« …かかりましたな? | トップページ | 久しぶりのハスミ »

2009年2月11日 (水曜日)

The Argentine

近所のシネコンでは今週で公開を終えてしまうので、急いで「チェ 28歳の革命」を観に行った。これは、いつもお世話になっているpoohさんがプッシュしておられたと謂うことと、劇場で予告編を観て少し興味を覚えたからである。

予定ではレイトショーを観て木戸銭を浮かすつもりだったが、土曜の晩に行ったらすでに朝一回興行に変わっていて、已むなく日を替えて正規料金で観た。これはもう、ひとえにレッドクリフのレビューが長引いたせいで、あれを終える前に別の映画を観ると、アタマの中がごちゃごちゃになると思って控えていたせいで、一足出遅れてしまった。

さすがにレッドクリフで懲りたので、あんまり突っ込んだ話もしないつもりだが、封切りで観た映画は可能な限りレビューする方針なので、少しばかり感想めいたことを語らせて戴くことにする。

まず、一言で言って窮めてとっつきにくい映画である。

これは予想の範疇で、スティーブン・ソダバーグの映画は一本も観たことはないが、話には聞いているから、普通の娯楽映画の感覚で観ると随分勝手が違うのだろうとは予想していた。

まず、冒頭からして黒バックのオフナレで音声テストの体の会話があり、漸く映像が出ると、それはモノクロ画面と謂う意表を突いた始まり方である。最初に映るのは軍靴を履いた足で、そこからカメラが振れると右手に持った葉巻が映り、さらに振れて人物の顔を映し出す。これらのショットはいずれも極端なクローズアップである。

これが主人公であるエルネスト・”チェ”・ゲバラのファーストアピアランスで、これは彼が一九六四年一二月にNYで開催された国連総会にキューバ代表として出席した際の時制の映像であり、以後この時制の映像はすべてモノクロの記録映画風の映像として描かれる。

これはかなりエッジを立たせたソリッドな調子で撮影されていて、寒々しいNYの冬の風景に置かれたカリブの革命家の姿を執拗に追う。この時制では、NYでチェが見聞きしたこと、ではなく、NYが見聞きしたチェの姿が刻銘に描かれる。NYの人々がチェをどのように迎えたのか、彼がどのように振る舞ったのか、何を語ったのか、これが彼自身の回顧録をベースにして描かれる。

冒頭の映像がTV出演時のカメラテストを擬しているので、このくだりはすべてこのように「撮影された報道素材」を擬態するのかと思ったら、どう考えてもTVカメラが撮影しているはずがない状況でもこのルックのままなので、要するにこれはこの時制を捉える映画の叙述としてのルックであることが徐々にわかってくる。

つまり、この時制のシーケンスがこのルックで撮られているのは、記録映画的な見え方を狙ったものであり、六四年当時の映像素材としての見え方を擬態することで、アメリカ人がよく識っているチェの姿としてのアクチュアリティを狙っていると視ることが出来るだろう。

早々に場面は変わって、チェがフィデル・カストロと出会った一九五五年七月に時制が遡り、かなり地味なメキシコの食卓の風景が映し出される。これはクリーム色を基調とした柔らかな色彩、それでいて何だかエッジの滲んだもやもやした映像の調子で表されている。

ここはロング主体の撮影で、キューバの革命分子たちに囲まれてキューバの置かれた現状を論じ合うアルゼンチン人の姿を写し取る。この場面では誰が誰だかハッキリわかるような撮り方はしていない。ああ、なんかあの辺にデル・トロがいるな、くらいの構図の採り方であって、尚かつ、やっぱりチェを中心軸として追い続ける構図ではある。

この場面から先はずっとスペイン語が主言語となるが、キューバとアルゼンチンでは若干の語彙の違いがあるらしく、キューバ人が語る現状説明の中で一箇所チェに通じない語彙があり、これをアルゼンチンでは何と謂うのか、と謂う引っ懸かりが控えめに設けられている。

これはたとえば、中華文化圏における北京語のバリアントなんかを視ると、同一言語だから国や地域が変わってもまったく同じだとは限らない、と謂うか、地理的に隔絶した地域間では必ず異なる部分が出て来て別々の動的な変化を蒙るものである。

だから、この映画のリアリティにおいては、チェと呼ばれた男がキューバ人でないことは、その言葉を聞けばわかることなのであり、彼は外国人の立場である。この映画ではチェの故国であるアルゼンチンは一切映らないのだから、彼は最初から最後まで外国人なのであり、外国人として革命に関わっていくのである。

そもそも彼の愛称である「チェ」とは、彼の「チェ」と呼び掛ける言葉の調子が変だから附いた綽名であるから、すでにそこからして彼の異邦人性を示している。

それ故にキューバ人によるキューバ革命を題材とする映画のタイトルなのに「アルゼンチン人」と冠されているのであり、これはこの映画で描かれているのがキューバ革命ではなく、一人のアルゼンチン人であることを表している。

そして、たとえばパンフレットに掲載されたソダバーグの談話によれば、ソダバーグがまず撮りたかったのは人々がよく識るキューバ革命の英雄としてのチェではなく、ボリビアで革命に失敗し銃殺された識られざるチェの姿であることを視るなら、この映画の目的はキューバ革命を描くことではなく、チェと呼ばれた革命家のボリビアにおける死に至るまでの個人史を描くことであると謂うことになる。

ここを呑み込んでおかない限り、この映画は普通の映画の見方をするとかなりとっつきにくい印象を与える。何故なら、整合的な映画の文法においては、この映画はちっともキューバ革命なんか描いていないからである。

裕福な知識人階級に生まれた一人のアルゼンチン人が、キューバで革命に貢献した後に戦友たちの許を去り、さらにボリビアで革命を支援して失敗し、処刑される。この鮮烈な人生をボリビアの物語として語るだけでは足りないから、この映画が撮られたのだと謂うことである。

識られざるボリビアの物語を語るには、そこに至るアリバイとしてキューバ革命の裏面におけるチェのリアルが捉えられねばならない。そう謂う次第で、結局この映画は七年にも及ぶ綿密で膨大なリサーチに支えられたファクトの積み重ねで描かれることとなったわけである。

これ以前のNYのくだりが硬調のモノクロで、メキシコのくだりがこのルックでは、何だか見づらい映像設計の映画だな、と思っていると、ひとくさりの会話劇が持たれた後に、さっさと場面はグランマ号上に移り、チェがフィデルたちと共にキューバに上陸すると謂う運びになっている。ここから漸く映画のルックは自然なものとなり、グランマ号上のチェのスナップ風の映像から、本格的に物語が始まる。

つまり、この映画では、キューバ上陸からハバナ陥落までの間の時制が本筋として自然なルックで語られ、キューバ国外における前史や後史は少し癖のあるルックで差別化されているわけである。

さらに本筋の流れの中でも、この後の山間の密林を転戦するシーケンスは密林の緑にモスグリーンの野戦服と謂う緑が主調のルック、クライマックスのサンタクララ市の市街戦では、抜けるような青空と白壁に原色の色遣いと謂うハッキリしたルックで、各シーケンスを映像的に特徴附けている。

また、さりげなくではあるが、各カットの構図もかなり練られたもので、人物の移動で構図に変化を附けたり、中心的な叙述対象が構図の中心から抜けて周辺で演技しそこからの連続で次の場面に繋がると謂うような面白い技巧も駆使されていて、総体的に謂って、これは非常に娯楽映画的な映像設計であると謂えるだろう。

さて、史実ではこの上陸に際して陰惨なドンパチがあって、当初八二名いた兵士が僅か一二名しか生き残らなかったのだが、そこは映画では何も描かれずチェのモノローグだけで処理される。ここからして、普通の映画の感覚で謂うと異様である。

直前のくだりのフィデルとチェの水入らずの会話で語られた計画とは、たった八〇名かそこらで武器も満足にない状況で貧相なプレジャーボートに乗船してキューバに上陸し現政権の転覆を目指すと謂うのだから、チェならずとも無謀な狂気だとしか思えない。

普通の映画の呼吸で謂えば、これは「計画と実行」の構成にならなければならない。

誰が聞いても無謀としか思えない上陸作戦が語られ、主人公がそこへ赴く絵面があるのだから、その計画が実際にどう進行したのか、どう謂う結果に終わったのかまでを映像で描くのが当たり前の呼吸である。これを最初の戦闘シーンとして悲惨なボロ負けを描くことで、革命の勝利まで興味を繋ぐモチベーションを観客に与えられるはずである。

その肝心要の実行の部分が映像で描かれずに流されているわけだから、ここで観客はこの映画が「そう謂う映画」ではないことを感得すべきである。これに続いて描かれるのは、すでに上陸した後のチェの姿で、うんざりするくらい長々と喘息の発作に苦しむ姿が描かれる。ここで描かれているのは、チェが喘息持ちだと謂う「説明」ではない。

喘息持ちであるチェが野戦の最中に発作に襲われた際の苦しさを、しつこいくらいの長さで延々と語っているわけである。このシーンの間中、彼はずっと咳き込み続け、敵兵を発見して隠れている間もずっと咳を圧し殺している。この喘息の描写はこの後も折りに触れて繰り返され、ひどい喘息持ちがろくな装備もなく密林を移動しながらゲリラ戦を戦っている異様さを淡々と描く。

この時点の彼は案内人を連れただけの単身で、なんで独行しているのか殆ど説明らしい説明はない。そもそも、この映画は全体的に説明らしい説明はなく、キューバ革命の経緯を相当詳しく識っている観客でもない限り、今画面上で何が起こっているのかサッパリ理解出来ないだろう。

やがてゲリラの一隊と合流して指揮権を委譲されたことを告げるに及んで、彼がこの一隊を受け取って指揮を執り、新たな作戦に赴く為に移動していたらしいことがわかるのだが、万事がこの調子で、今画面上で何が起こっているのかを説明する観点では非常にわかりにくく不親切な叙述になっている。

それはたとえば、脱走兵が近隣の農民にカネをせびったり娘を強姦したりした事件の描写に顕著だが、普通はこれは一繋がりのエピソードであって、その一連を繋げて語ることで一本の挿話が完成するはずである。

しかし、ここでは二人が脱走したことを語る場面と、彼らが農民にタカる場面、彼らの密告によって農家が政府軍によって焼き討ちされた場面、そして彼らが処刑される場面がバラバラに描かれているので、一本の挿話としては見えないし、その場面場面の表す叙事的な意味性がよくわからないものになっている。たとえば、チェたちが農家の焼け跡に遭遇するくだりなど、普通に観ていても誰が何の為にそんなひどいことをしたのかこの時点ではサッパリわからない。

なんでこう謂う不親切な繋がりになっているのかと謂えば、それはこの脱走兵の事件を一繋がりの挿話として捉えていないからだ、と謂うことになるだろうか。これは明らかにおかしな叙述法である。物語と謂うのは、物・事の具体に即して語られるもので、断片としてバラバラに在る材料を編集して挿話を形作りながら語られるべきものである。

そう謂う意味では、たとえばどこそこの拠点を襲撃したとか、奇襲を受けたと謂うような劇的なイベント以外の場面における日常描写も、「淡々としている」と謂う言葉では片附けられない異様さを持っている。つまり、その断片としてのエピソードがその場所にその長さで置かれている叙事的な意味での必然性がサッパリ理解出来ないのである。

普通のフィクションの感覚では、淡々とした日常描写にも、その描写がそこにそのようにして置かれているべき劇的必然性と謂うものがあるはずである。その描写が総体として何かの物・事を説明する要素として機能すべく配置されているものである。

そのような枠組みでこの映画の叙述を捉える限り、今何故このエピソードがこのようにして語られているのか、これが何を表しているのか、叙事的な観点ではサッパリ意味が取れないわけである。

だとすれば、この映画はそう謂う枠組みで意味性を捉えてはいけないのである。

この映画をどう謂うふうに観るべきなのか、それを掴みあぐねている間、やはり居心地の悪い想いをすることになる。退屈とかつまらないとかそう謂う問題ではない。どのように観るべきなのか、これがわからない以上、映画が頭に入ってこない。おそらく、これは万人向けの娯楽映画とは謂えないだろう。

オレがこの映画の見方を大体諒解したのは、前述の脱走兵のくだりが一段落した頃合いである。つまり、この映画は物・事の意味性の観点で観るべきではないし、今画面上で何が起こっているのかはひとまず考える必要はない。個々の場面で描かれているものを記憶して物語構造や意味連鎖を探る必要もない。

なので、実を謂うとこの映画については剰り具体的な映像的記憶がない。

前半については、個別の映像の意味性を掴みかねて関連附けに基づく記憶の機能が上手く働かなかったのだし、後半については記憶する必要を認めなかったからである。

これは観賞後にパンフレットの監督の談話を読んで確信したことだが、この映画は伝記映画として観るべきではないし、劇映画ですらないと謂えるだろう。戦場における日常描写に劇的必然性が感じられなかったのは、それが「事実」だからである。

ソダバーグの談話によれば、この映画に描かれているエピソードはすべて綿密な聞き取りに基づくもので、エビデンスのない虚構の描写は一つもないそうである。ここで描かれているのは、すべて談話のレベルでは完全に「事実」なのであり、それを映画作家の映像的想像力に基づいて再現した断片なのである。

われわれは、このように明確な映像設計に基づいてルックをデザインし構図を決められた映像が「虚構」でないはずがないと無意識に思い込んでいる。だから、このようなボディの映像を視る場合、前提としてそこに劇的なロジックを求める。このカットがこのように描かれこの位置に配置されている劇的な意味を考える。つまりは「劇映画」としてこの映画を観ようとするのである。

しかし、そのような観点においては、個々のカットやショットに劇的意味性など最初からないのである。何故なら、それは事実性の次元においては一切の虚構が排されているからであって、虚構性が排除されている以上、一連の描写の繋がりによって挿話を形作ることなどはないからである。

繰り返すが、この映画は「伝記映画」ではない。伝記映画と謂うのは、或る特殊な個人の人生を物語として視る観点から生まれる映画であり、本質的に劇映画である。であるならば、この映画は劇映画であることを拒んでいるのだから、実際の映像がどうあれ、その本質は伝記映画ではなくドキュメンタリー映画なのである。

一口にドキュメンタリー映画と謂っても、たとえばディレクターがカメラ一台担いで現場に突撃する類のマイケル・ムーアタイプの映画もあるし、人物を描く場合なら映画作家が可能な限りその対象に密着し映画を撮る行為自体が対象に影響を及ぼしていく「ゆきゆきて神軍」タイプの映画もあるだろうが、この映画の話法は既存の映像素材を編集することで或る意味性を語るタイプのものである。

つまり、ソダバーグやプロデューサー兼帯のベニチオ・デル・トロは、すでにチェと呼ばれたエルネスト・ゲバラと謂う人物に直接接触することは叶わないわけで、チェ自身や彼を識る人々の証言と謂う形で残された「素材」を忠実に映像化する作業と、そのようにして再現された映像素材を取捨選択し編集すると謂う行為を通じてのみ対象を語り得る立場にあるわけである。

この場合、「映像素材を取捨選択し編集する」と謂っても、実際の映像素材が残されているわけではなくそれを再現するのだから、それは脚本作成上の作業となる。脚本上で予め組み上げた通りのドキュメンタリー映画を、更めて役者の演技とロケーション撮影によって再現すると謂う屈折した作業をしているから、こう謂う語り口の映画になっているわけである。

この映画の話法の一見不自由で不親切な印象は、それがドキュメンタリー映画のそれであると謂う認識に立てばさほどおかしなものではない。事実は物語に都合好く出来ているわけではないし、物語のロジックに従って配置されているものではない。だから、事実の積み重ねだけで映画を語れば不自由で不親切な物語として見えてくるが、そこには事実だけの持つアクチュアルなリアリティが生起する。

この映画は、どう視ても劇映画でしかないボディを具えていながら、話法としては完全にドキュメンタリー映画なのだから、普通に観るとかなり異様な映画に見える。しかも叙述の対象はキューバ革命と謂う歴史性の次元の対象ではなく、そこで活躍したチェと謂う人物自体なのだから、事実関係の観点ではさらにわかりにくい映画となっている。

つまり、上陸からハバナ陥落に至るまでの時系列上の事実関係を説明しているわけではなく、そのように推移する各状況におけるチェの姿をファクトとしての小エピソードの積み重ねで語り、挿話を形成するのに都合が好いように整形しないのだから、その背景となる大状況の説明は完全にどうでも好い事柄として捨象されている。

この映画の感想として、「チェに寄り添いすぎている」と謂う批判があるようだが、多分それは正確な指摘ではない。そのような印象が生起するのは、この映画が「チェについて語られた談話」のみを素材として組み立てられているからである。企画を持ち掛けたデル・トロは人物としてのチェに心酔しているのかもしれないが、実際に映画を撮ったソダバーグはもっとルポルタージュ的な関心でこの映画を撮っているように見える。

おそらく、この映画が作られた最大の動機とは、「このアルゼンチン人はどうしてボリビアで外国人として死んだのか」と謂う謎を解き明かすことだろう。その謎をこの人物について語られた膨大な談話を聞き取ることで探っていき、それらの素材を取捨選択し編集することで一つの映画的事実としてチェと謂う人物を再構成しているのだろう。

この動機自体には、チェと謂う人物に心酔しカリスマ視するような個人的熱狂は視られない。解き明かすべき深層を具えた興味深い人物だからこれを掘り下げれば面白い映画になる、そのような距離感なのではないかと思う。

また、同じ談話でソダバーグは「モータサイクル・ダイアリーズ」とこの二部作を重ねて三部作と表現していて、これはなかなか面白い言い方である。普通、映画作家にとって映画と謂うのはそれ自体が目的である。だから、他人の撮った映画が自分の映画の前史になります的な言い方はしないものである。この発言には、どうも映画を目的視しているのではなく手段として視ている視点が垣間見えるように思える。

われわれ観客の側からすれば、若き日のゲバラの姿を描いた「モーターサイクル・ダイアリーズ」がこの映画の前史を補完すると謂う見方は在り得るが、映画作家の視点で謂えば自分の映画で語られた人物像は自分一個の表現になるものであって、他人の作品で描かれた人物像との間に連続性はないものと謂う前提で視るはずである。

しかし、このソダバーグの発言を視る限り、目的としての映画を描く素材としてチェと謂う人物に取材するのではなく、映画の外に確固として実在するチェの人物像に迫る手段として映画が存在する、すなわち映画を撮ることではなくチェに迫ること自体が目的視されていると謂う意識が見えるような気がする。これは結構、ありそうでなかった視点だと思うがどうだろうか。

そのような意識で描かれたチェとは如何なる人物なのか、これは後編の「チェ 39歳別れの手紙」を観てから語ったほうが好さそうだが、この前編で描かれているのは彼が一人の優秀なコマンダンテになるプロセスであるように思う。そして、チェとフィデルの決定的な違いとして、チェが外国人であることを強調しているように思える。

つまり、フィデル・カストロにとってキューバ革命とは祖国解放戦争であり、フィデルにはキューバ人としての現実的アイデンティティがある。政権奪取の後に行われるべきは、王道楽土の建設ではなくバティスタ政権よりもマシな政治であり、アメリカやソ連のような超大国から祖国の独立を護る政治的な綱渡りである。その革命は共産主義革命ではなく反帝国主義革命であり、共産主義などその方便にすぎない。

しかし、チェは外国人であってその闘争に祖国愛的な動機はない。彼を支えるのは不正に憤り理想を追求する理念のみであって、フィデルのようにキューバの革命が成ればその後の国家の命運に責任を持たねばならない立場ではない。キューバは手始めに過ぎないのだし、大国の利害に蹂躙される中南米の諸国に、その革命の一大連鎖は波及せねばならない。その大きな動きの最初の一挙を為す為に、彼はアルゼンチンからキューバの密林に赴いたのである。

そのようなチェの理念の在り方は、NYの国連総会でじっくり時間を掛けて描かれる中南米諸国の代表との討論に象徴的であり、革命の勝利に沸く一連の後にひっそりとインサートされるメキシコにおけるフィデルとの会話のカットで象徴されている。中南米諸国に革命を波及させることは、チェがキューバでゲリラ戦に身を投じる以前からの信念であり、そこが特定の国家の利害と一義的に直結しているフィデルの立場とは異なる部分であり、その信念が彼をボリビアに客死させたのである。

ゲリラ軍の合い言葉として屡々「祖国か死か」と謂う言葉が叫ばれるが、外国人であるチェにとって獲得すべき祖国はない。だからいずれ彼は何も得られずに死ぬ運命にあるのである。

ただ一人密林を彷徨う喘息持ちの外国人として現れた彼は、おそるべき意志の力で苛酷なゲリラ戦を戦い抜き、己に対する厳格さを他人にも適用すべき必要を学ぶ。それはたとえば、読み書きの出来ない未成年の新兵に対する教育の徹底であったり、勇ましく入隊しておきながらすぐに音を上げる若年兵に対する対応の変化であったり、脱走兵の引き起こした事件に対する憤りであったり、そのような、直接的には叙述的ではない小エピソードの積み重ねで、皆が識るゲリラ戦の勇士であるチェ像が形作られていく。

そのようにして優秀なコマンダンテとしてのチェの人格が確立されていき、キューバ革命が成功したことで、必然的に彼はキューバを去って他国の革命を支援すべき立場に立つことになる。やはり、一人の外国人として。

そう謂う映画の撮り方が面白いかと謂えば、まあ、人によるだろうとしか言えないところではあるが(笑)、オレ個人としてはちょっと微妙なところかと思う。poohさんと違って元々チェ・ゲバラに関心を持っていたわけではないから、この映画だけを視てチェに関心を抱くと謂う作りにはなっていないと思う。

では何故オレがこの映画に関心を持ったかと謂うと、レッドクリフを観に行ったときに予告編をやっていたからである。そして、レッドクリフのレビューを何やかんやと揉んでいるうちに、やはりこう謂うテーマは現代劇としては描き得ないものだろうと結論附けるほかはなかった。

少なくとも、強大な権力悪に対する少数者の正義の闘争を人間の意志の力に対する信頼として礼賛するような映画には出来ないだろう。ならば、どう謂う描き方になるのか、おそらくこの映画はその答えの一つと謂えるだろう。

条件附けは同じである。米国の後ろ盾を持ち圧倒的に強力なバティスタ政権にたったの八〇余名で挑み、その闘争の輪が徐々に拡がって行って遂に強大な敵を圧倒し、最終的な勝利を得る。これは赤壁の戦いと共通した英雄譚である。

しかし、この映画ではチェと謂う人物を英雄として礼賛はしない。それどころか、革命それ自体すら描いてはいない。チェの信念としての正義は肯定も否定もしていないのだし、おそらく近年の映画の基準で考えても対象との間に距離のある描き方をしている。

この映画が描いているのは、「チェと謂うのはこう謂う人物だ」と謂う或る一つの視点でしかない。さらに、劇映画であることすら放棄して、物語によって何事かを積極的に意味附けることすら排し、事実の積み重ねに基づいて素材の取捨選択と編集だけでその視点を表して見せる。

おそらく、われわれはすでに他者と共有し得る正しさに基づいて信念の闘争を戦うことは出来なくなっているのである。或る個人の信奉する正しさは、その個人のものでしかないのだし、その正義の惹き起こすすべてに対して、個人が責任を持たねばならない。

共同体規範が崩壊した後の個人主義社会においては、或る正義に伴う功罪を共同体が引き受けてくれることなどはない。それ故に、正義の闘争は孤独なものとならざるを得ないのだし、その結果はすべて個人が引き受けなければならない。

この映画は、英雄の勲を称揚するわけでもなければ、信念の力を肯定するでもない、革命の正義を肯定するわけでもないし、闘争の輪の拡がりを素晴らしいものとしても描かない。映画を撮った人間と描かれた人間は別々の個人なのであり、この映画は撮られた個人の正義について何も言及していないのだし、何を成し遂げたのかについても冷淡な関心しか持たない。

この映画は、その個人がどう謂う人物であったのか、と謂う他者に対する客観的な関心に貫かれていて、その個人と何物も共有してはいないのだし、その個人の何物も担保してはいないのである。

たとえばレッドクリフと謂う映画は、強大な悪に屈するな、自由を踏みにじられたら従うな、友を信じて戦い抜け、と訴えかける。ただ、それを現在只今の具体的な時制では語れない。それは一個人の政治的言及になってしまうからである。だからあの映画は古代の戦争を題材にして観念的な正義を称揚するのだし、一個の雄壮な叙事詩として描かれる必要があるのである。

一方、この映画ではすでに観念の正義を語ることを放棄している。現代における具体的な正義とは、正義が在ると信じる個々人の中にしかない。だから現実の闘争における一方の当事者を正義として客観的に提示することは多くの問題を孕んでいる。正義を信じた人の在り様を描くことしか出来ないのである。

そして、おそらくチェの信じた正義は無謬の正義でなどは在り得ない。この映画のレベルで事実性に基づいてチェの人物像に迫るなら、その正義の是非は原理的に論じ得ないのである。

以上、散漫ながら思うところをつらつらと述べてきたが、中途半端なところで恐縮だがこの映画を観ての感想はこの辺で留めておこうかと思う。後日「39歳別れの手紙」を観たら、また何か感想があるかもしれない。

|

« …かかりましたな? | トップページ | 久しぶりのハスミ »

コメント

拝読しました。どうして「レッドクリフ」と対置する視点を提示されたのか、得心がいきました。

キューバ革命は容易に神話化されうるし(フィデル・チルドレンとも云うべき複数の中南米の指導者が現にそうしているように)、チェと云う人物もそれこそ関羽のごとく容易に神格化されうる(これは現に世界中で起きています)。映像化にあたって、そこを排すること(あらたな「物語」を生まないこと)の意味、ですね。
読ませていただいて思ったのですが、この映画は徹底して、チェと云う個人を撮ったものなんだなぁ、と感じました。映画的リアリティから離れることによる(そして映画的ギミックを駆使することによる)「人物」の描きかた、と云うか。

デル・トロはプエルトリコ人なので、スペイン語がMother tongueとは云え台詞にはそれなりに苦労したみたいです。
面識のあるラティーノを見ていると、やっぱり国それぞれ言葉の違いはそうとうあるみたいですね(それでも会話は問題なく通じているようなんですけど)。ぼくはスペイン語はしゃべれないんですが、複数のラティーノからスペイン語を学んだつれあいの言葉は、ラティーノたちから云わせると「綺麗なんだけどどこの国のひとか分からない」代物らしいです(^^;。

投稿: pooh | 2009年2月12日 (木曜日) 午前 12時03分

>poohさん

>>キューバ革命は容易に神話化されうるし(フィデル・チルドレンとも云うべき複数の中南米の指導者が現にそうしているように)、チェと云う人物もそれこそ関羽のごとく容易に神格化されうる(これは現に世界中で起きています)。映像化にあたって、そこを排すること(あらたな「物語」を生まないこと)の意味、ですね。

そう謂うことになるかと思います。革命は神話を生むし、神話は英雄を生む。どちらも人々が欲している虚構ですね。そして、アメリカとキューバでは距離が近すぎて、アメリカにおいてキューバ革命の映画を撮るなら、それはアメリカについての政治的言及になってしまいます。

これがソダバーグではなくオリバー・ストーンだったら、あの人は安い思想に高い技術を兼ね具えた折り紙附きの神話製造屋ですから、さぞかし革命の崇高な意義や英雄の意志の力を力強く訴える陶酔的な映画に仕立てたことだろう、と思って調べてみたら、つい最近実際にやらかしていました(笑)。

その名も「コマンダンテ」と謂う映画で、これはフィデル・カストロに三〇時間に及ぶロングインタビューを敢行したもので、当初はスペインのTV番組として制作されたそうです。フィデル自身がノリノリで語った素材を編集したもののようで、これは米国内でも放映される予定だったのですが、反カストロの在米キューバ人による反対運動でお蔵入りとなったそうです。アメリカ以外では、制作国のスペインをはじめ各国で上映され、日本でもユーロスペースをはじめ各地で単館興行が打たれ、一昨年末にはDVDが発売されているそうです。

これはオレは観ていないので何とも謂えないのですが、なんで米国内で不快視されたのか大体想像が附きますね(笑)。おそらく、ストーンのことですから相当「カストロに寄り添った」映画になっているんではないですかね。

この「コマンダンテ」が制作されたのが二〇〇三年のことですから、二〇〇七年に撮影されたチェ二部作がこの事件を踏まえていないはずはないので、キューバ革命やカストロに対しての政治的言及とはしない方針は当初からあったんだと思います。

>>読ませていただいて思ったのですが、この映画は徹底して、チェと云う個人を撮ったものなんだなぁ、と感じました。映画的リアリティから離れることによる(そして映画的ギミックを駆使することによる)「人物」の描きかた、と云うか。

やはり、日頃poohさんが仰っている「物語化」と謂うのがネックになってくるのかなと思います。革命当時のチェ・ゲバラのボリビアにおける死に至るまでの半生をそのまま映画化したら、それは劇的な物語になって当たり前なんですね。で、彼の半生が生み出す物語が別の虚構をドライブすることになるわけで、「チェを映画化する」と謂う行為は映画作家にその辺に対する態度表明を迫る部分があるでしょう。

そして、この映画で採られた方向性と謂うのは、徹底して物語性を排除すると謂う選択肢だったのだろうし、それが普通の映画を見慣れた観客に対して一種のとっつきにくさの印象を与えていることは事実ですが、その意味でスリリングな映画的試みだと表現出来るでしょうね。

チェと謂う個人を最大限度にクローズアップすることで、その背景となる革命と謂う大状況やアメリカとキューバの関係性を飛ばしていると謂う言い方も出来ますし、だとすれば、この映画のファーストショットがチェの極端なクローズアップであることにも、マニフェスト的な意味があることになります。

>>デル・トロはプエルトリコ人なので、スペイン語がMother tongueとは云え台詞にはそれなりに苦労したみたいです。

これは相当苦労したことでしょうね。本文中ではあまり突っ込んで語りませんでしたけど、スパニッシュのバリアントがアルゼンチンとキューバでかなり違うと謂うことを役者のエロキューションでリアルに再現するとなると、プエルトリコ訛りのアルゼンチン方言と謂うワケのわからないものになってしまったらぶちこわしですからね。

この辺、NHKの朝ドラで必ず方言が変だと謂うクレームが入るのと似たような問題があるのかもしれませんね(笑)。多分デル・トロが一生懸命やっても、ネイティブの人が聴くとちょっと変だとかあるかもしれません。チェ自身の言葉の訛りと謂うのを映画内現実として描くのは、けっこう難しい作業でしょう。

>>複数のラティーノからスペイン語を学んだつれあいの言葉は、ラティーノたちから云わせると「綺麗なんだけどどこの国のひとか分からない」代物らしいです(^^;。

これはアレですね、山形弁や関西弁で日本語を覚えてしまった外国人の話と、転校を繰り返しているうちにどこの方言だかわからない独自の方言を喋るようになった人の話の合わせ技と謂うことでよろしいでしょうか(木亥火暴!!)。

しかし、フィギュアスケートに異様に詳しくてどこの国の方言だかわからないスペイン語を流暢に喋る奥さんって、いったいどんな人なんですか(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年2月12日 (木曜日) 午前 07時32分

「コマンダンテ」はつれあいが観にいってました。話を聴く限り、まさにおっしゃるような映画だったようです。まぁフィデルと云うひとは稀代の人誑しで、あの巨大な実績があるからぺてん師扱いされない、と云うような人間ですから、人間的魅力には常人離れした部分があるようで、そこをそのまんま撮っていたようです。

> スリリングな映画的試み

なんとなく観ながら、よくわからないながらぼくが感じ取っていたのも、そのへんのように思えます。あるべきと期待される「意図」を排除する意図と云うか、技巧と云うか。

> どこの方言だかわからない独自の方言を喋るようになった人

そんな感じみたいです。
ちなみにぼくは逆に、同様の状況で方言が抜けてしまった人間でした。

> いったいどんな人なんですか(笑)。

すげぇへんな人です。

投稿: pooh | 2009年2月12日 (木曜日) 午前 07時52分

>poohさん

>>まぁフィデルと云うひとは稀代の人誑しで、あの巨大な実績があるからぺてん師扱いされない、と云うような人間ですから、人間的魅力には常人離れした部分があるようで、そこをそのまんま撮っていたようです。

ああ、やはり(笑)。オリバー・ストーンと言う映画作家の安い部分と謂うのは、そう謂う圧倒的な人的影響力を前にしたときに、一切警戒感を持たずに身を委ねてしまうような軽率な部分にあるんだと思いますが、この人の撮影・編集の技巧には凄いものがあるので、コアになる思想の安さにそぐわないほどエモーショナルで感動的な映画になってしまう。「JFK」なんかを視ると、陰謀論者的な安直な資質も多分にありますね。

形式的には「コマンダンテ」はインタビューを基本にした「ドキュメンタリー映画」なのでしょうが、彼の映画的技巧を経ることで物凄く雄弁な「物語」となっているのではないかと思います。おそらく、フィデルが持っている天性の人蕩しな部分を最大限にドライブして映画的な興奮を導き出す、そう謂うプランだったのではないかと。何と謂うか、そう謂うことにまったく警戒感や自省を抱かない人だと謂う印象があります。

おそらくデル・トロとソダバーグ組がチェの映画を構想するに当たって、チェの想い出にも言及したこの映画を観ていないはずはないと思うんですが、その間の影響関係を想像すると興味深いものがあります。

>>なんとなく観ながら、よくわからないながらぼくが感じ取っていたのも、そのへんのように思えます。あるべきと期待される「意図」を排除する意図と云うか、技巧と云うか。

本文のほうでこの作品を「ドキュメンタリー映画」と謂うふうに表現しましたが、先行するストーンの「ドキュメンタリー映画」をどのように踏まえたのか、と謂うのがこの映画の語り口に顕れているのかもしれません。

それは勿論、「コマンダンテ」の場合のように、ストレートな政治的言及として表現してしまったら興行的な意味でリスクが伴うと謂う現実的な計算もあるでしょうが、尋常でなく人々を魅了する人物のエモーションを無批判にドライブして撮られた映画を目の当たりにした際に、知的な映画人ならば一種の警戒感や躊躇を感じるものだと思うんですね。

フィデルのような資質の持ち主は、人が何事かを為そうとする場面では非常に強力な動因と成り得ますが、その半面、必然的に物事の客観的な本質を個人性で塗り潰してしまうような危険性があります。その意味で、こう謂う個人の言説空間に協力的に身を委ねてしまう姿勢と謂うのは、一種知的なアプローチではない。

映画を撮ると謂う行為は、もっと怜悧な視線のみを武器に現実に斬り込んでいくような緊張感のあるものでしょう。人々を魅了する常ならぬ個人の言説空間の外部のメタ的な立場に立って現実を鳥瞰する視点が必要でしょう。ストーンに欠けているのは、その種の冷徹な映画人的な知性なのではないかと思います。

映画はアジテーションの拡声器なのか、或る特定の政治的存在の言い分を一方的に増幅する装置として在って好いのか、そのような自省があって現在のチェ二部作の姿があるのだとすれば、「コマンダンテ」の事件はこの映画の在り方を大きく転換したと謂えるかもしれません。映画と謂うのは、やはり一本の作品だけが無前提に存在するものではなくて、様々な事象の偶発的影響下に現在の姿がある、そう謂うふうに思います。

だから映画を読み解く行為は面白いんですねぇ。

>>すげぇへんな人です。

…物凄く納得しました(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年2月12日 (木曜日) 午前 10時19分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/44026112

この記事へのトラックバック一覧です: The Argentine:

« …かかりましたな? | トップページ | 久しぶりのハスミ »