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2009年2月 3日 (火曜日)

赤壁はなぜ赫い 第一夜

第一回は、序論から許都のくだりまで。四回に分けても長いものは長いので、お暇な折にでもじっくり読んで戴きたい。ここより物語が始まる。とにかくこの映画では曹操が大悪人なんだと謂うことをわかればよし(笑)。


●畢生の大作

少なくとも志在る映画人には、生涯に一度作ってみたい宿望の作品と謂うイメージがあるものだと思うが、それを実現した幸運な実例は窮めて少ないのではないかとも思う。たとえばそれは、ピーター・ジャクソンにとっては「キングコング」だろうし、呉宇森にとってはこの「レッドクリフ」だろう。

自身にとっての畢生の一本を夢みてそれを実現出来るのは、映画ビジネスが巨大な市場を具えているフィールドで大きな成功を収めた一握りの幸運な映画作家だけの特権だろう。そうでない場合は常に映画を撮り続けていないと飯が喰えないし、その為には「次回作が自分の代表作です」的な姿勢をアピールしておかないと、矮小な市場においては次の機会が与えられない。

PJと「キングコング」については、以前長い長いレビューを書いているので、興味がおありなら一読されたい。一口で謂うなら、スペクタクル娯楽映画としては異例の長尺でありながら、高度に経済的な映像感覚で綴られた優れた作品であり、PJの映画作家としてのすべての力が注ぎ込まれている作品であり、これを撮り上げてしまったのであれば、もうPJは自ら映画を撮る必要はないのではないかとすら思う。

これは呉宇森の「レッドクリフ」にも謂えることだが、ただ、呉宇森はこの作品を撮り上げた後も映画を撮り続けなければ生活出来ないだろうから、ニュージーランド映画産業大躍進の立役者として功成り名を遂げたPJほど幸福だとは謂えないだろう。また、娯楽映画として窮めて完成度の高い「キングコング」に比べると、この作品もまた優れた娯楽性と経済性を具えていながら、完成度と謂う面では若干の隙がある。

つまり、もう映画人としては最高度のピークを通過し、クリエイターとして生涯最高の作物を実現した上で、経済的な安定をも確保してしまったPJの場合とは違って、呉宇森にはまだ先があるし、完成度と謂う意味ではいつまで経っても隙があるのだろうし、多分死ぬまで映画を撮り続ける種類の人だろう。しかし、そうは謂っても、この映画を観て真っ先にオレが連想したのはPJの「キングコング」だった。

これは呉宇森が「キングコング」を念頭に置いて「レッドクリフ」を撮ったと謂う意味ではまったくない。PJが数十年来の宿願だった作品の制作に臨んだ姿勢、そして自ら持てる技術の限りを尽くした実践、それと同様のものがこの作品からも見て取れると謂うことである。

多分、PJは「これが撮れればもう映画を撮れなくなっても構わない」くらいの気持ちで「キングコング」に臨んだのだろうし、多寡が「でっかいゴリラが出てくる安い秘境探検映画」の、しかも二度目のリメイク作品でありながら、信じ難いほど非の打ち所のない形で実現された「キングコング」の完成度は、そんなPJの張り詰めた姿勢がもたらしたものだろう。

しかし、「レッドクリフ」の呉宇森はそこまで気負っているわけではない。彼自身の気持ちとしても他者の視る目としても、如何に「レッドクリフ」がメモリアルな大作だとは謂え、この一本が撮れればもう他に撮れなくても構わないと謂うほどの気持ちはないだろうし、それが一種のユルさとして隙を作っている部分はあるだろう。

おそらく、呉宇森の念頭にあった先行作品と謂うのは、具体的にはズバリ黒澤の「七人の侍」だろうし、黒澤のような映画が撮りたいと考えてこれを撮り上げたのだろうと想像する。これは、たとえば徐克が「七剣」を撮ったときも「七人の侍」のような映画が撮りたかったのだろうし、香港乃至中国文化圏の映画監督の間では、アジアの辺境から出て世界の映画史に赫燿たる威名を遺した黒澤映画へのリスペクトは並々ならぬものがあるのだろうと思う。

まあ「七剣」は冷静に視ると映画の性格としては何処も黒澤的ではないが、「レッドクリフ」は或る程度黒澤の骨法から学んでいる部分が垣間見られるし、合戦シーンの演出プランは「七人の侍」を参考にした部分が多々あるだろう。ショットの動きと緩急自在な編集のリズム、マルチカメラがもたらす効果的なモンタージュや分解的な見せ方で合戦を盛り上げて行く手法は、おそらく黒澤に学んだ部分だろうと思う。

また、二時間超の長尺をグイグイと引っ張っていくテンポもまた、黒澤映画に特徴的な映像の経済性に学ぶところが大いにあったのではないかと思う。加えるに、黒澤の全盛期にはそれほど効果的な道具ではなかったハイスピードカメラによるスローモーション映像も、特定の重要な動きを時間的に引き延ばすことで分析的に刻銘に見せる技術として縦横無尽に使いこなされている。単にスローモーション映像が格好いいから、と謂う皮相的な理由で使っているカットなど殆どないのである。

ただ、全盛期の黒澤映画は一種技法面ではストイックな性格があったが、この映画については少し技法博覧会的な過剰性が目立つ。おそらく、映画に用いられる技法でこの作品に使われていないものなどないのではないかと思うくらい、すべてのシーンで様々な撮影法や技法が駆使されていて、それが効いているところもあれば剰り効いていないところもあり、一口に謂って少し煩瑣い

しかし、その総花的な技法の氾濫がこの作品の本質である娯楽性の性格と密接に結び附いているところもあり、一概に過剰と切って棄てるのも惜しいような気もする。そこは考え所で、たしかにこの映画は技法的には饒舌な映画なのであるが、その一方で映像の経済性と謂う意味では無駄な部分があまりないし、それは「そう謂う性格の映画」なのだと謂う言い方も出来る。

ハリウッド進出を果たして西欧映画の骨法を学んだ呉宇森は、どうやら映画の文法や物語構造の持つユニバーサルな表現力を強く信じているように見える。この映画において煩瑣いほど多彩に用いられている撮影術や編集技法は、すべて西欧映画において共有されているオーセンティックな文法に則って解釈することで疑いようもない「わかりやすさ」をもたらしている。文芸的な意味で複雑だったり深遠なところなど一切ないし、観客に解釈を委ねるような曖昧な部分もない。ショットがすべてを言い切るタイプのシンプルで力強い内実の映画となっているのである。

この辺のことは、一通り具体的に作品を視ていってからもう一度考えたほうがわかりやすいかもしれないので、本題のほうではオレが最初にこの映画を観た時点から時系列に沿って詳細に作品を視ていくことにしよう。


●女たちの悲歌

そう謂う次第で今すぐ本題に入っても好いのだが、好きな映画を語る場合、「大人の事情」とかお台所事情に類する白ける話題は先に語っておいたほうが好いだろう。

いやまあ、何処からカネが出ようともオレが木戸銭以上の銭を払うわけでもなし、観客には殆ど関係のない話なのだが、どうやらこの映画はAVEXだのテレ朝だの東宝東和だのと謂った主要な金主の周年事業に位置附けられているらしい。テレ朝などは五〇周年事業の一環と謂う性格の故かANN 系列の数社まで名を連ねているくらいだから、随分と力こぶが入っていることになる。

これはですね、たとえば…飽くまでたとえばの話だが、TBSで謂えば「輪舞曲」に匹敵する力の入れ方だと謂うことなのですよ(笑)。そして、この五年後には「華麗なる一族」に匹敵するほど力の籠もった大作が待ち受けていると謂うことでもあるのですよ。

いやまあ、ネタはさておき、AVEXグループが二〇周年、テレ朝が五〇周年、東宝東和が八〇周年と謂うことで、気味が悪いほどキリの好いタイミングで関係者全員が周年事業と銘打って資金を提供したことになるわけだが、テレ朝と東宝東和はわからないでもないとは謂え、提供の筆頭に挙げられているAVEXが結構唐突に感じるだろう。

まあこの会社のやることは以前からよくわからないわけだから、今更そのお内証を忖度したところで何がわかるわけでもないし、ざっと検索した限りではどう謂うビジネスを構想しているのかよくわからないが、同グループの事業のアジア展開と連動していることは間違いないだろう。

何はともあれ、呉宇森年来の宿望に資金を提供してくれたのだから文句を言う筋合いは勿論ない。AVEXが絡んだから変な映画になった、と謂うなら問題だろうが、出来上がった作品を視る限り、スポンサーの意向で変な影響が出た部分はないように思う。

映画の本質に関わる最も大きな影響と謂えば、エンディングテーマを歌った阿蘭を映画とセットでグローバルに売る気マソマソなところが挙げられるだろうか。

ウィキの記述で視ると、この阿蘭はAVEX CHINAが一から発掘したアーティストと謂うことになるわけで、中華圏ですでに有名なアーティストと契約したわけではない。同社がオーディションで見出してデビューさせた秘蔵っ子と謂うことになるわけで、そうなると阿蘭の中華圏におけるプロモーションと大作映画への巨額の出資は不可分の関係にあるんではないかと推測出来る。

同グループの主目的が映画配給事業の拡大にあるのか、アーティストのプロモーションにあるのかは、まあどうでも好い話である。映画の本質に関わってくるのは、この阿蘭の楽曲「RED CLIFF 〜心・戦〜」が、近来の映画には珍しく劇伴と有機的に関連していると謂う事実である。

この楽曲は本編の劇伴を担当した岩代太郎の作曲だが、更めてサントラを聴くとこの楽曲のモティーフが至るところで活用されていることに気附く。いわば映画の人間ドラマ全体のライトモティーフとなっていて、エンディングテーマ曲のモティーフがここまで劇伴全体にフィーチャーされている例は近頃視たことがない。

普通なら、映画音楽は映画音楽で別個に作って、そこにまた別個の都合で成立している楽曲を抱き合わせるのが常で、映画用に楽曲を書き下ろす場合でも、劇伴とは別の作曲者が一個の楽曲として独立して成立するように作るのが当たり前で、劇伴にエンディング曲のモティーフが積極的に絡むような音楽設計の映画と謂うのは、ちょっと他の例を思い附かないほどのレアケースである。

このような事情の要請として、この映画の劇伴全体が特定の情感や意味性と対応する特定のモティーフを一つの単位として、その組み合わせによって構成されるクラシック音楽的な構成になっていて、就中「心・戦」のモティーフはリリックで印象的なフレーズも劇中の描写内容と対応するような音楽の附け方になっている。

そして、劇中で用いられる主要なモティーフはタイトルバックのオープニング曲で予め提示され、これらの主要なモティーフの変奏や展開、リズムの変化、パーカッションの音色や修飾モティーフによって個々の場面音楽が形成されると謂う構成になっている。

具体的にオープニング曲を視ていくと、まず冒頭に誰もがこの映画と関連附けて記憶している印象的な符点リズムのストリングスが出るが、これは同盟軍側のテーマとも謂うべきモティーフで、それに続いて雄大な大河の流れを連想させる長江のテーマとも謂うべきモティーフが繰り返され、すぐに「心・戦」のモティーフがファンファーレを連れて歌い出す。

それが長江のテーマと渾然となり、そこに同盟軍のテーマが重々しく続きさらに曹操のテーマとも謂うべき不吉で重厚なモティーフがここで現れて互いに相克する。それが一段落すると再現部となり、再び長江のテーマが歌い出し、「心・戦」のモティーフに繋がると、それが一頻り高まった後に静かで厳かなコーダを迎える。

要するに、「レッドクリフ」と謂うのはこう謂う映画ですよ、と謂う予告であり、演奏時間は短いが、これはオペラの前奏曲に窮めて近い形式性である。

このような劇伴の性格は、エンディング曲を劇伴と関連附けると謂う都合ありきのアイディアではないかと思う。つまり、木を隠すなら森の中と謂うやつで、エンディングの楽曲を同じ作曲者が作曲し、それを一つの音楽要素として劇伴全体に活用する場合、その楽曲を全体的なドラマの象徴的なモティーフの一つとして処理するなら、劇伴全体もモティーフ単位の組み合わせとして構成されなければ平仄が合わないからである。

これは当然AVEX側の意向で、阿蘭の楽曲をフィーチャーすると謂う具体的なオファーがあったと謂うことだろうから、最初から阿蘭のプロモーションと映画制作の間には密接な関係があったと謂うことではないかと思う。

そう謂うふうに表現するとおカネ絡みの窮めて生臭い話に聞こえるが(笑)、これが逆に劇伴と楽曲の間に絶妙な一体感を醸成して、結果的には吉と出たように思う。さらにまた、特定のモティーフが特定の情感や意味性と一義的に関連附けられると謂う明示的な音楽の性格は、本編の明示的なナラティブの性格と整合しているわけで、全体的に非常に一貫性の強い性格の映画となっている。

また、ウィキの記述では呉宇森も阿蘭のヴォーカルにかなり満足したと謂うような記述があるが、当然映画の企画を持ち込んだ当人が金主に都合の悪いことを言うはずがないとは謂え、これは本心でも阿蘭の起用に満足していたのではないかと思う。

つまり、阿蘭はチベット民族の出身と謂うことだが、さまざまな民族紛争を抱える現代中国と謂う強大な国家の侵略的権力の在り方と密接な関連を持つアーティストであり、権力に虐げられる周縁の少数民族の出身者であり、そして女である。

後に詳細に語ることだが、呉宇森はこの映画を強大な権力の悪と命懸けで戦う個人の信念を力強く賛美する叙事詩として語っている。しかし、正義とそれを脅かす権力の悪の間で戦われる男たちの信念の闘争の犠牲となる存在として、小喬と謂う美しくはあるが平凡な一人の女をも描いている。

「心・戦」はこのような立場からの呼び掛けである女歌として歌われていて、男たちの悲愴な戦いのモティーフの高まりにおいて、常に、

あふれる愛を信じて
消えない愛を信じて

と切なく繰り返す。これはもう、映画全体のテーマ性を端的に表現している。

まあ、中国語版で当該箇所の歌詞がどうだったかは記憶していないが。「丁々発止」と謂う字幕のインパクトがあんまり強かったので、そこしか覚えていない(笑)。

これはたとえば中央電視台版「天龍八部」の主題歌のタイトルが「寛恕」だったり歌い出しが「如是我聞」だったりするのと同様の事情で、どうもこう謂うしっとりした哀切な女声バラードに四字熟語とか厳めしい字面の漢語が出て来ると、当たり前のこととは謂え日本人の感覚としてはちょっとびつくりしてしまうのである(笑)。

また、吹き替え版と字幕版を両方観た観客なら、ウィキの記述にある、日本語版には存在するチベットフェイクの聴かせ所が中国語版ではカットされていると謂う事実にもお気附きなのかもしれないと思う。オレは字幕版だけを観ていて、楽曲の違いは意識していなかったからちょっと記憶にないのだが、それが事実ならいろいろと考えさせられる事柄ではあるだろう。

そう謂う意味で、普通なら何とはなしに大人の事情や圧し附けがましさを感じさせるエンディング曲が、まさにそのような事情を踏まえながらも、窮めて雄弁な映画の叙述要素と成り得た稀有な事例とは謂えるだろう。ぶっちゃけ、AVEX絡みだからと謂ってすべてが悪く転ぶと謂うわけでもないと謂う話である(笑)。

ちなみに、岩代太郎と謂う名前にうっすら記憶があったので調べてみると、劇伴の畑ではベテランと謂うことになるだろうが、狙ったのかと思うほどオレの観ていないドラマや映画ばかり担当していて、だったらなんで名前を覚えていたのかと思ったら、「めざにゅ〜」のテーマ曲を作曲していたからだった。

あれだけたくさん手懸けているのに、それだけかよ、オレの識ってる曲って(笑)。いやまあ、あの楽曲はウンザリするほどヘビロテする朝番組のテーマ曲にしてはけっこう好きだったんだが。めざましソングなんて、どんな良い楽曲でも必ず一カ月くらいで嫌いになるからなぁ(笑)。

Part 2ではまた別の「久遠の河」と謂う楽曲がエンディングテーマとなるようだが、そうするとまた劇伴全体の性格も変わってくるのかもしれず、ここも次回作の隠れた注目ポイントと謂えるだろう。

ただ、勝手な感想を一言附け加えるなら、如何せん長い。

日本語版で七分以上あるわけだが、エンドロールで中国語版を聴いていると、変わり映えのしない歌詞がスリーコーラス以上フルに流れるので、長い本編鑑賞中に募った尿意を我慢しながら、何とかPart 2の予告を観て便所に行こう、とひたすら耐えていた身にとっては、痺れるほどに長く感じたと謂うのはここだけの話である(笑)。

いや、エンディング曲が短くてもエンドロールが終わるまでは予告が始まらないんだから同じことなんだが、気分的にな。


●瀑布と宝剣

長々としたトレイラーが終わって漸く本編のタイトルが出ると、いきなり誰もがげんなりするような不吉な文字列が目に飛び込んでくる。

字幕:戸田奈津子




…な、

なんだってえええ〜〜〜〜っ!?(AA略)

こんなことなら、公開初期にさっさと吹き替え版を観ておけばよかったと後悔すること頻りであったが、英語しかわからない戸田奈津子の字幕と謂うことは、英語版のスクリプトから起こした翻訳なのか。いや、ちょっと待った、よくよく視ると「字幕」とは別に「翻訳」と謂う名目で鈴木真理子がクレジットされている。どうやら戸棚大先生は翻訳作業ではなく、訳文から字幕を起こす作業だけを担当したと謂うことになるようだ。

で、この平凡な名前の翻訳者は、フィルモグラフィを調べるとこれまでに何本か香港映画の字幕を担当していて定評のある人らしいが、香港映画と謂えば広東語だろうから、北京語のほうは大丈夫なのだろうかと少し不安がないでもない。

まあ、広東語しかわからないのなら、そもそもこの作品の翻訳なんかしていないはずなので(笑)、どっちもイケると謂うことなのだろう。ただ、中国映画に詳しい人に聞いたところ、本編のダイアログは典雅な時代劇調だそうなので、香港映画の現代劇が多い人の翻訳と謂うことだと細かいニュアンスは拾えていないおそれもある。

まあ、その他に監修として大東文化大学の渡邉義浩と謂う人の名前がクレジットされていて、HPをざっと視ると一応三国志の専門家と謂うことになるから、歴史的な事実関係や風俗習慣についてのアドバイザリーを行ったのだろう。とすると、鈴木真理子の訳文をチェックしたり相談に応じる形で関与したのだろうが、なかなかこの辺の分業制は危ういような気がしないでもない。とはいえ、中国の史劇映画の邦訳と謂う前提で考えてそれ以上の手当は多分出来ないだろうから、まあそんなもんだと思うしかない。

そう謂う次第で、殆ど事前情報を入れずに観に行ったのでド頭から若干不安な気分にさせられてしまったが(笑)、タイトルに続いていきなり日本語のNR附きでCGの解説が出たのにはもっとビックリした。まあ、三国志と謂う大メジャータイトルでも、忠臣蔵などのドメスティックなコンテンツに比べるとそれほど詳しく内容を識っている日本人もいないだろうし、今では忠臣蔵だって大凡の筋を識っている人間が減ってきているのだから、この種の解説を附けたこと自体は間違っていないだろう。

この解説はそれほど評判は悪くないようだが、3Dの漢字と旗のCGと謂うのが少し滑稽に見えることは否めない。

CGで「曹操」と謂う文字と旗が力強いアオリで出て、文字通り「燎原の火」の如くに南方に進撃すると、「劉備」と謂う文字と旗が「すすすすす〜〜〜っ」と後ずさりで逃げるのが、何だか剽軽なCM映像のようでちょっと笑ってしまった(笑)。

この解説の段階ですでに、曹操が皇帝を神輿に担いで専横を窮め、圧倒的な兵力を恃んで力押しに弱小勢力の劉備軍を圧迫していると謂う前提が語られ、悪玉=曹操の魏軍、善玉=劉備の蜀漢軍と謂う図式が前提に置かれる。

そこからタイトルバックに入るのだが、「大魔神怒る」のような大瀑布が左右に迫り上がり、レナード効果によるマイナスイオンたっぷりのパワースポットのような靄が画面を覆っているところを視ると、これは長江水面上の視点と謂う見立てだろう。しばしカメラが進んで行くと正面に峻険な岩壁がそそり立ち、その岸肌に「赤壁」の文字が浮かび上がるのだが、どうもこれがうしおそうじのタイトル文字に見えて仕方がない(笑)。

常々言っていることだが、どうもオレはCGのスペクタクルを駆使した映画と謂うのがルックの関係でそんなに好きではないから、歴史スペクタクル映画のタイトルバックがCGと謂うのは、本編でどんだけ使っているんだと不安にさせるものがあった。

ただ、このタイトルバック自体は作品世界への導入として悪くはないし、この映画の性格を冒頭から明示していることはたしかである。それは一言で言って「ベタなくらいのわかりやすさ」である。

岸壁に描かれた「赤壁」の文字、と謂うのは、これは実は長江の赤壁の史跡と比定される湖北省赤壁市の岩壁に実際にそのような文字がある

映画のほうの映像に比べてかなりしょっぱい代物だが、おそらく映画のタイトルバックはこのような「史跡としての赤壁」をイメージしているのだろう。そもそも現実の長江の両岸にこんな荘厳な大瀑布が延々と連なっているわけはないし、そのようなものとして劇中で描かれているわけでもないので、飽くまでこれはタイトルバックの為の意匠としての絵面だと謂うことになる。

この二文字の間の裂け目にカメラがズームしていくと、裂け目の奥に錆び朽ちた鉄剣が燦然たる光背を負って浮かび上がり、剣を舐めながらカットする。赤錆が吹いてボロボロの朽ち木のようになっていた刃のクローズアップになり、カメラがゆっくり丁寧に舐めていくと、その刃の錆が次第に薄れて剣は徐々に往事の姿を取り戻す。

念の為に講釈しておくと、中国における鉄器時代は戦国時代に始まり、戦国時代の呉は秦に先んじていち早く鉄器を採り入れていたので(戦国時代の呉国と三国時代の呉王朝には何の歴史的な連続性もないのだが、同一文化圏ではある)、この場合鉄剣であるのが正しい。

何故なら、タイトルバックに顕れた時点ではこの宝剣の意味するところがまったく不明だが、ストーリーの進展に従って、この剣が孫家に伝わる家伝の宝剣であること、その宝剣が孫呉の命運を賭けた戦いの指揮権の象徴として本編の主人公である周瑜の手に渡ることが明らかになるからである。

このタイトルバックの意図する表現内実は子供でもわかるだろう。史跡としての赤壁の奥に古代の遺物の剣があって、それが見る見る新しい剣に変わっていくのだから、この数分の映像で映画内の時間は現代から一八〇〇年巻き戻されるのである。

これは、ベタと謂えば剰りにもベタである。少なくとも、映画人はこの種の描写が最大限にわかりやすいはずだと謂う「コードに対する信仰」に基づいて映画を撮っているものである。そして、この映画は徹頭徹尾この種の最大限のわかりやすさを語り口として保持しながら最後まで語られるのである。


●許都の君臣

タイトルバックが明けると、ファーストシーンとして曹操の本拠地である許昌の宮廷における皇帝劉協(魏から諡されて孝献帝、通称献帝)と曹操の間の劉備・孫権追討の勅許を巡る遣り取りが描かれるが、ここの描写のベタなわかりやすさと、その為に凝らされた映画的技法のベタさ加減もまた相当のものである。

まず観客は、ひ弱そうな見掛けの若い皇帝が、朝儀の場をも弁えず鼾をかいて居眠りをしている様を見せられる。御前に伺候する文武百官も心なしかダラけているし、誰も居眠りしている若い皇帝にツッコミを入れようとする者はない。皇帝と廷臣の間にまったく会話はなく、その倦怠のムードの中に戸外から野鳥が一筋に飛び込んできて玉座の欄干に留まり、皇帝は子供のように口笛を吹いてその鳥を呼び寄せる。

皇帝様とお鳥様が睦まじく戯れていると、腰に提げた豪奢な璧玉の音を涼やかに響かせながら曹丞相がその場に踏み込んでくる。その途端に廷臣と皇帝の間にぴりりと緊張が走り、前庭に整列した大軍勢もまた一斉に姿勢を正し音立てて丞相に拝跪する。

ベタである。

何故皇帝は居眠りをしていたのか。何故誰もそれにツッコミを入れなかったのか。それは結局皇帝が単身で執務する機会など一切存在しないからであり、皇帝が居眠りしていようと誰一人困らないからである。何故皇帝と廷臣の間には何の会話もなかったのか。それは丞相の不在時に何を話し合っても無意味だからであり、官も兵も実質的には曹操の臣であって皇帝の臣ではないからである。

形式的には君臣共に揃ってはいるが、実質的な最高権力者である丞相がいなければ何一つ決まらないのであるから、君も臣もこの場の全員が丞相の到来をただ便々と待っていたのである。そして、丞相のいない束の間の弛みきった一時に、飾り物の籠の鳥に過ぎない皇帝は、束の間幼時に戻って大空を自由に飛び回れる野の鳥に憧れてみせるのだ。

思えばこの皇帝は、物心も附かぬうちに後継争いに巻き込まれたのを皮切りに、稚ない頃から後漢末の権力闘争の駒として扱われ続け、董卓や曹操の傀儡として利用され続けてきた。この先の生涯もまた曹一族に利用され、曹操の子曹丕に帝位を禅譲した後も普通に長らえて諸侯に列されたのだが、つまるところ生涯籠の鳥で自分の人生と謂うものがなかった人である。

この人物は、漢朝の血筋とは、結局は玉璽のおまけでしかないのである。

或る意味、彼を利用したのは劉備とて同様で、史実上では劉備が蜀漢で皇帝に即位したのは、表向きは劉協が殺害されたと伝えられたからだと謂うことになっているが、殺害されたのではなく強要されたとは謂え納得尽くで禅譲したのだから、実際には劉備が曹丕に対抗して即位すべき名目は何もない。殺害されたと伝えられたから後漢王朝の末裔であることを主張している劉備が即位する名目が立つわけで、そう謂うことにしないと蜀漢王朝の正統性が成り立たないからそう謂うことになっているんではないかと思う。

とまれ、中華文化圏では献帝と謂う人物はそう謂う人として視られている。漢王朝と血統上の繋がりのない魏王朝の正統性は、ひとえに献帝から禅譲を受けたと謂う事実に負うものなのだから、史実上献帝自身は相応に厚遇され或る程度の身分保障も受けた(禅譲した先帝を疎かに扱わなかったと謂う名分を保っただけだろうが)と謂うことだが、中国人は帝位を簒奪された悲運の皇帝として献帝を視ている。

この冒頭の描写はそのような中国人一般に共有されている人物観に基づいたもので、それをベタに象徴したのが曹操登場以前の一連の玉座の描写だろう。今時こんなにベタな描写なんて、オレは見たことがない。

これはもう、無学蒙昧な下々の民にでもわかるユニバーサルなわかりやすさなのであるが、逆にこの種のわかりやすさを優先した為か、この場面で論じられているのが史実上の荊州攻略、つまり長坂の戦いの話であることがかえってわかりにくい。

曹操が許昌で献帝と進軍を論じていた時点であれば、別段曹操は劉備を討つ為に兵を出したわけではなく、劉表の一族が領有している荊州を占領するのが目的だったはずで、曹操が劉備を攻撃したのは、劉表麾下で勢力があった客将の劉備が先に軍事拠点を制圧するのを防ぐ為の成り行きだったはずで、事実劉備個人の軍師の諸葛亮も「劉家の御家騒動のドサクサに、YOUが荊州獲っちゃいなよ」とか進言しているわけだが、この映画では最初から、目障りな劉備軍を叩き孫呉を占領することを直接目的として魏軍が動いたことになっている。

いろんな細かい史実をバッサリとカットして、曹操と謂う乱世の奸雄が劉備・孫権と謂う天下布武の障碍となる対抗勢力を叩く為に動いた、と謂うところまで状況を単純化しているわけである。

そして、この場面で曹操は献帝に迫って逆賊として劉備・孫権追討の勅を出させようとするのだが、それに対して皇帝は一度は「兵を休ませよ」と抗弁する。これはひょうろくだまの御神輿のくせに少しは気概があると謂う部分を描いているわけではなくて、単にその後曹操に恫喝させる為に口答えをさせているわけで、丞相が恩義を楯に恫喝するや、脆くも皇帝はその意に諾々と従い両雄の追討を詔する。そこでお定まりの「硬骨の老臣」として描かれている孔融が単身声高に異を唱え、これを曹操は「戦いの前の生け贄」と称して斬に処す。

この許都のくだりはセリフだけの会話劇ながら実によく出来ていて、僅か数分のシーンだが映画的な技巧がわかりやすく教科書通りに凝らされている。許都を一望するロングから宮廷内に視点が移動すると、前庭に整然と佇立する大軍勢と御前に伺候する文武百官、若き皇帝の弛緩した姿をディゾルブで繋いでゆったりとモンタージュしていき、丞相の入来以前は至極のんびりしたテンポで進行するが、曹操の登場以降は俄然加速度的にテンポを増していく。

その先触れとなるのが曹操が腰に提げた璧の触れ合う音で、チリンチリンと謂う音響によって曹操の接近を聴覚的に予告し、それによって軍勢と百官が居住まいを正す描写を入れる時間を稼ぎ、併せて繋ぎのリズムを変えるきっかけとする。そこからカットするとすでに曹操が皇帝の面前に立ちはだかっていて、つまり、曹操が入室するアクションがすっぱり省略されているわけである。

この鮮やかな緩急の対比によって、この場の最高権力者が誰であるかを観客に対して強烈に印象附け、曹操の権力の在り方を示すとともに、そのままテンポを上げていって一気呵成に新野の戦闘に場面を転換していく。

曹操と皇帝の遣り取りが激すると急激なズームの切り返しが往復し、おまえの今在るは誰のお陰だと恩を着せ、俺が今すぐおまえに成り代わって帝位に就くことも可能なのだぞと謂う底意で恫喝させることで、皇帝の権威など意に介さず高圧的に我意を強要する曹操の傲慢な梟雄振りを強調する。

そこで孔融が声を上げ、曹操こそが逆賊であり皇帝に成り代わることを目論んでいるのだと曹操の恫喝をわかりやすく絵解きしてみせ、言ってはならぬことを口にした諫言の忠臣を無碍に斬に処させることで曹操の悪辣さや非情さを強調する。

ここは目紛しいカットと動きのあるカメラワークで描かれていて、曹操が「戦いの前の生け贄だ」と言い終えるや否や、ディゾルブして処刑の場のクレーンショットに繋ぎ、孔融が丞相からの賜り酒を皮肉に讃えて一気に煽り、毅然として首を差し出した次の瞬間に空の酒杯に飛び散る鮮血にカットする。その血は曹操軍の軍旗にも飛沫して、血に濡れて翻る旗にディゾルブする形で、あっと謂う間に重甲冑に身を固めて陣中に座す曹操のクローズアップが顕れる。

曹操軍の軍旗は、このようにして出兵以前から生け贄の血で濡れている。このことは全編を通じて記憶に留めておくべきである。

行軍や戦闘のモンタージュがあって、炎上する新野城で殺戮の限りが尽くされ、すでに新野城から劉備が落ちるまでの状況は終わっていることになっていて、一気に長坂の戦いに繋がっていく。このくだりの映像的な経済性は見事で、長坂の戦いから赤壁の戦いに繋がる理由附けとして必要最低限のことしか語っていないし、皇帝の詔勅からスピーディに戦闘場面に持っていく繋がりも最大限に経済的に語られている。

その一方、この辺はもう話がえらく簡略化されているので、何処まで原典に忠実なのか全然わからないが、多分ほぼ全部オリジナル展開だろう(笑)。調べてみると孔融と謂う人物は実在するし、曹操と対立していて荊州侵攻直前に斬に処されたのは史実だが、この映画で描かれたような「硬骨の老臣」ではないようだし、況や皇帝の面前で曹操を逆賊と罵ったから処刑されたわけではないらしい。

因みに、劇中では全然註釈されていないがこの孔融と謂うのは孔子の後裔で、文人としての才能はあったが、政治家としては杓子定規でかなりヘボかったそうな。曹操に対する批判もあんまり当を得たものではなかったようだが、事ある毎に煩瑣く曹操を批判したので曹操との間に確執が生じ、最終的には処刑された。孔子の子孫を殺害したと謂うので後代における曹操の悪評に繋がるわけだが、孔融自身もかなり癖のあるへそ曲がりな人物で、処刑されたのも身から出た錆と謂う見方もある。

曹操と謂う人物は、この後の長坂のくだりで趙雲・関羽の勇武を見込むエピソードでも描かれているように、極端な人材収集マニアの一面があって、占領統治による天下統一から国家経営に至るプロセスを最も計画的に考えていた人だから、邪魔な人間でも有能な人材を理不尽な理由でポンポン殺したわけではないのだが、孔融と謂う人物は実務家としては割合無能で執拗に曹操に敵対した為に殺されたわけである。

これは多分、中国人の三国志通なら当然識っている前提で、敢えて註釈しなくても孔融と名乗る人物が曹操を激しく論難して殺されるのは「当たり前」なので、その辺の人物観を極単純化して利用しているわけである。

そう謂う意味では、冒頭からしてすでにこの映画は正史でも演義でもない独自の筋立てを語り始めているわけで、長坂の戦い以前の政治状況はなかったことにされているように見える。

もしかしたら、大方の中国人ならその間の事情は識っているはずなので、正史乃至演義の記述と矛盾しない方向で単純化しているだけなのかもしれないし、中国人以外にとっては三国志と謂うのは「国史」ではなく「物語」であり、オーセンティックな史実や筋立てがどうであるかと謂うのは正直どうでも好いことなので、わからなくても構わないと謂う想定なのかもしれない。

このシーン全体について謂えるのは、引いてはこの映画全体について謂えるのは、この映画は三国志をよく識っている中国人や一部のアジア人に向けて語ると同時に、原典の予備知識をまったく持たないその他の観客に向けても語っていると謂う二重性である。

これは呉宇森と謂うハリウッド式の映画話法を体得した監督のポジションもあるだろうし、また中・日・台・韓と謂うアジア資本だけではなくアメリカ資本が大きく入っていると謂う事情もあるだろう。

アメリカ人の観客は、三国志の世界などまったく識らない。三国時代の実在の英雄たちとは、この映画で初めて出会うのである。であるから、限られた時間の中でこの映画が中心的に描くべき合戦の背景をすべて語りきっておく必要があるのだし、如何に長尺を費やしてもそこに盛り込める情報量は窮めて限られている。日本を含めた中華文化圏のみを念頭に置いた「御存知物」として作るわけにはいかないのである。

その意味で、この映画は正史並びに稗史を知悉した中国人にとっては一種の私家版三国志として、そうでない観客には「ファウンデーションシリーズ」や「スターウォーズ」や「デューン」のような架空の歴史ファンタジー的なサガとして見えるように描くと謂う、巧妙なダブルトーク的アレンジを施している。

要するに、正史稗史含めて三国志を一切識らない観客には、曹操と謂う人物が世界征服の野望を抱いた魅力的で強力な悪の巨魁であることが伝われば好いのだし、その意味で映画的な存在論として曹操と謂う人物は、たとえばダースヴェイダーや銀河皇帝と選ぶところはない。

呉宇森版三国志("John Woo's RED CLIFF"なのだから)は、正史や稗史のエピソードを換骨奪胎して一本のオリジナルな映画的ストーリーを語りながらも、史実を識らないし興味もない観客に対しては、この映画が普遍的な勧善懲悪のファンタジーとして見えるようにも描いている。

そして、この場面で描かれているのは正史の史実や演義の叙述それ自体ではなく、この映画において誰が悪役で誰が正義の味方なのかを提示し、どうしてクライマックスの一大決戦が生起したのかと謂う、個別の物語的動因であり、その観点に則って三国志の原典から要素を抽出して再配置しているのである。その作業によって、三国志の語り直しであると同時に一本の独立した娯楽映画としても成立しているわけで、この辺のシナリオの練り込みはよく考えられていると謂えるだろう。

何度も強調しているようなこの映画のベタな話法は、非常に強力に一義的な意味性を言い切ってしまうわけで、その意味で非常に単純明快な映画ではあるのだが、このようなダブルトーク的な両義性が一種の重層的な意味性を成立させていることは、今後この映画を視ていく場面で覚えておくべきことだろう。

その他に指摘しておくべき事柄として、この場面では殆ど意識されない映画的なパラグラフが一つある。この場面の献帝は当然ながら皇帝の正装の一つとして「冕冠」を戴いているのだが、これは冠の上に冕板と呼ばれる板を載せ、そこからビーズで出来た旒を下げた冠であり、皇帝か高位の貴族だけに許された冠である。秦の始皇帝の図像などで誰しも一度は目にしたことがあるだろうし、日本でも天皇の礼装として冕冠をアレンジした冠が実に孝明天皇の代まで即位の儀で使用されている。

ここでは皇帝の装いとして冕冠が出てくるから、それは服飾考証として「当たり前」のことなので殊更に意識されないが、これを「皇帝の正装」と謂う文化コードを外して視るならば、わざわざ目の前にチラチラ揺れるビーズ飾を何本もぶら下げているわけで、皇帝ともなると前後一二流宛の二四流であるから殆ど目の前が見えないし、相対する者からすると顔が見えないわけである。

そして、映画における人物ショットの観点から視ると、芝居をしている顔の前で色鮮やかな飾り物がチラチラ揺れているので、鬱陶しいことこの上ない。何を目的としてこんな不便で鬱陶しい冠が出来たのかはわからないが、他者の視線から龍顔を隠す為と推測するのが妥当だろう。

以前セラムンのレビューにおいても語ったことだが、他者と直に視線を交わすことを妨げるアイテムは、映像作品においてはその人物の内向性を示すコードである。セラムンの亜美ちゃんの場合は眼鏡であったから、それでも亜美ちゃんの側から相手は見えているのだし、眼鏡と謂うのは透明な観念上の防壁であるのみに留まり、実質的には人物の顔や目を隠すアイテムとしては剰り機能していない。視線と視線の間に観念上の境界線を引くことに意味があるわけである。

しかし、この場合の皇帝の冕冠は不透明な玉で出来たビーズがチラチラと揺れながら彼我の視線を遮り、さらにビーズの動きが観客に感覚的な苛立ちを覚えさせる。これは映画的なコードで謂えば、映像言語による献帝個人の人物描写と解するのが妥当なのであるが、ただ漢王朝の皇帝が冕冠を戴いているのは習俗上「当たり前」なので、その間の事情はさほど明示的なものとはなっていない。この時点では、「そうともとれるかな」程度の強度の描写に留まっている。

しかし、これもまた、もう暫くの間だけ頭の片隅に置いておくべき映像表現である。

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コメント

さて、無事に最終回までアップし終えたので、ボチボチ落ち穂を拾っていこう。まず最初に追加的に指摘しておきたいのは、サントラアルバムについての不満である。

オレはiTunes Storeでこのアルバムを購入したのだが、どう謂う理由からか公開当時のTVスポットで流れていた楽曲が入っていなかった。このレビューを書いている間中、映像や雰囲気を想い起こす為にずっとヘビロテしていたのだから、うっかり聞き逃しているわけではないはずである。

現在DVDのCMで流れているのはOPで流れる「The Beginning 」と謂う曲だが、公開当時のTVスポットでは、蛇行する長江の流れを曹操の船団が延々埋め尽くすスペクタクル映像で流れる楽曲が使われていて、この場面の映像と楽曲がセットで使われていたはずである。

これは同じ素材を使ったパナソニック VIELAのCMでも同様で、念の為に同時期の番組の録画で両方確かめたから間違いない。それが何故かサントラアルバムに収録されていないので、何となく損をしたような気分である。

また、これは劇中の効果音扱いだろうから仕方ないとは謂え、サントラなんだから諸葛亮と周瑜の合奏の曲くらい入れておいて欲しかったところである。現状の収録時間は一時間ピッタリくらいだから、CD一枚として一〇分くらいの余裕があるわけで、この二曲が尺の関係で入らなかったとは思えない。

さらにこれが少し不思議なのだが、このアルバムには本文で触れた「心・戦」も収録されているのだが、何故か日本語版のほうが収録されている。素人考えだと、国内の音源商売の柱である日本語版主題歌のほうはシングルCDで売って、サントラには字幕版に当てた中国語版のほうを収録すると謂うのが普通の戦略だと思うのだが、中国語版のほうはシングルCDのカップリング扱いになっている。

普通、阿蘭の楽曲としてしか視ないならシングルCDを買うだろうし、映画の劇伴の一部と謂う見方をするならサントラを買うだろうから、その場合は中国語版のほうが望ましいだろう。

どうもいろいろな方から話を聞くと、吹き替え版のほうは早々に公開を打ち切って字幕版オンリーにした小屋が多かったそうなのだから、字幕版を観た観客のほうが圧倒的に多いはずである。その観点で謂えば、鑑賞時に聴いたED曲は中国語版のほうなのだから、そっちが入っていたほうが有り難い。

そのほうがリスナーにも親切だし商売としても儲かると思うのだが、普通の商売の常識で謂えば気前の好いことをしていて、リスナー視点では有り難迷惑と謂う変なマッチングになっている。

まさかCD版とDL版で内容が違うと謂うわけでもないだろうから、こう謂う構成のアルバムなんだと思うしかないが、阿蘭のプロモ素材じゃないんだから、もうちょっと映画のサントラらしいアルバムにしてくれたほうが有り難かったと思う。

投稿: 黒猫亭 | 2009年2月 6日 (金曜日) 午前 06時43分

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