましたが、その翌年には悪の組織に入って身を持ち崩していますから、無事では済んでいませんね(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年2月24日 (火曜日) 午後 11時24分

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